2014年10月13日 (月)

千明武久少佐の墓所へ

群馬県片品村にある千明大隊長のお墓参りに行ってきました。
 
いつもの事ながら、行き当たりばったりの旅でしたが

無事、お墓を探し当てて、大隊長にご挨拶ができました。
 
栃木県側からは奥日光のさらに奥、戦場ヶ原を抜けて
標高1800メートルの金精峠を越えて群馬県片品村へ。
もうじき雪がふるので今を逃すと冬季閉鎖されてしまい、
来年の初夏まで栃木県側からのアクセスは出来なくなってしまいます。
 
峠を越えて片品村へ下って行くと、千明少佐の故郷の集落があります。
誠に感慨深いものがあります。ここが千明少佐の菩提寺
龍滄院です。場所は群馬県片品村東小川2900

 

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お寺さんなので、お墓がたくさん並んでいるのですが
ご住職に尋ねると親切に教えてくださいました。
武人のお墓にはこのような傘がついていることが多いです。
 
千明武久大尉はペリリュー島の水際攻防戦で
アメリカ海兵隊を全滅に追い込んだ歴史上唯一の部隊の大隊長です。
高崎15連隊第三大隊こと 千明大隊は精鋭猛者揃い、千明大隊長は
付属部隊を含む750名余りを率いて、海兵隊二コ連隊に対し敢闘、散華しました。
昭和19年9月16日未明。 行年28歳。
 
ペリリュー島の千明隊長陣地へ

 
※西地区の富田大隊も同様
 

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ペリリュー島南部地区守備隊
高崎歩兵第十五連隊第三大隊長
千明武久(ちぎら たけひさ)大尉※戦死後少佐
 
墓碑謹書
履歴 正八位勲六等功六級 近衛騎兵少尉、千明林蔵の次男として
大正6年4月15日片品村鎌田にて出生 片品小学校を経て群馬県立
沼田中学校に進み在学中文武の秀才 剣道部主将として県下に
其の勇名を馳す そして県下大会に於いては優勝全国大会に進出
昭和10年4月陸軍士官学校第56期生として入校
昭和15年同校卒業と同時に歩兵第15連隊付中隊長教育主任を経
昭和19年2月満州国斉々哈爾(チチハル)より南方へ出陣
同年9月16日大隊長としてペリリュー島に於て散華す
行年二十八歳

義介謹書

2014年10月 4日 (土)

「矢矧」航海士が見たマリアナ、レイテの回想

巡洋艦「矢矧」航海士、池田武邦さんのお話しをまとめたので書きます。
 
池田武邦さん(元海軍中尉) 海兵73期。巡洋艦「矢矧」航海士。
マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、 天一号作戦(大和特攻)に参加。
 
マリアナ沖海戦の地獄・翔鶴の最期
遺族には「壮烈な戦死を遂げました」といって知らされるけれど、
現実は そのような体の良いものでは決してない。
兵士が死にゆく様は実に惨たらしく、目を背けたくなるような光景であった。
 
わが矢矧でも 甲板は血で真っ赤に染まり、彼らは医務室へ運ばれる
余裕など 無く放置されている。片腕を失った水兵(兵卒)が
自ら止血処置を施し「大丈夫であります!」と気丈に振舞っていた。
 
翔鶴の最期
マリアナ沖海戦では空母「翔鶴」の最期を目の当たりにした。
翔鶴を見ると既に絶望の中にあった。波がかぶる都度、甲板の血は洗われるが
すぐにまた真っ赤に染まる。手足が四散し息絶えた水兵が高角砲に
引っかかっている。 血なまぐささと、煙硝の混ざった匂いは口では言い表せない
ほどひどいものであったという。
 
艦の傾斜が次第に急になり、残った水兵もつかまっていられなくなると
甲板から、次々すべり落ちる。そこには引っ掻いたような血痕が残った。
避けるも何も運であるが、そのまま海へ転落すれば まだ幸運であった。
成す術もなく、エレベーターの開口部にバラバラと 落下してゆく水兵。
その内部には炎が燃え盛っていた。地獄であった。
 
