2011年8月11日 (木)

千明隊トーチカ

ペリリュー島南部/千明大隊トーチカ

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不死身の日本軍小要塞
小要塞とも呼べるこの巨大トーチカは、南部地区隊の高崎十五連隊第一大隊
千明武久(ちぎらたけひさ)大隊長の陣地内にあり、鉄筋コンクリート厚さ
1.5メートル以上、銃眼口の開閉式鋼鉄は厚さ30ミリと、艦砲射撃も効果はなく
75ミリ戦車砲も跳ね返された。
 
地下に設けられた出入り口により 火炎放射は役にたたず中の日本兵は
事実上不死身に近かった。 日本守備隊は、当初米軍の上陸地点をここ
南地区と予想し、最重要拠点として 強固な陣地を構築していた。
 
実際の戦闘では第七海兵連隊に背後を突かれる形となったため陣地の威力を
充分に発揮できなかったが、千明大隊は敢闘し上陸部隊に大打撃を与えた。

 

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千明大隊長と若き精鋭、高崎十五連隊
千明大隊長は群馬県片品村出身の28歳で、配属部隊と合わせて750名を
指揮し、上陸戦当日にはオレンジ3上陸部隊の右翼を叩き、北方に
追いやったことで上陸後の海兵隊に大混乱を生じさせたほか、上陸後も
アンパンと呼ばれる地雷を用いて抱いて敵戦車の腹下に潜り込み自爆する
戦法を用いて敵戦車を擱座させた。
 
千明大隊長は最前線で指揮中に銃弾を受け16日未明に戦死。
部隊は群馬県出身者が最も多く次いで長野、栃木、茨城出身と、いずれも
20代前半の現役兵であった。
 
米海兵師団に水際で大損害を与えたのは有能な指揮官である千明大隊長と
部下の 高崎十五連隊第一大隊が歴戦の精鋭でこそ成し得た結果であろう。

陥落
この小要塞は最終的に、 勇敢な海兵隊爆破班が煙幕を利用し、 死角を突いて
少しずつ這うように接近、 壁に直接爆薬を設置して爆破、陥落させた。
千明大隊長戦死後も大隊は戦闘を継続したが 18日までに玉砕。
海兵隊は東海岸へ進出した。
 

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ガイド
中に入ることもできます。入って、トーチカ内側から海を見てみてください。
兵隊さんがどんな気持ちだったか、少しだけわかるかもしれません。
 
千明大隊長について
群馬県片品村にある千明大隊長のお墓へ

ガスマスク

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これもペリリューの複郭陣地に落ちていました。

日本陸軍のガスマスクの一部(ろ過器)です。

実際に戦いで用いる機会はありませんでしたし

身に着けると、とても重くて邪魔なので、皆、捨ててしまいました。

2011年8月 9日 (火)

洞窟秘密基地の零式水偵(アイライ)

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干潮時に姿を現すのは、零式水偵のプロペラ先端です。

正式名称『零式三座水上偵察機』と呼ばれ、海軍さんでは最もよく使われ、

活躍した水上偵察機です。

 

水面に見えるのはペラの先端だけですが、シュノーケリングですぐ近くまで

いって潜ってみると、翼やその骨組み、コクピットなどを間近に見ることができます。

 

背後の洞窟はハンガーケーブと呼ばれていて、飛行機を隠すには絶好の

天然格納庫でありました。しかし、この機体は、その格納庫から出して水上に

浮かんでいるところを敵機(てっき)に見つかり銃撃を受けて、破壊されました。

 

この水偵は篠原福次郎中尉率いる第30特別根拠地隊附飛行隊

の機体で、このほかにもアラカベサン、アミオンス水上基地跡など

水上飛行機基地の跡を見ることができます。

 

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シュノーケリングでエンジンに近付いてみます。大きなピストンです。

水の中を覗くと、そのほかに主翼や操縦席の様子を見ることができました。

洞窟格納庫の中に入ってみましょう。広くひんやりしています。


 

零式水上偵察機

同じ「ゼロ」という文字が使われていますが、ゼロ戦とは違います。

ゼロ戦は正式名称『零式艦上戦闘機』と呼ばれ

一人乗りで、敵と空中戦をする為の戦闘機です。

一方、この機体は、零式水上偵察機。敵の基地や艦船を偵察したり、

見張りをするために使われた3人乗りの偵察飛行機です。

 

