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2014年6月30日 (月)

ペリリュー島戦跡・中川大佐自刃のラストコマンドポストへ

ペリリュー島、中川大佐が自決したラストコマンドポストへ向かう。
 


一般的な戦跡ツアーでは、画像の
「鎮魂~終焉の地」の碑がある場所を
中川大佐自決の地と説明し
案内しているようだ。
 
確かに中川大佐は玉砕戦終盤に
この近辺に居たことは事実であるが
戦局悪化とともに後退したので実際に

自決したのはここよりさらにジャングルの奥深く入った場所ある。
ここから先は遊歩道も無く断崖や燐鉱を採取した跡のクレバスが点在するため、
安全上の都合を考えれば致し方ない。
 
・本当のラストコマンドポストへ行く!
今回はペリリュー島在住(パラオ人)で戦跡専門ガイドの先導で本当の
玉砕地へ向かう。なお、同じようにラストコマンドポストへ行かれる方に
必ず守って頂きたい注意事項を最後に記載したので目を通して頂きたい。
 
・ペリリュー島複郭陣地~中川大佐最後の戦いとは
そのまえに少しおさらいをしておく。
複郭陣地(中央山岳地帯)は中川本隊が籠城による徹底抗戦を行った
最後の戦場である。複雑に張り巡らせられた大小500以上の壕を有し
高度に要塞化されたこの戦域は複郭陣地と呼ばれ最後まで米軍を苦しませた。

 
9月15日に開始された米第一海兵師団による戦いは
30日までに海岸線、飛行場および南部平坦地、
北部ならびにガドブスを掌握し、残すはこの中央山岳地帯のみとなった。
 
これらの山岳地帯(水府山地)をウムロブロゴル山地と名付けた米軍は
壊滅した第一海兵師団の任務を解除し、その役目を陸軍81師団に引き継いだ。
ウムロブロゴル包囲網(複郭陣地包囲網)は第10フェーズラインと称され
長さが東西に3キロ、幅が平均500メートルというわずかな戦域であったが
米軍がこれを徐々に縮小し最終的に司令部を陥落させたのは
陣地を包囲してから一ヶ月半以上も後のことだった。
 
81師団はこの間、ゲリラ戦を展開する守備隊に対し苦戦を強いられ
多くの犠牲を払った。
 
守備隊長の中川大佐は上陸戦直後に司令部を大山麓の
ワイルドキャットボウルと呼ばれる場所(鎮魂の碑の近辺)から
チャイナ・ウォールと呼ばれる断崖と岩場に挟まれた
二重の壕の中へ後退させており
いかなる攻撃も届かない場所にあった。
(ラストコマンドポスト)
 
中川大佐は当初の計画通り最後まで徹底抗戦の構えであったが、戦術顧問の
村井少将は持久戦に堪えかねた将兵を案じ、パラオ本島の師団司令部に
電文を送り、飛行場への玉砕突撃の許可を求めた。しかし師団司令部は
これを許さず
最後の一兵まで持久戦に徹するよう下令した。
 
そして11月24日、ついに司令部壕を包囲された中川大佐は
玉砕を意味する電文「サクラ」を連送した後、村井少将とともに自決。
残った将兵は最後の突撃を敢行し、ここにペリリュー島の組織的戦闘は終結した。
 
日本守備隊は上陸戦から数えて2か月以上にわたりペリリューを死守。
太平洋の防波堤となって本土侵攻を一日でも長く食い止めたのであった。

 
追記
ペリリューの中川大佐と言えば動画等で一躍有名になったエピソード 
「私達も一緒に戦わせてほしい~貴様ら土人と共に戦えるか!」
というものであるが、創作である可能性が高い。
そして残念ながら民間人犠牲者も出ている。 
 

ペリリュー島、中川大佐自決の地1

 
ラストコマンドポストへの道のり
今回は、ぜひともペリリューで慰霊をしたいという友人夫妻と、
友人のペリリュー研究家、パラオ人ガイド、そして私で目的地を目指す。
崖の上や起伏の激しい個所を歩く。
この辺一帯はペリリュー最高峰「大山」麓である。
 

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・不発弾が現在も残る
所々に不発弾が残っている。
不発弾処理隊が赤いテープでマークしたものは目立つが
そうでないのも多くあるので注意のうえ、絶対に触れてはいけない。
画像は駆逐艦か巡洋艦クラスの砲弾か。右は日本軍守備隊の火器。
 

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・燐鉱クレバス
燐鉱を採掘した跡が大きなクレバスとなって残っている。
落ちたら命の保証はない。十分に注意を払う。
 

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・複郭陣地に残る遺品、兵器
ジャングルには遺品が多く残る。
左上から250kg航空爆弾、陸軍さんの飯盒(はんごう)
同じく250kg爆弾、自転車、防毒面(防毒マスクのフィルター部分)である。
 

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ペリリュー島、中川大佐自決の地2

 
左上から、弾倉(マガジン)、対戦車地雷、航空機の座席か?
大鍋、米軍の弾頭(中身はカラ)、そして日米両軍の手榴弾が並べて置いてある。
左の四角いのが日本軍、右のパイナップル型が米軍。
 
不発だったのであろう。ピンは抜かれている。

これを握り締めていた兵隊さんは、どんな心境だったか。
攻める米兵は負傷すれば後方に下げられ、手厚い治療を受けることができた。
しかし、日本守備隊は、四方を敵に囲まれ、逃げ場もなく
衛生材料(治療の薬や包帯)も無い、助かる命も
助からず、負傷すればそのまま死ぬしかなかった。
文字通り、島を死守。徹底抗戦を以って、米軍の進攻を阻止、
長期化に持ち込んだのだった。

 
※なお、パラオの法律で、こうした遺物をむやみに移動させたり
持って帰ったりすることは固く禁じられている。
仮にそれが
日本兵の遺物や遺骨だったとしても例外ではない。もし、遺骨を見つけた際は、決して
移動させず、遺骨の
場所を報告しなければならない。

 

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ペリリュー島、中川大佐自決の地 

岩壁の各所には弾痕が無数に残っている。
 
・ラストコマンドポストへ到着
険しいジャングルを進むこと30分ほど、
ようやくラストコマンドポストへ到着した。
 

ペリリュー島、中川大佐自決の地

▲ラストコマンドポストは四方を岩に囲まれている
敵からの攻撃を受けないところにあった。中川大佐が自決したのは
この壕の中だ。我々は中川大佐ならびにペリリューで
太平洋の防波堤となって散ったすべての英霊に感謝と
黙とうを捧げた。
 
われ太平洋の防波堤とならん
昭和19年9月15日にはじまったペリリュー上陸戦は
当初、米海兵隊ルパータス少将が2、3日で終わるだろうと
予想した。ところが中川大佐指揮する水戸歩兵第二連隊ならびに
高崎十五連隊千明隊は、徹底抗戦の末、2か月以上にわたって
ペリリューを死守。太平洋の防波堤となって本土侵攻を一日でも
長く食い止めたのであった。
 
そして11月24日、この壕で中川大佐は自決
残った将兵は最後の突撃を敢行し、ここにペリリュー島の組織的
戦闘は終結した。

ペリリュー島、中川大佐自決の地

▲中川大佐自決の壕で前で合掌
 
明治天皇より拝受した軍旗を捧焼し、ここに伝統の精鋭第二連隊の
71年の歴史が終焉を迎えた。
 
中川大佐の自決
白光二閃。

中川大佐は先に散った多くの部下を思い、静かに目を閉じ
愛刀を腹にあてた。中川大佐の介錯は連隊旗手の烏丸中尉が※(1)
村井少将は塚田中尉が務めた。これを見届けた重傷者も
続いて自刃。残された者は最後の突撃を敢行し
壮絶な最後を遂げたのであった。
 
