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2014年4月19日 (土)

テニアン島戦跡(6) B-29と原爆搭載ピット

我々人類の文明は進歩の過程において、つねに搾取と生存を賭して
衝突を繰り返してきた。これらの争いに不可欠な武器の進化も
同様、石器を手にしたときから始まっている。
剣を交えたかと思えば、銃弾が飛び交う時代が到来し、
文明から遅れをとったもの、あるいは戦そのものを拒んだ民族は
情け容赦なく駆逐された。
 
そしてついに人類は究極の武器、核兵器を手にした。
次の段階は何であろうか。
 
それは石器に違いない。世界が核戦争で終末を迎え、全てが
無に帰したとき、ふたたび石器を持つ時代が来るであろう。
 
ここ、テニアン島はもっとも世界の終末に近付いた島であった。
日本守備隊が玉砕し、アメリカの占領下となったテニアン島は
サイパン、グアムと合わせて、B-29の基地として瞬く間に整備された。
 

テニアン滑走路

テニアン滑走路




テニアン滑走路 
▲テニアン島ノースフィールド飛行場、A滑走路跡(下)とB滑走路跡(右上)、上空から見た4本の滑走路。
B-29による本土空襲、そして原爆投下を行ったエノラゲイ、ボックスカーもこの滑走路より飛び立った。

 
・B-29滑走路
焼夷弾による日本本土無差別絨毯爆撃はこの島から発進した
B-29によって行われた。現在も四本の滑走路が残っている。
また、原子爆弾を搭載したエノラゲイ、ボックスカーも
この滑走路より広島、長崎へ向けて飛び立った。
 

原爆搭載ピット 
▲広島型原爆「リトルボーイ」を「エノラゲイ」に搭載したピット。
破損防止と保護のため透明の囲いが施されている。
 
・原爆搭載ピット跡 
原子爆弾はその大きさゆえ、機体への搭載には地面を
掘り下げる必要があった。原爆本体はピット内から油圧ジャッキで
持ち上げられ機内へ搭載された。

原爆搭載ピット

原爆搭載ピット

ファットマン

▲こちらは長崎へ投下された「ファットマン」を「ボックスカー」へ搭載したピット
 

テニアン リトルボーイ原爆

テニアン リトルボーイ原爆02



テニアン 原爆

▲広島型原爆「リトルボーイ」の模型(青色)
ウラン235を用いたが、運用に過大なリスクを要したため、以後製造は中止され全て長崎型に移行した。 
  

テニアンのファットマン原爆

テニアンのファットマン原爆02








テニアン ファットマン原爆04

▲長崎型原爆「ファットマン」または「パンプキン」の模型 
  
・戦後も製造され続けた120発の長崎型原爆

黄色の塗装は長崎型原爆「ファットマン」ボックスカーに搭載された
プルトニウム型の原子爆弾。長崎に投下されたファットマンは死者
約73,900人という甚大な被害をもたらした。
戦争終結後(1950年迄)も120発が製造されアメリカ軍の核戦力を担っていた。
 
・模擬爆弾「パンプキン」の投下
当初、投下候補地となったのは京都、広島、小倉、新潟の四都市で
いずれも原爆による威力を観測するため、事前の空襲は禁止されていた。
この間「パンプキン」と呼ばれる長崎型原爆と同形の模擬爆弾を東日本の
30都市に合計50発投下し、実験を行った。模擬爆弾とはいえ
通常爆薬が詰められており、この実験により400名以上が死亡した。
  
・第一目標は京都
第一目標の京都であったが、ヘンリー・スティムソンの反対により
候補から外された。京都の歴史的文化財保護を目的とした
アメリカ側の意図があったと一般に流布しているが、これといった
根拠はなく、単に戦後処理を考慮した結果、京都への投下は
非合理と判断した結果にすぎない。京都は爆撃による被害が少なく
多くの家屋が破壊されすに残っていたため、その地形を含めて
原爆投下の影響を実証するには最も適するターゲットであった。※1
 
・ストレートフラッシュによる皇居爆撃
広島への原爆投下は当初、クロード・イーザリー少佐が機長を務める
シルバープレート「ストレートフラッシュ」が担う予定であった。
ところが7月20日、この事前実験として郡山がストレートフラッシュの
投下目標となった際、悪天候もあって、イザーリー少佐は
独断で皇居へパンプキンを投下。(昭和天皇の殺害を意図した説もあり)
結果的に目標から外れたが、天皇は降伏後の最重要交渉相手であると同時に
日本人に対する心理的影響を最大に懸念していた米軍はいかなる場合も皇居への
爆撃を禁じていたためイザーリー少佐とストレートフラッシュは広島への任務を
解任され、エノラ・ゲイが補されることとなる。なおストレートフラッシュは観測機と
して随行した。
 
・シルバープレートとは
シルバープレートとは原爆投下を専門に行う目的で改造された
B-29の仕様(呼び名)で終戦まで15機が準備された。なお
戦後も含めるとその数は65機に及ぶ。
 
・朝鮮戦争とマッカーサーの原爆投下要請
その後、勃発した朝鮮戦争で、最高司令官マッカーサーは徹底抗戦を
続ける北朝鮮に対し、原爆の使用(場合によっては数発から十数発)を
要請したが、トルーマン大統領は第三次世界大戦の勃発を懸念し、これを
却下。マッカーサーを解任する。
 
