2017年8月11日 (金)

零式艦上戦闘機ベクターデータ販売

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販売用のベクターデータの見本一覧です。
第一弾は「ゼロ戦」です。
 
自由に着色・加工・編集が可能なデータです。
 
価格ですが下記の通りで提供させて頂きます。
商用は全ライセンス付与です。
 
商用 ¥49,800-
▲プロモーション・宣伝・広告等での利用
▲グッズ製作(Tシャツ・マグカップ等) 
▲まとめサイト(キュレーションサイト)での利用 

▲アフィリエイトが付随するサービスでの利用 
  
非商用 ¥2,980-
〇個人ブログ・ウェブサイト素材としての利用

〇動画素材(youtube、ニコニコ動画など個人非商用アカウントでの利用)
〇発行部数1,000部以下の同人誌・趣味の印刷物

〇SNSのアイコン等
〇教育・講演、プレゼンテーション等

 
非商用購入
https://www.amazon.co.jp/dp/B074TVT9DC
 
商用購入
https://www.amazon.co.jp/dp/B074TWFVGP
 
こちらに続きまして
彗星や紫電改、震電、陸軍機、戦艦などもラインナップに追加していきます。
よろしくお願い致します。

2017年8月 9日 (水)

疾風うちわ

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Hayate宇都宮限定の疾風うちわです。
護国神社の盆踊りで配布致しました。
涼しく洋上迷彩のお色となっております。

2017年8月 8日 (火)

ゼロ戦の増槽大研究

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零戦のイラストを全種類描くにあたって
増槽も描いています。
 
増槽(ぞうそう。陸軍名称は落下タンク)
は長距離を飛行する際に取り付ける外部燃料タンクで、
中身が空っぽになったら、切り離し捨ててしまうタンクです。
 
増槽は型式が存在せず、機種によってバラバラなのです。
これだけ零戦がブームなのですが、増槽は
全然研究がされておりません!
専門書などを見ても多くが割愛されております。
 
私も本物をほとんど見たことがありません。増槽だけ展示してあるのは
万世特攻平和祈念館と筑波海軍航空隊記念館くらいでしょうか。
使用後捨ててしまうものですから、残っていないのは仕方ないのかもしれません。
図面も機体の一部としては見なしていないようです。
 
材質・塗装・形状・取り付け場所・支柱、すべてが
年代や機種によって全く、あるいは微妙に異なります。
 
全部は描ききれないので、まず、ゼロ戦に限って描くことにします。
ゼロ戦だけで主に三種類あります。このほかに現場で小加工して取付したり
したケース等、たくさんのパターンがあります。 
 
◆初期型胴体下330リットル(海軍機専用)
もっとも有名なのは真珠湾などで使用した21型の初期型。330リットル。
(彗星艦爆と兼用です。彗星艦爆は翼下に二個装着できます)
支柱にカバーが装着されています。主に52型で見られます。金属製。
 
◆後期型胴体用320リットル(海軍機専用)
次に後期型。形状がかなり細長くなります。主に52型甲以降に見られます。
「雷電」などにも同じものが使われています。
材質は木製に変更され、支柱も剥き出しになっています。
 
◆陸海軍統一型二型落下増槽200リットル×2
翼下に二個取り付けるタイプで「隼」「飛燕」「疾風」など
陸海軍で同じものを使っていました。
ゼロ戦は62型以降の零爆で胴体下に爆弾を取り付けた場合
翼下に二個となります。木製。

2017年7月27日 (木)

ベクターデータの販売

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イラストデータのライセンス販売を始めます。
 
今までは主に自分でグッズを製造していましたが
一度に数十万~百万単位でかかるので
マイナー機などはグッズ化にも相当な費用と覚悟が要りました。
大量のダンボールに囲まれて
袋詰めや在庫管理などで日が暮れてしまいます。
 
そこでベクターデータ(編集可能)のライセンスを販売して
自由に使って頂こうと考えています。 
 
見本を少しアップしました。販売するのは
今まで描いた飛行機と艦船全てです。
零戦は全ての形式が揃っています。
編集可能なので、カスタマイズやカラーリング、
自由なデザインが出来ます。
 
取材で全国各地に行くのでお金がかかります。
クラウドファンディングが流行ってますが、
どうしても身動きが不自由になりますし、責任の所在が曖昧となります。
今のところ、必要なお金は自分で調達するがモットーです。

2017年5月19日 (金)

航空自衛隊黎明期事故による殉職者

 
航空自衛隊黎明期に殉職され
その礎を築かれた方々のお名前を記します。
現在、航空自衛隊の黎明期を研究しており、何かお役に
立てればと検索データベースの作成に至りました。
 
航空自衛隊創設から昭和35年8月までですので
ブルーインパルス発足前となります。
 
左からお名前、階級※殉職後の特進階級です
事故発生日、出身地、事故の内容を記載しました。
  

鈴木光・2尉・昭和29年9月26日・北海道

東海林迪夫・2曹・昭和30年8月8日・岩手県
第1操縦学校所属T-34、連絡飛行中京都府日向町に墜落

土田忠夫・1曹・昭和31年2月6日・宮崎

平塚勝・3佐・昭和31年6月26日・神奈川
第二操縦学校所属T-6訓練中松島で空中衝突

竹内慶文・3佐・昭和31年6月26日・茨城

中田弘正・2士・昭和31年7月28日・長野

宇野進・3佐・昭和31年8月16日・愛知
臨時築城派遣隊所属T-33A、連絡飛行中宮城県松島海上に墜落

三木琢磨・2佐・昭和31年9月29日・愛知 三木琢磨大尉(海兵70期)
臨時築城派遣隊所属T-33A、
連絡飛行中ジョンソン米空軍(現在の入間)基地付近に墜落
米空軍ジョー・ライリー大尉(少佐)同乗殉職

玉利清治・防衛庁技官・昭和31年9月29日・鹿児島

谷嶋広美・1曹・昭和31年11月2日・長崎

指宿正信・1佐・昭和32年1月9日・鹿児島(海兵65期)
第二航空団所属F-86F、2機訓練中接触天竜川河口と遠州灘に墜落
指宿二佐殉職、S空将補ベイルアウト成功

五日市芳武・士長・昭和32年2月19日・岩手

後藤守正・2佐・昭和32年3月4日・福岡
臨時美保派遣隊所属定期便C-46、美保飛行場着陸時海上に墜落

岩本繁明・2佐・昭和32年3月4日・熊本 岩本繁明大尉(航士54期)

吉井富男・1曹・昭和32年3月4日・栃木

野村久光・1曹・昭和32年3月4日・東京

入山芳夫・1曹・昭和32年3月4日・茨城

高野衛・2曹・昭和32年3月4日・茨城

丸山好行・2曹・昭和32年3月4日・東京

古渡清文・2曹・昭和32年3月4日・茨城

高橋唯清・2曹・昭和32年3月4日・長野

岩本勇・3曹・昭和32年3月4日・大分

近藤実・士長・昭和32年3月4日・島根

河井重友・防衛庁技官・昭和32年3月4日・岡山

小川光昭・1尉・昭和32年5月20日・大阪
第2航空団所属F-86F、千歳へ移駐の際、苫小牧および千歳付近に
各1機墜落

小林照彦・2佐・昭和32年6月4日・東京(飛燕・244戦隊長)
第1航空団所属T-33A、離陸時の事故によって
火災発生消失

天野裕・2佐・昭和32年6月4日・新潟
〃小林機に同乗

肱岡勝雄・3佐・昭和32年6月13日・鹿児島
第2航空団千歳派遣隊所属F-86F、計器飛行訓練中苫小牧北方に墜落

中村博・2佐・昭和32年6月20日・神奈川(海兵71期)
第1航空団所属F-86F、夜間訓練中天竜川河口南方海上に墜落

時任二三夫・士長・昭和32年7月30日・宮崎

松本力・2佐・昭和32年9月30日・福岡
臨時築城派遣隊所属T-33A、訓練中飛行場東方海上に墜落

佐藤正・3佐・昭和32年9月30日・大分

吉田誠一・2佐・昭和32年11月16日・東京
第一航空団所属F-86F、訓練中高松市松島埋立地に不時着大破消失

酒井康夫・3佐・昭和32年11月21日・京都
第一航空団所属F-86F、訓練中浜名湖南方海上に墜落

岡野武雄・3佐・昭和32年12月26日・福岡
第二操縦学校臨時松島訓練隊所属T-6、航法訓練中山口県岩国沖に墜落

西川尚信・1尉・昭和32年12月26日・広島

鶴井平・1曹・昭和33年3月13日・愛知
第一航空団所属F-86F、訓練中爆発天竜川河口に墜落

田代孝・3佐・昭和33年4月6日・和歌山

新川久三・士長・昭和33年4月13日・福島

半田要一・3佐・昭和33年5月21日・群馬
第一航空団所属F-86F、2機、訓練中接触尾鷲市南東海上に墜落(要確認)

上田雄二・2曹・昭和33年5月21日・熊本
第二操縦学校分校所属T-6、訓練中宮城県田尻町付近に墜落(要確認)

倉原正典・1士・昭和33年6月24日・大分

大田忠敏・1士・昭和33年7月11日・山口

加治佐稔・1士・昭和33年7月24日・鹿児島

猪原瑞夫・2曹・昭和33年10月23日・熊本
第二航空団所属F-86F、訓練中北海道島松演習場に墜落

山川稔・1尉・昭和33年12月10日・長崎
第二操縦学校所属T-6、訓練中福島県箕輪山に墜落

中村俊英・1曹・昭和33年12月10日・鹿児島

諸隅武夫・3曹・昭和33年12月11日・佐賀

村上忠敏・1尉・昭和34年1月2日・大分

高橋光雄・士長・昭和34年3月11日・秋田

藤原敏之・1尉・昭和34年5月4日・岡山

土井幸信・2曹・昭和34年5月19日・東京
第三操縦学校所属T-33A、訓練中築城飛行場外に墜落

今石琢造・1尉・昭和34年6月5日・福岡
第一航空団所属、F-86F、訓練中松島飛行場に墜落

桐原健男・1曹・昭和34年7月3日・宮崎

坂本誘・3曹・昭和34年7月3日・山口

弘川勝信・2曹・昭和34年7月22日・佐賀
第16飛行教育団所属T-33A、訓練中宇部沖に墜落

渡辺昶夫・3曹・昭和34年8月17日・栃木

山本哲夫・3曹・昭和34年9月5日・栃木

藤田明・士長・昭和34年9月26日・茨城

鶴田茂・1佐・昭和34年10月5日・鹿児島
第二航空団所属F-86F、2機、訓練中空中接触
によって三沢沖に墜落

山本秀成・3尉・昭和34年10月5日・鹿児島

脇信良・士長・昭和34年11月30日・鹿児島

白善誠一・1曹・昭和34年12月23日・京都
第一航空団所属F-86F、訓練中静岡県安倍郡山中に墜落

吉田博昭・1曹・昭和34年12月24日・新潟
第四航空団所属F-86F、訓練中金華山沖に墜落

井島直次・技官・昭和34年12月30日・静岡

木暮辰雄・1尉・昭和35年5月9日・群馬

平原良彦・2尉・昭和35年5月24日・鹿児島
第14飛行教育団所属T-6、夜間訓練飛行中海上に墜落

米谷哲雄・1尉・昭和35年6月29日・北海道
第一航空団所属F-86F、射撃訓練中熊野灘に墜落

鈴木義英・1尉・昭和35年8月4日・東京
第一航空団所属T-33A、訓練飛行中愛知県下に墜落

三崎義信・1曹・昭和35年8月16日・熊本
第一航空団所属F-86F、2機、編隊飛行訓練中
空中接触によって遠州灘に墜落

2017年3月31日 (金)

