2015年6月24日 (水)

竹田五郎氏のお話(1)飛燕・五式戦での本土防空戦

飛燕

 

最近、ご縁あって、元244戦隊で飛燕と五式戦に搭乗し
B-29邀撃戦に参加された元陸軍大尉でパイロットの
竹田五郎先生にインタビューする機会に恵まれたので
また、少しずつ書くことにします。
 
Q、篠原

竹田先生は飛燕でB-29を撃墜されていますね。
 
A、竹田五郎先生
いや、あれは部下が皆優秀だったんです。
 
Q、高度1万メートルはどうですか
 
A、1万メートルではちょっと姿勢を崩しただけで(翼をやや傾ける仕草)
失速してサーッと2000メートルくらい落っこちちゃう。だから旋回する時も
ほんの少しだけ翼を傾けて、
ちょっとでも角度がつくと、あっという間に
落っこちちゃうから。
 
逆落としの直上攻撃ね、あれはよく本に書いてあるのを私も読みましたが
ほとんど不可能じゃないかなと思いますよ。1万メートルでは。
直上攻撃というより、事実上の墜落に違いです。それで落ちた先に
運よくB-29がいて、
たまたま機関砲がそっちを向いていれば理論上当たる
ということなんでしょうけれど、相当な幸運じゃないと。
 
酸素も薄いから、すぐ酸素を吸引しないとすぐコロっといっちゃう。
ですからB-29を撃墜した、というのは7000メートルくらいじゃないかな。
私もそのくらいなら戦えました。
 
Q、五式戦はどうですか
 
A、あれは良い飛行機でした。
機体は三式戦ですけれど
百式司偵のエンジンを載せてね。
これがもっと早く出来ていれば随分、戦えたんではないかと思いますね。
それでもB-29相手には歯が立ちませんでした。
 
Q、戦後は小林照彦戦隊長とともに86Fで飛んでいますね。
 
A、244戦隊で
小林戦隊長は上官だったんだけれど
それが戦後は、私が86Fパイロットの第2期生、小林さんは
3期生の後輩ということで。
 
最も黎明期に活躍された指宿正信さんは一番最初の1期生でしたね。
そのほかに1期生では同じ海軍で艦爆に乗っていた鈴木瞭五郎さん
という方が居ました。指宿さんは、無口な方で寡黙でとにかく真面目な
方でしたね。
 
あれは浜松だったかな。離陸直後に編隊を組む時、指宿さんが教官で
二番機の訓練生、訓練生とは
いっても海軍時代のだいぶ上の方でしたけどね。
それで編隊を組む時、指宿さんが、ぶつけられた形になって、二番機は
その場で緊急脱出して助かった。指宿さんも
緊急脱出をしたんだけれど
間に合わなかった。
 
指宿さんと小林さん、どっちが先だったかな。
86Fの航空自衛隊の殉職者第一号となってしまいました。※1
 
Q、今度、鹿屋で零戦を飛ばすそうです。
 
A、今はなかなか許可しないね。航空ショーは。
 
Q、アメリカの航空ショーではP-51などで当時のパイロットが飛んでいる
そうです。90代で宙返りしたり。
 
A、私も飛ぶだけならできますよ、空戦をやらなければ(笑)
宙返りと言ったって、あんなものはそう難しくない。
今はちょっと身体がいう事きかないけど、去年や一昨年だったら
できたんじゃないですかね。
 
Q、竹田先生は一式、二式、三式、五式とほとんどの
戦闘機に搭乗されたんですね。
 
A、ええ、私は一式戦の前、九七戦から乗っている。
一式戦、二式単戦、三式戦と、五式戦。四式戦以外は乗りました。
九七戦は地上滑走のほうが難しいですよ。機体が軽いから。
風が強いとなかなか難しいですよ。それでも何とかなりますけれど。
 
最後に、竹田先生の歌声で
飛行第244戦隊歌(飛燕戦闘機隊々歌)を拝聴した。
 


YouTube: 飛行第二四四戦隊歌(飛燕戦闘機隊々歌) 唄:御堂諦

  
飛行第二四四戦隊歌(飛燕戦闘機々隊歌)
 
