2011年8月16日 (火)

ガラスマオの滝と戦跡史跡探索

Imgp6398_2

 

ガラスマオの滝へ行ってきました。
オプショナルツアーが一般的ですが個人行っても問題ありません。
行く場合は滝への入口で、5ドルの入州税のみ支払いましょう。
 
ジャングルを流れる川をザブザブと歩いて行きます。
とても涼しげです気分が良いです。滝までは入口から40分くらいでしょうか。
歩く速度で個人差があります。
 
滝のすぐそばに行けます。打たれることもできます。
肩に重くのしかかり、けっこう痛いですけど。
日本人のオキャクサンここにくるとみんな
シュギョウといってあぐらをかくのが恒例だそうです。
 
滝までの道のり
 

20100206_334

20100206_337

20100206_328

ケーブルカーのレール跡が残っています。
これは日本統治時代の名残です。
ガラスマオで採掘されたボーキサイト(アルミの原料)をトロッコで運んだ跡です。
機関車も残っています。 この石がボーキサイト。これがアルミになり
最終的に飛行機の材料となります。
 

20100206_343

20100206_325

20100206_345

 
ようやく川に出ました。涼しくて気持ちが良いです。
ここから先は腰まで水につかって歩くので、濡れても良い恰好で。

20100206_347

 
川の途中にあります小さなダムのようなところは
これもボーキサイト産業の名残。洗鉱(せんこう)場です。
 
泥や土にまみれたボーキサイトの原石をここで
綺麗に洗い流します。
 

Imgp6391

Suizinsama022_2

 
これは水神様の祠(ほこら)です。「水天宮」と刻まれています。
70年以上前の当時から、ここに鎮座しています。

水上様をお祀りすることで、作業の安全を祈ったんですね。
 
ちょっとだけ川の上流へ寄り道したところにあるのですが
これを見つける人はすくないだろうなぁ。歴史あるものだから
ツアーで紹介すればいいのに、と思います。
 

Imgp6398_3

20100206_359

20100206_362


約30分のトレッキングで滝へ到着。
パラオといえば、海もいいけど
ジャングルもいい!
 
このスケールは必見!

日本の観光地では滝つぼで
滝に打たれる経験など
まずできないでしょう。
  







 
ボーキサイト積載場跡へ
さて、来た道を戻りまして、ボーキサイトの遺構を見学していきましょう。
 
ガラスマオの集落を抜け、海を目指します。
レンタカーは日本の中古車マーチ号。
 

Imgp8184

Imgp8181

Imgp8174

 
どんどん走って突堤の先端まで行きましょう。道沿いに

コンクリートの基礎が並んでいます。これはなんの跡だろう?
 

Imgp3563

Imgp3564

何か見えてきました。
 

Imgp3557

Imgp3560

Imgp3559

でーん!!!!
 
これはさきほど、ガラスマオの滝で見たボーキサイトの鉱石が
ここまでコンベアーで運ばれ船に積み込まれるところです。
 
道沿いに点在していたコンクリートの基礎は
コンベアーの支柱でした。
 
およそ70年前。戦前から戦中にかけて
我々日本人の先輩方が南洋開拓で一生懸命汗を流し、頑張っていた

その遺構です。
 

アルミの村
ガラスマオ一帯はかつてボーキサイト採掘により賑わった。
 
昭和13年、南洋アルミニウム鉱業株式会社によって着手された
ボーキサイト(アルミニウム原料)の採掘はガラスマオ鉱区において
年産3万トン、翌昭和14年は8万トンを採掘するに至り
アンガウル島の燐鉱とともにパラオの主要産業として
祖国の繁栄に寄与した。
 
現在でもその跡を工程順に見ることができる。
採掘場から採取されたボーキサイトの鉱石は
ガソリン機関車(合計10台)に牽引されたトコッコ(合計550台)で
銑鋼場へ運ばれる。精鉱後、ベルトコンベアーで貯鉱場に運ばれ
波止場から船積みされ内地へ輸送された。
敗戦とともに消滅したボーキサイト産業であったが現地に
おける埋蔵量は600万トンとも推定され、現在に至っても
パラオ共和国の有効な鉱物資源として活用可能である。
 
※このほかアルマテン鉱区が稼働したが
付近に海軍砲台(アルマテン砲台)があったため
昭和17年7月に稼働を中止した。

 