身元判明の経緯
戦闘終結後、米軍がはじめてこの壕を調べた際
三名の遺体が発見された。そのうちの一名は白髪で階級章が
残されていたことから、中川大佐と推測された。
残りの二人は村井少将と軍医であったとされる。

 
最後の突撃に参加したものの、米軍に捕らわれた元司令部付の
兵士がまもなく遺体の確認に立ち会い、中川大佐であることが認められた。
 
さらに時が経た、戦後、烏丸連隊旗手の遺骨も付近で発見された。
 
中川大佐自決に関するもうひとつの説
※(1) なお、中川大佐は発見時、頭部を拳銃で撃ち抜かれた跡があり
拳銃で自決を行ったとの説もある。同様に証言している生き残りの
兵士も居る。中川大佐は子供がいないので烏丸連隊旗手を我が子の
ように可愛がっており、烏丸がこれを拒み、介錯できなかった
といった証言も存在する。

  

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▲サクラサクラを打電した通信アンテナの跡
画面左あたり、岩が垂直に凹んでいる個所があるのが
わかるだろうか。
これは通信アンテナが据え付けられていた跡だ。
 
この垂直の岩は中川大佐が自決した壕の向かい側にあり
この窪みに通信アンテナが立てられていた。まさにこの場所から
最後の電文「サクラサクラ」が発信されたのだ。
 
昭和19年11月24日16時
ここペリリュー司令部より最後の電文が発信された。
電文は次の通り。
 
サクラサクラサクラ ワガシユウダンノケントウヲイノル ワレクノゴチヨウ
サクラサクラサクラ ワガシユウダンノケントウヲイノル ワレクノゴチヨウ 
・・・─・─(オワリ符号)

※サクラサクラサクラ我が集団(14師団の意)の健闘を祈る我、久野伍長
 
この電文はウルクターブル島の通信所で中継され
パラオ本島の14師団司令部に届けられた。そのさい短くなって
「サクラサクラ」となった。
 
遺体の埋葬とその後
なお、遺体が確認された中川大佐と村井少将は
米軍の手により埋葬された。
戦後まもなく中川の妻へ遺骨返還の申し出があったが
中川の妻は次のように伝え辞退したという。
 
「まだ多くの部下は故郷へ帰れずに居ります故
遠慮申し上げたい。すべての方が帰ってから、中川は最後で構いません」
 
夫人はその後亡くなり、二人だけの墓が熊本に立てられた。
夫人は今も大佐(死後中将)の帰還を待っている。
 
なお、このときの辞退が関連するかは不明であるが
戦後の混乱を経て、ペリリュー島の中川、村井両将の埋葬地は
不明になってしまった。誠に忍びない。
 
熊本県の中川大佐の墓所へ
 
この他にもジャングルの中には様々な遺品が残されている。

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帝国海軍大航空基地の名残
上は艦上爆撃機「彗星(一一型/一二型)」のエンジン。
これがペリリューにあるならば、彗星艦爆でなく

強行偵察専門で彗星を二式艦偵として運用した第121海軍航空隊
(通称雉部隊)のいずれか一機ではないかと、私は考えている。
マフラー(排気管)は腐らない。
 

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こちらも航空機のエンジン。
帝国海軍ペリリュー航空基地は、海軍屈指の大飛行場で

マリアナ沖海戦で航空機を消耗するまでの間、
一式陸攻などの大型機をはじめ、戦闘機や攻撃機などあらゆる

機体を運用した。現在は滑走路の一部こそ残っているが
そのほかの大部分はこうしてシャングルに帰した。

 

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ゼロ戦の主脚だ。萱場製作所製(現KYB/カヤバ工業)である。
ショックの部分に注目されたい。まだ錆びずに光り輝いている。

これには驚いた。
 

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ペリリュー島、中川大佐のラストコマンドポスト 

海軍通信壕を通って戻る。
この洞窟は、山を貫いているので、近道となる。
 
以上、ラストコマンドポストへの道のりは
険しいので、健脚の者に限るが、慰霊できてよかった。
 

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ジャングルに入るときの注意点
ラストコマンドポスト慰霊を含むペリリューのジャングルに入るにあたって
(通常の戦跡ツアー、遊歩道などを散策する場合を除く)
注意点を記載しておきます。行かれる方はご一読願います。
また、すべてにおいて自己責任のうえ、お願い致します。
 
・必ずペリリュー州観光パーミッドを携行してください。
 
・単独行動は控えてください。
原則的にパラオ人ガイド、もしくは公認ガイドとともに行動してください。
 
・他国の領土です。
国際問題にもなりかねませんので行動は慎重に願います。
 
・相場以上の謝礼金を渡すことは控えてください。
また遺骨情報などと引き換えに金品を要求される場合、応じないようお願いします。
 
・ジャングルに入る際は、虫よけスプレーで充分にアカムシ対策をしてください
ペリリュー島特有のアカムシ(ダニの総称)にかまれると、三週間はかゆみがひきません。
 

ペリリューの市街地散策

ペリリュー島のストア

 
・ストアでお買いもの

コロールのダウンタウンを散策しよう。まずはストアでお買い物だ。
ペリリューには、日用品や食品を扱うストアーが何か所かある。
基本的にここでなんでも手に入る。
 
・パラオ人は日本の柿の種、カリントウが大好き
とくに日本のスナック菓子が多い。
赤や青のカリントウはペリリュー(コロール)の名物。
パラオ人が日本のものを真似て作ったものらしい。
それから柿の種もパラオ人は大好き。
  
弁当(パラオ語/ベントー)も売っている。
 
ご飯におかずを少し載せたものがパックされている。
スーパーのお惣菜といったところか。
この店はアイスクリームも売っている! 
冷蔵庫はあっても冷凍庫がある店は少ないので
アイスクリームは貴重である。

 
・ビールが水代わり

一番売れるのはビール。パラオ全体に言えるが、この国はビールに
酒税がかからないので、500mlの缶ビールは一本1ドル前後で買える。
島民はジュースのように昼間から飲んでいる。ちなみに
ビールを飲むことをパラオ語で「ツカレナオース」という。(本当です)
パラオ人はバドライトなど、軽いものを好むが、アサヒのドライもよく売れている。
また、パラオの地ビールではレッドルースタービールというのがある。 
 
軒先に置いてある緑色の木の実はビンロウジュの実。
石灰をふりかけて、噛むようにして味わう。パラオ人の一般的な
嗜好品である。
 
・インターネットカードの購入
ストアではインターネットカードを購入できる。
ペリリューにもインターネットのホットスポットが何か所かあり、
カードを購入して裏面をスクラッチし、番号を専用画面に入力すると
二時間5ドルで使える。パラオは今でもダイアルアップが主流で通信速度は
とても遅いので、日本と同じように使えると思ってはいけない。のんびりやろう。
 
・洗濯屋さん
ストアで洗濯屋を兼ねているところもある。
ビニール袋一袋で(重さや量は関係なく、一袋での計算)
9ドル~15ドル程度で、洗濯、乾燥から畳むところまでやってくれる。
 
一般的なものはだいたい。ストアで手に入るし、生活に困ることはない。
暑いので水を多めに買っておこう。
 

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シャングルに入る人は必ずこれを
買っておこう。
「オフ」という虫よけスプレーで
現地民いわく、いちばん効果があるらしい。
 
それでいて「日本製のは効かない」という。
なんか殺虫剤みたいな匂いがして
お肌に良いという保証はないので
敏感肌の人は注意。

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ここはガソリンスタンド。
離島なので、当然コロールより高い。
 

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ペリリューのダウンタウンを行く。ここが島で一番賑わっているところ。
店で借りたレンタルバイク(5~10ドル)で走る。
左右に民家が並んでいるが、ここらへんの家は200~300万円もあれば
建てられるらしい。土地は外国人は買えないので、酋長の許可を得て
借りることになる。
 