四式戦闘機「疾風」パイロット堀山久生中尉のお話

近現代史研究会で四式戦闘機パイロットの
堀山久生元陸軍中尉のお話を拝聴したので
簡単にメモしておきます。 
 
堀山氏は、幼少期に明野で飛行機と出会い、
忽ち憧れの存在となり、将来はこれに乗ってやるぞ、と決意する。
 
陸軍士官学校57期合格。航空科を志望するも叶わず砲兵科へ。
昭和17年4月、砲兵学校、輓馬砲兵、
7月に野砲兵第五連隊配属。陸軍砲兵将校としての道を
歩むこととなった。
 
数学が大得意であった堀山氏は
その才能を遺憾なく発揮し、成績は常に砲兵科トップクラス。
 
堀山氏、曰く、
砲兵という兵科は、早く計算が出来たものが優秀なのだ。
簡単に言えば、戦で敵と撃ち合いになった状況に於いて
敵より早く弾着地点を計算して砲撃、敵を撃滅すれば
勝利である。
 
このときの教官が、
「燃えるが如き闘争心」という精神訓をよく口にしていた。
一方、堀山氏は戦場においてこそ、精神論ではなく、
沈着冷静こそが勝利に繋がるとの信念を持ち続けた。
数学を重視する砲兵においては尚のことであった。
 
陸軍士官学校第57期(以下陸士57期と称す)は
異例で、歩兵や砲兵を専攻した者でも、
途中から二度に渡って、航空科への転科が行われた。
一度目は志願、二度目は命令によるものだった。 
 
この方針転換は、陸軍でも航空の重要性が
認識されつつあり、戦局悪化に伴う航空将校の戦死・不足に
よる措置だった。
 
陸士57期の卒業者は1,550名中、志願と命令合わせて
400名が航空へ転科する。内、300名が操縦、100名が
偵察へ進んだ。
 
これに不満を漏らすものも多く
「なぜ特操を増やしてやらんのか」とむくれた。
この点、海軍では制度が優れていて、予備士官の存在が
大きかったと堀山氏は回想する。
 
この不満に対して当時の陸軍士官学校、牛島満校長は
「400名を航空にやるのは惜しいが、今は航空が足らないから
辛抱して行ってくれ」
と激励。この言葉に一同感激し、事態は収拾した。
もともと航空志望の堀山氏は、内心嬉しかったと回想する。
 
こうして、多数が航空へ転科し、訓練が始まる。57期の航空科、
特筆すべき点は、九五式中間練習機(通称赤とんぼ)をすっ飛ばして
いきなり全員を九九式高等練習機に乗せたことだった。
九九式高等練習機は実用機を改造したもので、最初からこんな立派な
飛行機に乗れるのかと、一同、大いに高揚したという。
 
訓練生の一割、死んでもいいから、最初から九九高練でやれ!
という教育方針だったというから驚きだ。
 
埼玉県の狭山飛行場と茨城県の高萩飛行場に200名、100名ずつ
別れ訓練を続けたが、一人も殉職者は出なかった。
 
この間、堀山氏は一週間に二回、着陸失敗を経験している。

一度目の事故
一度目は速度が出過ぎて着陸に失敗。
 
着陸失敗して、飛行機がつんのめった際、
腹に操縦桿が突き刺さって殉職するケースが多いと
あらかじめ学んでいた堀山氏は、
(多くのケースでは失速して墜落する瞬間、咄嗟に
操縦桿を引いて上昇しようとする)
 
墜落する瞬間、操縦桿を押し込むと同時に
エンジンのスイッチを切った。沈着冷静であった。
飛行機は墜落大破したが、これが教官から
「あの状況で大したものだった」
と褒められ、咎められることは一切なかった。
  
二度目の事故
今度は慎重になり過ぎるというもの、速度を落とし過ぎて
着陸時に失速。こういうときは頭を下げて速度を回復すれば
良いのだが、地面が迫る状況で、なかなかそうはいかない。
そのまま墜落した。一週間で二度も飛行機を壊したが、
一切、叱責を受けなかった。
 
当初、重爆撃機を志願していた堀山氏であったが
二度も飛行機を壊している奴は危なっかしくて、
大人数を乗せる重爆撃機は駄目だ。
死ぬなら一人で十分だと、いうことで戦闘機へ回される。
富士飛行場へ移動し九七式戦闘機に搭乗し戦闘機の訓練が
開始された。
 
三度目の事故
今度は三度目の墜落。編隊飛行中に
空中接触を起こし、落下傘降下。
かすり傷ひとつおわず、生還。接触した一番機の
戦友は衝撃で意識を失い、墜落しかけたが、
地上数メートルのところで意識が戻り、引き起こし
事なきを得た。
 
実はこのとき、整備員の不手際で九七戦の落下傘が
適正に備えられていなかったが、氏は、これを見逃さなかった。
正しく直して搭乗したことが命を救った。
 
壊した飛行機は当時の価格で70万円。
(一機の値段か三機の値段かわからない)
戦友からは、
「大日本帝国陸軍の航空機を三機も撃墜した貴様はトップエースだ。
ルーズベルトから勲章もんだ」からかった。
 
今でも陸軍に借金を返せていないので、申し訳なく思っている
という。
 
休暇を貰って、実家に帰ったときのエピソード
堀山氏は航空に転科してから、成績が芳しくなかったので
父に激しい叱責を受けた。その折、堀山氏は
 
「自分は特攻隊に志願して、必ず戦果をあげる。一機で敵艦一隻を
必ず沈めるから勘弁してくれ」と父に誓った。
 
しかしこの言葉を聞いていた母は
敵艦一隻沈めようと、息子が戦死しようものなら、叱責した父を
一生許すことはなかった」と戦後、長い事忘れなかった。

 
明野から数えて飛行時間150時間で訓練終わり。
(欧米のパイロット養成課程では最低500時間は必要といわれる)

 
特攻の志願募る

特攻隊の志願を募ることになった。各自へ用紙が配布された。
熱望する、希望する、可、不可、どれかにマルをつける
のだが、

「自分は飛行機を三機も壊しているヘタクソだから、
熱望にマルを書いたらからかわれるんじゃないか」と、考えて
希望にマルを書いて出した。
上から二番目の、希望だったらいつか必要となれば
特攻の声がかかるだろう、くらいに考えていた。
 
すると上官より、
「将来の戦隊長を育てているのに、特攻に志願するとは何事か!」
とのお叱りを受ける。
 
中尉任官。館林に移動し、
第194振武隊を拝命。四式戦闘機「疾風」で特攻訓練に励む
四式戦闘機は重戦で、速度計は750km/hまで振ってある。
勤労動員で造っていたので、どの辺りまで
耐えられるのか、不安だった。650km/hを
超えたら怖くなった。急降下から引き起こすと目の前が
真っ暗になった。
 
それに比べ、隼は乗り易くよかった。
機体も女性的なラインが優美だった。さらに遡れば
九七戦は手を離しても真っ直ぐすすむ良い飛行機だった。
 
振武隊(特攻隊)の出撃も本格的になった頃
特攻の教本が配られた。教本には次の如く記載があった。

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と號空中勤務必携~昭和20年5月(特攻の教科書)▼

突入寸前、速度は最大だ。飛行機は浮く。
だが浮かれては駄目だ。力一杯押さえろ押さえろ。
人生二十五年、最後の力だ。神力を出せ。
 
頑張れ。神も英霊も照覧し給うぞ
目などつむって目標に逃げられてはならぬ。
目は開けたままだ。
--------------------------
 
堀山氏はこの教本と教育法に対し、
独自の理論を展開する。考案した戦法は次の通りである。
 
堀山中尉の研究考案した戦法▼
--------------------------
航法
離隔距離約300km、高度100メートルの低空。
予想海面では地球の湾曲に沿い、更に低空。
 
攻撃
敵発見後、超低空水平攻撃。高度10乃至20メートル
時速400km/h、敵前約10メートルの地点で短延期信管で
水面下突入。トリムタブ使用。
250キロ爆弾2発を目標の敵軍隊輸送船の船底で爆発させる。
高橋太郎参謀に館林で6月末意見具申し調査のご返事あり。
 
効果
海軍の機械水雷の爆発に似た効果を期待。
1万トンの輸送船の敵兵一千名と火砲
戦車、武器弾薬、多数を轟沈せば大満足。
(ひらがな表記にして句読点を付け加えた。)
--------------------------
  
堀山氏の解説
堀山氏は、自ら具申した上記の論理的戦法に対し
「実際に突っ込んでいないから理屈ですけど」と断った上で、
次のように解説してくれた。
  

そもそも、航空力学的に考えれば、飛行機は
最大速力では浮き上がり、敵艦船を飛び越えてしまう。
逆に、一旦スピードを落として
信管が炸裂するスピードで突入すればよい。
対撃信管と瞬発信管の切り替えが出来た。
艦船の喫水線下で機雷のように爆発すれば
最も効果がある、うまくいけばボイラー室が誘爆して致命弾となる。
かくして一機で一隻を轟沈する。
 
四式戦闘機には初めてトリムタブがついた。
(海軍では当初から零戦に装備済み)
操縦席左手のトリムタブ操作ハンドルを回すことで
軽い力で尻尾が下がれば、揚力を抑え、機首が下がる。
突入時の速度は400km/hが限度。500km/hはスピードオーバー
である。400km/hでトリムタブをうまく使って水平に飛ぶ。
 
トリムタブの無い隼では浮かないよう、必死に頭を
押さえたと聞く。
 
神力、精神力などという言葉で説明しても
戦果は期待できない。
 
突入は喫水線下を目標とする。(従来の教育法は喫水線上突入)
すなわち水中爆発のほうが効果がある。以上の如く具申したが
150時間の飛行時間ではその操縦習得は困難との返答あり。
 
命は惜しくなかった。堀山氏は戦で命を捧げることを
次のように例えている。
 
「死とは、ふすまを開けて、隣の部屋に入るような感覚でしたね」
 
8月15日、館林で終戦。その瞬間
「死に損なった!」と思った。目の前が灰色になって
机の縁を掴んで立っているのがやっとだった。

戦後、米国へ招待を受ける機会があった。
その際に戦艦ミズーリを目の当たりにし、その大きさに驚愕。
これでは250kg爆弾をぶつけようと沈まない。ミズーリを見て
 
これで私の特攻は終わった、と思った。
  
メモおわり。

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2016年12月15日 (木)

