『戦鳥』クラウドファンディング開始しました!
クラウドファンディング『戦鳥(いくさどり)』第二版/補足増強版チャレンジ2
開始しました。美麗なカラーイラストで日本陸海軍機全型式500機以上収録。
主要機パイロットのインタビューも収録。付録として陸軍飛行戦隊総覧、
海軍航空隊総覧、特攻隊名簿が付属。
※予約以外の購入はできません※
立ち読み
https://soranokakera.lekumo.biz/tesr/2021/12/post-a418.html
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クラウドファンディング『戦鳥(いくさどり)』第二版/補足増強版チャレンジ2
開始しました。美麗なカラーイラストで日本陸海軍機全型式500機以上収録。
主要機パイロットのインタビューも収録。付録として陸軍飛行戦隊総覧、
海軍航空隊総覧、特攻隊名簿が付属。
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「戦鳥(いくさどり)第二版/補足増強版 クラウドファンディングチャレンジ2」
を7月中旬~9月中旬に実施します。達成した場合の発売日は12月を予定しています。
開始しましたらこちらでお知らせします。よろしくお願いします。
【追記】
クラウドファンディングの実施には審査があり、通過まで時間がかかるため
正確な公開日は現在のところわかりません。審査が完了しましたら、こちらで
お知らせします。今しばらくお待ちください。
【追記】
審査に時間がかかっております。
誠に恐れ入りますが、今しばらくお待ちくださいませ。
なお、レディーフォーの規約が変わりまして
最長の募集期間が60日間となりました。
短期決戦です!以前に増して、厳しい状況です。
何卒、ご支援賜りますよう、心よりお願い申し上げます。
追記8月14日
現在、クラウドファンディングの契約面で
交渉を重ねております。いかに潤沢に資金を集めて、
より安価に皆様のお手元に届くように、試行錯誤しております。
何卒、今しばらくお待ちくださいますと幸いです。
九七式司令部偵察機。
陸軍、海軍、民間と、用途別に派生型が存在するのが当時を知る上で
非常に興味深い。元来、空中偵察に着目したのは陸軍だった。
「大規模な師団を無駄なく動かすために空の目が必要だ」と敵の発見
より自軍の把握に重きを置いた。重ねて述べるが数万の歩兵を
動かすのだから、一兵たりとも無駄には出来ない。
「天皇の赤子(せきし)」である。とは言ったものの、歩兵は歩兵で
自らを皮肉って「一銭五厘」と言う。招集にかかった葉書代である。
余談であった。
そのころ、海軍は南方戦線で
二式陸偵が「鈍重で使い物にならない!」と、試しに
信頼性が確立されていた九七司偵を借用。すこぶる好調だったことから
これを陸軍から買い求め、八九式陸上偵察機として運用する。
二式陸偵察機はアップデートし、後に夜間戦闘機「月光」となる。
ブルーに旭日の塗装は民間機、朝日新聞神風号である。未だ航空機の
黎明期とよべる時代に各国は競争を繰り返していた、朝日新聞社は
陸軍からこの飛行機を買い求め(不良品だったものを安く買い求めた)
長距離飛行用に改造。東京-ロンドン間を飛行し、我が国の国威を
内外にアピールした。
朝日新聞神風号は台湾で墜落。イメージダウンを危惧した同社は
これを隠蔽し同じ塗装の2号機を製造した。
◆存在したゼロ戦42型
零戦42型は一言で述べるならば、21型が52型にアップデート
される際に製造された21型と52型を繋ぐ為の試作機である。
52型の試作機が42型で量産型を52型と呼称する。21型と42型が
同じ製造番号で存在し52型が量産体制に入った頃には42型という
名称は抹消されている。これには諸説あるが、以下の図面記した
ように、42型と52型はデザインが異なるので、前例通り単純に
モデル番号を変更した説と量産機が42型では語呂が悪いので
52型と改めた説がある。
しかし乍ら、彗星艦爆などは43型が存在するし、試作・計画機とは
いえ紫電改は42型が存在する。 海軍機は僅かなデザインの変更でも
型式番号を変更していることから、零戦42型がそのまま量産機名称
となったと仮定しても不思議ではない。
◆なぜ零戦42型は完成機であるにも関わらず抹消されたのか
もちろん、零戦21型に次ぐ代表的なモデルである52型が仮に
42型として大量に投入された場合、連日の空戦で命のやり取りを
している搭乗員からは、語呂が悪いからやめてくれ、とクレームが
来ることは容易に想像がつくことも理解できるが。
次に、零戦42型とはどんな構造の機体だったのについて
述べて行こう。先だって、この記事に関しては調べるきかっけを
くださり、出典元を教えて下さった144ヒコーキ工房様に心より
御礼を申し上げます。ありがとうございます。
◆零戦42型のデザインについて
大きな変更点としては22型の翼端を450mm短縮し形成した。
(52型は500mmの短縮)それから、排気管脇の耐熱板が未完成
だった事から本機から採用された推力式単排気管は最下部のみ
機体の炎燃防防の為で80mm延長されている。他にはフラップや
補助翼が変更が繰り返されている。
零戦42型については、まだ謎が多い機体なので
この記事もアップデートを前提にご覧いただければ幸いである。
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出典
Scale Aviation Vol.22 / 2011.11
参考
144ヒコーキ工房
