2013年4月16日 (火)

茨城県護国神社参拝

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本日は水戸市の茨城県護国神社へ参拝しました。
本殿では、慰霊祭が行われ「同期の桜」が演奏されていました。
 
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東日本大震災のさい、この大鳥居は倒壊せず健在でしたが
石の接合部に隙間が出来てしまいました。
土台も大きな亀裂が入りました。
 
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こちらはペリリュー島の慰霊碑です。
左右の石灯籠が倒壊し、転がりました。石段の一段目にその跡があります。
周囲の柱と柵も破壊されたため、応急的に物干し竿で補修しました。
 
 
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そのほかの慰霊碑なども大きなダメージを受けました。
よく見ると多くの修復跡に気付きます。

2013年3月10日 (日)

ペリリュー島の台風被害

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被害甚大です。二月中旬に渡航した仲間が写真を撮ってきてくれました。
島南端の平和記念公園の様子です。この場所のみ外洋に面しており
高潮による被害が甚大です。巨木すら根元からもぎ取られ流されていまっています。
さらに島内道路の各所が倒木により寸断された箇所が多く
慰霊碑の修理は厚生省の管轄ですが道路は管轄外です。
重機すら無いこの島ですから復旧のめどが立たない状況です。
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台風は島の東から接近し、北部の州事務所は30センチ冠水。ケイボーストアと
マユミインはキッチンと食堂の屋根が全て吹き飛ばされており、修復中です。
内陸部のジャングルも木々が倒れており歩行困難。
中山の東側は特にひどいものでした。
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島民は日本軍が築いた強固な洞窟へ避難していました。
今回幸いだったのはパラオにおいては人的被害が皆無だったことです。
(この台風はパラオからフィリピンへ進み、1800名以上の死者行方不明者が出ました)
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全てを外洋に囲まれたアンガウル島はさらに被害甚大
壊滅的との報告も入っています。

2012年9月25日 (火)

パラオの彗星/墜落現場へ~永元俊幸大尉

パラオの彗星

パラオには手付かずの戦跡がまだ多く残っています。 
あの戦争が終わって56年、誰の目にも触れず
ジャングルの中で眠り続けていた日本の飛行機がありました。
 
発見の経緯はコウモリハンター(パラオではコウモリを料理にします) が
コウモリを追っている最中の出来事でした。
後の調査により機体の搭乗員が判明し、2000年3月12日の読売新聞に
『密林に眠る彗星墜落の旧海軍機56年ぶりパラオで発見』 と題した記事が
大きなカラー写真と共に紙面を飾った経緯があり テレビでも報道され
大きな話題となりました。

彗星の銘板

 
製造されて、70年になるというのにアルミニウムは
朽ちることなく残っています。機体は海軍の「彗星」でした。
正確には「彗星/二式艦上偵察機」彗星艦爆のプロトタイプで
爆弾の代わりにカメラを備え付けた偵察機仕様の機体です。
 
この銘板と尾翼にマーキングされた数字が手掛かりとなりました。
第121海軍航空隊、通称「雉」部隊。機体はその「雉13号機」
搭乗員は永元俊幸大尉(山口県出身/23歳)と判明しました。
あれから10年、現地へ足を運ぶことが困難なこともあり、充分な
調査がされないまま 現在に至ります。私は後の為にも緯度経度だけ
でも記録しておく必要があると思い立ち 現地調査の段取りを整えました。
 
パラオ人の漁師に頼み、漁船を一日チャーター。発見者で位置を知る、
唯一の人物であるコウモリハンターを探し出し同行してもらいました。
 
墜落地点のウルクタープル島はコロールからは40分~1時間ほど
かかります。 島には砂浜が無く、切り立った岩場のみで、上陸が極めて
困難です。 それでも満潮時を狙い、せり出した木の幹に足をかけて
海に落ちそうになりながらも 無事、這い上がりました。

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さらにそこから山頂付近を目指して登ります。 直線距離にすると僅か
200メートルほど(標高60m程度)ですが 急斜面を真っ直ぐ進む事は
できませんので、道を探りながらジグザグに登ります。 僅かな距離でしたが
40分~1時間ほどかかってようやく到着します。 現場もやはり急斜面で
足場が悪くバランスを保って立っているのがやっとの状態でした。
 

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到着しました。
山頂近くに眠る永元大尉乗機「彗星/二式艦上偵察機」です。
  

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機体は墜落の衝撃で、大破四散し、唯一、尾翼の形を認める程度ですが
炎上しなかった為に、個々の部品の保存状態は良好で、そこから
当時の様子を知ることができます。現場からは大尉の軍刀も発見されました。
搭乗員の多くはコンパスが狂うという理由で軍刀を機内に持ち込むことを
嫌うのですが なぜこの日に限って携えていたのか、不可解な点が残ります。
 

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私がこの現場で見つけて一番印象に残っているものは
風防ガラス(アクリル)でした。 多くは曇っていましたが、綺麗なものも残っており
付着していた土を擦って落とし 、透かしてみると、向こう側が鮮明に見えました。
約70年前に製造されたものです。同じようにこのガラス越しに、永元大尉は
どんな空を見ていたのかと思いを馳せました。
 

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第61戦隊121空ペリリュー派遣隊の永元大尉は、上陸戦が始まる前の
6月18日、ガドブス島に残っていた最後のゼロ戦隊を率いて
グアム上空へ誘導、ゼロ戦隊は全機未帰還。
彗星搭乗の永元大尉ひとり生き残り、グアム上空の強行偵察をした後、
帰還の途につきました。
 
ところが機体はペリリューの飛行場へ降りる直前で燃料が
尽きてここへ墜落したと 推測されています。飛行機から見ればペリリューは
目と鼻の先です。 もう少しだけ燃料が残っていたら、高度をとっていたら、
帰還できたかもしれない あるいは新型機の「彩雲」があてがわれていたなら・・・
様々な仮定が過りますが
 
私は飛行機を見る度、倉田洋二先生(アンガウル玉砕戦の生存者)のお話で
印象に残っているものがあり それを思い出します。
 
「僕らは一銭五厘で集められて、ジャングルの中で餓死する。助けも来ない。
だけど飛行機が不時着するとどんなに遠くでも搭乗員を助けに行く。
飛行機乗りはいいなぁ・・・なんてみんな言ってたけど、それは死ぬまで
使われるってことじゃないか」
 
ここで命を繋いだとしても次はなかったのではないでしょうか。
 

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10年前の慰霊と収容作業で大尉のご遺骨はこのコクピット付近から
脊椎骨2個のみを回収したのみでした。 まだ残っているかもしれませんが、
現場の調査は極めて困難です。
 
私はGPS機器で位置を計測し、一通り写真を撮りました。
そういえば、帰るときの方が大変だったのを、すっかり忘れていました。
こういった不安定な場所では、必ず、手と足4本ある内の3本を固定して
残りの一本のみを動かして移動するよう心がけます。
 
今度は崖の上からボートに降りなければなりません。
なんとか海に落っこちずに済みました。
 

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遠くのほうを観光客を乗せたスピードボートが走っていきます。
やがてうねりがやってきて 停まっているこちらのボートを揺らします。
ボートの上でリゾートを楽しむ観光客 その様子から戦争は遠い日の
ものとなってしまったのだろうか、と思いました。
 
この彗星(二式艦偵)は流線型をしたとても綺麗な飛行機で
復元された同型の機体が靖国神社の遊就館に保存されており、
見学することができます。
 

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※戦記でも名高い121航空隊、通称「雉」強行偵察部隊です。
彩雲でメジェロ強行偵察し、敵戦闘機に襲われるも それを振り切り
「我に追いつくグラマン無し」と打電したことで有名な部隊です。
 

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

2012年9月 9日 (日)

