2014年1月26日 (日)

誓約~うけい~ / サネヨシ

A4de

  
サネヨシの「誓約~うけい~」というCDを紹介させて下さい。
 
今や貴重なアーティスト、サネヨシ。

歌詞の内容など無いに等しく、ほとんどファッション化してしまった昨今
の音楽界に一矢を報いています。
 
主観ではありますが、曲の感想を書いておきます。

よかったら買って聴いてみて下さい。
 

♯1『ラッパ譜~黎明のとき』
インストゥルメンタルはタイトルの通り
黎明(れいめい)を思わせるラッパの奏で
鎮魂や哀愁、または希望ともとれる、生き延びた昨日と
始まる今日への序曲。
 
♯3『敷島の大和の国』
御楯(みたて)となり、敵艦へ突入する特攻隊員の曲なのだが
これを聴くと故郷の山や海、そして家族の顔が思い浮かぶ。
穏やかなメロディーで守るべき美しい敷島の大和の国が見えるはず。
 
♯4『愛しき子よ(Albumver.)』
ある日、日本海の海岸で突然神隠しに遭ってしまった愛しいわが子の
帰りを髪が白髪になっても待ち望む、悲しい曲である。
事件の解決を早期に切に望む。
 
♯5『TVを消せ!』
とりあえずつけて見るテレビ。何気なく見るテレビ。いつの間にか
私たちはテレビに支配されている。目を覚ますためには先ずテレビを消せ!
 
♯8『誓約~うけい~』
生き残ったの特攻隊員の思いを表現した曲で
先に逝った戦友へ馳せる思いと、死に損なった
自らの戦後、苦悩の末に望んだ未来を美しいメロディーに乗せている。
 
歌詞の内容はロックシンガーにありがちな揶揄や皮肉、癖はまったく無く
ただ純粋に、真っ直ぐに伝えたいことのみを歌い上げた印象で聞きやすい。
 
ジャケットには「過激か?全うか」と、銘打ってあるが、
曲は優しく語りかけるような調子で、純粋に日本人にとって
大切にすべき気持ちを丁寧に書き起こしたものである。
 
ところでこの曲の最後の音、何を表現しているかわかりますか?

 

サネヨシ(秘密基地レコード)オフィシャルページ

2014年1月23日 (木)

赤松貞明中尉の戦後

赤松貞明中尉

撃墜王、赤松貞明中尉。(あかまつ さだあき)

赤松貞明中尉について書かれた情報は、ウィキペディアをはじめとする
インターネット記事はもとより、書物などでも間違いが多いことが
今回、わかった。
 
私は赤松貞明という人物、その人柄に深い魅力を感じ、
どのような戦後を過ごしたのか、以前から深く掘り下げてみたいと
考えていた。
 
そこでいくつかの書物を買い漁るところから始めた。
まず、赤松本人が記した「日本撃墜王」を探し求め読んでみた。
豪快な人柄と相反して緻密な戦術、戦闘機の操縦法などに
驚かされたが、そのほとんどは空戦の話題で終始しており
これはこれで当時を知る上では最高の資料であったが
赤松自身の人柄について深く知ることはできなかった。
 
◆アルコール依存症で友人から見放され孤独と失意の晩年を送る?
次にヘンリー・サカイダ氏の著書『日本海軍航空隊のエース』を求めた。
同書によると求めていた赤松の人柄、戦後について
次のような記述があったので引用する。
 
----------------------
ヘンリー・サカイダ『日本海軍航空隊のエース』より
赤松貞明中尉の項目
 
「とんでもない気分屋で、変人ですぐに暴力を振るった」
坂井三郎が赤松を評した言葉である。
当時、エースという概念を排していた海軍においても
彼だけは撃墜王の中の撃墜王と断言した。
海軍航空隊では最も悪名高いエースで、 その奇行は
語り草となっている。 中略 本土防空戦ではB-29、F6F、P-51を
撃墜し 数々の修羅場を経験したが、落下傘脱出は一度もなく
負傷したことさえなかった。 空襲を受け、酔ったまま女郎屋から
下駄と着物姿のまま飛び出し、 戦闘機に飛び乗ったという逸話も
残されているが赤松をよく知る坂井は
「そんな話を信じてはいけません。そんなことがあるわけないじゃないですか」
と否定する。
 
