2015年9月26日 (土)

さらば空中戦艦富嶽

富嶽 爆撃機

◆富嶽計画概要
  
富嶽(ふがく)は中島飛行機が開発を行った超大型重爆・戦略爆撃機で
またの名を空中戦艦「富嶽」と呼称した。富嶽を用いた富嶽計画は
中島飛行機創設者であり、大所長の中島知久平が考案、推し進めた唯一の
必勝戦策であった。
 
中島知久平は英米と真っ向勝負を挑んでも、勝ち目がない事を
戦前より繰り返し唱えており、
戦艦の建造競争は今すぐ
やめるべきだと主張。
 
いずれ必ずやアメリカの超重爆が日本本土に来襲し
焦土と化すであろう、それより先に、我が国が戦力の主力を航空機に据え
アメリカ本土の工業地帯の中枢を叩き、
撃滅。決戦を挑むことにより
早期講和を引き出すことが絶対条件と
捉えていた。
 
日本を離陸した富嶽は太平洋を無着陸で横断し、アメリカ本土を爆撃。
そのまま大西洋を横断しドイツ占領下のフランスへ着陸。給油後、日本へ
帰還する計画で
地球を東回りに一周することになる。
 
◆中島知久平の必勝戦策

昭和13年、中島知久平はどうしても戦争をやるなら、勝つためには
これしかないと、九十八
頁に及ぶ必勝戦策を書き綴った。
 
必勝戦策の第一章「大型飛行機出現による国防の危機」と題した
中島知久平は最も危惧すべき点として
「アメリカの開発中の超重爆が必ずや日本本土を焦土と化す」
と主張。B-29による本土爆撃をもっとも早くから予期した。
それであるから、それ以前に日本の超重爆が
米国中枢の工業地帯を
叩こうという作戦である。
いくら迎撃用の戦闘機を開発しても無駄で
あるから、その前に
全ての資材、国民の総力を結集し富嶽の製造に充てる
べきであると書かれている。
 
富嶽
 
◆富嶽空中艦隊でアメリカ本土を爆撃せよ
富嶽の発進基地はアメリカ本土に一番近い占守島として整備を進める。
時速200km/hのジェット気流に乗った富嶽は北太平洋を無着陸で
悠々飛行しアメリカ本土を爆撃。爆撃目標はアメリカ工業力中枢
ピッツバーグ重工業地帯である。敵の生産力の中枢を叩き潰す。
さらにニューヨーク、ワシントンを爆撃し戦意消失を図る。
アメリカ本土爆撃後はそのまま大西洋を横断しドイツ占領下の
フランスへ着陸。給油後、地球を東回りで一周し日本へ帰還する
 
空中艦隊には機関銃400挺を装備した護衛の掃射機も考案された。
他に20本の魚雷を積んだ雷撃機、兵員200名を乗せて運ぶ輸送機
タイプがあった。
マリアナへ出撃した別働隊はB-29に対し
空中砲撃戦を展開。
たちどころに撃破する。魚雷20本を抱いた
富嶽雷撃隊は
アメリカ機動部隊を捕捉。これを撃滅する。
 
◆アメリカ本土へ兵員を空輸・勝利せよ
 
こうして富嶽を500機1000機とアメリカ本土爆撃に投入し
最後は富嶽で大量の兵員を空輸し勝利する。
 

富嶽

▲左から「富嶽」、「一式陸攻」、「ゼロ戦」、比較。

 
◆富嶽の仕様
(カッコ内はB-29との比較)
 
翼長65メートル、胴体45メートル
(B-29の1.5倍から2倍の大きさ)
 
三点静止角度9度、主翼面積350平方メートル
最大翼弦9メートル、上反角3.5度
縦横比1対0.5、取付角6度
水平尾翼面積60平方メートル、垂直尾翼面積40平方メートル
胴体内燃料タンク容量4万2720リットル
翼面荷重457キログラム/平方メートル
馬力荷重5.3キログラム/馬力
自重67.03トン、爆弾積載量20トン(B-29/10トン)
全備重量160,000kg
 
上昇限度15,000m(B-29/10250m)
最高速度700km/h(B-29/550km/h)
航続距離18,000km(B-29/5,300km)
航続距離は機体の仕様から割り出すと16,000kmと短いが
成層圏のジェット気流を利用すれば20-30%伸びると考えられた。
 
エンジン
5000馬力を6発(B-29/2400馬力4発)
ダブルBH(陸軍名称ハ-219)空冷星形18気筒2500馬力を
前後に並べる。
すなわち富嶽は6発機であるがエンジンは
エンジンナセルに2基ずつ収め、計12基搭載と同様。
 
プロペラ
住友製直径4.8メートル6枚翅、あるいは4枚翅の二重反転プロペラ
 
富嶽は当初、最後の切り札という意味合いで「Z機」のコードネームを
付与されていたが
のちに富嶽と命名される。
 
◆中島知久平とは
中島知久平は明治17年生まれ
群馬県新田郡尾島町出身(現在の太田市)
中島飛行機の創設者である。
 
豪農の長男として生まれ育った知久平少年は後継ぎの最有力であった。
知久平少年は何度も中学進学を懇願したが、父は許さなかった。
その間にも知久平少年は友達から中学の教科書を借りては読み
漢字も習いに通っていた。しかし英語だけは
独学ではどうにもならない
ことに限界を感じていた。
 
