2011年8月25日 (木)

マラカル波止場

ここはマラカルの波止場です。ここからペリリュー、アンガウルへの定期船が出ています。

運賃は片道5ドル。

スピードボートも良いのですが

ローカルが集う定期船に乗って楽しむのも醍醐味です。

出航前の様子です。たくさんの物資を積みます。これはぜんぶビール。

パラワンはビールが大好き。

これはバドライトですけど、日本の「アサヒ」も人気ですよ。

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こんなお客さんも。

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出航前の波止場はとても賑やかです。

用はないけど見にくる人も多くいます。

荷物の隙間に設けられた座席に座って、出航を待ちます。わくわく。
 
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歴史に埋もれたエースパイロット「江馬友一」 その実力は岩本徹三を凌ぐ

日本の最たるスコアの撃墜王といえば、岩本徹三さんが有名です。

 

しかし、もっと凄いパイロットがいたのです。

歴史に埋もれてしまったエース「江馬友一」さんです。

 

撃墜数というものは、偵察機や爆撃機、戦闘機でも旧式のF4Fワイルドキャットなど全て含み

ゼロ戦が最も活躍したときに記録されたものが多いでしょう。

しかし、新鋭機のF6Fヘルキャットが戦線に登場するようになってから、ゼロ戦も

苦戦の連続で、劣勢に追い込まれていきました。

 

圧倒的性能の差から、ゼロ戦がF6Fを撃墜するのは至難でありました。

しかし、江馬友一さんは、劣勢をものともせず、F6Fを一度に2機も撃墜した記録がありました。

もちろん岩本徹三さんだって屈指のエースに間違いありませんが

そういった意味で、単純にエースパイロットはスコア(数)だけでは語れないのです。

江馬友一さんは、温厚な人柄で、生涯、自身の撃墜数を自慢するようなことはありませんでした。

一説によると、岩本徹三の撃墜数を上回っていたとか。

たぶん、江馬さんは、こうしたことを書かれるのはお好きでないと思います。

ですが、坂井三郎さんや岩本徹三さん意外にも、歴史に埋もれてしまった、

凄いエースパイロットがたくさんいたことをわかってほしいのです。

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江馬友一さんの戦いの記録はこの本に詳しく記されています。

久山忍著『蒼空の航跡』です。

この本、戦記ものにしては、とてもわかりやすく小学生でも読めるのではないでしょうか。

ですから、大人の方でも、戦記ものの入門に最適です。

ゼロ戦パイロットの今泉氏(特攻隊の生き残りとも言えます)の証言を作家の久山氏がまとめたものです。

飛行機操縦のいろはから、航空作戦の基本、戦地での過ごし方やパイロット視点での当時の心境など

その都度わかりやすく解説しながら書かれています。坂井三郎や岩本徹三よりも凄い、けれど死んでしまった

名も無きエースパイロットが数多く登場します。

こういう人たちが死なずに生き残ってくれたら、どんな日本になったんだろうなぁと思いを馳せています。

2011年8月21日 (日)

ノースドッグの子供たち

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ペリリューのノースドッグで遊ぶ子供たちです。

学校が終わったあと、暑い日はいつもここで海に飛び込んで遊んでいます。

 

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激戦のオレンジビーチ

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81師団モニュメント(千人墓地)の位置から海岸に
下りてきたところが
オレンジビーチにあたる。

オレンジビーチの由来
オレンジビーチの名の由来は上陸した海兵隊のコードネームで
長い砂浜を区切って、オレンジ1から3、ホワイト1、2と各隊が受け持ったため
上陸地点がそのままビーチの名前として残っている。
北方がホワイトビーチである。
 
戦闘で浜が血に染まり、オレンジビーチとなったというのは
名の由来としては俗説であるが、血で染まったのは事実は間違いない。
 

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ペリリュー島オレンジビーチ02

 
Dデイ概要
9月15日のDデイ(ドックデイ/上陸戦当日の意)では

海岸線北側よりホワイト1、ホワイト2、オレンジ1、オレンジ2、オレンジ3
と上陸部隊毎に区分けされた名称がそのまま残る。
 
上陸部隊は水陸両用戦車を先頭に、海兵第一、第五、第七連隊の
五個大隊からなる総員4500名が上陸、さらに三個大隊が加わり、
最終的には8000名の部隊が上陸したが、猛烈な水際からの反撃に、
上陸第一波はほとんど全滅し、退却。その後の波状攻撃で辛くも
橋頭堡を確保したが上陸戦を含む初期の戦闘で師団戦力の60パーセント超
(戦死、もしくは負傷による戦闘不能の割合)を失った第一海兵師団は
事実上壊滅した。第一海兵師団はもっとも歴史が古く、
歴戦精鋭を誇るが
現代に至るまで師団が壊滅した例はこのペリリュー戦のみである。
 