・テニアン島から核兵器廃絶と平和を考える
このように、世界は核兵器の登場で幾度となく終末の危機にあったことが
理解できるし、それは現在も変わらない。
 
昨今、左派活動家主導による「憲法九条をノーベル平和賞に」
という運動が一躍話題となったが※2
日本が今日まで戦争を経験せずにこれたのは
皮肉にもアメリカの大軍事力と核の傘下に依るもので、子供でも見当がつく
大きな矛盾が生じる。この矛盾を解決しない限り、真の平和など
実現しない。
 
以前、陸上自衛隊の佐官から聞いた言葉であるが
実に的を射ているので、それ以来、事あるごとに拝借しているので
今日もここで記して置く。
 
「残念ながら平和を守っているのは軍隊なのです」
 
残念ながら平和は乞うものでは無い。少なくとも今のところは。
守るものである。
 
真に核兵器が撤廃され平和な世の中を取り戻すために
議論は必要であろう。目をつむってはいけない。
 
私は日本人として、原爆投下は到底許せるものでは無いし、それが
戦争を早く終わらせる手段だったとして容認もできない。
かといって、アメリカを憎しみを持つものではない。アメリカとは
強かに付き合う必要がある。必要なのはこれらの事実を絶対に忘れない事、
語り継ぐことである。
 
長崎、広島と合わせて
サイパンへ訪れた際はテニアンまで足を伸ばしてみることを
ぜひ、おすすめしたい。
 

エノラ・ゲイ

エノラ・ゲイ

エノラ・ゲイ

▲スミソニアン航空宇宙博物館に保存されているエノラ・ゲイ

 
※1
アメリカは戦後、南洋においては日本の文化財、文化そのものを徹底的に
破壊してきた。B-29による無差別爆撃や原爆投下はホロコースト(虐殺)で
はないのだろうか。それら一切が罪に問われず、被弾し落下傘降下した
B-29搭乗員を殺害した将校は戦犯となり処刑された。日本人は
気付かねばならない。アメリカの戦争はいかに都合よく、合理的に
行えるか否か、でしかない。
 
※2朝日新聞は
一般の主婦と報道したが正確にはプロの左派活動家。

2014年4月18日 (金)

テニアン島戦跡(5) スーサイドクリフ・天寧の落日

テニアン島玉砕戦
陸軍松本歩兵五十連隊・
角田海軍中将の最期

前回の続き
 

・テニアン島へ敵上陸
昭和19年7月24日早朝

アメリカ海軍第二海兵師団の上陸用舟艇がテニアン港へ
向けて前進。これに対し日本守備隊の重砲が一斉に火を吹いた
海軍砲台は戦艦コロラドに22発以上の命中弾を浴びせ
さらに駆逐艦ノーマン・スコットを撃沈。艦長以下多数が死傷した。
 

ペペノゴル砲台(小川砲台)

ペペノゴル砲台(小川砲台)

ペペノゴル砲台(小川砲台)

ペペノゴル砲台(小川砲台)
▲砲撃を行ったペペノゴル砲台(小川砲台)

 
しかしこれは米軍の陽動作戦であり、戦艦コロラドほかは結果的に囮となったが
その隙をついて防備が手薄となった北西チューロ海岸に第四海兵師団が
強襲上陸した。

 
ここで日本側の守備隊を記して置く。

帝国陸軍
松本歩兵50連隊(第二十九師団隷下)
連隊長・緒方敬志大佐
 
第一大隊・松田和夫大尉・北西海岸陣地
第二大隊・神山新七大尉・北東海岸陣地
第三大隊・山本好江大尉・南西海岸陣地
山砲大隊・甲斐克己少佐・ラソ、サバネタバス、カロリナス砲陣
  
このほか 工兵中隊(325連隊第二中隊) 矢野忠一中尉、
補給中隊・野崎健司中尉、独立戦車第二中隊・鹿村一男中尉
第二十九師団所属第一野戦病院・小野直樹軍医大尉であった。
 
・南溟に散華した山国の郷土部隊
歴戦の精鋭、松本歩兵50連隊は
かつて四コ連隊制の時期には第十四師団隷下にあり
・水戸2連隊 ・高崎15連隊 ・宇都宮59連隊 ・松本50連隊
の四コ連隊編成で、ともに大陸で戦った精鋭兄弟の連隊であったが
一コ師団三個連隊への改編に伴い、松本のみ29師団へ編入された。
 
水戸2連隊(全て)と高崎15連隊(一個大隊と逆上陸大隊)は
ペリリューで玉砕、宇都宮59連隊第一大隊はアンガウルで玉砕。
そして松本50連隊もテニアン島に散る運命にあり
栃木、茨城、群馬、長野の郷土部隊はいずれもはるかなる南溟に散華した。
 
・われら太平洋の防波堤とならん
第一大隊長・松田大尉は長野県別所温泉の出身で
朝は宮城(きゅうじょう・皇居のこと) に向けて遥拝し、そのあと
軍刀を抜いて精一杯素振りを行っていた。家の床の間には自筆で
「われら太平洋の防波堤とならん」と書いてあった。
そして戦いが始まる迄は、毎日床に入る前に
「今日も無事」「今日も無事」と口にしていたという。
松田大尉は豪傑な性格であったが小さな子供が二人おり、子供らの
話しをするときに限っては普通の人となった。満州で家族と判れる折
「すぐに帰るから」といっていたのが心残りで「嘘をついてしまった」と
何度も口にしており後悔した様子だった。
 
