B-17フライングフォートレス
欧州連合エアバス社と米国ボーイング社が大型旅客機の二大シェアを占める
今日であるが、1930年代、ボーイング社は倒産の危機にあった。
ボーイング社を救ったのがB-17の正式採用である。傑作機の仲間入りを果たした
本機は総計1万2千機以上が生産され、ボーイング社の赤字からの一挙大躍進
のきっかけとなった。都市への戦略爆撃の可否はここでは触れないが、
本機の存在がなければ日本を焦土と化したB-29も、ハワイ旅行へ連れて
行ってくれるボーイング747もなかったのは事実である。
太平洋、特にソロモン戦域ではB-17は単機もしくは数機で飛来し
高度1万1千メートルを飛行したため、零戦での邀撃は極めて困難であったと
多くのパイロットが戦記に記している。太平洋戦線では早々に引退し
後継機としてコンソリーテッドB-24リベレーターが主力となったが
アップデートされたB-17G、F型は欧州戦線に大量投入された。
本機大編隊によるドイツ本土爆撃は有名である。
欧州戦線におけるB-17のクルーは、25回の爆撃を達成すると
帰国を許されたが、これは無謀な数字である。確かにB-17による
戦略爆撃はドイツ降伏に貢献したがその代償は極めて大きいものであった。
下図は英国のラウンデルが描かれているが、ドイツへの爆撃状況を
連合国側から見たものである。
空母信濃と艦上戦闘機「紫電改二」~その後の運命
航空母艦信濃と艦上戦闘機に回想された紫電改について記す。
昭和19年11月11、12日
船体が完成した信濃の公試運転が東京湾で行われた。その折、信濃の飛行甲板に
着艦したのが「艦上戦闘機紫電改二(試作)」である。 この特別な機体は
紫電三一型(試製紫電改二)と称され、この時、紫電改で信濃に
着艦を行ったテストパイロットは 山本重久少佐(海兵66期)で、
紫電改着艦テスト前には、零戦や天山、彩雲、流星改などの着艦テストが
完了していた。 元来、航空母艦に搭載する艦上戦闘機としては
ゼロ戦の純後継機である 「烈風」が開発中であり、堀越二郎が寝る間を
惜しんで 完成を目指していたが、戦局悪化は甚だしく事態は
急を要する。 そこで、局地戦闘機「紫電改」を急遽、艦上戦闘機に改造する
案件が まとまり、早々に試験機が一機製作された。
紫電改と紫電改二の変更点
製作したのは川西航空機株式会社の鳴尾工場で 主な変更点として
着艦フックを取り付けに伴う、附属部品の追加、補強諸々、 さらに着艦時に、
三点引き起こしの安定性を高めるため フラップ角度を増す改造が行われた。
紫電改は元来陸上基地で運用される飛行機だから 着陸の速度が速く
航空母艦の甲板ではオーバーランして海に 落ちてしまう。
そこでフラップ角度を増すことにより、低い速度でも 安定を得て、
失速速度の限度に余裕が生じる。 これによって、接地してから静止するまでの
距離は短いものとなり 航空母艦でも運用が可能となる。理屈上である。
さて、艦上戦闘機として一新した紫電改は 鳴尾飛行場で一旦、陸上基地で
着陸性能がテストされ その結果は、すこぶる良好であった。
とくに、バルーニク(接地前に尾部が浮いてふわふわする) 性質が無くなった。
紫電改は追浜飛行場へ空輸され 翌日のテストに備えた。
紫電改二、信濃へ着艦!