「探してます」→「知ってます」情報共有掲示板

この頁は調査をされている方の情報共有掲示板と致します。
各種調査にお使いください。検索エンジンから多くの方が訪れますので
何か手がかりがつかめるかもしれません。
 
書込みむ際のお願い
・身内の方で戦没者の調べ方についてはコチラをご覧ください。
・無記名・匿名はご遠慮ください。
・他の閲覧者に配慮が頂けない書込みは予告なく削除します。
・連絡先交換等は自由ですが、個人間のやりとりは当サイトで責任は負いかねます。

2016年10月 8日 (土)

零戦(ゼロ戦)フリー素材・画像・アイコン

零戦(ゼロ戦)フリー素材・画像・アイコン

零戦(ゼロ戦)21型

零戦(ゼロ戦)52型

零戦(ゼロ戦)21型

零戦(ゼロ戦52型)

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零戦をはじめとした陸海軍大戦機のフリー素材アイコンを作りました。
PNG形式でダウンロードできます。
画像一段目、ゼロ戦21型上、52型上
二段目、21型横、52型横
 
マーキングを省き素の状態ですので、
各自機番号等ペイントツールで入れてお使いになれます。
 
機番号やマーキングを入れてほしい方は
こちらでお入れすることもできますので、ご連絡ください。
 
21型のほかに、11型、22型、32型、52型甲、52型乙、52型丙、53型丙
62型、64型(試製54型丙)、零式練戦、二式水戦など、
全ての型式をご用意しておりますのでご希望の方は
別途お問い合わせください。三菱製、中島製がお選び頂けます。

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シルエット1、2段目、ゼロ戦52型。
3段目、晴嵐、疾風、流星
4段目、飛燕、震電となっています。
 
非営利に限り、無料でご利用になれます。
商用の場合は有料となりますがアウトラインデータも
提供できますのでお問い合わせください。 
 

必ずこちらに従ってご利用ください。
画像使用についての決まり

以下写真画像

零戦二一型(瑞鶴/岩本徹三機)

2016年7月 1日 (金)

零戦画像集その1

ゼロ戦画像まとめです。
 
記事で使用しました零戦の画像・写真・イラストの一覧を作りました。
優美な姿を多くの方にご覧になって
ゼロ戦を好きになって頂ければと
思います。
 
私自身が作成した他、ライセンスを得る等、お借りしている画像もありますので
利用希望の方は必ずお問い合わせください。
 
逐次追加していきます。

52型と21型

零戦21型岩本徹三機

零戦52型

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零戦21型レプリカ(テキサン)

二式水戦

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零戦型式一覧零戦21型と52型の違い

零戦21型「赤城」進藤三郎大尉機

零戦64型(54型丙)

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零戦52型

零戦52型

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零戦52型

零戦52型(261空)

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零戦中島三菱塗装の違い

▲南溟の桜(当サイト)

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四式戦「疾風」

艦上爆撃機「彗星」一二型

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百式司令部偵察機三型

雷電(青木機)

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紫電改(菅野直機)

飛燕(244戦隊)

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2016年5月12日 (木)

疾風ミニポスター

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航空祭で配布予定のB5サイズのミニポスター(資料)です。
裏側は資料となっております。とはいっても疾風の戦記でなく
生産側の視点が主となっています。

 
戦中、宇都宮では疾風の製造工場がありました。
疾風の製造工場で必死に働く
16,7歳の女学生の話など
当時の証言をもとに記載しました。
大東亜決戦機、それはまさに国民の
総力が注ぎ込まれ
前線に送り出された、飛行機でありました。
 
少女が重労働に従事し、最前線では同じく16,7の少年が特攻へ行く、
これは悲劇ではありますが、同時に、
本当に日本の為に頑張ってくれてありがとうございますと、
そういった気持ちを周知したいと願うものであります。

2015年6月24日 (水)

竹田五郎氏のお話(1)飛燕・五式戦での本土防空戦

飛燕

 

最近、ご縁あって、元244戦隊で飛燕と五式戦に搭乗し
B-29邀撃戦に参加された元陸軍大尉でパイロットの
竹田五郎先生にインタビューする機会に恵まれたので
また、少しずつ書くことにします。
 
Q、篠原

竹田先生は飛燕でB-29を撃墜されていますね。
 
A、竹田五郎先生
いや、あれは部下が皆優秀だったんです。
 
Q、高度1万メートルはどうですか
 
A、1万メートルではちょっと姿勢を崩しただけで(翼をやや傾ける仕草)
失速してサーッと2000メートルくらい落っこちちゃう。だから旋回する時も
ほんの少しだけ翼を傾けて、
ちょっとでも角度がつくと、あっという間に
落っこちちゃうから。
 
逆落としの直上攻撃ね、あれはよく本に書いてあるのを私も読みましたが
ほとんど不可能じゃないかなと思いますよ。1万メートルでは。
直上攻撃というより、事実上の墜落に違いです。それで落ちた先に
運よくB-29がいて、
たまたま機関砲がそっちを向いていれば理論上当たる
ということなんでしょうけれど、相当な幸運じゃないと。
 
酸素も薄いから、すぐ酸素を吸引しないとすぐコロっといっちゃう。
ですからB-29を撃墜した、というのは7000メートルくらいじゃないかな。
私もそのくらいなら戦えました。
 
Q、五式戦はどうですか
 
A、あれは良い飛行機でした。
機体は三式戦ですけれど
百式司偵のエンジンを載せてね。
これがもっと早く出来ていれば随分、戦えたんではないかと思いますね。
それでもB-29相手には歯が立ちませんでした。
 
Q、戦後は小林照彦戦隊長とともに86Fで飛んでいますね。
 
A、244戦隊で
小林戦隊長は上官だったんだけれど
それが戦後は、私が86Fパイロットの第2期生、小林さんは
3期生の後輩ということで。
 
最も黎明期に活躍された指宿正信さんは一番最初の1期生でしたね。
そのほかに1期生では同じ海軍で艦爆に乗っていた鈴木瞭五郎さん
という方が居ました。指宿さんは、無口な方で寡黙でとにかく真面目な
方でしたね。
 
あれは浜松だったかな。離陸直後に編隊を組む時、指宿さんが教官で
二番機の訓練生、訓練生とは
いっても海軍時代のだいぶ上の方でしたけどね。
それで編隊を組む時、指宿さんが、ぶつけられた形になって、二番機は
その場で緊急脱出して助かった。指宿さんも
緊急脱出をしたんだけれど
間に合わなかった。
 
指宿さんと小林さん、どっちが先だったかな。
86Fの航空自衛隊の殉職者第一号となってしまいました。※1
 
Q、今度、鹿屋で零戦を飛ばすそうです。
 
A、今はなかなか許可しないね。航空ショーは。
 
Q、アメリカの航空ショーではP-51などで当時のパイロットが飛んでいる
そうです。90代で宙返りしたり。
 
A、私も飛ぶだけならできますよ、空戦をやらなければ(笑)
宙返りと言ったって、あんなものはそう難しくない。
今はちょっと身体がいう事きかないけど、去年や一昨年だったら
できたんじゃないですかね。
 
Q、竹田先生は一式、二式、三式、五式とほとんどの
戦闘機に搭乗されたんですね。
 
A、ええ、私は一式戦の前、九七戦から乗っている。
一式戦、二式単戦、三式戦と、五式戦。四式戦以外は乗りました。
九七戦は地上滑走のほうが難しいですよ。機体が軽いから。
風が強いとなかなか難しいですよ。それでも何とかなりますけれど。
 
最後に、竹田先生の歌声で
飛行第244戦隊歌(飛燕戦闘機隊々歌)を拝聴した。
 


YouTube: 飛行第二四四戦隊歌(飛燕戦闘機隊々歌) 唄:御堂諦

  
飛行第二四四戦隊歌(飛燕戦闘機々隊歌)
 
一、
皇国(すめらみくに)の大空を
醜翼ひとたび侵すとき
高度一萬、厳として
我がつばくろの守りあり
輝く空の梓弓
おゞそは飛燕戦闘隊
 
二、
高く綾なす飛行雲
衝撃一瞬砕け散る
彼方に咲くは白薔薇か
みるみる降る(くだる)神鷲の
瞳に宿る我が愛機
おゞそは飛燕戦闘隊
 
三、
黒潮踊る大洋に
米機を屠(ほふ)る幾そ度
撃墜マーク燦(さん)として
神州守るこの翼
空の近衛と人は呼ぶ
おゞそは飛燕戦闘隊(※注2)
 
作曲:古関裕而
作詞:南郷茂宏
  
A、この歌はあれで見れるんですよ。YOUTUBEで。ただあれは原曲と
節が少し違っていますね。(第42回陸海軍軍歌演奏会軍装会)
女の子が歌っているのもあるけど(おそらく初音ミクのことを仰っている)
やっぱり昔、戦友で歌ったように男性の声で聴きたいですね。
空の梓弓っていうのが確か一番だったかな。
それから実は3番の歌詞があるんですが、太平洋の向こうからやってきた
ことを歌ってますよ。海を越えてきたやつをやっつけるという。※2
 
陸軍士官学校の同期生会で航空は私だけになりましたから
これを知っている人はいないんです。だから機会があれば歌います。
 
それと、いつも同期生会では、会計の人が会費があとこれだけしかないからと
心配しているけど、私は会費よりもいつまで生きられるか、
本人の心配をしたほうがいいんじゃないかと(笑)
 
Q、いえいえ、いつまでもお元気で、またお話を聞かせてください。
 
 
つづく
 
竹田五郎氏のお話し「飛燕」高度1万メートルの戦い(2)
 

証言者プロフィール
竹田五郎元陸軍大尉
大正10年生まれ
第244戦隊で三式戦、五式戦で本土防空戦を戦う。
戦後、航空自衛隊F86Fパイロットを経て、空将、航空幕僚長を
務める。
  
※(1)関連記事
指宿正信大尉~空に生きた武人の生涯

※(2)3番の歌詞は後日、篠原調べ
 
大きな画像の表示
 

2015年5月30日 (土)

どうしても「疾風」グッズを宇都宮で売りたい

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大谷資料館へアポなしの突撃交渉してきました!
 
