2014年12月10日 (水)

富安俊助中尉とエンタープライズ

富安俊助中尉とエンタープライズ
 
◆実在した「永遠の0」宮部久蔵のモデル

映画『永遠の0』最後のシーンを見た私は即座に
これは実在した富安俊助中尉のエピソードとそっくりだ!
富安中尉をモデルにしたのではないか?そう確信した。
 
以下、ネタバレを含む。映画『永遠の0』ラストシーンで
宮部久蔵は特攻隊として爆弾を抱いて敵空母へ突入する。
遂に横っ腹に突入するという寸前、90度急上昇し、敵空母の直上から
機体を真っ逆さまにして甲板へ突っ込むという壮絶なものであった。
 
ここまでは『永遠の0』の内容であり、フィクションである。
-------- 
 
◆以下、ノンフィクション
以下はノンフィクション。富安俊助という実在した零戦搭乗員の物語である。
富安俊助中尉は私が運営を務める第二師団の戦友会でお世話になっている
元第二師団第二連隊の陸軍大尉、水足氏(陸士56期)のポン友(親友)であり
家も向かいだったということで、思い出話をよく聞いていた。
そのエピソードを紹介する。
 
  
◆富安 俊助(とみやす しゅんすけ)
大正十一年、長崎県に生まれ、まもなく東京へ引っ越した。幼少期

は「メバチ」のあだ名で呼ばれた。早稲田大学に進学、大学では柔道
部に所属した他、全てのスポーツに長けており、また音楽を愛した。
在学中はハーモニカバンドを結成しコンサートを行うほどであった。
 
水足氏によれば「富安は兎に角、運動神経が抜群で、中学の鉄棒で
大車輪を何度もやっていた」という光景をよく覚えているそうだ。
 
昭和十七年九月、早稲田大学政治学と経済学の学士号を取得卒業後

満州鉄道に就職したが、僅か一年後の昭和十八年九月、学徒出陣を受
け海軍へ入隊。飛行専修予備学生として、筑波海軍航空隊へ配属され
僅かばかりの期間、訓練に励んだ。
 
◆鹿屋進出
昭和二〇年 四月二十二日
出撃を控え海軍鹿屋航空基地に移動。
 
◆神風特別攻撃隊「第六筑波隊」出撃
同年 五月十四日 午前五時三〇分
第六筑波隊の爆装零戦隊十五機は、五〇〇キロ爆弾を抱いて鹿屋飛行場を
飛び立った。滑走路の端一杯まで滑走して、ようやく機体が浮い
たという。
途中、一機がエンジントラブルで引き換えし十四機となっ
たが、同じく鹿屋を
発進した第十一建武隊第八七生隊第六神剣隊
の爆戦十二機と合流し、
合計二十六機となって南方の米機動部隊を目
指した。これを察知した機
動部隊はただちに迎撃隊を発進させた。特攻隊のうち
十九機が迎撃戦闘
機により撃墜され、六機が対空砲火によって突入前
に撃墜された。

◆富安機の突入
午前六時五十六分
戦友の犠牲のもと、ただひとり生き残った富安俊助中尉は、対空砲火
を避けて一旦雲に身を隠した。そして時折雲間から顔を出してはエン
タープライズの位置を確認しつつあった。一方のエンタープライズは
20分前からレーダーで富安機を捉えていたが、雲に隠れた富安機に
効果的反撃ができずにいた。エンタープライズが回頭し艦尾を向けた
瞬間、富安機は満を持して急降下突撃を敢行。エンタープライズは集
中砲火を浴びせたが、横滑りを駆使する富安機に致命弾を与えられぬ
まま、ついに懐への進入を許した。
 
そのまま横っ腹に突っ込むかと思
われた刹那、富安機は五〇〇キロ爆弾
を抱いたまま、一気に引き起こ
し、艦の真上へ上昇した。雲間から射した
日光を浴びてゼロ戦の腹が
輝いていた。富安機は一八〇度左旋回すると
揚力を抑えた背面飛行
のまま、艦直上より前部エレベーターに突入した。
突入時の衝撃によ
り前部エレベーターは上空およそ一二〇メートルまで
吹き上げられた
エンタープライズは大破し、沈没こそまぬがれたが、航空機の
運用は
不可能となり、戦線離脱を余儀なくされた。
 

富安俊助 
▲エンタープライズ直上より背面飛行のまま突入を敢行せし富安俊助中尉機
 

◆艦上で富安中尉を称える式典が行われる
エンタープライズ艦上ではこの攻撃で死亡した空母クルーの水葬を
行ったのち、別の式典が行われた。これは敵であった富安中尉を称え
る名誉式典で、同式典により富安中尉の遺体は米水兵と同様に手厚く
水葬された。
 
米本土へ回航されたエンタープライズは入渠修理のまま終戦を迎える。
修理完了後は兵員引揚船として僅かに運用されたが空母としての
戦線復帰は果たせぬまま除籍。「ビッグE」栄光の歴史に幕を閉じた。

富安俊助の突入後
▲富安機突入の瞬間。上空120mまで吹き上げられたエレベーターが確認できる。
戦艦ワシントンより撮影。
 

富安俊助の突入後のエレベーター 
▲突入直後のエンタープライズ甲板。消火活動を行うクルー。
 

◆犠牲となった特攻隊員
この攻撃で犠牲となった特攻隊員全員をここに記す。

以下昭和二十年五月十四日海軍鹿屋基地出撃。
機種はいずれも爆戦(爆装零式戦闘機)である。
氏名、出撃時の階級、出身都道府県、出身大学もしくは
予科練期別、生年の順。

