2015年9月26日 (土)

江草隆繁少佐の九九式艦上爆撃機

九九式艦上爆撃機 江草隆繁少佐機01

九九式艦上爆撃機江草隆繁少佐機02

Copyright Raimundo79 / Shutterstock.com

江草隆繁少佐の九九式艦上爆撃機

機体は艦爆の神様と呼ばれた江草隆繁少佐の九九式艦上爆撃機である。
江草隆繁少佐の九九艦爆は海軍の指揮官機の中でも
もっとも派手で知られる。イラストは真珠湾攻撃で蒼龍艦上の機体を
再現した。
 
帝国海軍で江草隆繁少佐と双璧を成すといえば
雷撃の神様と名高い、村田重治少佐である。
 
海軍搭乗員はいずれも頭の切れる人物ばかりなので
優劣を付けることは出来ないが、今回は江草少佐に登場頂くことで
帝国海軍の一端が垣間見えよう。
 
その江草少佐の戦いに、ぜひとも触れておかねば
ならない。江草少佐の戦いは『艦爆隊長江草隆繁/上原光晴』にもっともよく
記されている。これから紹介するエピソードは、ほんの一部分でしかないから、
何かの縁で、この派手なペイントの九九艦爆に興味を持ったなら
ぜひ、江草少佐の生き様を、本で読んで知ってほしいと願う。
 
◆江草隆繁少佐
 
明治42年9月4日生まれ。
真珠湾攻撃時31歳。
広島県芦品郡有磨村出身。海兵58期。
海軍艦爆操縦員。「艦爆の神様」
身長は166センチ前後と伝わっている。
当時としては平均より高く、がっしりとした印象だった。
 
江草を回想するとき、誰もが「冷静沈着」と評する。
先にも記した通り、海軍軍人なら冷静で頭のきれる者は
数多存在するがその中でも江草ほど頭脳明晰かつ冷静な
人物は居ない。そして武人であった。
 
◆小瀬本国雄一の回想
 
小瀬本は江草の部下として真珠湾攻撃に参加。
その後、マリアナ沖海戦では「彗星」に乗り換え
最後は第751海軍航空隊で「流星」に搭乗。艦爆一代で
生き抜いたが、昭和20年8月15日午前、木更津基地より特攻出撃した
人物である。
 
以下は昭和16年10月、富岡基地で訓練に励んでいた
小瀬本国雄一等飛行兵の回想である。
 
『艦爆一代/小瀬本国雄一』
『艦爆隊長江草隆繁/上原光晴』
『サムライたちの真珠湾/早瀬利之』
 
より引用しながら、ほんの一部分を書く。
小瀬本はもとより「加賀」乗り組みであった。
居心地の良い加賀から突然の蒼龍転属命令を受け
やや消沈しているところであった。荷物をまとめていたところ
爆音がするので滑走路に目を向けると
一機の九九艦爆が着陸するところだった。
 
◆「おかしな模様の飛行機ダナァ」
 
尾翼に「蒼龍」のマークが入っている。
胴体後部には濃緑の地に黄色のペンキで虎縞の模様が
一面に塗られている。変な飛行機だった。
 
九九艦爆から降りてきた士官は用をすませると
小瀬本のそばへやってきて「小瀬本か」と声をかけた。
思いのほか優しい声に小瀬本はちょっとびっくりした。
これが江草と小瀬本の出会いであった。
 
「荷物は飛行機に積んで一緒に行こう」
 
隊長がわざわざ迎えに飛んできてくださったのかと
思うと小瀬本の不満はいつの間にか消えていた。
小瀬本が同年兵一人一人と肩を叩き合って別れを
告げている間、江草は黙って待っていた。
 