中略
 
アルコール依存症になった彼にとって
戦後は生きやすい時代ではなかった。戦友たちが資金を出し合い
アメリカ製のパイパー軽飛行機を贈った。
氏は高知県漁業協同組合の 魚群探知の操縦士として雇われたが、
酒代を捻出するため パイパーを手放した。
友人や戦友にも見放され 高知市の小さな喫茶店の主となった彼は
自棄と失意のうちに 昭和55年2月22日肺炎で死去した。
 
引用おわり
--------------
 
◆悲しすぎる結末に納得がいかない
悲し過ぎる結末であった。
これは本当なのだろうか。
赤松が孤独で失意でこの世を去ったと思うと残念でならない。
 
隊内でも年下の士官から「松ちゃん」と呼ばれ親しまれており
人柄を評価する声も多いと聞く。 悲し過ぎる。
くどいようだが納得がいかない。
 
◆赤松の故郷、高知を訪ねることにした
いてもたってもいられなくなった私は 赤松中尉の故郷、
高知県を訪ねることにした。
生前の話が聞きたくて高知の街で遺族や手がかりを
日が暮れるまで を探し回ったがついに探し出すことはできなかった。
 
そこで私は高知新聞社に飛び込み、協力をお願いすることにした。
新聞社で 過去の新聞記事から赤松氏の記事を洗いざらい探してもらった。
親切に対応してくださった高知新聞社の記者の方
本当にありがとうございました。
 
すると、彼の戦後が少しずつ浮かび上がってきた。
「失意と孤独の戦後」と表現したヘンリーサカイダ氏の記述とは
少し違っているようで私は少し安心した。
 
◆赤松の戦後
赤松は戦後も大元気で大空を飛んでいたのである。

昭和28年春、赤松は旧陸海軍のパイロットらと協力して
資金を出し合い、航空機を用いた公益事業全般を名目に
「社団法人西日本軽飛行機協会」を設立、 アメリカ製軽飛行機
パイパー・ペイサーを390万円で購入する。
 
◆南風号で大活躍
「南風号」と名付けられたこの飛行機は香美郡日章村、日章飛行場跡の
一部を利用し運用された。 ただ当時の日章飛行場は野放し状態で
メーン滑走路ほとんど使えず エプロンだけを使用した。
赤松らは暇さえあれば滑走路の草抜き。このときの様子を
「経営者もパイロットもあったもんじゃない。好きじゃないとできん 商売でした」
とコメントしている。
 
だが赤松の操縦する南風号はおおいに活躍。
遭難船発見に四度貢献した。 足摺沖でバルブ船が遭難した折には、
赤松は捜索に飛び 絶望的とも思われたが船体を発見。
必死にデッキにしがみ付いている乗員を視認する。
この出来事を赤松は
「嬉しかったね。空中戦で死に損なったのより嬉しいもんだ」
と目を細めて回想した。
 
昭和30年5月11日
瀬戸内海で173人の犠牲者を出した宇高連絡船「紫雲丸」遭難事故では
転覆船の上空から取材レポートを敢行。 この日は豪雨で飛行許可の
出るような天候ではなかったが、赤松は飛行場の老人保安要員の目を
盗んで、離陸を強行し 現場へ飛んだ。
「雨なんてものじゃなかった水の中を這っているようなものだった」
と語っている。
 
高知に全日空定期便が入らず 海難救助も海上保安部の哨戒機が
飛ばなかった以前、 「南風号」は本県唯一のメッセンジャーとして
欠かせない存在だった。 そのほかにも災害、海難救助や広報、報道、
防犯 高知大学教育協力飛行、一般広告宣伝など
発足二、三年までは好調で仕事は応じきれないほどあった。
 
28年9月15日 高知市営球場で行われた
広島カープ対読売ジャンンツの試合では球場上空から
グラウンドの真ん中に花束を投下するなどの任務もこなしている。
 
◆自衛隊・海上保安庁の設立で民間パトロールの役目を終える
ところが日章飛行場にも全日空が入り、
自衛隊機や海上保安部の哨戒機が 飛ぶようになると
小規模の民間航空はたちまち経営が苦しくなった。
 
昭和34年 経営難によりついに協会は大阪の不動産業者に飛行機ごと
身売された。 赤松だけはパイロットとしてパイパーについて大阪へ移るが
肝心のパイパーは同年九月から大阪の修理工場に入ったまま。赤松は
「飛行機がなければ用事が無い!」と高知へ帰ってしまった。
 