試験飛行当日、天気は快晴、
追浜飛行場を離陸した黄色い試作機色の 紫電改は、単機、青い空へ
吸い込まれるように消えて行った。 間も無く、山本の眼下、東京湾を南下する
「信濃」が認められた。 真珠湾攻撃、インド洋では赤城に乗り組み活躍、
後に翔鶴のパイロットとして転戦した経験を持つ山本であったが
信濃の巨大さには驚いたという。※1
山本少佐の操縦する紫電改二は初めに二度タッチアンドゴー
(接艦テスト)を行ったのち、いよいよ三度目で着艦を試みることになった。
低空で誘導コースに入り、着艦フックをおろし 随伴する駆逐艦の上空で
ファイナルターン(第四旋回)をおわり アプローチをして着艦パスに入った。
山本はこのときの印象として
「零戦より視界良好で、赤と青の誘導灯も飛行甲板もよく見えた。
パスに乗るのも左右の修正も容易である。スロットルを絞り操縦桿を
一杯に引くと、スーッと 尾部がさがって、三点の姿勢になり、着艦
フックがワイヤーを拘束した。これなら経験の浅いパイロットでも
着艦できるであろう。零戦よりやさしいと思った」
と記している。※1
見事な着艦に、整備兵たちから拍手が沸き起こった。しかし信濃艦長
阿部俊雄大佐だけは心配そうな面持ちで 窓から首を出して外を仰いでいた。
「B-29、一機、高度ヒトマルマル、(一万)左舷前方上空南に向かう」 との
報告があったからである。 上空のB-29が二筋の飛行機雲を引いている
のが見えた。
「畜生、また写真と撮っていやがるな」
傍らの参謀が舌打ちをした。※2
山本が機体を降り、艦橋に報告へ済ませ、飛行甲板へ戻ってくると
終始を見守っていた川西航空機の紫電改設計の菊原技師が
やってきて、成功を祝し固い握手が交わされた。
桜花とともに轟沈
11月28日
信濃の一生はあまりにも短かった。 甲板上に便乗輸送の桜花20機と
震洋数隻を 搭載し、初の外洋航海に出港した信濃は
呉に向かう途中、米潜アーチャーフィッシュの雷撃を受け轟沈。
軍籍わずか17時間で沈んだ幻の航空母艦であった。
戦艦大和の姉妹である信濃が、たった一度の雷撃で いとも簡単に沈んで
しまった原因には諸説あるが 艦内の配線などはむき出しで、
排水区画や防備も途中段階で 艦船として完成とはいえず、
最終艤装のため呉へ回航する途中であった。 最初で最後の艦長となった
安部大佐も「穴だらけの未完成艦では」と、
出港する不安を述べている。※2
出典
※1『別冊丸15 終戦への道程本土決戦記』78-79頁
※2『空母信濃の生涯』豊田穣200-202頁
イラスト参考模型提供
信濃製作者 模型製作工房 聖蹟 垂水政憲
https://www.seisekimokei.com/
『歩兵の本領』より
~敵地に一歩我れ踏めば 軍の主兵は此処に在り
最後の決は我が任務 騎兵砲兵協同(ちから)せよ~
この唄が作られた明治44年頃から支那事変にかけては
戦(いくさ)の主役・主力は歩兵であった。さりとて
腹が減っては戦は出来ぬ、兵站輸送などの後方支援も当然必要であったし
また渡河作戦で橋を構築する工兵は6年もの教育課程を経てから
ようやく一人前の兵隊として実戦部隊に配属された、縁の下の力持ちである。
大東亜戦争では騎兵が廃止され、機甲・捜索(自動車)部隊に
改編された。
ではこの時期に未だ黎明期にあった航空機はどのような役割であったか。
それでも航空機は師団主力の支援として、脇役ではあったものの、空の目、
連絡手段として無くてはならない存在であった。
九八直教/きゅーはちちょっきょう(九八式直接協同偵察機)
は同上の任務で昭和14年に初飛行を行い、昭和15年7月に一旦
生産を終了したが、前線からの本機を要望する声が強く、また
大東亜戦争の勃発から緊急生産機種に指定され、昭和17年から
生産を再開している。九八直協は軍偵や司偵にその座を譲りつつ
あったが、使い勝手が良いこの飛行機は昭和19年まで生産は続き
総生産機数は1,334機で立川飛行機が最も多く生産した機種となった。
P-51C鹵獲機。
陸軍は大陸戦線で不時着期のP-51Cを鹵獲した。内地へ空輸すべく
修復を施し飛行可能状態とした。途中、この機体の機密保持を狙った連合国の
襲撃を受けながらも、広大な大陸を何度も給油しながら、無事福生飛行場までの
空輸に成功した。
このP-51Cはファストバックであることから旧型と誤解されがちだが、最終型の
P-51Dと同様のだ大馬力のマリーンエンジンを搭載した最新鋭機であった。
福生の航空審査部では黒江少佐が元祖アグレッサーとなって、四式戦部隊を襲撃。
戦技指導を行った。
機体の稼働には高オクタン(オクタン価100程度と推される)が必要であったが
別途列車で輸送した。昭和20年初夏、オルタネータ(発電機・ダイナモの一種)
を破損し、飛行不能となり、代替部品を探しているうちに終戦を迎えた。扱いに
繊細さを求められる鹵獲機としては比較的、長寿命な機体であった。
蛇足であるが、皮肉なことに譽エンジンを搭載した四式戦もオクタン価100の
燃料を必要としたが、当時、補給線を分断され、燃料精製も極めて僅かしか
供給できなかった(ゼロ戦のオクタン価は86と案外低い)情勢下にあり
充分なポテンシャルを発揮できた四式戦は皆無といっても良いかもしれない。
B-17鹵獲機。
陸軍航空審査部は大陸戦線で2機のB-17を鹵獲。飛行可能状態に修復した。
日の丸を描いた2機のB-17が富士山を背景に飛行する写真が実在する。