2015年6月12日 (金)

原田要さんの話(6) 関行男大尉の教官を務める

艦上爆撃機「彗星」

 

霞ヶ浦航空隊へ
私がガダルカナルで撃墜された後、病院を転々として

手もなんとか治ってきて、こっち側の手が、今でもあんまり
握力がないですけれど、なんとか操縦できるようになって
霞ヶ浦の教官を命じられました。その時、私は准士官になっていました。
  
関行男大尉の教官を務める
そこで出会ったのが、海兵出身の関行男さん、蔵田脩さん、
それから機関学校から回された鈴木さんでした。
その3人を受け持ちなさいと言われて、練習機に乗って
ほとんどかかりきりで、その3人に教えました。
 
3人、みんな中尉なんです。私は准士官でしょう。
それが教えにくいんだ。もう言葉遣いがね、普段、自分の後輩の
予科練なら「ダメだ!」で言えるのが、言えないから、丁寧な口調で
「それはダメですよ。そうすると飛行機がこうなっちゃうから
こういう風な操縦をしなきゃいけません」といった第三者の言葉遣いで
指導しました。ところがそれを向こうは理解してくれていて、関さんは
 
「教官、そんな遠慮はいらないからダメなときはダメと
言ってください。
私たちは階級は何であれ、技術指導者として
尊敬しているんですから。
何でも好きに喋ってください」

そう、言われてね、かえって、こっちが恐縮しちゃいました。
海軍兵学校出てきた人は鼻ばっかり高くて、威張っているばかりで
プライドだけは高いのに中身が伴わない、当時は下士官から
そういった印象を持たれていました。だけど私の身近では海兵出だからと
威張る人はあまりいなかった。
 
蒼龍戦闘機隊では菅波政治さんも、飯田房太さんも、藤田怡与蔵さんも
一番最初の教官だった村田重治さんも、みんな海兵出だからと威張るような
ことはありませんでした。立派な人たちでした。
小園安名さんも、我々下士官と
士官を一心同体のように
大事にしてくれました。
 
蔵田さんもそうだし、鈴木さんは途中で肺結核で亡くなっちゃったけど
みんな立派な人たちでした。蔵田大尉は後に元山航空隊で
特攻隊の
隊長になって。

私が一番最初に教えてあげた関行男さんは、その海兵のプライドの犠牲に
なった人なんです。
下士官が活躍してるのに、兵学校出の一番偉いエリート
コースが
何やってるんだと。それで誰か代表で一番先に行かざるをえなくなった。
 
ところが私が後から考えるとね、戦後まで元気で喋ってた偉い人が
あれが、特攻に行くべきだった。ところが、それは自分で行きたくない。
それが関さんをね、特攻にやったんですよ。関さんは戦闘機じゃないんです。
急降下爆撃がね、上手なんです。戦友に聞いたんですが
関さんは言っていたそうですよ。
 
「俺は何も零戦で爆弾を抱いて行かなくたって、九九艦爆で何でも沈められるよ」

って。
結婚したばかりなんですよ。関さんは
 
「本当は、俺は行きたくないんだけれども、日本が負けたら家内がどんな事に
なるかわからない。
だから日本が負けないために。私が第一号で、敷島隊の
隊長で海兵出の名誉のために行きます」
 
そう言ったんだそうです。
 
つづく
 

記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

  
戦史 ブログランキングへ

 

関連記事
関行男大尉と敷島隊の祀られる楢本神社へ
私は敷島隊の5機を整備した~中野整曹

※画像は彗星艦爆
 
-------------

原田要さんの話(1)撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない
原田要さんの話(2)南京攻略とパネー号事件
原田要さんの話(3)真珠湾攻撃と亡き戦友の思い出
原田要さんの話(4)赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴、飛龍への着艦
原田要さんの話(5)零戦、紫電改、様々な飛行機に乗ってみて
原田要さんの話(6)関行男大尉の教官を務める
原田要さんの話(7)元ゼロ戦パイロットとして平和を訴え続ける
 

--------  

海軍パイロットデータベース
あ行 赤松貞明板谷茂指宿正信岩城芳雄岩本徹三江馬友一尾崎伸也
か行 黒川昌輝
さ行 重松康弘新郷英城杉田庄一

た行 玉井浅一田中民穂粒針靖弘富安俊助
な行 中島又雄長嶺公元永元俊幸
は行 羽生十一郎
ま行
や行 山下小四郎輪島由雄
 
陸軍パイロットデータベース
篠原弘道

◆◆◆

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

2015年6月10日 (水)

原田要さんの話(5)紫電改よりも零戦21型が一番だった

零戦二一型(瑞鶴/岩本徹三機)

 
篠原Q、原田さんは海軍のほとんどの飛行機にお乗りになっていますね

 
ええ、雷電や紫電改も乗ったし、みんな乗りました
大型の九六陸攻も乗っています。
 
Q、雷電や紫電改は如何でしたか
 
雷電だめ、紫電改もだめですよ。
ゼロ戦だって52型だの丙型だの、みんなダメですよ。
 
アメリカのB-29には届かない。向こうが1万メートルで
紫電改が後ろにつくとロケットを発動しちゃう。サーっと置いていかれる。
それで最後にB-29に対処するにはこれしかない(秋水の模型を手に取る)
この秋水はロケット機ですから1万メートル迄3分。1万4千メートル迄でも
4分程度で上がっちゃうんです。
それで30ミリを両翼に備えています。
これなら絶対に大丈夫、
B-29なんかへっちゃらだというんです。
 
そのかわりパイロットの養成が大変で、その頃になると、
アメリカの
グラマンが攻撃に来ていたから内地では訓練できないから、
霞ヶ浦から
千歳へ配属になって、パイロットの養成をしなさいと
言われました。
 
Q、プロペラの飛行機で一番良かったのはなんですか
 
プロペラの飛行機で一番良かったと思えるのは私は最終的に
零戦の21型。佐伯航空隊で初めて乗りました。
 
それまで九六式艦上戦闘機だったのですが
この九六戦も堀越さんのグループが開発した戦闘機ですけれど
九六戦は行動半径が短い、攻撃兵器が貧弱でした。
 
Q、ゼロ戦(21型)を佐伯航空隊で初めてご覧になって如何でしたか
 
初めて見た零戦は格好良かったですね。私がこれに乗れるのかと。
九六戦と違って、ゼロ戦は随分大きいという印象を受けました。そして
脚が入ってしまう。骨組みが強化してありますし
翼内から20ミリという強力な
弾が撃てる。加えてプロペラの圏内からは
九六戦と同様に7ミリ7も撃てる。
300リッターの増槽タンクの他に
翼内、胴体に燃料をたくさん積める。10時間
以上飛んで大型機を
掩護できるんです。エンジンはダブル式になっている。
これが出来てね、すごい飛行機だなあ、と思っていたんです。
 