これを最後に赤松のパイロットとしての経歴は途切れる。
そして
 
昭和37年2月
ある事件がきっかけとなり、 西日本軽飛行機協会は設立許可を取り消されて
しまった。 協会某理事が経営悪化に乗じて協会の乗っ取りを計画。 理事らの
変更届け出を偽造、理事長になりすまし パイロット養成学校をつくると称して
応募者から44万円をだまし取ったのをはじめ 神戸、和歌山に支部を
設立するといって一千万円をかき集めていた。 ブームに乗った
パイロット養成のアイデアを手口にしたこの事件で某理事は 逮捕。虎の子の
パイパーは差し押さえられ、赤松も警察から 事情聴収されるはめになった。
念のため書いておくと、もちろん赤松自身は何の罪もない。災難に巻き込ま
れた被害者であり、何より愛する飛行機まで取り上げられてしまった。
 
◆「もう一度空を飛んでみたい」~赤松、晩年の思い
 
昭和50年
晩年の赤松はゼロ戦や雷電、ソロモンの戦い、戦友への思いを秘めながら
高知市街で飲食店を経営していた。そして 生涯最後に取材に対し、
次のように締めくくっている。
 
「戦争はもう懲り懲りですが、もう一度あのゼロ戦で
今度は弾の飛んでこない大空を思う存分飛んでみたいですね」
 
このインタビューから5年後の昭和55年
赤松はこの世を去った。享年70。
最後まで空へ思いを馳せた人生はここに幕を下ろしたのだった。 
  
▼赤松の飛んだ土佐沖の海

桂浜

桂浜

雷電 赤松中尉機
▲赤松中尉搭乗の雷電戦闘機
昭和20年第302海軍航空隊/厚木飛行場 
 
機会があれば、また高知へ取材へ行きたいと考えています。
※記事は加筆・訂正する場合がございます。


最後までご覧くださりありがとうございました。
 

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零戦雷電震電

Photo_13

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2014年1月22日 (水)

米軍に捕獲されたゼロ戦

ゼロ戦鹵獲機

▲アスリート飛行場に残された第263海軍航空隊(豹)の零戦五二型。

 
サイパン島の激戦は有名ですが

同島にはアスリート飛行場と呼ばれる
帝国海軍屈指の航空拠点がありました。
 
太平洋デルタ地帯最後の攻防(昭和19年<1944>)
 
また、サイパンのほかには、大宮島※(グアム)、ヤップ、パラオな
ど三角地帯にいずれも大規模な滑走路を建設し
航空戦力を配置、太平洋の要となり、米軍と対峙しました。
 
※当時、日本占領時はグアムを大宮島<おおみやじま>と呼びました
 
昭和19年(1944)5月、あ号作戦(マリアナ沖海戦)で
三角地帯の飛行場航空部隊は日本最後の空母機動部隊とともに
遊撃戦を展開し、多くの犠牲を払いました。その多くは若年の搭乗員でありました。
 
サイパン陸上戦で散った搭乗員
在サイパン第261海軍航空隊(虎)の至宝パイロット、東山中尉は、角田司令とともに
陸上戦隊に編入しました。海軍一の度胸と腕を持っていた東山中尉も
その最期は飛行機ではなく、陸上で玉砕したと伝わっています。
 
アスリート飛行場に残されたゼロ戦
ところが、サイパン・アスリート飛行場には
第263海軍航空隊(豹)第261海軍航空隊(虎)
状態の良いゼロ戦が多数残っており、これを
米軍が鹵獲(ろかく)してアメリカ本土に持ち帰っています。
現在、カリフォルニアのプレーンオブフェイムで動態保存されている
ゼロ戦はこのとき持ち帰ったうちの一機です。  
 
パイロット本来の持ち場である空で存分に戦えなかったことは
無念だったでしょう。上陸戦で瞬く間に飛行場を制圧され、
飛行機に近づけなかった可能性があります。
 

ゼロ戦鹵獲機

▲アメリカの軽空母に搭載され本土へ運ばれる第261海軍航空隊と
第263海軍航空隊の零戦五二型。

ゼロ戦鹵獲機

▲尾翼の番号(テールレター)の頭文字が8と刻まれているのが
263空で、61が261空の所属機。

ゼロ戦鹵獲機

ゼロ戦鹵獲機

 
写真について
 
261空と263空の零戦は海軍機には珍しく迷彩色を
採用していたという説もあるが、これは誤りの可能性が高い。

モノクロ写真であれば翼の日の丸は通常黒に近い色で写るが
この写真はだいぶ薄い色に見える。溶剤などで、部分的に
塗装を落とし、日の丸を米軍の星のマークに
描きかえる直前の写真であり、それが迷彩のように見えたことから
間違った説が流れた可能性が高い。
 
