2016年6月29日 (水)

18歳選挙権

18歳選挙ポスター(広瀬すず)

今度の参議院選挙から有権者は18歳以上となった。
若者の投票率向上を期待をしたい。
 
昨今の若者は可哀相だ。
子供どころか、不安のあまり結婚すら出来ない。
 
日本人男女の平均寿命は83歳だが、
これはボケ、寝たきり含む平均寿命である。健康寿命は72歳。
近い将来、年金支給年齢は70歳まで引き延ばされる。
勘定すれば人生のうち、自由な時間はたった2年間しかない。
 
生産力の無い年配者が増え、若者の負担ばかりが大きくなる。
我々が身を粉にして働くのは自らのため、そして子供たちの為である。
このままでは日本は悪循環の末に滅びるであろう。
 
若者がシッカリ稼げる未来を作ろう。
若者が稼がねば年配者を支えきれない。
 
これを実現する唯一の術は若者が選挙へ行くことだ。
若者をメインとした政策を出させるのだ。子々孫々まで日本という国が
あり続けるために、そして幸せであるために、選挙へ行こう。
未来は我々のものだ。
  
18歳の広瀬すずがキャンペーンやってるということなので
当方も嬉々として宣伝に参加。総務省HPより

18歳選挙ポスター(広瀬すず)

2016年6月22日 (水)

九六式艦上戦闘機(紙飛行機)

Imgp0511

Imgp0508_2

Imgp0516_2

先日、販売致しました紙飛行機おじさんの紙飛行機、
1/48九六式艦上戦闘機です!(お陰様で完売致しました!) 
 
この品は単なるペーパークラフトでなく、紙飛行機なので
飛ばして遊ぶことができる上、模型として
棚に飾っても遜色ないスタイリング・精度となっております。
九六式独特の尾翼形状、赤の保安塗装と、マニアにも垂涎ものであります。
  
他には赤とんぼ、二式水戦、彗星などがラインナップされております。
如何でしょうか。
  
さて、明日木曜日は、恒例の戦友会で東京、市ヶ谷へ参ります。

2016年6月21日 (火)

ブルーホーネット

ブルーホーネットの展示飛行を早速アップされている方が
いらっしゃいましたので掲載します。


YouTube: ブルーホーネット飛行展示 北宇都宮駐屯地 開設43周年記念行事

2016年6月10日 (金)

YS-11宇都宮へ飛来 ♯151

Imgp1563

今日6月10日
入間の飛行点検隊のYS-11が北宇都宮に飛来しました。
自宅のベランダから撮影。今回も151号機でした。
 
前回目撃したのは10月5日だったかなと思います。
北宇都宮の飛行場まで見に行きましたから。
そのときの記事です。
https://soranokakera.lekumo.biz/tesr/2015/10/--8a0e-1.html
 
おおむね3ヶ月ごとに飛来しているようです。

2016年6月 8日 (水)

市ヶ谷の釣り堀と江戸城の外濠

Imgp0024

偕行社に通っているので総武線市ヶ谷の駅をよく利用します。
少し時間があったので
ボケっとベンチに座って釣り堀を見ていました。
 

右側は江戸城のお堀の一部ですよね。東京もこうしてみると史跡が多く
面白いです。江戸城(皇居)のお堀には推定200歳の鯉が棲んで
いるとか。巨大な鯉を見たという報告は多いですね。
 

いつもカメラを持っているのですが、撮りだすのが面倒で
けっこう素通りしてしまいます。
これからはもっと日常風景を撮影していこうと思います。

2016年6月 7日 (火)

鹿対策にヘッドライトを交換

Imgp0030

Imgp0025

Photo

都会に住んでいる方にはわからないと思いますが、栃木の田舎では
真っ暗な道が多く、昨今特に鹿の出没が増えています。
夜中に鹿と衝突して窓ガラス貫通し、運転席に飛び込んできた鹿が
運転手に突き刺さり、死亡事故になった例も
あります。通常の保険はききません。(車両保険はききます)
 
明るめのヘッドライトを装備し、街中ではフォグは消灯しますが
山道では常に点灯し、鹿を避けるよう運転しています。

そこで梅雨に入る前にヘッドライトを交換しました。今までは

国産(PIAA)製のHIDを使っていたのですが、
最近のLEDは遜色ない品質だと聞き、早速交換したところ
IPF(国産品で2万円くらい)HIDと同じくらいの明るさでした。
バラストも必要ないのでスッキリしています。
 
ついで黄色のフォグランプを取り付けました。頑丈さが売りの三菱車です。
バンパー外さないといけないのでややしんどいですが
無事終了。

2016年6月 6日 (月)

ギンヤンマの羽化成功

Imgp0062

 
今年は、庭のビオトーブでクロスジギンヤンマのヤゴ(幼虫)を
飼育していました。ピンセットで生餌をやったりと、世話が
大変なのですが、この神秘的な光景は一生ものの価値があります。
未明に水から這い出して、羽化に成功。無事一部始終を見守りました。
明け方に飛んで行ってしまいました。
 
クロスジギンヤンマのヤゴは
ため池などに棲んでいて水流に弱いので
エアレーションは使えませんが、汲み置きのビオトーブで
なんとかなりました。一昨年の夏はオニヤンマの羽化にも
成功していたので、同じような要領で飼育した結果、成功でした。
 
黄緑色と水色が特徴の綺麗なトンボです。
そして私が一番好きなトンボです。

2016年6月 5日 (日)

原田要さんお別れの会

善光寺で行われた原田要さんお別れの会へ参列致しました。
原田さんの御霊前に手を合わせ、また参列された方々と
思い出話をしまして、ご遺族ともお目にかかってきました。
 
原田さん、残念です。もっと長生きしてほしかった。
本当にありがとうございました。原田さんが遺された
不戦の誓いを果たすべく頑張ります。 

Cimg0295

2016年5月27日 (金)

たくさんのお申込みありがとうございました

1274284_1005947669488619_2722741125

来たる5月29日(日曜日)に開催されます
磯部喜一憲兵曹長の講演会、たくさんのお申込みを
ありがとうございました。
 
98歳の磯部氏も
「自分の体験を一人でも多くの若い世代に伝えたい」
との
意気込みで臨まれます。
 
当日配布される分厚い資料も磯部氏が自ら一冊一冊
手作りしてくださいました。
 
ご参加の皆様、

当日は気を付けてお越しください。皆様と
お目にかかれます事を心待ちにしております。

2016年5月26日 (木)

願ってやまず

先日、お目にかかったのは第55戦隊の飛燕のパイロット
A少尉のご遺族でした。A少尉の

第55戦隊は第244戦隊とともに知覧の防衛と
特攻機の掩護を担った部隊です。
 
昭和20年、A少尉は知覧上空で、空襲にやってきた
シャングリラ隊のシコルスキーコルセアF4U-Dを2機撃墜後、
さらに体当たりし、結果的に3機を撃墜しております。
 
体当たりののち、A少尉は落下傘降下に成功しましたが
それを見ていた僚機米軍パイロットも
頭にきたのでしょう。
降下中を狙い、落下傘を切断。少尉は地上に激突戦死したようです。
市街地上空だったため、目撃者が多くおりました。
 
ご遺族はなぜ落下傘を切断したのか、また
最期の瞬間何を思っていたのか、そればかりを考えているようでした。
戦争ですからね・・・としか私は申し上げられませんでした。
 
しかしながら、こうして70年経過した今も
武勲を讃え、後世に語り継ぐことを大切になさっています。
そうした思いを誰もが忘れず、ずっと残していきたいと
願ってやみません。

2016年5月25日 (水)

原因不明の症状

私はどちらかというと普段から健康に留意し、体力には自信があるほうで
有酸素運動と筋力トレーニングをバランス良く
組み合わせ、体脂肪率も8パーセントを
保持するよう努めております。
食生活は栄養バランスを考え、腹八分を心掛けています。

しかし、ここ二週間ほど
原因のわからない体のだるさが続いており
立って歩くのがやけにしんどい状態でした。
 
それでも昨日は遺族と面会の約束をしていたので
東京の立川市へ行ってきました。
用が済んで、帰りの電車は運よく座ることができたので
2時間位、ずっと座っていました。
 
最寄駅に到着して立ち上がったところ、心臓が激しく動き、
やや意識が遠のきまして、これはまずいと思い、
救急車を呼んでもらおうか、そんな考えが頭を過りましたが
こんな程度で救急車を要請しては、恥ずかしいような、
申し訳ないような気持ちになり、
とりあえず、しばらく座って休んでいたところ、収まりましたので
駅から車を運転して帰宅した次第です。
 
かかりつけの内科で大苦手の血液検査をしたところ
どこも悪いところはありませんと言われました。
  
内科医に「きちんと水分補給はしていますか?」と聞かれましたが
私はパラオや硫黄島で
「水分は小便が透明になるまでシッカリ飲め」と
教わっていましいたので欠かすことはありませんでした。
 
検査結果はよかったのですが、未だ原因不明で
動悸やめまいがするので、今は自宅で安静にしています。

2016年5月22日 (日)

扇風機を改造してみた

零戦扇風機

当ブログの画像をまとめサイトへ転載することは禁止しております。
利用料金を請求させて頂きます。
 
最近、特にまとめサイト等で文章を転載したり
画像を無断で掲載されるケースが多くなってきました。
まとめサイトで行われている行為は引用でなく、転載と見なします。 
 
第一条第六項
まとめサイト・二次配布・商用・アフィリエイト等の目的で転載が確認された
場合は、80,000円をお支払い頂きます。(削除の有無にかかわらず)
 
当サイトを訪問し、画像を無断転載された場合は
規約に同意されたものと見なします。
 
---------------------------------------------------------
 
浴室の脱衣所の扇風機が古くなっていたので再塗装。

元々は白だったのですが経年劣化でかなり黄ばんでいました。
ちなみに20年もの。
思いつきで零戦カラーにしてみました。
 
サーフェイサーも吹かずにやっつけ仕事です。モーターの開口部を
マスキングしてエアブラシでおおまかに塗って、細かいところは筆塗り。
余っていたデカールを適当に貼って完成。
 
浴室は家族以外誰も来ないし、まあこんなモンでいいかなと、
しかしながら空は飛べません。

2016年5月21日 (土)

炎天下で曲がってしまった

Imgp9916

 
今日はイベントでした。

お客さんや子供さんが喜ぶので
なるべく商品の見本を躊躇なく開封して組み立てて
展示してるんですが、
 
アクリルケースに密閉したのがよくなかったか!
炎天下で湾曲してしまい、破損を招いてしまった。
仕方ない。またつくろう!

2016年5月20日 (金)

今日はイベント

Imgp9897

 
今日(21日土曜日)は二荒山神社前でイベント出店です。

自衛隊イベントなのですが、私は今回も旧軍グッズ一本で行きます。
最新鋭の兵器より昔のゼロ戦の良さを伝えたい。

2016年5月15日 (日)

戦友会の行方

Imgp9896

昨日は靖国神社で私が代表事務を代行する戦友会の慰霊祭でした。
部隊の創設日に合わせて例年開催しています。
 
今年は戦友四名、親族遺族五名、有志四名が
集まり、昇殿参拝を行いました。
靖国神社の本殿は木洩れ日と心地よい風に包まれ
時折、柏手を打つ音が遠くから聞こえる程度で
都心とは思えない静かな雰囲気でありました。
 
94歳の元大尉は
「今年も戦友に会う事が出来て本当に嬉しかった。戦死した者
先に逝ったもの、それに我々も、これからそちらへ
行くだろうから待っていてください」と言いました。
 
戦友会員の最年長は98歳です。
九段下の駅を降りて、大鳥居をくぐり、長い参道をゆっくり40分かけて
歩いてくるのです。まだ五月で心地よい気候ですが
八月ともなれば堪えることと思います。
 
戦友会は毎月開催していますが、先月も会員に不幸がありました。
毎月、今月もちゃんと来てくれるだろうか、とヒヤヒヤしております。
 
戦友会を見てきて、私が感じる健康長寿の秘訣を書きます。
言葉を選ばずに書きますとボケ防止と健康の秘訣は
おおきく二つ。歩くことと、コミュニケーションをとることです。
 
出掛けた先で家族以外とコミュニケーションをとることが何より
脳への刺激となります上、楽しみも増えます。
それには、歩いて出かけようという意思がなければ
叶いません。先ずは健脚を保持。
 
体力が無くて億劫だからと家に居てばかりではいけないでしょう。
新しい事が無いと、ボケが急激に進みます。もちろん無理は禁物ですが
適度な負荷は必要です。付添いのご家族も、何をやるにも
「甘やかせないでなるべく本人にやらせてください」と言います。
 
健康で長生きされる方に共通して言えることは
常に探究心と好奇心を持っています。綺麗な女性が好きです。
タバコも好きですし、歌も歌います。
 
先日は94歳の方が
「コレ買ったんだけど、使い方を教えてくれ」
とタブレット端末を持ってきたので驚きました。
 
運営当初は高齢者を大事にするあまり
結構、恐縮していたのですが最近は割合、言いたいことを
言えるようになりました。
 
ともかく、我々は最後の一兵まで
お付き合いするつもりです。

2016年5月13日 (金)

フライング・ダイナソー搭乗

Imgp9197

Imgp9220

Imgp9239

 
私は無類の絶叫マシーンマニアであります。
この度は大阪へ行ったついでにウニバーサルスタジオを訪園し
念願だった新作、フライング・ダイナソーに搭乗致しました。
 
このマシーンの感想を書きます。
富士Qのように高度がないので、あまりスリルはありませんが
宙返りと疾走に伴う爽快感は充分に楽しめます。 背面飛行のまま
宙返りするので、レッドアウトが体感できる国内では貴重なマシーンです。
飛行機好きはぜひ!
 
