« 2011年3月 | メイン | 2011年9月 »

2011年8月28日 (日)

ベントー

IMGP5559

お昼ちょうどに出たので、お腹が空いてきました。

ペリリューまではまだまだ時間がかかります。でも心配いりません。ダイジョーブ(パラオ語)です。

 

定期船に乗るときは弁当が要らないのです。(こんなことを本気で書いたら怒られそうですが)

なぜなら、乗り合わせた他のオキャクサン(パラオ語)がいろいろとくれるのです。

今日もドリンクやビールに始まり、菓子、ベントー(パラオ語)

シャコのサシミ(パラオ語)を貰ってしまいました。ありがとうございます。

丁寧にお礼を述べていただきました。特にサシミは実に美味しゅうございました。

 

※今回はパラオ語を四つ紹介しました。「ベントー」はそのまま、弁当のことです。

「サシミ」は刺身、「オキャクサン」はお客さん、「ダイショーブ」は大丈夫という意味です。

 

私のような、なりの外国人は、定期船の中でも目立ちます。

船は退屈なので、乗客が必ず話しかけてきます。

ベントーのお礼に、日本の話など、すると、とても喜ばれます。

パラワンは日本の話に興味津々なのです。

 

ここで、くだらないバカ話をしても大いに結構なのですが、自身が日本人であることを

忘れてはなりません。この船の中で、私は日本代表なのです。

日本人らしく相手を尊重して礼儀正しく振舞うよう心がけています。

 

ただ、気をつけてもらいたいのは、よくハッパ(マリファナ)をすすめてくる輩がいることです。

その場合はもちろん毅然とした態度で断りましょう。

カジキ

IMGP5588

ブリッジに掲げられているのはアンガウル州旗。

ロックアイランド内の航行は続きます。

 

海は穏やかですが、エンジンの大きな音がウォンウォン体にまで響きます。

排気管の位置が悪く、排気ガスの匂いが散らずに船内を漂い、これがけっこう堪えます。

 

・・・ん?何やら、船尾のほうが騒がしい。

直後、ストンとエンジンが止まりました。海上で故障かと思い、焦りました。

 

しかし、そうではなかったのです。事の正体は

船尾に垂らせれた釣り糸が、ピンと張り、それが右へ左へ暴れ始めたのです。

それを引く屈強な男性がいます。こんな形で釣りをしているとは予想外でした。

定期船ですから、定められた本来なら航路を航行しなければならないのですが

(それが最短距離でもあります)魚の多い海域を選んで大回りしているのです。

 

長い格闘の末、ついに往生したか、釣り上げられたのはでっかいカジキ!!

周りは歓声を上げています。鋭い角が光っていましたが、それが危険らしく

真っ先に切り落としていました。

 

キャプテンがそれを見届けるとエンジンを始動し、また穏やかな航行を再開しました。

ふたたび釣り針にエサがつけられ、船尾から海に垂らされました。
 
次へ

2011年8月27日 (土)

ブリッジへ

IMGP5566

階段を上って、ブリッジ(操舵室)へやってきました。お邪魔します。

この船のキャプテンです!

定期船は、気軽にブリッジへ行けて、出入りも自由なのであります。

ブリッジ内には長椅子が据え付けてあり、そこで横になって

グーグー寝ているオキャクサン(パラオ語)もいました。キャプテンの隣では

おばさんが何か食べてますね。

IMGP5563

眺めが最高です。潮風を浴びて気持ち良い。

ペリリューまではリーフ内を航行するので、ほとんど揺れません。

水面を見てください。凪いでいます。

IMGP5564

両舵、前進強速~!よ~そろ!!

 

そうだ。唯一揺れるのは、観光客のスピードボートが側を追い抜いて行くときです。

スピードボートがかき分けた波がうねりとなって、やってきて、こちらの横っ腹を叩きつけます。

 

スピードボートならペリリューまで1時間。

この定期船はのんびり、ゆっくり、3時間かかります。
 
次へ

抜錨

IMGP5555

時刻は12時ちょうど。いよいよ抜錨です。

画面右側に停泊している船が後を追って出航するペリリュー行き、
いま私が乗っている船がアンガウル行きで、岸を離れたところです。

※紛らわしいので一応記しておきます。
私が乗っているのはアンガウル行きの船ですが、日によって途中ペリリューに寄るので
今回はそれを利用してペリリューで降ろしてもらいます。

■定期船スケジュール
ペリリュー行き、週に2往復(14時出航)
アンガウル行き、週に1往復のみ(12時出航)
いずれも片道5ドル
(2011年6月現在)

ですから、定期船のみでアンガウルへ行きたい場合は最低でも一週間の滞在が必要
なってしまいます。
それに加えて、最近はいずれの船もエンジンの不調を抱えていて
欠航や延期になることも珍しくありません。

ああ、そうだ。この船には
救命胴衣が無いので、泳げない方は覚悟を決めましょう。
 
次へ

2011年8月25日 (木)

マラカル波止場

ここはマラカルの波止場です。ここからペリリュー、アンガウルへの定期船が出ています。

運賃は片道5ドル。

スピードボートも良いのですが

ローカルが集う定期船に乗って楽しむのも醍醐味です。

出航前の様子です。たくさんの物資を積みます。これはぜんぶビール。

パラワンはビールが大好き。

これはバドライトですけど、日本の「アサヒ」も人気ですよ。

IMGP5542

IMGP5545

こんなお客さんも。

IMGP5547

出航前の波止場はとても賑やかです。

用はないけど見にくる人も多くいます。

荷物の隙間に設けられた座席に座って、出航を待ちます。わくわく。
 
次へ

歴史に埋もれたエースパイロット「江馬友一」 その実力は岩本徹三を凌ぐ

日本の最たるスコアの撃墜王といえば、岩本徹三さんが有名です。

 

