2015年5月30日 (土)

どうしても「疾風」グッズを宇都宮で売りたい

Cimg0272

 
大谷資料館へアポなしの突撃交渉してきました!
 
「どうしてもこの疾風グッズを宇都宮で、とくにここ大谷で売りたいんです。
置かせて下さい!この疾風はネット販売でなく、宇都宮へ足を運んでくださった
方のみが購入できる仕組みを作りたいのです」
  
と、疾風と宇都宮の縁を語って説得しましたがうまく伝わらなかった。
悔しい。でもまた行きます。店に置いてもらうのは大変だ。
 
ただ、もう一件の交渉はうまくいきました。資料館に疾風の写真を
飾って頂けることになりました。今まで部品を製造する様子は写真
展示されていたものの疾風の機体写真そのものは開館以来、ずっと
無かったのでこれから来た方は戦闘機「疾風」の雄姿を見ることで
地下工場が担った役割と、イメージが掴めるでしょう。写真は大氣氏に
提供してもらうことになりました。

小笠原流流鏑馬

Imgp5137

Imgp5178

Imgp5147

Photo

 

薫風馨しき杉並の旧街道を行く。未だ萌木色の葉は
麗らかなる陽光を透き通し心地良い。此の街道は宇
都宮に起こり、今市等の宿場町を経て日光東照宮の
参道大鳥居前まで続く。樹齢三百年の大木が私を見
下ろす。徳川十八代当主並びに水戸、紀州、尾張の
御三家揃いで今年は四百年式年大祭の東照宮参り。
 
東照宮参道では小笠原流流鏑馬

11225120_889968937749172_5527269996

11269693_889974701081929_5062336506

1

2

Photo_2

3

4

Photo_3





5

6

Photo_4

7

8








2015年5月28日 (木)

パラオ天皇陛下訪問の裏話

倉田洋二氏と土田喜代一氏

 
倉田洋二氏と土田喜代一氏の再開

ペリリュー・アンガウル島の戦いは玉砕戦なので原則的に「生き残り」は
存在しないという概念だが、
倉田氏はアンガウル島で、土田氏は
ペリリュー島で戦い、奇跡的に生還された。
 
陛下との謁見
陛下が倉田氏にお言葉をかけられると、倉田氏は
「戦友に代わってお礼申し上げます」と短く答えた。倉田氏はアンガウル島の
戦闘で重傷を負っており、
歩行はもちろん、身体を満足に動かすことすら
できなかった。
そのため最後の玉砕突撃に参加できず、死に損って
(あえてこの表現を用いる)
後藤少佐最後の突撃を見送った。
  
皇后様から身体の気遣いを受けた倉田氏は
「70年間、片手でしか顔を洗えておりません。このように汚い顔をしております」
と答えた。
「名簿」の話は最後までできなかった。
 
10キロ先に浮かぶアンガウル島が晴れていて見えた。
陛下はペリリューの慰霊碑に拝礼されたあと、防波堤付近まで歩み寄り
アンガウル島へも拝礼された。私は素直に「ああ、よかった」と感じた。
陛下はアンガウルのことも気にかけてくださっていたのだと。
そしてこれが曇天なら、島は見えなかったであろう。
 
名簿とは
「僕だけ陛下に拝謁するんじゃ戦友に申し訳ないから戦死者1200名の名簿を
作ったよ」そういって倉田氏は
戦友の名簿を大切に持って、いや戦友と共に
式典に参列した。
 
この名簿の編纂作業には私も加わったのだが、テレビ局が
「どれくらい時間がかかったのですか?」と聞く。
アンガウル島、ならびにペリリュー島の戦死者名は公式記録されておらず
船坂弘氏が戦後、全国を走り回って、個人的に独力で名簿を作成した。
現在は様々な書物に転用されているが、大元は船坂氏の努力の賜物で
あることを
忘れてはならない。すべては戦友の弔いのために。
 
これを我々の編纂チームが
さらに精査し、戦友はもとより戦闘に巻き込まれた
軍属、パラオ人(民間人)を
含めた名簿を作成した。だからかかった時間をと
問われれば
その経緯を始めから説明しなければならない。
 
