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2015年6月26日 (金)

ベトナム解放戦線(1)

ビルマ木橋

 

戦友会で元第二師団二十九連隊の中隊長だった
三橋元陸軍大尉のお話です。当時、部下であった
石沢氏の話も合わせています。

 
これも取材中ですが、形になり次第、書くことにします。
話の概要は以下の通りです。
 
以下、光橋元大尉の回想より~ベトナム独立を賭けて
大東亜戦争が8月15日に終わったが
我々の戦争は終わらなかった。私はその頃、
カンボジアに駐留してアンコールワット西側の警備を担当していた。
終戦と同時に、戦前、植民地支配をしていたフランス軍
(以後仏軍)が戻ってきてふたたび、植民地体制を築こうとした。
 
ビルマに建設した木橋も、一度破壊されたものを
我々日本軍の工兵隊がもう一度、終戦後に連合軍が
やってくるというのでかけなおしてやった。
 
フランス軍のために死ぬのは絶対に御免だ
ところがフランス軍は脆弱であったため、一旦武装解除した
日本軍に再度、火器の所持を許可し、ベトナム独立軍と戦え、
というのだ。そうは言われても
我々とベトナム人は友達だったから、今更、彼らに銃口を向けること
などできない。
 
なぜ、我々日本人がフランス軍を守るため、戦わなければならないのだ。
そのとき、私は初めて死ぬのが怖くなった。
それまで、日本のためなら、一度は死ぬつもりだった。
お国を守るためなら死ぬのは何ら躊躇いは無かった。
フランス人のために死ぬのは絶対に嫌だ。 
 
かつての仲間へ銃口を向けるが
それでも仕方ないので、我々は、仏軍の指揮下に入り
ベトナムの仲間に銃口を向けたが、全員照準をはずし
空に向けて発砲した。このお粗末な射撃はベトナム人も
理解していたことだろう。
 
連合国の白人兵士が乗ったトラックはベトナム解放軍の
襲撃を受けていた。9月以降もメコン川上流からは
フランス軍兵士の死体が流れて来ていた。おそらくベトコンに
襲われたのだろうと思った。
 
ところが、我々日本人もそのフランス軍の味方になったというのに
彼らは全然襲って来ないのだ。大勢の白人兵を乗せたトラックに
一人でも日本人が混ざっていれば、これを狙うことはなかったのだ。
 
ベトナム独立を賭けて我々と共に戦ってほしい
ある日、ホーチミンの部下が女性を伴ってやってきて言った。
「我々と共にベトナム独立のために戦ってくれないか。日本軍の強さが必要なのだ」
兵士は下士官に、下士官は将校にしてやる。
妻が必要なら紹介するから、ここで家族を築いても良い。
とにかく特別な待遇を用意しよう。 

8月15日からの戦争・・・ 
彼らの独立にかける想いは強かった。
既にベトナム解放軍に加わった日本人兵士も居るという。
 
自分はどうするべきか・・・。
 
つづく

2015年6月24日 (水)

竹田五郎氏のお話(1)飛燕・五式戦での本土防空戦

飛燕

 

最近、ご縁あって、元244戦隊で飛燕と五式戦に搭乗し
B-29邀撃戦に参加された元陸軍大尉でパイロットの
竹田五郎先生にインタビューする機会に恵まれたので
また、少しずつ書くことにします。
 
Q、篠原

竹田先生は飛燕でB-29を撃墜されていますね。
 
A、竹田五郎先生
いや、あれは部下が皆優秀だったんです。
 
Q、高度1万メートルはどうですか
 
A、1万メートルではちょっと姿勢を崩しただけで(翼をやや傾ける仕草)
失速してサーッと2000メートルくらい落っこちちゃう。だから旋回する時も
ほんの少しだけ翼を傾けて、
ちょっとでも角度がつくと、あっという間に
落っこちちゃうから。
 
逆落としの直上攻撃ね、あれはよく本に書いてあるのを私も読みましたが
ほとんど不可能じゃないかなと思いますよ。1万メートルでは。
直上攻撃というより、事実上の墜落に違いです。それで落ちた先に
運よくB-29がいて、
たまたま機関砲がそっちを向いていれば理論上当たる
ということなんでしょうけれど、相当な幸運じゃないと。
 
酸素も薄いから、すぐ酸素を吸引しないとすぐコロっといっちゃう。
ですからB-29を撃墜した、というのは7000メートルくらいじゃないかな。
私もそのくらいなら戦えました。
 
Q、五式戦はどうですか
 
A、あれは良い飛行機でした。
機体は三式戦ですけれど
百式司偵のエンジンを載せてね。
これがもっと早く出来ていれば随分、戦えたんではないかと思いますね。
それでもB-29相手には歯が立ちませんでした。
 
Q、戦後は小林照彦戦隊長とともに86Fで飛んでいますね。
 
A、244戦隊で
小林戦隊長は上官だったんだけれど
それが戦後は、私が86Fパイロットの第2期生、小林さんは
3期生の後輩ということで。
 
最も黎明期に活躍された指宿正信さんは一番最初の1期生でしたね。
そのほかに1期生では同じ海軍で艦爆に乗っていた鈴木瞭五郎さん
という方が居ました。指宿さんは、無口な方で寡黙でとにかく真面目な
方でしたね。
 
あれは浜松だったかな。離陸直後に編隊を組む時、指宿さんが教官で
二番機の訓練生、訓練生とは
いっても海軍時代のだいぶ上の方でしたけどね。
それで編隊を組む時、指宿さんが、ぶつけられた形になって、二番機は
その場で緊急脱出して助かった。指宿さんも
緊急脱出をしたんだけれど
間に合わなかった。
 
指宿さんと小林さん、どっちが先だったかな。
86Fの航空自衛隊の殉職者第一号となってしまいました。※1
 
Q、今度、鹿屋で零戦を飛ばすそうです。
 
A、今はなかなか許可しないね。航空ショーは。
 
Q、アメリカの航空ショーではP-51などで当時のパイロットが飛んでいる
そうです。90代で宙返りしたり。
 
A、私も飛ぶだけならできますよ、空戦をやらなければ(笑)
宙返りと言ったって、あんなものはそう難しくない。
今はちょっと身体がいう事きかないけど、去年や一昨年だったら
できたんじゃないですかね。
 
Q、竹田先生は一式、二式、三式、五式とほとんどの
戦闘機に搭乗されたんですね。
 
A、ええ、私は一式戦の前、九七戦から乗っている。
一式戦、二式単戦、三式戦と、五式戦。四式戦以外は乗りました。
九七戦は地上滑走のほうが難しいですよ。機体が軽いから。
風が強いとなかなか難しいですよ。それでも何とかなりますけれど。
 
最後に、竹田先生の歌声で
飛行第244戦隊歌(飛燕戦闘機隊々歌)を拝聴した。
 


YouTube: 飛行第二四四戦隊歌(飛燕戦闘機隊々歌) 唄:御堂諦

  
飛行第二四四戦隊歌(飛燕戦闘機々隊歌)
 
一、
皇国(すめらみくに)の大空を
醜翼ひとたび侵すとき
高度一萬、厳として
我がつばくろの守りあり
輝く空の梓弓
おゞそは飛燕戦闘隊
 
二、
高く綾なす飛行雲
衝撃一瞬砕け散る
彼方に咲くは白薔薇か
みるみる降る(くだる)神鷲の
瞳に宿る我が愛機
おゞそは飛燕戦闘隊
 
三、
黒潮踊る大洋に
米機を屠(ほふ)る幾そ度
撃墜マーク燦(さん)として
神州守るこの翼
空の近衛と人は呼ぶ
おゞそは飛燕戦闘隊(※注2)
 
作曲:古関裕而
作詞:南郷茂宏
  
A、この歌はあれで見れるんですよ。YOUTUBEで。ただあれは原曲と
節が少し違っていますね。(第42回陸海軍軍歌演奏会軍装会)
女の子が歌っているのもあるけど(おそらく初音ミクのことを仰っている)
やっぱり昔、戦友で歌ったように男性の声で聴きたいですね。
空の梓弓っていうのが確か一番だったかな。
それから実は3番の歌詞があるんですが、太平洋の向こうからやってきた
ことを歌ってますよ。海を越えてきたやつをやっつけるという。※2
 
陸軍士官学校の同期生会で航空は私だけになりましたから
これを知っている人はいないんです。だから機会があれば歌います。
 
それと、いつも同期生会では、会計の人が会費があとこれだけしかないからと
心配しているけど、私は会費よりもいつまで生きられるか、
本人の心配をしたほうがいいんじゃないかと(笑)
 
Q、いえいえ、いつまでもお元気で、またお話を聞かせてください。
 
 
つづく
 
竹田五郎氏のお話し「飛燕」高度1万メートルの戦い(2)
 