飛行機に少しでも詳しい方には

「くどくど説明をしなくても、そんなことは当たり前だ」と言われてしまいそうですが

日本人観光客は、それを知らない人が多いのです。

もっとひどいのは、パラオ人のガイドです。

アメリカの飛行機(B-24の残骸など)まで「ゼロ戦」といいます。

あれもゼロ戦、これもゼロ戦、落っこちている飛行機はみんなゼロ戦なのです。

 

しかし、ここでパラオ人のガイドが悪いとは決して言ってはいけません。

我々、日本人の戦争に対する関心の薄さから、こうした事態を招いていること

他ならないからです。

このほかにB-24の残骸や大発もあり、主なダイビングショップのツアーで

リクエストすると気軽に行くことができますので興味のある方は

問い合わせてみてください。

2011年8月 7日 (日)

パラオの自動車事情 酷使される日本車

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この国には、信号機がひとつもありません。

 

パラオの自動車事情について、思いついた事を少し書きます。

私自身が実際にハンドルを握り、走って感じたことであります。

 

まず、旅行会社やダイビングショップの観光窓口でレンタカーを借りたい旨を伝えても

きちんとした会社であれば「あまりおすすめできない」と言われるでしょう。

それは、パラオの自動車事情のいいかげんなところにあります。

街で見かけるのは、一世代前(平成一桁台の年式)の日本車が多いのですが

 

「とりあえず走りさえすれば良い」といった感じで、サスペンションが片方オシャカになったのか

大きく傾いても頑張って走っていたりします。

 

外装が朽ちているのは仕方ないことですが、ひどいものになるとヘッドライトやテールライトが

丸ごと無くなった車も見かけます。レンタカー会社の車も中古の右ハンドル日本車が

目立ちます。(最近になって、ヒュンダイの新車を仕入れ始めたようですが)

 

日本車は、その頑丈さ故に酷使されていますが、いつかは壊れます。

大切に修理し続けて使う心がけは見習いたいところで、自動車も天命全うするのは

良いのですが、突然、ブレーキが効かなくなったら大変です!

 

夜は特に危険で酔っ払い運転は日常茶飯事であります。

 

そもそも、右側通行で右ハンドルが多いのは危険ですし、とても不都合です。

たとえば光軸をめいっぱい反対側に向けても限度があります。

その他にもいろいろと目に見えない問題点があるでしょう。

自動車に詳しい方ならおわかりと思います。

 

そうだ。シートベルトもしなくて良いのです。

安全運転に対する意識も低いので、常に自衛を心がけ走っています。

2011年8月 6日 (土)

海軍飛行艇整備基地(海軍アラカベサン水上基地)

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◆二式大艇の陸揚げ整備基地

アラカベサン島に残る飛行艇陸揚げ用のスロープです。

水面に向かうにつれ、ゆるやかに傾斜しています。

九七式飛行艇や、二式大艇をここに陸揚げし、整備を行いました。

スベリと呼ばれる頑丈なコンクリートが当時のまま残っています。

近くには小型の水上偵察機(下駄履き飛行機)の係留ブイも残っています。
 
下の画像は横濱のものですが参考イメージとして見てください。

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現在、この場所は島民憩いの場になっています。潮風がとても心地良く

感じられます。コロールから歩いても来れる距離です。

ここで潮風を浴びながら、当時の様子を想像してみるのも良いかと思います。

  

※PPR(パラオパシフィックリゾート)ホテル敷地内にも、規模が小さめですが

同じようなスロープがあります。

 

◆アラカベサン水上基地概要

アラカベサン水上基地は昭和10年に建設された水上飛行機の発着場で、
スベリと呼ばれる
巨大なコンクリート製の傾斜路
(幅40メートル長さ120メートル)が残る。

この傾斜を利用して大型飛行艇を陸揚げし整備等を行った。
 
同様の傾斜路がPPR内にも残されており、当時は
飛行艇が収容できる格納庫も備えていた。
 
PPRホテルの敷地はそのほとんどが海軍基地跡にあたる。
付近の海面に残るコンクリートの建造物は小型水上飛行機用の
係留設備である。

◆アラカベサン水上基地の歴史

昭和14年には、大日本航空株式会社が「綾波号」をはじめとする
川西式四発飛行艇(海軍九七式飛行艇の輸送機型または
民間旅客用機体の名称)
を用いて横濱-パラオ間ではじめての民間航空路を
結んだ。翌15年からは一般乗客の利用が
認可となり、横濱-パラオ線は
月二往復が運行され、途中サイパンへ一泊し
2日間かけてパラオへ到着した。
貨客船であれば横濱からパラオまでは10日を要する時代、
飛行艇航路の開設は
大幅な時間短縮を可能にした。
 