ガドブス島を飛び立った第263海軍航空隊(豹)のエースたち

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ペリリュー島のすぐ近くにガドブスという島があります。

このM4戦車は米軍がここを占領した後、
「日本兵が再び攻めてこないよう、威嚇の意味で海に砲塔を向け置いた」
という理由で今でもガドブスに眠っています。

現在ここは無人島ですが、かつてはペリリュー島と橋で繋がって
おりました。ガドブス島には1000メートルの滑走路があり
主にここで零戦を運用していました。橋は破壊されてしまいましたが
橋脚だけは残っています。ペリリュー側の水戸山麓あたりから望む
橋脚跡です。

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私は島民のローレンスさんにお願いして、小型船に乗せてもらいガドブス島への
上陸を果たしました。大潮の時期、丘ガニが多く現れそれに伴いガドブス島へも
漁に行くというので一緒に連れて行ってもらったのです。子供たちも一緒です。

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オカガニを次々に捕まえては袋に入れて行きます。(ちなみにこれはオス)
これをコロールへ卸すわけです。このオカガニはコロールのホテルや
レストランで美味しく頂けるのはもちろんですが高いので
ここペリリューまで来るとかなり安価で食べることができます。
自分もそれにならってカニを捕まえようとしたら
「手がかゆくなるから触ったらダメよ!」と言われました。
あなた方は素手でボンボン捕まえて袋に放り込んでいくじゃないですか。
※島民以外の漁は禁止されています

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横道に逸れました。これがガドブス島の内部です。
「ここが滑走路があった辺りよ」と言われましたが・・・
現在はジャングルに戻っていて、平坦だった頃の想像がつきません。
トーチカの中をくぐる双子ちゃんズ。

手に持っているのは海軍さんの薬缶(やかん)です。この写真を後で先生にお見せしたら
「おお、海軍さんの薬缶だ」と仰ったので、陸軍は使わないのですかと尋ねたら
「陸軍は薬缶なんかつかないよ」と一蹴。よく考えればそうですよね。
当時としては貴重なアルミ製。

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島の東側はマングローブの森で、足をとられほとんど進むことはできません。

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これはモクマオウの木。お化けみたいですが。
その下はモクマオウの根元にツカツクリが巣を作った様子です。
ツカツクリは飛べない鳥で、その代り足が発達し、大きな後ろ足で土を
盛り上げて巣を作ります。

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これは飛行場の守備に使った機関砲です。
「ダダダダダダ!」っと言って遊ぶ双子ちゃんズ。
下は海軍の12糎高角砲。

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パンの実を投げて遊ぶ。くどいようですがもともと飛行場です。島内は
爆撃で方々に大きな穴が空いて」水が溜まっています。クレーターのようです。


以下は、このガドブス飛行場から発進した第263海軍航空隊の記録です。
3月31日のパラオ大空襲で吉田飛行士や指宿大尉の所属する261空と201空
とともに敵機動部隊の大編隊を邀撃した航空隊で
通称「豹」ヒョウ部隊のエースの方々です。

昭和19年3月31日天候薄曇り
第263海軍航空隊(重松大尉指揮)

一、G(陸上)基地零戦延べ12機上空哨戒
二、ペリリュー基地 0645敵戦斗機邀撃

(一)零戦20機(2機発動機故障引き返す)
ペリリュー260度にて集結 敵F6F戦斗機群またSBD艦爆群と
交戦F6F 5機撃墜

(二)指揮官機15機
(三)零戦2機 敵戦斗機襲撃により2機炎上1機大破

第263海軍航空隊未帰還者名はこちら

2012年9月 6日 (木)

最後に飛び立った滑走路へ(ペリリュー飛行場)

さて、テレビでは放送しませんでしたが
パラオではご遺族をペリリュー島の戦跡にも案内致しました。
その中でも是非ともお連れしたかったのがこちらです。

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「久光おじさんが最後に飛び立った場所でお参りして行こう」

ペリリュー基地の滑走路です。大部分がジャングルに帰しましたが
現在も滑走路一本が辛うじて残っています。
ご遺族の方々はここでも手を合わせいました。

帰国してから、ご遺骨の行方を調べる日々です。ご遺骨は不時着地点の近くに
一度仮埋葬された後、掘り起こされて、身元不明のままガスパンの慰霊碑に
移されました。島民によるとエプソン大統領の時代、日本と結ばれた
遺骨帰還事業で身元不明のまま日本へ帰ったということです。

現地で調査しましたが、当時の記録が残っておらず、受け取った側つまり
日本の厚生省頼みとなりました。現在、ご遺族とともに調査を進めております。
援護局の職員さんがテレビをご覧になっていたらしく、話もうまく進み
とても丁寧に対応してくださっています。

以下は私の現在の推測と今後の展望ですが、身元不明のまま最終的には
千鳥ヶ淵へ行き着いたのではないかと考えております。

ご遺族の気持ちとしては最終的に埋葬された場所へお参りすることなのです。
今回のパラオ旅行の前にも、お墓にお骨が無いので、代わりにせめて
ゼロ戦の小さな部品か現場の石ころだけでも持って帰りたいという
お申し出がありましたが、これはパラオの法に触れてしまいますので
断腸の思いでお断りしなければなりませんでした。
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2012年8月13日 (月)

誇り高きサムライここに眠る パラオの零戦

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パイロットの調査
ここはパラオ本島中部(現在のアルモノグイ州)
翼を横たえて眠る零式戦闘機、その経緯は長らく不明であったが
ここに記す出来事から68年を数えた今、ようやく概要が明らかとなった。
 
機体は第261海軍航空隊所属 吉田久光(上等飛行兵)と判明した。
長崎県現在の島原市出身、19歳。
 
1944年(昭和19年)3月31日のパラオ大空襲で米機動部隊の艦載機F6Fが
150機以上が来襲。 第261海軍航空隊(通称虎)指宿正信大尉指揮する戦闘
機隊の 零式戦闘機28機がペリリュー基地より邀撃。 この日の編成で、第一中
隊三小隊四番機として出撃したのが吉田上飛兵で、吉田機は空戦により未帰還
となっている。
 
不時着を目撃した住民の証言
島民の証言を照合すると、機体は被弾した後、旋回しながら降下、不時着した。
三名の島民と日本軍人、朝鮮人軍属(いずれも人数不明)が現場に急行したが
機体は間もなく、爆発炎上した。 操縦席から搭乗員を救出し、手当を試みたが、
重度の全身火傷と外傷により 間もなく息を引き取った。
 
遺体は島民の手により機体近辺に埋葬された。
島民は戦後もこの出来事を忘れず
「ヨシダの遺骨を日本へ帰してやりたい」と言っていたことから
篠原が調査に着手、平成24年8月、不時着から68年を経てようやく
概要が判明、遺族による迎えが実現した。
 
261空は原隊を鹿児島に置く、サイパン基地進出中の航空隊。
3月30日パラオ空襲を受け(パラオ近海へ展開中の米機動部隊へ攻撃の
522空彗星隊12機の護衛を261空の戦闘機隊55機が担った)パラオ上空へ
向うも 会敵せず、ペリリュー基地へ着陸。翌31日、再度の空襲によりペリリュー
からの 迎撃に至るこの空中戦により同部隊28名のうち准士官以上2名、下士
官兵18名 合計20名の搭乗員が自爆または未帰還となった。
 
戦地から姪宛てに手紙を書いている。これは一部である。

吉田久光上飛兵、戦地から姪宛ての便り
(但し、旧字を現代文字に改めた。文中の二十一歳は数え年)
 
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前略 スミエ、達者で何よりだ。俺も相変わらずだ。安心してくれ。
この間、母の写真が届いた。欲を言えばお前たちのも貰いたかった。
家に帰って母の老いたる姿で淋しくなった。だけど元気だけは人に
敗けられないようだった。姉さん達が近所に居られる。
非常に心強く わしも心配していない。