Q、ゼロ戦と九六戦を乗り比べて違いましたか
 
ええ、だから操縦が重くて大変だろうと思って、初めてゼロ戦に乗ってみた。
そうしたら誠に軽い。九六戦より自由がきく。素晴らしい飛行機だなあ、と
思いました。九六戦と全然違う。
 
Q、21型が一番良かったのですね。
 
 
日本の零戦として一番長い間、戦ったのが21型だと思います。
守る、攻める、安心感、三拍子揃っていた。
初恋の飛行機ではないかな。
 
素晴らしい飛行機だなぁ。これがいわゆる一番
武士の気持ちに近い、そのまんま合う飛行機だと思いました。
 
私達はゼロ戦に乗っていれば「絶対に負けないんだ」という自信

持っていました。そして、そのゼロ戦に掩護される爆撃機や
攻撃機も
「ゼロ戦がついているなら大丈夫だ」という安心感がありました。
 
ただ、世界中からどんなに驚かれるような零戦でも最終的には悲劇になる。
アメリカの方もF4FがF6Fに、
どんどん新鋭機が開発される。飛行機だろうが
人間だろうが
最初の功績に甘んじていると大変な事になります。
 
ゼロ戦はその後、エンジンの馬力を上げたり翼を短くしてみたり、排気管を
単排気管にしてみたりと、少しずつ良くはなっているんだけど
21型が一番良かったですね。
 
だから最終的に私が飛龍(※1)から飛び上がったのも21型ですよ。
飛龍の飛行甲板で、最後にひとつ寄せ集めの飛行機ができたんです。
私は飛行長のすぐそばで助手をしていたからすぐお前上がれって言われて
ああ、今頃こんな時に、よく21型あったなと。結局は信頼があったから
最後に寄せ集めの飛行機が21型で出来たんじゃないかなと。
恵まれています。
 
つづく
  
※1飛鷹かも?
 

A4_11

21型と52型の違いについてはこちら
 

記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

  
戦史 ブログランキングへ



-------------- 

原田要さんの話(1)撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない
原田要さんの話(2)南京攻略とパネー号事件
原田要さんの話(3)真珠湾攻撃と亡き戦友の思い出
原田要さんの話(4)赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴、飛龍への着艦
原田要さんの話(5)零戦、紫電改、様々な飛行機に乗ってみて
原田要さんの話(6)関行男大尉の教官を務める
原田要さんの話(7)元ゼロ戦パイロットとして平和の大切さを訴え続ける

--------  

海軍パイロットデータベース
あ行 赤松貞明板谷茂指宿正信岩城芳雄岩本徹三江馬友一尾崎伸也
か行 黒川昌輝
さ行 重松康弘新郷英城杉田庄一

た行 玉井浅一田中民穂粒針靖弘富安俊助
な行 中島又雄長嶺公元永元俊幸
は行 羽生十一郎
ま行
や行 山下小四郎輪島由雄
 
陸軍パイロットデータベース
篠原弘道

◆◆◆

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改


記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

 
戦史 ブログランキングへ

2015年6月 9日 (火)

原田要さんの話(4)航空母艦への着艦

蒼龍

 
航空母艦への着艦
赤城も加賀も、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴、みんな一通り
着艦させてもらいました。
 
「赤城」という艦はね、あんまり良い艦じゃないんですよ。
艦尾の気流が乱れて、着艦が難しいんです。それなら幾分
「加賀」の方がいい。赤城も加賀も元々は戦艦を改造した航空母艦ですから
飛行甲板が海面から高いんです。
 
赤城の戦闘機隊は全部を引っ張っていくだけの、司令長官の艦ですから
艦隊の中でも一番の先輩か、部署によっては若いけれども優秀な人が
乗ってましたね。
 
「蒼龍」「飛龍」は元々航空母艦として設計されているから
飛行甲板は割合小さいけれど楽でした。
 
「翔鶴」「瑞鶴」が一番良かったですよ。着艦も非常に楽で良い艦でした。
ですから翔鶴、瑞鶴は、飛行時間の短い人達が乗っていたようです。
 
そうは言っても我々は航空母艦のパイロットですから
あの艦が良いとか
悪いとか言ってられないんです。ただ唯一、夜間着艦は怖い。夜間着艦
だけは最後まで怖かったですね。
 
それと、船だから当然、静かに走ってくれない。波で縦の揺れはしょっちゅうだし
それから横の揺れもしょっちゅう。だけど、揺れはまだいいんですよ。
一番嫌なのはヨーイングといって、母艦が艦尾を振るんですよ。せっかくこう
行って(真っ直ぐ着艦コースに入る)るのにまたこうして真っ直ぐに戻して。
 
戦争の時は、急速着艦と言って連続着艦しなければいけないんです。
その時は、次々降りてくるから、後ろがつかえているし待ってくれないんです。
一機が着艦したら、その飛行機を甲板の前へ出して、遮風柵(しゃふうさく)
というのを上げてしまうんです。後から降りてきたのが失敗したら、遮風柵に
ぶつかるようになってる。甲板の前には着艦した飛行機が一杯たまってるから
そこへぶつかればえらいことになるでしょう。一機を犠牲にしても前を守る。
それを皆こなしているのが、航空母艦の戦闘機パイロットなんです。
 
つづく
 

記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

 
戦史 ブログランキングへ


 
※画像は「蒼龍」 模型製作/提供:ラプターさん
---------

原田要さんの話(1)撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない
原田要さんの話(2)南京攻略とパネー号事件
原田要さんの話(3)真珠湾攻撃と亡き戦友の思い出
原田要さんの話(4)赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴、飛龍への着艦
原田要さんの話(5)零戦、紫電改、様々な飛行機に乗ってみて
原田要さんの話(6)関行男大尉の教官を務める
原田要さんの話(7)元ゼロ戦パイロットとして平和の大切さを訴え続ける

--------  

海軍パイロットデータベース
あ行 赤松貞明板谷茂指宿正信岩城芳雄岩本徹三江馬友一尾崎伸也
か行 黒川昌輝
さ行 重松康弘新郷英城杉田庄一

た行 玉井浅一田中民穂粒針靖弘富安俊助
な行 中島又雄長嶺公元永元俊幸
は行 羽生十一郎
ま行
や行 山下小四郎輪島由雄
 
陸軍パイロットデータベース
篠原弘道

◆◆◆

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改


記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

 
戦史 ブログランキングへ

2015年6月 8日 (月)

原田要さんの話(3)真珠湾攻撃と亡き戦友の思い出

真珠湾攻撃

  
「蒼龍」へ配属

佐伯航空隊から別府湾内の空母「蒼龍」配属になりました。
我々は艦隊の零戦パイロットだから、航空母艦で発艦、着艦を繰り返す
訓練をするのですが、それで航空母艦へいってみたら臨戦態勢になってる。
それで特に驚いたのが、航空母艦では防寒対策が完全に出来ていた事でした。
まさかハワイに行くとは思ってないですよ。無線も絶対出さないし、北の方を
向いているので、我々はウラジオストクを攻撃する
のかと噂をしていました。
 