チューロ海岸に上陸した米海兵隊は破竹の勢いで南下を続け
松本連隊は後退を余儀なくされた。連隊本部は当初日の出神社付近で
あったが海兵隊の攻勢を受け徐々に後退し最終的に
島中央部マルポ地区まで後退した。マルポ地区は唯一の水源地である。
 
・あの世で会ったら一杯やろう
松田大隊長は「どうせこんな島だよ。あの世で会ったら一杯やろう」
とニッコリ笑ったという。
 
・松本連隊の玉砕
陸軍・松本連隊の抗戦はここに終わり、連隊旗が奉焼された。
連隊長以下、全員が敬礼して見守り、奉焼された連隊旗は
連隊旗手平井敏明少尉が灰まで丁寧に処理した。
翌日、最後の突撃を敢行し、連隊長以下全員が戦死。
栄光の松本歩兵50連隊の歴史はここに終焉を迎えたのである。
 
陸軍が中部マルポで玉砕し島南部の守備は
海軍陸戦隊に託された。
大家吾一大佐率いる第五十六警備隊と
第一航空艦隊司令の角田中将は司令部を
南部カロリナス台地に後退させなおも徹底抗戦を続けた。
 

カロリナス台地

▲カロリナス台地・最後の戦場

 
・翼を失った航空兵の戦い
飛行機を失った第121海軍航空隊のパイロット達ならびに司令の
岩尾正次中佐(海兵51期、大分県出身)は飛行場西海岸の岩場を
死守していたが、なにしろ元来陸戦の武器をもたない航空兵であるから
考えたあげく、爆弾を引っ張ってきていよいよ敵が攻めてきたならば
ハンマーで信管を叩きもろとも自爆する覚悟であった。
こうして虎の子の搭乗員と岩尾司令は、勇猛果敢に最後まで戦い
テニアン島の露と消えた。 

・角田中将と航空隊員の潜水艦救出計画 
搭乗員不足が深刻化していた海軍は、当初、潜水艦を派遣し
角田中将を含め、航空隊要員のみをテニアン島から脱出させる
計画であったが既にテニアンは100隻以上の米艦船に囲まれていた上
当の潜水艦が撃沈されたため、脱出作戦は頓挫した。それ以外の、
つまり陸軍の兵隊は死んでくれと言っているようなものであり、
当初批判も受けたが、角田長官も命令に従ったまででやむを得ない
事情であったし、結果的に脱出計画そのものが失敗しており角田中将以下
海軍部隊全員はカロリナス付近にて玉砕している。
 
角田中将は戦国武将に例えると上杉謙信のような指揮官であり、
自ら先陣を切って敵陣へ殴り込みをかけることを辞さない猛将であったと
伝えられる。潜水艦の接岸が成功したと仮定しても、はたして
大勢の部下や民間人を差し置いて逃げたであろうか。
 
・角田中将の最期とテニアン島陥落
角田中将は最後まで自決をしなかった。
「長官は手榴弾を抱えると司令部壕を飛び出し、敵陣へと消えていった」
それが角田中将を見た最後の証言であった。
 

テニアン スーサイドクリフ

テニアン スーサイドクリフ02

テニアン スーサイドクリフ


テニアン スーサイドクリフ 
▲スーサイドクリフ(テニアン島)と画面左がカロリナス台地
 
ごく一部の心無い中国人観光客による慰霊碑への落書き行為などが横行したため、
岬へ通じる道にゲートが設けられたが、最近は解放されて自由に見学できるように
なっている。サイパン島のスーサイドクリフと呼ばれる場所があるがここはテニアンの
スーサイドクリフである。
 

テニアン島において保護された民間人は
およそ9,000人と云われる。これは角田中将が民間人に対し
「皆さんは軍人でないのですから、死ななくていいのですよ。
投降して米軍の保護を受けなさい」と戒めたこと、さらに
陸軍緒方連隊長と
海軍大家司令がいずれも大分県の中津の同郷人であったため何かと気心が通じ、
カロリナス付近における民間人の指導もうまくいったという説がある。
その点はサイパン島と異なる。
 
しかしながら、数字は諸説あるものの自決を迫られた民間人も当然おり
サイパン島同様、島南端のスーサイドクリフから飛び降り、命を絶った。
さらに特筆すべき点は16歳から45歳までの男子、約3,500名を集めた
民間義勇隊6個中隊が編制され、戦闘に協力した。彼らの尊い犠牲も
忘れてはならない。
 
・天寧の落日
8月3日こうしてテニアン島における組織的戦闘は終結し
米軍はテニアン島占領を宣言した。そして
飛行場を大規模に整備拡張し
のちにB-29の最大拠点として完成させ、日本各地の都市を無差別爆撃
ならびに広島、長崎への原爆投下を行うのである。(後述)
 