  
第六筑波隊

富安 俊助  中 尉 東京 早稲田大 大正十一年生まれ

大木 偉央  少 尉 埼玉 宇都宮高農 大正十二年

大喜田久男 少 尉 徳島 日本大学 大正十年

小山 精一  少 尉 東京 中央大学 大正十年

黒崎英之朗 少 尉 福岡 慶応義大 大正十二年

時岡 鶴夫  少 尉 兵庫 京都帝大 大正十一年

藤田 暢明  少 尉 徳島 東京農大 大正十二年

中村 恒二  少 尉 茨城 早稲田大 大正十一年

高山 重三 少 尉  愛知 同志社大 大正十二年

荒木 弘   少 尉  愛知 東洋大学 大正九年

本田 耕一 少 尉 兵庫 法政大学 大正十一年

西野 実   少 尉  石川 拓殖大学 大正十一年

折口 明   少 尉  長崎 専修大学 大正十一年

桑野 実  少 尉  京都 慶応義大 大正十二年
 

第十一建武隊

楠本二三夫 中 尉 長 崎 久留米高工 大正十三年生まれ

日裏啓次郎 中 尉 東 京 法政大学  大正十年

花田 尚孝 一飛曹 北海道 飛練十二期 昭和二年

古田 稔  一飛曹 広 島 特乙一期  昭和二年

鎌田 教一 一飛曹 広 島 特乙一期  昭和二年


第八七生隊

藤田 卓郎 中 尉 愛 媛 拓殖大学 大正九年

橋本 貞好 一飛曹 富 山 乙飛十八 大正十五年

荒木 一英 二飛曹 新 潟 特乙三期 大正十五年


第六神剣隊

牧野 カイ 少 尉 石 川 明治大学 大正十二年

川野 忠邦 上飛曹 宮 崎 甲飛十期 大正十二年

淡路 義二 二飛曹 群 馬 乙飛十八 大正十四年

斉藤 幸雄 二飛曹 宮 城 乙飛十八 大正十四年
  

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烈風(改)戦闘機紫電改

2014年12月 9日 (火)

戦闘機の設計思想

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高校生の頃、世界史の授業で担当教師が

「米軍は不時着したゼロ戦を徹底的に調べ上げその優れた設計を真似して
F6Fヘルキャットという新鋭戦闘機を作った。
それ以降、ゼロ戦の優位は失われた」
と教えてくれた。そのころは「ふんふん、そうなのか」と教師の教えを真剣に
聞いていたが後で調べてみると、この説は誤りであることが分かった。
 
ゼロ戦の鹵獲
確かに米軍はアリューシャンに不時着したゼロ戦を鹵獲し徹底的に調べた。
ここまでは事実である。
 
この機体は、古賀忠義一等飛行兵搭乗の零戦二一型で
昭和17年6月、ミッドウェー作戦の陽動として行われた
アリューシャン列島、ダッチハーバー空襲へ参加した古賀一等飛行兵は
対空砲火で被弾し、アクタン島への不時着を試みた。
 

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古賀一等飛行兵は着陸時の衝撃で頭部を強打し戦死したが
機体は無傷に近い状態であった。一か月後、機体は米軍によって回収され、
徹底的な分析調査が行われた。そして僅か三ヶ月後の9月には
飛行可能な状態に修復し、テスト飛行まで行われた。
 
ゼロ戦の弱点を突け
これによって、米軍はゼロ戦の弱点を徹底的に暴いた。
このとき、後のライバルとなるグラマンF6Fヘルキャットは既に
完成間際にありゼロ戦の設計思想が反映されることは無かったし
もとより、米軍の戦闘機設計思想は戦後まで一貫するもので
いずれもゼロ戦とは相反するものであった。
 
ゼロ戦の弱点は剛性不足であった。スピードも出ない。
低速度域での巴戦では群を抜いた性能を誇ったが
高速度での戦闘には不向きであった。
 
このため、米軍は急降下等を駆使し、ゼロ戦から逃れる術を
発見したほか、米軍機二機以上が一組となり、ゼロ戦の機動力の隙を突く
サッチ戦法により、無敵といわれた零戦を確実に仕留めていった。
日本機のパイロットは古来からの一騎打ちが未だ戦術の
主流であるのに対し、米軍は必ず二機以上の編隊で襲い掛かり
スピードを生かした一撃離脱戦法で、ゼロ戦に勝利した。
この戦法は大戦終結まで変わることなく、日本機の戦術はすでに
時代遅れであった。
 
日本機の搭乗員は熟練者が多く、その腕をもって米軍と対峙し
開戦以来、圧倒的な勝利をものにしてきたが、このサムライの
伝統とも言える戦い方は、合理的といえるものではなく
到底米軍との兵力差は埋められるものではない。
戦争末期ともなれば熟練搭乗員は皆戦死し、補充された
飛行時間の僅かな飛行兵の戦いは無残極まりないものであった。
 
日米で異なった戦闘機の設計思想 
先述の通り、日米では航空機の基本的設計思想が異なった。
米軍は飛行機は重いが頑丈で、小回りが利かない代わりに
物凄いスピードが出る。いくら、日本機が真っ向勝負しろと挑んでも
雲間から突如、襲い掛かってきて、一撃を加えたのち
消えてしまう。日本機は追い付けない。そんなに熟練した腕があろうとこれでは
勝負にならない。多くのゼロ戦パイロットがその旨、証言を戦後に残している。
 
大戦後期、日本軍令部もようやくこの戦法に対応するよう
重戦闘機の開発を重視したが、時すでにおそく、終戦を迎えた。
多くのサムライが刃を抜いて奮戦したが、銃弾には勝てずほとんどが戦死した。
  

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▲米海軍の名機、グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機と
SBDドーントレス艦上爆撃機。
F6Fはもっとも多くのゼロ戦を撃墜し、
ドーントレスは最も多くの
日本艦船を撃沈したといわれる。 
 
 

2014年11月29日 (土)

戦艦大和両舷全速プロジェクト

戦艦大和

 
万里の長城、ピラミッド、戦艦大和という世界三大無用の
長物とかいうのがあるそうだ。よく、大和一隻分の予算と資材があれば

飛行機がたくさん出来たとか、言われる。
 
しかし現在を生きる我々にとって、大和建造に際して培った工業技術は
今日日本の礎となり、多大な
恩恵を賜っているのは間違いない。
 
呉市の誇り
この辺のことは細かくブログに書くよりも
呉市の大和ミュージアムへ行くと、私より一億倍戦艦大和に
詳しいボランティアガイドのおばさんが丁寧に説明してくれる。
まさに目からウロコだ。感動したのだった。
ボランティアガイドといっても、その教育レベルは素晴らしいもので
とにかく一度、訪れてみることを強くおすすめする。
少なくとも呉市は戦艦大和の誇りで出来ている街だ。
戦争の経緯や思想はさておき、呉市の公園には大和の主砲を模した
オブジェが飾ってあったり、建造されたドックはそのまま残されていたりと、
とにかく戦艦大和を大切にする。
 
「大和沈めども、技術は沈まず今日日本の礎を築く」
 
これが大和ミュージアムのガイドのおばちゃんが言っていた
名文句である。感動したので機会さえあれば何度でも足を
運びたいと思っている。

戦艦大和ドック 
▲歴史の見える丘公園から望む戦艦大和ドック(夜景)