幾日か航海して、朝起きたら、湾の周りの山が雪で真っ白なんです。
択捉島単冠でした。それで湾内の艦船が航空母艦だけで6隻。
赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴。日本の当時の全航空母艦ですよ。
その他、日本には鳳翔と龍驤という航空母艦があったけれど
これは北の方へ行っていたから、その時はいませんでしたが。
 
そのほか、陸奥、長門も湾内に待機している。そこで連合艦隊の赤城に
各艦の飛行長とかリーダーの人達が集められて、
これから一番北回りの
寒いところを通って、普段商船が航行している
さらに北の方、商船と
遭遇しないように北回りしてハワイに接近していくと
言うんです。
 
日本はABCD包囲網で今後、やっていけなくなるだろう。そしてアメリカの方は
それを推し進めなければならないんだと。来栖、野村大使が交渉しているが
おそらく99、99%、交渉決裂
するだろう。そうしたら卑怯なようだけれども
12月8日、宣戦布告をして
我々航空艦隊がハワイ攻撃をやると。
 
直掩戦闘機隊へ
真珠湾攻撃で私は真っ先にハワイ空襲に飛び出すメンバーに入っていると
当然思っていました。ところが艦隊の上を守れというので、おかしいな、蒼龍
戦闘機隊の下士官とすれば年功も一番古い方だし、実戦では中国で1年も前に
飛んでいる。それを艦隊に置いて若いパイロットを皆連れて行くというので、変だな
と思ってね、隊長の菅波政治大尉に「おかしいじゃないですか」
と言ったんですよ。
 
そしたら菅波隊長は
「君、そういうけれどもこれは奇襲作戦といって、向こうがなる
べく知らないうちに
叩くんだから、敵の飛行機の空襲はなるべく避けるような
作戦計画をしてあるが、
でも向こうだって、ちゃんと計算してるから我々の艦隊が
空襲を受ける場合がある。
そのときに艦隊が傷ついてしまえば、せっかくこれだけ
隠密に行っても何にも
ならないんだから、各艦で下士官の一番ベテランを
艦隊護衛に残すから、そういう
連中と協力して艦隊を守ってくれ」と言うんです。
 
そう言われたら、私もなるほどね、と思いました。確かに、他にも各艦から
戦闘機隊の小隊長を二人くらいずつ
古いのが護衛で残ってる。護衛戦闘機隊は
三交代で飛ぶんです。私が一番最初に
2機連れて飛び上がる。するとその次の
小隊長がまた
2機連れて飛び上がる。だからもし敵が来れば各艦から9機ずつ
もう上空にいるわけ。そうするとね、ある程度艦隊を守れるということでした。
 
真珠湾攻撃当日
12月8日、私たちは戦闘機隊で一番軽いから、航空母艦の一番前から
発艦しました。それから一次攻撃隊が戦闘機、艦爆、艦攻隊とその後から
発艦して行く。どっちみち敵が来るならハワイの方向から来るだろうから
ある程度一緒に行って送ってそれで旋回して
 
篠原Q:途中まで行って艦攻隊を見送ったのですね。
 
ええ、どうせ敵が来るんだとすればハワイから来るんですから
そっち行っていれば早いでしょう。だからある程度向こうへ一緒に
ついて行って送って、だけどあんまり向こうへ行っちゃうと
今度はこっちの艦隊が無防備になっちゃうから。
 
自分でも攻撃に参加したいという気持ちで途中まで一緒に行った。
行ったけれども、いや、しようがねえなと(旋回
それで3回も飛んで。どうやら敵の攻撃は全然なかったんだけれども
 
Q、見送った艦攻隊に村田重治少佐の機もあったのですね。
 
ええ、村田さんという人は私の教官で、真珠湾では3人乗りの
九七式艦上攻撃機の雷撃隊の隊長でした。この魚雷投下が非常に難しい。
ハワイの真珠湾へ入って行くには山を越していかなければならない。
山を越して急降下してくそれで降りてそのままの姿勢で魚雷を落とすと
魚雷が海底へ突き刺さってしまう。そこから機体を水平に引き起こして
雷撃しないといけないので、非常に難しいんです。
 
攻撃隊の帰艦
第一次攻撃隊ではほとんど被害が無くて、第二次攻撃隊では
戦闘機隊と艦爆も艦攻も被害はありましたが、軽微でした。
 
私達が一番辛かったのは、第一次攻撃から帰ってきた人たちが
被害が殆ど被害が無くて、彼らも嬉しかったんでしょう。
盛んに手柄話をするわけです。自分の狙った弾が命中した、あるいは
魚雷がちょうど戦艦の横腹へぶつかって炸裂したとか言って。
艦のほうでも「よくやったよくやった」といって早速一杯飲んでお祝いしていました。
 
ところがですよ、私達が一番心配したのが、航空母艦の連中は自分の
航空母艦というものの強さを知っている。その航空母艦がハワイの軍港に
一隻も居なかったというのを聞いて「これはえらいことだな」と感じました。
日本が持っている以上にアメリカの持っている航空母艦が一隻も無い
という事は、隠してる、もしくは余所へやってるということでしょう。
だから将来はこれは航空母艦の戦いになるだろうと、そういうことまで
心配したんですが・・・。
  
爆撃の名手、金井昇一飛曹
それともうひとつは蒼龍の爆撃機隊。
阿部大尉の水平爆撃隊がありました。それに私より一年後輩の金井昇という
長野市の人ですよ。爆撃の名手が居ました。
4000メートルから800キロの
爆弾をみんな命中させた。
だからね、あれだけの効果があったんだそうです。
 
※1
 
Q、金井さんは蒼龍では隣り同士の戦友ですね。
 
ええ、金井君は「戦艦を狙え」と言われていたそうです。
何故かというと、爆弾は通常、落ちた瞬間に炸裂するような信管を
使うんだけれども、これが戦艦の場合は一番上の甲板で
爆発しても致命傷に
ならないから、なるべく中へ入って行って
爆弾庫のあるところで破裂するように、
信管を遅れさせて炸裂
するよう調整するんです。
 
Q、その作業は金井さんが自らやるのですか
 
そうですね。何秒遅らせれば一番効果があるか
やっていましたね。
水平爆撃の日本の金井なんです。操縦の人は佐藤治尾さんといって
准士官、兵隊あがりで。だからね結局はね、日本海軍のパイロットと
いって爆弾を落としたり、それから魚雷を離したり一番活躍の実力を
持っていたのが下士官なんです。
 
Q、藤田怡与蔵さんの思い出はありますか
 
藤田怡与蔵さんという人は、あの人もちょっと変わってるんです。
生まれは満州、中国なんです。それで海兵へ入学したんです。
ところがね、その頃、日本から大陸へ渡った人たちは中国人を使って
贅沢な生活をしてたんです。だから誠に大陸的でね。のんびりした人なんです。
 