一、
皇国(すめらみくに)の大空を
醜翼ひとたび侵すとき
高度一萬、厳として
我がつばくろの守りあり
輝く空の梓弓
おゞそは飛燕戦闘隊
 
二、
高く綾なす飛行雲
衝撃一瞬砕け散る
彼方に咲くは白薔薇か
みるみる降る(くだる)神鷲の
瞳に宿る我が愛機
おゞそは飛燕戦闘隊
 
三、
黒潮踊る大洋に
米機を屠(ほふ)る幾そ度
撃墜マーク燦(さん)として
神州守るこの翼
空の近衛と人は呼ぶ
おゞそは飛燕戦闘隊(※注2)
 
作曲:古関裕而
作詞:南郷茂宏
  
A、この歌はあれで見れるんですよ。YOUTUBEで。ただあれは原曲と
節が少し違っていますね。(第42回陸海軍軍歌演奏会軍装会)
女の子が歌っているのもあるけど(おそらく初音ミクのことを仰っている)
やっぱり昔、戦友で歌ったように男性の声で聴きたいですね。
空の梓弓っていうのが確か一番だったかな。
それから実は3番の歌詞があるんですが、太平洋の向こうからやってきた
ことを歌ってますよ。海を越えてきたやつをやっつけるという。※2
 
陸軍士官学校の同期生会で航空は私だけになりましたから
これを知っている人はいないんです。だから機会があれば歌います。
 
それと、いつも同期生会では、会計の人が会費があとこれだけしかないからと
心配しているけど、私は会費よりもいつまで生きられるか、
本人の心配をしたほうがいいんじゃないかと(笑)
 
Q、いえいえ、いつまでもお元気で、またお話を聞かせてください。
 
 
つづく
 
竹田五郎氏のお話し「飛燕」高度1万メートルの戦い(2)
 

証言者プロフィール
竹田五郎元陸軍大尉
大正10年生まれ
第244戦隊で三式戦、五式戦で本土防空戦を戦う。
戦後、航空自衛隊F86Fパイロットを経て、空将、航空幕僚長を
務める。
  
※(1)関連記事
指宿正信大尉~空に生きた武人の生涯

※(2)3番の歌詞は後日、篠原調べ
 
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沖縄・喜屋武岬で戦没者を想う

喜屋武岬(沖縄)

 

はじめて沖縄へ行ったのは15歳か16歳の頃だったと思う。
東京の晴海からフェリーに自転車を積んで海上で2泊3日。
鹿児島県の志布志と奄美大島を経て那覇へ着いた。
 
早速、慰霊をしようと思って那覇の市街地を抜けて糸満市へ
サトウキビ畑を抜けて、最南端の喜屋武岬まで来た。
「ここが、あの喜屋武岬か」と思った。

 
米軍に追い詰められ断崖絶壁から身を投げた多くの方々の冥福を祈った。
既に日が傾いていたので、「よし、ここで一晩、過ごして亡くなった方々に
寄り添ってみよう」そう考え、岬で
野宿することに決めた。
とても風が強かったが、なんとか耐え忍んだ。
 
深夜2時ごろ、車に乗った男女の若者集団が遊びなのか知らないが
突然やってきたので、ムクリを起きたら、向こうが驚いていた。
それ以外は朝まで誰もこない、漆黒の闇の静かな夜だった。
灯台の明かりと、それを回すモーターの音が鈍く響いていた。
 
とにかく、この喜屋武岬で、
一晩、亡くなった方に寄り添い、祈り続けることができた。
沖縄へ着いて一日目の夜だった。

自分ひとり、闇の中、 
この世とあの世、どちらに居るかわからないような
不思議な夜だった。

2015年6月22日 (月)

戦友会を運営して思う事(3) 戦友の思い出

戦友というものは特別な存在だ。
 
昨今、若い人たちが苦労を分かち合った仲間や同僚を
本来の意味をはき違えて軽率に戦友と呼んでいたりするが、
それは適切でない。
 
戦場で散った戦友は
一生、忘れられないものである。
自らの一生を捧げ、供養を続ける人
あるいは自責の念から「あのときあいつが死んだのは自分のせいだ」
と、戦後ずっと自分を許すことができず苦しんでいる人も多い。
 
戦友会のメンバーである
水足氏と富安俊助氏はポン友(親友)だった。
家が向かいだったので、よく一緒に学校へ行ったという。
中学卒業後、水足氏はお国の為、命を捧げる覚悟で陸軍士官学校へ、
そして富安俊助氏は日本の将来を担うべく早稲田大学へ進学した。
水足氏は
「成績は富安より僕の方がよかったんだが」と笑いながら当時を
回想する。
 