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左右のドラム缶はゴミ捨て場。パラオはゴミの
分別がしっかりしていないので、紙類から乾電池まで同じところに捨てる。
島の裏側へ回ると、これらゴミの埋め立て場があり、自然遺産が売りの
リゾート地と思えない光景であった。今後直近の課題である。
最近になってようやく日本の協力により分別が指導されつつあるので
期待したい。
 

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走っているのは日本の中古車が九割。第二の人生を送っている。
それにしても日本の車は本当に頑丈だ。ボロボロになってもよく頑張って走る。
最近、急激にヒュンダイのシェアが拡大しているが、年月が経っても同じように
走ることができるだろうか。答えはあと10年くらいしたらわかるだろう。 
 
行政の車などは、ペイントがそのままになっているのが面白い。 
 
ペリリューに限らず、パラオは犬はほとんどが放し飼いである。
かまれないように注意しよう。

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水戸山の麓の千人壕。今は中が清掃されていて
少しだけなら入ることができる。あまり奥深くまで行くと方向感覚がなくなり
出てこれなくなる事故もあるので、光が届く範囲で見学しよう。
 
ここは引野大隊長指揮した独立歩兵346大隊および
軍属の玉砕した壕である。水戸山の千人壕について詳しくはこちら

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同じく水戸山ふもとの海岸線沿いに作られたトーチカ。
銃眼口が設けられている。
 

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ノースドック(北の港)までやってきた。
学校が終わった子供たちが飛び込み遊びをしている。
すごい迫力だ。
 

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飯田大隊が逆上陸を敢行したガルコル波止場。ここは
ペリリュー島の最北端にあたる。海が透き通っている。
凄惨な戦いがあったとは思えないほど美しく穏やかな海である。
 

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島の花や植物も多様でそれぞれが美しく面白い。
 
遠くに黒い雲が見える。スコールが来るだろう。
ドルフィンベイへ帰ろう。
 

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ペリリュー・ドルフィンベイリゾート

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ペリリュー島のドリフィンベイリゾートへ宿泊しました。
 
ペリリュー島にはいくつか宿泊施設がありますが
戦跡ツアーで訪れる方はほとんど日帰りで、夕方には
コロールへ帰ってしまいます。
 
最近ではダイバーの方が宿泊してペリリューもしくは
サウスロックアイランドのダイビングを楽しまれています。
ペリリューに宿泊するメリットとしては、同島でゆっくりダイビングが
可能なのはもちろん、ペリリューからサウスロックアイランドは
近距離にあるので、一番乗りでダイビングスポットへ
到着できます。コロールから朝一番に出発したダイバー船は
いくら頑張ってもペリリュー出発の船には勝てません。
 
ここペリリュー・ドルフィンベイリゾートは
ペリリューでも最高級の宿泊施設でありますが
お値段は比較的リーズナブル。日本人の宿泊客はあまり居ないようで
欧米人が目立ちます。
 

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日本人のマユミさんとガドウィン夫妻が経営する
コテージで、コテージには広く綺麗なシャワールーム、トイレ
冷房を完備しています。
 
敷地内には島で一番の宿泊者専用シーサイドレストランがあり、潮風
心地よく、雰囲気も抜群。朝食はもちろん、昼飯は弁当を作って持たせてくれます。
ディナー時はカウンターバーにもなります。
 

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日本人が経営しているのできめ細かなサービスとおもてなしの
心がスタッフ一人ひとりに根付いています。
 
コテージの目の前は海です。

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宿泊先で迷ったならここなら間違いないと思います。
宿泊者には格安で
スピードボートで送迎も可能です。
 

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ドルフィンベイの沖合に浮かぶこの小さな島は
上陸戦時、本島疎開を拒んだ島民が隠れて、
奇跡的に一命をとりとめた島です。

 

そのほか
ペリリュー島の宿泊施設いろいろ
 
マユミ・イン
パラオ人のマユミさんが営むエコノミーな宿泊施設。
(ペリリュー島にはマユミさんが二人います。一人はマユミ・インを経営する
パラオ人で日本統治時代を生きた日本語ベラベラのマユミさん。
もうひとりはドルフィンベイを経営する日本人のマユミさんです)
マユミ・インには大部屋と個室があり、日本慰霊団を受け入れるときは
かならずここを利用していました。
部屋はエコノミーですが、ペリリューで一番、食事が旨い!
ウエカブ(カニ)が安く食べられますし、食事には必ず
おひつに入った白米と(またこれがボリュームあり)味噌汁が出ます。
アルコールは別途注文。
 
アイランドビュー・モーテル
ノースドックからすぐの二階建ての宿泊施設です。
虫が少ないのが良いところです。部屋は普通です。
食事はつかないので、手配する必要があります。 
 

2014年6月24日 (火)

パラオの空を飛べ!

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世界一美しい海と称され、ダイビング客がもっとも多いパラオですが

その海を空から眺めるのもまた素晴らしい体験です。
 
今回は「スマイルエアー」の利用です。

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飛行機のドアなんですが、外した状態と、取り付けた状態、
お好みで
選びます。もちろん外しましょう。
 
通常、旅客機の発着は全て夜中です(着陸料の関係らしい)
このときばかりは空港の全景が拝めます。
 

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画像だと、一見落っこちそうに見えますが、しっかり座席ベルト
締めてますので
ダイジョーブ(パラオ語)であります。
 
あっという間にテイクオフ。軽自動車で近所のスーパーに
買い物へ行くようなフットワークの軽さです。
 
旅客機とはまったく違う感覚。シートに押し付けられる
力強い加速とともに、滑走距離はほんのわずか。長い滑走路は
だいぶ余っています。瞬く間にふわりと浮きます。
 
キャプテンの握る操縦桿が小刻みに左右に動く、それが
レスポンスよく体に伝わる、まるで鳥になったような心地よさ。
 

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ちょうどアメリカの海軍さんが来てます。
ありゃ哨戒機かな?
 
赤い屋根がパラオ国際空港のターミナルです。

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パラオ国際空港の全景が眼下に。
同空港は、もとは日本海軍のアイライ航空基地です。
 
当時、パラオに居た日本人の方が勤労奉仕で作ったと言っていました。
当時は重機などなく、スコップやモッコを使った手作業です。
 
1944年3月、戦艦武蔵がコロール泊地へ入港。
その際、乗船していた陸軍一個大隊が飛行場建設に加勢しました。
多くの民間人、軍人の血と汗が染み込んだ飛行場です。 
 
まもなく、飛行場は完成し、第343海軍航空隊(初代/隼)の
ゼロ戦隊が主に運用し、邀撃任務に活躍しましたが
それもわずかな間で、9月には制空権を握られてしまいました。
当時、アイライに居た元陸軍さんによると、
ここバベルダオブ島で直接上陸戦はありませんでしたが
飛行場を米軍に乗っ取られてしまったとの説もあり
P-38ライトニングやグラマンが馬鹿にするように超低空を飛んでいたと
いうお話でした。
 

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画面右下がKBブリッジです。
滑走路とブリッジの位置関係がよくわかります。
  
さて、話を現代に戻して、セスナキャプテンのお話。 
ここアイライの飛行場(パラオ国際空港)はパラオの中でも
非常に気象条件に恵まれた立地にあり
天気が悪くなる確率が低いとのこと。
 
コロールやペリリューが雨でも
ここアイライだけは晴れ間で、上空に上がって
周囲を見渡せるとか。ここを選んで飛行場を作った旧日本軍は
すごいですね、とキャプテンも感心しておりました。
 

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KBブリッジ上空。
空から見ると、深い部分がはっきりわかります。
ここは「アルミズ水道」といって昔から海上交通の要衝です。
 

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コロール島全景。手前がTドックと、
画面奥がパラオ松島。左がアイライ。右がマラカルです。
地図の通りです。
 