だからね、海兵出なんだけれども
全然海兵出のようじゃない。技術も我々から
見ると誠にお粗末で、海兵出のほうはピリピリしてるの。
ところが藤田さんは
大陸的で鷹揚なんです。藤田さんの2番機3番機
に高橋と岡本という下士官が
着いた。
高橋というのが私の後輩で、岡本というのがまた下の後輩なんですが
二人とも自分の小隊長の藤田さんを全然信用しないんです。
 
藤田怡与蔵(いよぞう)さんていうんですがね、読み方によっては
「ごようぞう」って読んじゃうんですよね。ごよさん、ごよさんって言ってね。
また本人も、俺はこれ(操縦の仕草)ダメなんだと言っていました。
飯田房太さんが蒼龍戦闘機隊の分隊長で分隊士が藤田さんでした。
飯田さんは海兵出のトップクラス頭の切れる人なんですがその下にいる
藤田さんが、誠にのんびりで戦闘機隊では
ごよさん、ごよさんって私らも言ってね。
またついていく高橋と岡本も、うちの小隊長はてんでコレだめだからと。
 
そのかわり人間的には良い人でした。とっても穏やかで人間的で
最高の人間だと。部下は喜んでましたね。
 
※2
 
Q,飯田房太さんについて聞かせてください
 
飯田さんとは蒼龍で一緒になりました。飯田さんという人は、お姉さんが
苦労して兵学校
出させてもらったんです。
 
飯田さん自身はハワイへ行ったら半分は帰れないだろうと、自分で考えて
いたようです。ハワイ攻撃で、もし燃料タンクに銃弾を
受けて帰れる見込みが
無くなったら、俺は自爆するよと、藤田分隊士に
皆任せるからまとめて帰れと、
事前に何度も申し合わせていたそうです。
 
凄い人でしたよ。将来の長官クラス。長生きすれば連合艦隊司令長官だったかも
しれません。
水上機出身で、優秀だからと戦闘機に引っぱられてきたようです。
戦闘機隊は水上機出身を余所者扱いするようなところがあったのですが
飯田さんは技量も素晴らしいし、立派な人でした。
だから部下で飯田大尉を嫌だっていう人は居ませんでしたよ。
とても優しいね、思い遣りのある人でしたよ。
惜しい人でした。
 
※3 

つづく
 

記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

 
戦史 ブログランキングへ


 

原田要さんの話(1)撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない
原田要さんの話(2)南京攻略とパネー号事件
原田要さんの話(3)真珠湾攻撃と亡き戦友の思い出
原田要さんの話(4)赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴、飛龍への着艦
原田要さんの話(5)零戦、紫電改、様々な飛行機に乗ってみて
原田要さんの話(6)関行男大尉の教官を務める
原田要さんの話(7)元ゼロ戦パイロットとして平和の大切さを訴え続ける

------------------
 
※1、金井昇一飛曹
長野県出身。
爆撃の名手と名高い。蒼龍では格納庫の九七艦攻に乗り込み爆撃の
シミュレーションを行う姿が目撃されているほか、原田氏によれば
寝床まで照準器を持ち込んで研究を重ねていたという。真珠湾攻撃では
九七艦攻に搭乗し水平爆撃を行った。操縦の佐藤治尾とペアで息が
ピッタリ合っており、蒼龍艦長も「蒼龍には世界一の爆撃手が居る」と
誇りにしていたが、ウェーキ攻略で米戦闘機の奇襲を受け戦死した。
 
※2、藤田怡与蔵中尉
大分県出身。大正6年生まれ。海兵66期。
真珠湾攻撃で初陣。第二次制空隊、飯田房田大尉の分隊士として
参加した。飯田大尉の自爆ののち、戦闘機隊の帰艦を引き継いだ。
本土帰還後大尉に進級し、ダーウィン、コロンボ空襲、ミッドウェイ海戦に
参加し生還。飛鷹分隊長となり、ガダルカナル航空戦に参加した。
内地へ帰還後、築城航空隊、次いで第301海軍航空隊へ転属となって
飛行隊長を務め硫黄島防空戦、のち341海軍航空隊では比島で
戦い、本土へ後退、終戦を迎える。戦後初のジャンボジェット機長として
活躍した。
 
※3、飯田房太大尉
山口県出身。大正2年生まれ。海兵62期。
真珠湾攻撃では蒼龍戦闘機隊、分隊長。
燃料タンクへの被弾により、米飛行場へ自爆戦死。
アメリカ軍が飯田大尉の勇敢さを讃え、遺体を埋葬した逸話が有名。
  
零戦フリー画像 
 

海軍パイロットデータベース
あ行 赤松貞明板谷茂指宿正信岩城芳雄岩本徹三江馬友一尾崎伸也
か行 黒川昌輝
さ行 重松康弘新郷英城杉田庄一

た行 玉井浅一田中民穂粒針靖弘富安俊助
な行 中島又雄長嶺公元永元俊幸
は行 羽生十一郎
ま行
や行 山下小四郎輪島由雄
 
陸軍パイロットデータベース
篠原弘道

◆◆◆

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改


記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

 
戦史 ブログランキングへ

2015年6月 6日 (土)

原田要さんの話(2)南京攻略とパネー号事件

揚子江

以下、原田要さんの回想
 
昭和12年の初め、私達は佐伯航空隊で訓練中でした。

その頃、脇坂部隊というのが広州湾に敵前上陸して南京向けて
進んで行くんだと聞きました。私達は延長教育といって
相生高秀さん(戦後海上自衛隊で艦隊司令)の部下で訓練をやっていまして
飛行時間は300時間しかなかったんです。実戦で使うには500時間が
必要なので、まだ早いんですけど、
九五式艦上戦闘機で敵前上陸の掩護を
したいから、
佐伯航空隊から若いパイロットをよこせと言ってきたんです。
そこで訓練しながら500時間にすればいいということで連れていかれたんです。
 
60キロの爆弾を両翼にひとつずつ吊り下げて、プロペラの間から
7ミリ7を撃ちながら掩護してずーっと1年間やってきて昭和12年の
終わり頃にようやく南京まで辿り着いて、ところが南京の光華門と
太平門というのが、まあ凄い頑強で。脇坂部隊がどうしても入っていけない。
それで常州といってね、すぐそばに前進基地を作ってそこへ我々が行って
もう朝から晩まで城壁を爆弾と銃撃。これをやったらどうやら脇坂部隊が
中へ突入できたと。
 
そしたら南京の中に居た敵の大部隊が南京を捨てちゃって
重慶へ逃げるんです。揚子江の波止場から小さい船でみんな逃げて行くので
今度はそれを我々と、村田重治さんをはじめ潮田良平大尉、
そういう人たちが
指揮官になって、これを沈めちゃった。
 
そしたらその中にアメリカのパネー号※とイギリスの輸送船も入ってた。
だけど
そんな事こっちは構わねえもの、我々がやっちゃったから(爆撃)
そこで村田さんも潮田さんも責任者はみんな降格になって、我々下士官も
内地へ帰されました。
 
