2015年5月28日 (木)

戦友会を運営して思うこと(2)戦争の話の聞き方

靖国神社

戦友会を運営して思うこと(2)戦争の話の聞き方
 
「戦争の話を聞かせてください」
最近、当戦友会に、そういって訪ねてこられる人がとにかく多い。
もう戦争で最前線を経験された方は少ないからだ。
最近は若い人も多いので我々としては、来るもの拒まず
というスタンスでいるが、何を勘違いしたか、そこで政治的な
主張をしたり、一方的に持論を展開する人も後を絶たないので
そういう人たちはお引取り願っているが、だがそれは一部で
純粋に戦争の話が聞きたいという若者がほとんどだ。
 
それにしても原則的には、ここは戦友会。
戦友たちの憩いの場なのだ。一ヶ月に一回集まって
昔の思い出話、亡き戦友たちの話や、四方山話をして帰路に着く。
「これが一ヶ月に一度の楽しみなんだ」
「この集いがなくなったら楽しみがなくなってボケてしまうよ」
 
そんな声を聞くたびに、私は戦友の方々が今回も元気で会場まで足を
運んでもらえたことに安堵している。だから、私たちはその手伝いが
できればそれで良いのであり昔話を隅で聞かせてもらえれば
それで満足なのだ。
 
聞きっぱなしはダメ
戦友会に出てくる戦友の方々は
「戦争の話を聞かせてほしい」
と言われれば、まず断ることはないだろう。とても丁寧に話してくれる。さらに
「わからない軍隊用語はないかい?」
などと、気を遣ってくれたり、とても若者に優しい。
 
感想と報告を忘れずに
しかし戦争のしかも最前線の回想は、死に関わる話が多く
語る方だって、渾身で覚悟がいるのだ。それで、何も
報告がない場合が多く、戦友の方々は、音信不通になってしまうと
「本当にあれでよかったのか。どうのように活用されたのか」
とずいぶん時間が経っても悩むことが多いという 
 
「戦争の話を聞かせてください」
そう、言って来られるのは結構だが、話す側には相当の
エネルギーと覚悟があることを忘れてはならない。
聞きっぱなしはいけない。アフターケアを忘れてはならない。
 
取材が目的であれば、「このように活用されましたよ」と
出来たものを送るとか、純粋に戦争の話を聞きたい
若者ならば、きちんとお礼の葉書や電話を忘れないことだ。
 
つづく。
 
戦友会を運営して思うこと(1)将校と兵卒

戦友会を運営して思うこと(2)戦争の話の聞き方
 
beibaoke / Shutterstock.com

2015年5月24日 (日)

ブルーホーネット

TH-480B,ブルーホーネッツ

北宇都宮駐屯地開設42周年記念行事、無事終了しました!
予想外の終日晴天に恵まれ、各機、大迫力の展示飛行でした。
 
なお、今年度(平成27年度/2015年)よりTH-480への機種変更に伴い
スカイホーネットの名称新たに「ブルーホーネット」と称して
翼が触れんばかりの六機によるアクロバットと編隊飛行が行われました。
ヘリコプターによる機動はブルーインパルスにも真似できない
驚くべきものであり、 大迫力でありました。
   
なお、80枚の限定で宇都宮のみでの販売でした「疾風」Tシャツ
好評につき午前中でほぼ完売となりました!ありがとうございました!
 
わざわざ宇都宮へ足を運んで頂いた方へ、なんとか
ここでしか味わえない思い出を持ち帰ってもらおうと
色々と考えております。また来年もよろしくお願い致します!

2015年5月23日 (土)

自衛官お見合いパーティー

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今日はオリオンスクエアで自衛隊お見合いパーティーでした!
男女それぞれの自己紹介、フリータイム、告白&ちょっと待ったコールなどなど!
熱戦でしたが、今年は11組のカップルが誕生しました!!
 
自衛官の人気は凄い!こっちもハラハラドキドキしながら見ていました!
うまくいってほしいなあ!
 
そして明日24日は北宇都宮駐屯地開設42周年記念行事です!
ぜひお越しください!
 