Imgp3553_2 

さて、帰りながらまた別の遺構を見学していきましょう。
 

0731_057_2 

これはコンパクト道路沿いに残る機関砲陣地跡。
14師団の主力はペリリュー島で第二連隊が玉砕した後も
パラオ本島決戦に備えていましたが、大痛手を食らった米海兵隊は
直接対峙を避け、本島を兵糧攻めにし、終戦まで孤立させました。
この兵糧攻めより、4800名以上の兵隊さんが飢えと病気により
亡くなっています。
   
この機関砲陣地はかなりわかりにくい場所にあるので、
ガイドに聞くのが一番です。 

 

Imgp8186

バベルダオブのコンパクト道路を通って帰ります。途中
世界一、人口が少ない首都といわれる
マルキョクの国会議事堂がポツンと丘の上に立っています。
 
 
以上、
ガラスマオには多く日本統治時代の歴史がつまっています。
当時に思いを馳せてみると何倍も味わい深いものになるでしょう。

2011年8月12日 (金)

ペリリュー天野戦車隊 九五式軽戦車「いづも」

ペリリュー島の天野戦車隊九五式軽戦車について

ペリリュー島に残る九五式戦車

▲ペリリュー島に残る九五式戦車「いづも」
 
◆天野戦車隊・概要

天野隊長率いる九五式軽戦車17輌は9月15日午後の飛行場攻防戦で
米海兵隊第一、第五連隊と対峙し玉砕した。

戦車は車輌同士の識別を容易にするため砲塔の側面に白いペンキで
ひらがなでそれぞれ名前が記されていた。 天野戦車隊長は「さくら」であった。
青森県出身の田中指揮小隊長車は「むつ」 、岩手県出身の高橋小隊長は
「きたかみ」 そのほか「もがみ」「ふじ」など それぞれ小隊長や車長の郷土に
ちなんだ名をつけた。 現在残るこの戦車は「いづも」と推定されている。
※篠原調べ
 
◆天野戦車隊の戦法
天野隊長から事前に通達された戦法は、二車両ごとの行動を徹底し
米M4戦車に対しては徹甲弾を用いて二車両同時にキャタピラを狙い、
擱座させる。砲塔は装甲が厚いから絶対に撃ってはならない。
 
さらに戦車一両につき市岡大隊と七中隊所属の二個分隊が
跨乗歩兵となり敵陣へ突撃するというものであった。
 
◆実際の戦闘経緯~勇猛果敢に敵陣へ突撃
米海兵隊との戦力差は圧倒的であった。 海兵隊はバズーカ砲
(対戦車砲で貫通力がある)を用いて 日本戦車をたちどころに撃破した。
これに加えM4戦車3輌が 支援を行った。
 
しかし日本戦車隊は良く統制が取れた動きを見せ、生き残った車輌は、
ひるむことなく、跨乗歩兵とともに、勇猛果敢に前進した。 被弾した戦車は
炎を上げ煙の尾を引きながらもスピードを落とさず前進を続け、敵陣に突撃した。
 
戦車は敵陣の只中でついに傾き、停止したが戦車兵は その場で車載機銃を
斉射した。 擱座して燃え上がる戦車からハッチを開けて脱出する戦車兵がいたが
海兵隊が火炎放射を浴びせると戦車兵は燃えながらついに倒れた。
かくして敢闘するも全車輌が撃破され 天野戦車隊は玉砕した。
 
残存兵力も歩兵部隊に合流し水府山および中の台附近にて
9月21日ごろまでに全員戦死した。
 

ペリリュー戦車隊 
▲飛行場で擱座した天野戦車隊所属九五式戦車「むつ」
奥には海軍の「彗星」が見える。

 
◆九五式軽戦車諸表
乗員3名、重量7.4トン、全長4.3メートル、全幅2.07メートル
三菱製ディーゼルエンジン出力110~120馬力、最大時速40km/h(~45km)
37ミリ戦車砲一門、九七式7.7ミリ車載重機二搭載。、装甲 砲塔および車体の
前面とも12ミリ。
 
◆操縦
乗員三名のうち右側に操縦士が座り二本の操縦桿で操縦に専念する。
左側は銃手で7.7ミリ車載機銃による射撃、無線機の取り扱いを行う。
中央上部砲塔が車長の定位置。 小隊長は戦車長として戦車砲や車載重機に
よる射撃実施、小隊間の連絡、さらに戦車隊長(天野)は各小隊を掌握して
手足の如く指揮しなければならない。