ディズニーと比べたらかなりいいです。ハリーポッターも搭乗しましたが
こちらはほとんどがバーチャル映像で テレビCMのような鮮明さは
ありませんでしたし、乗り物のカゴが ゴトンゴトン動いているだけなので
それなりでした。

不動産投資勧誘の電話がかかってくる。
「私、〇〇の者ですが、今度新しく出来るマンションがありまして
〇〇まで歩いて数分という好立地ですし、ナンタラカンタラ」
東京の一等地にマンションができるから、購入しないかという旨らしい。
一方的な電話を聞いていれば、こちらの名前も住所も知らないようだ。
 
「どちらへおかけですか?」と尋ねても言葉を濁す。
 
それで
「どうしてこの電話番号知っているのですか?」と尋ねると
 
「東京データシステムというところから購入していまして・・・」
 
と、なんとも正直すぎるほどの回答。
この会社に連絡して、何とか削除してもらえないだろうか。

2016年5月 8日 (日)

講演会

今年も講演会の依頼を随分と頂いております。
本当にありがとうございます。今年はなんと関西からも
ご依頼くださいました。
終戦の日前が多いのですが
それ以外の日も行っております。
 
講演会の魅力は、ブログや本に書けないような裏話が
たくさんできることです。
案内は、随時更新していきますので
よろしくお願い致します。

2016年5月 1日 (日)

元近衛歩兵連隊、宮城警備のお話し

先日は元近衛歩兵第二連隊で100歳の方にお会いし
インタビューしてきました。
近衛歩兵というのは、天皇陛下の親衛隊です。
当時から皇宮警察はありましたが、それとは別に
日本陸軍二個連隊が宮城の警備を行っておりました。
周知の通り、現在の自衛隊は皇居の警備は行いません。
 
タイトルは「みやぎ」ではありません。宮城(きゅうじょう)と呼称します。
昔の皇居の呼び名です。
 
この方は
先の大戦時にも宮城の警備を担い、終戦の日もクーデター側の

将校から玉音放送のレコード盤を奪還せよとの命令を受け
宮城内を探し回ったと、お話しくださいました。
 
このときは兵卒として上官の命令に従っただけなので、
罪には問われませんでした。クーデター終結し、
戦後しばらくは奥日光の南間ホテルで
皇太子の警備にあたりました。(今上陛下であります)
  
近衛歩兵は通常の歩兵とどう違うのですか?との質問には
訓練内容は通常の歩兵と変わらないが、
ハクをつけるため、戦地(この方の場合は北支)に派遣され
歩哨を行ったとのことでした。
 
近衛歩兵になるには、特に身辺調査が厳しく、
曽祖父の代までさかのぼって、家柄、純粋な日本人であるか、または
知り合いに共産思想の者が居ないか、調べつくされ
合格した者だけがなれました。大変な調査ですから、
一番、手っ取り早い採用方法は土地土地の名家の若者を
選ぶことでした。
 
日本が戦争に敗れ、GHQが新しい日本を作る迄、
元首は天皇と明確にされていました。
現在の日本国憲法でも、建前上
天皇が総理大臣を任命する形にはなっていますが
元首である旨はGHQによって削除されています。
 

この辺りの取材内容も書きたいのですが
仕事の合間にやっているもので、なかなか進みません。
 
いまは来年のカレンダーの製作しております。
デザイン業はかなり先々のものをやるので、季節感が
麻痺します。

百式司令部偵察機(三型)

百式司令部偵察機(三型)

デジラマ撮影しました。

2016年3月20日 (日)

既存のフォントを改造してステンシルフォントを作る

Photo

 

「漢字のステンシルが欲しい!」というお問い合わせをよく頂きます。
 
英文なら無料のフリーのフォントも多いのですが
和文漢字(日本語)は高価で、ちょっとだけ使いたいけど
そんなに沢山は使わない、もしくは好みのデザインが無い!という場合に
使うのがこの方法。
 
当サイトでは
製作代行もしておりますので、お気軽にお問い合わせください!
お値段などはこちらです。
https://soranokakera.lekumo.biz/tesr/2015/05/post-a564.html


 

2015年9月26日 (土)

さらば空中戦艦富嶽

富嶽 爆撃機

◆富嶽計画概要
  
富嶽(ふがく)は中島飛行機が開発を行った超大型重爆・戦略爆撃機で
またの名を空中戦艦「富嶽」と呼称した。富嶽を用いた富嶽計画は
中島飛行機創設者であり、大所長の中島知久平が考案、推し進めた唯一の
必勝戦策であった。
 
中島知久平は英米と真っ向勝負を挑んでも、勝ち目がない事を
戦前より繰り返し唱えており、
戦艦の建造競争は今すぐ
やめるべきだと主張。
 
いずれ必ずやアメリカの超重爆が日本本土に来襲し
焦土と化すであろう、それより先に、我が国が戦力の主力を航空機に据え
アメリカ本土の工業地帯の中枢を叩き、
撃滅。決戦を挑むことにより
早期講和を引き出すことが絶対条件と
捉えていた。
 
日本を離陸した富嶽は太平洋を無着陸で横断し、アメリカ本土を爆撃。
そのまま大西洋を横断しドイツ占領下のフランスへ着陸。給油後、日本へ
帰還する計画で
地球を東回りに一周することになる。
 
◆中島知久平の必勝戦策

昭和13年、中島知久平はどうしても戦争をやるなら、勝つためには
これしかないと、九十八
頁に及ぶ必勝戦策を書き綴った。
 
必勝戦策の第一章「大型飛行機出現による国防の危機」と題した
中島知久平は最も危惧すべき点として
「アメリカの開発中の超重爆が必ずや日本本土を焦土と化す」
と主張。B-29による本土爆撃をもっとも早くから予期した。
それであるから、それ以前に日本の超重爆が
米国中枢の工業地帯を
叩こうという作戦である。
いくら迎撃用の戦闘機を開発しても無駄で
あるから、その前に
全ての資材、国民の総力を結集し富嶽の製造に充てる
べきであると書かれている。
 
富嶽
 
◆富嶽空中艦隊でアメリカ本土を爆撃せよ
富嶽の発進基地はアメリカ本土に一番近い占守島として整備を進める。
時速200km/hのジェット気流に乗った富嶽は北太平洋を無着陸で
悠々飛行しアメリカ本土を爆撃。爆撃目標はアメリカ工業力中枢
ピッツバーグ重工業地帯である。敵の生産力の中枢を叩き潰す。
さらにニューヨーク、ワシントンを爆撃し戦意消失を図る。
アメリカ本土爆撃後はそのまま大西洋を横断しドイツ占領下の
フランスへ着陸。給油後、地球を東回りで一周し日本へ帰還する
 
空中艦隊には機関銃400挺を装備した護衛の掃射機も考案された。
他に20本の魚雷を積んだ雷撃機、兵員200名を乗せて運ぶ輸送機
タイプがあった。
マリアナへ出撃した別働隊はB-29に対し
空中砲撃戦を展開。
たちどころに撃破する。魚雷20本を抱いた
富嶽雷撃隊は
アメリカ機動部隊を捕捉。これを撃滅する。
 
◆アメリカ本土へ兵員を空輸・勝利せよ
 
こうして富嶽を500機1000機とアメリカ本土爆撃に投入し
最後は富嶽で大量の兵員を空輸し勝利する。
 

富嶽

▲左から「富嶽」、「一式陸攻」、「ゼロ戦」、比較。

 
◆富嶽の仕様
(カッコ内はB-29との比較)
 
翼長65メートル、胴体45メートル
(B-29の1.5倍から2倍の大きさ)
 
三点静止角度9度、主翼面積350平方メートル
最大翼弦9メートル、上反角3.5度
縦横比1対0.5、取付角6度
水平尾翼面積60平方メートル、垂直尾翼面積40平方メートル
胴体内燃料タンク容量4万2720リットル
翼面荷重457キログラム/平方メートル
馬力荷重5.3キログラム/馬力
自重67.03トン、爆弾積載量20トン(B-29/10トン)
全備重量160,000kg
 
上昇限度15,000m(B-29/10250m)
最高速度700km/h(B-29/550km/h)
航続距離18,000km(B-29/5,300km)
航続距離は機体の仕様から割り出すと16,000kmと短いが
成層圏のジェット気流を利用すれば20-30%伸びると考えられた。
 
エンジン
5000馬力を6発(B-29/2400馬力4発)
ダブルBH(陸軍名称ハ-219)空冷星形18気筒2500馬力を
前後に並べる。
すなわち富嶽は6発機であるがエンジンは
エンジンナセルに2基ずつ収め、計12基搭載と同様。
 
プロペラ
住友製直径4.8メートル6枚翅、あるいは4枚翅の二重反転プロペラ
 
富嶽は当初、最後の切り札という意味合いで「Z機」のコードネームを
付与されていたが
のちに富嶽と命名される。
 
◆中島知久平とは
中島知久平は明治17年生まれ
群馬県新田郡尾島町出身(現在の太田市)
中島飛行機の創設者である。
 
豪農の長男として生まれ育った知久平少年は後継ぎの最有力であった。
知久平少年は何度も中学進学を懇願したが、父は許さなかった。
その間にも知久平少年は友達から中学の教科書を借りては読み
漢字も習いに通っていた。しかし英語だけは
独学ではどうにもならない
ことに限界を感じていた。
 
どうしても勉強がしたい知久平少年はついに決心。ある夜、書置きを残して
密かに家出をしてしまう。
利根川の土手を沿って東京へ出て行くのだった。
 
「ぼくはどうしても勉強してりっぱな人になりたいのです。
そのために東京に行きます。ぼくのことは死んだと思って
あきらめて、探さないでください。ぼくがいなくなれば
お父さんもお母さんも手不足でこまるとおもいますが
弟たちがすぐに役に立つようになるのですから当分のあいだ
がまんをしてください。
また、悪いこととはおもいながらも、学資がいりますので
神棚にあがっているお金をもって行きます。さぞおこまりに
なるとはおもいますが、しばらく貸してください。一生懸命勉強して
はやくえらい人になり、何倍にしてもかならず返します。
勝手なことをして申しわけありません。どうぞ親不孝の罪を
おゆるしねがいます」
 
生まれて初めて東京に出た知久平少年は同郷の正田満の家を訪ねた。
正田は知久平の隣家で満は徴兵で東京の
第一師団歩兵第三連隊
(通称麻布三連隊)に入隊し
古参の軍曹になっていた。知久平少年の
熱意に圧倒された満は
「よし、お前の居所は誰にも知らせない。陸軍士官学校へ入ったら俺が
おやじに詫びてやるから、安心して勉強しろ」
と神田の下宿屋を紹介した。
以来、知久平少年は勉強机は石油缶で代用し、風呂は一ヶ月に一度。
床屋は三ヶ月に一度、
夏はふんどしひとつで過ごし、勉強した。
全ての時間を勉強に費やすため、一切アルバイトをやらず、
ケチケチ作戦で凌ぎぎった。下宿に布団はなく石油缶にもたれて
いつの間にか眠っている、そんな毎日だった。
 
満はそんな知久平少年を見かね、援助してやることに決めたが
下士官で安い給料だったので、好きなタバコも酒もやめて
できるだけ知久平少年と苦労をわかちあった。
 
陸軍士官学校へ入りたいという希望には知久平少年なりの
考えがあった。当時、ロシアが旅順と大連を租借して着々と東洋に
対する侵略の手を伸ばしていた。
ロシアからの脅威から日本を守るため、
身を捧げ
陸軍士官になるのが一番だと考えたのだ。
 
知久平少年は約一年半で中学卒業と同様の資格が得られる
専検に合格した。この頃になると、父に居所がバレてしまっていたが
その志を父は許していた。しかし父の希望で陸軍をやめて海軍に入るよう
説得される。海軍のトップエリートといえば海軍兵学校か海軍機関学校だが
知久平少年の望みは兵学校だった。
機関学校へ入った経緯について
知久平の甥によると
海軍機関学校の試験が11月頃で、兵学校は翌年春
だったので
機関学校は小手調べのつもりで受験し合格した。
父に相談したら「高望みをするものではない」といわれて兵学校受験を
諦めたと伝えられている。
 
海軍機関学校へ入学した中島知久平は、その4日前
ライト兄弟の初飛行を聞き「自分の将来はこれだ」と決めた。
海軍機関学校を恩賜の銀時計組(トップスリー)で卒業すると
直ちに飛行機を専攻しアメリカへ出張。日本人で3番目の操縦の
ライセンスを取得した。
 
帰国後、国産飛行船で1時間40分の滞空記録を樹立。
さらに海軍工廠で国産一号機を作り海軍の飛行機製造の第一人者となった。
また、世界最初の雷撃機を考案。これが将来の主力兵器だと断言。
戦艦金剛一隻で飛行機三千機が作れた時代に
貧しい日本が英米と戦艦の建造競争をすべきでない
と飛行機国防論を提出した。このとき海軍大尉。
 
◆海軍を辞め中島飛行機を設立
 
大正6年6月
飛行機国防論が無視されると、さっさと海軍を辞め
自分で飛行機を作るために中島飛行機を設立。
 
さっさと辞め、とは言っても海軍退官にあたって
中島知久平は「辞職の辞」と題して長文のあいさつ文を印刷して方々に
配布して回った。それは辞職届と呼ぶより
自らの
主張した「飛行機国防論」そのものであった。
 
「当時の超弩級戦艦『金剛』一隻の資材を分配し航空戦力に
充てるべきである。
欧米と戦艦同士の真っ向勝負すべきでない。
そして航空機には魚雷を携行すれば、その威力たるや
金剛より優れる」といった内容であった。
 
このとき、中島知久平の最も良き理解者であった
大西瀧治郎(当時は大尉)も中島の立ち上げる飛行機会社
に入るつもりでいたが、海軍に却下され始末書を書かされている。
そのかわり大西は資金集めに走り、海軍に残っては航空主兵論
戦艦無用論を繰り返し唱えた。
 
中島知久平は自らプロペラ一本一本を手で削る苦労を経て
陸海軍に純国産の主力機を納入する飛行機会社へ成長した。
民間会社である中島飛行機が三菱や住友などの大財閥を超える
大企業へ成長したことは
特筆すべき点である。
 
中島は故郷の群馬県尾島町へ戻り
両親の為に総檜造りの大屋敷を建設する。中島知久平邸は
ステンドグラスやシャンデリアなど細部にわたり豪華な装飾が施され、
部屋から見渡せる広い前庭や来客を迎える重厚な車寄せなど、
宮殿建築としての特徴が随所にみられ、近代和風建築を代表する
建造物として太田市の重要文化財に指定され、現在も見学可能である。
(現在の名称は太田市中島知久平邸地域交流センター)
 
◆富嶽計画の推進 
 
中島知久平という人物と中島飛行機の創設を簡単に記したところで
話を富嶽に戻そう。昭和17年
ミッドウェイでの敗退をいち早く知ったのが、
他ならぬ中島知久平であった。
このとき
東京・日比谷の市政会館に事務所を構え無線を傍受していた
中島は
民間人でありながら、軍部の関係者より情報に詳しかった。
 
ラジオからは挑発的な文言が流れる。
 
「勇敢な合衆国海軍はパールハーバーで騙し討ちをした
ジャップの空母四隻を沈めました。赤城、加賀、飛龍、蒼龍だと思われます。
アメリカはヨークタウン一隻を失っただけです。これで日本は当面
攻勢に出てこれないでしょう。山本五十六はハラキリをするのでは
ないでしょうか。今度は我々がバッターボックスに入る番だと
ニミッツ提督は
言っています。」
 
「なんだこれは!?大本営発表と全然違うじゃないか!」
 
「米国はどんな犠牲を払ってでもサイパングアムを取りにくる。しかし
それを阻止する機動部隊はない。
戦前、渡洋爆撃を禁止しろ、
渡洋爆撃は非人道的だと残虐性を主張してきた
ルーズベルトがB-29を
使って我が国を焦土と化す。
かくなる上は、対抗手段を取らざる得ない
やむにやまれず、
戦争とはそういうものだ」
 
そう言って自ら製本した必勝戦策を携え
次々と各界の要人を歴訪して回った。
一番最初に訪問したのは前首相の近衛侯爵であった。
 
必勝戦策に他ならぬ関心を示したのが、軍令部参謀で海軍大佐の
高松宮だった。
中島知久平の日記によると次のように書かれている。
 
「高松宮出殿下よりお召しあり。御殿にてZ機について詳細言上す。
なお、政治、戦争、社会問題について御下問あり。意見言上す。
有難き激励のお言葉あり。
恐懼退出す。また富嶽の進行につき
中間言上すべきことを
申し上げ、御嘉納ありたり」
 