2016年もやると思いますので
詳しくはお問い合わせください!
  

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2015年5月22日 (金)

5月24日(日)北宇都宮駐屯地開設42周年記念行事

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新生ヘリアクロバットチームの展示飛行は10時からです!
 
5月24日(日)北宇都宮駐屯地開設42周年記念行事の案内です。
周辺道路はたいへん混在しますのでお車で来場される方は
お早めにお越しください。

2015年5月21日 (木)

戦友会を運営して思うこと(1)

靖国神社

戦友会を運営して思うこと(1)将校と兵卒
 
この年齢でまさか戦友会の代表をさせてもらうことになるとは思わなかった。
メンバーは80代後半から最年長は98歳になる。
 
実質的な運営(会場の手配、案内葉書の送付、電話連絡、司会等)は
我々若手で行い、戦友の方々には会場に足を運んで頂くだけ結構です、
ということにした。
 
あちらこちらにぶつかりながら、徐々に軌道修正してやっている。
失礼なこともあるかもしれないが、大正生まれ、明治時代の教育を受けた
ご年配方はどなたも例外なく寛容な心をお持ちで、数々の無礼を
許してもらっている。これが満足に運営できるようになった頃、
この戦友会はもう無いのかもしれないのが残念でならない。
 
これから、戦友会の運営で経験したことを少しずつ書いていこうと思う。
たくさんあるから少しずつ書く。 
 
まずは戦友メンバーの方をお呼びする際の敬称の付け方だが、「さん付け」
が最も無難かつ適切であると
私は思う。戦争は終わった。平等であるが
参加メンバーはいずれも旧帝国陸海軍の軍人だ。これは変わることはない。
 
そこには士官学校卒業の元大尉や将校(隊長)もいるし、一兵卒(兵隊)も
徴兵された方もいる。元憲兵さんも居る。志願された方と徴兵では
だいぶ事情が違う。そして、元隊長さんは「多くの部下を死なせてしまった」
という自責の念で苦しんでいる。戦争が終わり、退役された今では
上下関係は存在しない。戦友の方々はそれでも、過去の関係が根強く
残っていて、元上官に遠慮して満足に発言できなかったりする。
もちろん、頭ではわかっているのだがそういうものなのだ。
現代を生きる我々には理解が難しいだろう。
  
だから最もニュートラルな「さん付け」が無難なのだ。敬意を込めるなら全員
「先生」が最も良いが、そんなたいそうな呼び方はやめてくれといわれるので
私は一様にさん付けしている。
 
間違っても昔の階級で呼んではいけない。
経歴や戦歴を紹介する上で階級を出すときは必ず「元~~少佐」など
元をつけるのを忘れてはならない。
 

戦友会を運営して思うこと(1)将校と兵卒

戦友会を運営して思うこと(2)戦争の話の聞き方



つづく。
 
beibaoke / Shutterstock.com

2015年5月18日 (月)

四式戦闘機「疾風」と中島飛行機宇都宮製作所

四式戦闘機「疾風」

四式戦闘機「疾風」


キ84四式戦疾風

キ-84 四式戦闘機「疾風」
キ-84、四式戦闘機「 疾風 」(以後キ84)は中島飛行機が開発・生産を行った
重戦闘機で、速度、運動性、
武装と防備、航続距離など 最もバランスに優れ、
昭和19年(1944年)4月の正式採用後、 陸軍は「大東亜決
戦機」と称して最も
重要な航空機として位置付け、 大戦における運命を託した。
 
日本国民の総力を注い
で送り出されたキ-84は終戦迄の短い期間におよそ
3,500機が生産され大陸戦線、ビルマ戦線、フィリピン
戦線、および本土防空戦
において活躍。戦局の悪化に伴う部品の品質低下により、充分な性能が
発揮でき
ず、苦戦を強いられたが、よく敢闘し、多くの敵戦闘機やB-29を
撃墜、あるいは 特攻機として出撃、 御楯と
なり 南溟に散った。
 
戦後、 連合国は、接収したキ-84に再整備を施し飛行テストを実施したところ、
秘め
られた性能を発揮、P-51を上回る最高速度を記録。その性能に驚愕し、
日本戦闘機の最高傑作と評価した。