名簿を作成する経緯で、遺族との温度差に泣かされる場合も多かった。
戦死者の多くは20代前半の現役兵なので妻を持たずに出征し直近の
子孫が途絶えていることが多い。兄弟が存命であれば
慰霊に対する思い
入れも強いが甥や姪に調査協力を乞うても、直系でないので
ほとんど関心
が無いか、そっけなく断られたりすることも非常に多い。
この点、士官以上
は年齢的にも妻や子が居て出征しているので
割合にご子息が協力してくれる。
 
ペリリューの中川大佐は妻はあったが
子供が居なかったので直系の子孫は
存在しない。代わりに烏丸連隊旗手を
子供のようにかわいがった
というエピソードが有名である。
 
最近は孫、ひ孫世代が興味を持ってここへ問い合わせをしてくれるので嬉しい。
戦没者遺族会というのは地域ごとに存在するが、慰霊旅行の補助金が政府
から
出るのは子供世代までなので、これも孫までの伝承が難しくなっている
一因ではないか。
とにかく、たいへんな苦労の末、1200名の戦友とともに
式典に参列することができた。
 
あきつしま搭載ヘリ
海上保安庁の巡視船「あきつしま」にはヘリが二機搭載されている。
ペリリュー飛行場にはこの二機ともに飛来、着陸した。
どちらに陛下が搭乗されているかはわからない。
 
ペリリュー飛行場は旧帝国海軍屈指の航空基地であった。ここから多くの
飛行兵が飛び立っていって
そして、多くは二度と帰ってこなかった。
現在は荒れ果てたサンゴダストで固められただけの未舗装の滑走路が
一本のみ残る。
未舗装とはいえ、固い珊瑚岩の上に築かれた滑走路である。
 
昭和19年頃は重武装の一式陸攻や爆撃機銀河などが離着陸していた
のだからヘリの
着陸には全く心配ないのだろうが、宮内庁の職員が事前
視察した際、着陸には
舗装の要ありと判断したため、今回の陛下訪問前に
急遽、飛行場一角に舗装した
ヘリポートを造成した。宮内庁の安全にかける
徹底ぶりには、ただただ驚く。
 
陛下の島内移動にはドルフィンベイリゾート所有の、普段はダイビング客の
送迎や戦跡ツアーに利用させている
マイクロバスが選ばれた。ドルフィンベイ
リゾートのマユミオーナーは
「こんなのでいいんですか?」と言っていたが
一番、コンディションが良く、エアコンも故障していない車だった。
 
式典の参加者
式典の当日、西太平洋戦没者慰霊碑公園には事前に認可を受けた
18社の報道機関と戦友、遺族会が参列した。式典会場までは両岸を挟んだ
一本道なので完全閉鎖した。
 
コロールで足止めをくったものも多い。どんなに頑張っても途中に海があるの
だからペリリュー島までは
行くことはできない。島へ渡るボートの数も限られて
いるうえに宿泊施設が少ないので島へ滞在できる人間は限られる。
キャンプ・野宿は禁止である。
島へ渡りたくても渡れない状況、しかしこれが
セキュリティ面で幸いした。
過激な右翼団体などはコロールに留まったし
ペリリューに居たのは
ペリリュー島民とマスコミ関係者くらいだった。
各社ともに
今や珍しくなったダイヤルアップ回線で、一生懸命日本に記事を
送信していた。
 
オレンジビーチの米軍慰霊碑へ 
太平洋戦没者慰霊碑で式典が行われた後は
オレンジビーチにあるアメリカ陸軍第81師団モニュメントにて(旧千人墓地)
で米軍兵士への慰霊が行われた。これには
米軍オフィサーが参加した。
 
ペリリュー島の攻略はふたつの部隊が行った。強襲揚陸でもっとも苦戦を
強いられたのが第一海兵師団で兵力の60%を戦死傷により損耗した。
陸軍81師団はその後、増援部隊として海兵隊に続き掃討戦にあたった
部隊であるが、
今回は、陛下のスケジュールの都合かオレンジビーチの
81師団のモニュメントの
慰霊にとどまった。
 