南京攻略とパネー号爆撃のときは九五式艦上戦闘機に乗っていました。
十二航空隊は九五式艦上戦闘機で十三航空隊は九六式艦上戦闘機です。
私が九六式艦上戦闘機に乗ったのは内地へ帰ってきて大村の航空隊で
教官をするときでした。その頃にはもう我々ベテランですからね。
 
------------------
つづく
 

記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

 
戦史 ブログランキングへ


 

原田要さんの話(1)撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない
原田要さんの話(2)南京攻略とパネー号事件
原田要さんの話(3)真珠湾攻撃と亡き戦友の思い出
原田要さんの話(4)赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴、飛龍への着艦
原田要さんの話(5)零戦、紫電改、様々な飛行機に乗ってみて
原田要さんの話(6)関行男大尉の教官を務める
原田要さんの話(7)元ゼロ戦パイロットとして平和の大切さを訴え続ける

 
※「パネー号事件」篠原補足
当時、第三国であるアメリカの船「パネー号」を日本海軍の飛行隊が爆撃して
しまったため国際問題となった事件。アメリカ側はパネー号にアメリカ国旗を
掲げていたと主張したが、爆弾を命中させた原田氏はこれを否定し
「我々戦闘機隊が一番接近したが、アメリカ国旗などどこにもなかった」
と記している。結局、日本側は誤爆事件として認め、アメリカ側に賠償金を
支払う形で決着したが、後に「爆弾を落とされる前に国旗を広げようとした」
とアメリカ側は見解を改めた。海軍搭乗員は誤爆の責任を取る形で
内地へ帰されたが、表向きの処置でありその後、責任を負わされるような事は
なかったという。
 
※画像は揚子江

海軍パイロットデータベース
あ行 赤松貞明板谷茂指宿正信岩城芳雄岩本徹三江馬友一尾崎伸也
か行 黒川昌輝
さ行 重松康弘新郷英城杉田庄一

た行 玉井浅一田中民穂粒針靖弘富安俊助
な行 中島又雄長嶺公元永元俊幸
は行 羽生十一郎
ま行
や行 山下小四郎輪島由雄
 
陸軍パイロットデータベース
篠原弘道

◆◆◆

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改


記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

 
戦史 ブログランキングへ

2015年6月 4日 (木)

原田要さんの話(1)撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない

ホーカー ハリケーン(Hawker Hurricane)

 
今月は元ゼロ戦搭乗員で空母「蒼龍」に乗組み、真珠湾作戦に
参加した原田要さん(98)に
個人的にインタビューする機会に恵まれました。
4年ほど前から出版社宛に何度か手紙を書いて打診はしていたのですが
縁あって念願が叶いました。
 

原田さんは著書を読んだ内容から想像していた通り、とてもお優しい方で
またユーモアもあり素晴らしいお人柄の方でした。
 
原田さんに伺った内容を何回かに分けて書くことにします。
ゼロ戦での本格的空戦の回想に入る前に、原田さんの平和に対する

願いを是非とも書いておかねばなりません。
 
以下、原田さんのお話 
 
今年は戦後70年でね、
私のスケジュールを見たら6月、7月と取材が随分入っているんです。
8月に入ると今度は放送ということですけれども
 
◆忘れようとした戦争の記憶 
戦争の話は、嫌なんですけれども、
それまで私は忘れようと思って忘れよう、忘れよう、としてたもんですから
なるべく人には喋らなかったんです。
 
1991年の湾岸戦争で、あのとき若い人たちが、テレビでミサイルを
打ち上げるのを見て、
面白いだとか、花火のようだとか、ゲームみたいだと
感想を言っているのを知って、私は「これはえらいことになるんではないか」と

感じて、戦争だけは絶対に駄目なんだと、戦争で経験したことを話すように
なりました。
 
我々が子供の頃はロシアという大きな国と戦って辛くも勝ちはしましたけれども
それを毎日、従軍した年寄りから聞いていたから、まるで「戦は男の働き場所」
のように受け取っちゃったんです。
 
あのころは日本の男子は20歳になったら兵役という義務があったから
そんならいっそのこと、17歳で志願で軍隊に行ってしまってずっと軍隊で
使ってもらって、
もし戦争でもあったら真っ先に飛んで行って自分の命を捧げると、
簡単にいうと、子供の頃はそういう気持ちでした。
 
◆国に尽くした誇りと表裏一体の罪悪感
私の海軍での生活は12年と8ヶ月、滞空時間は8,000時間です。※1
子供の命から12年8ヶ月も「お国の為に私の命を使って下さい」という気持ちで
私利私欲を捨てて働いた期間です。だから自分とすればこれ程までにお国の為に
一生を捧げた人間はいないというプライドと自信と誇りを持っています。
 
私は純粋にお国に尽くしたいつもりで一生懸命にやったんだけれども
それが裏側では恐ろしい殺人ロボットになってしまっていたんです。
これを、そういう風にさせるのが戦争なんだと。中には私が自分の戦ったことを
誇らしげに喋ってると、誤解する人も
必ず世の中には居ますけれども、そういう
人はそういう人でいいと
思っています。
 
8,000時間※1という滞空記録でゼロ戦のコックピットから戦争の実態というものを
ずっと見て来て、また後輩の指導をする為に飛んで、これも戦争の一部ですから
敵のパイロットを盛んに殺めた。何の恨みも無い、同じ人間ですよ。どちらかが
命を落とさなければならないのが戦争。本当に恥ずかしいことです。
そんな多くの人を殺してきた私が、今こんなに幸せでいいのか罪悪の
気持ちでいっぱいです。
 
だから戦争ほど罪深いものはない。戦争というのは絶対にいけない。
何が何でも避けなければならないんです。
勝った方も負けた方も不幸になる。
これを喋り通して一生を終ろうと決めたわけです。
 
◆南京攻略戦から真珠湾~ミッドウェイ~ガダルカナル
私は昭和12年の南京攻略に九六式艦戦で初陣して、その後は零戦で真珠湾、
コロンボ、ミッドウェイ、ガダルカナル、終戦まで内地で飛んでいました。
その中で4回、もうだめだと思ったことがあります。教官もやっておりましたから
海軍の飛行機はほとんど乗りました。雷電や紫電改、
大きな九六陸攻にも
乗ったことがありますよ。でも零戦の二一型が一番いいですね。
紫電改?いや、だめだめ(笑)零戦のね、二一型が一番良い。佐伯で
はじめて零戦と対面して、なんと美しい、性能も抜群で
素晴らしい飛行機だと私は瞬く間に恋をしたわけです。
 
さきほども申し上げました通り、私は12年8か月、軍隊に身を捧げてきました。 
ところが、それだけの期間、戦って相手が「もうやめてくれ、助けてくれ」と
逃げてくのを追いかけて、いや、俺がお前をやらなければ俺がやられてしまうんだ
ということで、何人の敵を、尊い命を殺めたかわかりません。
 