しかし、もっと凄いパイロットがいたのです。

歴史に埋もれてしまったエース「江馬友一」さんです。

 

撃墜数というものは、偵察機や爆撃機、戦闘機でも旧式のF4Fワイルドキャットなど全て含み

ゼロ戦が最も活躍したときに記録されたものが多いでしょう。

しかし、新鋭機のF6Fヘルキャットが戦線に登場するようになってから、ゼロ戦も

苦戦の連続で、劣勢に追い込まれていきました。

 

圧倒的性能の差から、ゼロ戦がF6Fを撃墜するのは至難でありました。

しかし、江馬友一さんは、劣勢をものともせず、F6Fを一度に2機も撃墜した記録がありました。

もちろん岩本徹三さんだって屈指のエースに間違いありませんが

そういった意味で、単純にエースパイロットはスコア(数)だけでは語れないのです。

江馬友一さんは、温厚な人柄で、生涯、自身の撃墜数を自慢するようなことはありませんでした。

一説によると、岩本徹三の撃墜数を上回っていたとか。

たぶん、江馬さんは、こうしたことを書かれるのはお好きでないと思います。

ですが、坂井三郎さんや岩本徹三さん意外にも、歴史に埋もれてしまった、

凄いエースパイロットがたくさんいたことをわかってほしいのです。

24193482_1285335326_174large

 

江馬友一さんの戦いの記録はこの本に詳しく記されています。

久山忍著『蒼空の航跡』です。

この本、戦記ものにしては、とてもわかりやすく小学生でも読めるのではないでしょうか。

ですから、大人の方でも、戦記ものの入門に最適です。

ゼロ戦パイロットの今泉氏(特攻隊の生き残りとも言えます)の証言を作家の久山氏がまとめたものです。

飛行機操縦のいろはから、航空作戦の基本、戦地での過ごし方やパイロット視点での当時の心境など

その都度わかりやすく解説しながら書かれています。坂井三郎や岩本徹三よりも凄い、けれど死んでしまった

名も無きエースパイロットが数多く登場します。

こういう人たちが死なずに生き残ってくれたら、どんな日本になったんだろうなぁと思いを馳せています。

2011年8月21日 (日)

ノースドッグの子供たち

IMGP6130_1

 

ペリリューのノースドッグで遊ぶ子供たちです。

学校が終わったあと、暑い日はいつもここで海に飛び込んで遊んでいます。

 

IMGP6105_1

 

 

IMGP6163_1

 

 

IMGP6190_1

激戦のオレンジビーチ

ペリリュー島オレンジビーチ01

81師団モニュメント(千人墓地)の位置から海岸に
下りてきたところが
オレンジビーチにあたる。

オレンジビーチの由来
オレンジビーチの名の由来は上陸した海兵隊のコードネームで
長い砂浜を区切って、オレンジ1から3、ホワイト1、2と各隊が受け持ったため
上陸地点がそのままビーチの名前として残っている。
北方がホワイトビーチである。
 
戦闘で浜が血に染まり、オレンジビーチとなったというのは
名の由来としては俗説であるが、血で染まったのは事実は間違いない。
 

Imgp3147_3

Imgp3124_3

ペリリュー島オレンジビーチ02

 
Dデイ概要
9月15日のDデイ(ドックデイ/上陸戦当日の意)では

海岸線北側よりホワイト1、ホワイト2、オレンジ1、オレンジ2、オレンジ3
と上陸部隊毎に区分けされた名称がそのまま残る。
 
上陸部隊は水陸両用戦車を先頭に、海兵第一、第五、第七連隊の
五個大隊からなる総員4500名が上陸、さらに三個大隊が加わり、
最終的には8000名の部隊が上陸したが、猛烈な水際からの反撃に、
上陸第一波はほとんど全滅し、退却。その後の波状攻撃で辛くも
橋頭堡を確保したが上陸戦を含む初期の戦闘で師団戦力の60パーセント超
(戦死、もしくは負傷による戦闘不能の割合)を失った第一海兵師団は
事実上壊滅した。第一海兵師団はもっとも歴史が古く、
歴戦精鋭を誇るが
現代に至るまで師団が壊滅した例はこのペリリュー戦のみである。
 
ノルマンディー作戦を超える死闘
また、ペリリュー島上陸作戦時における上陸部隊の死傷率は
ノルマンディー上陸作戦のオマハビーチを越える激しさであった。

ペリリュー島オレンジビーチ04

ペリリュー島オレンジビーチ05

ペリリュー島オレンジビーチ06" 
▲画面やや左でステッキを携えているのがルパータス少将。

ペリリュー島オレンジビーチ07
▲埋葬後のオレンジビーチ

  
米陸軍81師団のモニュメントがあるこの近辺は

オレンジ2にあたり、上陸戦後、多くの十字架が砂浜を埋め尽くし
戦死者の多さに埋葬作業が追い付かない状態であった。


十字架はあらかじめパヴヴ島で工兵隊が制作し名目上、船のバラストとして
輸送されたが実際に数多くが埋葬用に使われる運命となった。
敷地の北側には残る建物の跡は教会の壁である。

 

戦闘経過
昭和19年9月15日
長きにわたる熾烈なペリリューの戦いがここに開始された。
上陸したのは海兵隊の中で最も著名かつ歴戦の
精鋭第一海兵師団(ファーストマリーン)で、兵を率いるルパータス少将は
この戦いは2、3日で終わるだろうと訓示を述べた。
2か月以上に及ぶ、泥沼の戦いになると、だれが予想したであろうか。