呉市の歴史の見える丘公園へ行く

長崎の武蔵ドックはこちら

 
鹿児島と大和
同様に坊の岬沖海戦が行われ、最後に大和が目撃された
縁の深い鹿児島で大和をいかして町興しできないか考えている。
鹿児島は本土決戦に備えた戦跡も多く、見ごたえがある。
指宿をはじめ、良い温泉もあるし、東京からお客さんをたくさん呼んで
過疎化に歯止めがかけられないか。考えている。
 
現地の友人と協力して戦艦大和グッズをいろいろ
作ることにした。
 
 
追記2015年4月
戦艦大和Tシャツ(通常版)販売開始しました。
こちらはamazonで購入できます。
 
また、置いていただける小売店様を募集しています。
買取・委託などご相談ください。
 

N

W



 

T

戦艦大和Tシャツ ホワイト販売ページへ
戦艦大和Tシャツネイビー販売ページへ
戦艦大和Tシャツブラック販売ページへ

戦艦大和イラスト

大和最終艤装図 
 

戦艦大和・武蔵 フリー素材

戦艦大和・武蔵の艦影フリー素材を作成しました。
ダウンロード使用できます。
詳しくは以下をご覧ください。 
 
画像使用についてのお願い

2014年11月21日 (金)

知覧特攻基地の実話 黎明の蛍

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『黎明の蛍』

知覧に発する小川は、川辺を経て万世に至り万之瀬川の大河となる。
この川には二種類の蛍がおり、一匹は小さく光量の低い平家蛍。
もう一匹は大きく光量の高い源氏蛍だ。叔父は常々言っていた。
彼等は戦争という時代の激流から発生した蛍だったと―――
淡く庭に飛ぶ蛍を見ながら呟いた。
 
この物語は、戦局が苛烈になり、愈々最終段階に差し掛かる頃の
話である。
私の叔父である前野親志は、太平洋戦争末期学徒動員で
十二才の頃から知覧飛行場の建設に駆り出された。十四才になった時、
空襲で破壊された掩体壕を旧制川辺中学の同期生と数人で修理を
していたのだ。爆弾で吹き飛ばされた壕をもっこで土を運び埋め、
シャベルで形を整え、切った杉や松の枝を被せ擬装するのである。
 
前野少年は、毎日それを繰り返していた。特攻兵達は掩体壕から
五町(五五〇メートル)程離れて、これ又上手く擬装された半地下壕の
三角兵舎に出撃命令が下る迄、一日千秋の思いで待ち続けていた。
特攻隊員は長くて一週間、短くて一日知覧で休養すると散り急ぐ
桜の如く出撃した。知覧だけではなくて、隣の万世、指宿、鹿児島、
桜島、鹿屋、出水、国分、串良から連日特攻機が出撃し散っていった。

 
特攻隊員は度々棺桶になるであろう特攻機(主に隼)を何度も見に
来ては夕方の発動機検査が終わると掩体壕のある峯苫地区から
十町離れた松崎の高台にある宮の湯に、ひとっ風呂浴びに来ていた。
最後の垢を流し、今生の別れなのだと覚悟を決めていたのだ。
 
前野少年も戦闘機隊の相川少尉や青白い顔の特攻隊員と会うのも
度々だった。家族への手紙や小包を託されることもあった。皆一応に
白い顔をしてぎこちない風であったが、笑顔が漸く板につく頃に出撃
であった。
 
彼は幾度となく特攻機を見送った。しかし機体は酷い有様だ。発動機
不調は当たり前で機体はブリキの継ぎ接ぎだらけ、座席は片道二時間半
だからと素麺箱もあった。敵は高オクタン燃料でキーンと鋭い音を
立てて突っ込んで来る。一方、日本機は燃料が無く、松の根から取った
粗悪な松根油の為、バタバタ音を立て黒い煙りを吐きながら飛燕や
五式戦が迎撃した。

 
「すまん又敵に逃げられてしまった」

 
空襲の合間に、屋根と柱に覆いだけある簡易に出来た銭湯で最近良く会う
戦闘機隊の相川少尉は、頭を掻きながら下げた。

 
「仕方ないですよ」

 
前野は悪態無く答える。電探も何も無い知覧で迎撃する方が無理なのだ。
力でも技でも無く科学技術の進歩が戦闘の行く末を左右する。敵機は
枕崎から海岸線すれすれに来て、突如盆地の知覧に覆い被さる様に現れ
ると、いきなり機銃掃射やロケット弾を放った。其の上数が圧倒的に
多すぎる。
一対五の空戦はざらであった。
 
「そんなことより背中を流しましょう」

 
と前野が云うと、同級の有村がへちまのたわしでごりごり相川の背を
擦った。悲鳴が知覧の山々に嬉々として響いた。三人で仲良く湯船に
沈んで未来を語り合う、そんな長閑な日々が繰り返される反面、
特攻基地を潰す為、空襲は連日激しくなり合間の銭湯も遂に無くなった。
 
学徒の同期生も殉職が相次いで何時も二人でコンビを組み仲が良かった
有村が、グラマンの機銃掃射で戦死したのも間も無くのことであった。
 
「腹一杯、母ちゃんの飯食って死にたい」
 
が、彼の最期の言葉であった。其の日、相川少尉が土下座して彼に謝った
 
「済まない、不甲斐ない俺達を許してくれ。守れなかった俺を許してくれ。
今度は敵を墜とす…たとえグラマンに体当たりしてでも墜としてやるから
―――」

 
腹の底から絞り出した呻き声は知覧の山々に悲しく響き、涙は音も無く
地に落ちた。

 
「帝都でB29への生還体当たりは聞いています。相川少尉、何があっても
死なんで下さい。奴の分迄生きて下さい。約束ですよ」

 
前野が云うと相川は軽く頷き砂を払いながら立ち上がった。

 
「俺は空では絶対死なんよ。絶対にな……」

 
彼に再び笑みが甦える。其れから基地内外で、豪放磊落で兄貴的な
存在だった相川少尉と会う事は二度となかった。友の死を悲しんでいる
暇は無い。次の日から作業は、とうとう前野一人になった。
 
汗をかきかき補修していると発動機不調の隼が黒い煙りを吐き、更に
油漏れも起こしている。

 
「ありゃ駄目じゃ、離陸できるのか?」

 
瞬時に彼は思った。隼には整備兵が四人も取り付いていたが無駄な
努力に思えた。少し離れた場所で浮かない顔した少尉が一人、腕を
組み愛機隼を見ていた。前野も隼を見ていたら突如少尉が振り返り目が
合った。反射的に敬礼をし、彼が視線を外すと、少尉がにこりと笑い
やってくる。目の前迄来ると颯爽と語った。