※それから一年あまり経過した終戦後の昭和20年8月30日早川少尉以下48名は
なおも終戦を信じず抗戦を続けていたが先にサイパン島で投降した大庭大尉が
テニアンに招かれ説得にあたりこれに成功、長きにわたるテニアンでの戦いは終結した。
  
続き(B-29の基地となったテニアン島)

2014年4月15日 (火)

テニアン島戦跡(4) 日の出神社

テニアン 日の出神社 
 
前回の続き

人の営みあるところには必然と神社が祀られる。
テニアン島「日の出神社」跡である。
 
1920年(大正9年)テニアンはパラオやサイパン同様、第一次世界大戦での
ドイツ敗北によって、国際連盟より正式に日本の委任統治領となった島で
以後、日本語で「天寧」と表記されるようになった。 テニアン島における
南洋開拓は南洋興発株式会社が基軸となり、 内地からの移民を募って
推進された。主に砂糖やコーヒーの生産が行われ、
また鰹節の生産も盛んであった。
  
 昭和19年6月時点での人口は日本人15,700人(軍人除く)で
このほか朝鮮人2,700名、 チャモロ人26名が住んでいた。
その勢いたるやサイパン島に引けを取らないものだった。
その参道の規模から推測しても当時は賑やかだったことがうかがえる。
 

テニアン 日の出神社 

▲一の鳥居
 
ここテニアンを永住の地と決めた人々にとっては心の拠り所であり
悲しい事や嬉しい事、とにかく事あるごとに神社に足を運んだに違いない。
人々が集まり、生活を営む上で神社が祀られる。 

テニアン 日の出神社
▲参道と二の鳥居

神様は人々においでくださいと懇願され、呼ばれてやって来るのだ。
いまでは参道を歩く者は誰もおらず
ひとり残された神様だけが社に鎮座している。
 

テニアン 日の出神社

テニアン 日の出神社

テニアン 日の出神社


テニアン 日の出神社 

ここは日の出神社。今も昔も神様のいるところ。
 
 
続く

テニアン島戦跡(3) 第一航空艦隊司令部

第一航空艦隊司令部

 
前回からの続き

テニアン島の海軍航空隊司令部跡である。

この建物、ペリリュー島に残る西カロリン航空隊司令部
ものとまったく同じ構造、間取りをしている。 
 
昭和18年~19年にかけて
第一航空艦隊の司令部となった建物である。

第一航空艦隊基幹

第121海軍航空隊(雉)彗星、彩雲

第261海軍航空隊(虎)零戦五二型

第263海軍航空隊(豹)零戦五二型

第265海軍航空隊(雷)零戦五二型

第321海軍航空隊 夜間戦闘機「月光」

第343海軍航空隊(初代/隼)零戦五二型

第521海軍航空隊 陸上爆撃機「銀河」

第523海軍航空隊 艦上爆撃機「彗星」

第721海軍航空隊(龍)一式陸上攻撃機

第1021海軍航空隊 輸送機

 
それにしても
第一航空艦隊というと、紛らわしい呼び名だが航空母艦は無い
 
第一航空艦隊といえば、かつては真珠湾攻撃に始まり
太平洋やインド洋でおおいに
暴れ回った空母機動部隊であったが
昭和17年6月のミッドウェイ海戦で四隻の主力空母を撃沈されて以来
一旦解体し、
再建なかばにあったのだ。強いて言うならば島を
一時的に不沈空母としての運用した
のである。
 
そのため、まずはマリアナ・パラオなどで地上基地航空隊を発足させ、
訓練の
後、完成予定の航空母艦に搭載させふたたび大海原へと繰り出す
予定であった。しかし、帝国海軍の意図は脆くも崩れ去り、ふたたびその
堂々たる空母艦隊の雄姿を見ること叶わなかった。 

第一航空艦隊司令部

 
昭和19年5月、米国機動部隊がいよいよマリアナへと
進攻を開始した。マリアナ沖海戦(あ号作戦)の始まりである。
第一航空艦隊は米機動部隊を迎え撃つ形で遊撃戦に参加したが
搭乗員の大部分は未だ訓練途中であったため、大損害を受けた。
この損害により再建の望みは遠のく結果となった。
 
昭和19年7月7日、南雲忠一第一航空艦隊司令長官はサイパン島
地獄谷付近で玉砕。サイパン島はまもなく陥落し
同島アスリート飛行場を失ったうえ、多くのパイロットが
島を脱出できずに地上戦で戦死した。
 
同年8月2日、テニアン島玉砕。
南雲中将の後任となった角田覚治中将も
地上戦で戦死。海軍屈指のテニアン島ハゴイ飛行場と
ここでも脱出に失敗した多くのパイロットを地上戦で失う。
最後まで飛行機を与えられなかった飛行兵たちはさぞ無念であったろう。
 
同年8月10日、大宮島(グアム島)陥落。
さらに航空拠点を失う。
 
こうして第一航空艦隊の再建は絶望的なものとなった。
皮肉にも最も飛行場整備に適していたテニアンは
アメリカ軍の占領後、B-29の最大拠点として整備されることとなる。 
 
残存の航空兵力はパラオ・ペリリュー島とフィリピン
各地へ転進したが、その後は特攻作戦へと進んでゆく。
  

第一航空艦隊司令部▲日本海軍ハゴイ飛行場駐機場跡。

 