 
執拗な艦砲射撃と空爆により、ペリリュー島のジャングルを焼き払い
丸裸した米海軍は、まさか日本兵が生き残っているとは予想していなかった。
 
中川大佐率いる水戸歩兵二連隊ならびに
高崎歩兵十五連隊の群馬県片品村出身の28歳、千明(ちぎら)武久大尉
がこれに応戦した。どの兵も大陸戦線からの古強者ばかりで
火器の扱いも、戦場での肝の据わり方も、当時の最精鋭だったと言っても
過言でない。精鋭同士の対決であった。
 
今まで静まり返っていた海岸線から日本兵が現れ、いっせいに火を噴いた。
今までの艦砲射撃は日本守備隊にほとんど損害はなく、彼らは深く掘り下げた
壕に息をひそめていたのだ。
 
・天童砲兵隊の神業
山岳部の陣地からは、こちらも精鋭天童砲兵隊の砲弾が発射され
上陸用舟艇に正確に命中。火柱が上がった。
天童砲兵隊の陣地は山岳部のくぼみにあり、直接の照準はできない。
放射線状に上陸部隊を狙ったものと推測される。 
 
第一海兵隊の全滅
これに混乱したのが第一海兵隊だった。
「ジャップは死んではいない!」
 

ペリリュー島オレンジビーチ08

▲海岸線に釘づけになる第一海兵師団
 

猛烈な水際からの反撃に、上陸部隊は
次々に撃破され、師団戦力の60パーセント超を失い
(戦死、もしくは負傷による戦闘不能の割合)
事実上の全滅判定が下された。
米国海兵隊が全滅した例は後にも先にもない。
ペリリューの戦いのみである。
 
米軍にも陸海軍のそれぞれプライドがあり、陸軍81師団に応援を要請するまで
時間を要してしまったのも一因ではある。
 
沖までリーフが形成されており、遠浅の海岸の波はとても静かな砂浜である。
画面奥がホワイトビーチ。
 
米軍側から見たペリリュー島上陸戦
水陸両用戦車隊の死闘を見る

ペリリュー島オレンジビーチ10





エアインテーク

023_1

米軍機のエアインテークです。

この辺りには他にもプロペラやエンジン、翼などが散らばった状態で少し残っています。

 

戦争が終わった後も、飛行場近くには日本機を含め、たくさんの機体が残っていて

本来ならばきちんと戦跡として保存されるべきでした。

しかし、法整備も曖昧だったその頃、スクラップ業者が目を付け、

大部分を鉄クズとして持っていってしまったのです。

2011年8月19日 (金)

アフリカマイマイと寄生虫

IMGP5387_1

アフリカマイマイです。

その名の通り、アフリカが原産ですが、1935年(昭和10年)日本移民が

食用を目的としてパラオに持ち込み、旧朝日村(現在のアルモノグイ辺り)で養殖を始めました。

しかし、川の氾濫で逃げ出し、ガルミスガー川流域に広がり

やがてパラオ全域に繁殖しました。

 

植物や果物への食害がひどく、駆除されましたが、絶滅できず現在に至ります。

コロールの市街地でもよく見かけます。(特に雨の夜に多い)

 

気をつけたいのは、『広東住血線虫』という恐ろしい寄生虫を持っていることです。

 

戦時中、食べるものがなく、このカタツムリで命を繋いだ兵隊さんがいるので

命の恩人とも言える一方で、生煮えを食べた兵隊さんは、寄生虫にやられて亡くなりました。

 

船坂弘著『ペリリュー島玉砕戦』によると

「我慢できずに生煮えで食べた者は、どういう訳か、脳をやられて死んだ」と記してあります。

広東住血線虫は、人間に寄生すると、脳へ進入し、死に至ります。

 

同様にネズミもこの寄生虫を持っていますから、気をつけてください。

もし、触れてしまった場合は、よく手を洗いましょう。

牛久大仏 高さは自由の女神のおよそ3倍

24193482_559253224_162large

牛久の大仏様です。高さはなんと、自由の女神のおよそ3倍です。

意外とご存知の方が少ないので、紹介します。

 

中東や中国、アメリカの超高層建築と決定的に違うのは

地震が多発するわが日本でこれだけの高層建築を建てるには

比類なき高度技術が要るという点に尽きます。これは素晴らしいことです。

 

大仏様の胸の辺りは展望室になっています。

 

仏具やお土産ショップもあります。

 

その他、うんちくは詳しくは公式サイトなどに掲載されていますので、割愛しますが

茨城が世界に誇る、素晴らしい大仏様です。

 

画像ではいまいち迫力が伝わらないので、ぜひ実物を拝んでください。

驚きます。

2011年8月18日 (木)

帝国海軍ペリリュー航空基地跡

ペリリュー飛行場1

▲現在も一本だけ残る滑走路跡
 
帝国海軍ペリリュー航空基地・滑走路跡

昭和14年(1939年)に完成したペリリュー飛行場は
当時東洋一とも称された日本海軍の航空基地で
太平洋の最重要拠点として絶大な存在を誇った。
 

ペリリュー飛行場2

▲ペリリュー航空基地(米軍占領後に再整備された状態)画面上部がガドブス島
 

零戦、彗星、銀河、月光、彩雲、帝国海軍航空隊の全盛期
飛行場は長さ1200メートル、幅80メートルの滑走路をニ本有しており
昭和18年~19年初めの全盛期にはおよそ200機の航空機が配備され
ゼロ戦、戦闘機隊を筆頭に、月光、彗星、彩雲、一式陸攻、銀河、など
いずれも新鋭機を揃えていた。また、ペリリューのすぐ北に位置するガドブス島
には
1000メートルの滑走路が一本あり、こちらは零戦など小型の航空機の
離着陸に用いられた。
 