◆撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない
グラマンがね、だいたい600キロ近いスピードで逃げる。
それを追いかけてこっちが550キロ。
580を超せば自分の飛行機が空中分解する恐れがあるから
この7ミリ7で頭を押さえて敵機を蛇行させる。
(敵機は弾を回避しようと旋回を繰り返すので、まっすぐ飛べない)
20ミリと7ミリ7では200メートルで一点に合うように調整してある。
ところが200メートルもむこうの照準をしたのでは
なかなか当たらないんです。
 
いよいよ20ミリを撃つ時は60発と、
ちょっとだけで終わっちゃうから。
100メーター以下になったときに照準器がいらないくらい近付いて行って
そうすると60発でも10発くらいバババッと撃つとね
相手がダーンと(撃破され失速する仕草)それをね、今度は避けるでしょ。
カツカツなんですよ。まごつけばぶつかっちゃうから。
 
ところがね、5メーター、10メーターまで寄って撃墜した敵を避ける。
相手が苦しそうな顔をして、うらめしそうな顔をして見るんです。
その顔がね、いまだに頭の中に残ってる。
 
で、中にはね、私に張り付かれて撃たれそうになると
「勘弁してくれや、命だけは助けてくれ、撃たんでくれや」って、
そういう哀願する姿も
見えるんですよ。でもそんなこといったってこっちが
撃たなければやられちゃんんだから、
自分で人殺ししたいんじゃないんだけれど
あのパイロットの顔は、もうずっと忘れられないですね。
 
※1、実際は2000時間くらいとの説が有力
 
-----つづく-----
 

記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

 
戦史 ブログランキングへ

  
証言者プロフィール
原田 要(はらだ かなめ)
長野県出身、大正5年8月11日生まれ(98歳)
昭和8年、17歳で海軍を志願し横須賀海兵団へ水兵として
入団。駆逐艦「潮」乗り組み。憧れだったパイロットを志すも父の反対で
一度はその道を諦めたが、空母「鳳翔」で
飛行機に関わることのできる
兵器員を務める。その後今度は
反対を押し切り操縦練習生(操練)35期の
試験に合格。訓練ののち、
主席で卒業、
 
昭和12年の支那事変勃発後は
第十二航空隊で中支戦線(揚子江と黄河に
挟まれた戦域)に出動。
南京攻略作戦で初陣。九五式艦上戦闘機で
攻撃隊の援護および
南京城壁の爆撃を敢行。内地へ帰還した後、
佐伯航空隊で零式艦上戦闘機(ゼロ戦)をはじめて目の当たりにし
その美しさと性能に心から惚れ込んだ。
 
昭和16年、空母「蒼龍」乗り組みとなり、佐伯から択捉島単冠を経てハワイ
真珠湾攻撃へ参加。
翌17年6月のミッドウェイ海戦では直掩隊として機動
部隊の護衛任務につき米雷撃隊と交戦。
蒼龍沈没後は「飛龍」に着艦し
飛龍搭載の零戦に乗り換え
再び発進した。機動部隊の壊滅により着艦が
不可能となり海上へ不時着。
自決を決意するも、拳銃を飛龍発艦時に置き
忘れたためこれを果たせず
4時間漂流の末運よく駆逐艦「巻雲」に救助される。
このとき、飛龍に接舷した
巻雲艦上で山口多門少将と加来止男艦長の
最期を目撃している。
 
内地へ帰還しおよそ一ヶ月の軟禁生活ののち空母「飛鷹」乗り組みとなり
同年10月、ガダルカナル島上空でグラマン機と空戦。双方真正面からの
打ち合いで相撃ちとなり
ジャングルへ不時着、瀕死の重傷を負うも自力で
友軍陣地へ辿り着き、命を繋いだ。内地への帰還を待つ間マラリアに感染し
また多くの陸軍
兵士の死と直面する。
 
重傷の後遺症も癒えぬまま、霞ヶ浦航空隊で教官を命じられる。この間、
関行男大尉の教官も務めた。その後は
「秋水」の教官として千歳海軍航空隊へ
赴き搭乗員要請にあたる。
海軍中尉として終戦を迎える。
 
同期には片翼帰還で有名な樫村寛一、
後輩に坂井三郎、西澤廣義、岩本徹三などが居る。

※岩本徹三、海軍では先輩であったが操練では岩本が34期にあたる。
坂井三郎は三期後輩で原田と同い年であった。
 
※参考画像は英イギリス空軍戦闘機「ホーカーハリケーン」原田氏はコロンボ上空の空戦で
この機体と戦った。
 
------------------------

原田要さんの話(1)撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない
原田要さんの話(2)南京攻略とパネー号事件
原田要さんの話(3)真珠湾攻撃と亡き戦友の思い出
原田要さんの話(4)赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴、飛龍への着艦
原田要さんの話(5)零戦、紫電改、様々な飛行機に乗ってみて
原田要さんの話(6)関行男大尉の教官を務める
原田要さんの話(7)元ゼロ戦パイロットとして平和の大切さを訴え続ける

 

関連記事
ある特攻隊員と少年の実話「少尉と隼」
富安俊助大尉とエンタープライズ~永遠の0のモデルの一人
指宿正信大尉、最後まで空に生きた武人「最後のベイルアウト」
私は敷島隊の五機を整備した~中野整備兵
赤松貞明中尉、戦後の活躍
岩本徹三の戦後
篠原弘道准尉~ホロンバイルの荒鷲

 
海軍パイロットデータベース
あ行 赤松貞明板谷茂指宿正信岩城芳雄岩本徹三江馬友一尾崎伸也
か行 黒川昌輝
さ行 重松康弘新郷英城杉田庄一
た行 玉井浅一田中民穂粒針靖弘富安俊助
な行 中島又雄長嶺公元永元俊幸
は行 羽生十一郎
ま行
や行 山下小四郎輪島由雄
 
陸軍パイロットデータベース
篠原弘道

◆◆◆

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改


記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

 
戦史 ブログランキングへ

2015年6月 3日 (水)

最後の真珠湾証言

今日は「蒼龍」零戦隊で真珠湾攻撃に参加した
元零戦搭乗員の方のお話を伺ってきました。
 
坂井三郎氏の先輩でもあるこの方は南京攻略で実戦参加し
総滞空時間は8000時間、真珠湾攻撃の戦闘機隊でこうしてお元気で
お話が聞ける最後の一人だと思います。今度の8月で99歳になります。
 
戦友との思い出のほか、空中戦の話になると
「敵機の追従に入り、5~10メートルまで接近したとき、敵搭乗員の許しを
乞うような目が忘れられない。それでも戦争だから私は引き金を引いた」
と語ってくれた話が特に印象的でした。
 
昭和18年以降は教官として海軍ではほとんどの飛行機に乗ったそうです。
「紫電改も雷電もダメだ。零戦二一型が一番良い」と仰っていました。
ここに書ききれないのでまたこのブログで詳しく書きます。

2015年5月30日 (土)

どうしても「疾風」グッズを宇都宮で売りたい

Cimg0272

 
大谷資料館へアポなしの突撃交渉してきました!
 