どうしても勉強がしたい知久平少年はついに決心。ある夜、書置きを残して
密かに家出をしてしまう。
利根川の土手を沿って東京へ出て行くのだった。
 
「ぼくはどうしても勉強してりっぱな人になりたいのです。
そのために東京に行きます。ぼくのことは死んだと思って
あきらめて、探さないでください。ぼくがいなくなれば
お父さんもお母さんも手不足でこまるとおもいますが
弟たちがすぐに役に立つようになるのですから当分のあいだ
がまんをしてください。
また、悪いこととはおもいながらも、学資がいりますので
神棚にあがっているお金をもって行きます。さぞおこまりに
なるとはおもいますが、しばらく貸してください。一生懸命勉強して
はやくえらい人になり、何倍にしてもかならず返します。
勝手なことをして申しわけありません。どうぞ親不孝の罪を
おゆるしねがいます」
 
生まれて初めて東京に出た知久平少年は同郷の正田満の家を訪ねた。
正田は知久平の隣家で満は徴兵で東京の
第一師団歩兵第三連隊
(通称麻布三連隊)に入隊し
古参の軍曹になっていた。知久平少年の
熱意に圧倒された満は
「よし、お前の居所は誰にも知らせない。陸軍士官学校へ入ったら俺が
おやじに詫びてやるから、安心して勉強しろ」
と神田の下宿屋を紹介した。
以来、知久平少年は勉強机は石油缶で代用し、風呂は一ヶ月に一度。
床屋は三ヶ月に一度、
夏はふんどしひとつで過ごし、勉強した。
全ての時間を勉強に費やすため、一切アルバイトをやらず、
ケチケチ作戦で凌ぎぎった。下宿に布団はなく石油缶にもたれて
いつの間にか眠っている、そんな毎日だった。
 
満はそんな知久平少年を見かね、援助してやることに決めたが
下士官で安い給料だったので、好きなタバコも酒もやめて
できるだけ知久平少年と苦労をわかちあった。
 
陸軍士官学校へ入りたいという希望には知久平少年なりの
考えがあった。当時、ロシアが旅順と大連を租借して着々と東洋に
対する侵略の手を伸ばしていた。
ロシアからの脅威から日本を守るため、
身を捧げ
陸軍士官になるのが一番だと考えたのだ。
 
知久平少年は約一年半で中学卒業と同様の資格が得られる
専検に合格した。この頃になると、父に居所がバレてしまっていたが
その志を父は許していた。しかし父の希望で陸軍をやめて海軍に入るよう
説得される。海軍のトップエリートといえば海軍兵学校か海軍機関学校だが
知久平少年の望みは兵学校だった。
機関学校へ入った経緯について
知久平の甥によると
海軍機関学校の試験が11月頃で、兵学校は翌年春
だったので
機関学校は小手調べのつもりで受験し合格した。
父に相談したら「高望みをするものではない」といわれて兵学校受験を
諦めたと伝えられている。
 
海軍機関学校へ入学した中島知久平は、その4日前
ライト兄弟の初飛行を聞き「自分の将来はこれだ」と決めた。
海軍機関学校を恩賜の銀時計組(トップスリー)で卒業すると
直ちに飛行機を専攻しアメリカへ出張。日本人で3番目の操縦の
ライセンスを取得した。
 
帰国後、国産飛行船で1時間40分の滞空記録を樹立。
さらに海軍工廠で国産一号機を作り海軍の飛行機製造の第一人者となった。
また、世界最初の雷撃機を考案。これが将来の主力兵器だと断言。
戦艦金剛一隻で飛行機三千機が作れた時代に
貧しい日本が英米と戦艦の建造競争をすべきでない
と飛行機国防論を提出した。このとき海軍大尉。
 
◆海軍を辞め中島飛行機を設立
 
大正6年6月
飛行機国防論が無視されると、さっさと海軍を辞め
自分で飛行機を作るために中島飛行機を設立。
 
さっさと辞め、とは言っても海軍退官にあたって
中島知久平は「辞職の辞」と題して長文のあいさつ文を印刷して方々に
配布して回った。それは辞職届と呼ぶより
自らの
主張した「飛行機国防論」そのものであった。
 
「当時の超弩級戦艦『金剛』一隻の資材を分配し航空戦力に
充てるべきである。
欧米と戦艦同士の真っ向勝負すべきでない。
そして航空機には魚雷を携行すれば、その威力たるや
金剛より優れる」といった内容であった。
 
このとき、中島知久平の最も良き理解者であった
大西瀧治郎(当時は大尉)も中島の立ち上げる飛行機会社
に入るつもりでいたが、海軍に却下され始末書を書かされている。
そのかわり大西は資金集めに走り、海軍に残っては航空主兵論
戦艦無用論を繰り返し唱えた。
 
中島知久平は自らプロペラ一本一本を手で削る苦労を経て
陸海軍に純国産の主力機を納入する飛行機会社へ成長した。
民間会社である中島飛行機が三菱や住友などの大財閥を超える
大企業へ成長したことは
特筆すべき点である。
 
中島は故郷の群馬県尾島町へ戻り
両親の為に総檜造りの大屋敷を建設する。中島知久平邸は
ステンドグラスやシャンデリアなど細部にわたり豪華な装飾が施され、
部屋から見渡せる広い前庭や来客を迎える重厚な車寄せなど、
宮殿建築としての特徴が随所にみられ、近代和風建築を代表する
建造物として太田市の重要文化財に指定され、現在も見学可能である。
(現在の名称は太田市中島知久平邸地域交流センター)
 