「どうしてもこの疾風グッズを宇都宮で、とくにここ大谷で売りたいんです。
置かせて下さい!この疾風はネット販売でなく、宇都宮へ足を運んでくださった
方のみが購入できる仕組みを作りたいのです」
  
と、疾風と宇都宮の縁を語って説得しましたがうまく伝わらなかった。
悔しい。でもまた行きます。店に置いてもらうのは大変だ。
 
ただ、もう一件の交渉はうまくいきました。資料館に疾風の写真を
飾って頂けることになりました。今まで部品を製造する様子は写真
展示されていたものの疾風の機体写真そのものは開館以来、ずっと
無かったのでこれから来た方は戦闘機「疾風」の雄姿を見ることで
地下工場が担った役割と、イメージが掴めるでしょう。写真は大氣氏に
提供してもらうことになりました。

2015年5月24日 (日)

ブルーホーネット

TH-480B,ブルーホーネッツ

北宇都宮駐屯地開設42周年記念行事、無事終了しました!
予想外の終日晴天に恵まれ、各機、大迫力の展示飛行でした。
 
なお、今年度(平成27年度/2015年)よりTH-480への機種変更に伴い
スカイホーネットの名称新たに「ブルーホーネット」と称して
翼が触れんばかりの六機によるアクロバットと編隊飛行が行われました。
ヘリコプターによる機動はブルーインパルスにも真似できない
驚くべきものであり、 大迫力でありました。
   
なお、80枚の限定で宇都宮のみでの販売でした「疾風」Tシャツ
好評につき午前中でほぼ完売となりました!ありがとうございました!
 
わざわざ宇都宮へ足を運んで頂いた方へ、なんとか
ここでしか味わえない思い出を持ち帰ってもらおうと
色々と考えております。また来年もよろしくお願い致します!

2015年5月18日 (月)

四式戦闘機「疾風」と中島飛行機宇都宮製作所

四式戦闘機「疾風」

四式戦闘機「疾風」


キ84四式戦疾風

キ-84 四式戦闘機「疾風」
キ-84、四式戦闘機「 疾風 」(以後キ84)は中島飛行機が開発・生産を行った
重戦闘機で、速度、運動性、
武装と防備、航続距離など 最もバランスに優れ、
昭和19年(1944年)4月の正式採用後、 陸軍は「大東亜決
戦機」と称して最も
重要な航空機として位置付け、 大戦における運命を託した。
 
日本国民の総力を注い
で送り出されたキ-84は終戦迄の短い期間におよそ
3,500機が生産され大陸戦線、ビルマ戦線、フィリピン
戦線、および本土防空戦
において活躍。戦局の悪化に伴う部品の品質低下により、充分な性能が
発揮でき
ず、苦戦を強いられたが、よく敢闘し、多くの敵戦闘機やB-29を
撃墜、あるいは 特攻機として出撃、 御楯と
なり 南溟に散った。
 
戦後、 連合国は、接収したキ-84に再整備を施し飛行テストを実施したところ、
秘め
られた性能を発揮、P-51を上回る最高速度を記録。その性能に驚愕し、
日本戦闘機の最高傑作と評価した。

倉井利三少尉機 キ84四式戦疾風

▲倉井利三少尉機(四式戦闘機「疾風」)B-29を3機撃墜。最後の一機は体当たりを
敢行撃墜。
野木町へ墜落、戦死した。

◆宇都宮陸軍航空廠と陸軍航空部隊
宇都宮近辺には陸軍(清原・壬生)と中島飛行機で、三か所の飛行場を有した。
 
宇都宮南飛行場
中島飛行機の飛行場は宇都宮南飛行場と呼ば
れ、現在は陸上自衛隊
北宇都宮駐屯地となっている。飛行場と誘導路で接続された中島飛行機
宇都宮製作所ではキ84を専門に生産が行われ
ていた。
 
宇都宮陸軍飛行場
宇都宮飛行場(通称清原飛行場)は鬼怒川の東側高台上の清原村中央
に所在した陸軍の飛行場で昭和15年
の宇都宮陸軍飛行学校本校開校・陸軍
航空廠宇都宮支廠開庁により運用が開始された飛行場である。
 
宇都宮陸軍航空廠
陸軍航空廠宇都宮支廠
は昭和17年に宇都宮陸軍航空廠
(師・第34206部隊)に改編され、戦地への航空機補給基地として本格的な
運用に至る。航空
廠は陸軍航空本部直轄の組織として、中島飛行機で完成した
新造機を受領し艤装( 兵装の取付け等 )や塗装を行った後、廠内
に駐屯する
陸軍航空輸送部により各部隊へ空輸された。廠内の技能者養成所では
エンジニア養成が行われ、ここを巣立った軍
属の少年整備員が各戦地で
整備に腕を振るった。 戦局が悪化すると民間の中島飛行機の工場
(兼飛行場)に 出張所を設け直
接陸軍航空部隊へ航空機を配備する
仕組みへと 移行した。
 
宇都宮教導飛行師団・壬生飛行場
昭和19年に、大陸の白城子 陸軍飛行学校が 清原に移駐、作戦性
を持った
宇都宮教導飛行師団が編制された。飛行場内は飛行学校の訓練に加え、
中島飛行機から航空廠へのキ-43、 キ-49、
キ84の納入に伴うテストフライト、
さらに教導飛行師団の編成によりかなり過密になり航空事故が頻発したため
そのため宇飛校は本
校を壬生飛行場に移駐した。
現在のおもちゃ団地近辺である。
 
第6航空軍攻撃集団振武特別攻撃隊 掛川隊
宇都宮教導飛行師団は後に教導飛行師団司令部となり、昭和20
年には
第6航空軍より特攻機の誘導隊編成が下令され、宇都宮教導飛行師団の
教官、掛川義雄大尉を隊長とする97式重爆
撃機2機、搭乗員7名、
地上要員7名の計20名が清原を発つ。この部隊は後に
「第6航空軍攻撃集団振武特別攻撃隊 掛川
隊」として沖縄に出撃、
搭乗員7名は未帰還となり戦死と認定された。
 

◆中島飛行機宇都宮製作所
キ-84は 中島飛行機太田製作所と宇都宮製作所で生産を担った。
(またハルピンの満州飛行機製造ではキ-116と称しライ
センス量産予定で
あったが 終戦直前、ソ連軍の侵攻を受けて量産中止) 太田には開戦当時は
糸川英夫博士の傑作機 キ-43、
一式戦「隼」や、キ-44、二式戦「 鍾馗 」
そして、キ-49百式重爆「呑龍」の生産ラインがあったが、昭和19年以降は
生産機の多く
がキ-84へ移行する。
 
宇都宮空襲 
昭和20年7月12日から13日未明にかけた宇都宮空襲ではB-29、130機が
来襲、宇都宮市街地を中心に
焼夷弾を投下( 投下目標は中央小学校であり
市街地の壊滅 に重点が置かれた)宇都宮製作所はB-29空襲の直撃を免れた
が米軍は宇都宮南飛行場を大規模な陸軍補給処と位置づけており、艦載機や
P-51の襲撃を度々受け、施設や掩体内の機体な
どに被害を受けたが工場は
大谷地下空間(現在の大谷資料館)と大田原市の工場に 分散疎開中であり
発動機は戸室山、部
品工場は大谷地区の地下空間で稼働、機体組み立ての
本工場も、 辛うじて稼働を続けた。宇都宮製作所から出荷されたキ-84
は全て
無塗装のジュラルミン剥き出しで配備先の部隊ごとに迷彩等の塗装が施された。
 
女子挺身隊(16,7の女学生)必死の努力
特筆すべきは宇都宮製作所におけ
る女子挺身隊の尽力である。 女子挺身隊は
16、7の女学生であったが細身との理由でキ-84の胴体後部に潜り込み外側
から何
百本と打ち込むリベットをカシメる作業を担った。胴体内に響くリベットの
打撃音と強烈な振動は、脳天が割れるようで、例え屈
強な男でさえ、10分も
耐えられるようなものでなく、気が狂う程であったが、女学生の忍耐強さは
驚くべきもので、細い両腕と
足で懸命に踏ん張り、握った当て板を最後まで
支え続けたのである。キ-84を語る上で、この女学生達の必死の努力が
あったこ
とを忘れてはならない。
 
そして終戦後の8月16日、生産ラインには新鋭20mm機関砲(ホ5)4門を
備えたキ-84乙型が二機、 殆
ど完成状態で出荷を待っていた。
 
文と絵:篠原直人
監 修:大氣高大 
 

※記事は調査継続中につき随時加筆訂正を行う場合があります。
 
 

2015年5月 3日 (日)

中島飛行機ロゴマーク

中島飛行機ロゴ

中島飛行機のロゴを復元作成しました。(著作権失効済意匠)
中島飛行機は終戦とともに解体され幻となった航空機会社です。
その恐るべきマスプロ力によって帝国陸海軍の兵器製造を担い
国家繁栄に大きく寄与しました。
 
しかし夢幻の如く、
戦後、これを恐れたGHQは財閥の解体と、航空産業の一切を禁止し
惜しくも中島飛行機はここに消滅します。以後、富士重工業(スバル)や
日産自動車などへ技術や人員が引き継がれました。原則的に中島飛行機と
富士重工は別の組織ですが、その歴史を調べてみるととても面白いものです。
 
中島飛行機の開発・生産能力は日本一でした。
代表的な零式戦闘機は三菱重工の開発した飛行機ですが、

中島飛行機がライセンス生産を行い、最終的には三菱を大幅に
超える生産数を誇りました。しかもこの間に、四式戦闘機を四千機以上、
大型重爆、水上機なども並行して生産していたので、そのマスプロ力は
強大なものでした。
 
中島飛行機宇都宮製作所では糸川英夫博士の一式戦闘機「隼」をはじめ
四式戦闘機「疾風」、百式重爆「呑龍」など多くの機体が生産されました。
※四式戦闘機は宇都宮と太田の二カ所で製造されましたが
昭和20年2月の太田空襲で太田製作所は大きな損害を受けました。
 
宇都宮ではこれを回避すべく、四式戦闘機のエンジン工場を
宇都宮大谷地区の地下へ移しましたが、機体の組み立ては地上で行いました。
~地下工場へ行ってみる
 
昭和20年7月の宇都宮空襲で生産は大幅に落ち込みましたが

それでも終戦まで稼働し、終戦時にも宇都宮製作所の生産ラインには
ピカピカの武装された四式戦闘機が乗っていたそうです。
  
生産の背景には女子挺身隊(女子学生)の活躍など
多くの国民の心血が注がれたことは特筆すべき点であり
決して忘れてはならない事実であります。
 

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中島飛行機ステッカー販売中(直径86ミリ×1ブラック)
中島飛行機ステッカー販売中(直径86ミリ×1ホワイト)
中島飛行機ステッカー販売中(直径43ミリ×2ブラック)
中島飛行機ステッカー販売中(直径43ミリ×2ホワイト)
 
 
画像使用についてのお願い
 

中島飛行機ロゴ

中島飛行機ロゴ

2015年1月31日 (土)

零戦の型式雑学 21型から52型、64型まで

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)零戦21型と52型の違い

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)零式艦上戦闘機(通称ゼロ戦)は
三菱重工が設計開発を行った日本海軍の主力戦闘機である。
和14年3月初飛行、翌15年、正式採用を待たず中国(支那)戦線で初陣。
16年12月
の真珠湾攻撃以来、昭和20年8月の終戦までに三菱重工、
中島飛行機の両企業により
総計1万機以上が生産された。
 