第一航空艦隊司令部

第一航空艦隊司令部

第一航空艦隊司令部


続く

2014年4月14日 (月)

テニアン島戦跡(2)ブロードウェイは死へのカウントダウン

前回からの続き。
 
セスナ機はテニアン国際空港へ着陸した。

とは言ってもサイパンから10分。電車の初乗りとさほど変わらない。
 
空港でレンタカーを借りる。カウンターで簡単な手続き
(日本の免許証とクレジットカードを見せればOK)を経て出発。
島にはタクシーや公共交通機関は一切ないので、ツアー
以外で訪れて自由に動きたい場合はレンタカーが唯一の手段。
 
ブロードウェイを下りて行く。
遠くに見える大きな建物がテニアン・ダイナスティーホテル&カジノ。
テニアンは静かな島で、サイパンから足を伸ばす観光客は僅かしかいない。
対向車や人と行きあうことも稀だ。

ブロードウェイ


▲ブロードウェイ~原爆投下への道
ブロードウェイという名称はテニアン島がニューヨークのマンハッタン島に
似ていることから同様に名付けられたものだが、このブロードウェイを北上するとき
ぜひとも触れておかねばならない歴史がある。
 
1945年(昭和20年)7月26日
アメリカ海軍の重巡洋艦「インディアナポリス」がテニアン港に入港する。
重巡インディアナポリスはこのとき、人類史上、最も恐ろしいミッションを
帯びていた。後に広島、長崎へ投下される原子爆弾の輸送である。
インディアナポリスから陸揚げされた原子爆弾は、輸送用車両に積み替えられ
このブロードウェイを通って、ノースフィールド飛行場まで運ばれた。
広島に原爆が投下される11日前の出来事である。※1
 
我々日本人がこのブロードウェイを北上するとき、死へのカウントが冷酷
にも確実に刻まれているような、そして場合によっては震えが止まらない
恐ろしい錯覚に陥るかもしれないが、それは何ら不思議な事ではない。
過去の出来事ではあるが、アクセルを踏み込む足も重くなる。
 
そんな気持ちと相反するかのように、空は青く澄み渡り、
吹き付ける風が肌に心地よい。
 
原爆投下ミッションとその戦跡については後述する。
 

テニアン 

▲北にサイパン島が見える。
 
※1
インディアナポリスが輸送したのは原爆本体であり
核弾頭は航空機で空輸された。
 
なお、原爆を陸揚げした二日後の7月28日、
インディアナポリスは出港、単独レイテに向かったが
日本の潜水艦「伊58」の雷撃を受け、沈没する。
 
当初、原爆投下計画の極秘任務が漏えいし狙われたものと
思われ、アメリカ当局はパニックとなったが、日本海軍側が
意図するものはこれといって無く、撃沈は全くの偶然であった。
 
インディアナポリスは単独航行が災いし発見と救助作業が遅れ
クルー1199人のうち大部分が戦死し、生き残ったのはわずか316名
にすぎなかった。

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B-29の爆撃から日本を守った松山の343空モデルです。
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飛行機でなくでもOKです。先日は
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Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

2014年4月12日 (土)

テニアン島へ飛ぶ テニアン戦跡巡礼の旅(1)

かねてより訪れたいと心に秘めていたテニアン島。
戦跡巡礼がこのたびようやく実現した。

テニアン島へ行く


テニアン島概要
テニアン島はサイパン島から海峡を隔てて南へ、わずか5kmの距離にある。
現在はアメリカ合衆国の自治連邦区(コモンウェルス)である。
 
日本の委任統治時代
1920年(大正9年)テニアンはパラオやサイパン同様、第一次世界大戦での
ドイツ敗北によって、国際連盟より正式に日本の委任統治領となった島で
以後、日本語で「天寧」と表記されるようになった。
 
さかんに「日本の植民地であった」などとと紹介されることがあるが
これは表現の違いでなく完全な誤りである。
 
テニアン島の最盛期
テニアン島における南洋開拓は南洋興発株式会社が基軸となり、
内地からの移民を募って推進された。主に砂糖やコーヒーの生産が行われ、
また鰹節の生産も盛んであった。
 
昭和19年6月時点での人口は日本人15,700人(軍人除く)で
このほか朝鮮人2,700名、 チャモロ人26名が住んでいた。
その勢いたるやサイパン島に引けを取らないものだった。
 
戦火の渦へ・・・テニアン玉砕戦
昭和19年7月24日、広大な航空基地を有し、絶対国防圏の要であった
テニアン島は サイパンに続き戦火に巻き込まれてゆく。この戦いで
日本軍守備隊は玉砕。残された民間人も、米海兵隊によって
カロリナス台地南端の 崖に徐々に追い詰められ、その多くが身を投げた。
崖は現在、スーサイドクリフと 呼ばれる。
 
B-29の航空基地となる
米軍はテニアンを占領後、サイパン、グアムと合わせて
かねてより計画していた一大航空拠点を築き上げ、B-29を多数配備。
日本本土無差別爆撃を行う。 そして原爆を搭載した二機のB-29も
このテニアンより広島、長崎へ飛び立った。
 