なお、第一海兵師団のモニュメントはもっと山を登った
ペリリュー神社近く
大山の麓にある。
 
パラオ国際空港は旧海軍飛行場
陛下の到着されたパラオ国際空港は
旧帝国海軍の航空基地(旧アイライ飛行場)である。
昭和19年には連合艦隊の武蔵がパラオに投錨し武蔵に乗船していた陸軍
一個大隊と海軍陸戦隊一個大隊が下船。
民間の勤労奉仕隊と共にアイライ
飛行場建設に尽力した。
建設は全てスコップやモッコを用いた手作業であった。
 
勤労奉仕を行う者の中には中学生も混じっていた。
「ここに飛行場を作れば日本の戦闘機がたくさん来るから」と言われたので
彼らは懸命に汗を流した。作業中に飛行機が飛来したので、中学生二名が
喜び飛び出していくとそれは米軍機だった。
彼らは米軍機の機銃掃射を
受け死んだ。
こうしてたいへんな努力と犠牲の末、全長1400メートルに及ぶ
滑走路を完成させるに至った。
 
完成した飛行場は戦局の悪化に伴い同年6月までという僅かな期間で
あったが
主に零戦(第343海軍航空隊「初代・隼」)の基地として運用された。
終戦とともにアイライ飛行場は米軍に接収され、アスファルトで舗装され
それが現在のパラオ国際空港となった。
 
現在はその面影を見ることはできないが、飛行場には大勢の人々の
血と汗と涙が染みこんでいる。
 
パラオ国際空港の滑走路は距離が短いため、離着陸が可能なのは
B-757、B-767などの中型機が限度で日本の政府専用機の
ボーイングB747
(通称ジャンボジェット機)は着陸できない。
そのため、今回陛下が搭乗した機体は民間のチャーター機で
ANA-767-300(機体番号JA625A)であった。
 
コロールで移動に使われた車はインフィニティのようである。
普段は大統領の車だと思う。こういった上等な車はパラオでも
一台か二台しか見たことが無い。
 
マスコミの取材攻勢
今回、倉田氏、土田氏ともに多くの取材を受けた。
特にアンガウルの倉田氏はあまり表に出るタイプではないが
「戦友のためなら」と報道陣の求めに必死に応じてきた。
すっかり疲れ切ってしまったが、常に無念に散って行った
戦友が傍らにいる。戦友のためだった。
 
「僕はね、靖国神社へ行けないんだよ、戦死した戦友に顔向けできなくてね」
普段から、そんな話を私は聞いていた。倉田氏は取材攻勢にすっかり疲れ
切ってしまい、あれから一ヶ月
以上たった今でも体調がすぐれないという。
 
そして日本テレビは天皇陛下の訪問が正式決定する前より
ペリリューの土田氏に密着取材を行っており、今回もその一部であった。
撮影時間には常に余裕を持って高齢の土田氏に常に気を遣い、お身体の
具合が悪かったら
無理しないでくださいね、とこちらのこちらのペースに
合わせてくれた。
日本テレビはとても紳士的な対応だった。
 
ところが直前になって他社が殺到してきた。土田氏は空いた時間を利用して
他社のインタビューにも答えていたが
各社の凌ぎ合いは凄まじく、奪い合い
のような状況といっても
言い過ぎでない。お二方共に高齢である。それを
メディアごとに同じ質問をするものだから大変だった。
 
「ジャングルの中を歩くシーンを撮りたい」などとどの社もリクエストするもの
だから、お二人ともすっかり疲れてしまった。
 
民放の取材チーム(カメラマンと取材クルーなど、一通り揃って1組)は
1チームか多くても2チームである。一方、NHKは8チーム体制であった。
ある民放関係者は「とてもNHKさんにはかないませんよ」
資金力も組織力も
民放と比べ物にならないほど莫大である。
 
一番過酷なのは某新聞社の記者で、段取りが悪いのか、上司が無茶を
言うのか、
たった一人、ペリリューへ渡った。なんと宿の予約もないという。
もう島へ渡ってしまっては仕方ない。例外的に満杯の宿へ押し込んだ。
車がすべて押さえられているのでチェーンのよく外れる自転車で他社の
車を追っていた。
これを見ていた日本テレビのクルーが車に乗せてくれた。
 