水足氏は陸軍士官学校卒業後、陸軍大尉まで進級し中隊長として
ビルマへ出征。最前線で死を恐れず戦ったが
奇跡的に生還し復員した。
 
戦争は悲惨で運命は残酷だ。富安俊助氏は学徒動員で
海軍中尉を任官し、特攻隊となり、南溟に散っていたのである。
 
そして戦後、長らく経ってから、富安中尉の
戦死の状況が判明した。エンタープライズに

体当たりを成功させたゼロ戦は
富安俊助中尉の機ではないか?との知らせが入った。
 
詳しくはこちらをご覧頂ければと思う。
永遠のゼロのモデルは存在した
富安俊助中尉とエンタープライズ 
 
水足氏によれば
「2.26事件の、あの雪の日も一緒に富安と一緒に学校へ行った。
交通手段が全部止まっていたから、歩いて行ったんだけれど
妙に静かだった。馬に乗った陸軍将校が伝令に走り回っている。
そのときは富安と二人で、何も知らなかったんだが
校門前に着いて、ようやく事態を知って。二人で顔を見合わせて驚いてね、
もちろん学校は休みだというので帰ってきたんだ。」
 
「富安はハーモニカが得意だったな。ハーモニカのバンドをやっていた。
人気者で、僕は下手なんだけど」
 
そういって水足氏自身もハーモニカを取り出し演奏してくれた。
 
「あのビッグE(エンタープライズ)に富安がね・・・。
霞ヶ浦の航空隊へ入って、訓練時間などそんなに無かったはずだ。
僅かな間でどうしてそんな技量を身に着けたのかと思った。
500キロの爆弾を抱いて、水平飛行をして、ビッグEに接近して
それではダメだというので機体を翻して、雲の切れ目から
真っ逆さまにビッグEの飛行甲板に突っ込んだんだ」
 
親友、富安中尉の勇敢な最期だった。
これもひとつの戦友の記憶である。

2015年6月20日 (土)

NSXパトカー

NSXパトカー

NSXのパトカーを久々に見ました。この車体は
鹿沼ICの県警高速隊鹿沼分駐所に配備されており

待機中はガレージに入っています。
 
私はICの近所に住んでいるので、このNSXパトカーが付近の一般道を
走っているのを度々見るのですが(逆に東北道を走っている姿を見た事ありません)
ほとんど運転中のため、
すれ違っても、写真を撮れず、今回は運良く助手席
だったので撮影できました。
 
この車体はリトラクタブルのモデルですが、栃木県警は固定ライトの
モデルも所有していたはずで、そちらも何度か私は見ています。
そっちは最近、見ないけど、廃車になったのかな?
噂では事故を起こしたとか言われてますけど、噂なので真相はわかりません。
とにかくリトラの方は元気です。平成27年6月現在。
 
以下の写真は以前、喜連川のイベントで撮影したもので
同じ車体ですのNSXパトカーです。

NSXパトカー

 
以下、過去記事より
栃木県警が誇るNSXパトカー仕様です。
NSXのパトカーは2013年現在、世界に一台きりです。
日本で一番速いパトカーかもしれません。
  
栃木県はHONDAの重要生産拠点となっており
HONDAから地元貢献事業で県警に寄贈されたお車です。
お巡りさんに尋ねたところ、現役で
栃木県警高速機動隊に所属し、東北道を走っているそうです。
しかし、このパトカーで取り締まりを行うことは原則的にありません。
2シーターで、切符を切るには不向きな為
主に新人の育成訓練に用いることが常だそうです。
  
確かに、考えてみれば必要ありません。
NSXのパトカーが走っているだけで
十分な抑止力が発揮できるので
取り締まる機会は皆無ということでした。
 
 
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Imgp2913Imgp2935_3
 
 
それでも万が一、この車の前へ出るような違反者があれば
パーキングへ誘導すれば良いだけですから、検挙は可能であります。
助手席にはきちんと速度計測器を供えておりました。
赤色灯はパトライト社製のエアロブーメランを備えております。  
 
 
Imgp2938Imgp2941  
Imgp2917Imgp2939
 
 
当然リミッターも無し!そのほかはおおむね純正のようです。
タイヤはグッドイヤーでした。リミッターはないそうです!
私はお巡りさんに根掘り葉掘り、直接聞きましたから!(笑)
それが本当かどうかはまた別ですけど!
 