無線機は周波数一定の水晶発振器による電信と電話の両方が可能だったが
各人が何役もやらねばならず戦車兵は何れも優秀だった。
 

ペリリュー島の戦車



 
濃硫酸バッテリー ジーゼルエンジン発動には強力な力が必要で
12ボルト180アンペア級のバッテリーを四個取り付けてあるが
バッテリーは湿気と暑さに弱くすぐに電圧が降下するので
明けても暮れても予備バッテリーとかわるがわる充電した。
 
 
◆見学にあたってのお願い
ペリリュー飛行場の攻防戦で奮戦した九五式軽戦車です。ペリリュー島戦跡
一日観光で必ず見学する定番ですが、どこまでガイドが説明しているでしょう。
敵の集中砲火を浴びた、この九五式軽戦車は、その薄い装甲故に大破し
生き残った戦車兵は脱出するも、更なる弾幕の中に 投げ出され、手足は
四散し火炎放射器で焼かれ、黒焦げになって転がっています。 
 
そんな惨状を知ってか知らでか、若い日本人観光客が笑顔で戦車との
記念撮影にいそしんでいます。 ただの見世物となってしまった戦車。
現地の年配パラオ人や 戦争経験者は嘆き悲しんでいます。
どうか英霊の気持ちを忘れないでください。
 
  
戦車隊部隊史
 
昭和19年
3月 5日 満州勃利に於て第14師団戦車隊として編成完結 
3月28日 大連港より東山丸 能登丸に分乗し征途に就く 
4月28日 コロール島に兵器人員の揚陸完了 ガスパン村に移駐 
5月16日 ペリリュー島に派遣 歩兵第2連隊長の指揮下に入る 
中の台附近に陣地構築 出撃訓練に従事 
9月15日 島南部より米軍上陸 反撃命令により出撃 飛行場附近に於て
敵と遭遇 良く敢斗せるも戦車隊主力壊滅 9月21日 残存兵力は歩兵部隊に合流
水府山および中の台附近にて前進を阻止 敢斗せるも全員玉砕
九五式戦車17両を基幹 通称 照4363部隊 天野国臣隊長以下128名戦死

2011年8月11日 (木)

千明隊トーチカ

ペリリュー島南部/千明大隊トーチカ

Imgp5816_1 

不死身の日本軍小要塞
小要塞とも呼べるこの巨大トーチカは、南部地区隊の高崎十五連隊第一大隊
千明武久(ちぎらたけひさ)大隊長の陣地内にあり、鉄筋コンクリート厚さ
1.5メートル以上、銃眼口の開閉式鋼鉄は厚さ30ミリと、艦砲射撃も効果はなく
75ミリ戦車砲も跳ね返された。
 
地下に設けられた出入り口により 火炎放射は役にたたず中の日本兵は
事実上不死身に近かった。 日本守備隊は、当初米軍の上陸地点をここ
南地区と予想し、最重要拠点として 強固な陣地を構築していた。
 
実際の戦闘では第七海兵連隊に背後を突かれる形となったため陣地の威力を
充分に発揮できなかったが、千明大隊は敢闘し上陸部隊に大打撃を与えた。

 

Imgp5808_1

Imgp5819_1

Imgp5809_1

 
千明大隊長と若き精鋭、高崎十五連隊
千明大隊長は群馬県片品村出身の28歳で、配属部隊と合わせて750名を
指揮し、上陸戦当日にはオレンジ3上陸部隊の右翼を叩き、北方に
追いやったことで上陸後の海兵隊に大混乱を生じさせたほか、上陸後も
アンパンと呼ばれる地雷を用いて抱いて敵戦車の腹下に潜り込み自爆する
戦法を用いて敵戦車を擱座させた。
 
千明大隊長は最前線で指揮中に銃弾を受け16日未明に戦死。
部隊は群馬県出身者が最も多く次いで長野、栃木、茨城出身と、いずれも
20代前半の現役兵であった。
 
米海兵師団に水際で大損害を与えたのは有能な指揮官である千明大隊長と
部下の 高崎十五連隊第一大隊が歴戦の精鋭でこそ成し得た結果であろう。

陥落
この小要塞は最終的に、 勇敢な海兵隊爆破班が煙幕を利用し、 死角を突いて
少しずつ這うように接近、 壁に直接爆薬を設置して爆破、陥落させた。
千明大隊長戦死後も大隊は戦闘を継続したが 18日までに玉砕。
海兵隊は東海岸へ進出した。
 