テニアンへのアクセス(行き方)
テニアン島へのアクセスはサイパン島から出るセスナ機が
唯一の手段で、飛行時間はおよそ10分。
これがその6人乗り軽飛行機である。

スターマリアナス

2014年現在、テニアン島へのセスナ機は二社の航空会社が担っている。
まずは30年間無事故を誇る「フリーダムエアー」
そしてもう一社が「スターマリアナス」である。
 
機体に紫のカラーリングがスターマリアナス。
ジュラルミンむきだしに水色のペイントがフリーダムエアーだ。

フリーダムエアー

スターマリアナス



テニアンへ行くスターマリアナス

サイパン国際空港に待機中の両社の飛行機。
同空港は戦時当時の昭和19年、アスリート飛行場と呼ばれ
日本海軍の飛行場であった。第261海軍航空隊や第263海軍航空隊の
ゼロ戦隊が連日出撃し、マリアナ沖海戦の主戦場となった。 
 
そんな遥かな思いを馳せながら、テニアン行きの切符を買い求める。 
テニアン行きのセスナは数十分から一時間毎に出ている。
 
原則、予約はできず、チケットは当日窓口で購入する。6人乗り
(キャプテンの除くと5人)乗りの飛行機なので定員に達すると
先着者が優先で、他の乗客は次の便に持ち越しとなる。
パスポートを提示し、チケットを購入すると

整理券

 
整理券が配られる。片道34ドル50セント。
今回はスターマリアナスを利用した。
 
チケットカウンターの脇には通常の空港
と同様の荷物の重量計があるが
ここでは、荷物を持ったまま自分自身も
計りの上に乗るよう指示される。



小さな飛行機なので重量は特に管理されているようだ。
大きな荷物の持ち込みは控える。また日帰りの場合、スケジュールに
余裕を持たないと満席で帰ってこれなくなる恐れがあるから最終便は
避けよう。
 

サイパン国際空港

サイパン国際空港 

サイパン国際空港を離陸する。ここから隣のテニアンまでわずか10分。
軽飛行機は景色も良く見えるし、乗り心地も実に爽快である。
大型旅客機では決して味わえない、大空を舞う感覚を存分に味わえる。
  

テニアンへ飛行機で

瞬く間にテニアン上空へ到達。
大きく旋回して着陸コースに入る。
 

飛行機でテニアン

四本の滑走路の上空を通過する。日本海軍の牛(ハゴイ)飛行場跡ならびに
米軍ノースフィールド飛行基地跡だ。この滑走路から数多くのB-29が
無差別爆撃を行うべく日本本土へ向け飛び立った。
 
なお、原爆を搭載したエノラゲイとボックスカーはA滑走路を用いた。
 

ハゴイ飛行場

 
セスナ機はテニアンへ着陸する。
 
続きはこちら
 

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2014年4月11日 (金)

バンザイクリフ(サイパン島)

バンザイクリフ

昭和19年7月6日
サイパン島守備隊の総司令官である
南雲忠一海軍中将
ならびに斉藤義次陸軍中将の戦死により日本陸海軍による
組織的戦闘は終結した。
 
組織的戦闘終結後もアメリカ海兵隊は掃討作戦を実施。
指揮官を失った日本残存守備兵と婦女子を含む多くの民間人は
サイパン島の北へと北へと徐々に追い詰められていった。
逃げ場を失い、最終的に辿り着いたのがこのマッピ岬の断崖である。

バンザイクリフ

バンザイクリフ

バンザイクリフ

生きて虜囚の辱めを受けずの戦陣訓のもと、多くの軍人は
自刃、もしくは最後の突撃を敢行したが、これが民間人にまで
及んでしまったのがサイパン島最大の悲劇と言えよう。
 
米兵に捕えられれば死より辛い仕打ちが待っていると言い聞かされていた
当時、多くの一般邦人、現地民が、「万歳」と叫びこの断崖から身を
投げたのであった。崖下の海は真っ赤に染まり、屍で埋め尽くされた。
そして戦後、このマッピ岬はBANZAI CLIFF(バンザイクリフ)と呼ばれる
ようになったのである。

バンザイクリフ 
それにしても、事実を知っていれば無事米軍の保護を受けられたのだろうか。
しかし田中徳祐は次のように証言している。
 
米軍による虐殺の事実
米軍はバナデル飛行場に追い詰められた民間人のうち、婦女子のみを
選びだすと裸にし、トラックに詰め込んでいった。女たちは荷台で泣き叫んでいた。
残った子供や老人は一ヵ所に集められ、ガソリンが撒かれ、火がつけられた。
炎から逃れようとする者を米兵はゲラゲラと笑いながら、再び炎の中へ

蹴り飛ばしたり銃で突いたりした。またある米兵は赤ん坊の両足を持って
真っ二つに引き裂いて
火中に投げ込んだ。
 
戦勝国としては、このような都合の悪い真実は抹消していて然りである。
今となっては確かめる術はないが、同様に米軍が全ての民間人を全うに
保護したという証拠が存在するわけでもない。
 

バンザイクリフ

観音像の背後の岩山がスーサイドクリフである。
今やサイパン島を訪れる日本人観光客は激減し、
韓国人や中国人が目立つ。かれらはピースサインをまじえて
笑顔で記念写真を撮っている。
 
ここへ来る以前、サイパンの街で偶然話しかけてきた島民は
私を日本人と知ってか知らでか「ナイスビューのポイントだから行ってみろ」と
このバンザイクリフの場所を教えてくれた。
 
