お彼岸と田植えの時期のお墓参りといえば、
思い出したんですけど、
アルファークラブの営業の人が訪ねてきて
「おたくの菩提寺はお布施が高い!」とスバリ言うんですよ。
いきなり不思議な事を仰るなと思ってたんですけど、
お話を色々うかがううちに、先祖供養のありかたについて
本当に勉強になりました。
本を書いている間は、画像とツイッター的な
短文をひたすら書いていきます。
第二師団の戦友会は先月解散しました。
私は司会で精一杯だったので、ゆっくりお話し戦争のお話を
聞けていないのですが
少しだけこちらでも書きました。
こんな感じのエピソードがたくさんあるんです。
ベトナム解放戦線
英軍からの出前寿司
話題になった戦史や隠れた多くの逸話は、
東京の大手新聞記者の方と大学の先生が
毎回来てくださっていたので
いずれ本か記事にして書いてくれるのかなあ、と期待しています。
靖国神社の永代神楽祭は、この先も毎年続けます。
開催日は5月の師団設立記念日です。
恐れ多くも、私ともう一名で、一個師団総員の窓口になってます。
今年も僅かですが、戦友と遺族が参加予定です。
もし師団に興味のある方、お問い合わせくださいね。
元海軍中尉で、九九艦爆・彗星などのパイロットとして
活躍されました、杉浦善義さんがお亡くなりになりました。
杉浦さんは海兵73期、百里空で特攻隊を編成中、終戦を迎えました。
先に逝った戦友と再会されている頃でしょうか。
心よりご冥福をお祈り致します。
航空自衛隊航空中央音楽隊隊長より拝受致しました
「飛行第244戦隊歌(飛燕戦闘機隊歌)」の楽譜です。
この楽曲は既に
航空自衛隊航空中央音楽隊によって
演奏・録音していただきました。
基地祭にて演奏する機会があるかもしれません。
その折はお知らせいたします。
兎に角、完成し、航空自衛隊音楽隊のライブラリに
収録されましたので後世に残していけるでしょう。
航空自衛隊さんに大感謝です。
楽曲保存活動に全力で取り組んでくださった
竹田元航空幕僚長、航空幕僚副長丸茂空将、広報室長植森一佐
航空自衛隊中央音楽隊長中嶋二佐、演奏してくださった
音楽隊の方々、そして鼻歌から譜面を起して下さった久保先生、
ありがとうございました!
陸軍関係の本を書き下しています。
いずれ、詳細を発表させて頂きたいのですが、
最近そちらの本の方に戦力集中しているので、
ブログがサボリ気味でした。
何も書かないのももったいないので、完成までの間、
テキストの代わりに、写真で埋めていこうと思います。
いずれも趣味で撮ったものです。
戦争関係以外の雑記も好きで、色々な事を書きたくて
年明けにブログをリニューアルしたのですが
カテゴライズが曖昧で、そのままになっているものを載せていきます。
写真は普段からたくさん撮っているのですが、どうやって紹介しようと
考えてました。でも説明なんて最初から要らなかったのですよね。
そのままでいいや、と。
alt属性で検索用のソースを埋め込んでおくので
何かのきっかけで見て下さる方がいれば嬉しいかな、と思います。
ブログの好きな所は、マイペースで出来ることです。
フェイスブックやインスタグラムなどSNSは、
投稿するとタイムラインに強制的に表示されるので、
「見て見てー」って感じが感じ押し付けがましくて
申し訳なく、ほとんど見る専用です。
こちらは検索で来られるか、好きな方が好きなように
見て下さるだけなので、気持ちが楽ですし
ラボ&ライブラリ(実験室兼資料室)的な存在で
やっていきます。
今日はガラケーのカメラで撮ったのを載せます。ハイコントラストで
ちょうど三つの色になりました。
▲公園の芝生
▲甲板から望む朝日
靖国神社の標本木が満開を宣言した翌日、行ってきました。
こちらの神雷桜は第721海軍航空隊(神雷部隊)の戦友会が戦後
植樹したもので、神楽殿の南側と合わせて二本残っています。
「春の梢に咲いて会おう」
パイロットの方々は、出撃前、戦死したら、靖国神社の門を入って
二本目の桜の木で待ち合わせしようと申し合わせたそうです。
それがこちらの神雷桜です。
桜の木の寿命は短いもので、既に神雷桜は老木です。
今後の維持が課題になってきています。
こちらは神楽殿北付近の桜。標本木の満開宣言があっても
全体的にはまだ3分咲きくらいでしょうか。標本木はやや早めなので
物足りない方は、少し時期を遅くすると良いかもしれません。
境内は大勢の花見客で賑わって
外国人の方も大勢訪れておりました。
遊就館で甲冑と刀剣の催し物が開催されており
刀剣女子で賑わっていました。
こちらは歩道橋を渡って、お隣の千鳥ヶ淵の桜。
見頃を迎えていました。
ニューデイズにこんなの並んでたからびっくりです。
豪華なお昼ごはん。これほどふぐを気軽に食べられるように
なるとは、時代が変わりました。感慨深いものがあります。
昔の人は、ふぐの魅力とスリルを絶妙な言葉で伝えています。
・河豚(ふぐ)は食いたし命は惜しし
・河豚食う馬鹿に河豚食わぬ馬鹿
・河豚汁や鯛もあるのに無分別
一つ目の句はそのままの意味です。
二つ目は、ふぐを命を賭してまで食う者も愚かである、一方で