一方、コロールでは
ここぞとばかりにユニークなパラオの文化をネタにしようと
各社取材を行っていた。どこの局も日本統治時代の年配パラオ人に取材が
したいらしい。シニアセンターへ行けばいいのだがシニアセンター
「取材はNO」だそうだ。それでも日本の取材チームが食い下がると
なんと出演料金表が出てきた!取材内容に応じて細かく料金が分かれている。
これは合理的なシステムだ。パラオ人は取材に振り回されることも無く
しっかりしている。
 
そしてWRTCショッピングセンターでも取材交渉が。どうしても「チチバンド」を
言わせたいらしい。
根負けした責任者が撮影許可を出して
女性店員にブラジャーを持たせて「チチバンド!」と言わせていた。
取材クルーは大真面目だが、はたからみれば滑稽だ。
それから人気のパラオ語は「ツカレナオース」だった。
これも言わせたいので、無理矢理乾杯のシーンを撮っていた。
 
嵐が去って
日本のマスコミはパラオのキャパシティを理解していなかった。
人口2万人足らず、インフラも十分に整っていない島国で過大な要求を
し過ぎた。日本のテレビ局の無茶な要求は
日本国内においてはある程度
わがまま言っても通るのだろうが、
パラオは勝手が違う。テレビ局が言っても
無理なものは無理なのである。これらは全て
過度な負担となってパラオの
住民に重くのしかかった。
 
思いつくまま書いたのでメモ書きのような形になってしまったが
陛下のパラオ訪問の状況が少しでも伝わればと思う。
 
ようやく嵐は去って、のんびりとした、いつも通りのパラオに戻りつつある。

戦友会を運営して思うこと(2)戦争の話の聞き方

靖国神社

戦友会を運営して思うこと(2)戦争の話の聞き方
 
「戦争の話を聞かせてください」
最近、当戦友会に、そういって訪ねてこられる人がとにかく多い。
もう戦争で最前線を経験された方は少ないからだ。
最近は若い人も多いので我々としては、来るもの拒まず
というスタンスでいるが、何を勘違いしたか、そこで政治的な
主張をしたり、一方的に持論を展開する人も後を絶たないので
そういう人たちはお引取り願っているが、だがそれは一部で
純粋に戦争の話が聞きたいという若者がほとんどだ。
 
それにしても原則的には、ここは戦友会。
戦友たちの憩いの場なのだ。一ヶ月に一回集まって
昔の思い出話、亡き戦友たちの話や、四方山話をして帰路に着く。
「これが一ヶ月に一度の楽しみなんだ」
「この集いがなくなったら楽しみがなくなってボケてしまうよ」
 
そんな声を聞くたびに、私は戦友の方々が今回も元気で会場まで足を
運んでもらえたことに安堵している。だから、私たちはその手伝いが
できればそれで良いのであり昔話を隅で聞かせてもらえれば
それで満足なのだ。
 
聞きっぱなしはダメ
戦友会に出てくる戦友の方々は
「戦争の話を聞かせてほしい」
と言われれば、まず断ることはないだろう。とても丁寧に話してくれる。さらに
「わからない軍隊用語はないかい?」
などと、気を遣ってくれたり、とても若者に優しい。
 
感想と報告を忘れずに
しかし戦争のしかも最前線の回想は、死に関わる話が多く
語る方だって、渾身で覚悟がいるのだ。それで、何も
報告がない場合が多く、戦友の方々は、音信不通になってしまうと
「本当にあれでよかったのか。どうのように活用されたのか」
とずいぶん時間が経っても悩むことが多いという 
 
「戦争の話を聞かせてください」
そう、言って来られるのは結構だが、話す側には相当の
エネルギーと覚悟があることを忘れてはならない。
聞きっぱなしはいけない。アフターケアを忘れてはならない。
 
取材が目的であれば、「このように活用されましたよ」と
出来たものを送るとか、純粋に戦争の話を聞きたい
若者ならば、きちんとお礼の葉書や電話を忘れないことだ。
 
つづく。
 
戦友会を運営して思うこと(1)将校と兵卒

戦友会を運営して思うこと(2)戦争の話の聞き方
 
beibaoke / Shutterstock.com

2015年5月24日 (日)