 
「君は勤労奉仕の学生さん?遅くまで仕事御苦労様。水でも飲むか?」

 
肩にかけてあった水筒を渡そうとすると、彼は、特攻基地の溜め水である
給水塔の水の不味さは知っていたから丁重にお断りした。その代わりにと
少尉はポケットから茶菓子を渡すと、俺の弟とそっくりで他人の様な気が
しないと喜んだ。前野は隼をじっと見ると

 
「少尉さんはあの飛行機で行くの?」

 
と尋ねた。

 
「ああ、あれで行くよ」

 
少尉は答えた。其の瞬間友の死も重なり、怒りにも絶望にも思える
複雑な感情に彼は捕らわれ、口から吹き出る様に言葉が出た。

 
「あれじゃあ無理だ。敵艦どころか敵の射程にも入らん」

 
彼は話しながらしまったと思った。少尉の顔が険しくなったからだ。
でも少尉は手は出さなかった。気を良くした前野は構わず続けた。

 
「少尉さん悪かことは云わない、途中の島でおりやい。あん飛行機じゃ
無駄死にやっど!」

 
遂に言った。今度こそ殴られると体を硬くしていると少尉は話し始めた。
 
「途中の島に下りる等、卑怯な真似は、日本人だから出来ない。俺も
あの隼が敵艦まで、辿り着けるとは到底思えない」
 
彼は面食らった。こんな隊員は初めてだった。普通は乱雑な直ぐ殴る
将校ばかりであったからである。口籠りながら少尉に問うた。

 
「で…では、少尉は何故行くのですか?このままだと無駄死にです。
私は少尉さんに生きて欲しい。どうか生きて下さい」

 
無理とは分かっているが、沢山の特攻兵の生き様を見た今、心底を
吐き出したのだ。すると少尉は、目に涙を浮かべ、首を大きく二度振ると、
 
「同期も日本を守る為、沢山死んだ。俺だけ生き残る訳にはいかない。
恐らく君の言う通り、隼は敵に届かんだろう。しかし君達に降るで
あろう敵弾の一発でも多く吸収して死んでいくから、無駄死にと
云わんでくれ」

 
いつの間にか、前野少年の瞳から大粒の涙が溢れていた。

 
「間もなく日本は戦争に敗れるだろう。しかし君の様な若者がいるから
こそ安心して死ねる。有難う弟達―――後世の日本を頼む。新しく
素晴らしい日本を作ってくれ」

 
二人は抱き合うと斜陽の中泣いた。

 
「明日黎明時、出撃する飛行機があれば俺達だから見送りに来て欲しい」

 
少尉は笑って言う。彼は敬礼をすると泣き乍ら笑い

 
「分かりました」

 
と答えた。
 
前野少年の家から知覧飛行場まで五里(二十キロ)ある。彼は夕方、家で
軽く芋を食べると、水筒と握り飯を持って家を出た。九十九折りの道を
行き、山を何度も越え、下弦の月と梟の声が不気味に響くなか金峰花瀬
から白川を越え、川辺田部田を抜け松崎の山に差し掛かり、もう直ぐ
知覧に入ろうとする所だった。
 
ふわりと青白い炎を灯しながら蛍が舞った。一つ、又一つと
―――夜明けの蛍か?彼が感傷に浸ると微かに爆音も聞こえた。

 
「違う!あれは蛍では無い、あれは特攻機だっ!!」

 
前野は気付くと同時に走り出した。急いで山を駆け上ると学生帽を
くしゃくしゃに握り潰して手を振り叫ぶ。蛍は又一つ、二つと飛んで
いく。やがて蛍達は上空を二回旋回し、朝日に浮かんで顔を出した
ばかりの開聞岳に向かって消えていった。少年は神に成りゆく彼等に
手を合わせ合掌し深く頭を垂れる。彼の頬に滂沱たる涙が溢れた。
 
前野は夜が明けると、必死になって少尉と発動機不調の隼を探した。
必ずあのオンボロ隼はあると思ったからである。

 
しかし特攻基地を幾ら駆けずり回っても少尉はおらず、隼も無かった。
まさかと思い高田地区の傍受施設に行くと歓声が上がり、レシーバーを
頭につけたまま興奮した様子で兵士が出てきた。敵空母を二隻に
大打撃を与えたらしい。少尉の儚い笑顔と声が何度も思い起こされた。

 
『君達に降るであろう銃弾を一発でも多く吸収して死んでいくので
無駄死にと言わんでくれ…』

 
前野は、飛行場脇の森に入ると、学帽を目深に被り声を殺して泣いた。
 
しかしまだ悲劇は終わってはいなかった。一月後のことである。
煩いグラマンが知覧に、ほぼ毎日決まった時間に定期便で来ていた。
しかし今回は時間を違えて不意に来たのだ。既に知覧では特攻機が
待機していた為、直援の戦闘機が基地上空で交戦せざるを得なかった。
飛燕や五式戦混合が被られながらも迎撃し、味方損失三機で
敵グラマン、コルセアを七機撃墜した。
 
彼は、プロペラの鼻を赤に塗り緑のまだら模様の目立つ相川少尉の
飛行機を空に発見する。空戦は知覧上空から指宿に移り今は川辺上空で
ある。相川少尉は激しい巴戦をした後、機体を捻ると後ろに付いた
グラマンを川辺と知覧の境いに叩き墜とした。
 
川辺駅から空戦状況を見ていた前野は興奮して相川少尉の名を叫び
ながら手を大きく振る。彼も気付いて翼を左右に振ると万世基地に
飛び去った。
 
味方の完勝に酔いしれていた其の時である。一機のコルセアが射撃
しながら川辺駅に向かって来た。前野も転がり、足を挫きながらも
機銃掃射を避けたが敵機コルセアが反転し、再び射撃体勢に入り
突っ込んで来る。駅資材倉庫壁に不覚にも追い詰められた彼が覚悟
した次の瞬間、斜め横から音も無く現れた飛燕が猛然と突っ込んで
来た。それは見慣れた赤色の鼻をした相川少尉機であり、あっと云う
間に互いが火達磨になり飛び散った。コルセアは金峰山麓の白川に
切りもみしながら墜落し、飛燕は川辺野間鳴が原に墜ちた。前野は
暫し呆然とした後、泣きながら駆けつけたが、既に遺体は運び出さ
れており、主人を失った飛燕が、まだ20ミリ機銃に熱をもったまま
靄の中佇んでいた。飛燕の弾装は空、相川少尉は瞬時の判断で前野
少年を守る為、敵に体当たりしたのである。彼の頭には、最期の別
れ際の言葉が何時までも響いた。