証言者プロフィール
竹田五郎元陸軍大尉
大正10年生まれ
第244戦隊で三式戦、五式戦で本土防空戦を戦う。
戦後、航空自衛隊F86Fパイロットを経て、空将、航空幕僚長を
務める。
  
※(1)関連記事
指宿正信大尉~空に生きた武人の生涯

※(2)3番の歌詞は後日、篠原調べ
 
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沖縄・喜屋武岬で戦没者を想う

喜屋武岬(沖縄)

 

はじめて沖縄へ行ったのは15歳か16歳の頃だったと思う。
東京の晴海からフェリーに自転車を積んで海上で2泊3日。
鹿児島県の志布志と奄美大島を経て那覇へ着いた。
 
早速、慰霊をしようと思って那覇の市街地を抜けて糸満市へ
サトウキビ畑を抜けて、最南端の喜屋武岬まで来た。
「ここが、あの喜屋武岬か」と思った。

 
米軍に追い詰められ断崖絶壁から身を投げた多くの方々の冥福を祈った。
既に日が傾いていたので、「よし、ここで一晩、過ごして亡くなった方々に
寄り添ってみよう」そう考え、岬で
野宿することに決めた。
とても風が強かったが、なんとか耐え忍んだ。
 
深夜2時ごろ、車に乗った男女の若者集団が遊びなのか知らないが
突然やってきたので、ムクリを起きたら、向こうが驚いていた。
それ以外は朝まで誰もこない、漆黒の闇の静かな夜だった。
灯台の明かりと、それを回すモーターの音が鈍く響いていた。
 
とにかく、この喜屋武岬で、
一晩、亡くなった方に寄り添い、祈り続けることができた。
沖縄へ着いて一日目の夜だった。

自分ひとり、闇の中、 
この世とあの世、どちらに居るかわからないような
不思議な夜だった。

2015年6月22日 (月)

戦友会を運営して思う事(3) 戦友の思い出

戦友というものは特別な存在だ。
 
昨今、若い人たちが苦労を分かち合った仲間や同僚を
本来の意味をはき違えて軽率に戦友と呼んでいたりするが、
それは適切でない。
 
戦場で散った戦友は
一生、忘れられないものである。
自らの一生を捧げ、供養を続ける人
あるいは自責の念から「あのときあいつが死んだのは自分のせいだ」
と、戦後ずっと自分を許すことができず苦しんでいる人も多い。
 
戦友会のメンバーである
水足氏と富安俊助氏はポン友(親友)だった。
家が向かいだったので、よく一緒に学校へ行ったという。
中学卒業後、水足氏はお国の為、命を捧げる覚悟で陸軍士官学校へ、
そして富安俊助氏は日本の将来を担うべく早稲田大学へ進学した。
水足氏は
「成績は富安より僕の方がよかったんだが」と笑いながら当時を
回想する。
 
水足氏は陸軍士官学校卒業後、陸軍大尉まで進級し中隊長として
ビルマへ出征。最前線で死を恐れず戦ったが
奇跡的に生還し復員した。
 
戦争は悲惨で運命は残酷だ。富安俊助氏は学徒動員で
海軍中尉を任官し、特攻隊となり、南溟に散っていたのである。
 
そして戦後、長らく経ってから、富安中尉の
戦死の状況が判明した。エンタープライズに

体当たりを成功させたゼロ戦は
富安俊助中尉の機ではないか?との知らせが入った。
 
詳しくはこちらをご覧頂ければと思う。
永遠のゼロのモデルは存在した
富安俊助中尉とエンタープライズ 
 
水足氏によれば
「2.26事件の、あの雪の日も一緒に富安と一緒に学校へ行った。
交通手段が全部止まっていたから、歩いて行ったんだけれど
妙に静かだった。馬に乗った陸軍将校が伝令に走り回っている。
そのときは富安と二人で、何も知らなかったんだが
校門前に着いて、ようやく事態を知って。二人で顔を見合わせて驚いてね、
もちろん学校は休みだというので帰ってきたんだ。」
 
「富安はハーモニカが得意だったな。ハーモニカのバンドをやっていた。
人気者で、僕は下手なんだけど」
 
そういって水足氏自身もハーモニカを取り出し演奏してくれた。
 
「あのビッグE(エンタープライズ)に富安がね・・・。
霞ヶ浦の航空隊へ入って、訓練時間などそんなに無かったはずだ。
僅かな間でどうしてそんな技量を身に着けたのかと思った。
500キロの爆弾を抱いて、水平飛行をして、ビッグEに接近して
それではダメだというので機体を翻して、雲の切れ目から
真っ逆さまにビッグEの飛行甲板に突っ込んだんだ」
 
親友、富安中尉の勇敢な最期だった。
これもひとつの戦友の記憶である。

2015年6月20日 (土)

NSXパトカー

NSXパトカー

NSXのパトカーを久々に見ました。この車体は
鹿沼ICの県警高速隊鹿沼分駐所に配備されており

待機中はガレージに入っています。
 
私はICの近所に住んでいるので、このNSXパトカーが付近の一般道を
走っているのを度々見るのですが(逆に東北道を走っている姿を見た事ありません)
ほとんど運転中のため、
すれ違っても、写真を撮れず、今回は運良く助手席
だったので撮影できました。
 
この車体はリトラクタブルのモデルですが、栃木県警は固定ライトの
モデルも所有していたはずで、そちらも何度か私は見ています。
そっちは最近、見ないけど、廃車になったのかな?
噂では事故を起こしたとか言われてますけど、噂なので真相はわかりません。
とにかくリトラの方は元気です。平成27年6月現在。
 
以下の写真は以前、喜連川のイベントで撮影したもので
同じ車体ですのNSXパトカーです。

NSXパトカー

 
以下、過去記事より
栃木県警が誇るNSXパトカー仕様です。
NSXのパトカーは2013年現在、世界に一台きりです。
日本で一番速いパトカーかもしれません。
  
栃木県はHONDAの重要生産拠点となっており
HONDAから地元貢献事業で県警に寄贈されたお車です。
お巡りさんに尋ねたところ、現役で
栃木県警高速機動隊に所属し、東北道を走っているそうです。
しかし、このパトカーで取り締まりを行うことは原則的にありません。
2シーターで、切符を切るには不向きな為
主に新人の育成訓練に用いることが常だそうです。
  
確かに、考えてみれば必要ありません。
NSXのパトカーが走っているだけで
十分な抑止力が発揮できるので
取り締まる機会は皆無ということでした。
 
 
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Imgp2913Imgp2935_3
 
 
それでも万が一、この車の前へ出るような違反者があれば
パーキングへ誘導すれば良いだけですから、検挙は可能であります。
助手席にはきちんと速度計測器を供えておりました。
赤色灯はパトライト社製のエアロブーメランを備えております。  
 
 
Imgp2938Imgp2941  
Imgp2917Imgp2939
 
 
当然リミッターも無し!そのほかはおおむね純正のようです。
タイヤはグッドイヤーでした。リミッターはないそうです!
私はお巡りさんに根掘り葉掘り、直接聞きましたから!(笑)
それが本当かどうかはまた別ですけど!
 
こちらのNSXパトカーは「三菱ふそう&さくら市 はたらく車を体験しよう 2013」
イベントにて展示されました。

2015年6月19日 (金)

彗星艦上爆撃機の型式一覧

彗星/艦上爆撃機/型式一覧

 
◆艦上爆撃機「彗星」

彗星は愛知航空機が開発し帝国海軍で運用された
艦上爆撃機。九九式
艦上爆撃機の後継機として開発が進められ昭和17年に
正式採用された。
大幅に向上した速度と機体剛性により、完全格納式の爆弾倉に
収められた
500キロ爆弾を急降下爆撃により敵艦船へ叩きつけ戦果を上げた。

 
ダイムラーベンツ社製でメッサーシュミットBf109にも装備された
水冷エンジン、DB-601のライセンス
生産型である日本海軍名「アツタ」
エンジンを採用したが、日本海軍は水冷式に不慣れであったため
稼働率の低下を招いたという説がある。
 
◆DB-601エンジンと陸海軍の確執
機体は日本機離れしたシャープな印象があるが、
同じエンジンを用いたのは
「彗星」のほかに陸軍の三式戦「飛燕」、海軍の「晴嵐」と三機種のみで
あり、
極僅か。さらに陸海軍の確執により、「飛燕」と「彗星」のエンジンは互換性
がなく
同じエンジンであるが互いに融通し合うことができなかった。そのため
純国産三菱製の金星エンジンに
換装され、終戦まで運用された。四三型は
ロケット推進機なども備えた。