「どうしてもこの疾風グッズを宇都宮で、とくにここ大谷で売りたいんです。
置かせて下さい!この疾風はネット販売でなく、宇都宮へ足を運んでくださった
方のみが購入できる仕組みを作りたいのです」
  
と、疾風と宇都宮の縁を語って説得しましたがうまく伝わらなかった。
悔しい。でもまた行きます。店に置いてもらうのは大変だ。
 
ただ、もう一件の交渉はうまくいきました。資料館に疾風の写真を
飾って頂けることになりました。今まで部品を製造する様子は写真
展示されていたものの疾風の機体写真そのものは開館以来、ずっと
無かったのでこれから来た方は戦闘機「疾風」の雄姿を見ることで
地下工場が担った役割と、イメージが掴めるでしょう。写真は大氣氏に
提供してもらうことになりました。

小笠原流流鏑馬

Imgp5137

Imgp5178

Imgp5147

Photo

 

薫風馨しき杉並の旧街道を行く。未だ萌木色の葉は
麗らかなる陽光を透き通し心地良い。此の街道は宇
都宮に起こり、今市等の宿場町を経て日光東照宮の
参道大鳥居前まで続く。樹齢三百年の大木が私を見
下ろす。徳川十八代当主並びに水戸、紀州、尾張の
御三家揃いで今年は四百年式年大祭の東照宮参り。
 
東照宮参道では小笠原流流鏑馬

11225120_889968937749172_5527269996

11269693_889974701081929_5062336506

1

2

Photo_2

3

4

Photo_3





5

6

Photo_4

7

8








2015年5月28日 (木)

パラオ天皇陛下訪問の裏話

倉田洋二氏と土田喜代一氏

 
倉田洋二氏と土田喜代一氏の再開

ペリリュー・アンガウル島の戦いは玉砕戦なので原則的に「生き残り」は
存在しないという概念だが、
倉田氏はアンガウル島で、土田氏は
ペリリュー島で戦い、奇跡的に生還された。
 
陛下との謁見
陛下が倉田氏にお言葉をかけられると、倉田氏は
「戦友に代わってお礼申し上げます」と短く答えた。倉田氏はアンガウル島の
戦闘で重傷を負っており、
歩行はもちろん、身体を満足に動かすことすら
できなかった。
そのため最後の玉砕突撃に参加できず、死に損って
(あえてこの表現を用いる)
後藤少佐最後の突撃を見送った。
  
皇后様から身体の気遣いを受けた倉田氏は
「70年間、片手でしか顔を洗えておりません。このように汚い顔をしております」
と答えた。
「名簿」の話は最後までできなかった。
 
10キロ先に浮かぶアンガウル島が晴れていて見えた。
陛下はペリリューの慰霊碑に拝礼されたあと、防波堤付近まで歩み寄り
アンガウル島へも拝礼された。私は素直に「ああ、よかった」と感じた。
陛下はアンガウルのことも気にかけてくださっていたのだと。
そしてこれが曇天なら、島は見えなかったであろう。
 
名簿とは
「僕だけ陛下に拝謁するんじゃ戦友に申し訳ないから戦死者1200名の名簿を
作ったよ」そういって倉田氏は
戦友の名簿を大切に持って、いや戦友と共に
式典に参列した。
 
この名簿の編纂作業には私も加わったのだが、テレビ局が
「どれくらい時間がかかったのですか?」と聞く。
アンガウル島、ならびにペリリュー島の戦死者名は公式記録されておらず
船坂弘氏が戦後、全国を走り回って、個人的に独力で名簿を作成した。
現在は様々な書物に転用されているが、大元は船坂氏の努力の賜物で
あることを
忘れてはならない。すべては戦友の弔いのために。
 
これを我々の編纂チームが
さらに精査し、戦友はもとより戦闘に巻き込まれた
軍属、パラオ人(民間人)を
含めた名簿を作成した。だからかかった時間をと
問われれば
その経緯を始めから説明しなければならない。
 
名簿を作成する経緯で、遺族との温度差に泣かされる場合も多かった。
戦死者の多くは20代前半の現役兵なので妻を持たずに出征し直近の
子孫が途絶えていることが多い。兄弟が存命であれば
慰霊に対する思い
入れも強いが甥や姪に調査協力を乞うても、直系でないので
ほとんど関心
が無いか、そっけなく断られたりすることも非常に多い。
この点、士官以上
は年齢的にも妻や子が居て出征しているので
割合にご子息が協力してくれる。
 
ペリリューの中川大佐は妻はあったが
子供が居なかったので直系の子孫は
存在しない。代わりに烏丸連隊旗手を
子供のようにかわいがった
というエピソードが有名である。
 
最近は孫、ひ孫世代が興味を持ってここへ問い合わせをしてくれるので嬉しい。
戦没者遺族会というのは地域ごとに存在するが、慰霊旅行の補助金が政府
から
出るのは子供世代までなので、これも孫までの伝承が難しくなっている
一因ではないか。
とにかく、たいへんな苦労の末、1200名の戦友とともに
式典に参列することができた。
 
あきつしま搭載ヘリ
海上保安庁の巡視船「あきつしま」にはヘリが二機搭載されている。
ペリリュー飛行場にはこの二機ともに飛来、着陸した。
どちらに陛下が搭乗されているかはわからない。
 
ペリリュー飛行場は旧帝国海軍屈指の航空基地であった。ここから多くの
飛行兵が飛び立っていって
そして、多くは二度と帰ってこなかった。
現在は荒れ果てたサンゴダストで固められただけの未舗装の滑走路が
一本のみ残る。
未舗装とはいえ、固い珊瑚岩の上に築かれた滑走路である。
 
昭和19年頃は重武装の一式陸攻や爆撃機銀河などが離着陸していた
のだからヘリの
着陸には全く心配ないのだろうが、宮内庁の職員が事前
視察した際、着陸には
舗装の要ありと判断したため、今回の陛下訪問前に
急遽、飛行場一角に舗装した
ヘリポートを造成した。宮内庁の安全にかける
徹底ぶりには、ただただ驚く。
 
陛下の島内移動にはドルフィンベイリゾート所有の、普段はダイビング客の
送迎や戦跡ツアーに利用させている
マイクロバスが選ばれた。ドルフィンベイ
リゾートのマユミオーナーは
「こんなのでいいんですか?」と言っていたが
一番、コンディションが良く、エアコンも故障していない車だった。
 
式典の参加者
式典の当日、西太平洋戦没者慰霊碑公園には事前に認可を受けた
18社の報道機関と戦友、遺族会が参列した。式典会場までは両岸を挟んだ
一本道なので完全閉鎖した。
 