「加賀」の艦爆隊員全員が見送りの位置に着いた。
江草は黙って見送りの人々に一番近い離陸線に
九九艦爆をつけた。無言の思い遣りに小瀬元は胸を熱くした。
 
九九艦爆は総員が帽を振る中、快晴の空へと舞いあがった。
江草は機内で家族のことや「加賀」での訓練状況を話し合った。
こうして小瀬元は「蒼龍」へ転任し江草の艦爆隊に編入された。
 
◆真珠湾攻撃
 
真珠湾攻撃で江草は
第二次攻撃隊の急降下爆撃隊総指揮官であった。
江草の率いる第二次攻撃隊急降下爆撃隊の九九艦爆は
総数78機。それぞれの母艦から発進し
「蒼龍」「飛龍」「加賀」「赤城」の順で編隊を組んだ。
濃緑色の地に虎の縞模様の入った指揮官機は
すっかりおなじみになっていた。
 
指揮官機のスピードは速すぎても遅すぎてもいけない。
編隊を混乱させてしまうからだ。
78機を引っ張る江草機は遠くからも視認が容易であった。
GPSの無い時代、編隊からはぐれることは死に直結する。
 
江草は操縦席の風防をいっぱいに開け
仁王立ちになり四方八方に目を配らせている。
これは江草の習慣で
風防に付着したゴミを艦船と見誤る恐れがあるためと言っていた。
  

江草隆繁少佐の九九式艦上爆撃機

▲真珠湾へ出撃する蒼龍艦上の江草隊 
 
第二次攻撃隊急降下爆撃隊第一中隊二十小隊は
次の通り
 
一番機(虎縞の九九式艦爆)
江草隆繁少佐/操縦
石井樹飛曹長/偵察
 
二番機
山崎武男二飛曹/操縦
遠藤正/偵察
 
三番機
川崎悟三飛曹/操縦
高橋亮一一飛曹/偵察
 
江草小隊の三機を先頭に九九艦爆78機が
大編隊で真珠湾へ向かう。
第二次攻撃隊は第一次攻撃隊の発艦後間もなく出撃。
 
午前3時23分、
飛行中の各機機上において「トラトラトラ」(われ奇襲に成功せり)を
傍受した。
無線には華々しい戦果が続々と入ってくる。
第二次攻撃隊各機は「今度は俺たちの番だ」と指信号で成功を誓い合った。
 
午前4時10分、第二次攻撃隊はオアフ島北端のカフク岬に姿を現した。
江草指揮の急降下爆撃隊は
オアフ島を右に見てカネオ飛行場へ近付いて行く。
 
江草隊がオアフ島上空へ到達したとき、高度は4000メートル
真っ黒い雲がたちこめていた。よく見ると雲では無く
敵の高角砲による猛烈な弾幕であった。湾内は見えない。
 
ようやく湾内の様子を視認すると
停泊中の戦艦何隻かは既に撃沈され、炎を上げ
重油を流し、真っ黒な煙があがっている。その間にも
爆風で翼が震え、対空砲火は以前熾烈を極める。
まだ江草指揮官機から「トツレ」(突撃体制とれ)が
下令されない。
 
・・・・まだか、まだなのか
すると江草機は大胆にも4000メートルという
リスキーな高さから大編隊のまま弾幕を突っ切って
湾上空を大きく旋回し、悠々と一巡した。江草指揮官機の行動は
第一次の戦果確認と第二次攻撃の目標の見極めであった
じつに冷静沈着であった。
 
江草機が小さくバンクを振る。ついに「トツレ」の下令である。
江草艦爆隊は瞬く間に編隊を解散し、一本棒の突撃陣形を形成した。
各機の感覚は最初は200メートル間隔だったのが50メートルまで
グングン縮めてプロペラの先端と尾翼が触れそうなほどである。
 
間もなく「ト連送」(突撃せよ)が発進され
江草を先頭に、急降下爆撃を開始する。
真っ赤なアイスキャンディーのような対空砲火の中を
果敢にダイブして行く九九艦爆。爆弾を投下すると、ダイブブレーキ
(急降下制動版)を展開する。
身体には13Gがかかり、引き起こしにかかる。
真っ赤な炎が上がった。命中。
 