こちらのNSXパトカーは「三菱ふそう&さくら市 はたらく車を体験しよう 2013」
イベントにて展示されました。

2015年6月19日 (金)

彗星艦上爆撃機の型式一覧

彗星/艦上爆撃機/型式一覧

 
◆艦上爆撃機「彗星」

彗星は愛知航空機が開発し帝国海軍で運用された
艦上爆撃機。九九式
艦上爆撃機の後継機として開発が進められ昭和17年に
正式採用された。
大幅に向上した速度と機体剛性により、完全格納式の爆弾倉に
収められた
500キロ爆弾を急降下爆撃により敵艦船へ叩きつけ戦果を上げた。

 
ダイムラーベンツ社製でメッサーシュミットBf109にも装備された
水冷エンジン、DB-601のライセンス
生産型である日本海軍名「アツタ」
エンジンを採用したが、日本海軍は水冷式に不慣れであったため
稼働率の低下を招いたという説がある。
 
◆DB-601エンジンと陸海軍の確執
機体は日本機離れしたシャープな印象があるが、
同じエンジンを用いたのは
「彗星」のほかに陸軍の三式戦「飛燕」、海軍の「晴嵐」と三機種のみで
あり、
極僅か。さらに陸海軍の確執により、「飛燕」と「彗星」のエンジンは互換性
がなく
同じエンジンであるが互いに融通し合うことができなかった。そのため
純国産三菱製の金星エンジンに
換装され、終戦まで運用された。四三型は
ロケット推進機なども備えた。

 
彗星はその機動性と敵戦闘機との空戦にも耐えうる機体性能だったことから
敵陣に突入し挺身偵察を行う強行偵察機としても運用された二式艦偵ほか、
戊型は斜め機銃を
備え、夜間戦闘機として本土防空戦におけるB-29撃墜
にも活躍した。


◆航空戦艦「伊勢」搭載カタパルト射出型  

二二型は航空戦艦「伊勢」に搭載されカタパルト射出された。
この運用方法では艦隊への帰艦は100%不可能であり、建前上は
陸上基地への着陸を前提としたものであったが、空戦では未帰還機が必ず
出るため航空母艦への着艦が求められた。
 
型式一覧 
 
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◆彗星一一型(二式艦上偵察機)/D4Y1-C

全幅11.493m 全長10.22m 全高3.675m 主翼面積23.6㎡ 自重2,565kg
全備重量3,650kg 過荷重量4,361kg 翼面荷重155kg/㎡
エンジン/アツタ21型 離昇1,200馬力 燃料1,083L 増槽330L2個
最高速度/546km/h at 4,750m 巡航速度/426km/h at 3000m
上昇力/5000m/9分28秒 航続距離(増槽装備)/3,339km
武装 7.7mm機銃×2 7.7mm旋回銃
 
敵陣強行偵察機
九九式艦上爆撃機の後継機として十三試艦上爆撃機が正式採用された際、通常艦爆と
艦爆としての機動力を活かし戦闘機の追従からも脱出が可能な強行偵察機モデルの
二派が製造された。一一型は爆弾倉を撤去し、敵陣偵察用のカメラを備えた
モデルで彗星一一型、或いは二式艦偵と称する。唯一の尾輪引き込み式。121空
(雉部隊)では二式艦偵と呼ばず、単に「彗星」と呼称していたようである。
  
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◆彗星一二型/D4Y2・彗星一二戊型/D4Y2-S
全幅11.493m 全長10.22m 全高3.675m主翼面積23.6㎡ 自重2,635kg
全備重量2,835kg 過荷重量4,353kg 翼面荷重163kg/㎡
エンジン/アツタ31型 離昇1,400馬力 燃料1,540L 増槽330L2個
最高速度/580km/h at 5,250m 巡航速度/426km/h at 2000m
上昇力/5000m/7分40秒 航続距離(増槽装備第二過荷)/3,426km
武装 7.7mm機銃×2 7.7mm旋回銃 500kg爆弾×1
 