コロールで足止めをくったものも多い。どんなに頑張っても途中に海があるの
だからペリリュー島までは
行くことはできない。島へ渡るボートの数も限られて
いるうえに宿泊施設が少ないので島へ滞在できる人間は限られる。
キャンプ・野宿は禁止である。
島へ渡りたくても渡れない状況、しかしこれが
セキュリティ面で幸いした。
過激な右翼団体などはコロールに留まったし
ペリリューに居たのは
ペリリュー島民とマスコミ関係者くらいだった。
各社ともに
今や珍しくなったダイヤルアップ回線で、一生懸命日本に記事を
送信していた。
 
オレンジビーチの米軍慰霊碑へ 
太平洋戦没者慰霊碑で式典が行われた後は
オレンジビーチにあるアメリカ陸軍第81師団モニュメントにて(旧千人墓地)
で米軍兵士への慰霊が行われた。これには
米軍オフィサーが参加した。
 
ペリリュー島の攻略はふたつの部隊が行った。強襲揚陸でもっとも苦戦を
強いられたのが第一海兵師団で兵力の60%を戦死傷により損耗した。
陸軍81師団はその後、増援部隊として海兵隊に続き掃討戦にあたった
部隊であるが、
今回は、陛下のスケジュールの都合かオレンジビーチの
81師団のモニュメントの
慰霊にとどまった。
 
なお、第一海兵師団のモニュメントはもっと山を登った
ペリリュー神社近く
大山の麓にある。
 
パラオ国際空港は旧海軍飛行場
陛下の到着されたパラオ国際空港は
旧帝国海軍の航空基地(旧アイライ飛行場)である。
昭和19年には連合艦隊の武蔵がパラオに投錨し武蔵に乗船していた陸軍
一個大隊と海軍陸戦隊一個大隊が下船。
民間の勤労奉仕隊と共にアイライ
飛行場建設に尽力した。
建設は全てスコップやモッコを用いた手作業であった。
 
勤労奉仕を行う者の中には中学生も混じっていた。
「ここに飛行場を作れば日本の戦闘機がたくさん来るから」と言われたので
彼らは懸命に汗を流した。作業中に飛行機が飛来したので、中学生二名が
喜び飛び出していくとそれは米軍機だった。
彼らは米軍機の機銃掃射を
受け死んだ。
こうしてたいへんな努力と犠牲の末、全長1400メートルに及ぶ
滑走路を完成させるに至った。
 
完成した飛行場は戦局の悪化に伴い同年6月までという僅かな期間で
あったが
主に零戦(第343海軍航空隊「初代・隼」)の基地として運用された。
終戦とともにアイライ飛行場は米軍に接収され、アスファルトで舗装され
それが現在のパラオ国際空港となった。
 
現在はその面影を見ることはできないが、飛行場には大勢の人々の
血と汗と涙が染みこんでいる。
 
パラオ国際空港の滑走路は距離が短いため、離着陸が可能なのは
B-757、B-767などの中型機が限度で日本の政府専用機の
ボーイングB747
(通称ジャンボジェット機)は着陸できない。
そのため、今回陛下が搭乗した機体は民間のチャーター機で
ANA-767-300(機体番号JA625A)であった。
 
コロールで移動に使われた車はインフィニティのようである。
普段は大統領の車だと思う。こういった上等な車はパラオでも
一台か二台しか見たことが無い。
 
マスコミの取材攻勢
今回、倉田氏、土田氏ともに多くの取材を受けた。
特にアンガウルの倉田氏はあまり表に出るタイプではないが
「戦友のためなら」と報道陣の求めに必死に応じてきた。
すっかり疲れ切ってしまったが、常に無念に散って行った
戦友が傍らにいる。戦友のためだった。
 
「僕はね、靖国神社へ行けないんだよ、戦死した戦友に顔向けできなくてね」
普段から、そんな話を私は聞いていた。倉田氏は取材攻勢にすっかり疲れ
切ってしまい、あれから一ヶ月
以上たった今でも体調がすぐれないという。
 
そして日本テレビは天皇陛下の訪問が正式決定する前より
ペリリューの土田氏に密着取材を行っており、今回もその一部であった。
撮影時間には常に余裕を持って高齢の土田氏に常に気を遣い、お身体の
具合が悪かったら
無理しないでくださいね、とこちらのこちらのペースに
合わせてくれた。
日本テレビはとても紳士的な対応だった。
 
ところが直前になって他社が殺到してきた。土田氏は空いた時間を利用して
他社のインタビューにも答えていたが
各社の凌ぎ合いは凄まじく、奪い合い
のような状況といっても
言い過ぎでない。お二方共に高齢である。それを
メディアごとに同じ質問をするものだから大変だった。
 
「ジャングルの中を歩くシーンを撮りたい」などとどの社もリクエストするもの
だから、お二人ともすっかり疲れてしまった。
 
民放の取材チーム(カメラマンと取材クルーなど、一通り揃って1組)は
1チームか多くても2チームである。一方、NHKは8チーム体制であった。
ある民放関係者は「とてもNHKさんにはかないませんよ」
資金力も組織力も
民放と比べ物にならないほど莫大である。
 
一番過酷なのは某新聞社の記者で、段取りが悪いのか、上司が無茶を
言うのか、
たった一人、ペリリューへ渡った。なんと宿の予約もないという。
もう島へ渡ってしまっては仕方ない。例外的に満杯の宿へ押し込んだ。
車がすべて押さえられているのでチェーンのよく外れる自転車で他社の
車を追っていた。
これを見ていた日本テレビのクルーが車に乗せてくれた。
 
一方、コロールでは
ここぞとばかりにユニークなパラオの文化をネタにしようと
各社取材を行っていた。どこの局も日本統治時代の年配パラオ人に取材が
したいらしい。シニアセンターへ行けばいいのだがシニアセンター
「取材はNO」だそうだ。それでも日本の取材チームが食い下がると
なんと出演料金表が出てきた!取材内容に応じて細かく料金が分かれている。
これは合理的なシステムだ。パラオ人は取材に振り回されることも無く
しっかりしている。
 
そしてWRTCショッピングセンターでも取材交渉が。どうしても「チチバンド」を
言わせたいらしい。
根負けした責任者が撮影許可を出して
女性店員にブラジャーを持たせて「チチバンド!」と言わせていた。
取材クルーは大真面目だが、はたからみれば滑稽だ。
それから人気のパラオ語は「ツカレナオース」だった。
これも言わせたいので、無理矢理乾杯のシーンを撮っていた。
 
嵐が去って
日本のマスコミはパラオのキャパシティを理解していなかった。
人口2万人足らず、インフラも十分に整っていない島国で過大な要求を
し過ぎた。日本のテレビ局の無茶な要求は
日本国内においてはある程度
わがまま言っても通るのだろうが、
パラオは勝手が違う。テレビ局が言っても
無理なものは無理なのである。これらは全て
過度な負担となってパラオの
住民に重くのしかかった。
 
思いつくまま書いたのでメモ書きのような形になってしまったが
陛下のパラオ訪問の状況が少しでも伝わればと思う。
 
ようやく嵐は去って、のんびりとした、いつも通りのパラオに戻りつつある。