敵米国の反攻も猛烈だ。今年こそ決戦の秋。 このとき、飛行兵として
初陣する。
叔父の喜びを察してくれ。 四月に帰郷した所以もわかるだろう。


花は桜木戦闘機乗りは 若い命も欲しみやらぬ
花はつぼみのニ十才で散るも 何の、国の為、君の為
と言う歌がある。
 
俺も今年二十一才(満19)になった。 欲しい命は遠くに過ぎた。
お前たちが待つのはニュースだけだ。 帰郷の際、姉さんの子供たちが
紀興やサチエに至るまで「叔父さん叔父さん」と 送ってきた姿を思い
浮かべて感無量だ。この可愛い弟や妹を 立派に育ててくれ。
 
一番俺の心細いのは、兄さんが体が弱い事だ。俺が帰ったとき
休んで居られたが、お前から体に気を付けられるように充分すすめてくれ。
兄が病気などされると内も困るけど横道も困るからね。
 
俺のことは何もかも忘れてくれ。
 
自由の効かぬお前であるけど、戦地より親助兄さんが帰るまで
老いたる母の面倒を見てやってくれ。 駅にて頼んだ通りだ。頼むぞ。
だけど母には話してくれるな。 ますます寒くなる折柄、お体を大切に。
 
敬具 スミエ様へ 叔父より
 
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昭和18年の年末、吉田上飛は一度帰郷している。
皮の飛行服に飛行帽姿で突然玄関に現れたので驚いたと
友人は回想する。 そしてこのように言い残している。
 
「敵が三機くらい、束になってかかってきても全て撃墜してみせる自信がある
先ず一番機を落とせばいいのだ」
 
大晦日の晩には母が久光のために年越しそばを作った。
しかし、どこを探しても久光が見当たらない。
彼は別れの挨拶をすることなく 黙って静かに消えたのだった。
それが家族や友人に見せた最後の姿となった。
 
三か月後の昭和19年3月31日、パラオ上空において散華した。
どんなに技量が優れていようとも 歴然たる戦力差は到底埋められるもの
ではない。 私たちは忘れてはならない。 護国に身を奉げた彼らは誇り高き
サムライであった。

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吉田久光飛長
 

2012年7月24日 (火)

「私達も一緒に戦わせて欲しい」アンガウル玉砕戦

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◆アンガウルの戦いを、どうか忘れないでください。


これだけの兵力差がありながら約1ヶ月間もの間、
抗戦を続けたアンガウル島守備の宇都宮五十九連隊第一大隊の記録は
史上異例と言えます。

私は生まれも育ちも栃木の宇都宮で、その縁あって
パラオでの慰霊を続けています。近所にも遺族がお住まいです。

ペリリュー島ばかりが目立つけれど、アンガウル島の戦いも
どうか忘れないでください。

◆ペリリュー島では民間人の犠牲者がゼロだったと
美談の如く、流布されていますが、間違いです。ペリリュー島でも
疎開せず隠れていた島民がおり、犠牲になった島民の方が存在します。
さらには「わたしたちも戦わせてほしい」と島民が
申し出たといった逸話も、やはりアンガウルが発端です。

◆昭和19年10月19日、そのアンガウル島で最後の突撃間際に島民と
松澤豊中尉(砲兵第二中隊小隊長、長野県出身)の間で交わされた会話が
あります。
次のようなものでした。

島民「わたしたちも一緒に戦わせて欲しい」

松澤中尉「皆さんは日本人でないのに今までよく協力してくれました。
我々軍人は祖国日本の為に死なねばなりません。皆さんはその必要は
ありませんから投降して米軍の保語を受けなさい。これは後藤隊長の厳命です」


◆米軍による投降勧告は9/25以降続けられていたが
10月に入り、今まで糧秣搬送、陣地監視に協力していた
島民の投稿が出てきた。(松澤中尉のすすめなどあり)
10/9まで168名(栄養失調150名)投降した。※

※栄光の五九聯隊246頁より


◆以下資料
アンガウル玉砕戦

■アンガウルで上陸戦が開始されたのはペリリュー上陸の二日後、
9月17日であった。
上陸したのは米陸軍第81師団の2コ連隊、砲兵4コ
大隊(50門)戦車1コ大隊(M4戦車
50輌)基幹の約21000名で日本守備隊
(兵站等含む総勢1200名)の20倍の大兵力であった。

日本守備隊はアンガウル島でも複郭陣地に潜みゲリラ戦を展開し、徹底抗戦した。

■10月19日、守備隊長後藤少佐は最後の斬り込みを敢行。守備隊は玉砕し
アンガウルの組織的戦闘は終結した。これだけの兵力差がありながら
約1ヶ月間もの間、抗戦を続けた宇都宮五十九連隊第一大隊の記録は
史上異例と言える。

アンガウルでの戦没者 陸軍1144名、海軍6名 合計1150名
米軍の戦死260名戦傷1354名

ペリリュー玉砕戦

■上陸戦は昭和19年9月15日に開始された。
アメリカ軍戦力は第一海兵師団24234名、予備隊として陸軍第81師団
19741名。総勢48140名

重機関銃1436挺、火砲迫撃砲から榴弾砲など729門、ロケットランチャー180門、
戦車117輌。

これに対し、日本軍守備隊は9838名。主要兵器は機関銃58挺、
13ミリ対戦車砲から
105ミリ曲射砲まで火砲200門程度、軽戦車17輌。

兵力で比較すると四倍、機関銃は6倍、火砲3.5倍、戦車10倍であった。

さらに、沖合を取り巻く艦船や艦載機により、ペリリュー島へ対する事前の砲爆撃は
熾烈を極め、艦砲射撃で3490トン、空爆で507トンもの爆弾が投下されていた。

■海兵隊を率いるリュパータス少将はこの圧倒的優勢を楽観視し
戦闘は二日ないし三日で
終わるであろうと予想した。しかし、日本守備隊は
水際作戦で海兵隊に大打撃を与え、
上陸後も複郭陣地を利用したゲリラ戦を展開。

この戦いで水戸第二連隊全部隊、高崎第十五連隊(内、第二大隊、第三大隊)
海軍(応急)陸戦隊が玉砕した。

■11月24日16時、守備隊長の中川大佐は、玉砕を告げる電文
『サクラ・サクラ』を連送し、自決。

これをもって守備隊の組織的戦闘は終結し、米軍は事実上のペリリュー島
占領を達成した。

■この後もなお抗戦を続けた将兵が存在した。最後の34名が澄川道男少将の
説得、
命令解除によりようやく戦闘を中止したのは降伏から2年を経た
昭和22年4月28日であった。

■アメリカ軍の戦死傷者は8844名(戦死1684名)でさらに錯乱や精神異常を
訴える者が続出した。

2012年7月14日 (土)

恒久平和

以前にも紹介しましたがペリリュー島のミュージアム(戦争博物館)は

大戦中、日本守備隊が弾薬庫として使っていた建物を

そのまま利用しています。その隣にこのような慰霊碑があります。

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広島で被爆した岩が埋め込められています。ぜひ碑文を拡大してご覧ください。

「原子爆弾が投下され、悲惨な思いをした日本は、平和憲法を制定し

二度と侵略戦争をしない」旨、刻まれています。

 

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恒久平和を願う気持ちは万国共通の思いです。

しかし、その平和は願うだけでは実現しないのです。

 

平和は乞うものではなく、護るものです。

現実に、平和を乞い願う多くの国や地域が戦争に巻き込まれています。

 

例えば、永世中立国のスイスがどれだけの血を流したことでしょうか。

(スイスはナチスドイツが進攻を断念した唯一の国でありました)