戦争当時の事柄を、我々が現代常識という物差しをもって安易に
評価するのは避けるべきである。しかし唯一、断言できるとするならば
戦争で尊い命を犠牲にされた軍民全ての御霊に祈りを奉げることは当然であると
同時に今日日本の礎となり、繁栄と平和をあたえてくれた先人たちへ
感謝の気持ちを持つことこそ最も大切であろう。

2014年4月10日 (木)

スーサイドクリフ(サイパン島)

スーサイドクリフ

▲スーサイドクリフよりマッピポイント(マッピ岬)、バンザイクリフを望む

スーサイドクリフとは 直訳すると「自殺の崖」で
日本統治時代にマッピ山と呼ばれた岩山の断崖である。
  
昭和19年7月、北上を続ける米軍制圧部隊に追い詰められ、
逃げ場を失った多くの日本軍将兵および民間人までもが、
捕虜になることを拒み、この場所から身を投げた惨劇の場である。

スーサイドクリフ

スーサイドクリフ

スーサイドクリフ

▲CNMI Veterans Cemetery よりスーサイドクリフを望む

スーサイドクリフ


眼下に見える三角形の敷地はCNMI Veterans Cemetery
(北マリアナ諸島退役軍人墓地) その先にバンザイクリフも望む。
ちょうど崖下にあたるバスが駐車してある辺りがラストコマンドポスト
なお、崖下の一帯はバナデル飛行場跡地である。
バナデル飛行場は日本軍が建設途中であったものを
米軍が占領ののち奪取し完成させたものである。
 

スーサイドクリフ

スーサイドクリフ

スーサイドクリフ

 
なお、テニアン島にも同様の経緯で、惨劇の場となった
スーサイドクリフが存在する。
「テニアン島のスーサイドクリフ」へ

2014年4月 9日 (水)

ラストコマンドポスト(サイパン島)

Imgp7167

 
ここはサイパン島、いわゆるラストコマンドポストと呼ばれる
戦跡地であるがそもそも誤りである。
 
ラストコマンダーである南雲中将が最期を迎えた本当の野戦司令部は
ここよりはるか10kmも南に在る地獄谷なのだが
 
地獄谷の記事、行き方はこちら
 
多くの観光客は、この場所がまさにラストコマンドポストと紹介され見学し
誤解したまま帰って行く。多くのガイドブックにも 同様に掲載されており、
今更改めることは容易ではない。
 
火器や戦車も専門家が一見すれば配置がおかしく
余所から集めたものであることがわかる。
さらに、灰色の塗装は最近塗り替えられたものである。
 

Imgp7168

Imgp7157

Imgp7161

 
今日も嘘で塗り固められたラストコマンドポストに大勢の観光客がやってくる。
日本人の姿は少なく(サイパン全体に言えることだが) 最も多いのが韓国人、
次に欧米人の姿も見られる。 同じアジア系でも、韓国人と日本人の違いは
喋り声を聞くことすらなく、遠くから一見しただけでもすぐにわかる。
最も顕著なのが身なり(ファッション)そして歩き方や振る舞いなどである。
  

Imgp2469

 
さて、先に述べたように此処をラストコマンドポストと呼ぶのは誤りであるが
この地も激戦の戦闘拠点であることには違いない。
これらの戦車や高角砲 トーチカで戦って戦死した英霊に黙祷を
奉げることは当然であろう。
 
今やサイパンに日本人観光客の姿は少なく、北部は廃業したリゾートホテルが
並んでおり、青い空と海という絶景の中に、草生して そびえる巨大ホテルは
物悲しくかつての賑わったサイパンを 静かに物語る遺構の様である。
 

Imgp7165

Imgp7178

2014年4月 6日 (日)

遺骨を一日でも早く故郷へ

Imgp8421

  
無事帰国しました。

アンガウル島では当初の目標通り、お骨を見つけることができました。
同島はわが宇都宮五十九連隊の一個大隊1200名が玉砕している島です。
近所にもご遺族が居られます。ご遺骨は許可なく動かせないので
わたくしだけ一旦帰国しましたが、同郷の英霊が、まだまだ迎えを
待っておられます。一日も早く家族の元へ、待ちわびた故郷へお返ししたい。
 
写真は最終日に撮ったミルキーウェイです。

2014年4月 4日 (金)

KBブリッジ

KBブリッジ(パラオ)1

KBブリッジ(パラオ)2

KBブリッジ(パラオ)3

KBブリッジ(パラオ)4

KBブリッジ(パラオ)5

KBブリッジ(パラオ)6

KBブリッジ(パラオ)7

 
新KBブリッジ
KBはKoror-Babeldaob Bridgeの略であるが
正式名称は「Japan-Palau Friendship Bridge
ジャパン・パラオフレンドシップブリッジ(友好の橋)という。
 
2002年竣工。旧ブリッジ崩壊後、
日本の鹿島建設により再建された。
 
パラオ国際空港(バベルダオブ島)と最大の街コロールを繋ぐ橋であると同時に
バベルダオブ島の発電所と水源をコロール島へ供給する
パラオの国家生命線である。
 
通常、深夜便で到着し、同じく深夜便で出国する観光客は必ずこの橋を
経由する。暗闇の中その勇壮な姿を見る機会は少ないが
日本とパラオ友好のシンボルであるので、旧KBブリッジの
崩壊事故と合わせてその歴史に触れておきたい。
 