艦上爆撃機「彗星」
旧来の九九艦爆から大きく進化し、爆弾倉(ウエポンベイ)の扉を開閉式として
500キロ爆弾を搭載が可能となった。機体剛性と三枚のダイブブレーキを活かした
急降下爆撃により、敵艦に500キロ爆弾を叩きつける。本格的に運用されたのは
主にマリアナ沖海戦であるが、敵機動部隊とは四倍以上の兵力差があり、敢闘するも
母艦に帰還できたの機体は僅かであった。一二戊型は後席に斜め銃を取り付け
夜間戦闘機として本土防空戦に活躍した。
 
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◆彗星二二型/D4Y2改(航空戦艦「伊勢」搭載機)
全幅11.493m 全長10.22m 全高3.675m主翼面積23.6㎡ 自重2,635kg
全備重量2,835kg 過荷重量4,353kg 翼面荷重163kg/㎡
エンジン/アツタ31型 離昇1,400馬力 燃料1,540L 増槽330L2個
最高速度/580km/h at 5,250m 巡航速度/426km/h at 2000m
上昇力/5000m/7分40秒 航続距離(増槽装備第二過荷)/3,426km
武装 7.7mm機銃×2 7.7mm旋回銃 500kg爆弾×1
カタパルト射出機
 
彗星一一型・一二型をベースにカタパルト射出を可能に改造したモデル。
航空戦艦「伊勢」のカタパルトから射出発艦した。艦隊への帰艦は不可能で
カタパルト射出出撃後は友軍地上基地への着陸が建前上前提とされた。
実際には多くが未帰還となったほか、未帰還機の増加で搭載機に空きが出た
航空母艦への着艦が求められた。 
 
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◆彗星三三型/D4Y3・彗星三三戊型/D4Y3-S
全幅11.50m 全長10.22m 全高3.74m 主翼面積23.6㎡ 自重2,501kg
全備重量3,751kg 過荷重量4,657kg 翼面荷重159kg/㎡
エンジン/三菱「金星62型」離昇1,560馬力 燃料1,040L 増槽310L2個
最高速度/574km/h at 6,050m 巡航速度/370km/h at 3000m
上昇力/6000m/9分18秒 航続距離(第一過荷)/2,911km
武装 7.7mm機銃×2 7.9mm旋回銃 500kg爆弾×1 または翼下250kg爆弾×2
 
不慣れなアツタ液冷エンジンの運用により稼働率低下が相次ぎ、空冷の三菱製金星に
換装したモデル。機体の構造変更も施したが、エンジンを取り替えたといえば解り
易い。幻の最終型零戦六四型/五四型丙と同型の金星エンジンという説がある。
戊型は一二型と同じく、斜め銃を取り付けた夜間戦闘機型。
宇垣纏中将、中津留大尉が8月15日に特攻隊として大分飛行場から
出撃したモデルとして有名。
 
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◆彗星四三型/D4Y4
全幅11.50m 全長10.22m 全高3.74m 主翼面積23.6㎡ 自重2,635kg
全備重量4,542kg 過荷重量4,733kg 翼面荷重193kg/㎡
エンジン/三菱「金星62型」 離昇1,560馬力 燃料1,345L
最高速度/552km/h at 2,600m 巡航速度/333km/h at 3000m
上昇力/5000m/9分22秒 航続距離(突撃第一)1,654km 
(突撃第二)1,550km(空輸第二)2,593km 武装 800kg爆弾×1
 
三三型の機体腹下を大きく切り抜いて、800キロ爆弾を吊り下げ可能に
改造したモデル。戦局を凌ぐ為、急造されたのと、航空母艦が壊滅したため、
艦上での運用はされず、着艦フックは撤去された、名目上は艦上爆撃機であるが
陸爆、或いは事実上の特攻機でもあった。重くなった機体を増速させる為
ロケット推進機を6本取り付けた。ロケット装備機は実戦投入前に終戦となる。
 
------------------------------
  
彗星という飛行機について思う事
パラオ・ペリリュー等に残骸として残る、或いは墜落した彗星の機体を
実際に何機か見てきたから思い入れが強い。アルミ合金の機体外板は
そのままに、
計器や艤装部品も実に洗練された作りになっている。
彗星は
間違いなく傑作機であるのだが、本格的に運用された昭和19年
前半は日米の兵力差が最も顕著になってきた頃であり、
海軍はそれでも
まだ成功法で連合軍と戦っていた。確かに彗星は傑作機であるが
5倍も10倍も敵との差があれば生還は望めない。それでも敵艦を
強襲し
撃沈していたのである。その功を、散って行った多くの搭乗員を
忘れてはならないと感じる。
 