平和は我々自身の知恵と行動によって初めて実現するものです。

その為には歴史から学ぶことが不可欠です。

シナ事変と日本の真珠湾攻撃、そして原子爆弾の投下まで

なぜ起きたのか。考えてみる必要があります。

無罪と無実は違う

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パラオ・ペリリュー島にこんな慰霊碑がある。
戦争博物館(海軍弾薬庫跡)の隣だ。
  
「ひろしま・祈りの石の会」という団体が作ったもので
世界中に同じものを建てているようだ。
 

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これだけは少々場違いな気がしてならない。 
米国は原爆投下の大義として「戦争の早期終結」を主張する。
確かに、広島と長崎への原爆の投下によって戦争は早く終わった
かもしれない。 
 
しかし、原爆投下が無差別大量虐殺であることに何ら変わりない。
アメリカは間違いなく大罪を犯した。
ただ、裁かれることがなかっただけだ。
 
無罪と無実は違う。
 
パラオに限っていえば歴史上、侵略戦争云々とは関係ない。
国連から統治を委任された、正式な日本の国土であった。
アメリカが戦争で奪いにきたものだから、国土を守るために血が流れた。
ただそれだけだ。
 
戦後、アメリカの事実は無罪となり、日本の無実は有罪となった。
 
戦争は悲惨だと、目を瞑ってはいけない。
誰だって争いなんか好まない。日本人はみんな穏やかで清らかだ。
だけど目を瞑っていたらナイフを持った奴が背後から近付いてくるかもしれない。
 
どうか、みんな一緒に考えてほしい。

2012年7月 8日 (日)

新しく出てきた待避壕

つい最近のことです。
ジャングルが切り開かれ、大きな待避壕が姿を現しました。
艦砲射撃や空爆、そして火炎放射で丸裸になったペリリュー島も
いまでは緑が蘇り戦跡も多くがその姿を覆い隠しています。
  

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しかし、まだまだ目に触れず、 隠れている壕が多くあるのです。
ご遺骨はもちろんですが、 土日を除いた毎日、不発弾処理も続けられています。
 

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反対側を撮影したところです。壁面に多くの弾痕があります。
分厚く重い鉄の扉を開いてみました。中は真っ暗で、瓶や遺品が
散乱していました。 ご遺骨を踏んだらいけませんので、入口から
覗いただけで中へ入ることはしませんでした。
 

2011年11月25日 (金)

対戦車決死隊 M4シャーマン戦車

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この戦車は アメリカ陸軍81師団第710戦車大隊A中隊第一小隊所属で
昭和19年10月18日、航空隊員救出の任務を遂行中に日本工兵隊が
埋設した改造地雷(元は航空爆弾)に触れ 爆発横転した。
 
戦車には通常の乗員5名に加え、案内役の大尉一名の 計6名が搭乗中で
この地雷攻撃により大尉を含む5名が戦死。 戦車長が唯一生還した。
キャタピラーは横転したさいの衝撃で 外れ、数十メートル先に転がっている。
コルセア機の翼は、要救助者の機体か。翼のシンボルは戦後長らく
地面に接しており、日焼けを避けられたことから現在でもうっすらと
確認できる。

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この画像と直接の関係はないが、ペリリュー戦では以下のような
戦法も用いられていた。 米軍はこの戦いに戦車を次々と投入した。
海兵隊は機動力に優れる水陸両用戦車。 次いで陸軍の主力は装甲の
分厚いM4シャーマン戦車である。 いずれにしても、上陸間もなくの
飛行場争奪戦で、日本戦車隊は全滅し 生身の兵隊で太刀打ちすることは
不可能であったが戦車にも弱点はあった。
 
守備隊が敢行した戦法は自爆だった。 数名で構成された決死隊の先鋒が
戦車に飛び込みキャタピラーに爆弾を貼り付け、爆破切断し、各坐させる。
どんな強力な戦車でもキャタピラーを切断されると身動きが取れなくなった。
次に地雷を抱えた工兵が戦車の腹底に潜り込み、地雷諸共に自爆する。
腹底の装甲の薄さに目を付けたのだ。 この戦法を敢行すれば必ず死ぬが、
敵も死ぬ。 捨て身の攻撃であった。
 
ペリリュー飛行場を横断するM4戦車(従軍カメラマンによる撮影)
その下のカラーは写真は戦後に撮影されたもの。
 

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ハネムーンビーチ(パープルビーチ)追記

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ここは海を南側に面したハネムーンビーチです。

かつてはパープルビーチという米軍の作戦名で呼ばれましたが
今ではハネムーンビーチと呼ばれます。

オレンジビーチと異なり、リーフは無く外洋に面しています。
そのため波が高い日がほとんどです。

当初はこの砂浜からの米軍上陸も想定され、日本守備隊は防備を厳にしましたが、
最後まで上陸戦が行われることはありませんでした。
 
追記・先の台風で砂浜は削られてしまったとの情報があり
現在確認中です。

ペリリュー戦争博物館(海軍弾薬庫跡)

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この建物は日本海軍の弾薬庫跡で
現在は戦争博物館として使われています。
 
中には日米それぞれの火器や写真などがゴロンと無造作に
展示がされています。基本的には閉まっているので、見学したい
場合は事務所かダイビングショップなどを通じて管理人に連絡を
とってもらい、開けてもらう必要があります。
 

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大山(おおやま)Bloody Nose Ridge(ブラッディ・ノーズ・リッジ)

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ペリリュー島・大山(おおやま)の山頂です。 ちょうど
海兵隊が上陸した激戦のオレンジビーチを一望します。
 
大山はペリリュー島最高峰ですので、遮るものは何もありません。
ここまで登ると島の要所を一望できます。 そして、例えば晴れた日でも、
遠くに南洋特有の真っ黒いスコールの雲が蠢いていて
これから襲来することなどがわかります。
 
この山を中心とし、麓にかけ広がっているのが
複郭陣地(ふっかくじんち)で中川大佐率いる第二連隊
最後の戦場となった場所です。
 
米軍側はBloody Nose Ridge(ブラッディ・ノーズ・リッジ)
「鼻血まみれの峰」と名付け、現在に至ります。

モニュメント自体は占領直後に建てられたもので
岩肌には占領記念の米軍工兵隊のメダルが埋め込まれています。
 
晴れた日には南10キロの位置にアンガウル島が望めます。
 

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▲10キロ先に望むアンガウル島


中山の麓に眠る短砲と水陸両用戦車「LVT-A1」

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中山の短砲
ペリリュー島、中山(なかやま)麓に眠る短砲です。
正式名称「海軍短二十糎砲(短20cm砲/たんにじゅうせんちほう)
もともとは艦船用でしたが、陸揚げされ据え付けられました。
度重なる空襲で周りを守り囲む岩盤を削られましたが
最後まで持ちこたえ、現在でも原型を維持した状態で見ることができます。
 

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▲占領直後の中山短20糎砲(昭和19年)

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すぐ近くには、守備隊の弾薬庫洞窟や米軍による
日本人捕虜収容所の鉄柵跡と 水陸両用戦車が残されています。
 

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米軍 水陸両用戦車LVT-A1(アムタンク)

この水陸両用戦車は米第一海兵隊の

LVT-A1でこのシリーズの戦車はアムタンクと呼ばれ、ここペリリューはもちろん
クエゼリンをはじめ、ガダルカナル、アリューシャン奪還、マリアナ、沖縄など
多くの太平洋戦線で用いられ上陸支援に大いに活躍しました。
37mm砲と250馬力エンジンを備えたこのLVT-A1は
510輌が生産されています。 
 
アムタンクを迎え撃った日本軍速射砲兵の回想
これを迎え撃った、日本軍元守備隊(速射砲隊)の方のお話によると
M4戦車は固かったので徹甲弾を用いて擱座させるのがやっとであったが
このLVTは装甲が薄いので、一発で撃破できたと回想していました。
狭い通路に一列になっているところ、先頭の戦車を狙うと大混乱となり
弾薬が尽きるまではずいぶん、持ちこたえたというお話でした。
 