この飛行場を飛び立った航空隊一覧
 
米軍のペリリュー攻略は
この飛行場奪取が最大の狙いであり
その後行われるであろうフィリピン攻略の重要な足がかりとするのが
当初の思惑であった。
 

ペリリュー飛行場3

▲空爆と艦砲射撃により焦土と化すペリリュー島南部飛行場

 
昭和19年3月30日、31日両日のパラオ大空襲で日本航空部隊は
大損害を受けたが機体の補充により再建をはかった。
ところが同年6月のマリアナ沖海戦(あ号作戦)で
その衰退は決定的となる。この戦いでペリリューからも
多くの戦闘機、攻撃機がマリアナ方面へ出撃。
そのほとんどは二度と帰ってこなかった。
 
その後は、海軍軍令部の方針により
フィリピン、本土決戦へ備えるため、航空機は温存され、
新たな航空機がペリリューへ補充されることなく
連合艦隊司令部も3月にフィリピンへ転進しており、
パラオは海軍から事実上放棄される運命となった。
上陸戦直前にはコロールに僅か数機の水偵を残すのみとなり
残された整備兵などの航空要員は
航空隊司令の大谷龍蔵大佐(兵51熊本)のもとで
陸戦隊を組織、のちの地上戦で玉砕した。
 

ペリリュー飛行場4 
▲米軍占領後のペリリュー飛行場

米軍占領後
米海兵隊が飛行場を制圧した際

飛行場格納庫にはおよそ130機の航空機が残されていたが
いずれも破損し飛行可能な状態ではなかった。
この中には新型の一式陸上攻撃機二四型(761龍所属か)や
最新鋭機「銀河」なども含まれていた。

米海軍設営大隊は上陸戦のわずか8日後には、滑走路を再建し
幅85メートル長さ1200メートルの着陸灯を完備した
完全な滑走路が完成させた。これは比較的ダメージの少ない
北西から南東に延びる滑走路だった。その後、アンガウル飛行場とあわせて
完全に再整備されたペリリュー飛行場は、米軍当初の計画通り
フィリピン攻略の足がかりとする目標を達したが
既にフィリピン攻略は半ばに差し掛かっており、飛行場利用の重要度は低く
多くの犠牲を払ったペリリュー攻略の必要性については現在においても
議論が尽きない。
 

ペリリュー飛行場5

▲現在も滑走路脇のジャングルにひっそりと眠るゼロ戦(52型)

戦後、日米双方とも、多くの機体が残骸としてありましたが
スクラップ回収業者が、これを資源として目をつけ大部分を持ち去ってしまいました。 

 
海軍航空隊司令部跡

ペリリュー飛行場6

ペリリュー飛行場7

ペリリュー飛行場8

▲海軍航空隊司令部跡

 
海軍航空隊司令部としての役割を担った鉄筋コンクリートの建物である。
現在は木々で覆われているが、当時は広大な飛行場の北に位置し
滑走路を一望できた。地下には重厚な退避壕を備えている。
爆撃の跡が生々しい。
 

ペリリュー飛行場9

米軍占領後~ルパータス司令部へ
米軍占領後は第一海兵師団、
ルパータス少将の司令部として
海兵隊の引き上げまで利用された。なお、戦いを引き継いだ81師団の
ミューラー少将は
この建物をあくまで「前線指揮所」とし自身の司令部は
パープルビーチ近くに移転した。
 

ペリリュー飛行場10

ペリリュー飛行場11

 

なお、これと全く同じ構造、間取りの建物がテニアン島に存在する。
テニアン島へ行ってみる

 
--------
メモ

◆ペリリュー飛行場(主力飛行基地)
長さ1200メートル幅80メートル、クロスした2本の滑走路を有する

◆ガドブス滑走路(ペリリューの補助的飛行場)
1000メートル×80メートル×1

◆アイライ飛行場(現在のパラオ国際空港)
1400メートル×100メートル×1

よくこの戦跡名を「西カロリン航空隊司令部」といわれるが、そのほとんどは
機能していない。

9月18日、アベンジャーが緊急着陸
9月20日、海軍設営大隊に建設機材が到着し
9月23日には幅85メートル長さ1200メートルの着陸灯を完備した
完全な滑走路が完成した。比較的ダメージの少ない
北西から南東に延びる滑走路だった。
 

2011年8月16日 (火)

半旗

3月11日の震災と大津波の日、私はペリリューに居りました。

1週間ぶりにコロールへ戻ってテレビをつけると

原発上空からヘリコプターが水を撒いている映像を見てびっくりしました。

パレイシアホテルの半旗です。

ここだけでなく、3月11日以降しばらくの間は民間、役所問わず街中の旗は全て半旗でした。

IMGP6336

街頭で通行する車に募金を呼びかける高校生です。

多くの車が止まって募金してくださいました。本当にありがたいです。

恩を忘れてはいけません。

IMGP6308

ブルドーザーは戦車より脅威

IMGP5797_1

ペリリューで、ゲリラ戦を以って抵抗を続ける守備隊にとって
戦車とと同じか、それ以上に恐れる兵器が、このブルドーザーでした。

ブルドーザーは、戦車が通る道を切り開き、飛行場をあっという間に整備します。

そして、最も恐ろしいのは、壕に潜む守備隊を生き埋めにしたのです。

IMGP5799_1

守備隊が投降勧告に応じなければ、掃討する、
それも白兵戦をやらねばなりません。

しかし、頑なに抵抗する守備隊に対して、掃討部隊も相当な犠牲を
強いられることになります。

犠牲を最も減らすには、このブルドーザーを用いて、
戦わずして壕の中の守備隊を生き埋めにしてしまうのが作戦でした。

ガラスマオの滝と戦跡史跡探索

Imgp6398_2

 