日本国民の総力を注いだこの戦闘機は、西はセイロ
ン島、東はギルバート、
ハワイ諸島に至るまで地球のほとんど半分近くを戦域とし
連合軍と対峙、
あるいは国土防衛に尽くした。
 
昨今、永遠の0や、堀越二郎を元に描いたアニメ映画『風立ちぬ』
で注目を浴びる機会も多くなった。
この頁ではそれぞれの違いと特徴、時代背景なども追って紹介する。

 
零戦(ゼロ戦)フリー素材・画像・アイコンはこちらのリンクから

零戦二一型(瑞鶴/岩本徹三機)

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零式艦上戦闘機(ゼロ戦)

型式について

零戦の形式は一桁目を機体形状、二桁目がエンジン形式を表す。
甲、乙、丙等が付随する場合は火器類の違いを示す。
原則、形式番号が同じであれば同様と考えて良いが
例えば、52型と32型であれば、機体のデザインは異なる(翼の形)が
エンジンは同じものが搭載されている。マフラーの形状が違うので
まったく同じとは言えない。このほか戦時下において細かな変更点は
限りなくあるだろうし、諸説存在する。勉強中故、お許し願いたいが
同時に零戦好きの方が集う場所でありたいと願うので、意見などあれば
どうぞ遠慮なく書いてください。
 
書き込む前に必ずこちらをご覧ください。

零戦は同時期に製造された飛行機でも、個体差が激しく
クセの強い飛行機などは舵をいっぱいに切って離陸したりと
難があった。

  

専用機(愛機はあったのか)

専用機(愛機)はあったのか
書物や証言を照合するとおおむね以下のとおりである。
 
通常であれば、搭乗員はその出撃の都度、割り当てられた機体に搭乗する。
従って、愛機は存在しない。緊急発進では尚更であった。ただし、指揮官
(分隊長クラス)になると機体に帯(イラスト参照)が入り専用機が与えられる。
人によっては「彼の機体はスペシャル仕様だった」などと証言されるが
これは、特に改造を施したということではなくて、指揮官クラスがべらぼうに
コンディションの良い機体を占有していた、という意味合いではなかろうか。
 
一方、整備員は担当する機体が決まっており、
それぞれの担当機を責任を持って整備した。零戦の尾翼等に
〇〇一整曹などと整備担当長の名が記されれいるのはこのため。
 
その他項目一覧

なぜゼロ戦と呼ぶのか 零戦は無敵だったのか
零戦のパイロットになるには 零戦操縦方法
零戦の撃墜王(エース)は誰か
零戦の色(カラーリング)について 機体はいつから緑?
零戦21型と52型の違い
  

型式一覧

型式一覧図(十二試艦戦・二一型から五二型、六四型まで)
 

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十二試艦上戦闘機【十二試艦戦諸表】A6M1
  
ゼロ戦のプロトタイプである十二試艦上戦闘機。昭和14年4月に
初号機が初飛行。三菱重工の堀越博士
をリーダーとする開発チームが
九六艦戦の後継機とし
て開発に尽力した。二号機までは三菱製瑞星一三型
ンジンを搭載したため、最高速度は488km/h と海軍の要求
届かなかったが、その他性能は概ね良好であった。
 

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零戦11型 
【零戦一一型諸表】A6M2-a
  
中島飛行機供給の栄エンジン搭載により大幅な馬力向上を実現した
一一型は正式採用を待たず、漢口
基地へ送られ、航続距離の短い九六
艦戦に代わり重
慶爆撃陸攻隊の掩護に就いた。昭和15年の初陣以
支那事変における空戦では一機の損害もなく終
始無傷であった。
機体は第十二航空隊山下小四郎機。

  

零戦二一型/21型

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零戦21型 【零戦二一型諸表】A6M2-b
発動機/栄一二型 離昇出力/940馬力 上昇力/6000m/7分27秒
最高速度/533km/h 巡航速度/300km/h 航続距離/2,530km
自重/1,754kg 全備重量/2,410kg 燃料搭載量/525+330L
全幅/12.00m 全長/9.060m 全高/3.530m
主翼面積/22.438㎡ 翼面荷重/107kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
生産機数/約3,500機
 
◆零戦二一型(21型)は、零戦初の量産モデル。空母搭載を前提とした
翼端折
畳み構造を追加したほか、 着艦フックを装着。昭和16年12月、
真珠湾攻撃で実戦に参加。
昭和19年初めまでに三菱740機、中島が
2,821機を
生産し、大戦初期において海軍機動部隊の要となった。
参考画像は昭和17年、空母瑞鶴所属、岩本徹三機。
  

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二式水上戦闘機(二式水戦)

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二式水上戦闘機 【二式水戦諸表】A6M2-N
発動機/栄一二型 離昇出力/940馬力 上昇力/3000m/3分57秒
最高速度/439km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/926km
自重/1,921kg 全備重量/2,460kg 燃料搭載量/---+---L
全幅/12.50m 全長/10.248m 全高/4.305m
主翼面積/22.438㎡ 翼面荷重/109kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和17年7月 生産機数/377機
 
◆二式水上戦闘機は零戦二一型にフロートを装着した水上戦闘機。
川西航空機が開発中の十五試水上戦闘機「強風」が遅れていたため
水上飛行機の技術が豊富であった中島飛行機が急きょ、傑作機
零戦を
ベースに開発と生産を行った。開発陣必死の努力により僅か11ヶ月という
短期間で実用化に至り、戦線に就いた。主脚、尾輪(タイヤ)を撤去し
フロートを取り付けたほか、防水加工や水上飛行機としての安定を得るため
垂直尾翼の形状等を変更した。
重量と抵抗の増加に伴い運動性と
最高速度は低下(96.3km/h)したが
水上戦闘機としては申し分ない性能で
大戦初期に
おける島嶼攻略、防衛(アリューシャン、ソロモン、
中部太平洋戦線等)で活躍した。
 

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K

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零式練習戦闘機一一型 【零式練戦諸表】A6M2-K
  
二一型をベースに複座化したゼロ戦の練習機。
主な変更点は翼内機銃を撤去し風防を延長。前部の訓
練生席は解放型
となった。尾輪を固定化し、前部引
き込み脚カバーの撤去、射撃用ターゲット
の吹き流
しを翼下に備えた。零式練習戦闘機一一型と称して航空廠、
日立航空機で製造された。

 

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ゼロ戦(零戦)32型/三二型

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零戦32型 【零戦三二型諸表】A6M3
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/544km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,134km
自重/1,807kg 全備重量/2,535kg 燃料搭載量/470+320L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.54㎡ 翼面荷重/118kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和17年4月 生産機数/343機
 
◆零戦三二型(32型)は
エンジンを栄二一型(二速過給器 / スーパーチャージャー付き)に換装。
離昇1130馬力に向上し運動性能と最高速度を得た。翼端を50cmカット
した
唯一の角型デザインで343機を三菱でのみ生
産した。航続距離は低下。
昭和17~18年、主にソロモン諸島の戦線で
活躍。
画像は昭和18年/台南空所属機。
  

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ゼロ戦(零戦)22型/二二型

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零戦22型 【零戦二二型諸表】A6M3
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分19秒
最高速度/540km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,863kg 全備重量/2,679kg 燃料搭載量/---+---L
全幅/12.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.530㎡ 翼面荷重/119kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和18年1月 生産機数/560機
 
◆零戦二二型(22型)二二型は三二型の弱点を補うべく、翼端を二一型と
同様
丸型へ戻し折り畳み構造を復活させたモデルで航続距離と運動性能を
取り戻した。武装を強化した
二二型甲を含めると、昭和17年末より翌18年
8月までに560機を三菱でのみ生産。のち五二型へ移行する。
 

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ゼロ戦(零戦)52型/五二型

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零戦52型 【零戦五二型諸表】A6M5
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/564km/h 巡航速度/330km/h 航続距離/2,560km
自重/1,876kg 全備重量/2,733kg 燃料搭載量/570+320L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/128kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和18年8月 生産機数/約6,000機
 
◆零戦五二型(52型)
ゼロ戦を象徴する最も一般的なモデル。翼折畳み
構造を撤廃し翼端を50cmずつ
短縮。推力式
単排気管(マフラー)を採用し、馬力を向上した。昭和18年8月より
三菱、同年12月より中島が生産を開
始し終戦までおよそ6000機が生産された。
中部
太平洋戦線で活躍。参考画像は昭和19年3月、第261海軍航空隊所属機。
 
 

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ゼロ戦(零戦)52型甲/五二型甲

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零戦52型甲 【零戦五二型甲諸表】A6M5-a
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/559km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,894kg 全備重量/2,743kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/129kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約391機(中島不明)
 
◆五二型甲(52型こう)は、五二型の武装・装甲を強化したモデルの
ひとつで携行弾数を
増やしたほか、主翼装甲の厚さを0.2ミリ強化し
急降下制速度を740.8km/hに引き上げた。このほかに増槽を
木製化し形状も変更。容量は300リットルとなった。プロペラ・スピナーが
大型化され、機体重
量(自重)は18kg増加した。
 
 

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ゼロ戦(零戦)52型乙/五二型乙

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零戦52型乙 【零戦五二型乙諸表】A6M5-b
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/554km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,921kg 全備重量/2,765kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/129kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約400機(中島不明)
 
◆五二型乙(52型おつ)は五二型の武装、装甲強化モデル。五二型との違いは
右側胴体銃を7.7ミリから13.2ミリ
に換装したほか、両翼下に150リットル
増槽を
各一個ずつ搭載可能に改造した。後期生産機は座席後方の防弾を
強化し風防正面を防弾ガラスに変
更し、防御力を増加。昭和19年10月
正式採用され三菱で470機が生産された。


 

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ゼロ戦(零戦)52型丙/五二型丙

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零戦52型丙 【零戦五二型丙諸表】A6M5-c
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/544km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,970kg 全備重量/2,955kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/148kg/㎡
兵装/翼内20mm機銃×2 13.2mm×2 爆弾60kg×2、ロケット弾
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約470機(中島不明)
 
◆五二型丙(52型へい)は五二型甲・乙を踏襲しさらなる火力と装甲強化
を施したモデルで胴体左の7.7ミリ銃を廃止し両翼に13.2ミリ機銃を追加。
両翼下にレールを設け
ロケット弾(三式弾等)を搭載可とした。格闘性能は
犠牲となったが、燃料タンクの防弾化し主翼
と操縦席外側の装甲も強化して
防御力を高めた。
 
 

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ゼロ戦(零戦)53型丙/五三型丙

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零戦53型/53型丙 【零戦五三型丙諸表】A6M6-c
発動機/栄三一型 離昇出力/1,300馬力 上昇力/8000m/9分53秒
最高速度/540km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,190km
自重/2,155kg 全備重量/3,145kg 燃料搭載量/500+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/---kg/㎡
兵装/翼内13mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×2 30kg×4 ロケット弾
正式採用/昭和19年10月 生産中止
 