なお、ここにあるLVT-A1の右舷後輪は今でもベアリングが生きていて
手で回すことができます。戦車の反対側(左舷)スペースを挟んで茂みの中が
捕虜収容所跡で現在も鉄柵が残っています。
 
第一海兵隊最悪の日~アムタンクの上陸戦

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2011年8月28日 (日)

ベントー

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お昼ちょうどに出たので、お腹が空いてきました。

ペリリューまではまだまだ時間がかかります。でも心配いりません。ダイジョーブ(パラオ語)です。

 

定期船に乗るときは弁当が要らないのです。(こんなことを本気で書いたら怒られそうですが)

なぜなら、乗り合わせた他のオキャクサン(パラオ語)がいろいろとくれるのです。

今日もドリンクやビールに始まり、菓子、ベントー(パラオ語)

シャコのサシミ(パラオ語)を貰ってしまいました。ありがとうございます。

丁寧にお礼を述べていただきました。特にサシミは実に美味しゅうございました。

 

※今回はパラオ語を四つ紹介しました。「ベントー」はそのまま、弁当のことです。

「サシミ」は刺身、「オキャクサン」はお客さん、「ダイショーブ」は大丈夫という意味です。

 

私のような、なりの外国人は、定期船の中でも目立ちます。

船は退屈なので、乗客が必ず話しかけてきます。

ベントーのお礼に、日本の話など、すると、とても喜ばれます。

パラワンは日本の話に興味津々なのです。

 

ここで、くだらないバカ話をしても大いに結構なのですが、自身が日本人であることを

忘れてはなりません。この船の中で、私は日本代表なのです。

日本人らしく相手を尊重して礼儀正しく振舞うよう心がけています。

 

ただ、気をつけてもらいたいのは、よくハッパ(マリファナ)をすすめてくる輩がいることです。

その場合はもちろん毅然とした態度で断りましょう。

カジキ

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ブリッジに掲げられているのはアンガウル州旗。

ロックアイランド内の航行は続きます。

 

海は穏やかですが、エンジンの大きな音がウォンウォン体にまで響きます。

排気管の位置が悪く、排気ガスの匂いが散らずに船内を漂い、これがけっこう堪えます。

 

・・・ん?何やら、船尾のほうが騒がしい。

直後、ストンとエンジンが止まりました。海上で故障かと思い、焦りました。

 

しかし、そうではなかったのです。事の正体は

船尾に垂らせれた釣り糸が、ピンと張り、それが右へ左へ暴れ始めたのです。

それを引く屈強な男性がいます。こんな形で釣りをしているとは予想外でした。

定期船ですから、定められた本来なら航路を航行しなければならないのですが

(それが最短距離でもあります)魚の多い海域を選んで大回りしているのです。

 

長い格闘の末、ついに往生したか、釣り上げられたのはでっかいカジキ!!

周りは歓声を上げています。鋭い角が光っていましたが、それが危険らしく

真っ先に切り落としていました。

 

キャプテンがそれを見届けるとエンジンを始動し、また穏やかな航行を再開しました。

ふたたび釣り針にエサがつけられ、船尾から海に垂らされました。
 
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2011年8月27日 (土)

ブリッジへ

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階段を上って、ブリッジ(操舵室)へやってきました。お邪魔します。

この船のキャプテンです!

定期船は、気軽にブリッジへ行けて、出入りも自由なのであります。

ブリッジ内には長椅子が据え付けてあり、そこで横になって

グーグー寝ているオキャクサン(パラオ語)もいました。キャプテンの隣では

おばさんが何か食べてますね。

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眺めが最高です。潮風を浴びて気持ち良い。

ペリリューまではリーフ内を航行するので、ほとんど揺れません。

水面を見てください。凪いでいます。

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両舵、前進強速~!よ~そろ!!

 

そうだ。唯一揺れるのは、観光客のスピードボートが側を追い抜いて行くときです。

スピードボートがかき分けた波がうねりとなって、やってきて、こちらの横っ腹を叩きつけます。

 

スピードボートならペリリューまで1時間。

この定期船はのんびり、ゆっくり、3時間かかります。
 
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抜錨

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時刻は12時ちょうど。いよいよ抜錨です。

画面右側に停泊している船が後を追って出航するペリリュー行き、
いま私が乗っている船がアンガウル行きで、岸を離れたところです。

※紛らわしいので一応記しておきます。
私が乗っているのはアンガウル行きの船ですが、日によって途中ペリリューに寄るので
今回はそれを利用してペリリューで降ろしてもらいます。

■定期船スケジュール
ペリリュー行き、週に2往復(14時出航)
アンガウル行き、週に1往復のみ(12時出航)
いずれも片道5ドル
(2011年6月現在)

ですから、定期船のみでアンガウルへ行きたい場合は最低でも一週間の滞在が必要
なってしまいます。
それに加えて、最近はいずれの船もエンジンの不調を抱えていて
欠航や延期になることも珍しくありません。

ああ、そうだ。この船には
救命胴衣が無いので、泳げない方は覚悟を決めましょう。
 
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2011年8月25日 (木)

マラカル波止場

ここはマラカルの波止場です。ここからペリリュー、アンガウルへの定期船が出ています。

運賃は片道5ドル。

スピードボートも良いのですが

ローカルが集う定期船に乗って楽しむのも醍醐味です。

出航前の様子です。たくさんの物資を積みます。これはぜんぶビール。

パラワンはビールが大好き。

これはバドライトですけど、日本の「アサヒ」も人気ですよ。

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こんなお客さんも。

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出航前の波止場はとても賑やかです。

用はないけど見にくる人も多くいます。

荷物の隙間に設けられた座席に座って、出航を待ちます。わくわく。
 
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2011年8月21日 (日)

ノースドッグの子供たち

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ペリリューのノースドッグで遊ぶ子供たちです。

学校が終わったあと、暑い日はいつもここで海に飛び込んで遊んでいます。

 

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激戦のオレンジビーチ

ペリリュー島オレンジビーチ01

81師団モニュメント(千人墓地)の位置から海岸に
下りてきたところが
オレンジビーチにあたる。

オレンジビーチの由来
オレンジビーチの名の由来は上陸した海兵隊のコードネームで
長い砂浜を区切って、オレンジ1から3、ホワイト1、2と各隊が受け持ったため
上陸地点がそのままビーチの名前として残っている。
北方がホワイトビーチである。
 
戦闘で浜が血に染まり、オレンジビーチとなったというのは
名の由来としては俗説であるが、血で染まったのは事実は間違いない。
 

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ペリリュー島オレンジビーチ02

 
Dデイ概要
9月15日のDデイ(ドックデイ/上陸戦当日の意)では

海岸線北側よりホワイト1、ホワイト2、オレンジ1、オレンジ2、オレンジ3
と上陸部隊毎に区分けされた名称がそのまま残る。
 
上陸部隊は水陸両用戦車を先頭に、海兵第一、第五、第七連隊の
五個大隊からなる総員4500名が上陸、さらに三個大隊が加わり、
最終的には8000名の部隊が上陸したが、猛烈な水際からの反撃に、
上陸第一波はほとんど全滅し、退却。その後の波状攻撃で辛くも
橋頭堡を確保したが上陸戦を含む初期の戦闘で師団戦力の60パーセント超
(戦死、もしくは負傷による戦闘不能の割合)を失った第一海兵師団は
事実上壊滅した。第一海兵師団はもっとも歴史が古く、
歴戦精鋭を誇るが
現代に至るまで師団が壊滅した例はこのペリリュー戦のみである。
 