後続の機体も次々とダイブし戦艦に爆弾を叩きつける。
米軍側の反撃体制が整い最も接近戦を行ったゆえ
江草隊は真珠湾攻撃に参加した隊の中で最も損害が大きかった。

最も損害が多かった江草艦爆隊
 
第一次攻撃の損害9機
(雷撃機5、急降下爆撃機1、戦闘機3)に対し
第二次攻撃は20機が未帰還。
 
この内、江草の急降下爆撃隊(九九艦爆)は
14機が未帰還となっている(戦闘機は6機)
九九艦爆は二人乗りなので28名が戦死ということになる。
 
川崎悟三飛曹と高橋亮一三飛曹ペアの
九九艦爆も炎に包まれ自爆した。
 
江草機も被弾していた。後部座席の石井樹偵察員が叫んだ
 
「被弾しました!燃料が漏れています!」
 
これは帰艦の見込みが失われたので自爆しましょうという石井の
訴えであった。
ところが江草は大声で
「飛ぶんだ!」と後席の石井に伝えた。
 
蒼龍へ帰還すると派手な虎縞模様の指揮官機は
予想通り敵の格好の目標となり穴だらけだった。燃料はカラだった。
 
真珠湾攻撃の一部を紹介したが
江草はこの後もジャワ沖、印度洋等で活躍し多くの連合軍艦船を撃沈した。
ミッドウェイで母艦を失った後、第521海軍航空隊へ転属となる。
 
昭和19年6月15日
第521海軍航空隊所属の江草は銀河に搭乗し、ペリリュー島を発進
マリアナ沖の機動部隊に雷撃を敢行し未帰還となった。
享年34。戦死後大佐に昇進。
 

▲黎明の蒼龍艦上。発進を待つ江草隊

 

2015年9月12日 (土)

安否報告

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御心配おかけしました。

ひとまず本人は無事です。 たくさんの励ましのご連絡、
本当にありがとうございました。

 
しかし水没により虎の子の愛車を失ってしまいました。
※写真は完全に水没する前に撮影したものです
 
メインCPUから張り巡らされた電気系統が全て ショートしてしまいました。
修理不可能ということで廃車が決定しました。
塗装も改造も修理も手掛けてきましたがこんな別れ方になるとは
思いませんでした。

 
新しい車を買う余裕もないので
少し考えることにします。

2015年8月12日 (水)

天皇陛下ペリリュー島訪問の裏話その2

陛下がパラオを訪問された時のエピソードです。
ペリリュー島の西太平洋戦没者慰霊碑へ陛下が到着する前
参列者に向けて、宮内庁職員から次のような通知がありました。
 
「もし、雨が降った場合ですが、参列者の方々は必ず、雨具を身に
着けるようお願いします。陛下は、参列者(国民)の一人でも雨に濡れているのを
ご覧になると傘をお使いになることを、固く辞退なさいます。ですから、
何卒、お願いします」
 
当日は好天に恵まれましたが、そういったエピソードがあったことを
ここに記しておきます。

2015年8月10日 (月)

パラオ戦跡ガイドブックを発売しました

 

拙著『パラオ戦跡を歩く』お陰様で本日発売となりました。
図や写真メインのビジュアル重視の本となっています。
現地MAP、ペリリュー島、アンガウル島の戦史資料
戦場写真などが付属します。
 
販売ページから少し立ち読みが出来ます。
http://www.amazon.co.jp/dp/4908593019

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2015年7月30日 (木)

軍隊の無い国パラオ

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世界には色々な事情を抱えた国があるということを伝えたい。
 
画像は「コンパクト・ロード」。パラオ本島を一周する総延長78kmの
初めての舗装道路。台湾(中華民国)の援助によって建設された。
パラオは台湾(中華民国)を国家として認めている。
台湾の援助額と親密さはこの道路が証明している。
 