接舷して救助したかったが、翔鶴の沈没に巻き込まれるので
何もできずにやや離れた位置からただ見ているほか無かった。
 
やがて艦は転覆し、大きな渦を巻き起こし沈んでいった。
翔鶴の最期であった。
 
こうした経緯でマリアナ沖海戦では虎の子である
正規空母 「翔鶴」「飛鷹」そして、新鋭の「大鳳」までもが 失われ、
海軍は大敗北を喫した。 なお、マリアナ沖海戦は、日本海軍史上、
最後のZ旗掲揚の戦いだったと 伝わる。Z旗とは国家存亡
(皇国の興廃この一戦にあり)をかけた戦いで のみ掲げられる旗で
過去には、日本海海戦、真珠湾攻撃で掲揚された経緯がある。
そしてこのマリアナ沖海戦で3回目となったが、決戦に敗れ最後の機会となった。
 
レイテ海戦
池田氏の戦いは続く。 この後、レイテ海戦、坊の岬沖海戦(大和特攻)にも
参加している。 足が震えていた地獄のような戦場も、一度経験すると
良くも悪くも、すっかり慣れてしまうという。 最後の大和特攻においては
「平常心そのものだった」と語る。
 
「新造艦は弱い」
レイテ、坊の岬沖海戦いずれも敵弾飛び交う中、池田氏は
淡々と自らの任務に集中し航路の計算を行った。
氏が何度も強調していたのは 「新造艦は弱い」ということだった。
どんなに新鋭技術が盛り込まれた艦船でも 練度が低く、敵の標的に
なった場合は脆いという。 空母「大鳳」はその最たる例で、新鋭艦にも
かかわらず 戦線参加と同時に撃沈された。大鳳沈没には様々な要因が
重なり 一概に言えるものではないが、この「初陣による脆弱性」は
決して無視できないものだ。
 
修羅場を潜った者の強さ
これと同時に強調されていたのは
「ただし、その修羅場さえ生き残ればものすごく強くなる」 という話だった。
一度実戦を経験し生き残った艦でこそ 真価を発揮するのだという。
氏の二度目以降の戦いがそれを証明している。
 
栗田艦隊を率いる 
あの堂々の栗田艦隊を引っ張ったのは実は矢矧であった。
池田氏は矢矧航海士として、狭い水道を一列陣で 突破してみせた。
後続の艦に航路指示のサーチライトで信号を送る。 それがまた後続の艦に
伝わり、そのまた後ろに、といった具合で 戦艦武蔵、大和も然り経由し、
信号灯が最後まで伝わると 今度は最後尾の艦から矢矧に問題なく
伝令されたことを 伝える信号が返ってきた。
 
戦場での平常心と死への麻痺
レイテ沖海戦では死の恐怖はなく、 ただ、自らの職責を果たすという思い
しかない。 冒頭で記した惨たらしいと感じていた修羅場もだんだんと慣れて
「平気になってくる」のだという。 レイテ沖海戦の戦闘中握り飯すら作れなくなると、
カンパンが配られるのだが 修羅場ゆえべったりと血の付着したカンパンが
多かったので、 運よくあまりついていないものを選んで食べたという。
 
甲板では腸がはみ出して苦しんでいる戦友がいたので
氏はそれを見かねてその長い腸を素手で体の中に戻してやったという。
「もう助からないと思ったが、戻してやった。なぜそんなことを したのか
よく自分でもわからない。とにかくどんな惨い光景でも 平気になっていた。」
と回想する。
 