もう上手に負ける事を考えるしかないと
言っていた高松宮は有利な講和のきっかけとして
期待していたのかもしれない。
 
中島は粘り強く説得を続けて回った。
「Z飛行機の決定の遅延一日が国家の運命に重大なる
結果を招来することは、論議の余地を存しない
ところであります。何卒、ご勇断の程を願うてやまざる
次第であります」
 
昭和18年秋
一番の難関は総理大臣で陸軍大臣兼軍需大臣、間もなく
参謀総長も兼任する東條
英機大将を説得することだった。
中島知久平は東條に対し「Z機以外に必勝の策があるのか」と詰め寄ると
東條は遂に
「敗戦思想は許されないが、必勝戦策とあればいいでしょう。
やってみなさい」と製作が決定した。
 
しかしこのとき既に日本は劣勢に転じていた。
 
昭和19年のはじめ、ようやく「富嶽委員会」が
東京の明治生命ビルの6階に設置された。中島委員長をはじめ
陸海軍の代表委員が集められ、
最高機密のため中島事務所とだけ
記された。
そしてこのときはじめてZ機名称が正式に「富嶽」と名付けられた。
一方、ピッツバーグ工業地帯では月産100機を目標にB-29の量産に
入っていた。
  
 
中島知久平は全国各地から若く優秀な一等技師を
群馬県小泉製作所内にある太田クラブに呼び集めた。
世にいう太田クラブ缶詰事件である。
 
当時、小泉製作所では零戦、銀河、月光、天山、彩雲、連山、橘花など
を製作しており、連日、工場から送られる銀河の爆音のもと
各技師達は3か月缶詰となって富嶽の設計に尽力した。
 

Imgp9936

 
次に記すのが富嶽設計メンバーである。
コメントも記す。
 
●吉田孝雄/小泉製作所所長
ゼロ戦、銀河など月産400機の
量産システムを構築した。
 
●反町忠男/試作工場長
戦後富士重工太田北工場長
 
「まあ、作ることは前に連山とか深山とかありましたから
大きな飛行機でも作る立場からは心配はしてません。
いっぺんに作るってことは致しませんから。
羽は羽でも分けるわけですね。前と後ろを繋ぐと方法があるんです。
大所長(中島知久平)は力強かったですね。とにかく設計陣は総力を
あげてこれをやれということですから、みんな感激しました。」
 
●小山悌/技師長
隼の設計メンバーとして名高い中島飛行機の至宝。
 
●太田稔/技師/脚油圧担当
ノモンハンで有名を馳せた九七式戦闘機を作った。
戦後富士重工顧問
 
「車輪は直径が一間以上、幅が50センチ。車輪が浮きますと
パイロットの操作なしに
油圧と空気圧を使いまして自動的に片側の車輪を
放りだすという構造にしたわけです。上昇が軽くなります。片側1トン
ずつで
約2トン軽くなります。離陸のときの重量がだいたい約150トンで
着陸するときは爆撃を済ませて燃料も使い果たしていますから60数トンと
半分以下になりますから充分安全に着陸機能を果たせる。
こういうわけです」
 
●松村健一/技師
通称マツケンとして名声を馳せた天才的設計者。
戦前既にB-29と同じサイズの深山を作り、目下四発攻撃機
「連山」を開発中であった。
 
●西村節郎/技師/エンジン艤装担当
決戦機と期待された四式戦闘機疾風を手掛けた。
戦後秋田県能代市長
 
「出来る出来ないではなくて、そううい事ををやらにゃいかんのやと。
やるとなったらそれ一筋。中島知久平さんていう方はそういう方でした。」
 
●小谷武夫/技師/エンジン設計部長
誉エンジンの開発者。
 
●田中清史/技師/エンジン設計担当
戦後東京プラント社長
 
「落ち着いて実験をやって発動機の形式を決める余裕はなかった。
それでその当時は一応はものにしておりました空冷星形発動機を
基礎型にとりまして、なんとかこれなら、という案が2、3出たんです」
 
●水谷総太郎/エンジン実験課長
戦後富士重工取締役
 
「このエンジンの模型を見まして、まとめるのが大変だと思いました。
問題はエンジンの冷却です」
 
●新山春雄/技師/艤装担当
戦後日産自動車顧問
 
「アメリカがB-29の生産を始めたと知久平さんの耳に入った
ものですから、このままじゃ日本は必ず爆撃される。もう全部の仕事を
やめて、知恵と材料を集めて
富嶽を作るんだと」
 
●渋谷巌/技師/主翼構造担当
戦後富士重工常務取締役
 
「富嶽は飛び上がると翼の先端が1.3メートルたわむんです。全備で
旋回すると5.4メートルもたわみます。構造材料も
当時はそれほど
剛性の高いものはありませんでしたので、
結局は非常にやわらかい
非常におおきな翼になったんです。
超々ジュラルミンを波板にしまして
外皮を貼ってくんです。
そういう剛性を持たせた翼を作ろうと」
 
●宮坂晋/技師/製図担当
連山、深山の飛行試験に立ち会う
戦後富士重工勤務
 
「当時、飛行機の製造は陸軍と海軍に別れていたものですから
陸軍、海軍からそれぞれ40名ずつ小泉製作所の三階に集められて
始められたんです」
 
●内藤子生/技師/空気力学担当
戦後東海大学教授・航空宇宙学
 
「富嶽は翼の大きさに比べて目方が非常に重いわけです
その比率は今日のジェット機と同じくらいの比率なんです。
こういうことを急速にやるには技師を集めて太田のクラブに
缶詰にしてやるのが一番敏速にやれるだろうということで」
 
●中村勝治/技師
戦後スバル自動車顧問
 
「中島さんて非常にデータ、情報を集めておられて、
当時日本でも第一人者でした。もしかしたら軍部より米国の情報
集めてたんじゃないかと思うんです。それらを分析した結果、
今のままではとてもダメだと。勝つ為にはこうしなきゃいけないと」
 
◆重なる難題と迫るアメリカの本土爆撃 
 
富嶽計画は昭和20年6月までに400機完成を
目指して進められた。機体のデザインは何とか完成し
問題だった冷却も、アイディアが考案された。最大の課題は排気タービンで
あったが
実験が継続されていた。成層圏を飛行するにあたり、当初は
気密服を着用し
気密部屋は作らない。従って食事、排尿の問題は
未解決とされていたが、もう少し進んだ段階になると気密室特別委員会が
結成され気密室の研究が進められた。
 
中島知久平はある日、富嶽計画に懐疑的だった役員に
「中島飛行機は金儲けのやめにあるのではない!軍のわからずやどもが
なんと言おうが国家が重大な危機に
直面している今やそれを傍観すること
ができるか!
これを打開すべく最も役に立つ飛行機を作って奉公せね
ばならぬのだ」
と説得。
 
工員たちには
「戦争が終われば富嶽は世界一周の遊覧飛行機になるんだよ」
と言って聞かせた。
 
そんな中、軍需相が命じていた「川西案による富嶽」の存在を中島知久平が
知り「競争している場合ではない、全く必勝戦策が理解されていない!」と
批判した。
 
◆大西滝治郎中将が富嶽計画の中止を伝える
 
大西滝治郎中将が中島を訪ね、
富嶽計画が中止されることを伝えた。
思えば開戦より遥かに前の昭和13年から戦略爆撃機の開発による
必勝戦策を説いて回ったにもかかわらず、昭和19年まで無視され続けた。
富嶽計画がもっと早くから着目されれば日本も焦土にならずに
済んだのかもしれない。
 
中島知久平最大の理解者である大西滝治郎が
成功法であった「富嶽」計画の中止を伝え、
特攻作戦を始めたとされるのは、
なんとも言い難い悲運であった。
 
各技師は元の工場へ戻された。いつ完成するかわからない飛行機よりも
いま出来上がる飛行機が一機でも欲しい。軍需相は中島飛行機を接収して
軍の直轄とするとともに攻撃機「剣」の生産を開始した。
 
10年、20年先の計画を立てられぬ軍部の石頭が、
日本の不幸はそこにあった。その致命的な欠陥を軍部は大和魂で
埋めようと多くの若い命が散った。
 
◆戦後
 
戦後はGHQにより財閥、および民間であっても
飛行機の製造の一切が禁止され、中島飛行機は解体した。
富嶽に関するもので残っているのは
三面図と富嶽製作日記と必勝戦策だけである。
中島知久平はA級戦犯指定を受けたが後に解除されている。
 
◆富嶽の残したもの
 
富嶽計画は中止となったが
その技術は今日の技術大国日本に脈々と受け継がれている。
戦後の日本の成長は、こうした技術者たちの努力の賜物であり
富嶽は姿を変え不死鳥のように蘇ったといえよう。
 
中島知久平は、晩年、親しい側近に次のようにもらしていたという。
 
「今の政治家の中には一年先はおろか、明日の事すら考えて
いないのがいる。政治家たるものは少なくとも五年先
十年先くらいのことを考えていないといかんな」
  

富嶽

  
出展
『さらば空中戦艦富嶽』碇義朗
『巨人中島知久平』渡部一英
NNN系列テレビ番組1979年
『さらば空中戦艦富嶽 幻のアメリカ本土空襲』
 

記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

  
戦史 ブログランキングへ



 
関連記事
 
四式戦「疾風」と中島飛行機宇都宮製作所 
中島飛行機ロゴマークのダウンロード 
ブルーホーネットのアクロバット飛行

中島飛行機ロゴ

2015年6月24日 (水)

沖縄・喜屋武岬で戦没者を想う

喜屋武岬(沖縄)

 

はじめて沖縄へ行ったのは15歳か16歳の頃だったと思う。
東京の晴海からフェリーに自転車を積んで海上で2泊3日。
鹿児島県の志布志と奄美大島を経て那覇へ着いた。
 
早速、慰霊をしようと思って那覇の市街地を抜けて糸満市へ
サトウキビ畑を抜けて、最南端の喜屋武岬まで来た。
「ここが、あの喜屋武岬か」と思った。

 
米軍に追い詰められ断崖絶壁から身を投げた多くの方々の冥福を祈った。
既に日が傾いていたので、「よし、ここで一晩、過ごして亡くなった方々に
寄り添ってみよう」そう考え、岬で
野宿することに決めた。
とても風が強かったが、なんとか耐え忍んだ。
 
深夜2時ごろ、車に乗った男女の若者集団が遊びなのか知らないが
突然やってきたので、ムクリを起きたら、向こうが驚いていた。
それ以外は朝まで誰もこない、漆黒の闇の静かな夜だった。
灯台の明かりと、それを回すモーターの音が鈍く響いていた。
 
とにかく、この喜屋武岬で、
一晩、亡くなった方に寄り添い、祈り続けることができた。
沖縄へ着いて一日目の夜だった。

自分ひとり、闇の中、 
この世とあの世、どちらに居るかわからないような
不思議な夜だった。

2015年6月22日 (月)

戦友会を運営して思う事(3) 戦友の思い出

戦友というものは特別な存在だ。
 
昨今、若い人たちが苦労を分かち合った仲間や同僚を
本来の意味をはき違えて軽率に戦友と呼んでいたりするが、
それは適切でない。
 
戦場で散った戦友は
一生、忘れられないものである。
自らの一生を捧げ、供養を続ける人
あるいは自責の念から「あのときあいつが死んだのは自分のせいだ」
と、戦後ずっと自分を許すことができず苦しんでいる人も多い。
 
戦友会のメンバーである
水足氏と富安俊助氏はポン友(親友)だった。
家が向かいだったので、よく一緒に学校へ行ったという。
中学卒業後、水足氏はお国の為、命を捧げる覚悟で陸軍士官学校へ、
そして富安俊助氏は日本の将来を担うべく早稲田大学へ進学した。
水足氏は
「成績は富安より僕の方がよかったんだが」と笑いながら当時を
回想する。
 
水足氏は陸軍士官学校卒業後、陸軍大尉まで進級し中隊長として
ビルマへ出征。最前線で死を恐れず戦ったが
奇跡的に生還し復員した。
 
戦争は悲惨で運命は残酷だ。富安俊助氏は学徒動員で
海軍中尉を任官し、特攻隊となり、南溟に散っていたのである。
 
そして戦後、長らく経ってから、富安中尉の
戦死の状況が判明した。エンタープライズに

体当たりを成功させたゼロ戦は
富安俊助中尉の機ではないか?との知らせが入った。
 
詳しくはこちらをご覧頂ければと思う。
永遠のゼロのモデルは存在した
富安俊助中尉とエンタープライズ 
 
水足氏によれば
「2.26事件の、あの雪の日も一緒に富安と一緒に学校へ行った。
交通手段が全部止まっていたから、歩いて行ったんだけれど
妙に静かだった。馬に乗った陸軍将校が伝令に走り回っている。
そのときは富安と二人で、何も知らなかったんだが
校門前に着いて、ようやく事態を知って。二人で顔を見合わせて驚いてね、
もちろん学校は休みだというので帰ってきたんだ。」
 
「富安はハーモニカが得意だったな。ハーモニカのバンドをやっていた。
人気者で、僕は下手なんだけど」
 
そういって水足氏自身もハーモニカを取り出し演奏してくれた。
 
「あのビッグE(エンタープライズ)に富安がね・・・。
霞ヶ浦の航空隊へ入って、訓練時間などそんなに無かったはずだ。
僅かな間でどうしてそんな技量を身に着けたのかと思った。
500キロの爆弾を抱いて、水平飛行をして、ビッグEに接近して
それではダメだというので機体を翻して、雲の切れ目から
真っ逆さまにビッグEの飛行甲板に突っ込んだんだ」
 
親友、富安中尉の勇敢な最期だった。
これもひとつの戦友の記憶である。

2015年6月20日 (土)

NSXパトカー

NSXパトカー

NSXのパトカーを久々に見ました。この車体は
鹿沼ICの県警高速隊鹿沼分駐所に配備されており

待機中はガレージに入っています。
 
私はICの近所に住んでいるので、このNSXパトカーが付近の一般道を
走っているのを度々見るのですが(逆に東北道を走っている姿を見た事ありません)
ほとんど運転中のため、
すれ違っても、写真を撮れず、今回は運良く助手席
だったので撮影できました。
 
この車体はリトラクタブルのモデルですが、栃木県警は固定ライトの
モデルも所有していたはずで、そちらも何度か私は見ています。
そっちは最近、見ないけど、廃車になったのかな?
噂では事故を起こしたとか言われてますけど、噂なので真相はわかりません。
とにかくリトラの方は元気です。平成27年6月現在。
 
以下の写真は以前、喜連川のイベントで撮影したもので
同じ車体ですのNSXパトカーです。

NSXパトカー

 
以下、過去記事より
栃木県警が誇るNSXパトカー仕様です。
NSXのパトカーは2013年現在、世界に一台きりです。
日本で一番速いパトカーかもしれません。
  
栃木県はHONDAの重要生産拠点となっており
HONDAから地元貢献事業で県警に寄贈されたお車です。
お巡りさんに尋ねたところ、現役で
栃木県警高速機動隊に所属し、東北道を走っているそうです。
しかし、このパトカーで取り締まりを行うことは原則的にありません。
2シーターで、切符を切るには不向きな為
主に新人の育成訓練に用いることが常だそうです。
  
確かに、考えてみれば必要ありません。
NSXのパトカーが走っているだけで
十分な抑止力が発揮できるので
取り締まる機会は皆無ということでした。
 
 
Imgp2908Imgp2936
Imgp2913Imgp2935_3
 
 
それでも万が一、この車の前へ出るような違反者があれば
パーキングへ誘導すれば良いだけですから、検挙は可能であります。
助手席にはきちんと速度計測器を供えておりました。
赤色灯はパトライト社製のエアロブーメランを備えております。  
 
 
Imgp2938Imgp2941  
Imgp2917Imgp2939
 
 
当然リミッターも無し!そのほかはおおむね純正のようです。
タイヤはグッドイヤーでした。リミッターはないそうです!
私はお巡りさんに根掘り葉掘り、直接聞きましたから!(笑)
それが本当かどうかはまた別ですけど!
 