倉井利三少尉機 キ84四式戦疾風

▲倉井利三少尉機(四式戦闘機「疾風」)B-29を3機撃墜。最後の一機は体当たりを
敢行撃墜。
野木町へ墜落、戦死した。

◆宇都宮陸軍航空廠と陸軍航空部隊
宇都宮近辺には陸軍(清原・壬生)と中島飛行機で、三か所の飛行場を有した。
 
宇都宮南飛行場
中島飛行機の飛行場は宇都宮南飛行場と呼ば
れ、現在は陸上自衛隊
北宇都宮駐屯地となっている。飛行場と誘導路で接続された中島飛行機
宇都宮製作所ではキ84を専門に生産が行われ
ていた。
 
宇都宮陸軍飛行場
宇都宮飛行場(通称清原飛行場)は鬼怒川の東側高台上の清原村中央
に所在した陸軍の飛行場で昭和15年
の宇都宮陸軍飛行学校本校開校・陸軍
航空廠宇都宮支廠開庁により運用が開始された飛行場である。
 
宇都宮陸軍航空廠
陸軍航空廠宇都宮支廠
は昭和17年に宇都宮陸軍航空廠
(師・第34206部隊)に改編され、戦地への航空機補給基地として本格的な
運用に至る。航空
廠は陸軍航空本部直轄の組織として、中島飛行機で完成した
新造機を受領し艤装( 兵装の取付け等 )や塗装を行った後、廠内
に駐屯する
陸軍航空輸送部により各部隊へ空輸された。廠内の技能者養成所では
エンジニア養成が行われ、ここを巣立った軍
属の少年整備員が各戦地で
整備に腕を振るった。 戦局が悪化すると民間の中島飛行機の工場
(兼飛行場)に 出張所を設け直
接陸軍航空部隊へ航空機を配備する
仕組みへと 移行した。
 
宇都宮教導飛行師団・壬生飛行場
昭和19年に、大陸の白城子 陸軍飛行学校が 清原に移駐、作戦性
を持った
宇都宮教導飛行師団が編制された。飛行場内は飛行学校の訓練に加え、
中島飛行機から航空廠へのキ-43、 キ-49、
キ84の納入に伴うテストフライト、
さらに教導飛行師団の編成によりかなり過密になり航空事故が頻発したため
そのため宇飛校は本
校を壬生飛行場に移駐した。
現在のおもちゃ団地近辺である。
 
第6航空軍攻撃集団振武特別攻撃隊 掛川隊
宇都宮教導飛行師団は後に教導飛行師団司令部となり、昭和20
年には
第6航空軍より特攻機の誘導隊編成が下令され、宇都宮教導飛行師団の
教官、掛川義雄大尉を隊長とする97式重爆
撃機2機、搭乗員7名、
地上要員7名の計20名が清原を発つ。この部隊は後に
「第6航空軍攻撃集団振武特別攻撃隊 掛川
隊」として沖縄に出撃、
搭乗員7名は未帰還となり戦死と認定された。
 

◆中島飛行機宇都宮製作所
キ-84は 中島飛行機太田製作所と宇都宮製作所で生産を担った。
(またハルピンの満州飛行機製造ではキ-116と称しライ
センス量産予定で
あったが 終戦直前、ソ連軍の侵攻を受けて量産中止) 太田には開戦当時は
糸川英夫博士の傑作機 キ-43、
一式戦「隼」や、キ-44、二式戦「 鍾馗 」
そして、キ-49百式重爆「呑龍」の生産ラインがあったが、昭和19年以降は
生産機の多く
がキ-84へ移行する。
 