 
彗星はその機動性と敵戦闘機との空戦にも耐えうる機体性能だったことから
敵陣に突入し挺身偵察を行う強行偵察機としても運用された二式艦偵ほか、
戊型は斜め機銃を
備え、夜間戦闘機として本土防空戦におけるB-29撃墜
にも活躍した。


◆航空戦艦「伊勢」搭載カタパルト射出型  

二二型は航空戦艦「伊勢」に搭載されカタパルト射出された。
この運用方法では艦隊への帰艦は100%不可能であり、建前上は
陸上基地への着陸を前提としたものであったが、空戦では未帰還機が必ず
出るため航空母艦への着艦が求められた。
 
型式一覧 
 
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◆彗星一一型(二式艦上偵察機)/D4Y1-C

全幅11.493m 全長10.22m 全高3.675m 主翼面積23.6㎡ 自重2,565kg
全備重量3,650kg 過荷重量4,361kg 翼面荷重155kg/㎡
エンジン/アツタ21型 離昇1,200馬力 燃料1,083L 増槽330L2個
最高速度/546km/h at 4,750m 巡航速度/426km/h at 3000m
上昇力/5000m/9分28秒 航続距離(増槽装備)/3,339km
武装 7.7mm機銃×2 7.7mm旋回銃
 
敵陣強行偵察機
九九式艦上爆撃機の後継機として十三試艦上爆撃機が正式採用された際、通常艦爆と
艦爆としての機動力を活かし戦闘機の追従からも脱出が可能な強行偵察機モデルの
二派が製造された。一一型は爆弾倉を撤去し、敵陣偵察用のカメラを備えた
モデルで彗星一一型、或いは二式艦偵と称する。唯一の尾輪引き込み式。121空
(雉部隊)では二式艦偵と呼ばず、単に「彗星」と呼称していたようである。
  
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◆彗星一二型/D4Y2・彗星一二戊型/D4Y2-S
全幅11.493m 全長10.22m 全高3.675m主翼面積23.6㎡ 自重2,635kg
全備重量2,835kg 過荷重量4,353kg 翼面荷重163kg/㎡
エンジン/アツタ31型 離昇1,400馬力 燃料1,540L 増槽330L2個
最高速度/580km/h at 5,250m 巡航速度/426km/h at 2000m
上昇力/5000m/7分40秒 航続距離(増槽装備第二過荷)/3,426km
武装 7.7mm機銃×2 7.7mm旋回銃 500kg爆弾×1
 
艦上爆撃機「彗星」
旧来の九九艦爆から大きく進化し、爆弾倉(ウエポンベイ)の扉を開閉式として
500キロ爆弾を搭載が可能となった。機体剛性と三枚のダイブブレーキを活かした
急降下爆撃により、敵艦に500キロ爆弾を叩きつける。本格的に運用されたのは
主にマリアナ沖海戦であるが、敵機動部隊とは四倍以上の兵力差があり、敢闘するも
母艦に帰還できたの機体は僅かであった。一二戊型は後席に斜め銃を取り付け
夜間戦闘機として本土防空戦に活躍した。
 
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◆彗星二二型/D4Y2改(航空戦艦「伊勢」搭載機)
全幅11.493m 全長10.22m 全高3.675m主翼面積23.6㎡ 自重2,635kg
全備重量2,835kg 過荷重量4,353kg 翼面荷重163kg/㎡
エンジン/アツタ31型 離昇1,400馬力 燃料1,540L 増槽330L2個
最高速度/580km/h at 5,250m 巡航速度/426km/h at 2000m
上昇力/5000m/7分40秒 航続距離(増槽装備第二過荷)/3,426km
武装 7.7mm機銃×2 7.7mm旋回銃 500kg爆弾×1
カタパルト射出機
 
彗星一一型・一二型をベースにカタパルト射出を可能に改造したモデル。
航空戦艦「伊勢」のカタパルトから射出発艦した。艦隊への帰艦は不可能で
カタパルト射出出撃後は友軍地上基地への着陸が建前上前提とされた。
実際には多くが未帰還となったほか、未帰還機の増加で搭載機に空きが出た
航空母艦への着艦が求められた。 
 
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◆彗星三三型/D4Y3・彗星三三戊型/D4Y3-S
全幅11.50m 全長10.22m 全高3.74m 主翼面積23.6㎡ 自重2,501kg
全備重量3,751kg 過荷重量4,657kg 翼面荷重159kg/㎡
エンジン/三菱「金星62型」離昇1,560馬力 燃料1,040L 増槽310L2個
最高速度/574km/h at 6,050m 巡航速度/370km/h at 3000m
上昇力/6000m/9分18秒 航続距離(第一過荷)/2,911km
武装 7.7mm機銃×2 7.9mm旋回銃 500kg爆弾×1 または翼下250kg爆弾×2
 
不慣れなアツタ液冷エンジンの運用により稼働率低下が相次ぎ、空冷の三菱製金星に
換装したモデル。機体の構造変更も施したが、エンジンを取り替えたといえば解り
易い。幻の最終型零戦六四型/五四型丙と同型の金星エンジンという説がある。
戊型は一二型と同じく、斜め銃を取り付けた夜間戦闘機型。
宇垣纏中将、中津留大尉が8月15日に特攻隊として大分飛行場から
出撃したモデルとして有名。
 
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◆彗星四三型/D4Y4
全幅11.50m 全長10.22m 全高3.74m 主翼面積23.6㎡ 自重2,635kg
全備重量4,542kg 過荷重量4,733kg 翼面荷重193kg/㎡
エンジン/三菱「金星62型」 離昇1,560馬力 燃料1,345L
最高速度/552km/h at 2,600m 巡航速度/333km/h at 3000m
上昇力/5000m/9分22秒 航続距離(突撃第一)1,654km 
(突撃第二)1,550km(空輸第二)2,593km 武装 800kg爆弾×1
 
三三型の機体腹下を大きく切り抜いて、800キロ爆弾を吊り下げ可能に
改造したモデル。戦局を凌ぐ為、急造されたのと、航空母艦が壊滅したため、
艦上での運用はされず、着艦フックは撤去された、名目上は艦上爆撃機であるが
陸爆、或いは事実上の特攻機でもあった。重くなった機体を増速させる為
ロケット推進機を6本取り付けた。ロケット装備機は実戦投入前に終戦となる。
 
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彗星という飛行機について思う事
パラオ・ペリリュー等に残骸として残る、或いは墜落した彗星の機体を
実際に何機か見てきたから思い入れが強い。アルミ合金の機体外板は
そのままに、
計器や艤装部品も実に洗練された作りになっている。
彗星は
間違いなく傑作機であるのだが、本格的に運用された昭和19年
前半は日米の兵力差が最も顕著になってきた頃であり、
海軍はそれでも
まだ成功法で連合軍と戦っていた。確かに彗星は傑作機であるが
5倍も10倍も敵との差があれば生還は望めない。それでも敵艦を
強襲し
撃沈していたのである。その功を、散って行った多くの搭乗員を
忘れてはならないと感じる。
 
彗星は新鋭急降下爆撃機としての威力を十分に発揮することなく
大戦末期には特攻に多く用いられた。
平成26年の夏に中津留達雄大尉のお嬢さんが
宇垣中将特攻の件でテレビに出演していたので驚いた。
8月15日に戦死したことを悔やんでいるのは勿論だと思ったが、それでも
「父を誇りに思います」とコメントしていたのが印象的だった。
 
宇垣の取った行いを私兵特攻だと批判する者も多いが、人物評価は
別として、
武人であったことは確かだ。宇垣は『戦藻録』で
「皆死ね、皆死ね、俺も死ぬ」と書き残している。
終戦後、ここまで復興した日本を当時、誰が想像しただろう。
現在の物差しで特攻を、当時の出来事を良いとか悪いとか
後出しジャンケンのように批判することなど本来ならできないはずだと思う。
  
彗星画像

彗星と航空戦艦日向

彗星/艦上爆撃機

▼平原政雄大尉の二番機だった小松幸男飛曹長と国次萬吉上飛曹ペアの彗星

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

  
彗星ファイスタオル試験販売中

Photo

 
◆関連記事
 
パラオの彗星/墜落現場へ~永元俊幸大尉
航空機に見る日本陸海軍の確執
朝日村に不時着した彗星
宇垣纏中将8月15日特攻出撃の跡地へ

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◆◆◆

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

伊400 フリー素材

400_3

伊400のフリー素材を作成しました。
ダウンロード使用できます。
詳しくは以下をご覧ください。 
 
画像使用についてのお願い


Zenttai

▲伊400型潜水艦喫水線上

Kissuisen_2

▲伊400型潜水艦全体

2015年6月18日 (木)

