2015年12月30日 (水)

飛龍

飛龍のイラスト

飛龍のイラスト

 
「飛龍」を描きました。
最終艤装でミッドウェイ海戦時のものです。
 
イラストを描いたので
少し飛龍の話を書いておきます。飛龍といえば真珠湾から
ウェーキ島攻略、印度洋、パラオ寄港など多くのエピソードが残されていますが
その中でも最後の奮戦、ミッドウェイ海戦でのお話です。 
 
飛龍ハ健在ナリ

ミッドウェイで「蒼龍」乗り組みのゼロ戦隊だった原田要氏によれば
(蒼龍といってもミッドウェイ海戦は殆ど飛龍で戦ったのは次に記す通り)
  
原田氏の蒼龍ゼロ戦隊は機動部隊を護衛し、水面を飛来する雷撃機を
次々撃墜した。 アメリカの雷撃隊は多大な犠牲を被ったが、 ガラ空きだった
上空より、ドーントレスが現れ 瞬く間に「赤城」「加賀」「蒼龍」に向けて
急降下爆撃を開始。 機動部隊上空を飛行する原田氏の目には
めらめらと炎を上げる三隻の母艦が認められた。
 
飛龍への着艦と再出撃
原田氏は 4隻の空母のうち唯一健在の「飛龍」に着艦した。
飛龍で燃料補給と再出撃を求めたが、ゼロ戦は被弾が著しく 海に
投棄されてしまう。乗る飛行機が無くなってしまった原田氏は飛龍の甲板上で
飛行作業を手伝う事となるが、このとき 友永丈市大尉の雷撃隊発艦を
見送った。雷撃隊には原田氏と同年兵の 大林行雄一飛曹も居り
 
 「俺は行く。もう帰らないと思う」
 
と告げた。 その言葉通り大林一飛曹は帰ってこなかった。
被弾したまま発艦した友永大尉率いる九七式艦攻雷撃隊は
ヨークタウンと刺し違える形で雷撃を敢行し、撃沈したが 未帰還となった。
 
飛龍に残された最後のゼロ戦
 
「ゼロ戦が一機だけ飛べる!原田!お前が上がれ!」
 
飛龍に出撃可能なゼロ戦が一機だけ残されていた。
滑走距離は僅か50メートルほどで、通常の離艦より遥かに前であったが
やるしかない。氏は整備兵に尾翼を押さえてもらい、プロペラが
フラッター(振動)を起こして 湾曲するほど目いっぱいエンジンをふかすと
ブレーキをはずして 一気に発艦を試みた。ゼロ戦は海面すれすれまで
落ちたものの、なんとか 飛龍から飛び立った。発艦した。
その十数秒後、たったいま飛び立った飛龍から 大きな爆発音が響き、
後ろを振り向くと艦影が確認できない程の煙が上がっていた。
 
その後燃料が続く限り護衛を続け、海上に不時着する。
やがて日が暮れ、暗闇の中 運よく駆逐艦「巻雲」に救助された原田氏は
「巻雲」艦上で「飛龍」の最期を見た。
 
飛龍の最期
飛龍に接舷した巻雲は、飛龍の生存者の救出にあたった。
原田氏によれば飛龍の最期は次の通りである。
 
山口多聞少将と加来止男艦長の二人は飛龍艦橋脇の甲板上で
参謀らと水杯を交し、最後の訓示を行うと、艦橋へ上っていった。
艦橋へ消えてゆく山口少将の後姿がとても寂しそうだった。
その後、艦橋から拳銃の音が聞こえた。
駆逐艦へ移った飛龍乗り組み員によれば 山口少将と加来艦長に
 
「私達二人が責任を取るから君たちは退艦しなさい」
 
と強く 説得され、涙ながらに退艦したという。
飛龍は夜が明けると巻雲の魚雷によって処分された。
  
 
出典 原田要著『零戦老兵の回想』 桜の花出版
篠原直接のインタビューほか
 

零戦

原田要さんの話(1)撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない
原田要さんの話(2)南京攻略とパネー号事件

原田要さんの話(3)真珠湾攻撃と亡き戦友の思い出
原田要さんの話(4)赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴、飛龍への着艦

原田要さんの話(5)零戦、紫電改、様々な飛行機に乗ってみて
原田要さんの話(6)関行男大尉の教官を務める
原田要さんの話(7)元ゼロ戦パイロットとして平和の大切さを訴え続ける

 

2015年12月11日 (金)

ペリリュー島のラストサムライ(1)

ペリリュー島のラストサムライ
永井敬司さんのお話(1)
 