 
「許してくれ今度は墜とす…たとえグラマンに体当たりしてでも
墜としてやるから…」

 
「相川少尉!死ぬとは…死ぬとは言わなかったじゃないですか…」

 
前野少年は、陽が落ちても飛燕の傍らに座り込んで立たなかった。
其れから1ヶ月後の真夏、日本は連合国に対し無条件降伏する。
黎明時出撃した少尉の予言した通り、日本は矢尽き刀折れ遂に
敗れたのである。
 
叔父は酔っ払うと

 
「名も知らない少尉さんが平家蛍で、相川少尉が源氏蛍に思えるんだよ―――」

 
手の甲で涙を払いながら、焼酎を片手に私に語った。其の叔父も亡く
なり、どちらかの少尉のものである陸軍飛行帽だけが形見として
我が家に残されてある。残された飛行帽が相川少尉の物なのか、
特攻隊の少尉の物なのか答えは永遠に分からないまま、既に十五年の
月日が経つ。戦後七十三年初夏、蛍は今も誰も居ない叔父家の
庭で静かに舞っている。
  

有田 直史(著)
 
---------
  
この物語は鹿児島県在住で私の友人である有田氏が綴った実話である。
登場する前野少年こそ有田氏の叔父であり、このエピソードを生前
幾度となく語ってくれたというが、叔父が二人の少尉を回想するとき
悲しみがあまりに大きく、話はその都度、断片的であることがほとんど
だったという。物語の主役である二人の少尉であるが、そのうちのひとりは
迎撃戦闘機隊の相川少尉で、もう少し詳しく書くと、相川少尉は体当たり後
パラシュートで脱出したのだが、グラマンにパラシュートを切られ、地上に
叩きつけられ戦死した。もうひとりの隼の少尉は名前も聞かず別れたといい
氏の叔父は晩年まで後悔していたという。
 
有田氏は、これらの話を少しずつ繋ぎ合わせ、ついに物語を書きあげた。
氏は現在病床に伏しており「書けるときに書く」と体力気力を振り絞って
書いたものを、ここで世に出すことを諒承してくれた。これをご覧になった
現在を生きる人々に、二人の少尉の想いが伝わることを願いたい。
 
名のわからない少尉は資料により、ある程度特定することが出来たが
ここでは名を伏せておくことにした。
相川少尉は飛行第55戦隊の飛燕、相川治三郎少尉(特操一期)と
推定され、戦死は6月3日となっている。
 

篠原 直人(解説)
 

2014年11月 5日 (水)

BC級戦犯の処刑を見た

この内容は、昭和21年7月15日
元憲兵曹長の磯部氏がラングーン中央刑務所抑留中に目撃した法務死
(いわゆるBC級戦犯の処刑)についての証言です。2014年夏に
私を含む有志四名で、磯部氏に独自取材を行ったもので
やや刺激の強い表現が含まれますことをあらかじめお断り申し上げます。
 
95歳になる磯部さんは、こうした戦争のお話をされる際に、
「私は亡き戦友の代弁者として」と、必ず仰ってから
語り始めるのがのが常となっています。
 

BC級戦犯の処刑
YouTube: BC級戦犯の処刑

 
ラングーン刑務所におけるBC級戦犯の処刑と裁判の概要
昭和21年4月
ラングーン軍事法廷においてカラゴン村事件の裁判が開かれた。
17日間にわたる裁判の結果、日本軍将校四名が事件に深く関与したとされ
有罪、死刑が言い渡された。同年7月15日午前 少佐一名が絞首刑。
大尉一名と中尉二名が銃殺刑となった。
 
ただし戦勝国による裁判は必ずしも公正無私なものとは限らず、
その真偽は当然ながら、判決自体も開廷から結審まで合わせて
17日間という短期間に争われた結果であった。
 
日本軍側の主張でもあり矛盾点として付け加えるべきは
村の襲撃を命じたとされる師団長、連隊長は無罪であったうえ 法廷では
連合軍による日本本土無差別爆撃等による日本の民間人死傷も
同様の戦争犯罪にあたるとの言及がなされたが、以後一切、連合国の罪は
引き合いに出されることなく結審していることであろう。
 
 
カラゴン村事件とは
第三十三師団(弓)第215連隊第三大隊が ビルマ東南部の
モールメンにおいて女性子供含む現地住民600名を虐殺したとされる
事件である。カラゴン村の住民は英軍をゲリラ活動により支援しており
(これらを敵性部落と呼ぶ)さらに村が師団の 進軍経路上にあったため
師団司令部は 連隊に村の襲撃を下令したとされる。
  

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証言者略歴 
磯部喜一氏
最終階級憲兵曹長。 大正8年3月生まれ、鎌倉市出身。
昭和15年、歩兵49連隊(甲府)へ入隊 同年、憲兵試験を受験後合格。
中野の憲兵学校7期生として入学。 半年間の憲兵教育課程を修了後、
横須賀憲兵分隊で内地勤務。 司法係として、刑法を根拠とした軍人軍属の
犯罪取り締まり、 要人警護(葉山御用邸の警護)徴兵検査立ち会い、
遺骨引き渡しの警備等を行う。
 
昭和19年5月、外地勤務を志願しビルマ派遣。
現地人に変装し、諜報活動に尽力。インパール作戦中止に伴う
ラングーン放棄・シッタン平地作戦では(事実上の撤退作戦)
陸軍第一〇五旅団・敢威兵団の将兵3400名を導きモールメンへの
撤退路を確保した。
 
サトンにて終戦を迎える。バンワン、ラングーン刑務所へ抑留。
アーロン収容所を経て、昭和22年3月釈放。同年、8月復員。
 
97歳となった現在も
「亡き戦友の代弁者として」
講演、語り手を続ける。

 

2014年10月24日 (金)