◆五三型丙または五三型(53型へい)は、五二丙に次ぐ改良型で、エンジンを
水メタノール噴射式の栄三一型に換装し、自動防漏式燃料タンクを施した。
期待したほどの性能向上が見込めなかったことから量産化は中止され、
まもなく六二型、五四型丙/六四型へ開発生産が移行されたモデルである。
仕様はいずれも予定値。
  

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ゼロ戦(零戦)63型、63型/六二型、六三型

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零戦62型/63型 【零戦六二型諸表】A6M7
発動機/栄三一型甲 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分58秒
最高速度/542km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,190km
自重/2,155kg 全備重量/3,155kg 燃料搭載量/500+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/141.0kg/㎡
兵装/胴体13mm機銃×1 翼内13.2mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×2 500kg×1 ロケット弾 
正式採用/昭和20年5月 生産機数/800機(推定)
 
◆六二型(62型)/六三型(63型)
ゼロ戦の最終型Ⅰ。五三型の胴体下に500kg爆弾
の懸吊架を追加した
爆撃戦闘機、爆戦と略称。跳弾爆撃、急降
下爆撃に対応し機体構造を強化した。
生産数は不
明だが、昭和20年4月頃より終戦まで 三菱、中島合わせて6
00~1,000機が生産されたと推定さ
れる。栄三一型を搭載した機体を
63型と称すが、殊に当該機種のエンジンは栄三一型や二一型もあり、
52型との明確な違いは不明瞭で諸説あり。
 

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ゼロ戦(零戦)64型、54型丙/六四型、54型丙

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零戦64型/五四型丙 【零戦六四型/五四丙型諸表】A6M8
発動機/金星六二型 離昇出力/1,560馬力 上昇力/6000m/6分50秒
最高速度/572km/h 巡航速度/370km/h 航続距離/-,---km
自重/2,150kg 全備重量/3,150kg 燃料搭載量/650+300L
全幅/11.00m 全長/9.237m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/148.0kg/㎡
兵装/翼内13.2mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×1 250kg×1 ロケット弾 
正式採用/昭和20年7月 生産機数/2機
 
◆六三型(63型)/五四型丙(54型へい)
ゼロ戦の最終型Ⅱ。三菱製、金星六二型エンジンを搭載し、離昇出力を
1,560馬力に向上させた。エンジンは彗星三三型と同様の見解あり、大型化に
伴い、プロペラ・スピナー、上部のエアインテーク等の形状が異なる。
火力、装甲を強化したほか爆撃戦闘機として、跳弾爆撃、急降下爆撃に対応し、
機体剛性を強化した。五四丙の量産型を六四型と称するが実戦に至らず終戦と
なった。画像は推定。
  

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なぜゼロ戦と呼ぶのか
我が日本には暦が3つある。平成、西暦、そして皇紀である。
皇紀は神武天皇が即位した(日本が始まったとされる年)から
数えた年号で、本年2015年(平成27年)は皇紀2675年にあたる。
 
零戦が正式採用された昭和15年は、皇紀2600年ちょうどにあたり
その末尾をとって零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)
通称零戦と呼ばれるようになった。海軍は皇紀の末尾を冠するのが
通例でほかに九六式艦上攻撃機、一式陸上攻撃機などがある。
 
ゼロは英語で敵性語であるから「れいせん」と呼ばなければならなかった
というのは俗説で、当時から海軍ではゼロ戦と呼んでいたし
(予科練の試験の答案用紙でもわかるように英語は必須であった)
一般にもゼロ戦と呼ばれていた。
   

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搭乗員(パイロット)になるには
ゼロ戦搭乗員は例外なく文武両道であった。
搭乗員を志すための過程はいくつかあるが、いずれも厳しく
狭き門であった。いうまでもなく飛行機乗りは全て志願兵である。
 
過程1、指揮官
海軍兵学校で幹部としての教育課程を修了後、
航空を専修する。
東大の10倍難しいと言われる海軍兵学校を
受験し、二年間の教育期間を
経て少尉候補生となったのち
航空機を専修する。ただし、幹部と雖も敵性が
認められない場合は搭乗員にはなれない。
 
過程2、下士官(昭和15年まで)
海軍(海兵団)に志願入隊し、艦隊勤務などを経て下士官となり敵性ありと
認められた場合、操縦練習生(操練)の受験資格を得る。
 
過程3、予科練習生(昭和12年から)
満14歳以上20歳未満の若者に限っては予科練習生の制度が設けられた。
筆記試験問題(入試に使われた問題が予科練記念館に展示されている)
視力、体力測定をパスすると
晴れて入隊。3年間(のちに短縮)の教育・訓練
課程を経て搭乗員となる。
 
いずれの過程でも国語、数学、物理科学、英語などの成績が優秀で
体力も抜群でなければ試験突破は叶わなかった。このほか実戦を想定し
モールス信号の符号の暗記、航法、気象についても学ぶ。
試験に合格した後でも、訓練中不適格と判断された者は元隊に戻された。
 
また、初期の頃(操練時代)においては、最終試験で「手相」「骨相」が見られ
占いで「貴様は短命だ」と判断されると元隊に戻された。
 
操縦員・偵察員にわかれる
訓練課程では教官が敵性を見て操縦員・偵察員のいずれかに分けられる。
操縦員はパイロットであるが、偵察員は後席に座り、通信、見張り、航法
を担当し、操縦員に逐次伝達する。GPSなど無い時代。偵察員の仕事は
非常に重要な役割であった。パイロットのほうが偉いかというと
それは大きな誤解である。真珠湾攻撃に参加したある偵察員は
「操縦員は操縦に専念してればええ。偵察員はいろいろ仕事やるし
操縦員を叩いて飛ばすほうが大変や」と回想する。(個人の見解です)
 
それぞれの機種を専攻する
さらに戦闘機・艦爆・艦攻の専修別となる。
艦爆とは艦上爆撃機の略で、急降下爆撃を敢行する二人乗りの
飛行機である。度胸が求められる。
 
艦攻とは艦上攻撃機の略で3人乗りの雷撃機である。水面すれすれに飛行し、
敵艦の横腹に魚雷を叩きつけるのだが、
もっとも損耗(戦死)率が高い。
肝が据わったどっしりとした
性格かつ協調性が求められた。
 
零戦(戦闘機)は一人乗り。ぜんぶ一人でやる
戦闘機乗りは花形である。希望は一応出せるものの
希望叶わず艦爆や艦攻を命じられた者も多い。
戦闘機は一人乗りであるので、すべての任務を一人でこなさねばならない。
膝の上にバインダーに挟んだ紙を置き
コンパスと太陽の位置などを
見ながら、航法を計算しながら飛ぶから
大変だ。この間も敵の襲撃に備え、
見張りを厳とする必要があった。
 
自動車で高速道路を一時間走るのは何てことはないが、
一人乗りの戦闘機で空を一時間飛ぶことがいかに至難であったか、
その疲労も極めて著しい。
 
こうして艱難辛苦乗り越えて練習航空隊を卒業した者は
実戦航空隊へ配備され
一人前となる。
 

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ゼロ戦は強かったのか
高校生の頃、世界史の授業で担当教師が
「米軍は不時着したゼロ戦を徹底的に調べ上げその優れた設計を真似して
F6Fヘルキャットという新鋭戦闘機を作った。それ以降、ゼロ戦の優位は失われた」
と教えてくれた。そのころは「ふんふん、そうなのか」と教師の教えを真剣に
聞いていたが後で調べてみると、この説はどうもインチキくさいことがわかった。
 
結論から
ゼロ戦は無敵だった。ただし、一対一の戦いならば。
 
支那戦線においては無敵で、ほとんど全ての敵機を撃墜した。
また、真珠湾攻撃以来、最初の一年ほどは
米英に対し圧倒的優勢で勝利を重ねた。
 
米英にいずれは負ける運命
一対一。これは我が国古来からのサムライの戦い方である。
 
敵の数が圧倒的に多いなら、いずれは損耗を続け、負ける。
開戦当初、日本の搭乗員は防御や退却を恥とした。
サムライとして潔く戦って散ろうというものである。
「生きて虜囚を辱めを受けず」という言葉もある。
 
一方で米英のパイトットは勝ち目がないと判断すると
命を守ることを第一に撤退し、次の戦いに備えた。
 
サムライであり続けた
「防弾板がついとったが、わしはあんなもの恥ずかしいと思って取っ払ってしまった」
「落下傘はどうせ使わんから、座席に敷いておった」
などと回想する元搭乗員も多い。
 
ここで「命を粗末にするから日本は戦争に負けたんだ」などと言うのは
おかしい。それは我々が戦後に後出しだから言えることで決して
現代の物差しで語ってはならない。当時とは価値観が全然違うのだ。
 
米英軍にしてみれば、日本は決して降参しない、勝ち目がないのに
最後の一人まで戦うという概念が理解できなかった。
 
ゼロ戦の弱点を突け
確かに米軍はアリューシャンに不時着したゼロ戦を鹵獲し徹底的に調べた。
(鹵獲=ろかく。敵の兵器などを戦利品として原則無傷で得る事)
ここまでは世界史の先生に教わった通り、事実であった。
鹵獲された機体は、古賀忠義一等飛行兵搭乗の零戦二一型で
昭和17年6月、ミッドウェー作戦の陽動として行われた
アリューシャン列島、ダッチハーバー空襲へ参加した古賀一等飛行兵は
対空砲火で被弾し、アクタン島への不時着を試みた。
 
古賀一等飛行兵は着陸時の衝撃で頭部を強打し戦死したが
機体は無傷に近い状態であった。一か月後、機体は米軍によって回収され、
徹底的な分析調査が行われた。そして僅か三ヶ月後の9月には
飛行可能な状態に修復し、テスト飛行まで行われた。
 
これによって、米軍はゼロ戦の弱点を徹底的に暴いた。
このとき、後のライバルとなるグラマンF6Fヘルキャットは既に
完成間際にありゼロ戦の設計思想が反映されることは無かったし
もとより、米軍の戦闘機設計思想は戦後まで一貫するもので
いずれもゼロ戦とは相反する。
 
ゼロ戦の弱点は剛性不足であった。スピードも出ない。
低速度域での巴戦では群を抜いた性能を誇ったが
高速度での戦闘には不向きで、遂に脆弱性を露呈した。
 
このため、米軍は急降下等を駆使し、ゼロ戦から逃れる術を
発見したほか、米軍機二機以上が一組となり、ゼロ戦の機動力の隙を突く
サッチ戦法により、無敵といわれた零戦を確実に仕留めていった。
日本機のパイロットは古来からの一騎打ちが未だ戦術の
主流であるのに対し、米軍は必ず二機以上の編隊で襲い掛かり
スピードを生かした一撃離脱戦法で、ゼロ戦に勝利した。
この戦法は大戦終結まで変わることなく、日本機の戦術はすでに
時代遅れとなる。
  