ノルマンディー作戦を超える死闘
また、ペリリュー島上陸作戦時における上陸部隊の死傷率は
ノルマンディー上陸作戦のオマハビーチを越える激しさであった。

ペリリュー島オレンジビーチ04

ペリリュー島オレンジビーチ05

ペリリュー島オレンジビーチ06" 
▲画面やや左でステッキを携えているのがルパータス少将。

ペリリュー島オレンジビーチ07
▲埋葬後のオレンジビーチ

  
米陸軍81師団のモニュメントがあるこの近辺は

オレンジ2にあたり、上陸戦後、多くの十字架が砂浜を埋め尽くし
戦死者の多さに埋葬作業が追い付かない状態であった。


十字架はあらかじめパヴヴ島で工兵隊が制作し名目上、船のバラストとして
輸送されたが実際に数多くが埋葬用に使われる運命となった。
敷地の北側には残る建物の跡は教会の壁である。

 

戦闘経過
昭和19年9月15日
長きにわたる熾烈なペリリューの戦いがここに開始された。
上陸したのは海兵隊の中で最も著名かつ歴戦の
精鋭第一海兵師団(ファーストマリーン)で、兵を率いるルパータス少将は
この戦いは2、3日で終わるだろうと訓示を述べた。
2か月以上に及ぶ、泥沼の戦いになると、だれが予想したであろうか。

 
執拗な艦砲射撃と空爆により、ペリリュー島のジャングルを焼き払い
丸裸した米海軍は、まさか日本兵が生き残っているとは予想していなかった。
 
中川大佐率いる水戸歩兵二連隊ならびに
高崎歩兵十五連隊の群馬県片品村出身の28歳、千明(ちぎら)武久大尉
がこれに応戦した。どの兵も大陸戦線からの古強者ばかりで
火器の扱いも、戦場での肝の据わり方も、当時の最精鋭だったと言っても
過言でない。精鋭同士の対決であった。
 
今まで静まり返っていた海岸線から日本兵が現れ、いっせいに火を噴いた。
今までの艦砲射撃は日本守備隊にほとんど損害はなく、彼らは深く掘り下げた
壕に息をひそめていたのだ。
 
・天童砲兵隊の神業
山岳部の陣地からは、こちらも精鋭天童砲兵隊の砲弾が発射され
上陸用舟艇に正確に命中。火柱が上がった。
天童砲兵隊の陣地は山岳部のくぼみにあり、直接の照準はできない。
放射線状に上陸部隊を狙ったものと推測される。 
 
第一海兵隊の全滅
これに混乱したのが第一海兵隊だった。
「ジャップは死んではいない!」
 

ペリリュー島オレンジビーチ08

▲海岸線に釘づけになる第一海兵師団
 

猛烈な水際からの反撃に、上陸部隊は
次々に撃破され、師団戦力の60パーセント超を失い
(戦死、もしくは負傷による戦闘不能の割合)
事実上の全滅判定が下された。
米国海兵隊が全滅した例は後にも先にもない。
ペリリューの戦いのみである。
 
米軍にも陸海軍のそれぞれプライドがあり、陸軍81師団に応援を要請するまで
時間を要してしまったのも一因ではある。
 
沖までリーフが形成されており、遠浅の海岸の波はとても静かな砂浜である。
画面奥がホワイトビーチ。
 
米軍側から見たペリリュー島上陸戦
水陸両用戦車隊の死闘を見る

ペリリュー島オレンジビーチ10





エアインテーク

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米軍機のエアインテークです。

この辺りには他にもプロペラやエンジン、翼などが散らばった状態で少し残っています。

 

戦争が終わった後も、飛行場近くには日本機を含め、たくさんの機体が残っていて

本来ならばきちんと戦跡として保存されるべきでした。

しかし、法整備も曖昧だったその頃、スクラップ業者が目を付け、

大部分を鉄クズとして持っていってしまったのです。

2011年8月18日 (木)

帝国海軍ペリリュー航空基地跡

ペリリュー飛行場1

▲現在も一本だけ残る滑走路跡
 
帝国海軍ペリリュー航空基地・滑走路跡

昭和14年(1939年)に完成したペリリュー飛行場は
当時東洋一とも称された日本海軍の航空基地で
太平洋の最重要拠点として絶大な存在を誇った。
 

ペリリュー飛行場2

▲ペリリュー航空基地(米軍占領後に再整備された状態)画面上部がガドブス島
 

零戦、彗星、銀河、月光、彩雲、帝国海軍航空隊の全盛期
飛行場は長さ1200メートル、幅80メートルの滑走路をニ本有しており
昭和18年~19年初めの全盛期にはおよそ200機の航空機が配備され
ゼロ戦、戦闘機隊を筆頭に、月光、彗星、彩雲、一式陸攻、銀河、など
いずれも新鋭機を揃えていた。また、ペリリューのすぐ北に位置するガドブス島
には
1000メートルの滑走路が一本あり、こちらは零戦など小型の航空機の
離着陸に用いられた。
 
この飛行場を飛び立った航空隊一覧
 
米軍のペリリュー攻略は
この飛行場奪取が最大の狙いであり
その後行われるであろうフィリピン攻略の重要な足がかりとするのが
当初の思惑であった。
 

ペリリュー飛行場3

▲空爆と艦砲射撃により焦土と化すペリリュー島南部飛行場

 
昭和19年3月30日、31日両日のパラオ大空襲で日本航空部隊は
大損害を受けたが機体の補充により再建をはかった。
ところが同年6月のマリアナ沖海戦(あ号作戦)で
その衰退は決定的となる。この戦いでペリリューからも
多くの戦闘機、攻撃機がマリアナ方面へ出撃。
そのほとんどは二度と帰ってこなかった。
 
その後は、海軍軍令部の方針により
フィリピン、本土決戦へ備えるため、航空機は温存され、
新たな航空機がペリリューへ補充されることなく
連合艦隊司令部も3月にフィリピンへ転進しており、
パラオは海軍から事実上放棄される運命となった。
上陸戦直前にはコロールに僅か数機の水偵を残すのみとなり
残された整備兵などの航空要員は
航空隊司令の大谷龍蔵大佐(兵51熊本)のもとで
陸戦隊を組織、のちの地上戦で玉砕した。
 

ペリリュー飛行場4 
▲米軍占領後のペリリュー飛行場

米軍占領後
米海兵隊が飛行場を制圧した際

飛行場格納庫にはおよそ130機の航空機が残されていたが
いずれも破損し飛行可能な状態ではなかった。
この中には新型の一式陸上攻撃機二四型(761龍所属か)や
最新鋭機「銀河」なども含まれていた。

米海軍設営大隊は上陸戦のわずか8日後には、滑走路を再建し
幅85メートル長さ1200メートルの着陸灯を完備した
完全な滑走路が完成させた。これは比較的ダメージの少ない
北西から南東に延びる滑走路だった。その後、アンガウル飛行場とあわせて
完全に再整備されたペリリュー飛行場は、米軍当初の計画通り
フィリピン攻略の足がかりとする目標を達したが
既にフィリピン攻略は半ばに差し掛かっており、飛行場利用の重要度は低く
多くの犠牲を払ったペリリュー攻略の必要性については現在においても
議論が尽きない。
 

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▲現在も滑走路脇のジャングルにひっそりと眠るゼロ戦(52型)

戦後、日米双方とも、多くの機体が残骸としてありましたが
スクラップ回収業者が、これを資源として目をつけ大部分を持ち去ってしまいました。 

 
海軍航空隊司令部跡

ペリリュー飛行場6

ペリリュー飛行場7

ペリリュー飛行場8

▲海軍航空隊司令部跡

 
海軍航空隊司令部としての役割を担った鉄筋コンクリートの建物である。
現在は木々で覆われているが、当時は広大な飛行場の北に位置し
滑走路を一望できた。地下には重厚な退避壕を備えている。
爆撃の跡が生々しい。
 