こちらのNSXパトカーは「三菱ふそう&さくら市 はたらく車を体験しよう 2013」
イベントにて展示されました。

2015年6月15日 (月)

羽根空港午前二時(1)

Haneda92_2

 

東京国際空港(羽田空港)で深夜、アルバイトをしていた。学生時代。
夜の滑走路の真ん中を走ると、無数の誘導灯が点在していて
宇宙の中を散歩しているようで綺麗だった。
 
空港で働いてみて、一機の飛行機を飛ばすのに大勢の人が
関わっていることが理解できた。夜通しで機体の整備をする
航空整備士や滑走路を点検する人、様々だった。
 
勤務は22時に始まる。フライト終了後の機体を翌朝までに
綺麗に清掃する仕事だった。学校が終わってから漫画喫茶で少し仮眠を
取ってからほとんど乗客のいないガラガラのモノレールで通勤した。
夜の羽田空港ターミナルには人もまばらで売店やレストランも閉店し
静かだった。出発ロビーへ突き抜ける長いエスカレーターを上がって行く。
空港敷地内へ幾重ものゲートを通過しようやく中へ入る。
 
バイトの仲間も多様だった。
 
A君は根っからの飛行機マニアで
このバイトのために山梨県から連夜通っていた。
かかる時間を交通費を相殺すればバイト代は僅かであったのに
彼は飛行機が好きで、毎晩、飛行場内に入るだけでもウキウキして
バイト代は二の次という印象だった。移動中は詳しく飛行機の解説を
してくれたり、みんなが疲れて寝てしまっていても、ひとり滑走路を眺めていた。
 
Bさんは昼間は東京ディズニーシーのキャストとして
働いていて、飾り気の無い笑顔が素敵な女の子だった。
キャストというのが花形だったらしいけど、どこだったっけな。
自分もディズニーランドが好きでバイトの面接までなら
行ったことがあるから、彼女とは色々と話をした。
 
Cさんは無類の免許マニアで、いろいろな種類の
免許を取るのを生き甲斐としている人だった。
彼の免許証欄には普通、大型はもちろんけん引、二輪、
二種も含め取得できる限り、すべての欄を埋めるのが目的なんだとか。
唯一の後悔は普通免許を原付より先に取得してしまったので
原付の欄が空白になっていることだと残念そうに言っていたのを思い出す。
一番の取得困難は「けん引二種」という免許を取ること。
先頭の牽引車量が乗客を乗せた客車を引っ張る
一部遊園地などにあるらしい。免許に費やした金額は相当なものだが
車は所有していない。免許を全種類取得したらレガシイが欲しいと言っていた。
佐藤隆太に似ていて、見た目は無骨だが優しい人だった。
 
画像はドルフィン。見た目が丸くて可愛いしもっとも好きな飛行機。
何より掃除が楽だった。ボーイング747が大変だった。
それと、まだ辛うじてYS11が離島航路に残っていた。
 

2015年5月18日 (月)

ステンシルフォント(漢字・和文)

漢字・和文のステンシルフォントを作成しています。ミリタリー系・軍事・SF系
創作物に最適です。もちろん個人・商用利用ともにOKです。

 

ステンシルフォント(漢字・和文)01

ステンシルフォント(漢字・和文)02

Photo_4

ステンシルフォント(漢字・和文)

ステンシルフォント(漢字・和文)04

 
漢字・和文のステンシルフォントの既成販売品は2万円くらいするので
「ちょっとだけつかいたいけど、フォントを購入するほどではないなぁ」
という方向けのサービスです。(上はサンプルです)
 
一文字につき200円で作成します。希望される文字をメールで
お送りください。アウトラインデータ、もしくはPNG形式にて納品致します。
また、ステッカー出力、マスキング出力も承っております。

2015年1月31日 (土)

零戦の型式雑学 21型から52型、64型まで

零戦(ゼロ戦)型式一覧 21型から52型までの違い

零戦(ゼロ戦)型式一覧 21型から52型までの違い

零戦21型と52型の違い

Zero

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)零式艦上戦闘機(通称ゼロ戦)は
三菱重工が設計開発を行った日本海軍の主力戦闘機である。
和14年3月初飛行、翌15年、正式採用を待たず中国(支那)
戦線で初陣。
16年12月
の真珠湾攻撃以来、昭和20年8月の終戦までに
三菱重工、中島飛行機の両企業により
総計1万機以上が生産された。
 
日本国民の総力を注いだこの戦闘機は、西はセイロ
ン島、東はギルバート、
ハワイ諸島に至るまで地球のほとんど半分近くを戦域とし
連合軍と対峙、
あるいは国土防衛に尽くした。
 
昨今、永遠の0や、堀越二郎を元に描いたアニメ映画『風立ちぬ』
で注目を浴びる機会も多くなった。
この頁ではそれぞれの違いと特徴、時代背景なども追って紹介する。

零戦二一型(瑞鶴/岩本徹三機)

Photo_13

Raiden_2

Photo_14

Photo_16

261_3

56799416_p0_2_2

Imgp1010_2

56782187_p0_2

Photo_17

零式艦上戦闘機(ゼロ戦)

型式について

零戦の形式は一桁目を機体形状、二桁目がエンジン形式を表す。
甲、乙、丙等が付随する場合は火器類の違いを示す。
原則、形式番号が同じであれば同様と考えて良いが
例えば、52型と32型であれば、機体のデザインは異なる(翼の形)が
エンジンは同じものが搭載されている。マフラーの形状が違うので
まったく同じとは言えない。このほか戦時下において細かな変更点は
限りなくあるだろうし、諸説存在する。勉強中故、お許し願いたいが
同時に零戦好きの方が集う場所でありたいと願うので、意見などあれば
どうぞ遠慮なく書いてください。
 
書き込む前に必ずこちらをご覧ください。

零戦は同時期に製造された飛行機でも、個体差が激しく
クセの強い飛行機などは舵をいっぱいに切って離陸したりと
難があった。

  

専用機(愛機はあったのか)

専用機(愛機)はあったのか
書物や証言を照合するとおおむね以下のとおりである。
 
通常であれば、搭乗員はその出撃の都度、割り当てられた機体に
搭乗する。従って、愛機は存在しない。緊急発進では尚更であった。
ただし、指揮官(分隊長クラス)になると機体に帯(イラスト参照)
が入り専用機が与えられる。
 
人によっては「彼の機体はスペシャル仕様だった」などと
証言されるがこれは、特に改造を施したということではなくて、
指揮官クラスがべらぼうにコンディションの良い機体を占有していた、
という意味合いではなかろうか。
 
専用機に関して例外もある。
航空母艦の搭載機(艦載機)では士官、下士官ともに
専用機であった説が有力である。機体それぞれにクセが
あるので実に細かい着艦技術が要求されるため。
  
一方で陸上、艦載機ともに、整備員は担当する機体が必ず
決まっており、それぞれの担当機を責任を持って整備した。
零戦の尾翼等に〇〇一整曹などと整備責任者の名が記されて
いるのはこのため。
 
なお、同様の機体整備責任者を陸軍では「機付長」と称した。
機付長の制度は現在の航空自衛隊に継承されている。 
 

型式一覧

型式一覧図(十二試艦戦・二一型から五二型、六四型まで)
 

Photo

X_2

Photo_2 
十二試艦上戦闘機【十二試艦戦諸表】A6M1
  
ゼロ戦のプロトタイプである十二試艦上戦闘機。昭和14年4月に
初号機が初飛行。三菱重工の堀越博士
をリーダーとする開発チームが
九六艦戦の後継機とし
て開発に尽力した。二号機までは三菱製瑞星一三型
ンジンを搭載したため、最高速度は488km/h と海軍の要求
届かなかったが、その他性能は概ね良好であった。
 

Photo_3

11_2

Photo_4 
零戦11型 
【零戦一一型諸表】A6M2-a
  
中島飛行機供給の栄エンジン搭載により大幅な馬力向上を実現した
一一型は正式採用を待たず、漢口
基地へ送られ、航続距離の短い九六
艦戦に代わり重
慶爆撃陸攻隊の掩護に就いた。昭和15年の初陣以
支那事変における空戦では一機の損害もなく終
始無傷であった。
機体は第十二航空隊山下小四郎機。

  

零戦二一型/21型

Photo_5

零戦21型 【零戦二一型諸表】A6M2-b
発動機/栄一二型 離昇出力/940馬力 上昇力/6000m/7分27秒
最高速度/533km/h 巡航速度/300km/h 航続距離/2,530km
自重/1,754kg 全備重量/2,410kg 燃料搭載量/525+330L
全幅/12.00m 全長/9.060m 全高/3.530m
主翼面積/22.438㎡ 翼面荷重/107kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
生産機数/約3,500機
 
◆零戦二一型(21型)は、零戦初の量産モデル。空母搭載を前提とした
翼端折
畳み構造を追加したほか、 着艦フックを装着。昭和16年12月、
真珠湾攻撃で実戦に参加。
昭和19年初めまでに三菱740機、中島が
2,821機を
生産し、大戦初期において海軍機動部隊の要となった。
参考画像は昭和17年、空母瑞鶴所属、岩本徹三機。
  

Photo_13

二式水上戦闘機(二式水戦)

Photo_15

二式水上戦闘機 【二式水戦諸表】A6M2-N
発動機/栄一二型 離昇出力/940馬力 上昇力/3000m/3分57秒
最高速度/439km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/926km
自重/1,921kg 全備重量/2,460kg 燃料搭載量/---+---L
全幅/12.50m 全長/10.248m 全高/4.305m
主翼面積/22.438㎡ 翼面荷重/109kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和17年7月 生産機数/377機
 
◆二式水上戦闘機は零戦二一型にフロートを装着した水上戦闘機。
川西航空機が開発中の十五試水上戦闘機「強風」が遅れていたため
水上飛行機の技術が豊富であった中島飛行機が急きょ、傑作機
零戦を
ベースに開発と生産を行った。開発陣必死の努力により僅か11ヶ月という
短期間で実用化に至り、戦線に就いた。主脚、尾輪(タイヤ)を撤去し
フロートを取り付けたほか、防水加工や水上飛行機としての安定を得るため
垂直尾翼の形状等を変更した。
重量と抵抗の増加に伴い運動性と
最高速度は低下(96.3km/h)したが
水上戦闘機としては申し分ない性能で
大戦初期に
おける島嶼攻略、防衛(アリューシャン、ソロモン、
中部太平洋戦線等)で活躍した。
 

Photo_5

K

Photo_6 

零式練習戦闘機一一型 【零式練戦諸表】A6M2-K
  
二一型をベースに複座化したゼロ戦の練習機。
主な変更点は翼内機銃を撤去し風防を延長。前部の訓
練生席は解放型
となった。尾輪を固定化し、前部引
き込み脚カバーの撤去、射撃用ターゲット
の吹き流
しを翼下に備えた。零式練習戦闘機一一型と称して航空廠、
日立航空機で製造された。

 

Photo_9

ゼロ戦(零戦)32型/三二型

Photo_11

零戦32型 【零戦三二型諸表】A6M3
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/544km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,134km
自重/1,807kg 全備重量/2,535kg 燃料搭載量/470+320L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.54㎡ 翼面荷重/118kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和17年4月 生産機数/343機
 
◆零戦三二型(32型)は
エンジンを栄二一型(二速過給器 / スーパーチャージャー付き)に換装。
離昇1130馬力に向上し運動性能と最高速度を得た。翼端を50cmカット
した
唯一の角型デザインで343機を三菱でのみ生
産した。航続距離は低下。
昭和17~18年、主にソロモン諸島の戦線で
活躍。
画像は昭和18年/台南空所属機。
  

Photo_16

ゼロ戦(零戦)22型/二二型

Photo_18

零戦22型 【零戦二二型諸表】A6M3
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分19秒
最高速度/540km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,863kg 全備重量/2,679kg 燃料搭載量/---+---L
全幅/12.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.530㎡ 翼面荷重/119kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和18年1月 生産機数/560機
 
◆零戦二二型(22型)二二型は三二型の弱点を補うべく、翼端を二一型と
同様
丸型へ戻し折り畳み構造を復活させたモデルで航続距離と運動性能を
取り戻した。武装を強化した
二二型甲を含めると、昭和17年末より翌18年
8月までに560機を三菱でのみ生産。のち五二型へ移行する。
 

Photo_20

ゼロ戦(零戦)52型/五二型

Photo_22

零戦52型 【零戦五二型諸表】A6M5
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/564km/h 巡航速度/330km/h 航続距離/2,560km
自重/1,876kg 全備重量/2,733kg 燃料搭載量/570+320L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/128kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和18年8月 生産機数/約6,000機
 
◆零戦五二型(52型)
ゼロ戦を象徴する最も一般的なモデル。翼折畳み
構造を撤廃し翼端を50cmずつ
短縮。推力式
単排気管(マフラー)を採用し、馬力を向上した。昭和18年8月より
三菱、同年12月より中島が生産を開
始し終戦までおよそ6000機が生産された。
中部
太平洋戦線で活躍。参考画像は昭和19年3月、第261海軍航空隊所属機。
 
 

Photo_23

ゼロ戦(零戦)52型甲/五二型甲

Photo_27

零戦52型甲 【零戦五二型甲諸表】A6M5-a
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/559km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,894kg 全備重量/2,743kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/129kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約391機(中島不明)
 
◆五二型甲(52型こう)は、五二型の武装・装甲を強化したモデルの
ひとつで携行弾数を
増やしたほか、主翼装甲の厚さを0.2ミリ強化し
急降下制速度を740.8km/hに引き上げた。このほかに増槽を
木製化し形状も変更。容量は300リットルとなった。プロペラ・スピナーが
大型化され、機体重
量(自重)は18kg増加した。
 
 

Photo_28

ゼロ戦(零戦)52型乙/五二型乙

Photo_30

零戦52型乙 【零戦五二型乙諸表】A6M5-b
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/554km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,921kg 全備重量/2,765kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/129kg/㎡
兵装/胴体7.7mm機銃×2 翼内20mm機銃×2 爆弾60kg×2
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約400機(中島不明)
 
◆五二型乙(52型おつ)は五二型の武装、装甲強化モデル。五二型との違いは
右側胴体銃を7.7ミリから13.2ミリ
に換装したほか、両翼下に150リットル
増槽を
各一個ずつ搭載可能に改造した。後期生産機は座席後方の防弾を
強化し風防正面を防弾ガラスに変
更し、防御力を増加。昭和19年10月
正式採用され三菱で470機が生産された。


 