_20090716_0138_1

 
ガイド
中に入ることもできます。入って、トーチカ内側から海を見てみてください。
兵隊さんがどんな気持ちだったか、少しだけわかるかもしれません。
 
千明大隊長について
群馬県片品村にある千明大隊長のお墓へ

ガスマスク

IMGP5960_1

これもペリリューの複郭陣地に落ちていました。

日本陸軍のガスマスクの一部(ろ過器)です。

実際に戦いで用いる機会はありませんでしたし

身に着けると、とても重くて邪魔なので、皆、捨ててしまいました。

2011年8月 9日 (火)

洞窟秘密基地の零式水偵(アイライ)

064

 

干潮時に姿を現すのは、零式水偵のプロペラ先端です。

正式名称『零式三座水上偵察機』と呼ばれ、海軍さんでは最もよく使われ、

活躍した水上偵察機です。

 

水面に見えるのはペラの先端だけですが、シュノーケリングですぐ近くまで

いって潜ってみると、翼やその骨組み、コクピットなどを間近に見ることができます。

 

背後の洞窟はハンガーケーブと呼ばれていて、飛行機を隠すには絶好の

天然格納庫でありました。しかし、この機体は、その格納庫から出して水上に

浮かんでいるところを敵機(てっき)に見つかり銃撃を受けて、破壊されました。

 

この水偵は篠原福次郎中尉率いる第30特別根拠地隊附飛行隊

の機体で、このほかにもアラカベサン、アミオンス水上基地跡など

水上飛行機基地の跡を見ることができます。

 

038

055

071

050

シュノーケリングでエンジンに近付いてみます。大きなピストンです。

水の中を覗くと、そのほかに主翼や操縦席の様子を見ることができました。

洞窟格納庫の中に入ってみましょう。広くひんやりしています。


 

零式水上偵察機

同じ「ゼロ」という文字が使われていますが、ゼロ戦とは違います。

ゼロ戦は正式名称『零式艦上戦闘機』と呼ばれ

一人乗りで、敵と空中戦をする為の戦闘機です。

一方、この機体は、零式水上偵察機。敵の基地や艦船を偵察したり、

見張りをするために使われた3人乗りの偵察飛行機です。

 

飛行機に少しでも詳しい方には

「くどくど説明をしなくても、そんなことは当たり前だ」と言われてしまいそうですが

日本人観光客は、それを知らない人が多いのです。

もっとひどいのは、パラオ人のガイドです。

アメリカの飛行機(B-24の残骸など)まで「ゼロ戦」といいます。

あれもゼロ戦、これもゼロ戦、落っこちている飛行機はみんなゼロ戦なのです。

 

しかし、ここでパラオ人のガイドが悪いとは決して言ってはいけません。

我々、日本人の戦争に対する関心の薄さから、こうした事態を招いていること

他ならないからです。

このほかにB-24の残骸や大発もあり、主なダイビングショップのツアーで

リクエストすると気軽に行くことができますので興味のある方は

問い合わせてみてください。

2011年8月 7日 (日)

パラオの自動車事情 酷使される日本車

20100206 120_1

この国には、信号機がひとつもありません。

 

パラオの自動車事情について、思いついた事を少し書きます。

私自身が実際にハンドルを握り、走って感じたことであります。

 

まず、旅行会社やダイビングショップの観光窓口でレンタカーを借りたい旨を伝えても

きちんとした会社であれば「あまりおすすめできない」と言われるでしょう。

それは、パラオの自動車事情のいいかげんなところにあります。

街で見かけるのは、一世代前(平成一桁台の年式)の日本車が多いのですが

 

「とりあえず走りさえすれば良い」といった感じで、サスペンションが片方オシャカになったのか

大きく傾いても頑張って走っていたりします。

 

外装が朽ちているのは仕方ないことですが、ひどいものになるとヘッドライトやテールライトが

丸ごと無くなった車も見かけます。レンタカー会社の車も中古の右ハンドル日本車が

目立ちます。(最近になって、ヒュンダイの新車を仕入れ始めたようですが)

 

日本車は、その頑丈さ故に酷使されていますが、いつかは壊れます。

大切に修理し続けて使う心がけは見習いたいところで、自動車も天命全うするのは

良いのですが、突然、ブレーキが効かなくなったら大変です!