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米軍占領後~ルパータス司令部へ
米軍占領後は第一海兵師団、
ルパータス少将の司令部として
海兵隊の引き上げまで利用された。なお、戦いを引き継いだ81師団の
ミューラー少将は
この建物をあくまで「前線指揮所」とし自身の司令部は
パープルビーチ近くに移転した。
 

ペリリュー飛行場10

ペリリュー飛行場11

 

なお、これと全く同じ構造、間取りの建物がテニアン島に存在する。
テニアン島へ行ってみる

 
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メモ

◆ペリリュー飛行場(主力飛行基地)
長さ1200メートル幅80メートル、クロスした2本の滑走路を有する

◆ガドブス滑走路(ペリリューの補助的飛行場)
1000メートル×80メートル×1

◆アイライ飛行場(現在のパラオ国際空港)
1400メートル×100メートル×1

よくこの戦跡名を「西カロリン航空隊司令部」といわれるが、そのほとんどは
機能していない。

9月18日、アベンジャーが緊急着陸
9月20日、海軍設営大隊に建設機材が到着し
9月23日には幅85メートル長さ1200メートルの着陸灯を完備した
完全な滑走路が完成した。比較的ダメージの少ない
北西から南東に延びる滑走路だった。
 

2011年8月16日 (火)

ブルドーザーは戦車より脅威

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ペリリューで、ゲリラ戦を以って抵抗を続ける守備隊にとって
戦車とと同じか、それ以上に恐れる兵器が、このブルドーザーでした。

ブルドーザーは、戦車が通る道を切り開き、飛行場をあっという間に整備します。

そして、最も恐ろしいのは、壕に潜む守備隊を生き埋めにしたのです。

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守備隊が投降勧告に応じなければ、掃討する、
それも白兵戦をやらねばなりません。

しかし、頑なに抵抗する守備隊に対して、掃討部隊も相当な犠牲を
強いられることになります。

犠牲を最も減らすには、このブルドーザーを用いて、
戦わずして壕の中の守備隊を生き埋めにしてしまうのが作戦でした。

2011年8月12日 (金)

ペリリュー天野戦車隊 九五式軽戦車「いづも」

ペリリュー島の天野戦車隊九五式軽戦車について

ペリリュー島に残る九五式戦車

▲ペリリュー島に残る九五式戦車「いづも」
 
◆天野戦車隊・概要

天野隊長率いる九五式軽戦車17輌は9月15日午後の飛行場攻防戦で
米海兵隊第一、第五連隊と対峙し玉砕した。

戦車は車輌同士の識別を容易にするため砲塔の側面に白いペンキで
ひらがなでそれぞれ名前が記されていた。 天野戦車隊長は「さくら」であった。
青森県出身の田中指揮小隊長車は「むつ」 、岩手県出身の高橋小隊長は
「きたかみ」 そのほか「もがみ」「ふじ」など それぞれ小隊長や車長の郷土に
ちなんだ名をつけた。 現在残るこの戦車は「いづも」と推定されている。
※篠原調べ
 
◆天野戦車隊の戦法
天野隊長から事前に通達された戦法は、二車両ごとの行動を徹底し
米M4戦車に対しては徹甲弾を用いて二車両同時にキャタピラを狙い、
擱座させる。砲塔は装甲が厚いから絶対に撃ってはならない。
 
さらに戦車一両につき市岡大隊と七中隊所属の二個分隊が
跨乗歩兵となり敵陣へ突撃するというものであった。
 
◆実際の戦闘経緯~勇猛果敢に敵陣へ突撃
米海兵隊との戦力差は圧倒的であった。 海兵隊はバズーカ砲
(対戦車砲で貫通力がある)を用いて 日本戦車をたちどころに撃破した。
これに加えM4戦車3輌が 支援を行った。
 
しかし日本戦車隊は良く統制が取れた動きを見せ、生き残った車輌は、
ひるむことなく、跨乗歩兵とともに、勇猛果敢に前進した。 被弾した戦車は
炎を上げ煙の尾を引きながらもスピードを落とさず前進を続け、敵陣に突撃した。
 
戦車は敵陣の只中でついに傾き、停止したが戦車兵は その場で車載機銃を
斉射した。 擱座して燃え上がる戦車からハッチを開けて脱出する戦車兵がいたが
海兵隊が火炎放射を浴びせると戦車兵は燃えながらついに倒れた。
かくして敢闘するも全車輌が撃破され 天野戦車隊は玉砕した。
 
残存兵力も歩兵部隊に合流し水府山および中の台附近にて
9月21日ごろまでに全員戦死した。
 

ペリリュー戦車隊 
▲飛行場で擱座した天野戦車隊所属九五式戦車「むつ」
奥には海軍の「彗星」が見える。

 
◆九五式軽戦車諸表
乗員3名、重量7.4トン、全長4.3メートル、全幅2.07メートル
三菱製ディーゼルエンジン出力110~120馬力、最大時速40km/h(~45km)
37ミリ戦車砲一門、九七式7.7ミリ車載重機二搭載。、装甲 砲塔および車体の
前面とも12ミリ。
 
◆操縦
乗員三名のうち右側に操縦士が座り二本の操縦桿で操縦に専念する。
左側は銃手で7.7ミリ車載機銃による射撃、無線機の取り扱いを行う。
中央上部砲塔が車長の定位置。 小隊長は戦車長として戦車砲や車載重機に
よる射撃実施、小隊間の連絡、さらに戦車隊長(天野)は各小隊を掌握して
手足の如く指揮しなければならない。

無線機は周波数一定の水晶発振器による電信と電話の両方が可能だったが
各人が何役もやらねばならず戦車兵は何れも優秀だった。
 

ペリリュー島の戦車



 
濃硫酸バッテリー ジーゼルエンジン発動には強力な力が必要で
12ボルト180アンペア級のバッテリーを四個取り付けてあるが
バッテリーは湿気と暑さに弱くすぐに電圧が降下するので
明けても暮れても予備バッテリーとかわるがわる充電した。
 
 
◆見学にあたってのお願い
ペリリュー飛行場の攻防戦で奮戦した九五式軽戦車です。ペリリュー島戦跡
一日観光で必ず見学する定番ですが、どこまでガイドが説明しているでしょう。
敵の集中砲火を浴びた、この九五式軽戦車は、その薄い装甲故に大破し
生き残った戦車兵は脱出するも、更なる弾幕の中に 投げ出され、手足は
四散し火炎放射器で焼かれ、黒焦げになって転がっています。 
 
そんな惨状を知ってか知らでか、若い日本人観光客が笑顔で戦車との
記念撮影にいそしんでいます。 ただの見世物となってしまった戦車。
現地の年配パラオ人や 戦争経験者は嘆き悲しんでいます。
どうか英霊の気持ちを忘れないでください。
 
  
戦車隊部隊史
 
昭和19年
3月 5日 満州勃利に於て第14師団戦車隊として編成完結 
3月28日 大連港より東山丸 能登丸に分乗し征途に就く 
4月28日 コロール島に兵器人員の揚陸完了 ガスパン村に移駐 
5月16日 ペリリュー島に派遣 歩兵第2連隊長の指揮下に入る 
中の台附近に陣地構築 出撃訓練に従事 
9月15日 島南部より米軍上陸 反撃命令により出撃 飛行場附近に於て
敵と遭遇 良く敢斗せるも戦車隊主力壊滅 9月21日 残存兵力は歩兵部隊に合流
水府山および中の台附近にて前進を阻止 敢斗せるも全員玉砕
九五式戦車17両を基幹 通称 照4363部隊 天野国臣隊長以下128名戦死

2011年8月11日 (木)