今回は水戸歩兵第二連隊の元軍曹の永井敬司さんにお話を伺った。
永井敬司さんは昭和19年9月のペリリュー島で上陸戦から
昭和22年まで終戦を
信じず戦った。
 
何回かにわけて書くことにします。永井敬司さんは93歳。
水戸歩兵第二連隊第二大隊(富田少佐指揮)本部付。
一万人の将兵が玉砕したペリリュー島で生還した
日本軍
正規兵34名の中の一人。
 

Q.篠原
ペリリュー島の戦いについてお伺いします。

A.永井さん
私は昭和19年の9月15日の上陸戦から
その前から随分艦砲射撃はあったんだけども、
いわゆる中川州男大佐が戦死したとされる11月24日までと、
その後、終戦を信じず、昭和22年までペリリュー島で
戦いました。生き残ったのは我々34名だけです。

Q.篠原
戦友の最期の姿は覚えていらっしゃいますか。

A.永井さん
みんな真面目に死んでいきましたよ。
それこそ純粋な気持ちでね。「天皇陛下万歳」といってね。

Q.篠原
最期は「お母さん」と叫んだのではないのですか。

A.永井さん
そんな女々しいのはいなかったですよ。いないいない。
そんなのいないかんね。嘘だかんね。私らの第二連隊は
よく訓練されていたから。少なくとも私の見た限りはね。
最後はやはり「天皇陛下万歳」です。
だいたい、22歳から23歳くらいの年の兵隊が多かった。
年長者でも25歳くらいです。そういう若い人たちが大勢、大勢
本当に真面目に死んでいったんです。太平洋の防波堤たれということでね。
あなたはその年齢で、そういうことが出来ますか。


Q.篠原
富田少佐の最期は自決だったのですか?

A.永井さん
自決じゃないですよ。富田少佐の最期は突撃です。
私は大隊本部にいたから見ていました。
一日目のイシマツ、イワマツ陣地(オレンジビーチ)の戦いで、
二日目に私らが到着したときは、死体が累々だった。
米軍の死体もね。南地区隊の高崎連隊の千明大隊長が頑張ってくれて、
大打撃を与えたんですね。

当初は富田大隊長が自決しようとしたんですけど、
周りが止めたんです。「大隊長、自決より突撃をしましょう」とね。
それで、富田大隊長は軍刀をスっと抜いてね、
「それでは」と言って敵陣に斬り込んで行きました。
それが大隊長を見た最後でした。

同時に無傷だった天山の砲兵陣地から掩護射撃がありました。
富田大隊長は、その友軍の援護射撃の中を突っ込んでいきました。
もしかしたら、その爆風でやられたかもしれない。熾烈なものでした。
それが二日目の夕方くらいだったかな。

Q.篠原
国の為に真面目に死んでゆく、という概念が
我々戦後世代にどうやったら少しでも理解できるでしょうか。

A.永井さん
こればっかりは当時を生きていないと難しいんじゃないですか。
私は昭和22年まで終戦を信じず戦いました。

そのことを某新聞社が「手を上げて投降した」と書いたんです。
そこで私はその新聞社と大ゲンカになりましてね、
最後まで記事を取り下げなかった。
これは私だけの問題ではないんですよ。
真面目に死んでいった戦友たちの名誉の問題でもあるんです。

死んだ戦友たちの・・・名誉の問題なのですよ。

昭和22年に澄川少将の命令解除を受けて
我々はようやくジャングルから出てきました。

そこでアメリカ軍の司令官が言ったんです。
「あなた方は捕虜ではありませんよ。捕虜というのは
戦争中に捕まった兵隊を指すのだから、もう戦争が終わって
立派に任務を遂行したではないですか」と
アメリカ軍の司令官がそう言ってくれたんです。

それなのに某新聞社は手を上げて
捕虜になったなどと・・・・私らは、死んだ戦友は
国のために最後まで戦ったんです。

Q.
アメリカ軍と戦って、アメリカ兵に
どういった感情を持っていましたか。

A.永井さん
憎らしいということはなかったですね。アメリカ兵の
死体を見ると、みんなまだ若いんですよ。私らと同じようにね。
この人たちにも祖国アメリカには恋人や奥さんや、家族がいる。
そう思うと、かわいそうになりましてね。
だけど、やらなきゃやられてしまうから戦いました。

 
つづく
 

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2015年12月 7日 (月)

『緑の島のお墓』をミシェルさんに歌って頂きました

私のサイトをご覧くださり、歌ってくださいました。
嬉しい限りです。募集内容はこちらです。
まだまだ多くの方が歌ってくださることを願っています。
 
今回の唄はプロ歌手のミシェルさんです。
よろしければお聴きください。
 


YouTube: 緑の島のお墓/ミシェル~天草の海辺より

▲ミシェルさん歌唱

緑の島のお墓 
YouTube: 緑の島のお墓
 
▲ピアノソロ・久保亜未
こちらは伴奏用です。ぜひ唄をつけてお送りください。 

2015年12月 5日 (土)

世界のヨックモック

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世界のヨックモック 工場は実は栃木県日光市(旧今市市)にあります!