ガラスマオの滝へ行ってきました。
オプショナルツアーが一般的ですが個人行っても問題ありません。
行く場合は滝への入口で、5ドルの入州税のみ支払いましょう。
 
ジャングルを流れる川をザブザブと歩いて行きます。
とても涼しげです気分が良いです。滝までは入口から40分くらいでしょうか。
歩く速度で個人差があります。
 
滝のすぐそばに行けます。打たれることもできます。
肩に重くのしかかり、けっこう痛いですけど。
日本人のオキャクサンここにくるとみんな
シュギョウといってあぐらをかくのが恒例だそうです。
 
滝までの道のり
 

20100206_334

20100206_337

20100206_328

ケーブルカーのレール跡が残っています。
これは日本統治時代の名残です。
ガラスマオで採掘されたボーキサイト(アルミの原料)をトロッコで運んだ跡です。
機関車も残っています。 この石がボーキサイト。これがアルミになり
最終的に飛行機の材料となります。
 

20100206_343

20100206_325

20100206_345

 
ようやく川に出ました。涼しくて気持ちが良いです。
ここから先は腰まで水につかって歩くので、濡れても良い恰好で。

20100206_347

 
川の途中にあります小さなダムのようなところは
これもボーキサイト産業の名残。洗鉱(せんこう)場です。
 
泥や土にまみれたボーキサイトの原石をここで
綺麗に洗い流します。
 

Imgp6391

Suizinsama022_2

 
これは水神様の祠(ほこら)です。「水天宮」と刻まれています。
70年以上前の当時から、ここに鎮座しています。

水上様をお祀りすることで、作業の安全を祈ったんですね。
 
ちょっとだけ川の上流へ寄り道したところにあるのですが
これを見つける人はすくないだろうなぁ。歴史あるものだから
ツアーで紹介すればいいのに、と思います。
 

Imgp6398_3

20100206_359

20100206_362


約30分のトレッキングで滝へ到着。
パラオといえば、海もいいけど
ジャングルもいい!
 
このスケールは必見!

日本の観光地では滝つぼで
滝に打たれる経験など
まずできないでしょう。
  







 
ボーキサイト積載場跡へ
さて、来た道を戻りまして、ボーキサイトの遺構を見学していきましょう。
 
ガラスマオの集落を抜け、海を目指します。
レンタカーは日本の中古車マーチ号。
 

Imgp8184

Imgp8181

Imgp8174

 
どんどん走って突堤の先端まで行きましょう。道沿いに

コンクリートの基礎が並んでいます。これはなんの跡だろう?
 

Imgp3563

Imgp3564

何か見えてきました。
 

Imgp3557

Imgp3560

Imgp3559

でーん!!!!
 
これはさきほど、ガラスマオの滝で見たボーキサイトの鉱石が
ここまでコンベアーで運ばれ船に積み込まれるところです。
 
道沿いに点在していたコンクリートの基礎は
コンベアーの支柱でした。
 
およそ70年前。戦前から戦中にかけて
我々日本人の先輩方が南洋開拓で一生懸命汗を流し、頑張っていた

その遺構です。
 

アルミの村
ガラスマオ一帯はかつてボーキサイト採掘により賑わった。
 
昭和13年、南洋アルミニウム鉱業株式会社によって着手された
ボーキサイト(アルミニウム原料)の採掘はガラスマオ鉱区において
年産3万トン、翌昭和14年は8万トンを採掘するに至り
アンガウル島の燐鉱とともにパラオの主要産業として
祖国の繁栄に寄与した。
 
現在でもその跡を工程順に見ることができる。
採掘場から採取されたボーキサイトの鉱石は
ガソリン機関車(合計10台)に牽引されたトコッコ(合計550台)で
銑鋼場へ運ばれる。精鉱後、ベルトコンベアーで貯鉱場に運ばれ
波止場から船積みされ内地へ輸送された。
敗戦とともに消滅したボーキサイト産業であったが現地に
おける埋蔵量は600万トンとも推定され、現在に至っても
パラオ共和国の有効な鉱物資源として活用可能である。
 
※このほかアルマテン鉱区が稼働したが
付近に海軍砲台(アルマテン砲台)があったため
昭和17年7月に稼働を中止した。

 

Imgp3553_2 

さて、帰りながらまた別の遺構を見学していきましょう。
 

0731_057_2 

これはコンパクト道路沿いに残る機関砲陣地跡。
14師団の主力はペリリュー島で第二連隊が玉砕した後も
パラオ本島決戦に備えていましたが、大痛手を食らった米海兵隊は
直接対峙を避け、本島を兵糧攻めにし、終戦まで孤立させました。
この兵糧攻めより、4800名以上の兵隊さんが飢えと病気により
亡くなっています。
   
この機関砲陣地はかなりわかりにくい場所にあるので、
ガイドに聞くのが一番です。 

 

Imgp8186

バベルダオブのコンパクト道路を通って帰ります。途中
世界一、人口が少ない首都といわれる
マルキョクの国会議事堂がポツンと丘の上に立っています。
 
 
以上、
ガラスマオには多く日本統治時代の歴史がつまっています。
当時に思いを馳せてみると何倍も味わい深いものになるでしょう。

2011年8月12日 (金)

ペリリュー天野戦車隊 九五式軽戦車「いづも」

ペリリュー島の天野戦車隊九五式軽戦車について

ペリリュー島に残る九五式戦車

▲ペリリュー島に残る九五式戦車「いづも」
 
◆天野戦車隊・概要

天野隊長率いる九五式軽戦車17輌は9月15日午後の飛行場攻防戦で
米海兵隊第一、第五連隊と対峙し玉砕した。

戦車は車輌同士の識別を容易にするため砲塔の側面に白いペンキで
ひらがなでそれぞれ名前が記されていた。 天野戦車隊長は「さくら」であった。
青森県出身の田中指揮小隊長車は「むつ」 、岩手県出身の高橋小隊長は
「きたかみ」 そのほか「もがみ」「ふじ」など それぞれ小隊長や車長の郷土に
ちなんだ名をつけた。 現在残るこの戦車は「いづも」と推定されている。
※篠原調べ
 