ノルマンディー作戦を超える死闘
また、ペリリュー島上陸作戦時における上陸部隊の死傷率は
ノルマンディー上陸作戦のオマハビーチを越える激しさであった。

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ペリリュー島オレンジビーチ05

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▲画面やや左でステッキを携えているのがルパータス少将。

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▲埋葬後のオレンジビーチ

  
米陸軍81師団のモニュメントがあるこの近辺は

オレンジ2にあたり、上陸戦後、多くの十字架が砂浜を埋め尽くし
戦死者の多さに埋葬作業が追い付かない状態であった。


十字架はあらかじめパヴヴ島で工兵隊が制作し名目上、船のバラストとして
輸送されたが実際に数多くが埋葬用に使われる運命となった。
敷地の北側には残る建物の跡は教会の壁である。

 

戦闘経過
昭和19年9月15日
長きにわたる熾烈なペリリューの戦いがここに開始された。
上陸したのは海兵隊の中で最も著名かつ歴戦の
精鋭第一海兵師団(ファーストマリーン)で、兵を率いるルパータス少将は
この戦いは2、3日で終わるだろうと訓示を述べた。
2か月以上に及ぶ、泥沼の戦いになると、だれが予想したであろうか。

 
執拗な艦砲射撃と空爆により、ペリリュー島のジャングルを焼き払い
丸裸した米海軍は、まさか日本兵が生き残っているとは予想していなかった。
 
中川大佐率いる水戸歩兵二連隊ならびに
高崎歩兵十五連隊の群馬県片品村出身の28歳、千明(ちぎら)武久大尉
がこれに応戦した。どの兵も大陸戦線からの古強者ばかりで
火器の扱いも、戦場での肝の据わり方も、当時の最精鋭だったと言っても
過言でない。精鋭同士の対決であった。
 
今まで静まり返っていた海岸線から日本兵が現れ、いっせいに火を噴いた。
今までの艦砲射撃は日本守備隊にほとんど損害はなく、彼らは深く掘り下げた
壕に息をひそめていたのだ。
 
・天童砲兵隊の神業
山岳部の陣地からは、こちらも精鋭天童砲兵隊の砲弾が発射され
上陸用舟艇に正確に命中。火柱が上がった。
天童砲兵隊の陣地は山岳部のくぼみにあり、直接の照準はできない。
放射線状に上陸部隊を狙ったものと推測される。 
 
第一海兵隊の全滅
これに混乱したのが第一海兵隊だった。
「ジャップは死んではいない!」
 

ペリリュー島オレンジビーチ08

▲海岸線に釘づけになる第一海兵師団
 

猛烈な水際からの反撃に、上陸部隊は
次々に撃破され、師団戦力の60パーセント超を失い
(戦死、もしくは負傷による戦闘不能の割合)
事実上の全滅判定が下された。
米国海兵隊が全滅した例は後にも先にもない。
ペリリューの戦いのみである。
 
米軍にも陸海軍のそれぞれプライドがあり、陸軍81師団に応援を要請するまで
時間を要してしまったのも一因ではある。
 
沖までリーフが形成されており、遠浅の海岸の波はとても静かな砂浜である。
画面奥がホワイトビーチ。
 
米軍側から見たペリリュー島上陸戦
水陸両用戦車隊の死闘を見る

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エアインテーク

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米軍機のエアインテークです。

この辺りには他にもプロペラやエンジン、翼などが散らばった状態で少し残っています。

 

戦争が終わった後も、飛行場近くには日本機を含め、たくさんの機体が残っていて

本来ならばきちんと戦跡として保存されるべきでした。

しかし、法整備も曖昧だったその頃、スクラップ業者が目を付け、

大部分を鉄クズとして持っていってしまったのです。

2011年8月19日 (金)