◆富嶽計画の推進 
 
中島知久平という人物と中島飛行機の創設を簡単に記したところで
話を富嶽に戻そう。昭和17年
ミッドウェイでの敗退をいち早く知ったのが、
他ならぬ中島知久平であった。
このとき
東京・日比谷の市政会館に事務所を構え無線を傍受していた
中島は
民間人でありながら、軍部の関係者より情報に詳しかった。
 
ラジオからは挑発的な文言が流れる。
 
「勇敢な合衆国海軍はパールハーバーで騙し討ちをした
ジャップの空母四隻を沈めました。赤城、加賀、飛龍、蒼龍だと思われます。
アメリカはヨークタウン一隻を失っただけです。これで日本は当面
攻勢に出てこれないでしょう。山本五十六はハラキリをするのでは
ないでしょうか。今度は我々がバッターボックスに入る番だと
ニミッツ提督は
言っています。」
 
「なんだこれは!?大本営発表と全然違うじゃないか!」
 
「米国はどんな犠牲を払ってでもサイパングアムを取りにくる。しかし
それを阻止する機動部隊はない。
戦前、渡洋爆撃を禁止しろ、
渡洋爆撃は非人道的だと残虐性を主張してきた
ルーズベルトがB-29を
使って我が国を焦土と化す。
かくなる上は、対抗手段を取らざる得ない
やむにやまれず、
戦争とはそういうものだ」
 
そう言って自ら製本した必勝戦策を携え
次々と各界の要人を歴訪して回った。
一番最初に訪問したのは前首相の近衛侯爵であった。
 
必勝戦策に他ならぬ関心を示したのが、軍令部参謀で海軍大佐の
高松宮だった。
中島知久平の日記によると次のように書かれている。
 
「高松宮出殿下よりお召しあり。御殿にてZ機について詳細言上す。
なお、政治、戦争、社会問題について御下問あり。意見言上す。
有難き激励のお言葉あり。
恐懼退出す。また富嶽の進行につき
中間言上すべきことを
申し上げ、御嘉納ありたり」
 
もう上手に負ける事を考えるしかないと
言っていた高松宮は有利な講和のきっかけとして
期待していたのかもしれない。
 
中島は粘り強く説得を続けて回った。
「Z飛行機の決定の遅延一日が国家の運命に重大なる
結果を招来することは、論議の余地を存しない
ところであります。何卒、ご勇断の程を願うてやまざる
次第であります」
 
昭和18年秋
一番の難関は総理大臣で陸軍大臣兼軍需大臣、間もなく
参謀総長も兼任する東條
英機大将を説得することだった。
中島知久平は東條に対し「Z機以外に必勝の策があるのか」と詰め寄ると
東條は遂に
「敗戦思想は許されないが、必勝戦策とあればいいでしょう。
やってみなさい」と製作が決定した。
 
しかしこのとき既に日本は劣勢に転じていた。
 
昭和19年のはじめ、ようやく「富嶽委員会」が
東京の明治生命ビルの6階に設置された。中島委員長をはじめ
陸海軍の代表委員が集められ、
最高機密のため中島事務所とだけ
記された。
そしてこのときはじめてZ機名称が正式に「富嶽」と名付けられた。
一方、ピッツバーグ工業地帯では月産100機を目標にB-29の量産に
入っていた。
  
 
中島知久平は全国各地から若く優秀な一等技師を
群馬県小泉製作所内にある太田クラブに呼び集めた。
世にいう太田クラブ缶詰事件である。
 
当時、小泉製作所では零戦、銀河、月光、天山、彩雲、連山、橘花など
を製作しており、連日、工場から送られる銀河の爆音のもと
各技師達は3か月缶詰となって富嶽の設計に尽力した。
 

Imgp9936

 
次に記すのが富嶽設計メンバーである。
コメントも記す。
 
●吉田孝雄/小泉製作所所長
ゼロ戦、銀河など月産400機の
量産システムを構築した。
 
●反町忠男/試作工場長
戦後富士重工太田北工場長
 
「まあ、作ることは前に連山とか深山とかありましたから
大きな飛行機でも作る立場からは心配はしてません。
いっぺんに作るってことは致しませんから。
羽は羽でも分けるわけですね。前と後ろを繋ぐと方法があるんです。
大所長(中島知久平)は力強かったですね。とにかく設計陣は総力を
あげてこれをやれということですから、みんな感激しました。」
 
●小山悌/技師長
隼の設計メンバーとして名高い中島飛行機の至宝。
 
●太田稔/技師/脚油圧担当
ノモンハンで有名を馳せた九七式戦闘機を作った。
戦後富士重工顧問
 
「車輪は直径が一間以上、幅が50センチ。車輪が浮きますと
パイロットの操作なしに
油圧と空気圧を使いまして自動的に片側の車輪を
放りだすという構造にしたわけです。上昇が軽くなります。片側1トン
ずつで
約2トン軽くなります。離陸のときの重量がだいたい約150トンで
着陸するときは爆撃を済ませて燃料も使い果たしていますから60数トンと
半分以下になりますから充分安全に着陸機能を果たせる。
こういうわけです」
 