旧KBブリッジ(韓国製)の崩壊
旧KBブリッジは1977年に、韓国企業SOCIOにより建設された。
建設業者選定入札において、SOCIOは鹿島建設の半額の入札価格を
提示し落札している。
  
1996年9月26日木曜日
ちょうど二日前に行われた大統領予備選挙の開票作業が
進めらていたその日はごく普通の日であった。

夕方遅く
コロールガルミッド地区(旧ニッコーホテル付近) に住む住民によると
突然、ドーンという轟きとともに 電気が止まり、最初はダイナマイトか
何かが爆発したのかと錯覚したという。
 
「KBブリッジが落ちた!」
まもなく血相を変えた友人がそう言って飛び込んできた。
KBブリッジの見える裏山に登ると、かつて橋のかかっていた辺りに見えるのは
立ちのぼるもうもうとした 灰色の粉塵のみで、あるべき橋の姿は失われていた。
不幸にも崩落中に通行していた二名が海へ投げ出され死亡した。
 
◆クニオ・ナカムラは国家非常事態宣言を発令
水道、電気、電話線など、コロールで使用される ライフラインは
全てKBブリッジを通じて供給されていたので 崩落により、すべての
生命線を分断された。 クニオ・ナカムラ大統領は国家非常事態宣言を発令。
ほどなく官民あげて不眠不休の復旧作業が始まるのである。
 
資材や重機も不充分なままであったが 事故から4日後、
まず橋の両岸に電線を建てて電気が確保された。
コロールの住民にとって切実なのは電気より水の確保であったが
アメリカ軍がすぐさま通信基地に備蓄していた非常用飲料水を提供し
日本やアメリカからの緊急援助も得て、海水淡水化装置も設置された。
またパラオ政府は消火用ホースを橋の両端に渡すことで 仮復旧を試み、
10月6日には朝夕二時間の限定ではあるものの 給水を確保した。
 
両岸の輸送体制も、民間の協力により 渡し船が就航するとともに
バージ船(ハシケ)を用いた 車両の輸送を開始した。
 
◆ヒロシマを引合いに出し国民を奮い立たせるナカムラ大統領
こうした官民一体必死の努力により 事故後10日ほどでとりあえず、
最低限の仮復旧は成った。 ナカムラ大統領は、事故の数日後
原爆の惨禍から立ち上がり今日の繁栄を築いた広島を引合いにだし
「この危機は国民をより強靭にする」と」鼓舞、
今回の危機への国民の対応が何よりの誇りであると称揚した。
 
またKBブリッジの崩壊はナカムラ大統領の再選に僅かながらも影響を与えた。
対抗馬のトリビオン候補が「一致団結してKBブリッジ崩壊の復旧に務めなければ
ならない。 こんなときに政争をしている場合ではない」として立候補を取り下げた。
これは「名誉ある撤退」とも賞賛された一方、現職ナカムラ大統領に
予備選挙で大差をつけられ、事実上決戦で勝ち目がないと悟ったことも大きい。
 
パラオ共和国独立への道筋をつけ その後も潤沢な資金を集め
パラオを活気付けるナカムラ大統領の手腕は 選挙前から広い支持を
得ていたものの、この事故と復旧により さらに求心力を高め、
次の四年間の指導力の根源となった。
 
二期目に入ったナカムラ大統領の最優先課題はKBブリッジの再建であった。
ここで資金と技術提供を求めたのが日本だった。 1997年1月に大統領は
日本を訪問しKBブリッジの再建を強く要請。 パラオのような小さな国に対しては
異例の23億円の無償資金供与が決まった。 かくして鹿島建設による
新KBブリッジ再建工事が着工、 旧ブリッジの土台を利用することも
検討されたが質が悪すぎたため 一からの作り直しとなった。
 
新KBブリッジの竣工
こうして2002年に竣工した新KBブリッジは
正式名称「Japan-Palau Friendship Bridge」と名付けられ
パラオ国民の生命線として根付いている。
 
なお、旧KBブリッジの瓦礫は現在も新ブリッジ真下に沈んでいる。
橋の下を流れるのは「アルミズ水道」である。
コロール側の橋の下は公園として整備されており、自由に立ち入ることができる。
ローカル憩いの場であり、朝や夕方は釣り人の姿が目立つ。
一画にはシャワーもあり 水も澄んでいるので、アルミズ水道側の深い箇所へ
近寄らなければ 泳ぐこともできる。
 
我が国の民といえば
山があればトンネルを掘り、谷があれば橋を架ける。
そんな土木技術を極めた日本製の橋である。
 
私がこの橋を渡るとき、運転していたパラオ人がこう言ったのである。
「頑丈な橋。日本人、ありがとうね」

◆◆

ロックアイランド

ミルキーウェイ

ジェリーフィッシュレイク

    ロックアイランド          ミルキーウェイ        ジェリーフィッシュレイク

パラオの戦跡

日本統治時代のコロール

南洋神社

    パラオの戦跡          日本時代のコロール         南洋神社

KBブリッジ


 

 

     KBブリッジ

 
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