ブルーホーネット

TH-480B,ブルーホーネッツ

北宇都宮駐屯地開設42周年記念行事、無事終了しました!
予想外の終日晴天に恵まれ、各機、大迫力の展示飛行でした。
 
なお、今年度(平成27年度/2015年)よりTH-480への機種変更に伴い
スカイホーネットの名称新たに「ブルーホーネット」と称して
翼が触れんばかりの六機によるアクロバットと編隊飛行が行われました。
ヘリコプターによる機動はブルーインパルスにも真似できない
驚くべきものであり、 大迫力でありました。
   
なお、80枚の限定で宇都宮のみでの販売でした「疾風」Tシャツ
好評につき午前中でほぼ完売となりました!ありがとうございました!
 
わざわざ宇都宮へ足を運んで頂いた方へ、なんとか
ここでしか味わえない思い出を持ち帰ってもらおうと
色々と考えております。また来年もよろしくお願い致します!

2015年5月23日 (土)

自衛官お見合いパーティー

Cimg0284

今日はオリオンスクエアで自衛隊お見合いパーティーでした!
男女それぞれの自己紹介、フリータイム、告白&ちょっと待ったコールなどなど!
熱戦でしたが、今年は11組のカップルが誕生しました!!
 
自衛官の人気は凄い!こっちもハラハラドキドキしながら見ていました!
うまくいってほしいなあ!
 
そして明日24日は北宇都宮駐屯地開設42周年記念行事です!
ぜひお越しください!
 
2016年もやると思いますので
詳しくはお問い合わせください!
  

記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

 
戦史 ブログランキングへ

 

2015年5月22日 (金)

5月24日(日)北宇都宮駐屯地開設42周年記念行事

10428622_1450689198561604_381878034

11270449_1448806888749835_307405082

新生ヘリアクロバットチームの展示飛行は10時からです!
 
5月24日(日)北宇都宮駐屯地開設42周年記念行事の案内です。
周辺道路はたいへん混在しますのでお車で来場される方は
お早めにお越しください。

2015年5月21日 (木)

戦友会を運営して思うこと(1)

靖国神社

戦友会を運営して思うこと(1)将校と兵卒
 
この年齢でまさか戦友会の代表をさせてもらうことになるとは思わなかった。
メンバーは80代後半から最年長は98歳になる。
 
実質的な運営(会場の手配、案内葉書の送付、電話連絡、司会等)は
我々若手で行い、戦友の方々には会場に足を運んで頂くだけ結構です、
ということにした。
 
あちらこちらにぶつかりながら、徐々に軌道修正してやっている。
失礼なこともあるかもしれないが、大正生まれ、明治時代の教育を受けた
ご年配方はどなたも例外なく寛容な心をお持ちで、数々の無礼を
許してもらっている。これが満足に運営できるようになった頃、
この戦友会はもう無いのかもしれないのが残念でならない。
 
これから、戦友会の運営で経験したことを少しずつ書いていこうと思う。
たくさんあるから少しずつ書く。 
 
まずは戦友メンバーの方をお呼びする際の敬称の付け方だが、「さん付け」
が最も無難かつ適切であると
私は思う。戦争は終わった。平等であるが
参加メンバーはいずれも旧帝国陸海軍の軍人だ。これは変わることはない。
 
そこには士官学校卒業の元大尉や将校(隊長)もいるし、一兵卒(兵隊)も
徴兵された方もいる。元憲兵さんも居る。志願された方と徴兵では
だいぶ事情が違う。そして、元隊長さんは「多くの部下を死なせてしまった」
という自責の念で苦しんでいる。戦争が終わり、退役された今では
上下関係は存在しない。戦友の方々はそれでも、過去の関係が根強く
残っていて、元上官に遠慮して満足に発言できなかったりする。
もちろん、頭ではわかっているのだがそういうものなのだ。
現代を生きる我々には理解が難しいだろう。
  