●松村健一/技師
通称マツケンとして名声を馳せた天才的設計者。
戦前既にB-29と同じサイズの深山を作り、目下四発攻撃機
「連山」を開発中であった。
 
●西村節郎/技師/エンジン艤装担当
決戦機と期待された四式戦闘機疾風を手掛けた。
戦後秋田県能代市長
 
「出来る出来ないではなくて、そううい事ををやらにゃいかんのやと。
やるとなったらそれ一筋。中島知久平さんていう方はそういう方でした。」
 
●小谷武夫/技師/エンジン設計部長
誉エンジンの開発者。
 
●田中清史/技師/エンジン設計担当
戦後東京プラント社長
 
「落ち着いて実験をやって発動機の形式を決める余裕はなかった。
それでその当時は一応はものにしておりました空冷星形発動機を
基礎型にとりまして、なんとかこれなら、という案が2、3出たんです」
 
●水谷総太郎/エンジン実験課長
戦後富士重工取締役
 
「このエンジンの模型を見まして、まとめるのが大変だと思いました。
問題はエンジンの冷却です」
 
●新山春雄/技師/艤装担当
戦後日産自動車顧問
 
「アメリカがB-29の生産を始めたと知久平さんの耳に入った
ものですから、このままじゃ日本は必ず爆撃される。もう全部の仕事を
やめて、知恵と材料を集めて
富嶽を作るんだと」
 
●渋谷巌/技師/主翼構造担当
戦後富士重工常務取締役
 
「富嶽は飛び上がると翼の先端が1.3メートルたわむんです。全備で
旋回すると5.4メートルもたわみます。構造材料も
当時はそれほど
剛性の高いものはありませんでしたので、
結局は非常にやわらかい
非常におおきな翼になったんです。
超々ジュラルミンを波板にしまして
外皮を貼ってくんです。
そういう剛性を持たせた翼を作ろうと」
 
●宮坂晋/技師/製図担当
連山、深山の飛行試験に立ち会う
戦後富士重工勤務
 
「当時、飛行機の製造は陸軍と海軍に別れていたものですから
陸軍、海軍からそれぞれ40名ずつ小泉製作所の三階に集められて
始められたんです」
 
●内藤子生/技師/空気力学担当
戦後東海大学教授・航空宇宙学
 
「富嶽は翼の大きさに比べて目方が非常に重いわけです
その比率は今日のジェット機と同じくらいの比率なんです。
こういうことを急速にやるには技師を集めて太田のクラブに
缶詰にしてやるのが一番敏速にやれるだろうということで」
 
●中村勝治/技師
戦後スバル自動車顧問
 
「中島さんて非常にデータ、情報を集めておられて、
当時日本でも第一人者でした。もしかしたら軍部より米国の情報
集めてたんじゃないかと思うんです。それらを分析した結果、
今のままではとてもダメだと。勝つ為にはこうしなきゃいけないと」
 
◆重なる難題と迫るアメリカの本土爆撃 
 
富嶽計画は昭和20年6月までに400機完成を
目指して進められた。機体のデザインは何とか完成し
問題だった冷却も、アイディアが考案された。最大の課題は排気タービンで
あったが
実験が継続されていた。成層圏を飛行するにあたり、当初は
気密服を着用し
気密部屋は作らない。従って食事、排尿の問題は
未解決とされていたが、もう少し進んだ段階になると気密室特別委員会が
結成され気密室の研究が進められた。
 
中島知久平はある日、富嶽計画に懐疑的だった役員に
「中島飛行機は金儲けのやめにあるのではない!軍のわからずやどもが
なんと言おうが国家が重大な危機に
直面している今やそれを傍観すること
ができるか!
これを打開すべく最も役に立つ飛行機を作って奉公せね
ばならぬのだ」
と説得。
 
工員たちには
「戦争が終われば富嶽は世界一周の遊覧飛行機になるんだよ」
と言って聞かせた。
 
そんな中、軍需相が命じていた「川西案による富嶽」の存在を中島知久平が
知り「競争している場合ではない、全く必勝戦策が理解されていない!」と
批判した。
 
◆大西滝治郎中将が富嶽計画の中止を伝える
 
大西滝治郎中将が中島を訪ね、
富嶽計画が中止されることを伝えた。
思えば開戦より遥かに前の昭和13年から戦略爆撃機の開発による
必勝戦策を説いて回ったにもかかわらず、昭和19年まで無視され続けた。
富嶽計画がもっと早くから着目されれば日本も焦土にならずに
済んだのかもしれない。
 
中島知久平最大の理解者である大西滝治郎が
成功法であった「富嶽」計画の中止を伝え、
特攻作戦を始めたとされるのは、
なんとも言い難い悲運であった。
 
各技師は元の工場へ戻された。いつ完成するかわからない飛行機よりも
いま出来上がる飛行機が一機でも欲しい。軍需相は中島飛行機を接収して
軍の直轄とするとともに攻撃機「剣」の生産を開始した。
 
10年、20年先の計画を立てられぬ軍部の石頭が、
日本の不幸はそこにあった。その致命的な欠陥を軍部は大和魂で
埋めようと多くの若い命が散った。
 
◆戦後
 
戦後はGHQにより財閥、および民間であっても
飛行機の製造の一切が禁止され、中島飛行機は解体した。
富嶽に関するもので残っているのは
三面図と富嶽製作日記と必勝戦策だけである。
中島知久平はA級戦犯指定を受けたが後に解除されている。
 
◆富嶽の残したもの
 
富嶽計画は中止となったが
その技術は今日の技術大国日本に脈々と受け継がれている。
戦後の日本の成長は、こうした技術者たちの努力の賜物であり
富嶽は姿を変え不死鳥のように蘇ったといえよう。
 