ペリリュー島攻略と水陸両用戦車

_20090715_0139_1

 
米軍側より見る ペリリュー島攻略と水陸両用戦車

LVTまたはLVT(A)は上陸用舟艇または水陸両用戦車の名称である。

海兵隊では主に水陸両用装軌車両の略で
アムタンク(AMTRAK)または
アムトラック、(AMTANK)と呼ばれた。
 
ペリリュー上陸歩兵は全てアムトラックへ乗車
米第二海兵師団は1943年11月のタラワ攻略で
3000名を超える死傷者を出した。 タラワではアムトラックが
不足したため日本軍の銃火の下で サンゴ礁を歩いて上陸
しなければならなかったことが原因と考えられる。
第一海兵師団はこの戦訓から ペリリューでは突撃歩兵は
全てアムトラックに乗車し上陸することになっていた。
 

_20090715_0260_1▲ペリリュー島Dデイ。最終支援射撃を行う米艦船と上陸部隊。
 

_20090718_0918_1_1▲母艦であるLSTより出撃する米第一海兵師団とLVT

 
出撃から強襲揚陸まで

アムトラック・タンクは母艦であるLSTより出撃し
海岸から4000ヤード(3.6キロメートル) のラインで集結、
陸波を構成する。海岸線まで 時速7.2キロメートルで進撃し
およそ30分の距離であるが、上陸直前は極めて脆弱である。
 
「畜生!ジャップは無傷だ!」
もっとも、第一海兵師団は既に艦砲射撃で壊滅した海岸陣地に
日本兵が無傷の状態で潜んでいることは知らず
水際での反撃は全くの想定外であった。このため
海兵隊史上、極めて多大な犠牲を払う結果となった。
 
艦砲射撃を行った
J.B.オンデンドルフ海軍少将は
「ペリリュー・アンガウル両島に対する艦砲射撃は上陸前に
3,490トン、じ後3,359トン、
合計6,849トンであり、その効果に関し
上陸時の砲爆撃は当時最も完全で従来の如何なる支援より優れている
と思ったが
日本軍の掩蔽した火砲がLVT(A)に射撃開始したときの
私の驚きと残念さはどうであったかは想像されると思う」とのちに回想している。
 

_20090715_0141_2_2▲ペリリューの海岸を目指すLVT(A)4群

 
直撃弾で真っ直ぐに轟沈
LVTは装甲の薄さから、日本守備隊の放つ榴弾は脅威であり
徹甲弾においては過大ともいえる破壊力であった。 これらの直撃を
受けた車輛は兵員の逃げ出す間もなく水深の深い場所では真っ直ぐに
轟沈した。 浅瀬では燃え上がり、海兵隊員は火だるまとなりこぼれるように
海に落ちていった。

_20090718_0898_1_1

_20090718_0858_1_1▲ペリリュー島海岸を目指すLVT群。海岸より4000ヤード(3.6キロメートル)より
時速7.2キロメートルで進撃し砂浜到達まで30分を要した。
 

60輌が撃破された上陸戦
9月15日のDデイ(上陸戦)では 日本軍守備隊の熾烈な射撃により
60輌が上陸前に撃破されたとされる。(※1 
 

_20090718_0831_1▲LVT(A)4パーソナルネーム「レディラック」は最後まで生き残り
現在もペリリュー南部のジャングルにひっそりと眠っている。
 

陸上においての威力
しかし陸上においてのアムタンクは支援射撃や歩兵の盾として
絶大な威力を発揮し アムトラックは補給物資の輸送に重宝された。
この任務は危険を伴うものであり操縦士たちは飛行場までの運転を
パープルハートラン (名誉負傷賞へのひとっ走り) 山岳地帯への運転を
シルバースターラン (銀星章へのひとっ走り)と呼んでいた。
 

_20090715_0129_1▲ガドブス島掃討戦で火炎放射を行う様子

 
ペリリュー島での功績は大
どの操縦士も自分が何回運転したのか、あるいは車両を 何度修理したのか
わからなくなっていた。 彼らの忍耐力を維持していたのは奇跡とも
いえるほどであった。 操縦士はアムトラックが撃破されると所属する
トラクター大隊に戻らずその場で戦闘歩兵として最前線に留まる者もいた。
 
水陸両用車両は終始多大な犠牲を払ったものの
強襲揚陸での使用は当時最も優れた戦法であったし、犠牲の
多くは艦砲射撃の誤算からくるものであった。
結果として、その功績は大きく、ペリリュー戦で不可欠な存在で
あったのは確かである。
 
※1)日本側資料によると(防衛省戦史叢書)上陸戦当日に撃破された車両は少なくとも
60輌以上と記されている。
米軍公式記録では26輌のみとされている。 この数の相違は
多くのアムトラックの車長が水深の深い場所で完全に水没したような状況でなければ
撃破判定に異議を唱えたためであると考えられる。

 

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▲LVT4 上陸用舟艇
通称「アムトラック」 ペリリュー上陸戦で主力であった強襲揚陸艇。
クルー3名で兵員30名が輸送可能であった。 カタログ上の速力は
陸上32km/h、海上12km/hで、このLVT4は6月のサイパン戦で
はじめて使用された。兵員の乗降口が後部に移り、海岸で下車の
さいの防護を高めた。 ペリリュー戦では全てが更新されず不足分は
乗降部が前方の旧式LVT2等で埋め合わせており それらに乗車した
海兵隊は不運であった。
  

Imgp5770

Imgp5771


Imgp7743

▲LVT(A)1 水陸両用戦車
アムトラックにM5A1スチュワート軽戦車の砲塔である37mm戦車砲と
30口径機銃同軸装備を 搭載し、装甲を強化した水陸両用戦車である。
Dデイではこのアムタンクが最前線で制圧射撃を行い、その1分後、
突撃部隊の歩兵を載せたアムトラックが上陸した。
 

Imgp5746

▲LVT(A)4 水陸両用戦車(手前)
火炎放射装甲車 火力を強化し、M8砲塔に75ミリ榴弾砲が搭載され
50口径機銃を砲塔後部に備えた。いくつかの車両ではこれに火炎放射器を
備え、内陸部における掃討戦で 絶大な威力を発揮した。
  
▲LVT(A)2 水陸両用装甲車(奥)
LVT-2を装甲化したタイプで 兵員18名が輸送可能であった。
 

南方地図

風邪で寝込んでおりました。
何もできず3日も費やしてしまいました。
季節の変わり目は要注意ですね。
  

Scan001

 
戦前の南方地図です。
大きなサイズはこちらからダウンロード

当時の日本はこの地図に表された通り、太平洋の覇者であり
いかに米国にとって脅威だったか窺い知ることが出来ます。
 
これらの領地領海は全て国連から統治を認可された
委任統治領で、戦争に勝って手に入れたものではありませんでした。
 
 
関連記事
グアムはなぜ独立できなかったか「幻のチャモロ共和国」
ミクロネシア三国の独立をかけた戦いと辛勝

2014年10月13日 (月)