敵の飛行機を戦利品として鹵獲した場合は直ちに国籍マークを
塗り替える必要があるうえ、上空から見ればまるで
日本の空母である。ここは太平洋の最前線。
誤認され爆撃でもされないよう、大急ぎで作業したのではないだろうか。
 

 

第263海軍航空隊の零戦五二型(指揮官機)をジオラマで再現してみた。
 
261空のゼロ戦に関しては
日の丸の白フチは現地で目立たぬよう黒く塗りつぶされていたが
263空は白のままだったようである。 
  

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3月にパラオへ行きます

A4

TOP画像を撮影し直し、更新しました。
 
お知らせ
3月に戦跡調査でパラオへ参ります。
もし現地で会う機会がありましたらよろしくお願い致します。

2014年1月18日 (土)

長崎造船所などを世界遺産へ推薦

◆政府が長崎造船所などを世界遺産へ推薦
 
政府は17日の閣議で、8県の施設で構成する
「明治日本の産業革命遺産 九州・山口関連地域」を
ユネスコの世界文化遺産に推薦することを了解した。
2015年の登録を目標に推薦書を提出する。
 
ユネスコが今年夏から秋に現地調査に入り
同年開催の世界遺産委員会で登録の可否が決定する。
 
推薦の名目は重工業を発展させ
日本が初めて産業国家としての地位を確立した
「世界史的意義」を強調した。
 

◆韓国は「強制労働時代の施設」と反対
これに反対しているのが韓国で
「対象施設の一部は植民地時代に強制徴用された朝鮮人が
働かされた経緯がある」との意向を示している。
 
これに対し、文部科学省下村大臣は
「今回の推薦は1910年までの産業遺産としての普遍的価値に
注目している。
日本が徴用を行ったのは1944年以降の話で、個別の問題」
とコメントした。
 
記事元と推薦施設一覧
http://www.mlit.go.jp/common/001003803.pdf
 

◆推薦予定の長崎造船所第三船渠
(1905)明治35年建設
 
◆同上ジャイアントカンチレバークレーン
(1909)明治38年建設
 

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Imgp3060

Imgp3072 

去年夏に行ってきました三菱重工長崎造船所
戦艦武蔵の故郷
もご覧ください。
 
ここからは私の感想を記して置きます。
 
韓国の反対は非合理です。
機械は機械で、それ以上でもそれ以下でもありません。 
純粋な機械、建造物だからこそ残す価値は高いと考えています。
 
私は日本人ですが、たとえばB-29。
B-29を単なるメカとして見たとき、当時の飛行機としては
洗練されたものがあり、技術、世界情勢を顕著に反映しており
歴史家にとっては実にニュートラルな
対象であり、研究対象として価値の高いものです。
 
エノラ・ゲイを保存することに対して、もちろん日本人として
あまり良い気持ちはしませんが、決して反対はしません。

ゼロ戦Tシャツ

ゼロ戦Tシャツデザインを一新し、再入荷しました。
僅かですので早めにお求めください。
 
「この色とサイズが欲しい!」という要望はたいへん
ありがたいのですが
毎度少ロッド生産ですので一種類でも売れてしまうと
しばらくお作りすることができません。何卒お許しください。
 
また、商品を置いてくださる小売店様も探しております。 
お気軽にご連絡ください。

03

Zerro

A4d

A4

T

01

amazon販売ページへ
 

ネイビー ブラック ブルー アイビーグリーン(機体色)

2014年1月15日 (水)

永遠の0ゼロを観て

映画『永遠の0ゼロ』を観ました。
 
一番の危険性は何か
映画だけを観て、全てを把握したと思い込むこと、
現代の物差しだけで結論を出すことです。
 
昨今の教育において、命の尊さは最重要視されていますが、
この概念は残念ながら平和な時代でこそ成り立ちます。潔く散る術こそが
美徳といった当時の概念も丁寧に教え説かなければならないでしょう。
 
結論を出すことは重要でない
命を奉げても国へ尽くす。あるいは
卑怯者の汚名を着せられても生き残る。
どちらが優れているか結論を出すことは重要でなく
必要なのは両論をフェアに提示することです。
 
特に、原作ではカミカゼと自爆テロの違いについて
深く言及していましたが(この点が私が原作でもっとも
好印象だったところです)映画では有耶無耶のうちに
終わってしまいましたので残念でした。
 
戦争を知らない多くの世代が、近代史に興味を持つ
きっかけとしては、素晴らしい映画でしたが
フィクションですので、あくまで
きっかけに過ぎず、真実に迫るためには自ら 
別の書物などと照らし合わせる必要があると感じました。