飛燕パイロットへのインタビュー

今日は元陸軍戦闘機パイロットの竹田五郎さんにインタビューしてきました。
竹田さんは小林戦隊長率いる第244
戦隊所属の本土防空戦闘機隊で
愛機「飛燕」で高度1万
メートルのB-29を撃墜しました。
 
竹田元大尉は、九七
戦、一式戦、二式戦、三式戦、四式戦、終戦直前には
五式
戦と、全ての戦闘機にお乗りになっています。戦後は航空自衛隊
F86Fの日本人初のパイロットとして活躍され、
空将、航空幕僚長を
お勤めになりました。お聞きしたいこ
とはたくさんあるのですが、
ご高齢の為インタビュー時間
に制限を設けて何度か足を
運んでやっています。あとでま
とめて記事にします。
 
この他にも、「雷電」搭乗員でP-51と空戦を展開さ
れた
方や、マリアナ沖海戦、最後の空母瑞鶴ゼロ戦パイロット
真珠湾攻撃に参加した「加賀」のゼロ戦隊長など
 
インタ
ビューの予定があるのですが、私はアマチュアですので
旅費の都合でなかなか実現できずそれでもなんとか
お元気なうちに、お話を伺うことを目標にやっていきます

2015年6月15日 (月)

羽根空港午前二時(1)

Haneda92_2

 

東京国際空港(羽田空港)で深夜、アルバイトをしていた。学生時代。
夜の滑走路の真ん中を走ると、無数の誘導灯が点在していて
宇宙の中を散歩しているようで綺麗だった。
 
空港で働いてみて、一機の飛行機を飛ばすのに大勢の人が
関わっていることが理解できた。夜通しで機体の整備をする
航空整備士や滑走路を点検する人、様々だった。
 
勤務は22時に始まる。フライト終了後の機体を翌朝までに
綺麗に清掃する仕事だった。学校が終わってから漫画喫茶で少し仮眠を
取ってからほとんど乗客のいないガラガラのモノレールで通勤した。
夜の羽田空港ターミナルには人もまばらで売店やレストランも閉店し
静かだった。出発ロビーへ突き抜ける長いエスカレーターを上がって行く。
空港敷地内へ幾重ものゲートを通過しようやく中へ入る。
 
バイトの仲間も多様だった。
 
A君は根っからの飛行機マニアで
このバイトのために山梨県から連夜通っていた。
かかる時間を交通費を相殺すればバイト代は僅かであったのに
彼は飛行機が好きで、毎晩、飛行場内に入るだけでもウキウキして
バイト代は二の次という印象だった。移動中は詳しく飛行機の解説を
してくれたり、みんなが疲れて寝てしまっていても、ひとり滑走路を眺めていた。
 
Bさんは昼間は東京ディズニーシーのキャストとして
働いていて、飾り気の無い笑顔が素敵な女の子だった。
キャストというのが花形だったらしいけど、どこだったっけな。
自分もディズニーランドが好きでバイトの面接までなら
行ったことがあるから、彼女とは色々と話をした。
 
Cさんは無類の免許マニアで、いろいろな種類の
免許を取るのを生き甲斐としている人だった。
彼の免許証欄には普通、大型はもちろんけん引、二輪、
二種も含め取得できる限り、すべての欄を埋めるのが目的なんだとか。
唯一の後悔は普通免許を原付より先に取得してしまったので
原付の欄が空白になっていることだと残念そうに言っていたのを思い出す。
一番の取得困難は「けん引二種」という免許を取ること。
先頭の牽引車量が乗客を乗せた客車を引っ張る
一部遊園地などにあるらしい。免許に費やした金額は相当なものだが
車は所有していない。免許を全種類取得したらレガシイが欲しいと言っていた。
佐藤隆太に似ていて、見た目は無骨だが優しい人だった。
 
画像はドルフィン。見た目が丸くて可愛いしもっとも好きな飛行機。
何より掃除が楽だった。ボーイング747が大変だった。
それと、まだ辛うじてYS11が離島航路に残っていた。
 

戦艦大和・武蔵 フリー素材

戦艦大和・武蔵 フリー素材

Yamato

戦艦大和・武蔵のフリー素材を作成しました。
ダウンロード使用できます。
詳しくは以下をご覧ください。 
 
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2015年6月13日 (土)

原田要さんの話(7)元ゼロ戦パイロットとして平和の大切さを訴え続ける

戦争は二度と起こしてはならない 
戦争ほどの罪悪はない。平和の為に、私は

これを死ぬまで喋り通して一生を終ろうと決めたわけです。
戦争は世界の文化や歴史を壊してしまい、今は科学が発達しているから
戦争は人類の破滅に直結してしまう。
 
何より、若い人たちには絶対に戦争を経験してほしくありません。
それが私の願いです。だから誰が何と言おうと言い通すと、決めました。
 
私は最初、自費出版も4冊も5冊も出しました。それが今は取材もされて
色々な本になっています。今度はニューヨークタイムズにも
掲載されて
世界の反響は非常に大きい。
 
日本、非戦の誓い 
大東亜戦争を10年間やって、結局日本が負けて降伏をした。
日本は戦後、新しい憲法を作って、二度と戦争をしない、軍隊をもたない。
経済を発展させて世界に恩返しをする、そういう理想に近い宣言をしたわけです。
 
世界中にかけた迷惑、一方ではアジアの独立に貢献
日本は自分の能力以上の計画をたてて、戦争をして世界中に
迷惑をかけた、そういう事ですけれども、日本の活躍の見事さに
世界の植民地が自立出来て、
植民地から解放された
それが日本の戦いの残された功績であるとも
言われています。
 
また、そのときの日本のリーダーがどういう気持ちで
日本を引っ張って行ったのか、我々は考えるべきでしょう。
必ずしも私利私欲ではない。その当時は、みんな日本の生存をかけて
一生懸命にやったんだと、そういう考えもあるのではないかと思います。
 
日本は悪いところを一方だけ見るのではなく
良いこと悪いこと、両万全てを見て判断することが
大切なんではないかなと。日本の失敗や成功が世界の国々の
参考になれば良いと考えています。
 
とにかく、絶対に戦争はいけないんだと
私は喋り通しますよ。
 
また来てください。
 

-------------

原田要さんの話(1)撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない
原田要さんの話(2)南京攻略とパネー号事件
原田要さんの話(3)真珠湾攻撃と亡き戦友の思い出
原田要さんの話(4)赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴、飛龍への着艦
原田要さんの話(5)零戦、紫電改、様々な飛行機に乗ってみて
原田要さんの話(6)関行男大尉の教官を務める
原田要さんの話(7)元ゼロ戦パイロットとして平和の大切さを訴え続ける
 

--------  

海軍パイロットデータベース
あ行 赤松貞明板谷茂指宿正信岩城芳雄岩本徹三江馬友一尾崎伸也
か行 黒川昌輝
さ行 重松康弘新郷英城杉田庄一

た行 玉井浅一田中民穂粒針靖弘富安俊助
な行 中島又雄長嶺公元永元俊幸
は行 羽生十一郎
ま行
や行 山下小四郎輪島由雄
 
陸軍パイロットデータベース
篠原弘道

◆◆◆

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改


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2015年6月12日 (金)

原田要さんの話(6) 関行男大尉の教官を務める

艦上爆撃機「彗星」

 

霞ヶ浦航空隊へ
私がガダルカナルで撃墜された後、病院を転々として

手もなんとか治ってきて、こっち側の手が、今でもあんまり
握力がないですけれど、なんとか操縦できるようになって
霞ヶ浦の教官を命じられました。その時、私は准士官になっていました。
  
関行男大尉の教官を務める
そこで出会ったのが、海兵出身の関行男さん、蔵田脩さん、
それから機関学校から回された鈴木さんでした。
その3人を受け持ちなさいと言われて、練習機に乗って
ほとんどかかりきりで、その3人に教えました。
 
3人、みんな中尉なんです。私は准士官でしょう。
それが教えにくいんだ。もう言葉遣いがね、普段、自分の後輩の
予科練なら「ダメだ!」で言えるのが、言えないから、丁寧な口調で
「それはダメですよ。そうすると飛行機がこうなっちゃうから
こういう風な操縦をしなきゃいけません」といった第三者の言葉遣いで
指導しました。ところがそれを向こうは理解してくれていて、関さんは
 
「教官、そんな遠慮はいらないからダメなときはダメと
言ってください。
私たちは階級は何であれ、技術指導者として
尊敬しているんですから。
何でも好きに喋ってください」

そう、言われてね、かえって、こっちが恐縮しちゃいました。
海軍兵学校出てきた人は鼻ばっかり高くて、威張っているばかりで
プライドだけは高いのに中身が伴わない、当時は下士官から
そういった印象を持たれていました。だけど私の身近では海兵出だからと
威張る人はあまりいなかった。
 