千明武久少佐の墓所へ

群馬県片品村にある千明大隊長のお墓参りに行ってきました。
 
いつもの事ながら、行き当たりばったりの旅でしたが

無事、お墓を探し当てて、大隊長にご挨拶ができました。
 
栃木県側からは奥日光のさらに奥、戦場ヶ原を抜けて
標高1800メートルの金精峠を越えて群馬県片品村へ。
もうじき雪がふるので今を逃すと冬季閉鎖されてしまい、
来年の初夏まで栃木県側からのアクセスは出来なくなってしまいます。
 
峠を越えて片品村へ下って行くと、千明少佐の故郷の集落があります。
誠に感慨深いものがあります。ここが千明少佐の菩提寺
龍滄院です。場所は群馬県片品村東小川2900

 

Imgp0823 

お寺さんなので、お墓がたくさん並んでいるのですが
ご住職に尋ねると親切に教えてくださいました。
武人のお墓にはこのような傘がついていることが多いです。
 
千明武久大尉はペリリュー島の水際攻防戦で
アメリカ海兵隊を全滅に追い込んだ歴史上唯一の部隊の大隊長です。
高崎15連隊第三大隊こと 千明大隊は精鋭猛者揃い、千明大隊長は
付属部隊を含む750名余りを率いて、海兵隊二コ連隊に対し敢闘、散華しました。
昭和19年9月16日未明。 行年28歳。
 
ペリリュー島の千明隊長陣地へ

 
※西地区の富田大隊も同様
 

Imgp0808

Imgp0820

 
ペリリュー島南部地区守備隊
高崎歩兵第十五連隊第三大隊長
千明武久(ちぎら たけひさ)大尉※戦死後少佐
 
墓碑謹書
履歴 正八位勲六等功六級 近衛騎兵少尉、千明林蔵の次男として
大正6年4月15日片品村鎌田にて出生 片品小学校を経て群馬県立
沼田中学校に進み在学中文武の秀才 剣道部主将として県下に
其の勇名を馳す そして県下大会に於いては優勝全国大会に進出
昭和10年4月陸軍士官学校第56期生として入校
昭和15年同校卒業と同時に歩兵第15連隊付中隊長教育主任を経
昭和19年2月満州国斉々哈爾(チチハル)より南方へ出陣
同年9月16日大隊長としてペリリュー島に於て散華す
行年二十八歳

義介謹書

2014年10月 4日 (土)

「矢矧」航海士が見たマリアナ、レイテの回想

巡洋艦「矢矧」航海士、池田武邦さんのお話しをまとめたので書きます。
 
池田武邦さん(元海軍中尉) 海兵73期。巡洋艦「矢矧」航海士。
マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、 天一号作戦(大和特攻)に参加。
 
マリアナ沖海戦の地獄・翔鶴の最期
遺族には「壮烈な戦死を遂げました」といって知らされるけれど、
現実は そのような体の良いものでは決してない。
兵士が死にゆく様は実に惨たらしく、目を背けたくなるような光景であった。
 
わが矢矧でも 甲板は血で真っ赤に染まり、彼らは医務室へ運ばれる
余裕など 無く放置されている。片腕を失った水兵(兵卒)が
自ら止血処置を施し「大丈夫であります!」と気丈に振舞っていた。
 
翔鶴の最期
マリアナ沖海戦では空母「翔鶴」の最期を目の当たりにした。
翔鶴を見ると既に絶望の中にあった。波がかぶる都度、甲板の血は洗われるが
すぐにまた真っ赤に染まる。手足が四散し息絶えた水兵が高角砲に
引っかかっている。 血なまぐささと、煙硝の混ざった匂いは口では言い表せない
ほどひどいものであったという。
 
艦の傾斜が次第に急になり、残った水兵もつかまっていられなくなると
甲板から、次々すべり落ちる。そこには引っ掻いたような血痕が残った。
避けるも何も運であるが、そのまま海へ転落すれば まだ幸運であった。
成す術もなく、エレベーターの開口部にバラバラと 落下してゆく水兵。
その内部には炎が燃え盛っていた。地獄であった。
 
接舷して救助したかったが、翔鶴の沈没に巻き込まれるので
何もできずにやや離れた位置からただ見ているほか無かった。
 
やがて艦は転覆し、大きな渦を巻き起こし沈んでいった。
翔鶴の最期であった。
 
こうした経緯でマリアナ沖海戦では虎の子である
正規空母 「翔鶴」「飛鷹」そして、新鋭の「大鳳」までもが 失われ、
海軍は大敗北を喫した。 なお、マリアナ沖海戦は、日本海軍史上、
最後のZ旗掲揚の戦いだったと 伝わる。Z旗とは国家存亡
(皇国の興廃この一戦にあり)をかけた戦いで のみ掲げられる旗で
過去には、日本海海戦、真珠湾攻撃で掲揚された経緯がある。
そしてこのマリアナ沖海戦で3回目となったが、決戦に敗れ最後の機会となった。
 
レイテ海戦
池田氏の戦いは続く。 この後、レイテ海戦、坊の岬沖海戦(大和特攻)にも
参加している。 足が震えていた地獄のような戦場も、一度経験すると
良くも悪くも、すっかり慣れてしまうという。 最後の大和特攻においては
「平常心そのものだった」と語る。
 
「新造艦は弱い」
レイテ、坊の岬沖海戦いずれも敵弾飛び交う中、池田氏は
淡々と自らの任務に集中し航路の計算を行った。
氏が何度も強調していたのは 「新造艦は弱い」ということだった。
どんなに新鋭技術が盛り込まれた艦船でも 練度が低く、敵の標的に
なった場合は脆いという。 空母「大鳳」はその最たる例で、新鋭艦にも
かかわらず 戦線参加と同時に撃沈された。大鳳沈没には様々な要因が
重なり 一概に言えるものではないが、この「初陣による脆弱性」は
決して無視できないものだ。
 
修羅場を潜った者の強さ
これと同時に強調されていたのは
「ただし、その修羅場さえ生き残ればものすごく強くなる」 という話だった。
一度実戦を経験し生き残った艦でこそ 真価を発揮するのだという。
氏の二度目以降の戦いがそれを証明している。
 