宇都宮空襲 
昭和20年7月12日から13日未明にかけた宇都宮空襲ではB-29、130機が
来襲、宇都宮市街地を中心に
焼夷弾を投下( 投下目標は中央小学校であり
市街地の壊滅 に重点が置かれた)宇都宮製作所はB-29空襲の直撃を免れた
が米軍は宇都宮南飛行場を大規模な陸軍補給処と位置づけており、艦載機や
P-51の襲撃を度々受け、施設や掩体内の機体な
どに被害を受けたが工場は
大谷地下空間(現在の大谷資料館)と大田原市の工場に 分散疎開中であり
発動機は戸室山、部
品工場は大谷地区の地下空間で稼働、機体組み立ての
本工場も、 辛うじて稼働を続けた。宇都宮製作所から出荷されたキ-84
は全て
無塗装のジュラルミン剥き出しで配備先の部隊ごとに迷彩等の塗装が施された。
 
女子挺身隊(16,7の女学生)必死の努力
特筆すべきは宇都宮製作所におけ
る女子挺身隊の尽力である。 女子挺身隊は
16、7の女学生であったが細身との理由でキ-84の胴体後部に潜り込み外側
から何
百本と打ち込むリベットをカシメる作業を担った。胴体内に響くリベットの
打撃音と強烈な振動は、脳天が割れるようで、例え屈
強な男でさえ、10分も
耐えられるようなものでなく、気が狂う程であったが、女学生の忍耐強さは
驚くべきもので、細い両腕と
足で懸命に踏ん張り、握った当て板を最後まで
支え続けたのである。キ-84を語る上で、この女学生達の必死の努力が
あったこ
とを忘れてはならない。
 
そして終戦後の8月16日、生産ラインには新鋭20mm機関砲(ホ5)4門を
備えたキ-84乙型が二機、 殆
ど完成状態で出荷を待っていた。
 
文と絵:篠原直人
監 修:大氣高大 
 

※記事は調査継続中につき随時加筆訂正を行う場合があります。
 
 

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2015年5月15日 (金)

『パラオ共和国にある日本の慰霊碑』刊行

パラオ共和国にある日本の慰霊碑

 

倉田洋二先生の監修で『パラオ共和国にある日本の慰霊碑』という
小冊子を刊行しました。私も調査に携わり、パラオの島々を巡り、
慰霊碑の現状(破損状態も含む)を徹底調査し、記録しました。
バベルダオブ島からソンソール諸島まで、116基の慰霊碑が
確認されています。「慰霊碑にお参りしたいが、どこにあるのかわからない」
という方への道しるべとしてもお使いになれますが、
歴史的な資料として後世に残すことを主旨に作成したものです。
 
希望される方には配布していますのでご連絡ください。
なお、7月により正確な慰霊碑のGPSデータを
添付したものを再版予定です。
 
 
パラオ共和国にある日本の慰霊碑

2015年5月14日 (木)

第二師団永代神楽祭へ

靖国神社

 
第二師団の戦友会「勇会」の永代神楽祭で靖国神社へ参りました。
毎年、第二師団の創設日に合わせて実施しているもので
第二師団の戦友一同が英霊に神楽を奉納する行事です。
(私は当会の事務をやっていますので末席で参加させて頂いております)
 
靖国神社の本殿と本殿に通じる回廊は誠に美しく、
木々と庭は整然とし、厳粛さと神々しさが相まって
またとないひと時を過ごさせて頂きました。
そして初夏の風は実に心地良いものでした。
 
戦友の方々におかれましては、
九段の杜で戦友の御霊と再会されたことと思います。
当会の最高齢は97歳となりましたが
今年も元気で色々な思い出話をされて解散となりました。

2015年5月12日 (火)

一式陸攻を利用したトーチカ(硫黄島)

硫黄島の一式陸攻トーチカ

 
硫黄島でトーチカとして再利用された一式陸攻。

 
硫黄島では地上戦に備え、島の要塞化が進められた。
ここでは飛べなくなった一式陸攻を利用し
セメントで固め、頑強なトーチカを築き上げた。
機内骨格の形からも一式陸攻であることがよく解る。
 
上の写真は内部から撮影したところで

下の写真は外から見たところ。画面右側が入口で機体の後部となる。
一見、一式陸攻が埋もれているとは解りにくい。
なお白い旗は「遺骨捜索済み」の印。
 

硫黄島の一式陸攻トーチカ

一式陸攻▲一式陸攻(資料)