「シガール」はヨックモックが誇る超有名な菓子!
日本全国はもとより、 アメリカ20の州と地域に店舗があり、
タイ、台湾、香港、マカオ、アラブ首長国連邦 などなど、
世界中で一流ブランドとして売られている菓子!
それもこれも今市から送り出されています!
 
昨年、シガールのアイスクリームが発売されたが
高価で買えなかった!
 
そして今市限定でヨックモク工員のみが手に入るヨックモック製
巨大板チョコレートは絶品!
 
こればかりは世界のセレブさんといえども栃木の、今市のヨックモックの
知り合いがいないと食べられません!今市の人はヨックモックを
もっと誇っていいと思います。
 
※なお栃木県の5分の1以上の面積が日光市です。
これは市町村の大合併によるもので 地元民は判別が
日光と一言に言われてもつかないため、 旧名の「今市」と呼びます。

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田んぼの真ん中にある工場。
正月休みに撮影。
  

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2015年12月 4日 (金)

一面トップに載せてもらいました

なんと一面トップに載せてもらいました。
31万人の読者に、私の切なる思いが届くことを願ってやみません。
 

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2015年11月17日 (火)

書店に置いてもらいました

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拙著を落合書店さんに置いて頂きました。

 
一番目立つところに並べてくれました!
店頭に自分の本が並ぶ日が来るとは、感激しましたが
そんな思いは刹那に吹き飛び、これが
売れなければ、奥へ引っ込んでしまう運命にあります。
 
今は不安で仕方ありません。しかし内容には自信を持っていますので
信じて売れてくれることを待つのみです。
 
落合書店さんは栃木県の大手書店さんで、置いているのは
◆宝木店(作新学院近く)、◆ララスクエア店(宇都宮駅前)
◆東武ブックセンター(東武百貨店宇都宮店内)、◆ベルモール店
 
以上4店舗です。

 

2015年10月21日 (水)

ベトナム解放戦線(2)

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前回からの続き

 
「ベトコンの軍隊に入隊してくれ!階級は二階級進級させる。
給料は倍出そう。奥さんを提供する。植民地解放の為に
戦っている。ベトコンに協力してくれ」
 
思いがけぬ敗戦の報せに不安定になっていた
日本軍に対し、誘いが何度も何度もやってきた。
 
ホーチミンの進撃
ハノイからはホーチミン将軍を盟主とした
越南独立同盟党がベトナム民主共和国の独立を宣言。
サイゴンに向かって進撃を開始した。
 
ベトナム独立運動は一般民衆をも刺激し
「打倒フランス」の雄叫びをあげ仏印全土へ広がって行く。
 

解放戦線へ加わる者たち
 
「決して軽拳妄動してはならぬ!」
連隊長の訓示も空しく、毎日のように離隊者
(解放戦線へ身を投じる者)が
続出した。
 
光橋中尉は戦争が終結した以上、部下をこれ以上
一人も死なせず日本へ連れて帰ることを決意していたが
ついに光橋中尉率いる五中隊からも離隊者が出る。
 

Nという兵隊が手榴弾を持って逃亡する。
Nは離隊の際、一度帰ってきて雨の降る晩にまた出て行ったという。
一個分隊でNを捜索に出た。
 

捜索中、揺り籠の女が居た。
女の視線が二階を気にするので
行って見ると、そこに案の定Nが居た。
 
「なんで国へ帰らないんだ。もう戦争はおわったんだぞ!」
 
「・・・おっかやん死んだから」
 
「そんな証拠どこにあるんだ!」
 
「・・・いや、もう弱かったから」
 
「そんなことあるか!故郷に帰るぞ!」
 
事なきを得て、Nをプノンペンに連れ帰った。
 
フランス軍を守る
8月15日をもって、サイゴンの捕虜収容所にあった
フランス軍は一転、一応の戦勝国となり
連合軍司令部となった。しかしもっとも弱かったのが
サイゴンの連合軍司令部であった。
サイゴンの市街地の中心に僅かなフランス軍、それを
ぐるりと英印軍が守り、それでもベトナム解放軍が破って来るので
さらに広域に渡って再武装した日本軍が警備にあたった。
 
フランス軍一個中隊(約200名)がベトコンに襲撃を食らって壊滅した。
警備のため、日本軍一個分隊(20名)が出動。彼らは日本軍
兵士の姿を目撃すると、ただちに攻撃をやめ、間もなく両軍による戦闘は
沈静化した。このほかにも各地で小競り合いが起きていたが
日本軍が出動するとピタリと止んだ。
 