蒼龍戦闘機隊では菅波政治さんも、飯田房太さんも、藤田怡与蔵さんも
一番最初の教官だった村田重治さんも、みんな海兵出だからと威張るような
ことはありませんでした。立派な人たちでした。
小園安名さんも、我々下士官と
士官を一心同体のように
大事にしてくれました。
 
蔵田さんもそうだし、鈴木さんは途中で肺結核で亡くなっちゃったけど
みんな立派な人たちでした。蔵田大尉は後に元山航空隊で
特攻隊の
隊長になって。

私が一番最初に教えてあげた関行男さんは、その海兵のプライドの犠牲に
なった人なんです。
下士官が活躍してるのに、兵学校出の一番偉いエリート
コースが
何やってるんだと。それで誰か代表で一番先に行かざるをえなくなった。
 
ところが私が後から考えるとね、戦後まで元気で喋ってた偉い人が
あれが、特攻に行くべきだった。ところが、それは自分で行きたくない。
それが関さんをね、特攻にやったんですよ。関さんは戦闘機じゃないんです。
急降下爆撃がね、上手なんです。戦友に聞いたんですが
関さんは言っていたそうですよ。
 
「俺は何も零戦で爆弾を抱いて行かなくたって、九九艦爆で何でも沈められるよ」

って。
結婚したばかりなんですよ。関さんは
 
「本当は、俺は行きたくないんだけれども、日本が負けたら家内がどんな事に
なるかわからない。
だから日本が負けないために。私が第一号で、敷島隊の
隊長で海兵出の名誉のために行きます」
 
そう言ったんだそうです。
 
つづく
 

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関連記事
関行男大尉と敷島隊の祀られる楢本神社へ
私は敷島隊の5機を整備した~中野整曹

※画像は彗星艦爆
 
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原田要さんの話(1)撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない
原田要さんの話(2)南京攻略とパネー号事件
原田要さんの話(3)真珠湾攻撃と亡き戦友の思い出
原田要さんの話(4)赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴、飛龍への着艦
原田要さんの話(5)零戦、紫電改、様々な飛行機に乗ってみて
原田要さんの話(6)関行男大尉の教官を務める
原田要さんの話(7)元ゼロ戦パイロットとして平和を訴え続ける
 

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2015年6月10日 (水)

原田要さんの話(5)紫電改よりも零戦21型が一番だった

零戦二一型(瑞鶴/岩本徹三機)

 
篠原Q、原田さんは海軍のほとんどの飛行機にお乗りになっていますね

 
ええ、雷電や紫電改も乗ったし、みんな乗りました
大型の九六陸攻も乗っています。
 
Q、雷電や紫電改は如何でしたか
 
雷電だめ、紫電改もだめですよ。
ゼロ戦だって52型だの丙型だの、みんなダメですよ。
 
アメリカのB-29には届かない。向こうが1万メートルで
紫電改が後ろにつくとロケットを発動しちゃう。サーっと置いていかれる。
それで最後にB-29に対処するにはこれしかない(秋水の模型を手に取る)
この秋水はロケット機ですから1万メートル迄3分。1万4千メートル迄でも
4分程度で上がっちゃうんです。
それで30ミリを両翼に備えています。
これなら絶対に大丈夫、
B-29なんかへっちゃらだというんです。
 
そのかわりパイロットの養成が大変で、その頃になると、
アメリカの
グラマンが攻撃に来ていたから内地では訓練できないから、
霞ヶ浦から
千歳へ配属になって、パイロットの養成をしなさいと
言われました。
 
Q、プロペラの飛行機で一番良かったのはなんですか
 
プロペラの飛行機で一番良かったと思えるのは私は最終的に
零戦の21型。佐伯航空隊で初めて乗りました。
 
それまで九六式艦上戦闘機だったのですが
この九六戦も堀越さんのグループが開発した戦闘機ですけれど
九六戦は行動半径が短い、攻撃兵器が貧弱でした。
 
Q、ゼロ戦(21型)を佐伯航空隊で初めてご覧になって如何でしたか
 
初めて見た零戦は格好良かったですね。私がこれに乗れるのかと。
九六戦と違って、ゼロ戦は随分大きいという印象を受けました。そして
脚が入ってしまう。骨組みが強化してありますし
翼内から20ミリという強力な
弾が撃てる。加えてプロペラの圏内からは
九六戦と同様に7ミリ7も撃てる。
300リッターの増槽タンクの他に
翼内、胴体に燃料をたくさん積める。10時間
以上飛んで大型機を
掩護できるんです。エンジンはダブル式になっている。
これが出来てね、すごい飛行機だなあ、と思っていたんです。
 
Q、ゼロ戦と九六戦を乗り比べて違いましたか
 
ええ、だから操縦が重くて大変だろうと思って、初めてゼロ戦に乗ってみた。
そうしたら誠に軽い。九六戦より自由がきく。素晴らしい飛行機だなあ、と
思いました。九六戦と全然違う。
 
Q、21型が一番良かったのですね。
 
 
日本の零戦として一番長い間、戦ったのが21型だと思います。
守る、攻める、安心感、三拍子揃っていた。
初恋の飛行機ではないかな。
 
素晴らしい飛行機だなぁ。これがいわゆる一番
武士の気持ちに近い、そのまんま合う飛行機だと思いました。
 
私達はゼロ戦に乗っていれば「絶対に負けないんだ」という自信

持っていました。そして、そのゼロ戦に掩護される爆撃機や
攻撃機も
「ゼロ戦がついているなら大丈夫だ」という安心感がありました。
 
ただ、世界中からどんなに驚かれるような零戦でも最終的には悲劇になる。
アメリカの方もF4FがF6Fに、
どんどん新鋭機が開発される。飛行機だろうが
人間だろうが
最初の功績に甘んじていると大変な事になります。
 
ゼロ戦はその後、エンジンの馬力を上げたり翼を短くしてみたり、排気管を
単排気管にしてみたりと、少しずつ良くはなっているんだけど
21型が一番良かったですね。
 
だから最終的に私が飛龍(※1)から飛び上がったのも21型ですよ。
飛龍の飛行甲板で、最後にひとつ寄せ集めの飛行機ができたんです。
私は飛行長のすぐそばで助手をしていたからすぐお前上がれって言われて
ああ、今頃こんな時に、よく21型あったなと。結局は信頼があったから
最後に寄せ集めの飛行機が21型で出来たんじゃないかなと。
恵まれています。
 
つづく
  
※1飛鷹かも?
 

A4_11

21型と52型の違いについてはこちら
 

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原田要さんの話(1)撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない
原田要さんの話(2)南京攻略とパネー号事件
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原田要さんの話(4)赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴、飛龍への着艦
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2015年6月 9日 (火)

原田要さんの話(4)航空母艦への着艦

蒼龍

 
航空母艦への着艦
赤城も加賀も、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴、みんな一通り
着艦させてもらいました。
 
「赤城」という艦はね、あんまり良い艦じゃないんですよ。
艦尾の気流が乱れて、着艦が難しいんです。それなら幾分
「加賀」の方がいい。赤城も加賀も元々は戦艦を改造した航空母艦ですから
飛行甲板が海面から高いんです。
 
赤城の戦闘機隊は全部を引っ張っていくだけの、司令長官の艦ですから
艦隊の中でも一番の先輩か、部署によっては若いけれども優秀な人が
乗ってましたね。
 
「蒼龍」「飛龍」は元々航空母艦として設計されているから
飛行甲板は割合小さいけれど楽でした。
 
「翔鶴」「瑞鶴」が一番良かったですよ。着艦も非常に楽で良い艦でした。
ですから翔鶴、瑞鶴は、飛行時間の短い人達が乗っていたようです。
 
そうは言っても我々は航空母艦のパイロットですから
あの艦が良いとか
悪いとか言ってられないんです。ただ唯一、夜間着艦は怖い。夜間着艦
だけは最後まで怖かったですね。
 
それと、船だから当然、静かに走ってくれない。波で縦の揺れはしょっちゅうだし
それから横の揺れもしょっちゅう。だけど、揺れはまだいいんですよ。
一番嫌なのはヨーイングといって、母艦が艦尾を振るんですよ。せっかくこう
行って(真っ直ぐ着艦コースに入る)るのにまたこうして真っ直ぐに戻して。
 
戦争の時は、急速着艦と言って連続着艦しなければいけないんです。
その時は、次々降りてくるから、後ろがつかえているし待ってくれないんです。
一機が着艦したら、その飛行機を甲板の前へ出して、遮風柵(しゃふうさく)
というのを上げてしまうんです。後から降りてきたのが失敗したら、遮風柵に
ぶつかるようになってる。甲板の前には着艦した飛行機が一杯たまってるから
そこへぶつかればえらいことになるでしょう。一機を犠牲にしても前を守る。
それを皆こなしているのが、航空母艦の戦闘機パイロットなんです。
 