千明隊トーチカ

ペリリュー島南部/千明大隊トーチカ

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不死身の日本軍小要塞
小要塞とも呼べるこの巨大トーチカは、南部地区隊の高崎十五連隊第一大隊
千明武久(ちぎらたけひさ)大隊長の陣地内にあり、鉄筋コンクリート厚さ
1.5メートル以上、銃眼口の開閉式鋼鉄は厚さ30ミリと、艦砲射撃も効果はなく
75ミリ戦車砲も跳ね返された。
 
地下に設けられた出入り口により 火炎放射は役にたたず中の日本兵は
事実上不死身に近かった。 日本守備隊は、当初米軍の上陸地点をここ
南地区と予想し、最重要拠点として 強固な陣地を構築していた。
 
実際の戦闘では第七海兵連隊に背後を突かれる形となったため陣地の威力を
充分に発揮できなかったが、千明大隊は敢闘し上陸部隊に大打撃を与えた。

 

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千明大隊長と若き精鋭、高崎十五連隊
千明大隊長は群馬県片品村出身の28歳で、配属部隊と合わせて750名を
指揮し、上陸戦当日にはオレンジ3上陸部隊の右翼を叩き、北方に
追いやったことで上陸後の海兵隊に大混乱を生じさせたほか、上陸後も
アンパンと呼ばれる地雷を用いて抱いて敵戦車の腹下に潜り込み自爆する
戦法を用いて敵戦車を擱座させた。
 
千明大隊長は最前線で指揮中に銃弾を受け16日未明に戦死。
部隊は群馬県出身者が最も多く次いで長野、栃木、茨城出身と、いずれも
20代前半の現役兵であった。
 
米海兵師団に水際で大損害を与えたのは有能な指揮官である千明大隊長と
部下の 高崎十五連隊第一大隊が歴戦の精鋭でこそ成し得た結果であろう。

陥落
この小要塞は最終的に、 勇敢な海兵隊爆破班が煙幕を利用し、 死角を突いて
少しずつ這うように接近、 壁に直接爆薬を設置して爆破、陥落させた。
千明大隊長戦死後も大隊は戦闘を継続したが 18日までに玉砕。
海兵隊は東海岸へ進出した。
 

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ガイド
中に入ることもできます。入って、トーチカ内側から海を見てみてください。
兵隊さんがどんな気持ちだったか、少しだけわかるかもしれません。
 
千明大隊長について
群馬県片品村にある千明大隊長のお墓へ

ガスマスク

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これもペリリューの複郭陣地に落ちていました。

日本陸軍のガスマスクの一部(ろ過器)です。

実際に戦いで用いる機会はありませんでしたし

身に着けると、とても重くて邪魔なので、皆、捨ててしまいました。

2011年8月 6日 (土)

海軍飛行艇整備基地(海軍アラカベサン水上基地)

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◆二式大艇の陸揚げ整備基地

アラカベサン島に残る飛行艇陸揚げ用のスロープです。

水面に向かうにつれ、ゆるやかに傾斜しています。

九七式飛行艇や、二式大艇をここに陸揚げし、整備を行いました。

スベリと呼ばれる頑丈なコンクリートが当時のまま残っています。

近くには小型の水上偵察機(下駄履き飛行機)の係留ブイも残っています。
 
下の画像は横濱のものですが参考イメージとして見てください。

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現在、この場所は島民憩いの場になっています。潮風がとても心地良く

感じられます。コロールから歩いても来れる距離です。

ここで潮風を浴びながら、当時の様子を想像してみるのも良いかと思います。

  

※PPR(パラオパシフィックリゾート)ホテル敷地内にも、規模が小さめですが

同じようなスロープがあります。

 

◆アラカベサン水上基地概要

アラカベサン水上基地は昭和10年に建設された水上飛行機の発着場で、
スベリと呼ばれる
巨大なコンクリート製の傾斜路
(幅40メートル長さ120メートル)が残る。

この傾斜を利用して大型飛行艇を陸揚げし整備等を行った。
 
同様の傾斜路がPPR内にも残されており、当時は
飛行艇が収容できる格納庫も備えていた。
 
PPRホテルの敷地はそのほとんどが海軍基地跡にあたる。
付近の海面に残るコンクリートの建造物は小型水上飛行機用の
係留設備である。

◆アラカベサン水上基地の歴史

昭和14年には、大日本航空株式会社が「綾波号」をはじめとする
川西式四発飛行艇(海軍九七式飛行艇の輸送機型または
民間旅客用機体の名称)
を用いて横濱-パラオ間ではじめての民間航空路を
結んだ。翌15年からは一般乗客の利用が
認可となり、横濱-パラオ線は
月二往復が運行され、途中サイパンへ一泊し
2日間かけてパラオへ到着した。
貨客船であれば横濱からパラオまでは10日を要する時代、
飛行艇航路の開設は
大幅な時間短縮を可能にした。
 
さらに昭和16年からはヤルート航路が誕生。
パラオを起点に、トラック、サイパン、トラック、ポナペ、ヤルート、ポナペ
トラック、パラオの順で月2回、一巡8日間の行程で運行し太平洋の
島々を結んだ。
 
昭和16年末の開戦とともに、アラカベサン水上基地は瞬く間に海軍の
重要拠点と化した。

基地には九七式飛行艇や二式大艇などの大型機はもとより、
零式水偵などといった
軍用機の発着が多くを占めるようになり、
大日本航空の飛行艇と乗務員も全て海軍の
指揮下におかれた。
 

◆海軍乙事件の発生

昭和19年2月、戦艦武蔵を旗艦とする連合艦隊がパラオへ入港。
連合艦隊司令部をコロールに置いた。(南洋長長官邸の裏)

3月31日、パラオ大空襲でコロールは甚大な被害を受け、
古賀峯一海軍大将は連合艦隊司令部のダバオ転進を決定する。
このとき既に武蔵は内地へ向け待避しており、残された古賀長官と幕僚らは
二式大艇二機に分乗し、ダバオへ逃れるべく離水準備を急いだ。

同日夜、ふたたびパラオに空襲警報が発令された。長官転進の命令を受け
パラオへ到着したばかりだった二式大艇一番機の機長、難波正忠大尉は燃料補給を
強く要請したが、参謀二人が「その必要は無い。出発急げ」と離水を迫ったため、
まもなく長官と幕僚らを乗せた二機はアラカベサン水上基地を離水した。
ところがダバオへの飛行中、低気圧に巻き込まれ、古賀長官座乗の一番機は
消息を絶った。残骸は最後まで見つからず、古賀長官は後に殉職とされた。
一方、福留参謀長搭乗の二番機は不時着水後、辛うじてセブ島へ漂着し
命こそ繋いだものの、現地ゲリラに捕えられ、機密文書を奪われる結果となった。
海軍乙事件と呼ばれる出来事である。

 

2011年8月 5日 (金)

手榴弾

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ペリリュー島、複郭陣地で見つけた、日本軍の手榴弾です。

守備隊の兵は自決用に一個持たされていました。ご覧の通り、不発弾でありますが

これを握り締めていた兵隊さんは、どんな気持ちだったのでしょうか。

 

攻撃側の米兵は負傷すると後方に下げられ、手厚い治療を受けることができました。

しかし、日本守備隊は、四方を敵に囲まれ、逃げ場はありません。

なんと言っても衛生材料(治療の薬や包帯)が無いので、助かる命も

助からず、負傷すればそのまま死ぬしかなかったのです。

文字通り、島を死守。徹底抗戦を以って、米軍の進攻を阻止、長期化に持ち込みました。

 

米軍の手榴弾も載せておきます。

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これは壕の中にありました。画面左が日本、右が米軍の手榴弾です。

誰かが並べたのでしょうか。ペリリューのジャングルでは今でも多くの不発弾や遺品、ご遺骨が

手付かずで眠っています。特にこうした不発弾を見つけても、決して手を触れず

ガイドの指示に従って頂きますようお願いします。