栗田艦隊を率いる 
あの堂々の栗田艦隊を引っ張ったのは実は矢矧であった。
池田氏は矢矧航海士として、狭い水道を一列陣で 突破してみせた。
後続の艦に航路指示のサーチライトで信号を送る。 それがまた後続の艦に
伝わり、そのまた後ろに、といった具合で 戦艦武蔵、大和も然り経由し、
信号灯が最後まで伝わると 今度は最後尾の艦から矢矧に問題なく
伝令されたことを 伝える信号が返ってきた。
 
戦場での平常心と死への麻痺
レイテ沖海戦では死の恐怖はなく、 ただ、自らの職責を果たすという思い
しかない。 冒頭で記した惨たらしいと感じていた修羅場もだんだんと慣れて
「平気になってくる」のだという。 レイテ沖海戦の戦闘中握り飯すら作れなくなると、
カンパンが配られるのだが 修羅場ゆえべったりと血の付着したカンパンが
多かったので、 運よくあまりついていないものを選んで食べたという。
 
甲板では腸がはみ出して苦しんでいる戦友がいたので
氏はそれを見かねてその長い腸を素手で体の中に戻してやったという。
「もう助からないと思ったが、戻してやった。なぜそんなことを したのか
よく自分でもわからない。とにかくどんな惨い光景でも 平気になっていた。」
と回想する。
 
戦友の水葬・沈まない棺
それでも同期の死は言葉にできないものであった。
海戦を生き残った後、戦死者の亡骸を新南群島(現在の南沙諸島)で水葬した。
同期の中尉がレイテで戦死し、即日大尉となり 水葬をとりおこなうため
「これより水葬の行う」と、その旨旗艦に 信号を送り艦隊を一旦離脱した。
新南群島は比較的穏やかで敵襲の恐れも低い海域であった。
士官の水葬はそれなりの棺に入れられた。棺はそのままでは沈まないので
石など可能な限りの重りを入れ、5、6人の力でようやく かつぐことが出来た。
 
しかし、それでも棺は沈まない。 棺はしばらく波間を漂い、それが別れを惜しむ
ようで見るに堪えないものであった。 兵卒の水葬は棺はなく毛布にくるむ
のみであった。
 
坊の岬沖海戦
坊の岬沖海戦では大和と自身の矢矧も沈み、
いよいよこれで 最期かと思ったが、立ち泳ぎで一晩耐えて、
運よく駆逐艦に救われた。 漂流時、丸太が浮いていたが、
つかまっていた者は格好の標的とされ 米軍機の機銃掃射を受けて死んだ。
 
特攻作戦を部下に下令する
生きながらえた氏はその後、大竹にある潜水学校で教官を務める。
「もう潜水艦も残っていないというのに」 と呟いた。
そこで回天特攻隊の編成を下令するに至る。
 
部下には
「第二熱望」、「熱望」、「可」、「否」 いずれかを選び、紙に書いて
提出するように指示したが 「否」と記した者が三人いて上官に
ひどく殴られていたという。 池田氏は彼らがその後どうなったか、
ずっと気になっていた。が知る由もなく現在に至るという。
 
日本は戦争に負けたが
これからを担う世代へ向けて、池田氏の見解として
日本は戦争に負けた。だが、その負けっぷりは歴史上比類なきもので
日本と戦った連合国は「日本と戦争したらひどい目にあうぞ」という教訓を
得たのは 少なからず確かである。
 
他国軍隊に玉砕という概念は理解できない。
あの栗田艦隊が一年半で全滅したのである。
損耗率100%で降参する軍隊は世界どこを探しても 日本だけだ。
勝ったとしても、甚大な損害が予想される 日本との戦争は絶対に避けたい。
それが目に見えない形で 国際社会から評価されているのではないか。
「歴史をきちんと見ないと明日はつくれない。これからの世代には
歴史に学ぶことを切に願う」と締め括った。
 
戦後
凄惨な戦争を経験し、一度は死んだ身 どんな逆境であろうと、
殺されることはない、と思えば 気持ちが楽になり、なんてことはなかった。
氏は終戦後、復員業務に従事した後、東京帝国大学(現・東京大学)で
建築を学んだ。そして昭和42年に日本設計事務所(現・日本設計)を設立。
新宿三井ビル、京王プラザホテルなどを設計し、超高層ビル建築の草分け的
存在となった。その後も日本を代表する建築物の設計総括などをつとめ、
ハウステンボスを手掛けたことでも知られている。
 
また、池田氏は海上自衛隊の観艦式に招待された折
その堂々たる海原そびえる護衛艦隊が あの日見た
栗田艦隊そっくりであったと記憶を蘇らせたという。 
 

 

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マリアナ沖海戦航空母艦一覧

翔鶴

瑞鶴

大鳳

隼鷹


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飛鷹

龍鳳

Photo_9

千歳

千代田

Photo_12

瑞鳳

Photo_15


Photo_14

マリアナ沖海戦参加の第一機動艦隊、空母9隻の戦闘機隊一覧です。
このほかに基地航空隊として第61航空戦隊が主力として敢闘しました。
 
第一機動艦隊 第三艦隊・甲部隊/第601海軍航空隊
正規空母「翔鶴」(沈没)
正規空母「瑞鶴」(小破)
正規空母「大鳳」(沈没)
 
同・乙部隊/第652海軍航空隊
正規空母「隼鷹」(中波)
正規空母「飛鷹」(沈没)
軽空母「龍鳳」(小破)
  
第二艦隊 第三航空戦隊/第653海軍航空隊
軽空母「瑞鳳」
軽空母「千代田」(小破)
軽空母「千歳」 
 
第61航空戦隊参照
第121海軍航空隊(雉)彗星、彩雲強行偵察隊。テニアン、ペリリュー基幹
第261海軍航空隊(虎)ゼロ戦戦闘機隊。サイパン主基地
第263海軍航空隊(豹)ゼロ戦戦闘機隊。グアム(大宮島)主基地
第265海軍航空隊(雷)ゼロ戦戦闘機隊。パラオ・アイライ主基地
第321海軍航空隊、月光戦闘機隊、テニアン主基地
第343海軍航空隊(隼)ゼロ戦戦闘機隊、パラオ、グアム主基地
第521海軍航空隊(鳩)銀河爆撃隊、ヤップ基地
第523海軍航空隊、彗星艦爆隊、ペリリュー基地
第761海軍航空隊(龍)一式陸攻、彗星による強襲部隊。ペリリュー基地
第1021海軍航空隊、輸送隊。