だから最もニュートラルな「さん付け」が無難なのだ。敬意を込めるなら全員
「先生」が最も良いが、そんなたいそうな呼び方はやめてくれといわれるので
私は一様にさん付けしている。
 
間違っても昔の階級で呼んではいけない。
経歴や戦歴を紹介する上で階級を出すときは必ず「元~~少佐」など
元をつけるのを忘れてはならない。
 

戦友会を運営して思うこと(1)将校と兵卒

戦友会を運営して思うこと(2)戦争の話の聞き方



つづく。
 
beibaoke / Shutterstock.com

2015年5月18日 (月)

四式戦闘機「疾風」と中島飛行機宇都宮製作所

四式戦闘機「疾風」

四式戦闘機「疾風」


キ84四式戦疾風

キ-84 四式戦闘機「疾風」
キ-84、四式戦闘機「 疾風 」(以後キ84)は中島飛行機が開発・生産を行った
重戦闘機で、速度、運動性、
武装と防備、航続距離など 最もバランスに優れ、
昭和19年(1944年)4月の正式採用後、 陸軍は「大東亜決
戦機」と称して最も
重要な航空機として位置付け、 大戦における運命を託した。
 
日本国民の総力を注い
で送り出されたキ-84は終戦迄の短い期間におよそ
3,500機が生産され大陸戦線、ビルマ戦線、フィリピン
戦線、および本土防空戦
において活躍。戦局の悪化に伴う部品の品質低下により、充分な性能が
発揮でき
ず、苦戦を強いられたが、よく敢闘し、多くの敵戦闘機やB-29を
撃墜、あるいは 特攻機として出撃、 御楯と
なり 南溟に散った。
 
戦後、 連合国は、接収したキ-84に再整備を施し飛行テストを実施したところ、
秘め
られた性能を発揮、P-51を上回る最高速度を記録。その性能に驚愕し、
日本戦闘機の最高傑作と評価した。

倉井利三少尉機 キ84四式戦疾風

▲倉井利三少尉機(四式戦闘機「疾風」)B-29を3機撃墜。最後の一機は体当たりを
敢行撃墜。
野木町へ墜落、戦死した。

◆宇都宮陸軍航空廠と陸軍航空部隊
宇都宮近辺には陸軍(清原・壬生)と中島飛行機で、三か所の飛行場を有した。
 
宇都宮南飛行場
中島飛行機の飛行場は宇都宮南飛行場と呼ば
れ、現在は陸上自衛隊
北宇都宮駐屯地となっている。飛行場と誘導路で接続された中島飛行機
宇都宮製作所ではキ84を専門に生産が行われ
ていた。
 
宇都宮陸軍飛行場
宇都宮飛行場(通称清原飛行場)は鬼怒川の東側高台上の清原村中央
に所在した陸軍の飛行場で昭和15年
の宇都宮陸軍飛行学校本校開校・陸軍
航空廠宇都宮支廠開庁により運用が開始された飛行場である。
 
宇都宮陸軍航空廠
陸軍航空廠宇都宮支廠
は昭和17年に宇都宮陸軍航空廠
(師・第34206部隊)に改編され、戦地への航空機補給基地として本格的な
運用に至る。航空
廠は陸軍航空本部直轄の組織として、中島飛行機で完成した
新造機を受領し艤装( 兵装の取付け等 )や塗装を行った後、廠内
に駐屯する
陸軍航空輸送部により各部隊へ空輸された。廠内の技能者養成所では
エンジニア養成が行われ、ここを巣立った軍
属の少年整備員が各戦地で
整備に腕を振るった。 戦局が悪化すると民間の中島飛行機の工場
(兼飛行場)に 出張所を設け直
接陸軍航空部隊へ航空機を配備する
仕組みへと 移行した。
 
宇都宮教導飛行師団・壬生飛行場
昭和19年に、大陸の白城子 陸軍飛行学校が 清原に移駐、作戦性
を持った
宇都宮教導飛行師団が編制された。飛行場内は飛行学校の訓練に加え、
中島飛行機から航空廠へのキ-43、 キ-49、
キ84の納入に伴うテストフライト、
さらに教導飛行師団の編成によりかなり過密になり航空事故が頻発したため
そのため宇飛校は本
校を壬生飛行場に移駐した。
現在のおもちゃ団地近辺である。
 