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マラカル島上空。
マラカルの港と、奥がロイヤルリゾートホテルです。
 

Imgp3003

アラカベサン上空。
戦時中は高射砲陣地がありました。(いまも残ってます)
ここの高射砲隊はニューギニア帰りの猛者揃いで
米軍機を数多く打ち落としました。
 

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二式大艇の基地。
海に突き出たスロープ(海軍ではスベリと呼んでいました)
は戦前に建設されたものです。ここに大型飛行艇を陸揚げして
整備を行いました。当時コロールに住んでいた
日本人の方が、九七式が多かったが二式もよく来ていたと、
当時を回想して言っていました。スロープを上がった先に
飛行艇を収容できる超巨大な格納庫があったのですが
現在は取り壊されています。
 
スロープの左側に
25メートルプールがあるので、ちょうど大きさの比較ができますね。
 

Imgp2997

アラカベサン島のPPR上空。
この辺一帯も海軍水上飛行機の基地でした。
 

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パラオ松島上空。画面奥がコロール島です。
同島の北側にあたります。
 

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これはイルカと遊ぶための施設です。
いけすで囲ってあります。
 

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水道をスピードボートが航跡を引いて走っています。
いつも乗ってるやつです。
 

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Imgp2960

飛行場へ戻ってきました。
 
スマイルエアーでは
15分(コロール島上空周遊)
30分(セブンティアイランド上空)
45分(ペリリュー島手前まで飛べます)
 
以上、3つのコースから選べます。
料金も2名以上ならダイビングより安いので、おすすめです。
 
余った時間は観光できますので、空いた時間で
利用みてはいかがでしょうか。

Imgp3013

2014年6月23日 (月)

初期生産スペシャルカラー本日締切

特別色は本日締切です。今日いっぱいお待ちしております。
選べる色は下記をご覧ください。
 
締め切りました。
たくさんのお申込み、誠にありがとうございました。

2014_3_2

20142_2

2014_2

2014年6月20日 (金)

パラオ近況

パラオの近況も随時更新して参ります。
 

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グアム玉砕戦の真実~小畑中将は自決せず

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玉砕の地、叉木山へ

グアム最後の戦場で 小畑中将が自決したとされている
叉木山(マタギャックヒル)を訪ねた。
 
玉砕の経緯を記した説明看板が立っているが
実はこの真意、定かでない。
小畑中将がここで自決した証拠など何もないのだ。
 
その理由を順を追って記す。
まずグアム玉砕に至る概要を記しておく必要がある。

グアム玉砕まで
1944年(昭和19年) 7月21日
サイパン、テニアンを陥落させ、さらに グアム島奪還の大義を掲げるアメリカ軍は、
空爆と艦砲射撃を十分に 行ったのち、陸軍第77師団と第2海兵師団の
2個師団を上陸させる。 グアムの防衛を担う日本軍守備隊は
陸軍第二十九師団 (および第48独立混成旅団)で 二十九師団は
以下の三個連隊から成るが松本50連隊は 先のテニアン戦で玉砕している。
 
陸軍第二十九師団(名古屋)
奈良38連隊(グアム玉砕)
豊橋18連隊(グアム玉砕)
松本50連隊(テニアン玉砕)
 
師団長は陸士25期、高品彪(たかしなたけし)中将であった。
二十九師団を基軸とした 日本軍守備隊は勇猛果敢に戦ったが
徐々に戦線を後退。最後にはバンザイ突撃を繰り返した。
 
7月28日
師団長、高品彪中将が戦死。
以降、師団の指揮は31軍司令の小畑英良(おばたひでよし)中将/陸士23期
が引き継ぐことになった。 小畑中将はグアム島北部へ転進する。
叉木山への撤退路の確保、ならびに 北部には大きな部隊が温存中であり
二日後に反撃をかける。表向きは以上のような名目であった。
 
8月11日
追い詰められた小畑中将と 部下の将兵60人は、
ここ叉木山の壕で 自決。死後大将に昇進した。
これをもってグアムの日本軍守備隊による組織的戦闘は終結した。
・・・といわれる。
 
それにしてもこの看板は 誰が書いたのであろうか。
まず、この看板設立の経緯を述べる。
 
▼小畑中将が自決したとされる壕とそれを示す看板

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叉木山で何があったのか
戦後の混乱期を経て

戦争が終わった後20年間は日米は何ら協定が存在しないため
遺族らが慰霊に来ることが叶わなかった。 1962年、はじめてペリリュー島へ
慰霊団が派遣された。 それが日本の慰霊団のはじまりであった。
1968年 テニアン、サイパンへも慰霊団が派遣される。
そのとき初めて、グアム島の知事が日本人慰霊団の上陸を許可したのだった。
 
慰霊団はクリフホテル(グアムで二番目に古いホテル)に宿泊。 そのとき慰霊団
長の部屋をノックする者がいた。 ドアを開けると、そこにはオスカー・カルボウという
神父が立っていた。 彼はデュエナス神父の親友である。彼は慰霊団長に
「もう戦争が終わったんだから、お互い恩讐を超えて モニュメントを作りましょう」
と申し出たのである。
 
このカルボウの行動の発端は昭和16年までさかのぼる。
開戦当時の銃爆撃でチャモロ人54人が不幸にも巻き添えとなり 死亡した。
そこに居合わせた広島出身のタケダという中尉が若きカルボウを呼び出して
「おい、かわいそうだから埋めてやれ」
と言って 死体の埋葬を許可したのである。 カルボウはこの一件に心動かされ、
戦後もずっと忘れられず、この日、ホテルを訪ねてきたのだという。
親友のデュエナスは惨くも日本軍に処刑されたがカルボウは
恩義を感じて一緒に墓を作ろうと 持ち掛けたのである。
 
小畑中将は本当にここで自決したのか
1972年、以上の経緯で叉木山に完成したのがこの合掌を象った
モニュメントである。 建立を主導したのは財団法人太平洋戦没者
慰霊協会で (現在は公益財団法人となっている) その当時の会長A氏は
インタビューに対し次のように語る。
 
Q「あの看板は誰が書いたんですか?」
 
A氏「あれは自分が書いた」
 
Q「じゃあ、あの60人というのはどこから調べた人数なんですか?」
 
A氏「あれは風聞ですよ。証拠は無い。昭和四十何年に自分で調べられるわけ
ないじゃないですか」
 
Q「では、あそこで小畑中将が自決したって本当ですか」
 
A氏「いや、そんなの誰も見てないよ」
 
Q「じゃあ、あれは偽物ですか」
 
A氏「いやあ、偽物ってわけじゃないけど作文だね」
 
当時、風聞を作文のまま建立しそれが今に至りそれにつられ、
みんな玉砕の地と勘違いして来ちゃってるのが現実。大手旅行会社の
団体も観光コースになっている。
 
ここ叉木山に一番重要なことはここにはなかったのである。
では、あの壕は、いつ作ったのか 誰が作ったのか、何の目的で作ったのか
 
真実はいかなるか
それには、この壕の中に入ってみれば おかしな点に気付くだろう。
元来、この壕はコンクリート製の海軍のもので、玉砕戦では陸軍が用いた。
中は狭い。この狭い壕に60人も入るのは困難である。 
そのうえ自決などできるわけがない。 
 
ではこの60人という数字、いったいどこからきたのか?
 