 

夜は特に危険で酔っ払い運転は日常茶飯事であります。

 

そもそも、右側通行で右ハンドルが多いのは危険ですし、とても不都合です。

たとえば光軸をめいっぱい反対側に向けても限度があります。

その他にもいろいろと目に見えない問題点があるでしょう。

自動車に詳しい方ならおわかりと思います。

 

そうだ。シートベルトもしなくて良いのです。

安全運転に対する意識も低いので、常に自衛を心がけ走っています。

2011年8月 6日 (土)

海軍飛行艇整備基地(海軍アラカベサン水上基地)

Imgp3430

Imgp3428

Imgp3451_2

Imgp3465_2

Imgp3425

 

◆二式大艇の陸揚げ整備基地

アラカベサン島に残る飛行艇陸揚げ用のスロープです。

水面に向かうにつれ、ゆるやかに傾斜しています。

九七式飛行艇や、二式大艇をここに陸揚げし、整備を行いました。

スベリと呼ばれる頑丈なコンクリートが当時のまま残っています。

近くには小型の水上偵察機(下駄履き飛行機)の係留ブイも残っています。
 
下の画像は横濱のものですが参考イメージとして見てください。

2012110116321807a

Imgp7651_3

 

現在、この場所は島民憩いの場になっています。潮風がとても心地良く

感じられます。コロールから歩いても来れる距離です。

ここで潮風を浴びながら、当時の様子を想像してみるのも良いかと思います。

  

※PPR(パラオパシフィックリゾート)ホテル敷地内にも、規模が小さめですが

同じようなスロープがあります。

 

◆アラカベサン水上基地概要

アラカベサン水上基地は昭和10年に建設された水上飛行機の発着場で、
スベリと呼ばれる
巨大なコンクリート製の傾斜路
(幅40メートル長さ120メートル)が残る。

この傾斜を利用して大型飛行艇を陸揚げし整備等を行った。
 
同様の傾斜路がPPR内にも残されており、当時は
飛行艇が収容できる格納庫も備えていた。
 
PPRホテルの敷地はそのほとんどが海軍基地跡にあたる。
付近の海面に残るコンクリートの建造物は小型水上飛行機用の
係留設備である。

◆アラカベサン水上基地の歴史

昭和14年には、大日本航空株式会社が「綾波号」をはじめとする
川西式四発飛行艇(海軍九七式飛行艇の輸送機型または
民間旅客用機体の名称)
を用いて横濱-パラオ間ではじめての民間航空路を
結んだ。翌15年からは一般乗客の利用が
認可となり、横濱-パラオ線は
月二往復が運行され、途中サイパンへ一泊し
2日間かけてパラオへ到着した。
貨客船であれば横濱からパラオまでは10日を要する時代、
飛行艇航路の開設は
大幅な時間短縮を可能にした。
 
さらに昭和16年からはヤルート航路が誕生。
パラオを起点に、トラック、サイパン、トラック、ポナペ、ヤルート、ポナペ
トラック、パラオの順で月2回、一巡8日間の行程で運行し太平洋の
島々を結んだ。
 
昭和16年末の開戦とともに、アラカベサン水上基地は瞬く間に海軍の
重要拠点と化した。

基地には九七式飛行艇や二式大艇などの大型機はもとより、
零式水偵などといった
軍用機の発着が多くを占めるようになり、
大日本航空の飛行艇と乗務員も全て海軍の
指揮下におかれた。
 

◆海軍乙事件の発生

昭和19年2月、戦艦武蔵を旗艦とする連合艦隊がパラオへ入港。
連合艦隊司令部をコロールに置いた。(南洋長長官邸の裏)

3月31日、パラオ大空襲でコロールは甚大な被害を受け、
古賀峯一海軍大将は連合艦隊司令部のダバオ転進を決定する。
このとき既に武蔵は内地へ向け待避しており、残された古賀長官と幕僚らは
二式大艇二機に分乗し、ダバオへ逃れるべく離水準備を急いだ。

同日夜、ふたたびパラオに空襲警報が発令された。長官転進の命令を受け
パラオへ到着したばかりだった二式大艇一番機の機長、難波正忠大尉は燃料補給を
強く要請したが、参謀二人が「その必要は無い。出発急げ」と離水を迫ったため、
まもなく長官と幕僚らを乗せた二機はアラカベサン水上基地を離水した。
ところがダバオへの飛行中、低気圧に巻き込まれ、古賀長官座乗の一番機は
消息を絶った。残骸は最後まで見つからず、古賀長官は後に殉職とされた。
一方、福留参謀長搭乗の二番機は不時着水後、辛うじてセブ島へ漂着し
命こそ繋いだものの、現地ゲリラに捕えられ、機密文書を奪われる結果となった。
海軍乙事件と呼ばれる出来事である。