第6航空軍攻撃集団振武特別攻撃隊 掛川隊
宇都宮教導飛行師団は後に教導飛行師団司令部となり、昭和20
年には
第6航空軍より特攻機の誘導隊編成が下令され、宇都宮教導飛行師団の
教官、掛川義雄大尉を隊長とする97式重爆
撃機2機、搭乗員7名、
地上要員7名の計20名が清原を発つ。この部隊は後に
「第6航空軍攻撃集団振武特別攻撃隊 掛川
隊」として沖縄に出撃、
搭乗員7名は未帰還となり戦死と認定された。
 

◆中島飛行機宇都宮製作所
キ-84は 中島飛行機太田製作所と宇都宮製作所で生産を担った。
(またハルピンの満州飛行機製造ではキ-116と称しライ
センス量産予定で
あったが 終戦直前、ソ連軍の侵攻を受けて量産中止) 太田には開戦当時は
糸川英夫博士の傑作機 キ-43、
一式戦「隼」や、キ-44、二式戦「 鍾馗 」
そして、キ-49百式重爆「呑龍」の生産ラインがあったが、昭和19年以降は
生産機の多く
がキ-84へ移行する。
 
宇都宮空襲 
昭和20年7月12日から13日未明にかけた宇都宮空襲ではB-29、130機が
来襲、宇都宮市街地を中心に
焼夷弾を投下( 投下目標は中央小学校であり
市街地の壊滅 に重点が置かれた)宇都宮製作所はB-29空襲の直撃を免れた
が米軍は宇都宮南飛行場を大規模な陸軍補給処と位置づけており、艦載機や
P-51の襲撃を度々受け、施設や掩体内の機体な
どに被害を受けたが工場は
大谷地下空間(現在の大谷資料館)と大田原市の工場に 分散疎開中であり
発動機は戸室山、部
品工場は大谷地区の地下空間で稼働、機体組み立ての
本工場も、 辛うじて稼働を続けた。宇都宮製作所から出荷されたキ-84
は全て
無塗装のジュラルミン剥き出しで配備先の部隊ごとに迷彩等の塗装が施された。
 
女子挺身隊(16,7の女学生)必死の努力
特筆すべきは宇都宮製作所におけ
る女子挺身隊の尽力である。 女子挺身隊は
16、7の女学生であったが細身との理由でキ-84の胴体後部に潜り込み外側
から何
百本と打ち込むリベットをカシメる作業を担った。胴体内に響くリベットの
打撃音と強烈な振動は、脳天が割れるようで、例え屈
強な男でさえ、10分も
耐えられるようなものでなく、気が狂う程であったが、女学生の忍耐強さは
驚くべきもので、細い両腕と
足で懸命に踏ん張り、握った当て板を最後まで
支え続けたのである。キ-84を語る上で、この女学生達の必死の努力が
あったこ
とを忘れてはならない。
 
そして終戦後の8月16日、生産ラインには新鋭20mm機関砲(ホ5)4門を
備えたキ-84乙型が二機、 殆
ど完成状態で出荷を待っていた。
 
文と絵:篠原直人
監 修:大氣高大 
 

※記事は調査継続中につき随時加筆訂正を行う場合があります。
 
 

ステンシルフォント(漢字・和文)

漢字・和文のステンシルフォントを作成しています。ミリタリー系・軍事・SF系
創作物に最適です。もちろん個人・商用利用ともにOKです。

 

ステンシルフォント(漢字・和文)01

ステンシルフォント(漢字・和文)02

Photo_4

ステンシルフォント(漢字・和文)

ステンシルフォント(漢字・和文)04

 
漢字・和文のステンシルフォントの既成販売品は2万円くらいするので
「ちょっとだけつかいたいけど、フォントを購入するほどではないなぁ」
という方向けのサービスです。(上はサンプルです)
 
一文字につき200円で作成します。希望される文字をメールで
お送りください。アウトラインデータ、もしくはPNG形式にて納品致します。
また、ステッカー出力、マスキング出力も承っております。