つづく
 

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※画像は「蒼龍」 模型製作/提供:ラプターさん
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原田要さんの話(3)真珠湾攻撃と亡き戦友の思い出
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2015年6月 8日 (月)

原田要さんの話(3)真珠湾攻撃と亡き戦友の思い出

真珠湾攻撃

  
「蒼龍」へ配属

佐伯航空隊から別府湾内の空母「蒼龍」配属になりました。
我々は艦隊の零戦パイロットだから、航空母艦で発艦、着艦を繰り返す
訓練をするのですが、それで航空母艦へいってみたら臨戦態勢になってる。
それで特に驚いたのが、航空母艦では防寒対策が完全に出来ていた事でした。
まさかハワイに行くとは思ってないですよ。無線も絶対出さないし、北の方を
向いているので、我々はウラジオストクを攻撃する
のかと噂をしていました。
 
幾日か航海して、朝起きたら、湾の周りの山が雪で真っ白なんです。
択捉島単冠でした。それで湾内の艦船が航空母艦だけで6隻。
赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴。日本の当時の全航空母艦ですよ。
その他、日本には鳳翔と龍驤という航空母艦があったけれど
これは北の方へ行っていたから、その時はいませんでしたが。
 
そのほか、陸奥、長門も湾内に待機している。そこで連合艦隊の赤城に
各艦の飛行長とかリーダーの人達が集められて、
これから一番北回りの
寒いところを通って、普段商船が航行している
さらに北の方、商船と
遭遇しないように北回りしてハワイに接近していくと
言うんです。
 
日本はABCD包囲網で今後、やっていけなくなるだろう。そしてアメリカの方は
それを推し進めなければならないんだと。来栖、野村大使が交渉しているが
おそらく99、99%、交渉決裂
するだろう。そうしたら卑怯なようだけれども
12月8日、宣戦布告をして
我々航空艦隊がハワイ攻撃をやると。
 
直掩戦闘機隊へ
真珠湾攻撃で私は真っ先にハワイ空襲に飛び出すメンバーに入っていると
当然思っていました。ところが艦隊の上を守れというので、おかしいな、蒼龍
戦闘機隊の下士官とすれば年功も一番古い方だし、実戦では中国で1年も前に
飛んでいる。それを艦隊に置いて若いパイロットを皆連れて行くというので、変だな
と思ってね、隊長の菅波政治大尉に「おかしいじゃないですか」
と言ったんですよ。
 
そしたら菅波隊長は
「君、そういうけれどもこれは奇襲作戦といって、向こうがなる
べく知らないうちに
叩くんだから、敵の飛行機の空襲はなるべく避けるような
作戦計画をしてあるが、
でも向こうだって、ちゃんと計算してるから我々の艦隊が
空襲を受ける場合がある。
そのときに艦隊が傷ついてしまえば、せっかくこれだけ
隠密に行っても何にも
ならないんだから、各艦で下士官の一番ベテランを
艦隊護衛に残すから、そういう
連中と協力して艦隊を守ってくれ」と言うんです。
 
そう言われたら、私もなるほどね、と思いました。確かに、他にも各艦から
戦闘機隊の小隊長を二人くらいずつ
古いのが護衛で残ってる。護衛戦闘機隊は
三交代で飛ぶんです。私が一番最初に
2機連れて飛び上がる。するとその次の
小隊長がまた
2機連れて飛び上がる。だからもし敵が来れば各艦から9機ずつ
もう上空にいるわけ。そうするとね、ある程度艦隊を守れるということでした。
 
真珠湾攻撃当日
12月8日、私たちは戦闘機隊で一番軽いから、航空母艦の一番前から
発艦しました。それから一次攻撃隊が戦闘機、艦爆、艦攻隊とその後から
発艦して行く。どっちみち敵が来るならハワイの方向から来るだろうから
ある程度一緒に行って送ってそれで旋回して
 
篠原Q:途中まで行って艦攻隊を見送ったのですね。
 
ええ、どうせ敵が来るんだとすればハワイから来るんですから
そっち行っていれば早いでしょう。だからある程度向こうへ一緒に
ついて行って送って、だけどあんまり向こうへ行っちゃうと
今度はこっちの艦隊が無防備になっちゃうから。
 
自分でも攻撃に参加したいという気持ちで途中まで一緒に行った。
行ったけれども、いや、しようがねえなと(旋回
それで3回も飛んで。どうやら敵の攻撃は全然なかったんだけれども
 
Q、見送った艦攻隊に村田重治少佐の機もあったのですね。
 
ええ、村田さんという人は私の教官で、真珠湾では3人乗りの
九七式艦上攻撃機の雷撃隊の隊長でした。この魚雷投下が非常に難しい。
ハワイの真珠湾へ入って行くには山を越していかなければならない。
山を越して急降下してくそれで降りてそのままの姿勢で魚雷を落とすと
魚雷が海底へ突き刺さってしまう。そこから機体を水平に引き起こして
雷撃しないといけないので、非常に難しいんです。
 
攻撃隊の帰艦
第一次攻撃隊ではほとんど被害が無くて、第二次攻撃隊では
戦闘機隊と艦爆も艦攻も被害はありましたが、軽微でした。
 
私達が一番辛かったのは、第一次攻撃から帰ってきた人たちが
被害が殆ど被害が無くて、彼らも嬉しかったんでしょう。
盛んに手柄話をするわけです。自分の狙った弾が命中した、あるいは
魚雷がちょうど戦艦の横腹へぶつかって炸裂したとか言って。
艦のほうでも「よくやったよくやった」といって早速一杯飲んでお祝いしていました。
 
ところがですよ、私達が一番心配したのが、航空母艦の連中は自分の
航空母艦というものの強さを知っている。その航空母艦がハワイの軍港に
一隻も居なかったというのを聞いて「これはえらいことだな」と感じました。
日本が持っている以上にアメリカの持っている航空母艦が一隻も無い
という事は、隠してる、もしくは余所へやってるということでしょう。
だから将来はこれは航空母艦の戦いになるだろうと、そういうことまで
心配したんですが・・・。
  
爆撃の名手、金井昇一飛曹
それともうひとつは蒼龍の爆撃機隊。
阿部大尉の水平爆撃隊がありました。それに私より一年後輩の金井昇という
長野市の人ですよ。爆撃の名手が居ました。
4000メートルから800キロの
爆弾をみんな命中させた。
だからね、あれだけの効果があったんだそうです。
 
※1
 
Q、金井さんは蒼龍では隣り同士の戦友ですね。
 
ええ、金井君は「戦艦を狙え」と言われていたそうです。
何故かというと、爆弾は通常、落ちた瞬間に炸裂するような信管を
使うんだけれども、これが戦艦の場合は一番上の甲板で
爆発しても致命傷に
ならないから、なるべく中へ入って行って
爆弾庫のあるところで破裂するように、
信管を遅れさせて炸裂
するよう調整するんです。
 
Q、その作業は金井さんが自らやるのですか
 
そうですね。何秒遅らせれば一番効果があるか
やっていましたね。
水平爆撃の日本の金井なんです。操縦の人は佐藤治尾さんといって
准士官、兵隊あがりで。だからね結局はね、日本海軍のパイロットと
いって爆弾を落としたり、それから魚雷を離したり一番活躍の実力を
持っていたのが下士官なんです。
 
Q、藤田怡与蔵さんの思い出はありますか
 
藤田怡与蔵さんという人は、あの人もちょっと変わってるんです。
生まれは満州、中国なんです。それで海兵へ入学したんです。
ところがね、その頃、日本から大陸へ渡った人たちは中国人を使って
贅沢な生活をしてたんです。だから誠に大陸的でね。のんびりした人なんです。
 
だからね、海兵出なんだけれども
全然海兵出のようじゃない。技術も我々から
見ると誠にお粗末で、海兵出のほうはピリピリしてるの。
ところが藤田さんは
大陸的で鷹揚なんです。藤田さんの2番機3番機
に高橋と岡本という下士官が
着いた。
高橋というのが私の後輩で、岡本というのがまた下の後輩なんですが
二人とも自分の小隊長の藤田さんを全然信用しないんです。
 
藤田怡与蔵(いよぞう)さんていうんですがね、読み方によっては
「ごようぞう」って読んじゃうんですよね。ごよさん、ごよさんって言ってね。
また本人も、俺はこれ(操縦の仕草)ダメなんだと言っていました。
飯田房太さんが蒼龍戦闘機隊の分隊長で分隊士が藤田さんでした。
飯田さんは海兵出のトップクラス頭の切れる人なんですがその下にいる
藤田さんが、誠にのんびりで戦闘機隊では
ごよさん、ごよさんって私らも言ってね。
またついていく高橋と岡本も、うちの小隊長はてんでコレだめだからと。
 
