2021年5月 2日 (日)

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0系新幹線

0系新幹線
戦後、GHQは我が国に航空機の研究と製造を禁止した。
翼を失った飛行機野郎達が再集結して
新幹線を作り上げたのは実に有名な話である。
 
びゅわーんびゅわーん走る。
そう、新幹線こそ当時から現在に至るまで
わが国の繁栄と力強さの象徴である。

2021年4月26日 (月)

夜間戦闘機「極光」(銀河16型)

夜間戦闘機「極光」

川西航空機・夜間戦闘機「極光」(きょっこう/オーロラの意)は
海軍陸上爆撃機「銀河」の派生型で上昇力を活用し高高度邀撃用の
夜間戦闘機に改造された機体である。銀河16型と呼称する例もある。
エンジンは譽の双発から金星に換装された。銀河11型との見分け方は
マフラーの数と形状、さらにカウルング上部のエアインテークが廃止
されている。厚木の第302海軍航空隊、横須賀海軍航空隊に配備され
終戦まで夜間の邀撃戦を行った。

満鉄特急あじあ号(パシナ型蒸気機関車)

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大戦機以外にも当時の先端技術や戦後に受け継がれたメカをテーマに
描いて掲載していきます。

満鉄特急あじあ号(パシナ型蒸気機関車)
あじあは、南満州鉄道(満鉄)が昭和9年から18年まで大連駅から
新京を経てハルビン駅間の約950kmを結んだ特急列車である。
超特急とも呼ばれた。
 
列車は流線形のパシナ型蒸気機関車と専用固定編成の
豪華客車で構成される。そのほとんどすべてが日本の技術によって
設計・製作されており、当時の日本の鉄道技術水準を示すものとして
重要である。超特急「あじあ」は最高速度130 km/hで大連-新京間
701 kmを所要8時間30分で結び、平均速度は82.5 kmに達した。
 
これは、当時内地の鉄道省で最速の特急だった「つばめ」の最高
速度95 km/h、平均速度69.55 km/hを大きく凌ぎぐものであった。

2021年4月23日 (金)

Stuka!Stuka!Stuka!

Stuka

Junkers Ju 87 Stuka

2021年4月21日 (水)

キ201「火龍」

キ201火龍

キ201「火龍」(かりゅう)は日本陸軍が開発・試作が行われた
ジェット戦闘襲撃機である。海軍のジェット特殊攻撃機「橘花」と
異なり、機体デザインは中島飛行機が担当し、Me262を参考に
三角形の胴体断面を採用したがMe262よりさらに一回り大きい。
  
「火龍」のエンジンは静止推力908kgの石川島飛行機製作所
(のちの石川島播磨重工、現IHI)ネ130を二基搭載し
最高速度は852km/hで航続距離は、980km(なおMe262は最高
速度869km/hと殆ど同速度、航続距離は1,050kmである)
 
武装は ホ5機関砲20mm二門とホ155-Ⅱ機関砲30mmを二門の
合計四門であった。全備重量は7,000kgで実用上昇限度は
12,000メートルであり、大口径の火力を用いてB-29を撃破する
目的が主となる運用計画とした。
 
試作機1号機は昭和20年12月に完成予定で群馬県の中島飛行機
太田製作所で制作が進められていたが、完成の雄姿を拝む事なく
終戦を迎えた。

2021年4月17日 (土)

蒼龍航空隊~彗星の初陣

蒼龍と彗星

彗星の初陣は昭和17年6月のミッドウェイ海戦であった。
未だ正式採用前の十三試艦爆と呼ばれ「蒼龍」に二機が
搭載され索敵飛行に従事した。
 
この機体は後に二式艦偵(彗星一一型)と呼ばれ爆弾倉に
代わりに写真機を内蔵したタイプの艦上偵察機で
活躍が期待されたが母艦の沈没と共に二機とも喪失した。

2021年4月16日 (金)

ラバウル航空隊

進藤三郎機

ラバウル航空隊。同名称はラバウル飛行場に進出中の中攻や
隼等の陸軍機を含む航空勢力の総称。
 
イラストは第582海軍航空隊(旧第二航空隊)の
進藤三郎大尉機と小隊長機の零戦22型。

Me262 ローリン・ラム

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洗練するドイツ製ジェット戦闘機
Me262 Lorin ラムジェット機は、1945年
オイゲン・ザンガー博士によってデザインされた
ドイツ空軍、Me262のアップデートモデル。
本機は世界発のジェット戦闘機であるMe262のjumo004エンジン
に加え、翼上に直径1.15m、全長5.9mのローリンラムジェットを搭載した
4発機である。
  
スタンダード機であるMe262が高度6000における
最高速度が870km/hだったのに対し
Lorin ラムジェット搭載機は1万メートル迄
僅か6分(Me262は26分)で上昇し1070km/hの最高速度
が可能な設計であったが、ドイツの敗戦とともに幻の怪鳥となった。

2021年4月14日 (水)

ボーイングB-17フライングフォートレス

B17

B-17フライングフォートレス
 
欧州連合エアバス社と米国ボーイング社が大型旅客機の二大シェアを占める
今日であるが、1930年代、ボーイング社は倒産の危機にあった。
ボーイング社を救ったのがB-17の正式採用である。傑作機の仲間入りを果たした
本機は総計1万2千機以上が生産され、ボーイング社の赤字からの一挙大躍進
のきっかけとなった。都市への戦略爆撃の可否はここでは触れないが、
本機の存在がなければ日本を焦土と化したB-29も、ハワイ旅行へ連れて
行ってくれるボーイング747もなかったのは事実である。
 
太平洋、特にソロモン戦域ではB-17は単機もしくは数機で飛来し
高度1万1千メートルを飛行したため、零戦での邀撃は極めて困難であったと
多くのパイロットが戦記に記している。太平洋戦線では早々に引退し
後継機としてコンソリーテッドB-24リベレーターが主力となったが
アップデートされたB-17G、F型は欧州戦線に大量投入された。
 
本機大編隊によるドイツ本土爆撃は有名である。
欧州戦線におけるB-17のクルーは、25回の爆撃を達成すると
帰国を許されたが、これは無謀な数字である。確かにB-17による
戦略爆撃はドイツ降伏に貢献したがその代償は極めて大きいものであった。
  
下図は英国のラウンデルが描かれているが、ドイツへの爆撃状況を
連合国側から見たものである。