対照的に中華人民共和国とは国交が無い。
一昨年には同国の密漁船と銃撃戦を展開して双方に死者が発生した。
パラオは小国なので沿岸警備隊も充分に機能していない。EEZと領海侵犯を
行う中華人民共和国の密漁船が問題になっているが、必死の抵抗を
見せている。
 
独立を決断したパラオ
パラオは世界でも珍しい軍隊の無い国家である。
1978年に米国領より独立を宣言し、8回に渡る住民投票の末、
92年、米国領からの独立を国民自身の手により決断した。
ただし、ビキニ環礁(隣国マーシャル)の核実験でパラオ国民の核に対する
反感は非常に厳しいものとなっており、パラオには非核条約があり続ける。
 
独立後も安全保障を米国軍に委ねるパラオは依然として
強大な軍事力を持つ米軍と核兵器の傘下にあるという、矛盾が生じる。
よってこれを棚上げする形で独立が決定した経緯を持つ。
 

19compactroad06
 
独立できなかったグアム
ついでなので、隣のグアムに目を向けてみよう。世界中で米軍による
パワーバランスが働いていることを忘れてはならない。
 
グアムには、米軍の大航空拠点がある。グアム島の面積は
淡路島と同じ程と仮定して、このうち米軍基地が占める割合は
現在およそ33%。オキナワから海兵隊が移転すると47%に増大する。
グアム島の半分は基地になる。グアムは米国領だが、住んでいるのは
チャモロいう現地人で、大統領選の投票権すらない。
その負担は計り知れない。
 
関連記事
幻のチャモロ共和国~なぜグアムは独立できなかったのか

2015年7月20日 (月)

パラオ戦跡を歩く 8月初旬発売です

『パラオ戦跡を歩く~ペリリュー・アンガウル戦記』が8月初旬
販売となります。ぜひ、よろしくお願い致します。
  

Photo

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P1

 
昨今、パラオはリゾート地として多くの日本人観光客が
訪れるようになった。戦跡ツアーも存在するが、いずれも
戦車や大砲を見物するだけで具体的な内容には触れず
に終わってしまう。
 
観光客が持つ感想といえば「戦争は絶対に嫌だね」
くらいではなかろうか。なぜ、戦ったのか、そこまで
踏み込んで考えないと
戦争は無くならない。
 
パラオの戦跡について詳しく書かれた本は今まで無かった。
本書はそれら戦跡と戦記と結び付けて紹介し
考えるきっかけを促すものである。
 
ペリリュー島守備隊は七十一日間、アンガウル島守備隊は
三十三日間、最後の一兵まで戦うことで祖国の安泰を切望した。
 
~まえがきより~

2015年7月 9日 (木)

新国立競技場建設問題について日本人として思う事

 
新国立競技場建設費高騰の問題、

街頭のテレビインタビューに対し、その是非と問われた男性は
「外国の人に自慢できるじゃないですか」と答えていた。
 
この答えは元来日本人の本質とかけ離れたものであり
合理性にも欠ける。
  
巨大な建築・建造物をもって、余所に
見栄を張るのは本来、日本人がやるべき姿でない。
世界一と評される新幹線やトンネル、橋の建設は、日本人自身が
必要性に迫られて、先輩方が苦労して築き上げたものだ。
これらの建築・建造物は
結果として、外国人に喜ばれているが
自慢しようと意図し造られたものでない。
 
日本を訪れた外国人が何に対して喜ぶのか
もう一度、初心に帰って考えてほしい。滝川クリステルが
五輪のプレゼンテーションで
「おもてなし」と発言したのを皆、すっかり忘れている。
 
結論を言う、スタジアムは要らない。必要なのは
おもてなしだ。
建設費2500億円と、完成後も維持にかかる膨大な資金を
もっと、きめ細かなサービスの数々に活用すべきである。
例えば、綺麗なトイレを数多く整備して、それを維持する。
 