中島知久平は、晩年、親しい側近に次のようにもらしていたという。
 
「今の政治家の中には一年先はおろか、明日の事すら考えて
いないのがいる。政治家たるものは少なくとも五年先
十年先くらいのことを考えていないといかんな」
  

富嶽

  
出展
『さらば空中戦艦富嶽』碇義朗
『巨人中島知久平』渡部一英
NNN系列テレビ番組1979年
『さらば空中戦艦富嶽 幻のアメリカ本土空襲』
 

記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

  
戦史 ブログランキングへ



 
関連記事
 
四式戦「疾風」と中島飛行機宇都宮製作所 
中島飛行機ロゴマークのダウンロード 
ブルーホーネットのアクロバット飛行

中島飛行機ロゴ

江草隆繁少佐の九九式艦上爆撃機

九九式艦上爆撃機 江草隆繁少佐機01

九九式艦上爆撃機江草隆繁少佐機02

Copyright Raimundo79 / Shutterstock.com

江草隆繁少佐の九九式艦上爆撃機

機体は艦爆の神様と呼ばれた江草隆繁少佐の九九式艦上爆撃機である。
江草隆繁少佐の九九艦爆は海軍の指揮官機の中でも
もっとも派手で知られる。イラストは真珠湾攻撃で蒼龍艦上の機体を
再現した。
 
帝国海軍で江草隆繁少佐と双璧を成すといえば
雷撃の神様と名高い、村田重治少佐である。
 
海軍搭乗員はいずれも頭の切れる人物ばかりなので
優劣を付けることは出来ないが、今回は江草少佐に登場頂くことで
帝国海軍の一端が垣間見えよう。
 
その江草少佐の戦いに、ぜひとも触れておかねば
ならない。江草少佐の戦いは『艦爆隊長江草隆繁/上原光晴』にもっともよく
記されている。これから紹介するエピソードは、ほんの一部分でしかないから、
何かの縁で、この派手なペイントの九九艦爆に興味を持ったなら
ぜひ、江草少佐の生き様を、本で読んで知ってほしいと願う。
 
◆江草隆繁少佐
 
明治42年9月4日生まれ。
真珠湾攻撃時31歳。
広島県芦品郡有磨村出身。海兵58期。
海軍艦爆操縦員。「艦爆の神様」
身長は166センチ前後と伝わっている。
当時としては平均より高く、がっしりとした印象だった。
 
江草を回想するとき、誰もが「冷静沈着」と評する。
先にも記した通り、海軍軍人なら冷静で頭のきれる者は
数多存在するがその中でも江草ほど頭脳明晰かつ冷静な
人物は居ない。そして武人であった。
 
◆小瀬本国雄一の回想
 
小瀬本は江草の部下として真珠湾攻撃に参加。
その後、マリアナ沖海戦では「彗星」に乗り換え
最後は第751海軍航空隊で「流星」に搭乗。艦爆一代で
生き抜いたが、昭和20年8月15日午前、木更津基地より特攻出撃した
人物である。
 
以下は昭和16年10月、富岡基地で訓練に励んでいた
小瀬本国雄一等飛行兵の回想である。
 
『艦爆一代/小瀬本国雄一』
『艦爆隊長江草隆繁/上原光晴』
『サムライたちの真珠湾/早瀬利之』
 
より引用しながら、ほんの一部分を書く。
小瀬本はもとより「加賀」乗り組みであった。
居心地の良い加賀から突然の蒼龍転属命令を受け
やや消沈しているところであった。荷物をまとめていたところ
爆音がするので滑走路に目を向けると
一機の九九艦爆が着陸するところだった。
 
◆「おかしな模様の飛行機ダナァ」
 
尾翼に「蒼龍」のマークが入っている。
胴体後部には濃緑の地に黄色のペンキで虎縞の模様が
一面に塗られている。変な飛行機だった。
 
九九艦爆から降りてきた士官は用をすませると
小瀬本のそばへやってきて「小瀬本か」と声をかけた。
思いのほか優しい声に小瀬本はちょっとびっくりした。
これが江草と小瀬本の出会いであった。
 
「荷物は飛行機に積んで一緒に行こう」
 
隊長がわざわざ迎えに飛んできてくださったのかと
思うと小瀬本の不満はいつの間にか消えていた。
小瀬本が同年兵一人一人と肩を叩き合って別れを
告げている間、江草は黙って待っていた。
 
「加賀」の艦爆隊員全員が見送りの位置に着いた。
江草は黙って見送りの人々に一番近い離陸線に
九九艦爆をつけた。無言の思い遣りに小瀬元は胸を熱くした。
 
九九艦爆は総員が帽を振る中、快晴の空へと舞いあがった。
江草は機内で家族のことや「加賀」での訓練状況を話し合った。
こうして小瀬元は「蒼龍」へ転任し江草の艦爆隊に編入された。
 
◆真珠湾攻撃
 
真珠湾攻撃で江草は
第二次攻撃隊の急降下爆撃隊総指揮官であった。
江草の率いる第二次攻撃隊急降下爆撃隊の九九艦爆は
総数78機。それぞれの母艦から発進し
「蒼龍」「飛龍」「加賀」「赤城」の順で編隊を組んだ。
濃緑色の地に虎の縞模様の入った指揮官機は
すっかりおなじみになっていた。
 