日本機の搭乗員は熟練者が多く、その腕をもって米軍と対峙し
開戦以来、圧倒的な勝利をものにしてきたが、このサムライの
伝統とも言える戦い方は、合理的といえるものではなく
到底米軍との兵力差は埋められるものではない。
戦争末期ともなれば熟練搭乗員は皆戦死し、補充された
飛行時間の僅かな飛行兵の戦いは満足といえるものでなかった。
  

日米で異なった戦闘機の設計思想 
先述の通り、日米では航空機の基本的設計思想が異なった。
米軍は飛行機は重いが頑丈で、小回りが利かない代わりに
物凄いスピードが出る。いくら、日本機が真っ向勝負しろと挑んでも
雲間から突如、襲い掛かってきて、一撃を加えたのち
消えてしまう。日本機は追い付けない。そんなに熟練した腕があろうとこれでは
勝負にならない。多くのゼロ戦パイロットがその旨、証言を戦後に残している。
 
本土防空戦で敢闘したあるゼロ戦搭乗員は
「映画で見るような空戦を想像しているだろうけど、ありえない。
敵さんは、上空から物凄い速さでいきなり襲ってきてこちらが
反撃する前に追い付けないスピードで逃げていくんだ。一瞬だよ。
戦いも何もあったもんじゃない」と回想する。

 
大戦後期、日本もようやくこの戦法に対応するよう
重戦闘機の開発を重視したが、時すでにおそく、終戦を迎えた。
多くのサムライが刃を抜いて奮戦したが、銃弾には勝てずほとんどが戦死した。
 
零戦のライバルたち

零戦とスピットファイア

零戦とP-51

Photo 
▲英空軍スピットファイア(左)と米陸軍P-51(右)
 

零戦とF4Uコルセア

零戦とP-38ライトニング

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▲米海軍F4Uコルセア戦闘爆撃機(左)と米陸軍P-38ライトニング戦闘機(右)
   

SBDドーントレス艦上爆撃機グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機

SBDドーントレス艦上爆撃機

グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機 
▲米海軍の名機、グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機と
SBDドーントレス艦上爆撃機。F6Fはもっとも多くのゼロ戦を撃墜し、
ドーントレスは最も多くの日本艦船を撃沈したといわれる。 
 

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高度1万メートルの戦い
大戦末期、ゼロ戦は高度1万メートルで爆撃に来る
B-29相手にも果敢に戦った。B-29は当時ボーイング社最新の技術で
気密されているから、搭乗員はTシャツ一枚でコーヒー飲みながら
ゆうゆうやってくる。 
 
一方で我が方の迎撃機は高高度においては酸素も薄く、極寒で
判断力は低下する。高い山に登ったことがある人なら幾ばくかでも
その気持ちがわかると思う。高度1万メートルまで上るのは
ゼロ戦では30分近くかかる。
 
時間がかかっても一万メートルまで上昇し待機できる、と思うのは
ぜんぶ地上の考えである。酸素が薄いので、常に機種を上に向けて
エンジンを全開にしていなければ高度を保持できない。
水泳で顔を水面から出して、ひたすら沈まないようにバタバタと
もがいている状態に近い。燃料はあっという間に底を尽きる。
B-29に攻撃のチャンスを得るだけでも至難であった。

  

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ゼロ戦のカラーリングについて なぜ緑なのか?
ゼロ戦はなぜ緑色なのだろうか。赤や青じゃダメなのか。
ゼロ戦のカラーリングは上の絵でも描いたが、おおむね
緑色、それも暗緑色である。大戦初期では灰色(もしくは飴色)であった。
空に溶け込むようにと意図されているといった見方が強いが
今となっては彩色配合も謎である。

零戦二一型(ラバウル離陸)

▲南方の陸上基地から発進する零戦二一型。
 
緑色に塗装するようになったのは昭和17~18年くらいからで
型式でいえば、32型で両方の色が見られる。残っていた21型も
多くが緑色に再塗装された。(有名な関大尉の敷島隊は21型である)
これは南方など、ジャングルの多い地域で戦うようになってからで、上空から
見たとき、カモフラージュされるし、基地で木々の間に隠すにも都合がよい。
というのはおおむねの見解のようである。

零戦三二型(ジャングル)

▲ジャングルの中に佇む零戦三二型。
 

日の丸について
ゼロ戦に描かれる日の丸に決まりはあるのだろうか。
あれこれ研究してみたが、遂にこれといった規則性を見つけることは
できなかったが、数で区分すると次のようになる。
 
白フチのありなし、黒いフチ
ゼロ戦は三菱重工が開発、中島飛行機(現在の富士重工)が
ライセンス生産(設計図を相手に送って、これの通り作ればできますよ
という技術を提供すること、現在でも自動車会社がOEM生産と称して行う)
ということで、ふたつの会社で製造を行った。
 
工場出荷状態において三菱製の日の丸はやや白縁が太く
中島は細い。若干の違いなので個体差も大きくわかりにくいが。
さらに、刷毛でフリーハンドでおおまかに描いていたので
新円でなかったり、ムラがあったりする。
 
マリアナやフィリピン、ソロモンなどの機体は最前線の激戦地であるから
目立たないように、この白い縁を黒く塗り潰していたようだ。
工場出荷状態で縁が黒い機体は無い。
 
本土防衛機など、内地の機体は比較的、白フチをそのまま使っていたようだ。
(鹿屋や大村の機体は黒フチに塗り潰されていたが) 
 
最初からフチなし
以上のような理由から、最初からフチを描かず日の丸だけで
出荷されたものが占めるようになった。中島は顕著であったが
三菱製のゼロ戦は縁があるものが多いように見受けられる。
 

零戦の日の丸

▲ラバウル近隣で回収された零戦二二型の外板。だいぶ退色してはいるが
塗装はオリジナルのようだ。日の丸と縁が塗りつぶされた様子がわかる。
2013年、所沢航空発祥記念館にて撮影。
 
関連記事
「桜花の機体には日の丸が描かれなかった」

ゼロ戦のカラーリング表(中島と三菱の違い)

 

機体のカラーリング/三菱系と中島系の違い
これも三菱と中島で違いが分かれる。一見して判別が容易いのは
暗緑色が胴体の斜めに入っているのが
中島で、真っすぐが三菱。
 
塗装の色も、受注元である
海軍さんから
「ちゃんと、この色で作んなさいよ」と指示されていたのだが
三菱と中島でそれぞれ違う塗料を使っていたので、
見た目が異なる。機体は三菱はやや青色が強く濃い。
中島はやや薄く黄色が混じっているような印象。下面は三菱が
ほとんど灰色に対し、中島は少し黄色が強い。コクピットカラーは内装色。
 
強いて言えば、カウリング(エンジン部分)の色も
同じ黒のようで違う。 
翼の一部とプロペラが黄色なのは真正面から見たとき、日の丸が見えないので
識別するため。ゼロ戦だけでなく、これは日本の陸海軍機すべて共通。
 
塗装は、現代でも解明されない点が多く
現存する機体は現代風に塗り直されているのでなおさらである。
 
Mr.カラーと照らし合わせながら、CMYKカラーチャートを作った。
当サイト(篠原)独自の見解であるので、実際に使う際は
微調整などで工夫してほしい。
  
中島飛行機のロゴを復元製作した。無料素材として配布しているので
以下の画像をクリックしてダウンロード可。 
 

中島飛行機ロゴ

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零戦五二型丙種、昭和20年、302空(厚木)にて

▲零戦五二型丙。昭和20年、厚木の第302海軍航空隊所属機。
 
五二型丙を写した中ではもっとも鮮明な写真。両翼の20ミリ機銃に加え、
13.2ミリ機銃(外側)が追加され重武装となったモデル。翼下のレールに
三式弾(ロケット弾)を吊り下げ可能。フラップが出ている様子がわかる。
この機種は主に本土防空戦で敢闘した。
 

カウルフラップ

推力式単排気管

Photo_50

▲五二型のカウルフラップ「開」状態。五二型の特徴である
推力式単排気管(マフラー)は効率的な排気によって馬力が向上し
最高速度が20km/h程度増大した。
カウルフラップは操縦席にあるハンドルをグルグル回すことによって
開閉する。エンジンが冷えているときは「閉」、高音となったさいは
「開」にしてエンジン温度を調節する。
写真は第261海軍航空隊所属機で、プレーンズオブフェイムが
戦後レストアした機体。2013年、所沢航空発祥記念館にて撮影。
  

栄二一型エンジン(鹿屋の五二型零戦)

▲鹿屋資料館に展示中の零戦五二型と栄二一型エンジン。
2速過給器(スーパーチャージャー)付き離昇出力1,130馬力を発生し
最高速度564km/hをたたき出した。
 

零戦のコクピット内部

永遠のゼロのロケセット

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宇佐平和資料館で展示中の映画『永遠のゼロ』撮影に使われた
コクピットの模型。 実際に座ってコクピットの狭さを体験できる。 

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エース(撃墜王)という概念
日本海軍はエースという概念を設けず、敵を何機やっつけたという

個人成果は記録しなかった。
強いて言うならば、零戦搭乗員全員をエースと呼ぶ。
国の為に戦い、あるいは命を捧げたのだから当然と言えるだろう。
よって、零戦搭乗員の生き残りに「何機落としましたか」と尋ねるのは
失礼にあたるし、最大のタブーとなっている。
戦争で命の駆け引きをしてきたのだから、戦後現代を生きる
我々に決して理解できないことが多くあるに違いない。
 
それでも撃墜数(スコア)に執念を燃やす搭乗員も
存在した。岩本徹三や赤松貞明などである。
殊に赤松中尉は戦後においても自身の記録を世界記録と主張している。
 
零戦搭乗員の原田要氏によると、岩本は自らたくさんの撃墜マークを
機体に描いていて、個人成果主義を否定する周りのパイロットたちは当初、
あまりよく思っていなかったが、 確実に多くの敵を撃ち落とし生還し続けた
ことは間違いないので、次第に認めるように なっていたという。
赤松も同様だった。
 

岩本徹三

赤松貞明中尉

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▲左、岩本徹三中尉/右、赤松貞明中尉
 
関連記事
岩本徹三の戦後
赤松中尉の戦後
 
そして、それぞれの撃墜数をまとめて本にしたものまで出版され
売っている。確実に言えることは岩本徹三や坂井三郎より
凄いパイロットは数多くいただろう。これは間違いない。
けれどもそういったエースは皆、戦死してしまったので、
歴史に名が残らず、語り継がれることもなく消えて行ってしまった。
 
彼らはどんなことを考えていたのか、
最後に、ぜひこの動画と記事もあわせてご覧頂きたい。
 
黎明の蛍(ある特攻隊員と少年の実話)

少尉と隼(ある特攻隊員と少年の実話)
YouTube: 少尉と隼(ある特攻隊員と少年の実話)

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作成中

支那戦線から真珠湾、ソロモンの戦い、ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦、
特攻、終戦まで
 

零戦のロケット弾(三号爆弾)

零戦のロケット弾(三号爆弾)

零戦のロケット弾(三号爆弾)