そういった日本人の親切さや、几帳面さこそ
外国人がもっとも喜び、最高のお土産になるに違いない。
せっかく日本にお越し下さったのだから、気持ちよく帰ってもらおう。
でかいスタジアムなど、すぐに記憶から消える。
近代的巨大建築物が見たいのなら、とっくにドバイにでも行っている。
  
戦後、日本人は急激に豊かになり過ぎて、知恵を絞ったり
工夫することを忘れてしまった。
近代的建築物の建設よりも、自然との調和・共生が
本来日本人のあるべき姿であり、そういったものこそ
外国人が日本特異の文化として好奇心をもって喜ぶ。
五重塔もスカイツリーも竹のようにしなり、地震を吸収する。
頑強さをもって自然に撃ち勝つというのは、神に刃向う恐れ多い行為。
欧米的考えだ。
 
日本人には日本人のやり方しかないのだから、もう一度初心に帰って
本質を見極めるべきと思う。

2015年7月 2日 (木)

YS-11が宇都宮に飛来

YS-11C

  
今日は宇都宮飛行場にYS-11が飛来した!

 
我が家の上空を機体の文字が読めるくらいの低空で
力強いエンジン音を轟かせ、旋回していった!
 
YS-11といえば、
「ゼロ戦」の堀越二郎博士、「飛燕」の土井武夫博士、「紫電改」の
菊原静男博士、「隼」の太田稔博士、そして「桜花」の木村秀政博士
の力を集結して開発した、戦後日本の底力を象徴する翼だ。
 
北宇都宮の飛行場でローパスも見た!
入間の所属機(画像の赤い塗装の機体。YS-11C)で、点検のため
宇都宮へ飛来したらしい。

写真こそ取り損ねたが、しっかりこの目で見た!
目に焼き付けた。 
 
YS11は殆ど引退した。これが

もう最後の機会かもしれないと思うと寂しいが
最後に、それも自宅の上空を飛行する雄姿を拝めて
良い思い出になった。
 
追記
駐屯地で撮影していた航空ファンに聞いたところによると、当該の機体は
入間基地所属の飛行点検隊と呼ばれ
管制塔とのやり取りや各種計器の動作確認等の目的をもって
数か月に一度、定期的に宇都宮へ飛来する。
YS-11のほか、U-125のときもあるとのこと。



 

2015年6月26日 (金)

ベトナム解放戦線(1)

ビルマ木橋

 

戦友会で元第二師団二十九連隊の中隊長だった
三橋元陸軍大尉のお話です。当時、部下であった
石沢氏の話も合わせています。

 
これも取材中ですが、形になり次第、書くことにします。
話の概要は以下の通りです。
 
以下、光橋元大尉の回想より~ベトナム独立を賭けて
大東亜戦争が8月15日に終わったが
我々の戦争は終わらなかった。私はその頃、
カンボジアに駐留してアンコールワット西側の警備を担当していた。
終戦と同時に、戦前、植民地支配をしていたフランス軍
(以後仏軍)が戻ってきてふたたび、植民地体制を築こうとした。
 
ビルマに建設した木橋も、一度破壊されたものを
我々日本軍の工兵隊がもう一度、終戦後に連合軍が
やってくるというのでかけなおしてやった。
 
フランス軍のために死ぬのは絶対に御免だ
ところがフランス軍は脆弱であったため、一旦武装解除した
日本軍に再度、火器の所持を許可し、ベトナム独立軍と戦え、
というのだ。そうは言われても
我々とベトナム人は友達だったから、今更、彼らに銃口を向けること
などできない。
 
なぜ、我々日本人がフランス軍を守るため、戦わなければならないのだ。
そのとき、私は初めて死ぬのが怖くなった。
それまで、日本のためなら、一度は死ぬつもりだった。
お国を守るためなら死ぬのは何ら躊躇いは無かった。
フランス人のために死ぬのは絶対に嫌だ。 
 