叉木山にKという兵隊がいた。彼は
8月11日朝5時にキャタピラの音を聞いた。
敵が来たと察した彼は、麓へ一気にかけおりて 「敵が来た」と告げた。
戦友は散っていった。 当時炊事をしていたがあんなところに集まっていたら
殺されるに決まっているから自分もすぐに逃げたという。
 
米軍側の戦記にも、このときの掃討戦の記録が残っている。残存守備隊は
全員逃げ切れなかったのだった。米軍は一挙にその周りを囲んで集中砲火を
浴びせた。そして日本軍を一ヵ所に閉じ込めた。 その閉じ込めたところを
火炎放射器で焼いて、200kgのダイナマイトを置いて一気に爆破して粉砕した
と記してある。
 
四日後に瓦礫を掘り起こしてみたら60人の死体が出てきたという。
60人の自決、というのは それを捻じ曲げて使ったのではないか。
 
つまり、ここ叉木山で小畑中将の自決を目撃した者は誰一人いないし、
証拠は何一つないのである。ここ起きたことは先に述べた通り。
戦死したのは米軍に追い詰められた一部の将兵である。
 
小畑中将はいったいどこへ?
では、小畑中将はどこへ行ったのか?
確かに小畑中将座乗の車列は、転進北上していた。ここまではわかっている。
このとき 運転手を務めていた兵が、戦後次のように証言している。
 
小畑中将座上の車列が米軍機に発見される。
車列先頭の運転手は咄嗟にハンドルを切りジャングルに車を突っ込ませ
難を逃れたが 小畑中将は米軍機の襲撃により戦死した。
これが真実ではなかろうか。
 
では 小畑中将は何の目的で、どこへ向かっていたのだろうか?
ここから先は推測になる。
 
本来の思惑は歴史の闇の中だが
この海軍壕には時価三億の金塊が残されていた。
小畑中将はこれを隠すために急行したと思われる。
 
金塊の用途は、日本軍が グアム島へやってきた当時、通貨が使えないため
チャモロ人と取引するための資金であった。無論、米軍が真実を公にすることは
ない。自分らが 金塊をガメた訳だから、玉砕したと発表してもらったほうが
都合がよいに決まっている。
 
首なし兵士の遺体の謎
この玉砕の以前、叉木山周辺で不可解な事件があり近所の住民が目撃して
いた。ある日、叉木山周辺で 日本軍の軍服を身に着けた首なしの死体が多数
見つかった。不思議なことに、この死体は首を切断されているにもかかわらず
血液が一切付着していなかったのだ。
 
この斬首された兵士こそ金塊の運搬、隠蔽に関わった兵士であり口封じのため、
味方に殺害されたと推測される。 首がなければ当然身元は不明となる。
 
遺族には戦死と伝えられたであろう。 殺害された後、(もしくは現場)
叉木山の麓を流れる小川に放置されたため、血は洗い流されたのであった。
 
以上がグアム玉砕と小畑中将の最期の真実である。
 
いかにも自ら取材したような書き方で恐縮だが、これらの内容は全て
グアム唯一の戦跡ガイド「ケン芳賀氏」に聞いた話で、氏の案内する戦跡ツアーに
参加すれば 全て現地を回りながら聞かせてもらえる内容である。
 
 
芳賀氏は、このほかにも横井庄一さんをはじめ、当時グアムで戦った
旧軍人、島民など、すべて直接会って取材しており、自らの集めた膨大な
証言記録をもとに グアムの戦跡を案内してくださる素晴らしい内容の
ツアーを行っている。グアム、チャモロの歴史、文化に精通、尊重している。
グアムに行かれる際はぜひ おすすめしたい。
 
申し込み、問い合わせは以下へ
(日本語でOKです)

http://www.usesguam.com/index.html

 

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▲叉木山壕近くの竹林。竹も成長し過ぎると自らの重さに耐えきれず倒れるのか。

グアムの方々にはこういった竹がたくさんある。

リディアン岬(グアム)

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グアム島最北端のリディアン岬まで車で走った。
アンダーソン空軍基地の間を抜けて行く。
ここはまだ走りやすくていいが ここから先はデコボコだ。
舗装道路に見える路面も サンゴダスト(サンゴの骨を砕いたもの。石灰。)で
固め作られたもので 雨が降るたびに浸食して、穴だらけになる。
 

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ここは穴場で観光客はあまり来ない。
そのかわり潮流が激しくせいぜい水際で遊ぶ程度で 泳ぐことはできない。
  
海は綺麗で透き通っている。
 

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ローカルが釣りをしている。
外洋隔てるサンゴ礁に波が当たって砕けている。
 

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砂浜の端の誰もいないところまで歩いてみた。
人工物がある。
 
 
砂浜に足を取られ、なかなか進まない上に

一眼レフ二台首にかけてるから、重くて暑い。
できれば海に飛び込みたい気分だった。
 
ゲートが夕方に閉まるので早い時間に行こう。車でしか行けないヘンピな場所にある。
車上狙いに注意。

イナラハン天然プール

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イナラハンにある天然プール。
地殻変動で出来た天然のプール。
外洋と隔てられていて面白い。
 
飛び込み台もある。
 

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こちらはメリッソ村にあるスペイン時代の名残、鐘楼(ベルタワー)

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この先、タロフォフォの滝公園には
横井庄一ランドもある

ニミッツヒル(グアム)

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グアム屈指の展望地であるニミッツ・ヒルへ上る。
名前の由来は太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツ提督から。
 
グアムの市街地を一望できるが、このニミッツヒルの麓こそ
アサンから上陸した米海兵隊と第二十九師団の主力がぶつかった戦場である。
のちに守備隊はバンザイ突撃を繰り返した。高品中将が戦死。
 
バンザイ突撃の襲撃を受けた米海兵隊は恐怖に震えた。
以下は海兵隊員の回想である。
 
「奴らは撃っても撃ってもまた来るんだもう死んだだろうと、思った。
それでも、まだ来るんだ。だからマシンガンを撃ちまくった。それでもまだ来るんだ」
 
「撃っても撃っても来るんだ!」
「撃っても撃っても来るんだ!」
「撃っても撃っても来るんだ!」  
 
「奴らは不死身か!」
 
本気で思ったという。
 
日本は絶対に降参しなかった。後年、このバンザイ突撃については
命の無駄だとか、極めて無謀な作戦であったとか評価されがちであるが
彼ら米国にとってみれば、絶対に降参しない日本、という印象が
至極強烈、刻み込まれたことは事実である。
  
戦後、本土へやってきた進駐軍は、日本の 軍民全てに叩き込まれた
徹底抗戦の精神がまだ眠っているから非常に扱いにナーバスだった。
 
だから戦後教育で徹底的に精神を否定し、頭の中を良いことも悪いことも
すべて、アメリカの 都合の良い風に入れ替えたのだ。
これはアメリカに限らず 戦争に勝った国であれば例外なく行うことだ。
精神の武装解除には時間がかかった。
 
とにかく日本人が本当に恐ろしかったに違いない。
まさにマリアナ・グアムの戦いは一億総玉砕のさきがけであった。
 
太平洋の防波堤となりますと、遺書を書いて 散っていった兵士の叫びが、
ここへ来ると聞こえる。 いまでもバンザイバンザイと丘陵に木霊する。
 

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※煙を上げるのがグアム・アプラ港(旧大宮港)の火力発電所とアメリカ軍港湾施設。
 
※大韓航空801便グアム墜落事故について
1997年8月6日、午前1時42分頃、豪雨の日だった。
大韓航空機がパイロットミスによりニミッツヒルに突っ込み、墜落
大参事となった。この事故により乗客乗員254人のうち228人が死亡した。

グアム軍事法廷跡 BC級戦犯終焉の地

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グアム軍事法廷跡
1945年の終戦後、南洋各地から集められた、いわゆる
B、C級戦犯の裁判および刑が執行された場所である。
今はさら地となっている。何も残っていないが
ぜひとも見ておかなければならない。