アフリカマイマイと寄生虫

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アフリカマイマイです。

その名の通り、アフリカが原産ですが、1935年(昭和10年)日本移民が

食用を目的としてパラオに持ち込み、旧朝日村(現在のアルモノグイ辺り)で養殖を始めました。

しかし、川の氾濫で逃げ出し、ガルミスガー川流域に広がり

やがてパラオ全域に繁殖しました。

 

植物や果物への食害がひどく、駆除されましたが、絶滅できず現在に至ります。

コロールの市街地でもよく見かけます。(特に雨の夜に多い)

 

気をつけたいのは、『広東住血線虫』という恐ろしい寄生虫を持っていることです。

 

戦時中、食べるものがなく、このカタツムリで命を繋いだ兵隊さんがいるので

命の恩人とも言える一方で、生煮えを食べた兵隊さんは、寄生虫にやられて亡くなりました。

 

船坂弘著『ペリリュー島玉砕戦』によると

「我慢できずに生煮えで食べた者は、どういう訳か、脳をやられて死んだ」と記してあります。

広東住血線虫は、人間に寄生すると、脳へ進入し、死に至ります。

 

同様にネズミもこの寄生虫を持っていますから、気をつけてください。

もし、触れてしまった場合は、よく手を洗いましょう。

牛久大仏 高さは自由の女神のおよそ3倍

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牛久の大仏様です。高さはなんと、自由の女神のおよそ3倍です。

意外とご存知の方が少ないので、紹介します。

 

中東や中国、アメリカの超高層建築と決定的に違うのは

地震が多発するわが日本でこれだけの高層建築を建てるには

比類なき高度技術が要るという点に尽きます。これは素晴らしいことです。

 

大仏様の胸の辺りは展望室になっています。

 

仏具やお土産ショップもあります。

 

その他、うんちくは詳しくは公式サイトなどに掲載されていますので、割愛しますが

茨城が世界に誇る、素晴らしい大仏様です。

 

画像ではいまいち迫力が伝わらないので、ぜひ実物を拝んでください。

驚きます。

2011年8月18日 (木)

帝国海軍ペリリュー航空基地跡

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▲現在も一本だけ残る滑走路跡
 
帝国海軍ペリリュー航空基地・滑走路跡

昭和14年(1939年)に完成したペリリュー飛行場は
当時東洋一とも称された日本海軍の航空基地で
太平洋の最重要拠点として絶大な存在を誇った。
 

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▲ペリリュー航空基地(米軍占領後に再整備された状態)画面上部がガドブス島
 

零戦、彗星、銀河、月光、彩雲、帝国海軍航空隊の全盛期
飛行場は長さ1200メートル、幅80メートルの滑走路をニ本有しており
昭和18年~19年初めの全盛期にはおよそ200機の航空機が配備され
ゼロ戦、戦闘機隊を筆頭に、月光、彗星、彩雲、一式陸攻、銀河、など
いずれも新鋭機を揃えていた。また、ペリリューのすぐ北に位置するガドブス島
には
1000メートルの滑走路が一本あり、こちらは零戦など小型の航空機の
離着陸に用いられた。
 
この飛行場を飛び立った航空隊一覧
 
米軍のペリリュー攻略は
この飛行場奪取が最大の狙いであり
その後行われるであろうフィリピン攻略の重要な足がかりとするのが
当初の思惑であった。
 

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▲空爆と艦砲射撃により焦土と化すペリリュー島南部飛行場

 
昭和19年3月30日、31日両日のパラオ大空襲で日本航空部隊は
大損害を受けたが機体の補充により再建をはかった。
ところが同年6月のマリアナ沖海戦(あ号作戦)で
その衰退は決定的となる。この戦いでペリリューからも
多くの戦闘機、攻撃機がマリアナ方面へ出撃。
そのほとんどは二度と帰ってこなかった。
 
その後は、海軍軍令部の方針により
フィリピン、本土決戦へ備えるため、航空機は温存され、
新たな航空機がペリリューへ補充されることなく
連合艦隊司令部も3月にフィリピンへ転進しており、
パラオは海軍から事実上放棄される運命となった。
上陸戦直前にはコロールに僅か数機の水偵を残すのみとなり
残された整備兵などの航空要員は
航空隊司令の大谷龍蔵大佐(兵51熊本)のもとで
陸戦隊を組織、のちの地上戦で玉砕した。
 