キ201「火龍」(かりゅう)は日本陸軍が開発・試作が行われた
ジェット戦闘襲撃機である。海軍のジェット特殊攻撃機「橘花」と
異なり、機体デザインは中島飛行機が担当し、Me262を参考に
三角形の胴体断面を採用したがMe262よりさらに一回り大きい。
「火龍」のエンジンは静止推力908kgの石川島飛行機製作所
(のちの石川島播磨重工、現IHI)ネ130を二基搭載し
最高速度は852km/hで航続距離は、980km(なおMe262は最高
速度869km/hと殆ど同速度、航続距離は1,050kmである)
武装は ホ5機関砲20mm二門とホ155-Ⅱ機関砲30mmを二門の
合計四門であった。全備重量は7,000kgで実用上昇限度は
12,000メートルであり、大口径の火力を用いてB-29を撃破する
目的が主となる運用計画とした。
試作機1号機は昭和20年12月に完成予定で群馬県の中島飛行機
太田製作所で制作が進められていたが、完成の雄姿を拝む事なく
終戦を迎えた。
空母信濃と艦上戦闘機「紫電改二」~その後の運命
航空母艦信濃と艦上戦闘機に回想された紫電改について記す。
昭和19年11月11、12日
船体が完成した信濃の公試運転が東京湾で行われた。その折、信濃の飛行甲板に
着艦したのが「艦上戦闘機紫電改二(試作)」である。 この特別な機体は
紫電三一型(試製紫電改二)と称され、この時、紫電改で信濃に
着艦を行ったテストパイロットは 山本重久少佐(海兵66期)で、
紫電改着艦テスト前には、零戦や天山、彩雲、流星改などの着艦テストが
完了していた。 元来、航空母艦に搭載する艦上戦闘機としては
ゼロ戦の純後継機である 「烈風」が開発中であり、堀越二郎が寝る間を
惜しんで 完成を目指していたが、戦局悪化は甚だしく事態は
急を要する。 そこで、局地戦闘機「紫電改」を急遽、艦上戦闘機に改造する
案件が まとまり、早々に試験機が一機製作された。
紫電改と紫電改二の変更点
製作したのは川西航空機株式会社の鳴尾工場で 主な変更点として
着艦フックを取り付けに伴う、附属部品の追加、補強諸々、 さらに着艦時に、
三点引き起こしの安定性を高めるため フラップ角度を増す改造が行われた。
紫電改は元来陸上基地で運用される飛行機だから 着陸の速度が速く
航空母艦の甲板ではオーバーランして海に 落ちてしまう。
そこでフラップ角度を増すことにより、低い速度でも 安定を得て、
失速速度の限度に余裕が生じる。 これによって、接地してから静止するまでの
距離は短いものとなり 航空母艦でも運用が可能となる。理屈上である。
さて、艦上戦闘機として一新した紫電改は 鳴尾飛行場で一旦、陸上基地で
着陸性能がテストされ その結果は、すこぶる良好であった。
とくに、バルーニク(接地前に尾部が浮いてふわふわする) 性質が無くなった。
紫電改は追浜飛行場へ空輸され 翌日のテストに備えた。
紫電改二、信濃へ着艦!
試験飛行当日、天気は快晴、
追浜飛行場を離陸した黄色い試作機色の 紫電改は、単機、青い空へ
吸い込まれるように消えて行った。 間も無く、山本の眼下、東京湾を南下する
「信濃」が認められた。 真珠湾攻撃、インド洋では赤城に乗り組み活躍、
後に翔鶴のパイロットとして転戦した経験を持つ山本であったが
信濃の巨大さには驚いたという。※1
山本少佐の操縦する紫電改二は初めに二度タッチアンドゴー
(接艦テスト)を行ったのち、いよいよ三度目で着艦を試みることになった。
低空で誘導コースに入り、着艦フックをおろし 随伴する駆逐艦の上空で
ファイナルターン(第四旋回)をおわり アプローチをして着艦パスに入った。
山本はこのときの印象として
「零戦より視界良好で、赤と青の誘導灯も飛行甲板もよく見えた。
パスに乗るのも左右の修正も容易である。スロットルを絞り操縦桿を
一杯に引くと、スーッと 尾部がさがって、三点の姿勢になり、着艦
フックがワイヤーを拘束した。これなら経験の浅いパイロットでも
着艦できるであろう。零戦よりやさしいと思った」
と記している。※1
見事な着艦に、整備兵たちから拍手が沸き起こった。しかし信濃艦長
阿部俊雄大佐だけは心配そうな面持ちで 窓から首を出して外を仰いでいた。
「B-29、一機、高度ヒトマルマル、(一万)左舷前方上空南に向かう」 との
報告があったからである。 上空のB-29が二筋の飛行機雲を引いている
のが見えた。
「畜生、また写真と撮っていやがるな」
傍らの参謀が舌打ちをした。※2
山本が機体を降り、艦橋に報告へ済ませ、飛行甲板へ戻ってくると
終始を見守っていた川西航空機の紫電改設計の菊原技師が
やってきて、成功を祝し固い握手が交わされた。
桜花とともに轟沈
11月28日
信濃の一生はあまりにも短かった。 甲板上に便乗輸送の桜花20機と
震洋数隻を 搭載し、初の外洋航海に出港した信濃は
呉に向かう途中、米潜アーチャーフィッシュの雷撃を受け轟沈。
軍籍わずか17時間で沈んだ幻の航空母艦であった。
戦艦大和の姉妹である信濃が、たった一度の雷撃で いとも簡単に沈んで
しまった原因には諸説あるが 艦内の配線などはむき出しで、
排水区画や防備も途中段階で 艦船として完成とはいえず、
最終艤装のため呉へ回航する途中であった。 最初で最後の艦長となった
安部大佐も「穴だらけの未完成艦では」と、
出港する不安を述べている。※2
出典
※1『別冊丸15 終戦への道程本土決戦記』78-79頁
※2『空母信濃の生涯』豊田穣200-202頁
イラスト参考模型提供
信濃製作者 模型製作工房 聖蹟 垂水政憲
https://www.seisekimokei.com/