Photo_31

ゼロ戦(零戦)52型丙/五二型丙

Photo_33

零戦52型丙 【零戦五二型丙諸表】A6M5-c
発動機/栄二一型 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分
最高速度/544km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,560km
自重/1,970kg 全備重量/2,955kg 燃料搭載量/570+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/148kg/㎡
兵装/翼内20mm機銃×2 13.2mm×2 爆弾60kg×2、ロケット弾
正式採用/昭和19年10月 生産機数/三菱約470機(中島不明)
 
◆五二型丙(52型へい)は五二型甲・乙を踏襲しさらなる火力と装甲強化
を施したモデルで胴体左の7.7ミリ銃を廃止し両翼に13.2ミリ機銃を追加。
両翼下にレールを設け
ロケット弾(三式弾等)を搭載可とした。格闘性能は
犠牲となったが、燃料タンクの防弾化し主翼
と操縦席外側の装甲も強化して
防御力を高めた。
 
 

Photo_34

ゼロ戦(零戦)53型丙/五三型丙

Photo_36

零戦53型/53型丙 【零戦五三型丙諸表】A6M6-c
発動機/栄三一型 離昇出力/1,300馬力 上昇力/8000m/9分53秒
最高速度/540km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,190km
自重/2,155kg 全備重量/3,145kg 燃料搭載量/500+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/---kg/㎡
兵装/翼内13mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×2 30kg×4 ロケット弾
正式採用/昭和19年10月 生産中止
 
◆五三型丙または五三型(53型へい)は、五二丙に次ぐ改良型で、エンジンを
水メタノール噴射式の栄三一型に換装し、自動防漏式燃料タンクを施した。
期待したほどの性能向上が見込めなかったことから量産化は中止され、
まもなく六二型、五四型丙/六四型へ開発生産が移行されたモデルである。
仕様はいずれも予定値。
  

Photo_39

ゼロ戦(零戦)63型、63型/六二型、六三型

Photo_41

零戦62型/63型 【零戦六二型諸表】A6M7
発動機/栄三一型甲 離昇出力/1,130馬力 上昇力/6000m/7分58秒
最高速度/542km/h 巡航速度/---km/h 航続距離/2,190km
自重/2,155kg 全備重量/3,155kg 燃料搭載量/500+300L
全幅/11.00m 全長/9.121m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/141.0kg/㎡
兵装/胴体13mm機銃×1 翼内13.2mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×2 500kg×1 ロケット弾 
正式採用/昭和20年5月 生産機数/800機(推定)
 
◆六二型(62型)/六三型(63型)
ゼロ戦の最終型Ⅰ。五三型の胴体下に500kg爆弾
の懸吊架を追加した
爆撃戦闘機、爆戦と略称。跳弾爆撃、急降
下爆撃に対応し機体構造を強化した。
生産数は不
明だが、昭和20年4月頃より終戦まで 三菱、中島合わせて6
00~1,000機が生産されたと推定さ
れる。栄三一型を搭載した機体を
63型と称すが、殊に当該機種のエンジンは栄三一型や二一型もあり、
52型との明確な違いは不明瞭で諸説あり。
 

Photo_42

ゼロ戦(零戦)64型、54型丙/六四型、54型丙

Photo_44

零戦64型/五四型丙 【零戦六四型/五四丙型諸表】A6M8
発動機/金星六二型 離昇出力/1,560馬力 上昇力/6000m/6分50秒
最高速度/572km/h 巡航速度/370km/h 航続距離/-,---km
自重/2,150kg 全備重量/3,150kg 燃料搭載量/650+300L
全幅/11.00m 全長/9.237m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/148.0kg/㎡
兵装/翼内13.2mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×1 250kg×1 ロケット弾 
正式採用/昭和20年7月 生産機数/2機
 
◆六三型(63型)/五四型丙(54型へい)
ゼロ戦の最終型Ⅱ。三菱製、金星六二型エンジンを搭載し、離昇出力を
1,560馬力に向上させた。エンジンは彗星三三型と同様の見解あり、大型化に
伴い、プロペラ・スピナー、上部のエアインテーク等の形状が異なる。
火力、装甲を強化したほか爆撃戦闘機として、跳弾爆撃、急降下爆撃に対応し、
機体剛性を強化した。五四丙の量産型を六四型と称するが実戦に至らず終戦と
なった。画像は推定。
  

03_2

なぜゼロ戦と呼ぶのか
我が日本には暦が3つある。平成、西暦、そして皇紀である。
皇紀は神武天皇が即位した(日本が始まったとされる年)から
数えた年号で、本年2015年(平成27年)は皇紀2675年にあたる。
 
零戦が正式採用された昭和15年は、皇紀2600年ちょうどにあたり
その末尾をとって零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)
通称零戦と呼ばれるようになった。海軍は皇紀の末尾を冠するのが
通例でほかに九六式艦上攻撃機、一式陸上攻撃機などがある。
 
ゼロは英語で敵性語であるから「れいせん」と呼ばなければならなかった
というのは俗説で、当時から海軍ではゼロ戦と呼んでいたし
(予科練の試験の答案用紙でもわかるように英語は必須であった)
一般にもゼロ戦と呼ばれていた。
   

04_2

搭乗員(パイロット)になるには
ゼロ戦搭乗員は例外なく文武両道であった。
搭乗員を志すための過程はいくつかあるが、いずれも厳しく
狭き門であった。いうまでもなく飛行機乗りは全て志願兵である。
 
過程1、指揮官
海軍兵学校で幹部としての教育課程を修了後、
航空を専修する。
東大の10倍難しいと言われる海軍兵学校を
受験し、二年間の教育期間を
経て少尉候補生となったのち
航空機を専修する。ただし、幹部と雖も敵性が
認められない場合は搭乗員にはなれない。
 
過程2、下士官(昭和15年まで)
海軍(海兵団)に志願入隊し、艦隊勤務などを経て下士官となり敵性ありと
認められた場合、操縦練習生(操練)の受験資格を得る。
 
過程3、予科練習生(昭和12年から)
満14歳以上20歳未満の若者に限っては予科練習生の制度が設けられた。
筆記試験問題(入試に使われた問題が予科練記念館に展示されている)
視力、体力測定をパスすると
晴れて入隊。3年間(のちに短縮)の教育・訓練
課程を経て搭乗員となる。
 
いずれの過程でも国語、数学、物理科学、英語などの成績が優秀で
体力も抜群でなければ試験突破は叶わなかった。このほか実戦を想定し
モールス信号の符号の暗記、航法、気象についても学ぶ。
試験に合格した後でも、訓練中不適格と判断された者は元隊に戻された。
 
また、初期の頃(操練時代)においては、最終試験で「手相」「骨相」が見られ
占いで「貴様は短命だ」と判断されると元隊に戻された。
 
操縦員・偵察員にわかれる
訓練課程では教官が敵性を見て操縦員・偵察員のいずれかに分けられる。
操縦員はパイロットであるが、偵察員は後席に座り、通信、見張り、航法
を担当し、操縦員に逐次伝達する。GPSなど無い時代。偵察員の仕事は
非常に重要な役割であった。パイロットのほうが偉いかというと
それは大きな誤解である。真珠湾攻撃に参加したある偵察員は
「操縦員は操縦に専念してればええ。偵察員はいろいろ仕事やるし
操縦員を叩いて飛ばすほうが大変や」と回想する。(個人の見解です)
 
それぞれの機種を専攻する
さらに戦闘機・艦爆・艦攻の専修別となる。
艦爆とは艦上爆撃機の略で、急降下爆撃を敢行する二人乗りの
飛行機である。度胸が求められる。
 
艦攻とは艦上攻撃機の略で3人乗りの雷撃機である。水面すれすれに飛行し、
敵艦の横腹に魚雷を叩きつけるのだが、
もっとも損耗(戦死)率が高い。
肝が据わったどっしりとした
性格かつ協調性が求められた。
 
零戦(戦闘機)は一人乗り。ぜんぶ一人でやる
戦闘機乗りは花形である。希望は一応出せるものの
希望叶わず艦爆や艦攻を命じられた者も多い。
戦闘機は一人乗りであるので、すべての任務を一人でこなさねばならない。
膝の上にバインダーに挟んだ紙を置き
コンパスと太陽の位置などを
見ながら、航法を計算しながら飛ぶから
大変だ。この間も敵の襲撃に備え、
見張りを厳とする必要があった。
 
自動車で高速道路を一時間走るのは何てことはないが、
一人乗りの戦闘機で空を一時間飛ぶことがいかに至難であったか、
その疲労も極めて著しい。
 
こうして艱難辛苦乗り越えて練習航空隊を卒業した者は
実戦航空隊へ配備され
一人前となる。
 

05_2

ゼロ戦は強かったのか
高校生の頃、世界史の授業で担当教師が
「米軍は不時着したゼロ戦を徹底的に調べ上げその優れた設計を真似して
F6Fヘルキャットという新鋭戦闘機を作った。それ以降、ゼロ戦の優位は失われた」
と教えてくれた。そのころは「ふんふん、そうなのか」と教師の教えを真剣に
聞いていたが後で調べてみると、この説はどうもインチキくさいことがわかった。
 
結論から
ゼロ戦は無敵だった。ただし、一対一の戦いならば。
 
支那戦線においては無敵で、ほとんど全ての敵機を撃墜した。
また、真珠湾攻撃以来、最初の一年ほどは
米英に対し圧倒的優勢で勝利を重ねた。
 
米英にいずれは負ける運命
一対一。これは我が国古来からのサムライの戦い方である。
 
敵の数が圧倒的に多いなら、いずれは損耗を続け、負ける。
開戦当初、日本の搭乗員は防御や退却を恥とした。
サムライとして潔く戦って散ろうというものである。
「生きて虜囚を辱めを受けず」という言葉もある。
 
一方で米英のパイトットは勝ち目がないと判断すると
命を守ることを第一に撤退し、次の戦いに備えた。
 
サムライであり続けた
「防弾板がついとったが、わしはあんなもの恥ずかしいと思って取っ払ってしまった」
「落下傘はどうせ使わんから、座席に敷いておった」
などと回想する元搭乗員も多い。
 
ここで「命を粗末にするから日本は戦争に負けたんだ」などと言うのは
おかしい。それは我々が戦後に後出しだから言えることで決して
現代の物差しで語ってはならない。当時とは価値観が全然違うのだ。
 
米英軍にしてみれば、日本は決して降参しない、勝ち目がないのに
最後の一人まで戦うという概念が理解できなかった。
 
ゼロ戦の弱点を突け
確かに米軍はアリューシャンに不時着したゼロ戦を鹵獲し徹底的に調べた。
(鹵獲=ろかく。敵の兵器などを戦利品として原則無傷で得る事)
ここまでは世界史の先生に教わった通り、事実であった。
鹵獲された機体は、古賀忠義一等飛行兵搭乗の零戦二一型で
昭和17年6月、ミッドウェー作戦の陽動として行われた
アリューシャン列島、ダッチハーバー空襲へ参加した古賀一等飛行兵は
対空砲火で被弾し、アクタン島への不時着を試みた。
 
古賀一等飛行兵は着陸時の衝撃で頭部を強打し戦死したが
機体は無傷に近い状態であった。一か月後、機体は米軍によって回収され、
徹底的な分析調査が行われた。そして僅か三ヶ月後の9月には
飛行可能な状態に修復し、テスト飛行まで行われた。
 
これによって、米軍はゼロ戦の弱点を徹底的に暴いた。
このとき、後のライバルとなるグラマンF6Fヘルキャットは既に
完成間際にありゼロ戦の設計思想が反映されることは無かったし
もとより、米軍の戦闘機設計思想は戦後まで一貫するもので
いずれもゼロ戦とは相反する。
 
ゼロ戦の弱点は剛性不足であった。スピードも出ない。
低速度域での巴戦では群を抜いた性能を誇ったが
高速度での戦闘には不向きで、遂に脆弱性を露呈した。
 
このため、米軍は急降下等を駆使し、ゼロ戦から逃れる術を
発見したほか、米軍機二機以上が一組となり、ゼロ戦の機動力の隙を突く
サッチ戦法により、無敵といわれた零戦を確実に仕留めていった。
日本機のパイロットは古来からの一騎打ちが未だ戦術の
主流であるのに対し、米軍は必ず二機以上の編隊で襲い掛かり
スピードを生かした一撃離脱戦法で、ゼロ戦に勝利した。
この戦法は大戦終結まで変わることなく、日本機の戦術はすでに
時代遅れとなる。
  
日本機の搭乗員は熟練者が多く、その腕をもって米軍と対峙し
開戦以来、圧倒的な勝利をものにしてきたが、このサムライの
伝統とも言える戦い方は、合理的といえるものではなく
到底米軍との兵力差は埋められるものではない。
戦争末期ともなれば熟練搭乗員は皆戦死し、補充された
飛行時間の僅かな飛行兵の戦いは満足といえるものでなかった。
  

日米で異なった戦闘機の設計思想 
先述の通り、日米では航空機の基本的設計思想が異なった。
米軍は飛行機は重いが頑丈で、小回りが利かない代わりに
物凄いスピードが出る。いくら、日本機が真っ向勝負しろと挑んでも
雲間から突如、襲い掛かってきて、一撃を加えたのち
消えてしまう。日本機は追い付けない。そんなに熟練した腕があろうとこれでは
勝負にならない。多くのゼロ戦パイロットがその旨、証言を戦後に残している。
 
本土防空戦で敢闘したあるゼロ戦搭乗員は
「映画で見るような空戦を想像しているだろうけど、ありえない。
敵さんは、上空から物凄い速さでいきなり襲ってきてこちらが
反撃する前に追い付けないスピードで逃げていくんだ。一瞬だよ。
戦いも何もあったもんじゃない」と回想する。

 
大戦後期、日本もようやくこの戦法に対応するよう
重戦闘機の開発を重視したが、時すでにおそく、終戦を迎えた。
多くのサムライが刃を抜いて奮戦したが、銃弾には勝てずほとんどが戦死した。
 
零戦のライバルたち

零戦とスピットファイア

零戦とP-51

Photo 
▲英空軍スピットファイア(左)と米陸軍P-51(右)
 

零戦とF4Uコルセア

零戦とP-38ライトニング

Photo_2 
▲米海軍F4Uコルセア戦闘爆撃機(左)と米陸軍P-38ライトニング戦闘機(右)
   

SBDドーントレス艦上爆撃機グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機

SBDドーントレス艦上爆撃機

グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機 
▲米海軍の名機、グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機と
SBDドーントレス艦上爆撃機。F6Fはもっとも多くのゼロ戦を撃墜し、
ドーントレスは最も多くの日本艦船を撃沈したといわれる。 
 

06_2

高度1万メートルの戦い
大戦末期、ゼロ戦は高度1万メートルで爆撃に来る
B-29相手にも果敢に戦った。B-29は当時ボーイング社最新の技術で
気密されているから、搭乗員はTシャツ一枚でコーヒー飲みながら
ゆうゆうやってくる。 
 
一方で我が方の迎撃機は高高度においては酸素も薄く、極寒で
判断力は低下する。高い山に登ったことがある人なら幾ばくかでも
その気持ちがわかると思う。高度1万メートルまで上るのは
ゼロ戦では30分近くかかる。
 