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▲米軍占領後のペリリュー飛行場

米軍占領後
米海兵隊が飛行場を制圧した際

飛行場格納庫にはおよそ130機の航空機が残されていたが
いずれも破損し飛行可能な状態ではなかった。
この中には新型の一式陸上攻撃機二四型(761龍所属か)や
最新鋭機「銀河」なども含まれていた。

米海軍設営大隊は上陸戦のわずか8日後には、滑走路を再建し
幅85メートル長さ1200メートルの着陸灯を完備した
完全な滑走路が完成させた。これは比較的ダメージの少ない
北西から南東に延びる滑走路だった。その後、アンガウル飛行場とあわせて
完全に再整備されたペリリュー飛行場は、米軍当初の計画通り
フィリピン攻略の足がかりとする目標を達したが
既にフィリピン攻略は半ばに差し掛かっており、飛行場利用の重要度は低く
多くの犠牲を払ったペリリュー攻略の必要性については現在においても
議論が尽きない。
 

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▲現在も滑走路脇のジャングルにひっそりと眠るゼロ戦(52型)

戦後、日米双方とも、多くの機体が残骸としてありましたが
スクラップ回収業者が、これを資源として目をつけ大部分を持ち去ってしまいました。 

 
海軍航空隊司令部跡

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▲海軍航空隊司令部跡

 
海軍航空隊司令部としての役割を担った鉄筋コンクリートの建物である。
現在は木々で覆われているが、当時は広大な飛行場の北に位置し
滑走路を一望できた。地下には重厚な退避壕を備えている。
爆撃の跡が生々しい。
 

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米軍占領後~ルパータス司令部へ
米軍占領後は第一海兵師団、
ルパータス少将の司令部として
海兵隊の引き上げまで利用された。なお、戦いを引き継いだ81師団の
ミューラー少将は
この建物をあくまで「前線指揮所」とし自身の司令部は
パープルビーチ近くに移転した。
 

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なお、これと全く同じ構造、間取りの建物がテニアン島に存在する。
テニアン島へ行ってみる

 
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メモ

◆ペリリュー飛行場(主力飛行基地)
長さ1200メートル幅80メートル、クロスした2本の滑走路を有する

◆ガドブス滑走路(ペリリューの補助的飛行場)
1000メートル×80メートル×1

◆アイライ飛行場(現在のパラオ国際空港)
1400メートル×100メートル×1

よくこの戦跡名を「西カロリン航空隊司令部」といわれるが、そのほとんどは
機能していない。

9月18日、アベンジャーが緊急着陸
9月20日、海軍設営大隊に建設機材が到着し
9月23日には幅85メートル長さ1200メートルの着陸灯を完備した
完全な滑走路が完成した。比較的ダメージの少ない
北西から南東に延びる滑走路だった。
 

2011年8月16日 (火)

半旗

3月11日の震災と大津波の日、私はペリリューに居りました。

1週間ぶりにコロールへ戻ってテレビをつけると

原発上空からヘリコプターが水を撒いている映像を見てびっくりしました。

パレイシアホテルの半旗です。

ここだけでなく、3月11日以降しばらくの間は民間、役所問わず街中の旗は全て半旗でした。

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街頭で通行する車に募金を呼びかける高校生です。

多くの車が止まって募金してくださいました。本当にありがたいです。

恩を忘れてはいけません。

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ブルドーザーは戦車より脅威

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ペリリューで、ゲリラ戦を以って抵抗を続ける守備隊にとって
戦車とと同じか、それ以上に恐れる兵器が、このブルドーザーでした。

ブルドーザーは、戦車が通る道を切り開き、飛行場をあっという間に整備します。

そして、最も恐ろしいのは、壕に潜む守備隊を生き埋めにしたのです。

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守備隊が投降勧告に応じなければ、掃討する、
それも白兵戦をやらねばなりません。

しかし、頑なに抵抗する守備隊に対して、掃討部隊も相当な犠牲を
強いられることになります。

犠牲を最も減らすには、このブルドーザーを用いて、
戦わずして壕の中の守備隊を生き埋めにしてしまうのが作戦でした。