 
沖縄から海兵隊が移転すれば、ここも基地施設となり

自由に入ることはできなくなるだろう。
 
もちろん裁判は戦勝国による一方的なものであり
必ずしも公正無私でない。
 
そのため、これらの裁判で死刑となり
命を落とした場合、日本では法務死と呼ぶ。
 
阿部孝壮の法務死(クェゼリン捕虜処刑事件)
海軍中将、阿部 孝壮(あべ こうそう)は
クエゼリンで米国人捕虜9名を殺害した容疑で
ここグアムで裁かれた。
 
阿部はマキンの戦いで敵上陸を目前に控え、
捕虜の処遇に関し、現地指揮官に意見を求められた。
その際、阿部は「適切に処分せよ」と、指示を部下に一任した。
  
1946年、3月21日
阿部は巣鴨プリズンからここグアムへ移送された。阿部は
クエゼリンの捕虜殺害事件については現地指揮官に責任を負ってもらいたい
との意向を受けており、自決せず裁判に臨んだ。
 
米海兵隊が主宰するこのグアム軍事法廷は、同年5月6日に起訴状が
出され15日に開廷された。そして結審したのがわずか一週間後の
22日であった。
阿部は当初聞かされていた予想とは
正反対の絞首刑を告げられる。
裁判ではほとんど阿部の発言は行われなかった。
 
1947年、6月19日
刑が執行される。
阿部は宮城(きゅうじょう)を仰ぎ、天皇陛下万歳といって
刑場の露と消えた。

ガンビーチ(グアム)

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ホテルニッコー・グアムの前に
ガンビーチと呼ばれる砂浜がある。
その名の通り、これが由来である。自由に触れることができる。
 

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うるわしき砂浜と対照的に
錆びついてもなお、戦い終わらず
照準は沖の舟艇か、空を睨む。

恋人岬を望むガンビーチには、日本人を含む
アジア各地からの観光客が多く賑やかだった。
 

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アサンビーチ(グアム島)

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上陸戦が展開されたアサンビーチを訪れた。 

  
1944年(昭和19年) 7月21日
激しい艦砲射撃と空爆ののち、いよいよ米国海兵隊はアサン海岸へ
上陸を開始する。日本軍守備隊は水際でこれを阻止せんと 猛然と応戦した。
海兵隊にも死傷者が続出し橋頭堡(きょうとうほ)を確保するため丸一日を要した。
この上陸戦から数えておよそ三週間にわたりグアムでの戦いが続くのであった。
 

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アメリカは奪還の大義のもと、
日本にとっては大宮島(おおみやじま・当時グアム島の日本名)
の落日がまさに迫りつつあった。
 

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ここアサンの歴史をスペイン時代から見てみよう。
 
1892年
スペイン時代、ハンセン病患者の隔離病棟が建設されたが1900年の
台風で倒壊。
 
1901年-1903年
フィリピン米総督府はフィリピン人政治犯をグアムに追放し
ここアサン岬の刑務所に収容。
 
1917年
第一次大戦勃発とともにグアムに居たドイツ巡洋艦水兵は
捕虜となり、ここアサンに収容された。
 
1944年-1945年
そして、先の大戦で 日米両軍の熾烈な戦いの末、 グアム島の奪還を
果たした米軍は キャンプ・アサンを建設する。これは米国軍属の宿舎であった。
以降、1967年まで使用されるがその後は放置される。
 
1975年
ふたたびここアサンが使われたのがベトナム戦争時で何千人もの
ベトナム難民受け入れの 施設となった。
 
1976年
大型台風パメラによって グアム島全域の建物が倒壊した際
アサンは瓦礫の集積場となった。
 
以上のように この開けた海岸は先の大戦のみならず
常に数多の悲劇とともにあった。 現在は海浜公園として美しく
整備され バーベキューをしたりローカル憩いの場となっている。
 
この平和が末永く続くことを切に願う。
 

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2014年6月19日 (木)

特殊潜航艇・甲標的(グアム)

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特殊潜航艇・甲標的

日本海軍の「特殊潜航艇・甲標的」である。
グアム太平洋戦争国立歴史公園ビジターセンターに展示されている。
 
ここ大宮港で戦闘終結後に米軍に鹵獲されたものであるが、詳しい経緯
については未記載であるうえ、同センターではこの決死兵器の運用方法
については詳しく触れられていない。
 
動力は2ボルトの乾電池
艦首に魚雷二本が搭載され、動力はモーターで、バッテリーを用いて
スクリューを駆動する。 (バッテリーというのは一個2ボルトの電池で、
これをモデルによって 異なるが192個から200個搭載した)
なおディーゼルエンジンを 搭載したモデルも存在する。
 
生還の望みは薄い
この潜航艇は二人乗り(丙型は3人乗り)で、敵基地港湾へ侵入し
決死の雷撃を敢行する目的で運用された。 生還の望みは薄い。
 
実物に近づいてみて、印象的だったのはやはり
艦首に突き出た二本の魚雷発射管で、実に衝撃的であった。
一応は、生還を前提として設計されたものだが、その運用方法を
見てみればほぼ命と引き換えと考えてよいだろう。2人乗りで
2本の魚雷。一人あたり一本。必中轟沈である。当時の若者が
どれだけの犠牲を払って戦ったか、日本人は今、みんな忘れてしまったのだろうか。
二本の魚雷発射管は物々しく、悲しい。
 
この潜水艦を用いた作戦といえば真珠湾の九軍神が有名だ。
なお、「蛟竜」はこの艦の後継型の「甲標的丁型」と呼ばれる。

※四国、三机湾の九軍神訓練の地へも行ってみた。

サイパンからグアムへ飛ぶ

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サイパンからグアムへ飛ぶ。
プロペラ飛行機で、約50分。
プロペラ機は軽快さが良い。
 
サイパンで搭乗手続きと簡単なパスポートチェックを受けて
飛行機はすぐに飛んだ。通勤電車のようだった。
この便は一日に数往復している。
バブル期はサイパン・グアム両島の周遊プランもあったのだろうが
いまや乗客の中に自分以外に日本人の姿はない。
 
背後に見えている駐機中の小型機は昨日乗ったテニアン行きの
マリアナスエアーである。
※「テニアン島へ飛ぶ!テニアン戦跡巡礼の旅」はこちら

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あっという間にグアムへ到着。グアムは凄い都会だ。
南洋の天気は晴れていたかと思えば、雨が降ったりすぐにやんだり、
また晴れたり曇ったり雨が降ったりやんだり晴れたりと、とにかく忙しい。
滑走路に七色のアーチがかかっている。
 
降りてすぐにレンタカーを借りる。最近はレンタカーも
さまざまな料金プランがあって、貸し出しの際に少々
チャージ(課金)するかわり、燃料を補給せずに返却できる
プランがあるので、たくさん走る予定だった私はそれにした。

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左ハンドルの日本車も多い。
これは北米のみで販売されたシビッククーペ。
高価だが、スポーツタイプのレンタカーもある。
(写真を撮っただけで借りてない。残念)
  
というわけで今回は一番安いフォードのセダンを借りてさっそく街へ。
日本の免許証で運転できる。

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2014年6月18日 (水)

デモ隊に一般市民の姿は無い

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集団的自衛権、憲法九条改正反対のデモの様子を視察してきました。
 
参加者は日本共産党(または共産党系)、社民党、そして連合の
関係者がほとんどでした。
 
普通の市民はほとんど居ません。

一般人にも広く参加を呼び掛けているものの
やはり主軸は共産党系の党員や活動家です。 
 
デモ隊の先頭は共産党の野村せつ子氏です。
新聞赤旗と朝日新聞が取材に来てましたがどう報道するのでしょう。
沖縄の件もそうですが、これらを、一様に民意だとか
一般市民と呼ぶのは適切でありません。
 

東京新聞より

集団的自衛権の行使容認に反対を訴える「戦争する国づくりストップ!
緊急市民パレード」が十八日午後一時から、宇都宮市中心部で催される。
主催者側が参加を呼び掛けている。

 
県労連など十団体でつくる「戦争する国づくりストップ!
憲法を守り・いかす共同センターとちぎ」と、特定秘密保護法の廃止を求めて活動する
「秘密保護法はいらない! ネットワークとちぎ」の共催。