 

2011年8月 5日 (金)

手榴弾

IMGP7928_1

ペリリュー島、複郭陣地で見つけた、日本軍の手榴弾です。

守備隊の兵は自決用に一個持たされていました。ご覧の通り、不発弾でありますが

これを握り締めていた兵隊さんは、どんな気持ちだったのでしょうか。

 

攻撃側の米兵は負傷すると後方に下げられ、手厚い治療を受けることができました。

しかし、日本守備隊は、四方を敵に囲まれ、逃げ場はありません。

なんと言っても衛生材料(治療の薬や包帯)が無いので、助かる命も

助からず、負傷すればそのまま死ぬしかなかったのです。

文字通り、島を死守。徹底抗戦を以って、米軍の進攻を阻止、長期化に持ち込みました。

 

米軍の手榴弾も載せておきます。

IMGP7926_1

これは壕の中にありました。画面左が日本、右が米軍の手榴弾です。

誰かが並べたのでしょうか。ペリリューのジャングルでは今でも多くの不発弾や遺品、ご遺骨が

手付かずで眠っています。特にこうした不発弾を見つけても、決して手を触れず

ガイドの指示に従って頂きますようお願いします。

2011年3月18日 (金)

横浜 裏の歴史「根岸外国人墓地」

JR山手駅から歩いて2、3分のところにある 
「横浜根岸外国人墓地」を訪れた。

24193482_1469230048_220large


住宅街を見下ろす丘の上にあり、閑散としている。

もともとは横浜外国人墓地が手狭になったの折、ここ根岸に新設されたもので
関東大震災で犠牲となった外国人を埋葬したほか、船員など異国の地で
亡くなった名前のわからない者も多い。墓石は多様である。



ここに横浜の裏の歴史がある。

この慰霊碑は片翼の天使を象ったもので、飛べなかった天使
すなわち生きることを許されなかった嬰児を表現している。

24193482_1469230059_221large


横浜は1945年の敗戦以降、アメリカ軍の進駐によって
面積の大部分を接収され、混迷の時代が始まった。

アメリカ軍兵士による日本人女性に対する性的犯罪が横行し
望まれない混血児が多く誕生した。

こうした嬰児は20万人ともそれ以上とも伝えられているが
戦後混迷も相まって、現在でもその事実について
自治体は明確な言及を避けられている。

慰霊碑や周辺に明記は無い。
しかし集められた証言によると、ここに埋葬された嬰児の数は
800から900と言われ、横浜外国人墓地に夜中遺棄される事も日常であった。

さらに朝鮮戦争の特需によって活気沸いた横浜の街であったがこれは裏の姿である。
風紀は乱れ、生活の術を身を売ることでしか得ることのできなかった日本人女性が
娼婦となって現れ、ベトナム戦争の終結まで続いた。

墓地を歩くと時折、風で舞った落ち葉の擦れる音が耳に残る程度で
あとは自分の足音だけが響く。駅前の喧騒が嘘のようだった。

24193482_1469230062_211large



24193482_1469230071_136large

市営であるため、墓守によって掃除が行き届いているものの
横浜外国人墓地とは様相がまったく異なり、訪れる者は皆無で
その存在は地元でも薄れたものになっている。

名も無き天使たちの安息を祈る。

計り知れない悲しみ-遺族との交流を経て

L1100516

先日の講演会では私が撮影した戦跡やジャングルの写真をスクリーンで 
ご覧いただいたのですが、終わりますと、ご遺族の方が駆け寄ってきて

「父が玉砕しているんです。そのシャングルの写真を一枚くださいませんか」

と涙を流していました。わたしももらい泣きしそうになるのを堪えました。
しかし肉親を亡くされた方の悲しみは計り知れません。
ガダルカナルに次いで、パラオでも4800人もの兵隊さんが戦わずして
餓死しています。 その事実も講演の中で伝えましたら、ショックだった
のでしょう。

「わたしの父はそんな苦しい思いをしていたのか?勇敢に戦って死んだと
聞かされていたのに」 とも尋ねられました。

資料を探りましたら、確かにその方の場合、戦死でしたが
これからそういった事例は数多く出てくると思います。
こればかりは事実を伝えねばなりませんし、辛いところです。

そのほかに、フィリピンで従軍看護婦をしていた方から
捕虜となる前に青酸カリを配ったというお話を聞きました。