時間がかかっても一万メートルまで上昇し待機できる、と思うのは
ぜんぶ地上の考えである。酸素が薄いので、常に機種を上に向けて
エンジンを全開にしていなければ高度を保持できない。
水泳で顔を水面から出して、ひたすら沈まないようにバタバタと
もがいている状態に近い。燃料はあっという間に底を尽きる。
B-29に攻撃のチャンスを得るだけでも至難であった。

  

07_2

ゼロ戦のカラーリングについて なぜ緑なのか?
ゼロ戦はなぜ緑色なのだろうか。赤や青じゃダメなのか。
ゼロ戦のカラーリングは上の絵でも描いたが、おおむね
緑色、それも暗緑色である。大戦初期では灰色(もしくは飴色)であった。
空に溶け込むようにと意図されているといった見方が強いが
今となっては彩色配合も謎である。

零戦二一型(ラバウル離陸)

▲南方の陸上基地から発進する零戦二一型。
 
緑色に塗装するようになったのは昭和17~18年くらいからで
型式でいえば、32型で両方の色が見られる。残っていた21型も
多くが緑色に再塗装された。(有名な関大尉の敷島隊は21型である)
これは南方など、ジャングルの多い地域で戦うようになってからで、上空から
見たとき、カモフラージュされるし、基地で木々の間に隠すにも都合がよい。
というのはおおむねの見解のようである。

零戦三二型(ジャングル)

▲ジャングルの中に佇む零戦三二型。
 

日の丸について
ゼロ戦に描かれる日の丸に決まりはあるのだろうか。
あれこれ研究してみたが、遂にこれといった規則性を見つけることは
できなかったが、数で区分すると次のようになる。
 
白フチのありなし、黒いフチ
ゼロ戦は三菱重工が開発、中島飛行機(現在の富士重工)が
ライセンス生産(設計図を相手に送って、これの通り作ればできますよ
という技術を提供すること、現在でも自動車会社がOEM生産と称して行う)
ということで、ふたつの会社で製造を行った。
 
工場出荷状態において三菱製の日の丸はやや白縁が太く
中島は細い。若干の違いなので個体差も大きくわかりにくいが。
さらに、刷毛でフリーハンドでおおまかに描いていたので
新円でなかったり、ムラがあったりする。
 
マリアナやフィリピン、ソロモンなどの機体は最前線の激戦地であるから
目立たないように、この白い縁を黒く塗り潰していたようだ。
工場出荷状態で縁が黒い機体は無い。
 
本土防衛機など、内地の機体は比較的、白フチをそのまま使っていたようだ。
(鹿屋や大村の機体は黒フチに塗り潰されていたが) 
 
最初からフチなし
以上のような理由から、最初からフチを描かず日の丸だけで
出荷されたものが占めるようになった。中島は顕著であったが
三菱製のゼロ戦は縁があるものが多いように見受けられる。
 

零戦の日の丸

▲ラバウル近隣で回収された零戦二二型の外板。だいぶ退色してはいるが
塗装はオリジナルのようだ。日の丸と縁が塗りつぶされた様子がわかる。
2013年、所沢航空発祥記念館にて撮影。
 
関連記事
「桜花の機体には日の丸が描かれなかった」

ゼロ戦のカラーリング表(中島と三菱の違い)

 

機体のカラーリング/三菱系と中島系の違い
これも三菱と中島で違いが分かれる。一見して判別が容易いのは
暗緑色が胴体の斜めに入っているのが
中島で、真っすぐが三菱。
 
塗装の色も、受注元である
海軍さんから
「ちゃんと、この色で作んなさいよ」と指示されていたのだが
三菱と中島でそれぞれ違う塗料を使っていたので、
見た目が異なる。機体は三菱はやや青色が強く濃い。
中島はやや薄く黄色が混じっているような印象。下面は三菱が
ほとんど灰色に対し、中島は少し黄色が強い。コクピットカラーは内装色。
 
強いて言えば、カウリング(エンジン部分)の色も
同じ黒のようで違う。 
翼の一部とプロペラが黄色なのは真正面から見たとき、日の丸が見えないので
識別するため。ゼロ戦だけでなく、これは日本の陸海軍機すべて共通。
 
塗装は、現代でも解明されない点が多く
現存する機体は現代風に塗り直されているのでなおさらである。
 
Mr.カラーと照らし合わせながら、CMYKカラーチャートを作った。
当サイト(篠原)独自の見解であるので、実際に使う際は
微調整などで工夫してほしい。
  
中島飛行機のロゴを復元製作した。無料素材として配布しているので
以下の画像をクリックしてダウンロード可。 
 

中島飛行機ロゴ

08_3

零戦五二型丙種、昭和20年、302空(厚木)にて

▲零戦五二型丙。昭和20年、厚木の第302海軍航空隊所属機。
 
五二型丙を写した中ではもっとも鮮明な写真。両翼の20ミリ機銃に加え、
13.2ミリ機銃(外側)が追加され重武装となったモデル。翼下のレールに
三式弾(ロケット弾)を吊り下げ可能。フラップが出ている様子がわかる。
この機種は主に本土防空戦で敢闘した。
 

カウルフラップ

推力式単排気管

Photo_50

▲五二型のカウルフラップ「開」状態。五二型の特徴である
推力式単排気管(マフラー)は効率的な排気によって馬力が向上し
最高速度が20km/h程度増大した。
カウルフラップは操縦席にあるハンドルをグルグル回すことによって
開閉する。エンジンが冷えているときは「閉」、高音となったさいは
「開」にしてエンジン温度を調節する。
写真は第261海軍航空隊所属機で、プレーンズオブフェイムが
戦後レストアした機体。2013年、所沢航空発祥記念館にて撮影。
  

栄二一型エンジン(鹿屋の五二型零戦)

▲鹿屋資料館に展示中の零戦五二型と栄二一型エンジン。
2速過給器(スーパーチャージャー)付き離昇出力1,130馬力を発生し
最高速度564km/hをたたき出した。
 

零戦のコクピット内部

永遠のゼロのロケセット

Photo_8

宇佐平和資料館で展示中の映画『永遠のゼロ』撮影に使われた
コクピットの模型。 実際に座ってコクピットの狭さを体験できる。 

09_4

エース(撃墜王)という概念
日本海軍はエースという概念を設けず、敵を何機やっつけたという

個人成果は記録しなかった。
強いて言うならば、零戦搭乗員全員をエースと呼ぶ。
国の為に戦い、あるいは命を捧げたのだから当然と言えるだろう。
よって、零戦搭乗員の生き残りに「何機落としましたか」と尋ねるのは
失礼にあたるし、最大のタブーとなっている。
戦争で命の駆け引きをしてきたのだから、戦後現代を生きる
我々に決して理解できないことが多くあるに違いない。
 
それでも撃墜数(スコア)に執念を燃やす搭乗員も
存在した。岩本徹三や赤松貞明などである。
殊に赤松中尉は戦後においても自身の記録を世界記録と主張している。
 
零戦搭乗員の原田要氏によると、岩本は自らたくさんの撃墜マークを
機体に描いていて、個人成果主義を否定する周りのパイロットたちは当初、
あまりよく思っていなかったが、 確実に多くの敵を撃ち落とし生還し続けた
ことは間違いないので、次第に認めるように なっていたという。
赤松も同様だった。
 

岩本徹三

赤松貞明中尉

Photo_2

▲左、岩本徹三中尉/右、赤松貞明中尉
 
関連記事
岩本徹三の戦後
赤松中尉の戦後
 
そして、それぞれの撃墜数をまとめて本にしたものまで出版され
売っている。確実に言えることは岩本徹三や坂井三郎より
凄いパイロットは数多くいただろう。これは間違いない。
けれどもそういったエースは皆、戦死してしまったので、
歴史に名が残らず、語り継がれることもなく消えて行ってしまった。
 
彼らはどんなことを考えていたのか、
最後に、ぜひこの動画と記事もあわせてご覧頂きたい。
 
黎明の蛍(ある特攻隊員と少年の実話)

少尉と隼(ある特攻隊員と少年の実話)
YouTube: 少尉と隼(ある特攻隊員と少年の実話)

Photo_18

作成中

支那戦線から真珠湾、ソロモンの戦い、ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦、
特攻、終戦まで
 

零戦のロケット弾(三号爆弾)

零戦のロケット弾(三号爆弾)

零戦のロケット弾(三号爆弾)

▲B-24爆撃機にロケット弾(三号爆弾)を発射する零戦五二型丙
 
 
富安俊助

富安俊助の突入後

▲エンタープライズ直上より背面飛行でエレベーターに突入する富安機 
 
関連記事
富安俊助中尉とエンタープライズ
 

Photo_19

航空自衛隊浜松広報館の尾崎伸也大尉機

◆航空自衛隊浜松広報館(静岡県浜松市)
零戦五二型(第三四三海軍航空隊/尾崎伸也大尉機)
 
昭和38年、グアム(大宮島)で発見され
日本へ返還輸送、復元された機体。
海軍第343航空隊(初代,通称隼)の飛行隊長尾崎伸也大尉の搭乗機と
推測される。昭和19年
6月19日、大宮島(グアム島の旧称)上空において
尾崎大尉と他一機が哨戒中、米戦闘機2機と交戦となり1機を撃墜、もう一機に
追尾された尾崎大尉機は
海面直前まで急降下し、敵追撃機を海面に激突させ
たが
自らも被弾し、飛行場に着陸したが、病院に向かう途中に息を引き取った。
 
展示状態
ハンガーの天井に吊って展示されているので
近寄って見ることはできないが、飛行状態で展示されている唯一の
機体という点では最も美しく貴重。
 
浜松広報館レポート
 

零戦と秋水

◆三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室
三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室は
国内でも数少ない本物のゼロ戦と、世界で唯一の「秋水」を
保存している同史料室は、名古屋空港(小牧空港)、そして
航空自衛隊小牧基地に隣接する、三菱重工業名古屋航空
宇宙システム製作所の敷地内にある。
(現在改装作業に伴い休館中)

 

三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室の
見学は無料だが原則、事前の電話予約が必要で、入場も

月曜日と木曜日の9時から15時までと限られている。
(祝日など工場休止日は休みとなる)
 
三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室レポート
 

海上自衛隊鹿屋航空基地資料館

◆海上自衛隊鹿屋航空基地資料館(鹿児島県鹿屋市)
零戦五二型

知覧の特攻平和会館は有名だが、鹿屋市には
同様に海軍部隊の特攻隊員の遺書を展示した施設がある。
展示内容はいずれも貴重で決して知覧に引けを取らない。
鹿屋は海軍の特攻基地としてもっとも多くの海軍特攻機が出撃した。
二階フロアには鹿屋から出撃した海軍搭乗員の遺書(案内の人によると
集められる限り全てと言っていた)敷島隊から梓特別攻撃隊、
神雷部隊「桜花」、宇垣中将の特攻まで資料、展示も充実。
世界唯一の二式大艇もここにあり。(屋外)
 
零戦は吹上浜から引き揚げられた機体を復元したもので
数あるゼロ戦の中でもオリジナルに近い。エンジンは近くで
見られるし、コックピットの様子も近くで見ることができる。
ボランティアガイドがラダーや操縦桿を動かして説明してくれる
方向舵や翼が動く様子は零戦や航空機ファン必見。 
 
余談であるがここの食堂で食べられる「鹿屋海軍カレー」は
美味。
 
鹿屋航空基地資料館へ行ってみる

大刀洗平和祈念館の零戦三二型

◆大刀洗平和祈念館(福岡県筑前町)
零戦三二型(第二五二海軍航空隊柳村義種少将機)
 
昭和53年、マーシャル諸島タロア島より帰還した機体で
2013年、第252海軍航空隊の柳村義種少将の機体と判明した。
世界で唯一の三二型(翼が角ばっている)を展示している。
 
ここは震電の展示が充実しているほか
B-29実物大オブジェが天井から吊り下げられている。
 
大刀洗平和祈念館へ行ってみる

大和ミュージアムの零戦六二型

◆大和ミュージアム(広島県呉市)
零戦六二型
 
大和ミュージアムに海軍のシンボルとして展示されている。
大戦末期に製造された重武装の六二型。爆戦ともいう。この機体の 
搭乗員は広島へ原爆が投下された日、琵琶湖上空を飛んでいたと
証言している。
 
大和ミュージアムへ
戦艦大和ドックはいま 歴史の見える丘へ
 

2015082710410000 
河口湖自動車博物館飛行館
国内唯一の零戦21型と一式陸攻を所蔵する。
夏季のみ開館。
 
河口湖自動車博物館飛行館へ

 
パラオの零戦 

◆南方戦跡として残る零戦
(画像:パラオ)
 
当サイトでは南方各地に戦跡として残る零戦を調査し
掲載しています。右の記事一覧からぜひご覧ください。
 
-------------- 
 
靖国神社遊就館(東京)
上野国立科学博物館(東京)
 
作成中。

 
記事の内容に満足されましたらクリックをお願いします!
読者の方々のワンクリックによって当サイトをかろうじて消滅の危機から
救ってくださっています。

 
戦史 ブログランキングへ

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

最後までご覧くださりありがとうございました。
当記事はこれから、まだまだ完成度を高めて参ります。
  

D

2014年12月19日 (金)

指宿正信大尉~空に生きた武人の生涯

「まさかあのとき、親父が死んだとは思わなかったんだ。スイッチひとつで
簡単に脱出できると言っていたから・・・事故の報せは聞いていたが
まあ、親父のことだから大丈夫だろうと思って、家に帰ったら記者が大勢
押しかけていて、それで事の重大さを悟ったんだ」 

  
薩摩の武人・戦闘機パイロット指宿正信

最後まで空に生きた人であった。
昭和三十二年一月九日(1957年)航空自衛隊浜松基地所属のF-86戦闘機が
訓練飛行中、天竜川河口沖合に墜落。操縦士の指宿正信(いぶすきまさのぶ)
二佐が 殉職した。
 
指宿二佐は日本で初めてのジェット戦闘機操縦士の一人で、また先の大戦では
真珠湾攻撃から終戦までゼロ戦搭乗員として技量抜群で生き抜いた人物だった。
 
残念ながら指宿氏に関する記録はほとんど残っていない。 僅かな資料をもとに
調査を進めると指宿氏は海兵六十五期、鹿児島県南さつま市 (旧加世田市)出身
であることがわかった。戦後も第一線で戦闘機乗りを続け国に身を奉げて散った
武人の生き様を、僅かでも残すべきと考えここに記す。
 
指宿正信は南薩摩・加世田の出身であり海軍兵学校六十五期、 海軍兵学校を
主席で卒業、恩賜の短剣組であった。
弟、指宿成信少尉は海軍叩き上げの戦闘機パイロットで
兄弟揃って紫電改に搭乗し、のちに本土防空戦を戦うことになる。
(昭和20年、兄、指宿正信少佐は横須賀航空隊で飛行隊長として紫電改に搭乗。
弟、指宿成信少尉は第343海軍航空隊で紫電改に搭乗)
 
 

真珠湾攻撃
昭和16年12月、指宿大尉は真珠湾攻撃で空母赤城所属のゼロ戦隊分隊長を
務め、僚機の岩城芳雄一飛曹、羽生十一郎一飛曹とともに第一次制空攻撃隊に
参加。 ヒッカム飛行場を制圧し、敵戦闘機の迎撃を抑えた。
 