 
共同センターとちぎの一員でもある、新日本婦人の会県本部の伊藤直子事務局長は
「集団的自衛権の行使容認をめぐって(政府・与党内の調整が)緊迫する中、幅広い人に
意思表示し、今の憲法を守っていきたい」と趣旨を強調する。

2014年6月17日 (火)

集団的自衛権とシーレーンの掃海

年度末の消費税増税の折、友人が働くガソリンスタンドには
大勢の客が殺到し、備蓄のタンクが空、つまり品切れになる
という事件がおきました。給油に至るまで長い列を成した挙句、
つり銭の千円札二枚をとり忘れる客もいたとか。
 
また、友人の民放ディレクターが 集団的自衛権議論のニュースに
なったとたん 視聴率が急降下するのが悩みであると語っていました。
 
さて、機雷によるシーレーンの封鎖は我が国にとって兵糧攻めそのものです。
先の大戦で、まさにその兵糧攻めにあいたいへんな苦労を強いられた
よもやそれらを忘れたのではあるまい、ガソリン価格が1円でも上がると騒ぐのと
対照的になんと楽観的な国民であろう、と感じます。 同時に反対論を持ち出す
のであれば、必ず具体的な 代替案を用意すべきでしょう。
 
蛇足ながら海上自衛隊の掃海技術とノウハウは世界一でしょう。
海上自衛隊の歴史は機雷の掃海からはじまったわけです。

2014年6月13日 (金)

DB-601型エンジン(ハ40およびアツタ)

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陸軍三式戦闘機「飛燕」
第149振武隊仕様
 
国産液冷エンジン
国産では珍しい液冷エンジンを搭載したモデル。エンジンは
ライセンスを購入して導入されたドイツ・ダイムラーベンツ社の
DB-601で、ドイツより譲り受けた技術をもとに
日本国内でライセンス生産された。このエンジン、当のドイツでは
すでにメッサーシュミットBf109に搭載され著名な活躍を見せている。
過給器(スーパーチャージャー)付きで高高度でも高い性能を発揮した。
 
このライセンス生産型のDB-601を
日本陸軍では「ハ40」海軍では「アツタ」エンジンという呼んだ。
このタイプの機体は先端がシャープなデザインで日本軍で運用されたのは
飛燕のほか、海軍の「彗星」 「晴嵐」(南山)、以上の三機種のみである
 
液冷エンジンはドイツや米国では一般的であったが
空冷の機体が大部分を占める日本では例が少なく、整備兵への
教育不足により一部で稼働率の低下を招いた。 
 
ペリリューに残るDB-601型エンジン。
これは彗星に搭載されたアツタとみられる。
 
エンジン側面のプラグやコード類、
12気筒のマフラーだけが錆びずに残っている。
 

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2014年6月12日 (木)

ゼロ戦

今日はゼロ戦の絵を5機も描いてしまいました。
が、とくにこれといった用途はありません。 
  

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商品化の構想や描いた絵はたくさんあるのですが
なにぶん資金が潤沢に無く、たくさんのアイデアがそのまま
埋もれています。買ってくださる方、ご連絡お待ちしております。

鹿児島空港(陸軍国分第二飛行場)

柏木由紀

柏木由紀


















鹿児島へ行ってきました。

こちらは空港内にありました、先日のAKB総選挙で第三位の
柏木由紀(本物)鹿児島出身だそうです。
 
今回のAKB総選挙(2014)、中国ファンからの大きな
組織票があったようです。(産経ニュース)
なんだ、実際の国政選挙となんら仕組みが変わらないじゃないか。
とんだ皮肉ですが、中国のファン獲得のため、
今後、動くメンバーも出てくるかもしれませんね。
恐ろしい。 
 
さて、パラオ・グアムの記事もまともにアップしていないのに

すみません。ペリリュー島の現状とラストコマンドポストなど、
書き直したいのですが資料が
たまっております。
 
こちら鹿児島空港
戦中は陸軍国分第二飛行場でした。
特攻隊も出撃しています。
 

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鹿児島空港は比較的大きな空港です。現在、日本各地の都市への
便のほか、奄美、種子島など離島へのコミューターが頻繁に
離着陸を行っています。けっこういそがしい空港です。
 

レフューラー(リフュエリングカー)

レフューラー(リフュエリングカー)







 



燃料給油車(レフューラーもしくはリフュエリングカーともいう)が
忙しく動き回っています。ここのレフューラーは全国比較しても
特にかっこいいんですよ。もう一台、出光仕様もありますが撮り損ねました。
 
空港内には無料の資料館があります。B747のエンジンから入ります。
変わった展示が多く、飛行機好きなら垂涎ものです。早く到着しても
2時間はあっという間に過ごせるでしょう。
 



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2014年6月 6日 (金)

バブル遺産めぐり

海岸に建つそのホテルは客室からの眺望が自慢で、太平洋に沈む
夕日が実に美しいという。駅前のビジネスホテルはすでに満室で
予約が取れず、しょうがないと、半分観光気分で今回ここを選んだ
のだったが早々後悔することになった。
 
まず私が訪れたその日、半島は低気圧圏内にあり、
猛烈な時化に見舞われ、しかも
ホテルの駐車場は国道に面し、それを挟んだすぐ先は海で
沖からやってきた巨大なうねりが波消しブロックにぶつかって
轟き防波堤を越えて、それが雨だか波の飛沫なのか
わからないくらいにとにかくバケツをひっくり返したように
降ってくるだった。
 
車から急いで降りて、エントランスへ駆け寄る。
丸い取っ手のガラス戸を押して開けて
ロビーに入る。広い。だけど敷かれたカーペットはすっかり褪せ、
天井に吊るされた大きなシャンデリアも
くすんで、ホコリがつもっている。
 
フロントのカウンターへ歩み寄るものの
人の気配が無いので、備え付けの受話器を取ると
しばらくしてようやく従業員が出てきてくれた。

「おかえりなさいませ」
対応は丁寧なものだったので安心する。インクがときどき途切れる
ボールペンを滑らせ、テキトーな字で宿帳を書いた。
アクリル棒がぶらさがったレトロな鍵を受け取り、部屋へ向かう。
 
お土産コーナーに吊り下げてある古い玩具やら
ご当地Tシャツ、いつからあるものなんだろう。
 
「孔雀の間」「末広の間」とかいうバブル期には派手な宴が催されたであろう
大きな宴会場の扉の前を通り過ぎて、別館へ抜け非常口の緑色のランプの
蛍光灯が切れかけて点滅する薄暗い廊下を歩いて行く。
 
今は珍しいプレハブでコイン式のカラオケボックスが置いてある。
 
これだけガラガラだもんなら、他に宿泊客はいないんじゃないかと
思ったのだけど、たまたま通りがかった客室の前に
 
「〇〇様、〇〇様」と貼り紙があり
それが別姓の男女の名前だったのでちょっと驚き
 
って、その隣が自分の部屋じゃないか!
それにしても物音ひとつしない。波と風の音以外。
 
それでも疲れを取ろうと大浴場へ。
誰もいないので、自分で蛍光灯のスイッチを探して
ようやく見つけた。
 
きついくらいの塩素の香りが漂う「温泉」に浸かる。
庭にはパターゴルフ場があって、5番ホールの旗が
千切れんばかりになびいている。
 
はやく朝になればいいのに、と思った。
 
でも、こういうホテルは全国にたくさんあって
決して、珍しくない。
交通の便が良くなったばかりに、みんな日帰りで帰ってしまう。
 
東京は若者でいっぱいなのに
地方の過疎化は深刻だ。
どうにかならないか。
 
翌日、嵐が去って、見る海は綺麗だった。

2014年6月 1日 (日)