さらに昭和16年からはヤルート航路が誕生。
パラオを起点に、トラック、サイパン、トラック、ポナペ、ヤルート、ポナペ
トラック、パラオの順で月2回、一巡8日間の行程で運行し太平洋の
島々を結んだ。
 
昭和16年末の開戦とともに、アラカベサン水上基地は瞬く間に海軍の
重要拠点と化した。

基地には九七式飛行艇や二式大艇などの大型機はもとより、
零式水偵などといった
軍用機の発着が多くを占めるようになり、
大日本航空の飛行艇と乗務員も全て海軍の
指揮下におかれた。
 

◆海軍乙事件の発生

昭和19年2月、戦艦武蔵を旗艦とする連合艦隊がパラオへ入港。
連合艦隊司令部をコロールに置いた。(南洋長長官邸の裏)

3月31日、パラオ大空襲でコロールは甚大な被害を受け、
古賀峯一海軍大将は連合艦隊司令部のダバオ転進を決定する。
このとき既に武蔵は内地へ向け待避しており、残された古賀長官と幕僚らは
二式大艇二機に分乗し、ダバオへ逃れるべく離水準備を急いだ。

同日夜、ふたたびパラオに空襲警報が発令された。長官転進の命令を受け
パラオへ到着したばかりだった二式大艇一番機の機長、難波正忠大尉は燃料補給を
強く要請したが、参謀二人が「その必要は無い。出発急げ」と離水を迫ったため、
まもなく長官と幕僚らを乗せた二機はアラカベサン水上基地を離水した。
ところがダバオへの飛行中、低気圧に巻き込まれ、古賀長官座乗の一番機は
消息を絶った。残骸は最後まで見つからず、古賀長官は後に殉職とされた。
一方、福留参謀長搭乗の二番機は不時着水後、辛うじてセブ島へ漂着し
命こそ繋いだものの、現地ゲリラに捕えられ、機密文書を奪われる結果となった。
海軍乙事件と呼ばれる出来事である。

 

2011年8月 5日 (金)

手榴弾

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ペリリュー島、複郭陣地で見つけた、日本軍の手榴弾です。

守備隊の兵は自決用に一個持たされていました。ご覧の通り、不発弾でありますが

これを握り締めていた兵隊さんは、どんな気持ちだったのでしょうか。

 

攻撃側の米兵は負傷すると後方に下げられ、手厚い治療を受けることができました。

しかし、日本守備隊は、四方を敵に囲まれ、逃げ場はありません。

なんと言っても衛生材料(治療の薬や包帯)が無いので、助かる命も

助からず、負傷すればそのまま死ぬしかなかったのです。

文字通り、島を死守。徹底抗戦を以って、米軍の進攻を阻止、長期化に持ち込みました。

 

米軍の手榴弾も載せておきます。

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これは壕の中にありました。画面左が日本、右が米軍の手榴弾です。

誰かが並べたのでしょうか。ペリリューのジャングルでは今でも多くの不発弾や遺品、ご遺骨が

手付かずで眠っています。特にこうした不発弾を見つけても、決して手を触れず

ガイドの指示に従って頂きますようお願いします。

2011年3月18日 (金)

横浜 裏の歴史「根岸外国人墓地」

JR山手駅から歩いて2、3分のところにある 
「横浜根岸外国人墓地」を訪れた。

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住宅街を見下ろす丘の上にあり、閑散としている。

もともとは横浜外国人墓地が手狭になったの折、ここ根岸に新設されたもので
関東大震災で犠牲となった外国人を埋葬したほか、船員など異国の地で
亡くなった名前のわからない者も多い。墓石は多様である。