スピットファイヤと対峙
インド洋ではセイロン島・コロンボ空戦に参加。 英軍スピットファイアと交戦し4機
を撃墜した。このうち一機のスピットは不時着に成功し、敵パイロットはコクピット
より這い出したが、これを認めた指宿は 風防を開け手を振って上空を通過。
とどめをささなかったというエピソードが残っている。
 
ミッドウェーの敢闘
昭和17年5月のミッドウェー海戦では赤城の上空護衛を任務とし、合計8回に
渡り発艦を繰り返し 被弾し乍も敵機と果敢に交戦。TBD-1デヴァステイター1機、
SBDドーントレス1機、B-26マローダー2機(推定)を共同撃墜し、赤城防衛に尽く
したが、赤城は沈没、 指宿は海上に不時着、数時間の漂流の末、救助されたが
真珠湾以来、半年間に渡って僚機を務めた戦友、羽生一飛曹は行方不明となり
ついに帰らなかった。
 
翔鶴と南太平洋海戦
昭和18年8月、空母翔鶴乗り組みとなった指宿は、新郷英城大尉指揮のもと
南太平洋海戦を戦う。この間 幾度となく空の要塞、B-17フライングフォートレスを
迎え撃ったが そのほとんどは雲間に逃した。岩城一飛曹と協力し遂にB-17を
撃破したときは 岩城自らも被弾、火災となり鎮火できずにいた。帰還不可能と
悟った岩城は 指宿へ向かってニッコリ笑って敬礼すると自爆、南溟に散った。
 
指宿自身もその後の戦闘で被弾したが不時着、救助され生き延びていた。
 
第二六一海軍航空隊(虎)とマリアナ沖海戦
昭和18年末~昭和19年6月 玉井浅一中佐に協力して若き航空要員(甲種10期
の17~18歳が多かった)で、第二六三海軍航空隊(豹部隊)結成ならびに
指宿自身は二六一海軍航空隊(虎部隊)の錬成にあたり絶対国防権防衛を担う。
 
これらの航空隊は大宮島・サイパン島・天寧(テニアン)島・パラオ ペリリュー島を
転々とし空戦を重ねたが、消耗激しく 最後はマリアナ沖海戦で部下のほとんどを
失った。 指宿とその部下はサイパン島で運命を左右されることになる。
 
サイパン上陸戦を控え、生き残りの貴重な航空隊員は 潜水艦と輸送機にて順次
サイパンを脱出しフィリピンへ向かう。 これに特に優先順位等なかったと思われる。
脱出は僅かな差であった。 指宿は無事脱出しフィリピン、マバラカットへ。しかし
無念は261空の司令、上田猛虎中佐(海兵52期)や海軍の至宝ともいわれた
東山市郎中尉さえも いずれも戦闘機の操縦においては天才的技量を持ちながら、
サイパン島に取り残され地上戦に巻き込まれ手榴弾を持って戦い、玉砕した。
 
第二〇一海軍航空隊・特攻隊を志願・却下される
昭和19年10月、指宿は初の神風特別攻撃隊「敷島隊」の編成に関与したとされる。
敷島隊の編成にあたり、指宿が特攻隊を 「辞退した」と書かれている戦記が多いが
これは事実と反する。
 
かれの脳裏に過るのは先に散った多くの若い部下の顔であった。決して忘れは
しない ニッコリ笑って敬礼し、煙を吐きながら編隊から離れていった、そして二度と
帰らなかった戦友のことを。 俺も必ず後に行くぞと誓った。
 
指宿は副長の玉井浅一中佐に自ら敷島隊の一番機として突っ込むと熱望したが
却下されてしまう。 代わりに白羽の矢が立ったのが関大尉であった。
 
「関が行くなら俺も行く!俺を一番にやってくれ!」
なおも食い下がる指宿の言葉に対し、玉井は告げた。
「貴様は真珠湾以来のつわもの。これからは指導する立場にあるので
作戦に参加させる事は出来ない。死なれては困る」
 
敷島隊の一番機を真っ先に志願したのは他でもない 指宿自身であった。
 
関もまた可愛い部下であった。 指宿は戦後、幾度となく関の墓参りに
愛媛を訪れている。
 
紫電改を駆り本土防空戦を展開
内地へ戻り横須賀海軍航空隊で飛行隊長となった指宿は、紫電改を駆り
B-29やP-51を邀撃。この頃既に階級は少佐となっていたが指宿は常に現役で
あった。そして生きて終戦を迎えた。
 
戦後、故郷鹿児島へ戻った指宿は子供たちを集め 自らの体験を語っている。
「こうして死にぞこない、おめおめと生きている」
と 寂しそうに言ったという。
 
航空自衛隊戦後初のジェット戦闘機F-86Fパイロット
最後まで空に生きた人であった。 指宿は航空自衛隊の黎明期を支える存在と
なった。 渡米。戦後初のジェット戦闘機F-86Fのパイロットとなった彼は全国各地で
教官として次世代を担う新人搭乗員の指導に明け暮れた。
 
事故~市街地を避けて海へ
昭和32年1月9日、突然の報せだった。指宿は浜松航空団F86Fで飛行指導中、
事故に遭う。不運な事故であった。 先頭を飛行する教官、指宿の機体が太陽と
重なり、後ろを飛行中だった訓練生の目を眩ませたのだ。
 
訓練機が指宿機に追突する形となり、二機は空中衝突、訓練生はその場で落下傘
降下し無事。機体は天竜川河口の河川敷に墜落したため 人的被害は無かった。
一方、指宿の眼下には浜松の市街地が広がっていた。 指宿は民家への被害を
避けるため最後まで操縦桿を離さず、機体をコントロールし海上への離脱を図った。
  
「遠州灘まで引っ張る!」
それが指宿最後の言葉となった。 指宿は海上でベイルアウト(緊急脱出)の
レバーを引いたが 高度が足りず、落下傘が開かないまま海面へ激突。殉職した。
 
最後の瞬間まで身を挺し国に尽くした指宿正信、42年の生涯であった。 
 
薩摩の武人が残した礎
「戦後は特攻を関大尉に命じて自分は逃げたんだと、長い間、誤解されて
卑怯者扱いをされて、辛かったろうな。これじゃあんまりだ」 
 
指宿氏のご遺族は語る。

 
ブルーインパルスの一番機が白い煙を引きながら大空へと吸い込まれて行く。
間違いなく、指宿が残した武人の志は今日日本の礎となって
現在も受け継がれている。
 
 
最後までご覧くださりありがとうございました。
 
記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

 
戦史 ブログランキングへ


関連記事
赤松貞明中尉の戦後
岩本徹三の戦後
篠原弘道准尉 陸軍航空隊のトップエース

 
※記事は加筆訂正をする場合があります。
出展:261海軍戦闘行動調書
取材・調査:篠原直人
 
 

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

2014年8月26日 (火)

2014年(平成26年度)富士総合火力演習

2014年(平成26年度)富士総合火力演習に行ってきました。
晴天に恵まれ、全ての演目を見学できました。

Imgp9753_2 

De

今年は島嶼防衛(離島奪還作戦)をシミュレーションして行われました。

Imgp6761

途中、少し霧も出ましたがそのほかおおむね晴れました。

Imgp6801

Imgp6814

Imgp6821

生まれて初めて戦車を見ましたが、その砲撃は凄まじいもので
空気を切り裂く雷鳴の如く高音と、それに続く低音。
地面は地震のように波打ち、圧縮された空気の波が体にぶつかってきます。
この迫力、とても写真では伝え切れません。感激でした。
 

Imgp6973

Imgp7005

Imgp7018

Imgp7028

Imgp6864

海上自衛隊のP3C哨戒機も飛来。

Imgp6870

Imgp6900

三機編隊のF2戦闘機が爆撃を行いました。

Imgp6901

Imgp7047

Imgp7067

 
陸上自衛隊音楽隊も大人気。人気アニメの

妖怪ウォッチやアナと雪の女王のテーマソング
AKB48、嵐など、流行の曲なども
演奏していました。
 

Imgp7082

Imgp7088

Imgp7097

Imgp9761 

終了後は装備編展示を見学して帰りました。
10式戦車が人気でしたが、退役を控えた74式戦車を
今のうちよく見ておくべきだと思います。
  

Imgp9772 

戦車の轍(わだち)です。
 

Imgp9779 

御殿場駅(および駐車場)へ向かうシャトルバス乗り場の
行列。気温は山の上なので26度程度でしたが、日差しが非常に強く
日焼けと熱中症対策は必須です!
 
当日のプログラムです。
大事に持ち帰ってきました。 
 

Imgp0013

Imgp0015

Imgp00172

Imgp0016

Imgp0018

2014年6月 6日 (金)

バブル遺産めぐり

海岸に建つそのホテルは客室からの眺望が自慢で、太平洋に沈む
夕日が実に美しいという。駅前のビジネスホテルはすでに満室で
予約が取れず、しょうがないと、半分観光気分で今回ここを選んだ
のだったが早々後悔することになった。
 
まず私が訪れたその日、半島は低気圧圏内にあり、
猛烈な時化に見舞われ、しかも
ホテルの駐車場は国道に面し、それを挟んだすぐ先は海で
沖からやってきた巨大なうねりが波消しブロックにぶつかって
轟き防波堤を越えて、それが雨だか波の飛沫なのか
わからないくらいにとにかくバケツをひっくり返したように
降ってくるだった。
 
車から急いで降りて、エントランスへ駆け寄る。
丸い取っ手のガラス戸を押して開けて
ロビーに入る。広い。だけど敷かれたカーペットはすっかり褪せ、
天井に吊るされた大きなシャンデリアも
くすんで、ホコリがつもっている。
 
フロントのカウンターへ歩み寄るものの
人の気配が無いので、備え付けの受話器を取ると
しばらくしてようやく従業員が出てきてくれた。

「おかえりなさいませ」
対応は丁寧なものだったので安心する。インクがときどき途切れる
ボールペンを滑らせ、テキトーな字で宿帳を書いた。
アクリル棒がぶらさがったレトロな鍵を受け取り、部屋へ向かう。
 
お土産コーナーに吊り下げてある古い玩具やら
ご当地Tシャツ、いつからあるものなんだろう。
 
「孔雀の間」「末広の間」とかいうバブル期には派手な宴が催されたであろう
大きな宴会場の扉の前を通り過ぎて、別館へ抜け非常口の緑色のランプの
蛍光灯が切れかけて点滅する薄暗い廊下を歩いて行く。
 
今は珍しいプレハブでコイン式のカラオケボックスが置いてある。
 
これだけガラガラだもんなら、他に宿泊客はいないんじゃないかと
思ったのだけど、たまたま通りがかった客室の前に
 
「〇〇様、〇〇様」と貼り紙があり
それが別姓の男女の名前だったのでちょっと驚き
 
って、その隣が自分の部屋じゃないか!
それにしても物音ひとつしない。波と風の音以外。
 
それでも疲れを取ろうと大浴場へ。
誰もいないので、自分で蛍光灯のスイッチを探して
ようやく見つけた。
 
きついくらいの塩素の香りが漂う「温泉」に浸かる。
庭にはパターゴルフ場があって、5番ホールの旗が
千切れんばかりになびいている。
 
はやく朝になればいいのに、と思った。
 
でも、こういうホテルは全国にたくさんあって
決して、珍しくない。
交通の便が良くなったばかりに、みんな日帰りで帰ってしまう。
 
東京は若者でいっぱいなのに
地方の過疎化は深刻だ。
どうにかならないか。
 
翌日、嵐が去って、見る海は綺麗だった。

2014年2月17日 (月)

人形供養のお焚き上げ

今日は雪の残る中、
人形供養のお焚き上げに行って参りました。
ぬいぐるみや人形などをお寺にお願いして焼却する行事です。
大きさ30センチまで1,000円、60センチまで2,000円
ひな人形などのセットは10,000円をお坊さんに払うと
預かって供養してもらえます。

 
お寺の参道は、車一台がようやく通れるほどの
細長い急な上り坂で、途中スタックして動けなくなっている
車を見つけました。ドライバーは白髪のおじいさんでした。
私は引っぺがしたフロアマットを使ったり、車を
力いっぱい押したり、必死になって脱出を試みましたが
なかなか動かず、ややもすれば後続は渋滞となっていました。
そのうち渋滞先頭のドライバーが降りてこちらへ歩いてきたので、
協力してくれると期待したのですが

 
「あ~あ、こりゃダメだ。ノーマルタイヤじゃのぼれっこないよ
もう他の道で行こう」

 
と、やや怒り気味口調で踵を反すと
アクセルふかして行ってしまいました。

 
私は運転席でハンドルを握るおじいさんのかわりに
「どうもすみません」と謝ると作業に戻りました。
時間をかけてやっと脱出できたのですが
その間、他の人たちはみんな見てるだけでした。
ちょっとがっかりしました。

 
・・・さて、本題に戻ります。肝心の人形供養なのですが
お寺のどこへ行ってみても人形を燃やしている様子は無い。
コリャ雪と強風で中止になったんだろうと思って
「今日は中止になったんですよね?いつやるんです?」
と、お寺に尋ねてみると

 
「ああ、それなら無事に終わりましたよ。
燃やすと近所から苦情がくるもんで、今年からは預かるだけ預かって
お経あげるだけにしたんです」

 
「えっ、お経あげるだけなんですか。その後はどうするんです?」
と、尋ねたい気持ちもありましたが空気を読んでやめておきました。

 
お坊さんも忙しいんだと思います。

 
私は長靴をブカブカいわせながらも
すべらないようにしっかり雪を踏みしめながら、
のんびり歩いて帰りました。
水子供養のお地蔵さんは杉林の中、頭に積もった
雪を払ってあげたかったけれど、数が多すぎます。
寒そうでした。

2014年2月 3日 (月)

三國峠を越えて新潟へ

Imgp6275

山本五十六のお墓参りと記念館見学の続きです。
 
水上より三國峠を経て日本海側へ抜けました。ここから越後の新潟県。
トンネルを抜けたら荒れた天候を覚悟していたのですが
こんなにも穏やかで
拍子抜けしました。得難いことであります。
 

Imgp6281

迫力の書体。どなたが書いたんだろう。
昭和32年開通と記されている。
 
延々、下って行きます。 
湯沢のスキー場近くです。
 

Imgp6300

Imgp6290




 

Imgp6304 

日本海側の冬は雪との戦いです。昔と比べれば
除雪機能は進化しましたけど、それでも冬の間、
ひたすら耐え忍ばねばなりません。
雪国の方は本当に辛抱強い。
太平洋側の我々には想像できない困難さがあります。
 

Imgp6318

南魚沼市へ入ると、有名な「雪国まいたけ」の工場があります。
大規模です。
 

Imgp6330

長岡の山本五十六記念館に到着。
つづく。



2014年1月30日 (木)

冬の日本海

Imgp6402 

冬の日本海です。
 
先日、長岡へ山本五十六記念館見学ならびにお墓参りへ行ってきましたので
近日アップします。これはその帰りに眺めた日本海の夕日です。

 
冬の日本海がここまで凪いでいるのは実にめずらしいんです。
運が良かった。
 
冬の天気は、日本海側と太平洋側ではまるで違います。

太平洋側に住む人たちは毎日、お天道様を拝んでいるのが
当たり前の生活ですが、谷川岳から北側、つまり
新潟の冬と言えばどんより常に曇っているか、雪または時化です。
生活は雪との戦いであります。
 
日本列島改造論/田中角栄
日本列島改造論で知られる越後出身の政治家

田中角栄の言葉を思い出します。
 
「谷川岳の山を切り崩して、関東とつなげてしまえばいい。
日本海からの湿った風は東京へと流れるだろう。なに?
出た大量の土砂はどうするかだって?佐渡と新潟の間を埋め立てて
陸続きにしてしまえばいいんだ。そうすれば東京まで真ッ平だ!」
 
 
陸続きにはなりませんでしたが、
田中角栄が谷川岳にトンネルを掘って高速道路と新幹線を通すまでは
それは大変な生活をしていましたのが激変したのです。
 
その佐渡島が沖に見えます。

2014年1月26日 (日)

誓約~うけい~ / サネヨシ

A4de

  
サネヨシの「誓約~うけい~」というCDを紹介させて下さい。
 
今や貴重なアーティスト、サネヨシ。

歌詞の内容など無いに等しく、ほとんどファッション化してしまった昨今
の音楽界に一矢を報いています。
 
主観ではありますが、曲の感想を書いておきます。

よかったら買って聴いてみて下さい。
 

♯1『ラッパ譜~黎明のとき』
インストゥルメンタルはタイトルの通り
黎明(れいめい)を思わせるラッパの奏で
鎮魂や哀愁、または希望ともとれる、生き延びた昨日と
始まる今日への序曲。
 
♯3『敷島の大和の国』
御楯(みたて)となり、敵艦へ突入する特攻隊員の曲なのだが
これを聴くと故郷の山や海、そして家族の顔が思い浮かぶ。
穏やかなメロディーで守るべき美しい敷島の大和の国が見えるはず。
 
♯4『愛しき子よ(Albumver.)』
ある日、日本海の海岸で突然神隠しに遭ってしまった愛しいわが子の
帰りを髪が白髪になっても待ち望む、悲しい曲である。
事件の解決を早期に切に望む。
 
♯5『TVを消せ!』
とりあえずつけて見るテレビ。何気なく見るテレビ。いつの間にか
私たちはテレビに支配されている。目を覚ますためには先ずテレビを消せ!
 