グアムはなぜ独立できなかったのか

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◆幻の「チャモロ共和国」

グアムに住んでいる人たちは何人と呼べばいいのか?
え、いま何て言った?グアム人? 答えは一応、アメリカ人。
 
だが、重要なことを付け加えておく。 グアムの先住民族はチャモロ人であり、
グアム島はチャモロの島である。 そしてチャモロを含むグアム市民は
アメリカ合衆国の市民権を与えられているものの米国大統領選挙には
投票できない。差別である。
 
戦後、太平洋の島々は相次いで米国からの独立を果たした。
しかしグアムは米国領のままである。 なぜ「チャモロ共和国」として
独立を果たせなかったのか。

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▲グアム島アンダーセン空軍基地の敷地を隔てるフェンス。リディアン岬方面へ走る。

 
◆米軍基地の島、グアム島
グアムの観光地を外れ、郊外を車で走っていると
その広大な基地の割合に驚く。走っても走っても空軍基地とを隔てる
鉄条網が遥かに続く。 グアム島の面積は淡路島と同じ程と考えればよいが、
このうち米軍基地が占める割合は 現在およそ33%。
これが沖縄から海兵隊が移転すると47%に増大する。
島の半分は基地になると考えて よいだろう。
 
なお沖縄は現在およそ20%弱である。沖縄のグアム海兵隊移転は、
結果的に チャモロ人たちに負担を押し付ける形となるがグアムは
建前上、米国の一部なのでそういった議論は日本では出てこないのが残念だ。
 

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▲グアムの市街地を南北に貫く道路「マリン・ドライブ」片側3車線の巨大な道路は
ベトナム戦争時、島北部にある空軍基地へ大型機を輸送するため用いられた。
 

◆沖縄は日本国へ帰属したが
沖縄は先の大戦を経て、一旦米国に占領され1972年、主権を回復、
つまり 日本への帰属が決定した。 元来、琉球民族は大和民族とは異なるし
かれらを尊重するのであれば 日本でもアメリカでもない、
琉球が独立して独自の文化と平和を築いていくこと、 それがベストだ。理想だ。
一番良いに決まっている。
 
しかし、沖縄という島は昔も今も軍事上の要衝であり、
最も緊迫した海域に位置する。 どこか大国に属していなければたちどころに
吸収されてしまうだろう。 残念ながら軍備放棄で成し得る独立ならびに
平和など、歴史上ありえない。
 
小さな島の民がどのように生き残っていくか考えなければならない。
沖縄の人たちには申し訳ないが、基地反対の主張が堂々できるのは
日本国政府の後ろ盾あってこそ、もし琉球が独立国であれば、
米国や中国、朝鮮半島等、各国との交渉力は無に等しく
主義主張は簡単に握りつぶされてしまうであろう。
そう、グアムのように。

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◆グアム島先住民族衰退と西洋搾取の歴史
グアム島の先住民族であるチャモロ人の歴史は3000年におよび、
独自の文化で平和に暮らしてきた。 当時の人口は10万人以上とも云われる。
その3000年の平和が破られたきっかけであり、西洋文化との初めての遭遇が
1521年、3月6日 マゼランの上陸である。以降、長きにわたる西洋支配と
搾取の時代が始まった。 (グアム島の南にはマゼランの上陸記念碑がある)
 
マゼランは人類史上初めての世界一周で名を馳せた冒険家であり
この航海では、偶然ではあるものの、一度も嵐に見舞われなかったことから
静かな海「パシフィックオーシャン」(太平洋)と名付けた。
航海途中、グアム島に立ち寄ったマゼランにより、同島は瞬く間に 西洋で
知れ渡り、以降グアム島とチャモロ人はスペイン帝国の支配下となる。
 
グアム支配の過程で、宣教師がチャモロの祖霊崇拝をはじめとする
独自文化を厳しく禁じたため 不満が生じ、スペイン・チャモロ戦争が勃発する。
もともと裸同然の 暮らしを営んでいたチャモロ人が火器を持った西洋文化に
対抗できる術はなく この戦争により、無残極まりない殺戮が繰り返され
10万人と言われたチャモロ民族は5千人にまで激減した。
 
スペイン帝国の支配は333年続くが 1898年の米西戦争で、
アメリカがスペインを破り 長きにわたるスペイン支配はここで終焉を迎える。
スペインの支配は他のミクロネシア地域においても 及んでおり、
サイパン、ヤップ、マーシャル、トラック、パラオなども同様であった。
 
◆なぜグアムは独立できなかったのか~現在まで至る運命の分かれ道
しかしその後は別の歴史を歩むこととなる。
スペイン帝国が米西戦争に敗れ衰退すると グアム島のみをアメリカ、
他のミクロネシア地域はドイツが掌握した。 ドイツはその後の
第一次世界大戦で敗れたため、それらミクロネシアの島々を手放すこととなった。
そして国連の決議により、サイパン、ヤップ、マーシャル、トラック、パラオなどは
日本の委任統治領となる。 これが今日まで影響する歴史の分かれ道である。
 
1941年、日本の真珠湾攻撃ならびにマレー侵攻によって幕開けした
太平洋戦争(大東亜戦争)で、開戦当時、日本領に囲まれていたグアム島は
一夜にして孤立状態となった。 このとき、グアム島に駐留するアメリカ軍
守備隊は僅か数百人で、強いて抗戦は 行わず上陸してきた日本軍に降伏。
島を早々に放棄した。
 
同様に日本軍は開戦から間もなく破竹の勢いで 米領フィリピン、
英領マレー半島、仏領インドシナ半島を攻め落とし 「米英恐るるに足らず」と
豪語したが、 いずれも勝ち目がないと判断した連合軍が早々に撤退を決断し
兵を温存したため 本質的な日本の勝利とは言い難い。 周知のように日本の
優勢はわずか半年で崩壊し 元々の日本領土であったサイパン、テニアンさえ
奪われ 昭和19年6月、ついに米軍はグアムを奪還するのである。
グアムの玉砕戦については後ほど述べることとして ここでは国家独立と
現代の話をしよう。
 

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◆ミクロネシア三国の独立をかけた戦いと辛勝
ミクロネシアの島々はいずれも戦後独立を勝ち取った。
1986年、「ミクロネシア連邦」としてカロリン諸島のうちトラック、ヤップなどの島々が
1991年、「マーシャル諸島共和国」が、
1994年、「パラオ共和国」がいずれも米国領より独立。
これら三つの国が正式に国家として主権を保持し アメリカと結んだ盟約を
自由連合盟約(じゆうれんごうめいやく、
Compact Of Free Association, COFA) 略して「コンパクト」と呼ぶ。
 
これら三国は、一切の軍隊を保持せず、安全保障は米国に委ねることとなるが
裏を返せば有事の際にはいつでも島を軍事基地として利用される運命にある。
このうち、パラオについて独立の経緯を見てみよう。
 
◆太平洋三国の国民は険しくも独立の道を選んだ
パラオの独立運動は パラオの非核憲法の存在によるところが大きく
住民投票でパラオ国民は独立を選んだのだった。
ペリリュー島などかつての要衝も、米軍の利用価値が無くなったので
独立の後押しとなったのは幸運だった。
 

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まったくもって米国の都合であるところが大きいし、真の独立とは言い難い、
疑問点は残るが それでも、独立そのものははパラオ国民が自らの意思で
決め、辛くもアメリカから勝ち取ったものであることは間違いない。
 
◆米国はグアム独立を許さない
しかしグアムはそうもいかない。
米国は軍事拠点とて重要視しており、手放すわけにいかないからだ。
  
◆沖縄は何れに属すれば最善か?生き残る道か
さて、以上をふまえた上で、これを沖縄に置き換えた場合、どう考えるか。
 

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▲日本時代のトーチカ内部より海を望む。
ピンクと黄色の花はプルメリアの花。プルメリアと一言にいっても
多様で、自生する場所によって花弁の形や色が大きく異なる。