戦友の水葬・沈まない棺
それでも同期の死は言葉にできないものであった。
海戦を生き残った後、戦死者の亡骸を新南群島(現在の南沙諸島)で水葬した。
同期の中尉がレイテで戦死し、即日大尉となり 水葬をとりおこなうため
「これより水葬の行う」と、その旨旗艦に 信号を送り艦隊を一旦離脱した。
新南群島は比較的穏やかで敵襲の恐れも低い海域であった。
士官の水葬はそれなりの棺に入れられた。棺はそのままでは沈まないので
石など可能な限りの重りを入れ、5、6人の力でようやく かつぐことが出来た。
 
しかし、それでも棺は沈まない。 棺はしばらく波間を漂い、それが別れを惜しむ
ようで見るに堪えないものであった。 兵卒の水葬は棺はなく毛布にくるむ
のみであった。
 
坊の岬沖海戦
坊の岬沖海戦では大和と自身の矢矧も沈み、
いよいよこれで 最期かと思ったが、立ち泳ぎで一晩耐えて、
運よく駆逐艦に救われた。 漂流時、丸太が浮いていたが、
つかまっていた者は格好の標的とされ 米軍機の機銃掃射を受けて死んだ。
 
特攻作戦を部下に下令する
生きながらえた氏はその後、大竹にある潜水学校で教官を務める。
「もう潜水艦も残っていないというのに」 と呟いた。
そこで回天特攻隊の編成を下令するに至る。
 
部下には
「第二熱望」、「熱望」、「可」、「否」 いずれかを選び、紙に書いて
提出するように指示したが 「否」と記した者が三人いて上官に
ひどく殴られていたという。 池田氏は彼らがその後どうなったか、
ずっと気になっていた。が知る由もなく現在に至るという。
 
日本は戦争に負けたが
これからを担う世代へ向けて、池田氏の見解として
日本は戦争に負けた。だが、その負けっぷりは歴史上比類なきもので
日本と戦った連合国は「日本と戦争したらひどい目にあうぞ」という教訓を
得たのは 少なからず確かである。
 
他国軍隊に玉砕という概念は理解できない。
あの栗田艦隊が一年半で全滅したのである。
損耗率100%で降参する軍隊は世界どこを探しても 日本だけだ。
勝ったとしても、甚大な損害が予想される 日本との戦争は絶対に避けたい。
それが目に見えない形で 国際社会から評価されているのではないか。
「歴史をきちんと見ないと明日はつくれない。これからの世代には
歴史に学ぶことを切に願う」と締め括った。
 
戦後
凄惨な戦争を経験し、一度は死んだ身 どんな逆境であろうと、
殺されることはない、と思えば 気持ちが楽になり、なんてことはなかった。
氏は終戦後、復員業務に従事した後、東京帝国大学(現・東京大学)で
建築を学んだ。そして昭和42年に日本設計事務所(現・日本設計)を設立。
新宿三井ビル、京王プラザホテルなどを設計し、超高層ビル建築の草分け的
存在となった。その後も日本を代表する建築物の設計総括などをつとめ、
ハウステンボスを手掛けたことでも知られている。
 
また、池田氏は海上自衛隊の観艦式に招待された折
その堂々たる海原そびえる護衛艦隊が あの日見た
栗田艦隊そっくりであったと記憶を蘇らせたという。 
 

 

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マリアナ沖海戦航空母艦一覧

翔鶴

瑞鶴

大鳳

隼鷹


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飛鷹

龍鳳

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千歳

千代田

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瑞鳳

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マリアナ沖海戦参加の第一機動艦隊、空母9隻の戦闘機隊一覧です。
このほかに基地航空隊として第61航空戦隊が主力として敢闘しました。
 
第一機動艦隊 第三艦隊・甲部隊/第601海軍航空隊
正規空母「翔鶴」(沈没)
正規空母「瑞鶴」(小破)
正規空母「大鳳」(沈没)
 
同・乙部隊/第652海軍航空隊
正規空母「隼鷹」(中波)
正規空母「飛鷹」(沈没)
軽空母「龍鳳」(小破)
  
