キ201「火龍」(かりゅう)は日本陸軍が開発・試作が行われた
ジェット戦闘襲撃機である。海軍のジェット特殊攻撃機「橘花」と
異なり、機体デザインは中島飛行機が担当し、Me262を参考に
三角形の胴体断面を採用したがMe262よりさらに一回り大きい。
「火龍」のエンジンは静止推力908kgの石川島飛行機製作所
(のちの石川島播磨重工、現IHI)ネ130を二基搭載し
最高速度は852km/hで航続距離は、980km(なおMe262は最高
速度869km/hと殆ど同速度、航続距離は1,050kmである)
武装は ホ5機関砲20mm二門とホ155-Ⅱ機関砲30mmを二門の
合計四門であった。全備重量は7,000kgで実用上昇限度は
12,000メートルであり、大口径の火力を用いてB-29を撃破する
目的が主となる運用計画とした。
試作機1号機は昭和20年12月に完成予定で群馬県の中島飛行機
太田製作所で制作が進められていたが、完成の雄姿を拝む事なく
終戦を迎えた。
B-17フライングフォートレス
欧州連合エアバス社と米国ボーイング社が大型旅客機の二大シェアを占める
今日であるが、1930年代、ボーイング社は倒産の危機にあった。
ボーイング社を救ったのがB-17の正式採用である。傑作機の仲間入りを果たした
本機は総計1万2千機以上が生産され、ボーイング社の赤字からの一挙大躍進
のきっかけとなった。都市への戦略爆撃の可否はここでは触れないが、
本機の存在がなければ日本を焦土と化したB-29も、ハワイ旅行へ連れて
行ってくれるボーイング747もなかったのは事実である。
太平洋、特にソロモン戦域ではB-17は単機もしくは数機で飛来し
高度1万1千メートルを飛行したため、零戦での邀撃は極めて困難であったと
多くのパイロットが戦記に記している。太平洋戦線では早々に引退し
後継機としてコンソリーテッドB-24リベレーターが主力となったが
アップデートされたB-17G、F型は欧州戦線に大量投入された。
本機大編隊によるドイツ本土爆撃は有名である。
欧州戦線におけるB-17のクルーは、25回の爆撃を達成すると
帰国を許されたが、これは無謀な数字である。確かにB-17による
戦略爆撃はドイツ降伏に貢献したがその代償は極めて大きいものであった。
下図は英国のラウンデルが描かれているが、ドイツへの爆撃状況を
連合国側から見たものである。