ベトナム解放軍はメコン川にかかる橋の破壊工作を開始した。
それは徒歩で渡れるような小さな橋から、大きな鉄道橋も含まれていた。
破壊工作というのは、彼らは橋の橋脚や骨組みはそのまま残し、
踏み板のみを撤去してしまうのだという。
 
サイゴンの連合軍司令部からは、ベトコンの武装解除せよと
(ベトコンは武装解除に応じないからつまり彼らを撃破せよ、ということか)

命令が飛んでくる。それで解放軍のところへ一応は出動するのだが
友達だから、お互い戦いたくはないし、皮肉にも日本軍が戻った地域は
至って平穏そのものとなる。
 

メコン川の西側に光橋中尉の部下の分隊が取り残された。
部下の分隊は解放軍に包囲されている。
フランス軍からはベトコンを駆逐せよと

命令が飛んできている。彼らは日本軍と戦わない。
そのかわり徹底してフランス軍には抵抗したため
部下の分隊は戦わずメコン川の向こう岸で孤立している。
 
ベトナム解放軍へ告ぐ、日本人として最後の訴え
光橋中尉が出動し、橋を守る
解放軍兵士の士官と話をしたが
フランス軍の指揮下とあれば頑なに橋を通そうとしない。

 
彼らは要求を断り「帰れ帰れ」と言いながら、なぜか
あたたかい食事を用意してくれる。それでいてお互いに
「向こう岸へ通せ」、「嫌だ、絶対に通さん」と繰り返し
拳銃を突きつけあっている。
不思議な関係だった。ついに光橋中尉は決心する。
 

「お前ら!もう俺たちは戦争に負けて日本へ帰るんだから
独立するんならしっかりやらなきゃダメだそ!」
 
日本は戦争に負けた。それなのに、
2、3年すれば日本は再び強国になってベトナムに戻ってきてくれると
本気で信じていたベトナム民が多く存在したからだ。
 
「俺はもう話さんぞ!時間切れだ!向こう岸へ渡る!
お前らの好きなようにしろ!撃ちたければ撃て!」
 
光橋中尉は解放軍の士官にそう言い残すと、橋を渡り始めた。
向こう岸に残る部下を救うために。
 
ベトナム解放軍の士官と兵士は最後のセリフに圧倒され
黙って見ていた。
 
一方、アンコールワットの東側では、ハノイに近く
日本軍にも敵意をむき出しにして南下するホーチミン将軍と
氏木中隊が戦っていた。
 
つづく
 
また、少しずつ書きます。

2015年10月19日 (月)

全国書店での注文・図書館へのリクエストが可能になりました

拙著『パラオ戦跡を巡る』が全国の書店で注文可能になりました。
また、図書館への蔵書リクエストもできるので、お近くの図書館で
リクエスト用紙に書いてくださいますと、たいへんありがたいです。
何卒、よろしくお願い致します!
 
いずれもタイトルと著者名を伝えるだけで
OKですがこちらの書籍バーコード(二種類)
をプリントアウトするか、番号をメモして持って行ってくださると
係の方の調べる手間が省けるのでスムーズです。

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2015年10月17日 (土)

那須塩原市での講演会

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今日は那須塩原市で講演会を行いました。
多くの戦没者ご遺族ならびに、那須塩原市長、国会議員の方も
お見えになりました。

  
しかし相手がどなたであろうと、私の気持ちは同じです。
是が非でも伝えたいことがあります。
  
大勢の前でお話しするのは苦手なのですが、
不器用なりに、想いを精一杯喋ったつもりです。

2015年10月12日 (月)

天皇陛下のアンガウル島拝礼

天皇陛下のペリリュー島・アンガウル島拝礼

にわかに信じられませんが、本当の話です。
私は天皇陛下のペリリュー訪問が決まったときから、
同様にアンガウルの戦没者も慰霊して頂きたいと
方々で何度も何度も訴えてきました。
 
その私の記事を、宮内庁の侍従か侍従長がご覧になって、
陛下のお耳に入ったとのことでした。

アンガウルの拝礼は「篠原さんがきっかけです」と
宮内庁の侍従の方が仰っていましたから間違いありません。
 
両陛下はペリリュー島の戦没者慰霊碑に菊の花を手向けられた後、
防波堤の方へ進み出てアンガウル島へ拝礼されました。
この、アンガウル島への拝礼は当初、予定になく
陛下のご意向で当日決まったことでした。
 
アンガウルで散った千二百余名の戦没者の方々の慰霊と
周知のため、私が少しでもお役に立てたなら、
よかったと思います。