◆天野戦車隊の戦法
天野隊長から事前に通達された戦法は、二車両ごとの行動を徹底し
米M4戦車に対しては徹甲弾を用いて二車両同時にキャタピラを狙い、
擱座させる。砲塔は装甲が厚いから絶対に撃ってはならない。
 
さらに戦車一両につき市岡大隊と七中隊所属の二個分隊が
跨乗歩兵となり敵陣へ突撃するというものであった。
 
◆実際の戦闘経緯~勇猛果敢に敵陣へ突撃
米海兵隊との戦力差は圧倒的であった。 海兵隊はバズーカ砲
(対戦車砲で貫通力がある)を用いて 日本戦車をたちどころに撃破した。
これに加えM4戦車3輌が 支援を行った。
 
しかし日本戦車隊は良く統制が取れた動きを見せ、生き残った車輌は、
ひるむことなく、跨乗歩兵とともに、勇猛果敢に前進した。 被弾した戦車は
炎を上げ煙の尾を引きながらもスピードを落とさず前進を続け、敵陣に突撃した。
 
戦車は敵陣の只中でついに傾き、停止したが戦車兵は その場で車載機銃を
斉射した。 擱座して燃え上がる戦車からハッチを開けて脱出する戦車兵がいたが
海兵隊が火炎放射を浴びせると戦車兵は燃えながらついに倒れた。
かくして敢闘するも全車輌が撃破され 天野戦車隊は玉砕した。
 
残存兵力も歩兵部隊に合流し水府山および中の台附近にて
9月21日ごろまでに全員戦死した。
 

ペリリュー戦車隊 
▲飛行場で擱座した天野戦車隊所属九五式戦車「むつ」
奥には海軍の「彗星」が見える。

 
◆九五式軽戦車諸表
乗員3名、重量7.4トン、全長4.3メートル、全幅2.07メートル
三菱製ディーゼルエンジン出力110~120馬力、最大時速40km/h(~45km)
37ミリ戦車砲一門、九七式7.7ミリ車載重機二搭載。、装甲 砲塔および車体の
前面とも12ミリ。
 
◆操縦
乗員三名のうち右側に操縦士が座り二本の操縦桿で操縦に専念する。
左側は銃手で7.7ミリ車載機銃による射撃、無線機の取り扱いを行う。
中央上部砲塔が車長の定位置。 小隊長は戦車長として戦車砲や車載重機に
よる射撃実施、小隊間の連絡、さらに戦車隊長(天野)は各小隊を掌握して
手足の如く指揮しなければならない。

無線機は周波数一定の水晶発振器による電信と電話の両方が可能だったが
各人が何役もやらねばならず戦車兵は何れも優秀だった。
 

ペリリュー島の戦車



 
濃硫酸バッテリー ジーゼルエンジン発動には強力な力が必要で
12ボルト180アンペア級のバッテリーを四個取り付けてあるが
バッテリーは湿気と暑さに弱くすぐに電圧が降下するので
明けても暮れても予備バッテリーとかわるがわる充電した。
 
 
◆見学にあたってのお願い
ペリリュー飛行場の攻防戦で奮戦した九五式軽戦車です。ペリリュー島戦跡
一日観光で必ず見学する定番ですが、どこまでガイドが説明しているでしょう。
敵の集中砲火を浴びた、この九五式軽戦車は、その薄い装甲故に大破し
生き残った戦車兵は脱出するも、更なる弾幕の中に 投げ出され、手足は
四散し火炎放射器で焼かれ、黒焦げになって転がっています。 
 
そんな惨状を知ってか知らでか、若い日本人観光客が笑顔で戦車との
記念撮影にいそしんでいます。 ただの見世物となってしまった戦車。
現地の年配パラオ人や 戦争経験者は嘆き悲しんでいます。
どうか英霊の気持ちを忘れないでください。
 
  
戦車隊部隊史
 
昭和19年
3月 5日 満州勃利に於て第14師団戦車隊として編成完結 
3月28日 大連港より東山丸 能登丸に分乗し征途に就く 
4月28日 コロール島に兵器人員の揚陸完了 ガスパン村に移駐 
5月16日 ペリリュー島に派遣 歩兵第2連隊長の指揮下に入る 
中の台附近に陣地構築 出撃訓練に従事 
9月15日 島南部より米軍上陸 反撃命令により出撃 飛行場附近に於て
敵と遭遇 良く敢斗せるも戦車隊主力壊滅 9月21日 残存兵力は歩兵部隊に合流
水府山および中の台附近にて前進を阻止 敢斗せるも全員玉砕
九五式戦車17両を基幹 通称 照4363部隊 天野国臣隊長以下128名戦死

2011年8月11日 (木)

千明隊トーチカ

ペリリュー島南部/千明大隊トーチカ

Imgp5816_1 

不死身の日本軍小要塞
小要塞とも呼べるこの巨大トーチカは、南部地区隊の高崎十五連隊第一大隊
千明武久(ちぎらたけひさ)大隊長の陣地内にあり、鉄筋コンクリート厚さ
1.5メートル以上、銃眼口の開閉式鋼鉄は厚さ30ミリと、艦砲射撃も効果はなく
75ミリ戦車砲も跳ね返された。
 
地下に設けられた出入り口により 火炎放射は役にたたず中の日本兵は
事実上不死身に近かった。 日本守備隊は、当初米軍の上陸地点をここ
南地区と予想し、最重要拠点として 強固な陣地を構築していた。
 
実際の戦闘では第七海兵連隊に背後を突かれる形となったため陣地の威力を
充分に発揮できなかったが、千明大隊は敢闘し上陸部隊に大打撃を与えた。

 