第二艦隊 第三航空戦隊/第653海軍航空隊
軽空母「瑞鳳」
軽空母「千代田」(小破)
軽空母「千歳」 
 
第61航空戦隊参照
第121海軍航空隊(雉)彗星、彩雲強行偵察隊。テニアン、ペリリュー基幹
第261海軍航空隊(虎)ゼロ戦戦闘機隊。サイパン主基地
第263海軍航空隊(豹)ゼロ戦戦闘機隊。グアム(大宮島)主基地
第265海軍航空隊(雷)ゼロ戦戦闘機隊。パラオ・アイライ主基地
第321海軍航空隊、月光戦闘機隊、テニアン主基地
第343海軍航空隊(隼)ゼロ戦戦闘機隊、パラオ、グアム主基地
第521海軍航空隊(鳩)銀河爆撃隊、ヤップ基地
第523海軍航空隊、彗星艦爆隊、ペリリュー基地
第761海軍航空隊(龍)一式陸攻、彗星による強襲部隊。ペリリュー基地
第1021海軍航空隊、輸送隊。
 


 

2014年9月28日 (日)

御嶽山噴火

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御嶽山噴火に伴う救出作業で

宇都宮飛行場から派遣された
ヘリコプターUH-60JAが活躍しています。
 
自衛隊頑張れ!残された登山者頑張れ!
一人でも多く、命を救ってほしいです!
 
追記
 
陸上自衛隊は噴石や火砕流にも耐えられる
89式装甲戦闘車を投入。現場で救出活動にあたっています。
 

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2014年9月26日 (金)

彼岸花

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鹿沼市(旧粟野街)にあるお寺、常楽寺です。
ここは彼岸花(曼珠沙華)の群生地として有名で
今年も見頃を迎えています。
※見頃は9月中旬~下旬で年によって前後します。
 
彼岸花は墓地の境目や畦道、田んぼの土手などに多くみられ
根に猛毒を持つことから、墓を荒らすモグラを避けたり
農作物への被害を防止する目的でご先祖様が植えたのが
始まりとか、他に諸説あるようですが実際のところ
その歴史は解明されていないそうです。
 
そんなミステリアスな要素も相まって、この花を持って帰ると
「家が火事になる」という言い伝えがあり、子供の時分、
祖母から激しく叱られたものです。
 
しかし、最近ではそんな言い伝えを知る世代は高齢化し
忘れ去られつつあります。屋内に切り花として飾られていたのを
初めて見たときは驚きました。
 

Imgp0269

 
最近は園芸用の品種として白や黄色の花を咲かせるものも
あるそうです。時代はすっかり変わりました。
 
とはいえこの花が咲くお彼岸はご先祖様が最も身近に
感じる頃です。黄泉の世界と少なからず繋がりがあるのではないかと
いろいろと想像を膨らませています。
 
常楽寺
栃木県鹿沼市下粕尾949

海上自衛隊練習艦隊

2014092513460000

 
この図は先日、ガダルカナルへ寄港し、英霊のご遺骨をお迎えした

海上自衛隊練習艦隊の航路です。
 
練習艦隊は「かしま」「せとゆき」「あさぎり」の三隻から編成され
そのうち一隻は女性の艦長です。

 
5月22日、薫風香しき日本を出港し、
13カ国、15寄港地を巡り、日本への帰港は
10月24日、既に紅葉も終わり頃です。
 
あと一ヶ月ですね。

2014年9月23日 (火)

画像の配布を検討中

当ブログの画像、イラスト等の無料配布を検討しています。
素材としてお役に立てれば嬉しいのですが
悩みは扱いが難しいことです。最も危惧する点は
画像だけが次々右クリックで保存・流用され、撮影場所、意図、出所が
わからなくなる事です。誤った情報として一度流失しまうと
取り返しがつかなくなるのです。
 
そこをもう少し慎重に検討して改めてポリシーを掲げる予定であります。

2014年9月19日 (金)