ここに横浜の裏の歴史がある。

この慰霊碑は片翼の天使を象ったもので、飛べなかった天使
すなわち生きることを許されなかった嬰児を表現している。

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横浜は1945年の敗戦以降、アメリカ軍の進駐によって
面積の大部分を接収され、混迷の時代が始まった。

アメリカ軍兵士による日本人女性に対する性的犯罪が横行し
望まれない混血児が多く誕生した。

こうした嬰児は20万人ともそれ以上とも伝えられているが
戦後混迷も相まって、現在でもその事実について
自治体は明確な言及を避けられている。

慰霊碑や周辺に明記は無い。
しかし集められた証言によると、ここに埋葬された嬰児の数は
800から900と言われ、横浜外国人墓地に夜中遺棄される事も日常であった。

さらに朝鮮戦争の特需によって活気沸いた横浜の街であったがこれは裏の姿である。
風紀は乱れ、生活の術を身を売ることでしか得ることのできなかった日本人女性が
娼婦となって現れ、ベトナム戦争の終結まで続いた。

墓地を歩くと時折、風で舞った落ち葉の擦れる音が耳に残る程度で
あとは自分の足音だけが響く。駅前の喧騒が嘘のようだった。

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市営であるため、墓守によって掃除が行き届いているものの
横浜外国人墓地とは様相がまったく異なり、訪れる者は皆無で
その存在は地元でも薄れたものになっている。

名も無き天使たちの安息を祈る。

計り知れない悲しみ-遺族との交流を経て

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先日の講演会では私が撮影した戦跡やジャングルの写真をスクリーンで 
ご覧いただいたのですが、終わりますと、ご遺族の方が駆け寄ってきて

「父が玉砕しているんです。そのシャングルの写真を一枚くださいませんか」

と涙を流していました。わたしももらい泣きしそうになるのを堪えました。
しかし肉親を亡くされた方の悲しみは計り知れません。
ガダルカナルに次いで、パラオでも4800人もの兵隊さんが戦わずして
餓死しています。 その事実も講演の中で伝えましたら、ショックだった
のでしょう。

「わたしの父はそんな苦しい思いをしていたのか?勇敢に戦って死んだと
聞かされていたのに」 とも尋ねられました。

資料を探りましたら、確かにその方の場合、戦死でしたが
これからそういった事例は数多く出てくると思います。
こればかりは事実を伝えねばなりませんし、辛いところです。

そのほかに、フィリピンで従軍看護婦をしていた方から
捕虜となる前に青酸カリを配ったというお話を聞きました。

2011年2月18日 (金)

大戦末期、ドイツから日本を目指した潜水艦~カエサル作戦

この調査により、現場の海域で基準値を大きく上回る水銀汚染が確認され
深刻な問題となっている。付近の海域は漁が禁止され、現在でも解決に至っていない。

1944年 12月5日

一隻の潜水艦がキール軍港を隠密裏に出航した。
ナチスドイツの潜水艦、Uボート「U-864」である。

これはカエサル作戦と称され、ドイツが開発した最新鋭の
ジェットエンジン(メッサーシュミット)と
それらを学んだ日独双方の科学者、技師を
日本へ送り届ける任務であったと一般にい云われている。

アメリカによる連日の戦略爆撃に苦しむ日本にとって、ジェットエンジンを搭載した
新型の迎撃戦闘機の開発が急務であった。

しかしこの頃、ドイツは戦況悪化を重ね、ソ連軍はベルリン目前に迫っていた。
群狼戦術で恐れられたUボートも多くが沈められ勢いを失っていた。ドイツ海軍にとって
最後に残されたのが北海を抜けるルートであった。

グレートブリテン島(イギリス)北端をまわり、
その後南下、アフリカ大陸の最南端、喜望峰沖を経て、日本統治下のペナン(現在のマレーシア)
を目指す計画で、用いられたUボート「U-864」は全長90メートル、速力20ノット
乗員72名の命を預かる艦長はラルフ=ライマー・ボルフラム少佐だった。

日中は深く潜航し、しばらくは順調な航行を続けた。

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艦体は大きな衝撃に見舞われる。座礁によるものであった。
幸いにも、復帰したU-864であったが、この一件により予定外の修理を迫られ
ノルウェーのベルゲン(Bergen)基地に寄港。同基地はドイツ海軍最後の要衝
であり、鉄筋コンクリートで囲まれた防空ドック「ブンカー」を備えていた。