Imgp5808_1

Imgp5819_1

Imgp5809_1

 
千明大隊長と若き精鋭、高崎十五連隊
千明大隊長は群馬県片品村出身の28歳で、配属部隊と合わせて750名を
指揮し、上陸戦当日にはオレンジ3上陸部隊の右翼を叩き、北方に
追いやったことで上陸後の海兵隊に大混乱を生じさせたほか、上陸後も
アンパンと呼ばれる地雷を用いて抱いて敵戦車の腹下に潜り込み自爆する
戦法を用いて敵戦車を擱座させた。
 
千明大隊長は最前線で指揮中に銃弾を受け16日未明に戦死。
部隊は群馬県出身者が最も多く次いで長野、栃木、茨城出身と、いずれも
20代前半の現役兵であった。
 
米海兵師団に水際で大損害を与えたのは有能な指揮官である千明大隊長と
部下の 高崎十五連隊第一大隊が歴戦の精鋭でこそ成し得た結果であろう。

陥落
この小要塞は最終的に、 勇敢な海兵隊爆破班が煙幕を利用し、 死角を突いて
少しずつ這うように接近、 壁に直接爆薬を設置して爆破、陥落させた。
千明大隊長戦死後も大隊は戦闘を継続したが 18日までに玉砕。
海兵隊は東海岸へ進出した。
 

_20090716_0138_1

 
ガイド
中に入ることもできます。入って、トーチカ内側から海を見てみてください。
兵隊さんがどんな気持ちだったか、少しだけわかるかもしれません。
 
千明大隊長について
群馬県片品村にある千明大隊長のお墓へ

ガスマスク

IMGP5960_1

これもペリリューの複郭陣地に落ちていました。

日本陸軍のガスマスクの一部(ろ過器)です。

実際に戦いで用いる機会はありませんでしたし

身に着けると、とても重くて邪魔なので、皆、捨ててしまいました。

2011年8月 9日 (火)

洞窟秘密基地の零式水偵(アイライ)

064

 

干潮時に姿を現すのは、零式水偵のプロペラ先端です。

正式名称『零式三座水上偵察機』と呼ばれ、海軍さんでは最もよく使われ、

活躍した水上偵察機です。

 

水面に見えるのはペラの先端だけですが、シュノーケリングですぐ近くまで

いって潜ってみると、翼やその骨組み、コクピットなどを間近に見ることができます。

 

背後の洞窟はハンガーケーブと呼ばれていて、飛行機を隠すには絶好の

天然格納庫でありました。しかし、この機体は、その格納庫から出して水上に

浮かんでいるところを敵機(てっき)に見つかり銃撃を受けて、破壊されました。

 

この水偵は篠原福次郎中尉率いる第30特別根拠地隊附飛行隊

の機体で、このほかにもアラカベサン、アミオンス水上基地跡など

水上飛行機基地の跡を見ることができます。

 

038

055

071

050

シュノーケリングでエンジンに近付いてみます。大きなピストンです。

水の中を覗くと、そのほかに主翼や操縦席の様子を見ることができました。

洞窟格納庫の中に入ってみましょう。広くひんやりしています。


 

零式水上偵察機

同じ「ゼロ」という文字が使われていますが、ゼロ戦とは違います。

ゼロ戦は正式名称『零式艦上戦闘機』と呼ばれ

一人乗りで、敵と空中戦をする為の戦闘機です。

一方、この機体は、零式水上偵察機。敵の基地や艦船を偵察したり、

見張りをするために使われた3人乗りの偵察飛行機です。

 

飛行機に少しでも詳しい方には

「くどくど説明をしなくても、そんなことは当たり前だ」と言われてしまいそうですが

日本人観光客は、それを知らない人が多いのです。

もっとひどいのは、パラオ人のガイドです。

アメリカの飛行機(B-24の残骸など)まで「ゼロ戦」といいます。

あれもゼロ戦、これもゼロ戦、落っこちている飛行機はみんなゼロ戦なのです。

 

しかし、ここでパラオ人のガイドが悪いとは決して言ってはいけません。

我々、日本人の戦争に対する関心の薄さから、こうした事態を招いていること

他ならないからです。

このほかにB-24の残骸や大発もあり、主なダイビングショップのツアーで

リクエストすると気軽に行くことができますので興味のある方は

問い合わせてみてください。

2011年8月 7日 (日)

パラオの自動車事情 酷使される日本車

20100206 120_1

この国には、信号機がひとつもありません。

 

パラオの自動車事情について、思いついた事を少し書きます。

私自身が実際にハンドルを握り、走って感じたことであります。

 

まず、旅行会社やダイビングショップの観光窓口でレンタカーを借りたい旨を伝えても

きちんとした会社であれば「あまりおすすめできない」と言われるでしょう。

それは、パラオの自動車事情のいいかげんなところにあります。

街で見かけるのは、一世代前(平成一桁台の年式)の日本車が多いのですが

 

「とりあえず走りさえすれば良い」といった感じで、サスペンションが片方オシャカになったのか

大きく傾いても頑張って走っていたりします。

 

外装が朽ちているのは仕方ないことですが、ひどいものになるとヘッドライトやテールライトが

丸ごと無くなった車も見かけます。レンタカー会社の車も中古の右ハンドル日本車が

目立ちます。(最近になって、ヒュンダイの新車を仕入れ始めたようですが)

 

日本車は、その頑丈さ故に酷使されていますが、いつかは壊れます。

大切に修理し続けて使う心がけは見習いたいところで、自動車も天命全うするのは

良いのですが、突然、ブレーキが効かなくなったら大変です!