指揮官機のスピードは速すぎても遅すぎてもいけない。
編隊を混乱させてしまうからだ。
78機を引っ張る江草機は遠くからも視認が容易であった。
GPSの無い時代、編隊からはぐれることは死に直結する。
 
江草は操縦席の風防をいっぱいに開け
仁王立ちになり四方八方に目を配らせている。
これは江草の習慣で
風防に付着したゴミを艦船と見誤る恐れがあるためと言っていた。
  

江草隆繁少佐の九九式艦上爆撃機

▲真珠湾へ出撃する蒼龍艦上の江草隊 
 
第二次攻撃隊急降下爆撃隊第一中隊二十小隊は
次の通り
 
一番機(虎縞の九九式艦爆)
江草隆繁少佐/操縦
石井樹飛曹長/偵察
 
二番機
山崎武男二飛曹/操縦
遠藤正/偵察
 
三番機
川崎悟三飛曹/操縦
高橋亮一一飛曹/偵察
 
江草小隊の三機を先頭に九九艦爆78機が
大編隊で真珠湾へ向かう。
第二次攻撃隊は第一次攻撃隊の発艦後間もなく出撃。
 
午前3時23分、
飛行中の各機機上において「トラトラトラ」(われ奇襲に成功せり)を
傍受した。
無線には華々しい戦果が続々と入ってくる。
第二次攻撃隊各機は「今度は俺たちの番だ」と指信号で成功を誓い合った。
 
午前4時10分、第二次攻撃隊はオアフ島北端のカフク岬に姿を現した。
江草指揮の急降下爆撃隊は
オアフ島を右に見てカネオ飛行場へ近付いて行く。
 
江草隊がオアフ島上空へ到達したとき、高度は4000メートル
真っ黒い雲がたちこめていた。よく見ると雲では無く
敵の高角砲による猛烈な弾幕であった。湾内は見えない。
 
ようやく湾内の様子を視認すると
停泊中の戦艦何隻かは既に撃沈され、炎を上げ
重油を流し、真っ黒な煙があがっている。その間にも
爆風で翼が震え、対空砲火は以前熾烈を極める。
まだ江草指揮官機から「トツレ」(突撃体制とれ)が
下令されない。
 
・・・・まだか、まだなのか
すると江草機は大胆にも4000メートルという
リスキーな高さから大編隊のまま弾幕を突っ切って
湾上空を大きく旋回し、悠々と一巡した。江草指揮官機の行動は
第一次の戦果確認と第二次攻撃の目標の見極めであった
じつに冷静沈着であった。
 
江草機が小さくバンクを振る。ついに「トツレ」の下令である。
江草艦爆隊は瞬く間に編隊を解散し、一本棒の突撃陣形を形成した。
各機の感覚は最初は200メートル間隔だったのが50メートルまで
グングン縮めてプロペラの先端と尾翼が触れそうなほどである。
 
間もなく「ト連送」(突撃せよ)が発進され
江草を先頭に、急降下爆撃を開始する。
真っ赤なアイスキャンディーのような対空砲火の中を
果敢にダイブして行く九九艦爆。爆弾を投下すると、ダイブブレーキ
(急降下制動版)を展開する。
身体には13Gがかかり、引き起こしにかかる。
真っ赤な炎が上がった。命中。
 
後続の機体も次々とダイブし戦艦に爆弾を叩きつける。
米軍側の反撃体制が整い最も接近戦を行ったゆえ
江草隊は真珠湾攻撃に参加した隊の中で最も損害が大きかった。

最も損害が多かった江草艦爆隊
 
第一次攻撃の損害9機
(雷撃機5、急降下爆撃機1、戦闘機3)に対し
第二次攻撃は20機が未帰還。
 
この内、江草の急降下爆撃隊(九九艦爆)は
14機が未帰還となっている(戦闘機は6機)
九九艦爆は二人乗りなので28名が戦死ということになる。
 
川崎悟三飛曹と高橋亮一三飛曹ペアの
九九艦爆も炎に包まれ自爆した。
 
江草機も被弾していた。後部座席の石井樹偵察員が叫んだ
 
「被弾しました!燃料が漏れています!」
 
これは帰艦の見込みが失われたので自爆しましょうという石井の
訴えであった。
ところが江草は大声で
「飛ぶんだ!」と後席の石井に伝えた。
 
蒼龍へ帰還すると派手な虎縞模様の指揮官機は
予想通り敵の格好の目標となり穴だらけだった。燃料はカラだった。
 
真珠湾攻撃の一部を紹介したが
江草はこの後もジャワ沖、印度洋等で活躍し多くの連合軍艦船を撃沈した。
ミッドウェイで母艦を失った後、第521海軍航空隊へ転属となる。
 
昭和19年6月15日
第521海軍航空隊所属の江草は銀河に搭乗し、ペリリュー島を発進
マリアナ沖の機動部隊に雷撃を敢行し未帰還となった。
享年34。戦死後大佐に昇進。
 

▲黎明の蒼龍艦上。発進を待つ江草隊

 

2015年9月12日 (土)

安否報告

Imgp99712

 
御心配おかけしました。

ひとまず本人は無事です。 たくさんの励ましのご連絡、
本当にありがとうございました。

 
しかし水没により虎の子の愛車を失ってしまいました。
※写真は完全に水没する前に撮影したものです
 
メインCPUから張り巡らされた電気系統が全て ショートしてしまいました。
修理不可能ということで廃車が決定しました。
塗装も改造も修理も手掛けてきましたがこんな別れ方になるとは
思いませんでした。