▲B-24爆撃機にロケット弾(三号爆弾)を発射する零戦五二型丙
 
 
富安俊助

富安俊助の突入後

▲エンタープライズ直上より背面飛行でエレベーターに突入する富安機 
 
関連記事
富安俊助中尉とエンタープライズ
 

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航空自衛隊浜松広報館の尾崎伸也大尉機

◆航空自衛隊浜松広報館(静岡県浜松市)
零戦五二型(第三四三海軍航空隊/尾崎伸也大尉機)
 
昭和38年、グアム(大宮島)で発見され
日本へ返還輸送、復元された機体。
海軍第343航空隊(初代,通称隼)の飛行隊長尾崎伸也大尉の搭乗機と
推測される。昭和19年
6月19日、大宮島(グアム島の旧称)上空において
尾崎大尉と他一機が哨戒中、米戦闘機2機と交戦となり1機を撃墜、もう一機に
追尾された尾崎大尉機は
海面直前まで急降下し、敵追撃機を海面に激突させ
たが
自らも被弾し、飛行場に着陸したが、病院に向かう途中に息を引き取った。
 
展示状態
ハンガーの天井に吊って展示されているので
近寄って見ることはできないが、飛行状態で展示されている唯一の
機体という点では最も美しく貴重。
 
浜松広報館レポート
 

零戦と秋水

◆三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室
三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室は
国内でも数少ない本物のゼロ戦と、世界で唯一の「秋水」を
保存している同史料室は、名古屋空港(小牧空港)、そして
航空自衛隊小牧基地に隣接する、三菱重工業名古屋航空
宇宙システム製作所の敷地内にある。
 

三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室の
見学は無料だが原則、事前の電話予約が必要で、入場も

月曜日と木曜日の9時から15時までと限られている。
(祝日など工場休止日は休みとなる)
 
三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室レポート
 

海上自衛隊鹿屋航空基地資料館

◆海上自衛隊鹿屋航空基地資料館(鹿児島県鹿屋市)
零戦五二型

知覧の特攻平和会館は有名だが、鹿屋市には
同様に海軍部隊の特攻隊員の遺書を展示した施設がある。
展示内容はいずれも貴重で決して知覧に引けを取らない。
鹿屋は海軍の特攻基地としてもっとも多くの海軍特攻機が出撃した。
二階フロアには鹿屋から出撃した海軍搭乗員の遺書(案内の人によると
集められる限り全てと言っていた)敷島隊から梓特別攻撃隊、
神雷部隊「桜花」、宇垣中将の特攻まで資料、展示も充実。
世界唯一の二式大艇もここにあり。(屋外)
 
零戦は吹上浜から引き揚げられた機体を復元したもので
数あるゼロ戦の中でもオリジナルに近い。エンジンは近くで
見られるし、コックピットの様子も近くで見ることができる。
ボランティアガイドがラダーや操縦桿を動かして説明してくれる
方向舵や翼が動く様子は零戦や航空機ファン必見。 
 
余談であるがここの食堂で食べられる「鹿屋海軍カレー」は
美味。
 
鹿屋航空基地資料館へ行ってみる

大刀洗平和祈念館の零戦三二型

◆大刀洗平和祈念館(福岡県筑前町)
零戦三二型(第二五二海軍航空隊柳村義種少将機)
 
昭和53年、マーシャル諸島タロア島より帰還した機体で
2013年、第252海軍航空隊の柳村義種少将の機体と判明した。
世界で唯一の三二型(翼が角ばっている)を展示している。
 
ここは震電の展示が充実しているほか
B-29実物大オブジェが天井から吊り下げられている。
 
大刀洗平和祈念館へ行ってみる

大和ミュージアムの零戦六二型

◆大和ミュージアム(広島県呉市)
零戦六二型
 
大和ミュージアムに海軍のシンボルとして展示されている。
大戦末期に製造された重武装の六二型。爆戦ともいう。この機体の 
搭乗員は広島へ原爆が投下された日、琵琶湖上空を飛んでいたと
証言している。
 
大和ミュージアムへ
戦艦大和ドックはいま 歴史の見える丘へ
 

2015082710410000 
河口湖自動車博物館飛行館
国内唯一の零戦21型と一式陸攻を所蔵する。
夏季のみ開館。
 
河口湖自動車博物館飛行館へ

 
パラオの零戦 

◆南方戦跡として残る零戦
(画像:パラオ)
 
当サイトでは南方各地に戦跡として残る零戦を調査し
掲載しています。右の記事一覧からぜひご覧ください。
 
-------------- 
 
靖国神社遊就館(東京)
上野国立科学博物館(東京)
 
作成中。

 
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零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

最後までご覧くださりありがとうございました。
当記事はこれから、まだまだ完成度を高めて参ります。
  

D
 

零戦Tシャツ

 

零戦Tシャツ(ネイビー)

零戦Tシャツ(グリーン)

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amazon販売ページへ
 

ネイビー ブラック ブルー アイビーグリーン(機体色)


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模型製作代行は「神雷工房」へ

2013年11月 7日 (木)

大谷資料館 宇都宮の巨大地下空間~採石場跡(四式戦闘機「疾風」地下工場)見学その2

大谷資料館 地下空間 栃木県宇都宮市 中島飛行機四式戦闘機「疾風」地下工場

大谷採石場跡(大谷資料館)01

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大谷採石場跡(大谷資料館)03

大谷採石場跡(大谷資料館)04

 
採石場跡内部へ
大谷資料館採石場跡内部へ階段を下って行きます。

夏場は寒いので上着をお持ちください。
  
年間を通じて気温湿度とも一定しており
天然の冷蔵庫として酒造会社の酒蔵にもなっています。
 

大谷採石場跡(大谷資料館)05


地上から注ぐ青い自然光
青いのは電気ではありません。自然の光です。

地上から注ぐ太陽の光がここでは青く見えるんです。
時間帯や季節によって光の見え方が異なります。


壁には昭和初期につけられたツルハシの跡が残ります。
 
四式戦闘機「疾風」地下工場
ここでは昭和19年から20年、空襲を避けるため
中島飛行機の地下工場として稼働しました。女学生が動員され
四式戦闘機「疾風」のエンジン部品が製造されました。
 
撮影に使われたドラマ、PV、映画など
さまざまな撮影に使われています。個人での坑内の撮影は自由ですが
2時間を超える撮影、三脚の持ち込みは事前の許可が必要です。 
 

映画
セーラー服と機関銃/東映/1981年/薬師丸ひろ子
19/東映/1987年/少年隊
ウルトラマンティガ/2000年/V6 長野博
オトシモノ/松竹/2005年/沢尻エリカ・若槻千夏
魍魎の匣/2007年/松竹/堤真一・阿部寛・椎名桔平・黒木瞳・田中麗奈
LIAR GAME FINAL STAGE/2009年/松田翔太・戸田恵梨香
ほか
 
テレビドラマ
青春牡丹燈篭/NHK/1993年/宮沢りえ
らせん/フジテレビ/1999年/岸谷五郎
アナザーヘブン/テレビ朝日/2000年/大沢たかお
金田一少年の事件簿/日本テレビ/2001年/松本潤
潜入探偵トカゲ/TBS/2013年/松田翔太・松岡昌宏
 
PV
長淵剛/ハングリー/1985年
GLAY/SOUL LOVE/1998年※
工藤静香/BLUE ZONE/1999年※
DA-PUNP/I wonder/2000年※
B'z/MAY/2000年※
野猿/太陽の化石/2000年※
島谷ひとみ/赤い砂漠の伝説/2003年※
JUJU/明日がくるなら/2009年※
Do As Infinity/生まれゆくものたちへ※
takiamiy(高見沢俊彦)/雷神の如く/2013年
ほか 
 
※YOUTUBEで視聴可能作品

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ステージがあり、コンサートが行われたり
幻想的な地下教会での結婚式プランもあります。
 
大谷資料館・住所
〒321-0345
栃木県宇都宮市大谷町909
028-652-1232

老若男女入場600円。
JAF割引(会員証提示)で500円。
 
なお、PVや各種撮影のためにお休みすることが
ありますので、見学の際は要確認です。
 
宇都宮にお越しのさいはぜひ大谷資料館を
見学されることをおすすめします。
 

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▲地下工場で生産された四式戦闘機「疾風」
 
主にエンジンをこの地下工場で生産し
機体組立を地上の宇都宮製作所と群馬県太田製作所で生産し、前線へ送り出した。

宇都宮の大谷採石場跡(巨大地下空間)その1

宇都宮 採石場 大谷資料館 巨大地下空間
中島飛行機四式戦闘機「疾風」地下工場を行く
 

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栃木県宇都宮市の巨大地下空間大谷採石場の特集です。
※戦時中は中島飛行機四式戦闘機「疾風」地下工場
 
採石場跡へ入る前に周辺も素晴らしい景色と史跡がありますので
まずそちらを散策します。
 

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大谷石の採石は現在も行われており、採石や加工会社が軒を
連ねています。加工がし易く使い勝手の良い大谷石は
ここ宇都宮で採石、加工され全国へ出荷されています。
 

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採石して切り開いた道路です。地層がはっきりとわかります。
現在、建設の主役はコンクリートとなり、石が用いられる機会も
少なくなりました。大谷石の最盛期である昭和初期から中期にかけて
ここ石の街大谷は繁栄を極めましたが、現在は人口も減り静かです。
 

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平和観音を拝観します。なむなむ。
日本最大の磨崖仏(※まがいぶつ 石を掘り削ってつくった大仏様)で
です。この通路も迫力があります。
 
なお、この辺りは
ジブリのアニメ映画「茄子2 スーツケースの渡り鳥」のシーンにも
登場し、美しく描かれています。
 

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大仏様のお顔付近まで階段で登ってこられます。
景色も良いのでぜひエクササイズ兼ねて登りましょう。 
 

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大谷寺(おおやじ)を見学します。
大谷寺はせり出した崖の下に建てられたといにしえのお寺です。
ここには日本最古といわれる(なんと1200年前)
磨崖仏が掘られています。弘法大師の作と伝えられています。
中は撮影できないので、パンフレットを載せました。
 
大谷へ来たらぜひ訪れると良いでしょう。
こちらの千手観音を拝観すると1200年分の時空を体感
でき、言葉で表せない感動が味わえます。
それにしても我々の一生は実に儚いものであります。 
 

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お庭も素敵です。
背後の山は御止山といって、昔は宮様しか入ることができませんでした。
現在は庶民も登れます。
 
ではいよいよ大谷資料館(採石場跡)へ向かいます。
 

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到着しました。
砂利道を抜けた先が駐車場です。
 
駐車場入り口に展示されているレトロなボンネットトラックは必見。
 

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トラックの搬入口。
中からここからの光が見えますので、覚えて置いてくださいね。
ひんやりした空気が流れてきます。
 
それからカフェとお土産屋さん、無料休憩所などが揃っています。
※木曜休み
 

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受付のおねえさん(ときどきおばちゃん)から
入場切符を買い求め
いよいよ中へ入ります



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パラオ全図島
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