♯8『誓約~うけい~』
生き残ったの特攻隊員の思いを表現した曲で
先に逝った戦友へ馳せる思いと、死に損なった
自らの戦後、苦悩の末に望んだ未来を美しいメロディーに乗せている。
 
歌詞の内容はロックシンガーにありがちな揶揄や皮肉、癖はまったく無く
ただ純粋に、真っ直ぐに伝えたいことのみを歌い上げた印象で聞きやすい。
 
ジャケットには「過激か?全うか」と、銘打ってあるが、
曲は優しく語りかけるような調子で、純粋に日本人にとって
大切にすべき気持ちを丁寧に書き起こしたものである。
 
ところでこの曲の最後の音、何を表現しているかわかりますか?

 

サネヨシ(秘密基地レコード)オフィシャルページ

2014年1月10日 (金)

故人の人権を考える

ひとつ前の記事で、戦没者の軍歴調査について
ご案内しましたが、最近、イレギュラーな出来事が
ありましたので
少し書いておきます。
 
問い合わせを頂いたのは40代の女性でしたが
内容は次のようなものです。
 
女性
「19〇〇年〇月〇日ごろ、呉の飛行場から特攻で

沖縄方面へ飛んで亡くなった人のことを教えてほしい」
 

「そうですか。その方とはどんなご関係ですか」
 
女性
「私の前世なんです!」
 
私「うーむ」

私は前世や生まれ変わりという概念を持っておりませんので
研究調査にも加味したことはありません。
実にイレギュラーな例でしたが、女性は真剣でしたので
私は一旦、回答を保留し、後日、本に載っている
特攻隊の名簿をお見せしますということになったのですが
これでよかったのかと、今でも考えてしまいます。
 
女性は今流行のスピリチュアルに精通しており
時間や空間などの概念を超越してものを考えることができるそうです。
 
「なるほど。貴方の前世は調べた結果、この人ですよ」
とお答えすれば、自身に誇りを持って暮らしていけたのでしょうか。
しかし故人の意思はどうなるのか?乱暴な物言いではありますけれど
勝手に前世に認定されて迷惑ではないのか?とも思いました。
(すみません。スピリチュアルを否定するつもりは一切ありません)
 
そもそも故人の人権は何処にあるのか?
誰かが持っているとするならそれは一番近い遺族ではありますが・・・
遺族はあくまで遺族であり、故人の思惑や意向と異なる部分は
当然あるでしょう。亡くなった人をアレコレ評価するのは
実に難しい問題であります。
 
※注
なお、呉には飛行場はありません。(昭和17年に於いて)
呉海軍航空隊は岩国に飛行場を有しました。

2013年11月 7日 (木)

大谷資料館 宇都宮の巨大地下空間~採石場跡(四式戦闘機「疾風」地下工場)見学その2

大谷採石場跡(大谷資料館)01

大谷採石場跡(大谷資料館)02

大谷採石場跡(大谷資料館)03

大谷採石場跡(大谷資料館)04

 
採石場跡内部へ
大谷資料館採石場跡内部へ階段を下って行きます。

夏場は寒いので上着をお持ちください。
  
年間を通じて気温湿度とも一定しており
天然の冷蔵庫として酒造会社の酒蔵にもなっています。
 

大谷採石場跡(大谷資料館)05


地上から注ぐ青い自然光
青いのは電気ではありません。自然の光です。

地上から注ぐ太陽の光がここでは青く見えるんです。
時間帯や季節によって光の見え方が異なります。


壁には昭和初期につけられたツルハシの跡が残ります。
 
四式戦闘機「疾風」地下工場
ここでは昭和19年から20年、空襲を避けるため
中島飛行機の地下工場として稼働しました。女学生が動員され
四式戦闘機「疾風」のエンジンと機体が製造されました。
 
撮影に使われたドラマ、PV、映画など
さまざまな撮影に使われています。個人での坑内の撮影は自由ですが
2時間を超える撮影、三脚の持ち込みは事前の許可が必要です。 
 

映画
セーラー服と機関銃/東映/1981年/薬師丸ひろ子
19/東映/1987年/少年隊
ウルトラマンティガ/2000年/V6 長野博
オトシモノ/松竹/2005年/沢尻エリカ・若槻千夏
魍魎の匣/2007年/松竹/堤真一・阿部寛・椎名桔平・黒木瞳・田中麗奈
LIAR GAME FINAL STAGE/2009年/松田翔太・戸田恵梨香
ほか
 
テレビドラマ
青春牡丹燈篭/NHK/1993年/宮沢りえ
らせん/フジテレビ/1999年/岸谷五郎
アナザーヘブン/テレビ朝日/2000年/大沢たかお
金田一少年の事件簿/日本テレビ/2001年/松本潤
潜入探偵トカゲ/TBS/2013年/松田翔太・松岡昌宏
 
PV
長淵剛/ハングリー/1985年
GLAY/SOUL LOVE/1998年※
工藤静香/BLUE ZONE/1999年※
DA-PUNP/I wonder/2000年※
B'z/MAY/2000年※
野猿/太陽の化石/2000年※
島谷ひとみ/赤い砂漠の伝説/2003年※
JUJU/明日がくるなら/2009年※
Do As Infinity/生まれゆくものたちへ※
takiamiy(高見沢俊彦)/雷神の如く/2013年
ほか 
 
※YOUTUBEで視聴可能作品

大谷採石場跡(大谷資料館)06

大谷採石場跡(大谷資料館)07

 

大谷採石場跡(大谷資料館)08

大谷採石場跡(大谷資料館)09

大谷採石場跡(大谷資料館)10

大谷採石場跡(大谷資料館)11

大谷採石場跡(大谷資料館)12


ステージがあり、コンサートが行われたり
幻想的な地下教会での結婚式プランもあります。
 
大谷資料館・住所
〒321-0345
栃木県宇都宮市大谷町909
028-652-1232

老若男女入場600円。
JAF割引(会員証提示)で500円。
 
なお、PVや各種撮影のためにお休みすることが
ありますので、見学の際は要確認です。
 
宇都宮にお越しのさいはぜひ大谷資料館を
見学されることをおすすめします。
 

大谷採石場跡(大谷資料館)14

大谷採石場跡(大谷資料館)15

大谷採石場跡(大谷資料館)16

大谷採石場跡(大谷資料館)17

▲地下工場で生産された四式戦闘機「疾風」
 
主にエンジンをこの地下工場で生産し
機体組立を地上の宇都宮製作所と群馬県太田製作所で生産し、前線へ送り出した。
  
------------------------------

 
【大谷地下空間に存在した戦闘機「疾風」工場と秘密基地計画】
(個別ページへ)

昭和19年後半から終戦にかけて
宇都宮市の大谷・城山地区の採石場地下空間は、
世界でも例を見ない広大な地下飛行機工場として稼働していた。
 
この地下工場で製造されていたのは大東亜戦争後半に登場した
四式戦闘機「疾風」である。

  
◆四式戦闘機「疾風」とは
「疾風」は中島飛行機が開発・生産を行った
重戦闘機で、「隼」や「ゼロ戦」の倍近くのパワーを発揮し、
速度、運動性、武装と防備、航続距離など いずれも優れ、
昭和19年4月の正式採用後、 陸軍は最も重要な
航空機として位置付け、大戦における運命を託した。
 
こうして 日本国民の総力を注いで送り出された
「疾風」は終戦迄の短い期間におよそ3,500機が生産され
(紫電改は約400機)大陸戦線、ビルマ戦線、フィリピン戦線、
および本土防空戦において活躍。
戦局の悪化に伴う部品の品質低下により、充分な性能が
発揮できず、苦戦を強いられたが、敢闘し、多くの敵戦闘機やB-29を
撃墜、あるいは 特攻機として出撃、 御楯となり 南溟に散った。
 
戦後、「疾風」を接収した米軍は品質の良い高オクタン価の燃料と、
プラグ交換等の整備を施しテスト飛行させたところ、
高度6,096mにおいて687km/hを記録。
P-51Dを上回るスピードだったため、
日本戦闘機の最高傑作と評価した。
 
◆大谷地下工場概要
「疾風」の製造は
中島飛行機太田製作所と中島飛行機宇都宮製作所
(現・宇都宮市陽南のスバル工場)で行われていた。
太田製作所では多くの機種が生産ライン上にあったが
宇都宮製作所は「疾風」を専門に製造するための
工場として稼働していた。

04_2 
▲中島飛行機宇都宮製作所に並ぶ四式戦「疾風」
(現・宇都宮市陽南のスバル工場)

  
昭和19年後半に入ると、宇都宮製作所も空襲の
リスクが高まった為工場疎開が決定。疎開先に選ばれたのが
大谷・城山地区の採石場地下空間であった。
 
大谷地区の地下空間は
総床面積7,387平方メートルの地下建物が五棟、
これに加え、宿舎や食堂などその他設備の総床面積
103,968平方メートルの分散した
七棟の建物群から構成されていた。
 
地下空間に続く縦坑は上空から秘匿するため、覆いが設けられ
連絡用の斜坑が、海軍の設営隊によって新たに掘削された。
 
地下工場は最も浅い場所でも地下55メートルにあって、爆撃から
守られていたが、その存在が終戦まで知られることなく、爆撃目標に
なることは無かった。また、崩落事故も一度も無かった。
 
昭和20年3月頃より、宇都宮製作所の「疾風」機体組立生産ラインの全部と
武蔵野製作所のエンジン生産ラインの一部疎開が開始され
大谷では6月に最初のエンジンが製造された。
 

01 
▲地下工場で製造された疾風の胴体
 
◆城山地下工場概要

城山地下工場は前述の大谷工場と連携して稼働した。
城山工場は19区画、総床面積197,508平方メートルの
計画のうち8区画101,232平方メートルが完成した。
この区画に宇都宮製作所の「疾風」生産ライン全てを移す
計画であったがスペース不足により
一部は宇都宮製作所に残されていた。
最大の作業空間は御止山工場と呼ばれる
31,768平方メートルの区画で
板金部品の製造が行われた。
 
◆宇都宮大空襲による影響
7月13日の未明、宇都宮上空にB-29の梯団133機が姿を現した。
このときの爆撃目標は中央小学校で、市街地の無差別爆撃を行った。

当初、最も狙われると予想された陽南の中島飛行機宇都宮製作所への爆撃は無く
ほとんど無傷の状態で稼働が継続された。
ただし、人的被害による影響で工員の出動率は低下した。

なお、航空機塗料の「黄緑第七号」であるが、塗装のノリが非常に悪かった。
戦後、残っていた塗料で犬小屋を塗ったという証言があるが、
一日立たず、剥がれてしまったという。
よって、宇都宮で製造された「疾風」は塗装を省略した全てジュラルミン剥き出しの
銀色をしていた。
 
◆地下工場の総員と勤務体制
 
地下工場を支える工員の総員は8月に最も多く、
軍人、常勤、学生等、合わせて5,702名が在籍し、
軍人と常勤者は一日10時間勤務の二交代制、
学生は一日10時間勤務で就労した。
 

02 
▲地下工場で製造された疾風の主翼
  

◆大谷・城山工場で完成した疾風
元工員の証言によれば大谷・城山工場で
「終戦までに疾風は2機が完成した」とされているが
2機分のユニットが大谷・城山から宇都宮製作所へ
陸送され、最終組み立てを
実施したと考えるのが妥当であろう。
 

05 
▲岡本西小学校北端の滑走路より離陸する「疾風」(想像図)

 
◆秘密飛行場計画
地下工場からロールアウト(完成)した「疾風」を直接発進させる計画が存在した。
この秘密飛行場計画は、現・国本西小学校を北端にして
国道293号線沿いを南側に向かって離陸専用の滑走路を敷設。離陸した「疾風」は一旦
清原飛行場に着陸し最終艤装を行ったのち前線へ送られる。この計画は、
滑走路要地に杭打ちを行ったところで終戦となったが、
将来的には、決戦に備えて、地下工場と飛行場を合わせた大規模な
秘密航空基地として運用されたであろうと想像できる。
 
出典

米国戦略爆撃調査団報告書(太平洋戦争)第15巻 経済分野の調査、航空機部門
「日本の航空機工業」(第15巻)
第1部 中島飛行機会社の地下工場
 
US. National Archives and Records Administration

2011年8月19日 (金)

牛久大仏 高さは自由の女神のおよそ3倍

24193482_559253224_162large

牛久の大仏様です。高さはなんと、自由の女神のおよそ3倍です。

意外とご存知の方が少ないので、紹介します。

 

中東や中国、アメリカの超高層建築と決定的に違うのは

地震が多発するわが日本でこれだけの高層建築を建てるには

比類なき高度技術が要るという点に尽きます。これは素晴らしいことです。

 

大仏様の胸の辺りは展望室になっています。

 

仏具やお土産ショップもあります。

 

その他、うんちくは詳しくは公式サイトなどに掲載されていますので、割愛しますが

茨城が世界に誇る、素晴らしい大仏様です。

 

画像ではいまいち迫力が伝わらないので、ぜひ実物を拝んでください。

驚きます。