そのかわり人間的には良い人でした。とっても穏やかで人間的で
最高の人間だと。部下は喜んでましたね。
 
※2
 
Q,飯田房太さんについて聞かせてください
 
飯田さんとは蒼龍で一緒になりました。飯田さんという人は、お姉さんが
苦労して兵学校
出させてもらったんです。
 
飯田さん自身はハワイへ行ったら半分は帰れないだろうと、自分で考えて
いたようです。ハワイ攻撃で、もし燃料タンクに銃弾を
受けて帰れる見込みが
無くなったら、俺は自爆するよと、藤田分隊士に
皆任せるからまとめて帰れと、
事前に何度も申し合わせていたそうです。
 
凄い人でしたよ。将来の長官クラス。長生きすれば連合艦隊司令長官だったかも
しれません。
水上機出身で、優秀だからと戦闘機に引っぱられてきたようです。
戦闘機隊は水上機出身を余所者扱いするようなところがあったのですが
飯田さんは技量も素晴らしいし、立派な人でした。
だから部下で飯田大尉を嫌だっていう人は居ませんでしたよ。
とても優しいね、思い遣りのある人でしたよ。
惜しい人でした。
 
※3 

つづく
 

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原田要さんの話(1)撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない
原田要さんの話(2)南京攻略とパネー号事件
原田要さんの話(3)真珠湾攻撃と亡き戦友の思い出
原田要さんの話(4)赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴、飛龍への着艦
原田要さんの話(5)零戦、紫電改、様々な飛行機に乗ってみて
原田要さんの話(6)関行男大尉の教官を務める
原田要さんの話(7)元ゼロ戦パイロットとして平和の大切さを訴え続ける

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※1、金井昇一飛曹
長野県出身。
爆撃の名手と名高い。蒼龍では格納庫の九七艦攻に乗り込み爆撃の
シミュレーションを行う姿が目撃されているほか、原田氏によれば
寝床まで照準器を持ち込んで研究を重ねていたという。真珠湾攻撃では
九七艦攻に搭乗し水平爆撃を行った。操縦の佐藤治尾とペアで息が
ピッタリ合っており、蒼龍艦長も「蒼龍には世界一の爆撃手が居る」と
誇りにしていたが、ウェーキ攻略で米戦闘機の奇襲を受け戦死した。
 
※2、藤田怡与蔵中尉
大分県出身。大正6年生まれ。海兵66期。
真珠湾攻撃で初陣。第二次制空隊、飯田房田大尉の分隊士として
参加した。飯田大尉の自爆ののち、戦闘機隊の帰艦を引き継いだ。
本土帰還後大尉に進級し、ダーウィン、コロンボ空襲、ミッドウェイ海戦に
参加し生還。飛鷹分隊長となり、ガダルカナル航空戦に参加した。
内地へ帰還後、築城航空隊、次いで第301海軍航空隊へ転属となって
飛行隊長を務め硫黄島防空戦、のち341海軍航空隊では比島で
戦い、本土へ後退、終戦を迎える。戦後初のジャンボジェット機長として
活躍した。
 
※3、飯田房太大尉
山口県出身。大正2年生まれ。海兵62期。
真珠湾攻撃では蒼龍戦闘機隊、分隊長。
燃料タンクへの被弾により、米飛行場へ自爆戦死。
アメリカ軍が飯田大尉の勇敢さを讃え、遺体を埋葬した逸話が有名。
  
零戦フリー画像 
 

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あ行 赤松貞明板谷茂指宿正信岩城芳雄岩本徹三江馬友一尾崎伸也
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さ行 重松康弘新郷英城杉田庄一

た行 玉井浅一田中民穂粒針靖弘富安俊助
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2015年6月 6日 (土)

原田要さんの話(2)南京攻略とパネー号事件

揚子江

以下、原田要さんの回想
 
昭和12年の初め、私達は佐伯航空隊で訓練中でした。

その頃、脇坂部隊というのが広州湾に敵前上陸して南京向けて
進んで行くんだと聞きました。私達は延長教育といって
相生高秀さん(戦後海上自衛隊で艦隊司令)の部下で訓練をやっていまして
飛行時間は300時間しかなかったんです。実戦で使うには500時間が
必要なので、まだ早いんですけど、
九五式艦上戦闘機で敵前上陸の掩護を
したいから、
佐伯航空隊から若いパイロットをよこせと言ってきたんです。
そこで訓練しながら500時間にすればいいということで連れていかれたんです。
 
60キロの爆弾を両翼にひとつずつ吊り下げて、プロペラの間から
7ミリ7を撃ちながら掩護してずーっと1年間やってきて昭和12年の
終わり頃にようやく南京まで辿り着いて、ところが南京の光華門と
太平門というのが、まあ凄い頑強で。脇坂部隊がどうしても入っていけない。
それで常州といってね、すぐそばに前進基地を作ってそこへ我々が行って
もう朝から晩まで城壁を爆弾と銃撃。これをやったらどうやら脇坂部隊が
中へ突入できたと。
 
そしたら南京の中に居た敵の大部隊が南京を捨てちゃって
重慶へ逃げるんです。揚子江の波止場から小さい船でみんな逃げて行くので
今度はそれを我々と、村田重治さんをはじめ潮田良平大尉、
そういう人たちが
指揮官になって、これを沈めちゃった。
 
そしたらその中にアメリカのパネー号※とイギリスの輸送船も入ってた。
だけど
そんな事こっちは構わねえもの、我々がやっちゃったから(爆撃)
そこで村田さんも潮田さんも責任者はみんな降格になって、我々下士官も
内地へ帰されました。
 
南京攻略とパネー号爆撃のときは九五式艦上戦闘機に乗っていました。
十二航空隊は九五式艦上戦闘機で十三航空隊は九六式艦上戦闘機です。
私が九六式艦上戦闘機に乗ったのは内地へ帰ってきて大村の航空隊で
教官をするときでした。その頃にはもう我々ベテランですからね。
 
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つづく
 

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原田要さんの話(1)撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない
原田要さんの話(2)南京攻略とパネー号事件
原田要さんの話(3)真珠湾攻撃と亡き戦友の思い出
原田要さんの話(4)赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴、飛龍への着艦
原田要さんの話(5)零戦、紫電改、様々な飛行機に乗ってみて
原田要さんの話(6)関行男大尉の教官を務める
原田要さんの話(7)元ゼロ戦パイロットとして平和の大切さを訴え続ける

 
※「パネー号事件」篠原補足
当時、第三国であるアメリカの船「パネー号」を日本海軍の飛行隊が爆撃して
しまったため国際問題となった事件。アメリカ側はパネー号にアメリカ国旗を
掲げていたと主張したが、爆弾を命中させた原田氏はこれを否定し
「我々戦闘機隊が一番接近したが、アメリカ国旗などどこにもなかった」
と記している。結局、日本側は誤爆事件として認め、アメリカ側に賠償金を
支払う形で決着したが、後に「爆弾を落とされる前に国旗を広げようとした」
とアメリカ側は見解を改めた。海軍搭乗員は誤爆の責任を取る形で
内地へ帰されたが、表向きの処置でありその後、責任を負わされるような事は
なかったという。
 
※画像は揚子江

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2015年6月 4日 (木)

原田要さんの話(1)撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない

ホーカー ハリケーン(Hawker Hurricane)

 
今月は元ゼロ戦搭乗員で空母「蒼龍」に乗組み、真珠湾作戦に
参加した原田要さん(98)に
個人的にインタビューする機会に恵まれました。
4年ほど前から出版社宛に何度か手紙を書いて打診はしていたのですが
縁あって念願が叶いました。
 

原田さんは著書を読んだ内容から想像していた通り、とてもお優しい方で
またユーモアもあり素晴らしいお人柄の方でした。
 
原田さんに伺った内容を何回かに分けて書くことにします。
ゼロ戦での本格的空戦の回想に入る前に、原田さんの平和に対する

願いを是非とも書いておかねばなりません。
 
以下、原田さんのお話 
 
今年は戦後70年でね、
私のスケジュールを見たら6月、7月と取材が随分入っているんです。
8月に入ると今度は放送ということですけれども
 
◆忘れようとした戦争の記憶 
戦争の話は、嫌なんですけれども、
それまで私は忘れようと思って忘れよう、忘れよう、としてたもんですから
なるべく人には喋らなかったんです。
 
1991年の湾岸戦争で、あのとき若い人たちが、テレビでミサイルを
打ち上げるのを見て、
面白いだとか、花火のようだとか、ゲームみたいだと
感想を言っているのを知って、私は「これはえらいことになるんではないか」と