 

夜は特に危険で酔っ払い運転は日常茶飯事であります。

 

そもそも、右側通行で右ハンドルが多いのは危険ですし、とても不都合です。

たとえば光軸をめいっぱい反対側に向けても限度があります。

その他にもいろいろと目に見えない問題点があるでしょう。

自動車に詳しい方ならおわかりと思います。

 

そうだ。シートベルトもしなくて良いのです。

安全運転に対する意識も低いので、常に自衛を心がけ走っています。

2011年8月 6日 (土)

海軍飛行艇整備基地(海軍アラカベサン水上基地)

Imgp3430

Imgp3428

Imgp3451_2

Imgp3465_2

Imgp3425

 

◆二式大艇の陸揚げ整備基地

アラカベサン島に残る飛行艇陸揚げ用のスロープです。

水面に向かうにつれ、ゆるやかに傾斜しています。

九七式飛行艇や、二式大艇をここに陸揚げし、整備を行いました。

スベリと呼ばれる頑丈なコンクリートが当時のまま残っています。

近くには小型の水上偵察機(下駄履き飛行機)の係留ブイも残っています。
 
下の画像は横濱のものですが参考イメージとして見てください。

2012110116321807a

Imgp7651_3

 

現在、この場所は島民憩いの場になっています。潮風がとても心地良く

感じられます。コロールから歩いても来れる距離です。

ここで潮風を浴びながら、当時の様子を想像してみるのも良いかと思います。

  

※PPR(パラオパシフィックリゾート)ホテル敷地内にも、規模が小さめですが

同じようなスロープがあります。

 

◆アラカベサン水上基地概要

アラカベサン水上基地は昭和10年に建設された水上飛行機の発着場で、
スベリと呼ばれる
巨大なコンクリート製の傾斜路
(幅40メートル長さ120メートル)が残る。

この傾斜を利用して大型飛行艇を陸揚げし整備等を行った。
 
同様の傾斜路がPPR内にも残されており、当時は
飛行艇が収容できる格納庫も備えていた。
 
PPRホテルの敷地はそのほとんどが海軍基地跡にあたる。
付近の海面に残るコンクリートの建造物は小型水上飛行機用の
係留設備である。

◆アラカベサン水上基地の歴史

昭和14年には、大日本航空株式会社が「綾波号」をはじめとする
川西式四発飛行艇(海軍九七式飛行艇の輸送機型または
民間旅客用機体の名称)
を用いて横濱-パラオ間ではじめての民間航空路を
結んだ。翌15年からは一般乗客の利用が
認可となり、横濱-パラオ線は
月二往復が運行され、途中サイパンへ一泊し
2日間かけてパラオへ到着した。
貨客船であれば横濱からパラオまでは10日を要する時代、
飛行艇航路の開設は
大幅な時間短縮を可能にした。
 
さらに昭和16年からはヤルート航路が誕生。
パラオを起点に、トラック、サイパン、トラック、ポナペ、ヤルート、ポナペ
トラック、パラオの順で月2回、一巡8日間の行程で運行し太平洋の
島々を結んだ。
 
昭和16年末の開戦とともに、アラカベサン水上基地は瞬く間に海軍の
重要拠点と化した。

基地には九七式飛行艇や二式大艇などの大型機はもとより、
零式水偵などといった
軍用機の発着が多くを占めるようになり、
大日本航空の飛行艇と乗務員も全て海軍の
指揮下におかれた。
 

◆海軍乙事件の発生

昭和19年2月、戦艦武蔵を旗艦とする連合艦隊がパラオへ入港。
連合艦隊司令部をコロールに置いた。(南洋長長官邸の裏)

3月31日、パラオ大空襲でコロールは甚大な被害を受け、
古賀峯一海軍大将は連合艦隊司令部のダバオ転進を決定する。
このとき既に武蔵は内地へ向け待避しており、残された古賀長官と幕僚らは
二式大艇二機に分乗し、ダバオへ逃れるべく離水準備を急いだ。

同日夜、ふたたびパラオに空襲警報が発令された。長官転進の命令を受け
パラオへ到着したばかりだった二式大艇一番機の機長、難波正忠大尉は燃料補給を
強く要請したが、参謀二人が「その必要は無い。出発急げ」と離水を迫ったため、
まもなく長官と幕僚らを乗せた二機はアラカベサン水上基地を離水した。
ところがダバオへの飛行中、低気圧に巻き込まれ、古賀長官座乗の一番機は
消息を絶った。残骸は最後まで見つからず、古賀長官は後に殉職とされた。
一方、福留参謀長搭乗の二番機は不時着水後、辛うじてセブ島へ漂着し
命こそ繋いだものの、現地ゲリラに捕えられ、機密文書を奪われる結果となった。
海軍乙事件と呼ばれる出来事である。

 

2011年8月 5日 (金)

手榴弾

IMGP7928_1

ペリリュー島、複郭陣地で見つけた、日本軍の手榴弾です。

守備隊の兵は自決用に一個持たされていました。ご覧の通り、不発弾でありますが

これを握り締めていた兵隊さんは、どんな気持ちだったのでしょうか。

 

攻撃側の米兵は負傷すると後方に下げられ、手厚い治療を受けることができました。

しかし、日本守備隊は、四方を敵に囲まれ、逃げ場はありません。

なんと言っても衛生材料(治療の薬や包帯)が無いので、助かる命も

助からず、負傷すればそのまま死ぬしかなかったのです。

文字通り、島を死守。徹底抗戦を以って、米軍の進攻を阻止、長期化に持ち込みました。

 

米軍の手榴弾も載せておきます。

IMGP7926_1

これは壕の中にありました。画面左が日本、右が米軍の手榴弾です。

誰かが並べたのでしょうか。ペリリューのジャングルでは今でも多くの不発弾や遺品、ご遺骨が

手付かずで眠っています。特にこうした不発弾を見つけても、決して手を触れず

ガイドの指示に従って頂きますようお願いします。