 
新しい車を買う余裕もないので
少し考えることにします。

2015年8月12日 (水)

天皇陛下ペリリュー島訪問の裏話その2

陛下がパラオを訪問された時のエピソードです。
ペリリュー島の西太平洋戦没者慰霊碑へ陛下が到着する前
参列者に向けて、宮内庁職員から次のような通知がありました。
 
「もし、雨が降った場合ですが、参列者の方々は必ず、雨具を身に
着けるようお願いします。陛下は、参列者(国民)の一人でも雨に濡れているのを
ご覧になると傘をお使いになることを、固く辞退なさいます。ですから、
何卒、お願いします」
 
当日は好天に恵まれましたが、そういったエピソードがあったことを
ここに記しておきます。

2015年8月10日 (月)

パラオ戦跡ガイドブックを発売しました

 

拙著『パラオ戦跡を歩く』お陰様で本日発売となりました。
図や写真メインのビジュアル重視の本となっています。
現地MAP、ペリリュー島、アンガウル島の戦史資料
戦場写真などが付属します。
 
販売ページから少し立ち読みが出来ます。
http://www.amazon.co.jp/dp/4908593019

71tv00nathl

81xyowyucil

71uuxrx26l

61lbp7tuwml

71hvx3x31ql

http://www.amazon.co.jp/dp/4908593019


2015年7月30日 (木)

軍隊の無い国パラオ

19compactroad13

 
世界には色々な事情を抱えた国があるということを伝えたい。
 
画像は「コンパクト・ロード」。パラオ本島を一周する総延長78kmの
初めての舗装道路。台湾(中華民国)の援助によって建設された。
パラオは台湾(中華民国)を国家として認めている。
台湾の援助額と親密さはこの道路が証明している。
 
対照的に中華人民共和国とは国交が無い。
一昨年には同国の密漁船と銃撃戦を展開して双方に死者が発生した。
パラオは小国なので沿岸警備隊も充分に機能していない。EEZと領海侵犯を
行う中華人民共和国の密漁船が問題になっているが、必死の抵抗を
見せている。
 
独立を決断したパラオ
パラオは世界でも珍しい軍隊の無い国家である。
1978年に米国領より独立を宣言し、8回に渡る住民投票の末、
92年、米国領からの独立を国民自身の手により決断した。
ただし、ビキニ環礁(隣国マーシャル)の核実験でパラオ国民の核に対する
反感は非常に厳しいものとなっており、パラオには非核条約があり続ける。
 
独立後も安全保障を米国軍に委ねるパラオは依然として
強大な軍事力を持つ米軍と核兵器の傘下にあるという、矛盾が生じる。
よってこれを棚上げする形で独立が決定した経緯を持つ。
 

19compactroad06
 
独立できなかったグアム
ついでなので、隣のグアムに目を向けてみよう。世界中で米軍による
パワーバランスが働いていることを忘れてはならない。
 
グアムには、米軍の大航空拠点がある。グアム島の面積は
淡路島と同じ程と仮定して、このうち米軍基地が占める割合は
現在およそ33%。オキナワから海兵隊が移転すると47%に増大する。
グアム島の半分は基地になる。グアムは米国領だが、住んでいるのは
チャモロいう現地人で、大統領選の投票権すらない。
その負担は計り知れない。
 
関連記事
幻のチャモロ共和国~なぜグアムは独立できなかったのか

2015年7月20日 (月)

パラオ戦跡を歩く 8月初旬発売です

『パラオ戦跡を歩く~ペリリュー・アンガウル戦記』が8月初旬
販売となります。ぜひ、よろしくお願い致します。
  

Photo

P3

02

P1

 
昨今、パラオはリゾート地として多くの日本人観光客が
訪れるようになった。戦跡ツアーも存在するが、いずれも
戦車や大砲を見物するだけで具体的な内容には触れず
に終わってしまう。
 
観光客が持つ感想といえば「戦争は絶対に嫌だね」
くらいではなかろうか。なぜ、戦ったのか、そこまで
踏み込んで考えないと
戦争は無くならない。
 
パラオの戦跡について詳しく書かれた本は今まで無かった。
本書はそれら戦跡と戦記と結び付けて紹介し
考えるきっかけを促すものである。
 
ペリリュー島守備隊は七十一日間、アンガウル島守備隊は
三十三日間、最後の一兵まで戦うことで祖国の安泰を切望した。
 
~まえがきより~

2015年7月 9日 (木)

新国立競技場建設問題について日本人として思う事

 
新国立競技場建設費高騰の問題、

街頭のテレビインタビューに対し、その是非と問われた男性は
「外国の人に自慢できるじゃないですか」と答えていた。
 
この答えは元来日本人の本質とかけ離れたものであり
合理性にも欠ける。
  
巨大な建築・建造物をもって、余所に
見栄を張るのは本来、日本人がやるべき姿でない。
世界一と評される新幹線やトンネル、橋の建設は、日本人自身が
必要性に迫られて、先輩方が苦労して築き上げたものだ。
これらの建築・建造物は
結果として、外国人に喜ばれているが
自慢しようと意図し造られたものでない。
 
日本を訪れた外国人が何に対して喜ぶのか
もう一度、初心に帰って考えてほしい。滝川クリステルが
五輪のプレゼンテーションで
「おもてなし」と発言したのを皆、すっかり忘れている。
 