感じて、戦争だけは絶対に駄目なんだと、戦争で経験したことを話すように
なりました。
 
我々が子供の頃はロシアという大きな国と戦って辛くも勝ちはしましたけれども
それを毎日、従軍した年寄りから聞いていたから、まるで「戦は男の働き場所」
のように受け取っちゃったんです。
 
あのころは日本の男子は20歳になったら兵役という義務があったから
そんならいっそのこと、17歳で志願で軍隊に行ってしまってずっと軍隊で
使ってもらって、
もし戦争でもあったら真っ先に飛んで行って自分の命を捧げると、
簡単にいうと、子供の頃はそういう気持ちでした。
 
◆国に尽くした誇りと表裏一体の罪悪感
私の海軍での生活は12年と8ヶ月、滞空時間は8,000時間です。※1
子供の命から12年8ヶ月も「お国の為に私の命を使って下さい」という気持ちで
私利私欲を捨てて働いた期間です。だから自分とすればこれ程までにお国の為に
一生を捧げた人間はいないというプライドと自信と誇りを持っています。
 
私は純粋にお国に尽くしたいつもりで一生懸命にやったんだけれども
それが裏側では恐ろしい殺人ロボットになってしまっていたんです。
これを、そういう風にさせるのが戦争なんだと。中には私が自分の戦ったことを
誇らしげに喋ってると、誤解する人も
必ず世の中には居ますけれども、そういう
人はそういう人でいいと
思っています。
 
8,000時間※1という滞空記録でゼロ戦のコックピットから戦争の実態というものを
ずっと見て来て、また後輩の指導をする為に飛んで、これも戦争の一部ですから
敵のパイロットを盛んに殺めた。何の恨みも無い、同じ人間ですよ。どちらかが
命を落とさなければならないのが戦争。本当に恥ずかしいことです。
そんな多くの人を殺してきた私が、今こんなに幸せでいいのか罪悪の
気持ちでいっぱいです。
 
だから戦争ほど罪深いものはない。戦争というのは絶対にいけない。
何が何でも避けなければならないんです。
勝った方も負けた方も不幸になる。
これを喋り通して一生を終ろうと決めたわけです。
 
◆南京攻略戦から真珠湾~ミッドウェイ~ガダルカナル
私は昭和12年の南京攻略に九六式艦戦で初陣して、その後は零戦で真珠湾、
コロンボ、ミッドウェイ、ガダルカナル、終戦まで内地で飛んでいました。
その中で4回、もうだめだと思ったことがあります。教官もやっておりましたから
海軍の飛行機はほとんど乗りました。雷電や紫電改、
大きな九六陸攻にも
乗ったことがありますよ。でも零戦の二一型が一番いいですね。
紫電改?いや、だめだめ(笑)零戦のね、二一型が一番良い。佐伯で
はじめて零戦と対面して、なんと美しい、性能も抜群で
素晴らしい飛行機だと私は瞬く間に恋をしたわけです。
 
さきほども申し上げました通り、私は12年8か月、軍隊に身を捧げてきました。 
ところが、それだけの期間、戦って相手が「もうやめてくれ、助けてくれ」と
逃げてくのを追いかけて、いや、俺がお前をやらなければ俺がやられてしまうんだ
ということで、何人の敵を、尊い命を殺めたかわかりません。
 
◆撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない
グラマンがね、だいたい600キロ近いスピードで逃げる。
それを追いかけてこっちが550キロ。
580を超せば自分の飛行機が空中分解する恐れがあるから
この7ミリ7で頭を押さえて敵機を蛇行させる。
(敵機は弾を回避しようと旋回を繰り返すので、まっすぐ飛べない)
20ミリと7ミリ7では200メートルで一点に合うように調整してある。
ところが200メートルもむこうの照準をしたのでは
なかなか当たらないんです。
 
いよいよ20ミリを撃つ時は60発と、
ちょっとだけで終わっちゃうから。
100メーター以下になったときに照準器がいらないくらい近付いて行って
そうすると60発でも10発くらいバババッと撃つとね
相手がダーンと(撃破され失速する仕草)それをね、今度は避けるでしょ。
カツカツなんですよ。まごつけばぶつかっちゃうから。
 
ところがね、5メーター、10メーターまで寄って撃墜した敵を避ける。
相手が苦しそうな顔をして、うらめしそうな顔をして見るんです。
その顔がね、いまだに頭の中に残ってる。
 
で、中にはね、私に張り付かれて撃たれそうになると
「勘弁してくれや、命だけは助けてくれ、撃たんでくれや」って、
そういう哀願する姿も
見えるんですよ。でもそんなこといったってこっちが
撃たなければやられちゃんんだから、
自分で人殺ししたいんじゃないんだけれど
あのパイロットの顔は、もうずっと忘れられないですね。
 
※1、実際は2000時間くらいとの説が有力
 
-----つづく-----
 

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証言者プロフィール
原田 要(はらだ かなめ)
長野県出身、大正5年8月11日生まれ(98歳)
昭和8年、17歳で海軍を志願し横須賀海兵団へ水兵として
入団。駆逐艦「潮」乗り組み。憧れだったパイロットを志すも父の反対で
一度はその道を諦めたが、空母「鳳翔」で
飛行機に関わることのできる
兵器員を務める。その後今度は
反対を押し切り操縦練習生(操練)35期の
試験に合格。訓練ののち、
主席で卒業、
 
昭和12年の支那事変勃発後は
第十二航空隊で中支戦線(揚子江と黄河に
挟まれた戦域)に出動。
南京攻略作戦で初陣。九五式艦上戦闘機で
攻撃隊の援護および
南京城壁の爆撃を敢行。内地へ帰還した後、
佐伯航空隊で零式艦上戦闘機(ゼロ戦)をはじめて目の当たりにし
その美しさと性能に心から惚れ込んだ。
 
昭和16年、空母「蒼龍」乗り組みとなり、佐伯から択捉島単冠を経てハワイ
真珠湾攻撃へ参加。
翌17年6月のミッドウェイ海戦では直掩隊として機動
部隊の護衛任務につき米雷撃隊と交戦。
蒼龍沈没後は「飛龍」に着艦し
飛龍搭載の零戦に乗り換え
再び発進した。機動部隊の壊滅により着艦が
不可能となり海上へ不時着。
自決を決意するも、拳銃を飛龍発艦時に置き
忘れたためこれを果たせず
4時間漂流の末運よく駆逐艦「巻雲」に救助される。
このとき、飛龍に接舷した
巻雲艦上で山口多門少将と加来止男艦長の
最期を目撃している。
 
内地へ帰還しおよそ一ヶ月の軟禁生活ののち空母「飛鷹」乗り組みとなり
同年10月、ガダルカナル島上空でグラマン機と空戦。双方真正面からの
打ち合いで相撃ちとなり
ジャングルへ不時着、瀕死の重傷を負うも自力で
友軍陣地へ辿り着き、命を繋いだ。内地への帰還を待つ間マラリアに感染し
また多くの陸軍
兵士の死と直面する。
 
重傷の後遺症も癒えぬまま、霞ヶ浦航空隊で教官を命じられる。この間、
関行男大尉の教官も務めた。その後は
「秋水」の教官として千歳海軍航空隊へ
赴き搭乗員要請にあたる。
海軍中尉として終戦を迎える。
 
同期には片翼帰還で有名な樫村寛一、
後輩に坂井三郎、西澤廣義、岩本徹三などが居る。

※岩本徹三、海軍では先輩であったが操練では岩本が34期にあたる。
坂井三郎は三期後輩で原田と同い年であった。
 
※参考画像は英イギリス空軍戦闘機「ホーカーハリケーン」原田氏はコロンボ上空の空戦で
この機体と戦った。
 
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あ行 赤松貞明板谷茂指宿正信岩城芳雄岩本徹三江馬友一尾崎伸也
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2015年6月 3日 (水)

最後の真珠湾証言

今日は「蒼龍」零戦隊で真珠湾攻撃に参加した
元零戦搭乗員の方のお話を伺ってきました。
 
坂井三郎氏の先輩でもあるこの方は南京攻略で実戦参加し
総滞空時間は8000時間、真珠湾攻撃の戦闘機隊でこうしてお元気で
お話が聞ける最後の一人だと思います。今度の8月で99歳になります。
 
戦友との思い出のほか、空中戦の話になると
「敵機の追従に入り、5~10メートルまで接近したとき、敵搭乗員の許しを
乞うような目が忘れられない。それでも戦争だから私は引き金を引いた」
と語ってくれた話が特に印象的でした。
 
昭和18年以降は教官として海軍ではほとんどの飛行機に乗ったそうです。
「紫電改も雷電もダメだ。零戦二一型が一番良い」と仰っていました。
ここに書ききれないのでまたこのブログで詳しく書きます。