彗星は新鋭急降下爆撃機としての威力を十分に発揮することなく
大戦末期には特攻に多く用いられた。
平成26年の夏に中津留達雄大尉のお嬢さんが
宇垣中将特攻の件でテレビに出演していたので驚いた。
8月15日に戦死したことを悔やんでいるのは勿論だと思ったが、それでも
「父を誇りに思います」とコメントしていたのが印象的だった。
 
宇垣の取った行いを私兵特攻だと批判する者も多いが、人物評価は
別として、
武人であったことは確かだ。宇垣は『戦藻録』で
「皆死ね、皆死ね、俺も死ぬ」と書き残している。
終戦後、ここまで復興した日本を当時、誰が想像しただろう。
現在の物差しで特攻を、当時の出来事を良いとか悪いとか
後出しジャンケンのように批判することなど本来ならできないはずだと思う。
  
彗星画像

彗星と航空戦艦日向

彗星/艦上爆撃機

▼平原政雄大尉の二番機だった小松幸男飛曹長と国次萬吉上飛曹ペアの彗星

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

  
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Photo

 
◆関連記事
 
パラオの彗星/墜落現場へ~永元俊幸大尉
航空機に見る日本陸海軍の確執
朝日村に不時着した彗星
宇垣纏中将8月15日特攻出撃の跡地へ

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◆◆◆

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

伊400 フリー素材

400_3

伊400のフリー素材を作成しました。
ダウンロード使用できます。
詳しくは以下をご覧ください。 
 
画像使用についてのお願い


Zenttai

▲伊400型潜水艦喫水線上

Kissuisen_2

▲伊400型潜水艦全体

2015年6月18日 (木)

飛燕パイロットへのインタビュー

今日は元陸軍戦闘機パイロットの竹田五郎さんにインタビューしてきました。
竹田さんは小林戦隊長率いる第244
戦隊所属の本土防空戦闘機隊で
愛機「飛燕」で高度1万
メートルのB-29を撃墜しました。
 
竹田元大尉は、九七
戦、一式戦、二式戦、三式戦、四式戦、終戦直前には
五式
戦と、全ての戦闘機にお乗りになっています。戦後は航空自衛隊
F86Fの日本人初のパイロットとして活躍され、
空将、航空幕僚長を
お勤めになりました。お聞きしたいこ
とはたくさんあるのですが、
ご高齢の為インタビュー時間
に制限を設けて何度か足を
運んでやっています。あとでま
とめて記事にします。
 
この他にも、「雷電」搭乗員でP-51と空戦を展開さ
れた
方や、マリアナ沖海戦、最後の空母瑞鶴ゼロ戦パイロット
真珠湾攻撃に参加した「加賀」のゼロ戦隊長など
 
インタ
ビューの予定があるのですが、私はアマチュアですので
旅費の都合でなかなか実現できずそれでもなんとか
お元気なうちに、お話を伺うことを目標にやっていきます

2015年6月15日 (月)

羽根空港午前二時(1)

Haneda92_2

 

東京国際空港(羽田空港)で深夜、アルバイトをしていた。学生時代。
夜の滑走路の真ん中を走ると、無数の誘導灯が点在していて
宇宙の中を散歩しているようで綺麗だった。
 
空港で働いてみて、一機の飛行機を飛ばすのに大勢の人が
関わっていることが理解できた。夜通しで機体の整備をする
航空整備士や滑走路を点検する人、様々だった。
 
勤務は22時に始まる。フライト終了後の機体を翌朝までに
綺麗に清掃する仕事だった。学校が終わってから漫画喫茶で少し仮眠を
取ってからほとんど乗客のいないガラガラのモノレールで通勤した。
夜の羽田空港ターミナルには人もまばらで売店やレストランも閉店し
静かだった。出発ロビーへ突き抜ける長いエスカレーターを上がって行く。
空港敷地内へ幾重ものゲートを通過しようやく中へ入る。
 