結論を言う、スタジアムは要らない。必要なのは
おもてなしだ。
建設費2500億円と、完成後も維持にかかる膨大な資金を
もっと、きめ細かなサービスの数々に活用すべきである。
例えば、綺麗なトイレを数多く整備して、それを維持する。
 
そういった日本人の親切さや、几帳面さこそ
外国人がもっとも喜び、最高のお土産になるに違いない。
せっかく日本にお越し下さったのだから、気持ちよく帰ってもらおう。
でかいスタジアムなど、すぐに記憶から消える。
近代的巨大建築物が見たいのなら、とっくにドバイにでも行っている。
  
戦後、日本人は急激に豊かになり過ぎて、知恵を絞ったり
工夫することを忘れてしまった。
近代的建築物の建設よりも、自然との調和・共生が
本来日本人のあるべき姿であり、そういったものこそ
外国人が日本特異の文化として好奇心をもって喜ぶ。
五重塔もスカイツリーも竹のようにしなり、地震を吸収する。
頑強さをもって自然に撃ち勝つというのは、神に刃向う恐れ多い行為。
欧米的考えだ。
 
日本人には日本人のやり方しかないのだから、もう一度初心に帰って
本質を見極めるべきと思う。

2015年7月 2日 (木)

YS-11が宇都宮に飛来

YS-11C

  
今日は宇都宮飛行場にYS-11が飛来した!

 
我が家の上空を機体の文字が読めるくらいの低空で
力強いエンジン音を轟かせ、旋回していった!
 
YS-11といえば、
「ゼロ戦」の堀越二郎博士、「飛燕」の土井武夫博士、「紫電改」の
菊原静男博士、「隼」の太田稔博士、そして「桜花」の木村秀政博士
の力を集結して開発した、戦後日本の底力を象徴する翼だ。
 
北宇都宮の飛行場でローパスも見た!
入間の所属機(画像の赤い塗装の機体。YS-11C)で、点検のため
宇都宮へ飛来したらしい。

写真こそ取り損ねたが、しっかりこの目で見た!
目に焼き付けた。 
 
YS11は殆ど引退した。これが

もう最後の機会かもしれないと思うと寂しいが
最後に、それも自宅の上空を飛行する雄姿を拝めて
良い思い出になった。
 
追記
駐屯地で撮影していた航空ファンに聞いたところによると、当該の機体は
入間基地所属の飛行点検隊と呼ばれ
管制塔とのやり取りや各種計器の動作確認等の目的をもって
数か月に一度、定期的に宇都宮へ飛来する。
YS-11のほか、U-125のときもあるとのこと。



 

2015年6月26日 (金)

ベトナム解放戦線(1)

ビルマ木橋

 

戦友会で元第二師団二十九連隊の中隊長だった
三橋元陸軍大尉のお話です。当時、部下であった
石沢氏の話も合わせています。

 
これも取材中ですが、形になり次第、書くことにします。
話の概要は以下の通りです。
 
以下、光橋元大尉の回想より~ベトナム独立を賭けて
大東亜戦争が8月15日に終わったが
我々の戦争は終わらなかった。私はその頃、
カンボジアに駐留してアンコールワット西側の警備を担当していた。
終戦と同時に、戦前、植民地支配をしていたフランス軍
(以後仏軍)が戻ってきてふたたび、植民地体制を築こうとした。
 
ビルマに建設した木橋も、一度破壊されたものを
我々日本軍の工兵隊がもう一度、終戦後に連合軍が
やってくるというのでかけなおしてやった。
 
フランス軍のために死ぬのは絶対に御免だ
ところがフランス軍は脆弱であったため、一旦武装解除した
日本軍に再度、火器の所持を許可し、ベトナム独立軍と戦え、
というのだ。そうは言われても
我々とベトナム人は友達だったから、今更、彼らに銃口を向けること
などできない。
 
なぜ、我々日本人がフランス軍を守るため、戦わなければならないのだ。
そのとき、私は初めて死ぬのが怖くなった。
それまで、日本のためなら、一度は死ぬつもりだった。
お国を守るためなら死ぬのは何ら躊躇いは無かった。
フランス人のために死ぬのは絶対に嫌だ。 
 
かつての仲間へ銃口を向けるが
それでも仕方ないので、我々は、仏軍の指揮下に入り
ベトナムの仲間に銃口を向けたが、全員照準をはずし
空に向けて発砲した。このお粗末な射撃はベトナム人も
理解していたことだろう。
 
連合国の白人兵士が乗ったトラックはベトナム解放軍の
襲撃を受けていた。9月以降もメコン川上流からは
フランス軍兵士の死体が流れて来ていた。おそらくベトコンに
襲われたのだろうと思った。
 
ところが、我々日本人もそのフランス軍の味方になったというのに
彼らは全然襲って来ないのだ。大勢の白人兵を乗せたトラックに
一人でも日本人が混ざっていれば、これを狙うことはなかったのだ。
 
ベトナム独立を賭けて我々と共に戦ってほしい
ある日、ホーチミンの部下が女性を伴ってやってきて言った。
「我々と共にベトナム独立のために戦ってくれないか。日本軍の強さが必要なのだ」
兵士は下士官に、下士官は将校にしてやる。
妻が必要なら紹介するから、ここで家族を築いても良い。
とにかく特別な待遇を用意しよう。 

8月15日からの戦争・・・ 
彼らの独立にかける想いは強かった。
既にベトナム解放軍に加わった日本人兵士も居るという。
 
自分はどうするべきか・・・。
 
つづく