かつての仲間へ銃口を向けるが
それでも仕方ないので、我々は、仏軍の指揮下に入り
ベトナムの仲間に銃口を向けたが、全員照準をはずし
空に向けて発砲した。このお粗末な射撃はベトナム人も
理解していたことだろう。
 
連合国の白人兵士が乗ったトラックはベトナム解放軍の
襲撃を受けていた。9月以降もメコン川上流からは
フランス軍兵士の死体が流れて来ていた。おそらくベトコンに
襲われたのだろうと思った。
 
ところが、我々日本人もそのフランス軍の味方になったというのに
彼らは全然襲って来ないのだ。大勢の白人兵を乗せたトラックに
一人でも日本人が混ざっていれば、これを狙うことはなかったのだ。
 
ベトナム独立を賭けて我々と共に戦ってほしい
ある日、ホーチミンの部下が女性を伴ってやってきて言った。
「我々と共にベトナム独立のために戦ってくれないか。日本軍の強さが必要なのだ」
兵士は下士官に、下士官は将校にしてやる。
妻が必要なら紹介するから、ここで家族を築いても良い。
とにかく特別な待遇を用意しよう。 

8月15日からの戦争・・・ 
彼らの独立にかける想いは強かった。
既にベトナム解放軍に加わった日本人兵士も居るという。
 
自分はどうするべきか・・・。
 
つづく

2015年6月24日 (水)

竹田五郎氏のお話(1)飛燕・五式戦での本土防空戦

飛燕

 

最近、ご縁あって、元244戦隊で飛燕と五式戦に搭乗し
B-29邀撃戦に参加された元陸軍大尉でパイロットの
竹田五郎先生にインタビューする機会に恵まれたので
また、少しずつ書くことにします。
 
Q、篠原

竹田先生は飛燕でB-29を撃墜されていますね。
 
A、竹田五郎先生
いや、あれは部下が皆優秀だったんです。
 
Q、高度1万メートルはどうですか
 
A、1万メートルではちょっと姿勢を崩しただけで(翼をやや傾ける仕草)
失速してサーッと2000メートルくらい落っこちちゃう。だから旋回する時も
ほんの少しだけ翼を傾けて、
ちょっとでも角度がつくと、あっという間に
落っこちちゃうから。
 
逆落としの直上攻撃ね、あれはよく本に書いてあるのを私も読みましたが
ほとんど不可能じゃないかなと思いますよ。1万メートルでは。
直上攻撃というより、事実上の墜落に違いです。それで落ちた先に
運よくB-29がいて、
たまたま機関砲がそっちを向いていれば理論上当たる
ということなんでしょうけれど、相当な幸運じゃないと。
 
酸素も薄いから、すぐ酸素を吸引しないとすぐコロっといっちゃう。
ですからB-29を撃墜した、というのは7000メートルくらいじゃないかな。
私もそのくらいなら戦えました。
 
Q、五式戦はどうですか
 
A、あれは良い飛行機でした。
機体は三式戦ですけれど
百式司偵のエンジンを載せてね。
これがもっと早く出来ていれば随分、戦えたんではないかと思いますね。
それでもB-29相手には歯が立ちませんでした。
 
Q、戦後は小林照彦戦隊長とともに86Fで飛んでいますね。
 
A、244戦隊で
小林戦隊長は上官だったんだけれど
それが戦後は、私が86Fパイロットの第2期生、小林さんは
3期生の後輩ということで。
 
最も黎明期に活躍された指宿正信さんは一番最初の1期生でしたね。
そのほかに1期生では同じ海軍で艦爆に乗っていた鈴木瞭五郎さん
という方が居ました。指宿さんは、無口な方で寡黙でとにかく真面目な
方でしたね。
 