ゼロ戦を描き直し中

02

ゼロ戦をより精密に描き直しているところです。
まずは定番の五二型を描きました。
 
これから六三型も描きます。六三型は五二型と比べると
スピンナーの大きさとエンジンカウルの形状が少し異なるのですが
以前描いた絵はほぼ、五二型そのまんまでした。
参考にした写真資料がそもそも間違っていたのです。
きちんと確認しないと駄目ですね。これから修正します。
 
機体色も中島飛行機の塗料を再現したつもりです。三菱の零戦より
すこし薄い緑色です。ひとつ前の記事で
「紫電改」を描きましたが、紫電改の塗料(川西系)は
一見おなじようでいてかなり青い色です。 
なんだか書いてる内容が久し振りに
オタクっぽくなってしまいました。
 

メカのデザインは時代背景を顕著に反映するので
実に興味深く、飽きることがありません。
 
 

第343海軍航空隊戦闘飛行隊編成

紫電改

 
作画に伴い以下の記事を更新しました。

折口を守った神様、紫電改の林喜重大尉
過去記事のビジュアル化を進めています。
 

Photo_2

 
第343海軍航空隊は 主力として紫電改(紫電二一型以降の愛称)
3個戦闘飛行隊を据えていました。
 

紫電改

菅野直大尉率いる戦闘301飛行隊は「新選組」
鴛淵孝大尉の戦闘701飛行隊を「維新隊」
林喜重大尉の戦闘407飛行隊は「天誅組」

そして彩雲偵察機を用いた
偵察第4飛行隊は「奇兵隊」 と呼ばれていました。
敵機に体当たりした「彩雲」~三魂之塔へ
 
このほか、徳島では紫電(一一型)を用いた
戦闘401飛行隊「極天隊」が控えていました。
 
第343海軍航空隊全搭乗員リスト

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

012

2014年9月12日 (金)

遥かなるハトホベイ

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ハトホベイ州概要

ハトホベイ州はパラオ共和国の最南端に位置する州で
トビ島(トコベ島)とその東のヘレン環礁から成る。
北緯2度、パラオ諸島450kmに位置し
ヘレン環礁はアオウミガメ、オオシャコが多く
海鳥の大繁殖地である。
 
世界の果てのトビ島は
人口20名、面積は0.6平方キロメートル。
人種的には中央カロリン人に近い。
  
日本統治時代には燐鉱採掘のほか、鰹節やナマコ漁が主な産業であった。
戦時中は陸軍守備隊が配置されたが、終戦まで飢えに苦しんだ。
その終戦の知らせも、島へ届いたのはコロールよりはるかに後で
生き残った守備隊も帰還する術がなく、時間を要した。
 
現在は国境警備のレンジャーが僅かに配置されている程度で
物資補給のための定期船も一応あるが、丸三日かかるという。
 
「ハトホベイに飛行場を作ってくれ」
その、遥かなるハトホベイの州知事が2年ほど前、コロールを訪れ、
観光誘致にと、飛行場の建設を嘆願した。 
「これがそのイメージだ」と言って広げた図面には
島に十文字の滑走路が描かれている。
 
驚きの青写真
驚くべきは、その図面に、日本語で
「昭和15年」と記されていたことであった。どうも当時
日本海軍がペリリューに次いで計画した滑走路だったらしい。
とんでもないお宝と歴史の発見だった。
 
遥かなるハトホベイ 遥かなる昭和15年
観光が成り立つかはさて置き、
単純問題、ハトホベイへ飛行機を飛ばすのは可能なのか
現地のパイロットに尋ねると
「何もない洋上を長距離飛ぶので双発の飛行機でないと渡航は困難」
らしい。それにしても当時の日本はここに十文字の滑走路を造成し
本気で零戦を飛ばそうと計画していた。
 
遥かなるハトホベイと、遥かなる昭和15年の設計図。
感慨深い出来事であった。 
 
※写真はアイライ飛行場。イメージです。