バイトの仲間も多様だった。
 
A君は根っからの飛行機マニアで
このバイトのために山梨県から連夜通っていた。
かかる時間を交通費を相殺すればバイト代は僅かであったのに
彼は飛行機が好きで、毎晩、飛行場内に入るだけでもウキウキして
バイト代は二の次という印象だった。移動中は詳しく飛行機の解説を
してくれたり、みんなが疲れて寝てしまっていても、ひとり滑走路を眺めていた。
 
Bさんは昼間は東京ディズニーシーのキャストとして
働いていて、飾り気の無い笑顔が素敵な女の子だった。
キャストというのが花形だったらしいけど、どこだったっけな。
自分もディズニーランドが好きでバイトの面接までなら
行ったことがあるから、彼女とは色々と話をした。
 
Cさんは無類の免許マニアで、いろいろな種類の
免許を取るのを生き甲斐としている人だった。
彼の免許証欄には普通、大型はもちろんけん引、二輪、
二種も含め取得できる限り、すべての欄を埋めるのが目的なんだとか。
唯一の後悔は普通免許を原付より先に取得してしまったので
原付の欄が空白になっていることだと残念そうに言っていたのを思い出す。
一番の取得困難は「けん引二種」という免許を取ること。
先頭の牽引車量が乗客を乗せた客車を引っ張る
一部遊園地などにあるらしい。免許に費やした金額は相当なものだが
車は所有していない。免許を全種類取得したらレガシイが欲しいと言っていた。
佐藤隆太に似ていて、見た目は無骨だが優しい人だった。
 
画像はドルフィン。見た目が丸くて可愛いしもっとも好きな飛行機。
何より掃除が楽だった。ボーイング747が大変だった。
それと、まだ辛うじてYS11が離島航路に残っていた。
 

戦艦大和・武蔵 フリー素材

戦艦大和・武蔵 フリー素材

Yamato

戦艦大和・武蔵のフリー素材を作成しました。
ダウンロード使用できます。
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2015年6月13日 (土)

原田要さんの話(7)元ゼロ戦パイロットとして平和の大切さを訴え続ける

戦争は二度と起こしてはならない 
戦争ほどの罪悪はない。平和の為に、私は

これを死ぬまで喋り通して一生を終ろうと決めたわけです。
戦争は世界の文化や歴史を壊してしまい、今は科学が発達しているから
戦争は人類の破滅に直結してしまう。
 
何より、若い人たちには絶対に戦争を経験してほしくありません。
それが私の願いです。だから誰が何と言おうと言い通すと、決めました。
 
私は最初、自費出版も4冊も5冊も出しました。それが今は取材もされて
色々な本になっています。今度はニューヨークタイムズにも
掲載されて
世界の反響は非常に大きい。
 
日本、非戦の誓い 
大東亜戦争を10年間やって、結局日本が負けて降伏をした。
日本は戦後、新しい憲法を作って、二度と戦争をしない、軍隊をもたない。
経済を発展させて世界に恩返しをする、そういう理想に近い宣言をしたわけです。
 
世界中にかけた迷惑、一方ではアジアの独立に貢献
日本は自分の能力以上の計画をたてて、戦争をして世界中に
迷惑をかけた、そういう事ですけれども、日本の活躍の見事さに
世界の植民地が自立出来て、
植民地から解放された
それが日本の戦いの残された功績であるとも
言われています。
 
また、そのときの日本のリーダーがどういう気持ちで
日本を引っ張って行ったのか、我々は考えるべきでしょう。
必ずしも私利私欲ではない。その当時は、みんな日本の生存をかけて
一生懸命にやったんだと、そういう考えもあるのではないかと思います。
 
日本は悪いところを一方だけ見るのではなく
良いこと悪いこと、両万全てを見て判断することが
大切なんではないかなと。日本の失敗や成功が世界の国々の
参考になれば良いと考えています。
 
とにかく、絶対に戦争はいけないんだと
私は喋り通しますよ。
 
また来てください。
 

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原田要さんの話(1)撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない
原田要さんの話(2)南京攻略とパネー号事件
原田要さんの話(3)真珠湾攻撃と亡き戦友の思い出
原田要さんの話(4)赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴、飛龍への着艦
原田要さんの話(5)零戦、紫電改、様々な飛行機に乗ってみて
原田要さんの話(6)関行男大尉の教官を務める
原田要さんの話(7)元ゼロ戦パイロットとして平和の大切さを訴え続ける
 

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零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改


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