あれは浜松だったかな。離陸直後に編隊を組む時、指宿さんが教官で
二番機の訓練生、訓練生とは
いっても海軍時代のだいぶ上の方でしたけどね。
それで編隊を組む時、指宿さんが、ぶつけられた形になって、二番機は
その場で緊急脱出して助かった。指宿さんも
緊急脱出をしたんだけれど
間に合わなかった。
 
指宿さんと小林さん、どっちが先だったかな。
86Fの航空自衛隊の殉職者第一号となってしまいました。※1
 
Q、今度、鹿屋で零戦を飛ばすそうです。
 
A、今はなかなか許可しないね。航空ショーは。
 
Q、アメリカの航空ショーではP-51などで当時のパイロットが飛んでいる
そうです。90代で宙返りしたり。
 
A、私も飛ぶだけならできますよ、空戦をやらなければ(笑)
宙返りと言ったって、あんなものはそう難しくない。
今はちょっと身体がいう事きかないけど、去年や一昨年だったら
できたんじゃないですかね。
 
Q、竹田先生は一式、二式、三式、五式とほとんどの
戦闘機に搭乗されたんですね。
 
A、ええ、私は一式戦の前、九七戦から乗っている。
一式戦、二式単戦、三式戦と、五式戦。四式戦以外は乗りました。
九七戦は地上滑走のほうが難しいですよ。機体が軽いから。
風が強いとなかなか難しいですよ。それでも何とかなりますけれど。
 
最後に、竹田先生の歌声で
飛行第244戦隊歌(飛燕戦闘機隊々歌)を拝聴した。
 


YouTube: 飛行第二四四戦隊歌(飛燕戦闘機隊々歌) 唄:御堂諦

  
飛行第二四四戦隊歌(飛燕戦闘機々隊歌)
 
一、
皇国(すめらみくに)の大空を
醜翼ひとたび侵すとき
高度一萬、厳として
我がつばくろの守りあり
輝く空の梓弓
おゞそは飛燕戦闘隊
 
二、
高く綾なす飛行雲
衝撃一瞬砕け散る
彼方に咲くは白薔薇か
みるみる降る(くだる)神鷲の
瞳に宿る我が愛機
おゞそは飛燕戦闘隊
 
三、
黒潮踊る大洋に
米機を屠(ほふ)る幾そ度
撃墜マーク燦(さん)として
神州守るこの翼
空の近衛と人は呼ぶ
おゞそは飛燕戦闘隊(※注2)
 
作曲:古関裕而
作詞:南郷茂宏
  
A、この歌はあれで見れるんですよ。YOUTUBEで。ただあれは原曲と
節が少し違っていますね。(第42回陸海軍軍歌演奏会軍装会)
女の子が歌っているのもあるけど(おそらく初音ミクのことを仰っている)
やっぱり昔、戦友で歌ったように男性の声で聴きたいですね。
空の梓弓っていうのが確か一番だったかな。
それから実は3番の歌詞があるんですが、太平洋の向こうからやってきた
ことを歌ってますよ。海を越えてきたやつをやっつけるという。※2
 
陸軍士官学校の同期生会で航空は私だけになりましたから
これを知っている人はいないんです。だから機会があれば歌います。
 
それと、いつも同期生会では、会計の人が会費があとこれだけしかないからと
心配しているけど、私は会費よりもいつまで生きられるか、
本人の心配をしたほうがいいんじゃないかと(笑)
 
Q、いえいえ、いつまでもお元気で、またお話を聞かせてください。
 
 
つづく
 
竹田五郎氏のお話し「飛燕」高度1万メートルの戦い(2)
 

証言者プロフィール
竹田五郎元陸軍大尉
大正10年生まれ
第244戦隊で三式戦、五式戦で本土防空戦を戦う。
戦後、航空自衛隊F86Fパイロットを経て、空将、航空幕僚長を
務める。
  
※(1)関連記事
指宿正信大尉~空に生きた武人の生涯

※(2)3番の歌詞は後日、篠原調べ
 
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