2014年1月12日 (日)

岩本徹三の戦後2

以前、書きました岩本徹三の記事
貴重なコメントを頂きましたので
紹介させて下さい。(勝手にすみません)
 
以下、旅好きなおっさん様のコメントより

-------------------

ちょっと岩本さんの故郷、島根県益田市に
旅してきました(生まれは樺太です)
 
戦後岩本さんが勤めていたというダイワレーヨンの工場を
ちょこっとのぞいたりしてきました。工場は戦後を忍ばせる
古い建物も残っており、あの撃墜王がこんな所でひっそりと
勤めていたのかと思うと少し悲しかった。
 
地域掲示板から、益田市横田町にお墓があるらしいという
情報があり 電車の中からですが、大津川を見下ろす山手に
墓地を視認して、あぁ故郷の美しい山里と川を
見下ろしながら眠っているのかなと思った次第です。 
 
----------
 
以上です。
旅好きなおっさん様、貴重なコメントをどうもありがとうございます。
私も近くを通った折にはお墓参りしたいと考えています。

2014年1月10日 (金)

故人の人権を考える

ひとつ前の記事で、戦没者の軍歴調査について
ご案内しましたが、最近、イレギュラーな出来事が
ありましたので
少し書いておきます。
 
問い合わせを頂いたのは40代の女性でしたが
内容は次のようなものです。
 
女性
「19〇〇年〇月〇日ごろ、呉の飛行場から特攻で

沖縄方面へ飛んで亡くなった人のことを教えてほしい」
 

「そうですか。その方とはどんなご関係ですか」
 
女性
「私の前世なんです!」
 
私「うーむ」

私は前世や生まれ変わりという概念を持っておりませんので
研究調査にも加味したことはありません。
実にイレギュラーな例でしたが、女性は真剣でしたので
私は一旦、回答を保留し、後日、本に載っている
特攻隊の名簿をお見せしますということになったのですが
これでよかったのかと、今でも考えてしまいます。
 
女性は今流行のスピリチュアルに精通しており
時間や空間などの概念を超越してものを考えることができるそうです。
 
「なるほど。貴方の前世は調べた結果、この人ですよ」
とお答えすれば、自身に誇りを持って暮らしていけたのでしょうか。
しかし故人の意思はどうなるのか?乱暴な物言いではありますけれど
勝手に前世に認定されて迷惑ではないのか?とも思いました。
(すみません。スピリチュアルを否定するつもりは一切ありません)
 
そもそも故人の人権は何処にあるのか?
誰かが持っているとするならそれは一番近い遺族ではありますが・・・
遺族はあくまで遺族であり、故人の思惑や意向と異なる部分は
当然あるでしょう。亡くなった人をアレコレ評価するのは
実に難しい問題であります。
 
※注
なお、呉には飛行場はありません。(昭和17年に於いて)
呉海軍航空隊は岩国に飛行場を有しました。

よくある質問

Q.戦没者について調べてほしい
 
戦史調査をしていると、たびたび血縁者、ご遺族から

の問い合わせを頂くことがあります。
戦闘概要をお調べすることは可能ですが、個人の経歴
追うためには膨大な名簿を探るには時間がかかります。
そのため、そういった折は
   
 
◆陸軍の場合は管轄県庁の恩給援護局

海軍の場合は厚生労働省へ
問い合わせ頂き、軍歴照会をお願いしますとお伝えしています。

手順は以下の通りです。
 
 
◆戦死された方の本籍地がある県庁(海軍は厚労省)へ連絡し
軍歴を取り寄せる方法

 
おおむね入営から戦死(もしくは復員)まで
詳細記録を保管してあります。
私も同じ方法で祖父の軍歴を
取り寄せました。時間がかかりますが
無料です。
個人情報となりますので、当該の人物より
三等親(ひ孫)まで請求可能です。

  
 
なお、請求には、

戦死された方の本籍地(当時は村だったかもしれませんが
新しい住所でも同じ場所だとわかればOKです)、生年月日
が必須です。そのほか、必要書類として、
請求なさる方と戦没者の関係が証明できる戸籍抄本などの提出が必要です。
親切に対応してくれますので、気軽に問い合わせだけでもなさっては
如何でしょうか。
 
Q.零戦パイロットの連絡先を教えてほしい
  
個人情報保護の観点から、マスコミ関係者、個人問わず、
記事に登場する人物の紹介は原則的にお断りしています。