これに身を寄せたU-864に対し、僅か数時間後、上空に英軍機が襲来。
爆撃を受ける。ブンカーの恩恵より甚大な被害こそ間逃れたものの、足止めを
一層長引かせた。しかしこの間、乗員は上陸を許され休息を得ることができた。
多くの者は、家族や恋人に充てて手紙を書き記したが、これが生きて地を踏む最後の機会となった。

全て筒抜けだったのだ。早々に暗号解読に成功したイギリスは
積荷の内容から目的地、乗り込んだ日独の科学者の氏名、カエサルという
作戦名までも掌握していた。

その情報をフェイエ島(Fedje Is)付近を哨戒中の「ヴェンチャラー」に転送する。

ヴェンチャラーはシェトランド諸島(Shetland s)ラーウィック(Lerwick)基地所属の
イギリス海軍潜水艦で、北海、北大西洋で13隻撃沈のスコアを誇り
25歳の艦長、ジミー・ラウンダーズ大尉が指揮していた。

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ベルゲンを出港したU-864は、ヴェンチャラーの敷いた哨戒網の中へ突入する。
しかし、広大な海原で、潜水艦を探索することは相当に困難であり、
U-864はこれを突破。無事外洋へ出ると、喜望峰へ向け進路を取った。

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U-864を深刻なトラブルが襲った。右舷機関(エンジン)の故障である。
これによりボルフラムはベルゲンへ引き返すことを決断する。

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哨戒網の中に戻るU-864。先に気付いたのは待ち構えていたヴェンチャラーであった。
U-864の放つ僅かなスクリュー音を聴音員は見逃さなかった。ソナーを打てば確実に敵の位置を
知ることが可能だが、それは自らを曝け出す愚考でもあった。

12時12分
ラウンダーズは敵がジグザグに航行していることを知り、進路を予測、
4本すべての魚雷発射管を開くと、雷撃を命じた。
当時、潜航中の潜水艦同士で水雷戦を行った例は皆無であり、一線を画した
未来の戦法であったと言える。

接近してくる魚雷にようやく気付くいたU-864は
必死の回避を試みた。急速潜航し面舵切ったが、等間隔で放射状に放たれた魚雷が接近する。

ヴェンチャラーは4本の雷撃を終えると同時に、それらを見届けることなく深く潜航した。
今度は自らが攻撃される側となるからである。同艦の魚雷発射管は4本。
それに対しUボートは6本で一度回避されると一気に形勢が逆転する。

12時14分30秒、ヴェンチャラーの聴音員がヘッドフォンを通して水中での破壊音を確認した。
それはマッチ箱を握り潰したような音で、4本目の魚雷が命中したものと推定される。

2007年
ノルウェーの無人海底調査船により沈没したU-864の艦体が確認された。
艦体の近辺海底には水銀が入った容器が散乱しており、その数は1857個、合計60トンに及んだ。
いずれも腐食が進み、水銀が漏れ出している。水銀は、当時の産業、すなわち兵器製造に欠かせない
原料であったことから潜水艦に積載されたものと推定される。

はるか極東を目指した潜水艦U-864は、現代にも及んで重責を残しつつ海底に眠り続けている。

北海

2010年6月29日 (火)

田中 民穂(飛曹長) パイロットデータベース

田中民穂飛曹長
 
乙種11期
大正12年長崎県出身。 

昭和18年、第261海軍航空隊に編入
東山市郎中尉の分隊に所属しサイパン・アスリート飛行場に進出。
パラオ大空襲邀撃戦に出撃したと記されているが、
261空戦闘行動調書の出撃名簿に記録は無く、不明瞭。

 
メレヨン島、大宮島(グアム)上空で幾度も敵機と交戦
261空で最後まで生き残った奇跡の搭乗員。
 
米軍上陸当日のサイパン島をゼロ戦で脱出、ついでに爆装し
小陸地点を爆撃した。メレヨン、パラオを経てセブに到着。 
以降201空へ編入、神風特攻隊の直衛を行う。
 
20年1月、内地へ帰還し252空、次いで203空に移って
防空、特攻隊の直衛にあたった。
 
被撃墜落下傘降下が三回。
必ず生きて帰った。
 
戦後は全日空機長を務めた。
故人。