ふぐの毒を恐れて食わない者も人生損している、という意味。
三つ目は芭蕉の句です。鯛という魚があるのに、なんで、わざわざ
危険を冒してふぐを食うのか。
これも有名なエピソード
昭和天皇は「一度でいいからふぐが食べてみたい」と
御所望だったそうですが、侍従から固く禁じられており、
その夢は最後まで叶う事がありませんでした。
少し切ないお話しです。
庶民の私が
ありがたくふぐをいただく、今日この頃。
日本にはうなぎを全く食べない地域がいくつかあります。
栃木県日光市(旧今市市付近)の一部もその地域です。
地域の子供たちは絶対にうなぎを捕まえてはならないと、
厳しく言われて育ったと聞いています。
もちろん食用などもってのほかでした。
習慣というのは不思議なもので、ご当地の人々は
それが当たり前過ぎるが故、理由を全く知らない、
深く考えたことはないというのです。
それでも地域で聞き込みを続けると、
いくつかの説がポツリポツリと出てきました。
「うなぎは神様だから絶対捕まえてはいけない」
「昔、大きな水害があったとき、大うなぎが現れて
水をせき止めてくれたので村が助かった。その恩を忘れてはならない」
などなど、お家によって言い伝えが違っていますが
大元の考え方は同じようです。先にも触れました通り、
タブーとされる気概というか、そもそも
「食っちゃいかんものはいかん。理由など生まれて今まで
考えたことない」
ということなので、真相に近付くのに難儀致しました。
はー。
それで現在のところ、答えに近いものがあるとするなら
うなぎは星宮神社(付近に分布する神社)の神聖な
「のりうま」であるから大切に扱え、というお話しが出てきました。
少し進展。キーワードを手に入れました。
「のりうま」ってなんですか?と尋ねて歩いたんですけど
有識者でも
「知らん!とにかく、うなぎはのりうまだから食っちゃいかんのだ」
というのです。
そこで星宮神社を訪ね、宮司さんに理由をお伺いしてきました。
宮司さんによると、うなぎは、神様そのものではないのですけど、
神様のサブキャラのような位置付けで
古来より大切に扱われてきた、というお話でした。
この神話を私が一から説明するには、もう少し勉強しなければ
なりません。
引き続き調べていきます。
なお、このうなぎの伝説、調べてみると
他には岐阜県などにも存在しているようで、
言い伝えが地方によってやや異なるのが興味深いです。
追記
うなぎを食べない習慣は、上記の通り
星宮神社の信者さんに限った話です。
同じ地域でも信仰の違いで、気にせず食べる家庭もあります。
近現代史研究会で四式戦闘機パイロットの
堀山久生元陸軍中尉のお話を拝聴したので
簡単にメモしておきます。
堀山氏は、幼少期に明野で飛行機と出会い、
忽ち憧れの存在となり、将来はこれに乗ってやるぞ、と決意する。
陸軍士官学校57期合格。航空科を志望するも叶わず砲兵科へ。
昭和17年4月、砲兵学校、輓馬砲兵、
7月に野砲兵第五連隊配属。陸軍砲兵将校としての道を
歩むこととなった。
数学が大得意であった堀山氏は
その才能を遺憾なく発揮し、成績は常に砲兵科トップクラス。
堀山氏、曰く、
砲兵という兵科は、早く計算が出来たものが優秀なのだ。
簡単に言えば、戦で敵と撃ち合いになった状況に於いて
敵より早く弾着地点を計算して砲撃、敵を撃滅すれば
勝利である。
このときの教官が、
「燃えるが如き闘争心」という精神訓をよく口にしていた。
一方、堀山氏は戦場においてこそ、精神論ではなく、
沈着冷静こそが勝利に繋がるとの信念を持ち続けた。
数学を重視する砲兵においては尚のことであった。
陸軍士官学校第57期(以下陸士57期と称す)は
異例で、歩兵や砲兵を専攻した者でも、
途中から二度に渡って、航空科への転科が行われた。
一度目は志願、二度目は命令によるものだった。
この方針転換は、陸軍でも航空の重要性が
認識されつつあり、戦局悪化に伴う航空将校の戦死・不足に
よる措置だった。
陸士57期の卒業者は1,550名中、志願と命令合わせて
400名が航空へ転科する。内、300名が操縦、100名が
偵察へ進んだ。
これに不満を漏らすものも多く
「なぜ特操を増やしてやらんのか」とむくれた。
この点、海軍では制度が優れていて、予備士官の存在が
大きかったと堀山氏は回想する。
この不満に対して当時の陸軍士官学校、牛島満校長は
「400名を航空にやるのは惜しいが、今は航空が足らないから
辛抱して行ってくれ」
と激励。この言葉に一同感激し、事態は収拾した。
もともと航空志望の堀山氏は、内心嬉しかったと回想する。
こうして、多数が航空へ転科し、訓練が始まる。57期の航空科、
特筆すべき点は、九五式中間練習機(通称赤とんぼ)をすっ飛ばして
いきなり全員を九九式高等練習機に乗せたことだった。
九九式高等練習機は実用機を改造したもので、最初からこんな立派な
飛行機に乗れるのかと、一同、大いに高揚したという。
訓練生の一割、死んでもいいから、最初から九九高練でやれ!
という教育方針だったというから驚きだ。
埼玉県の狭山飛行場と茨城県の高萩飛行場に200名、100名ずつ
別れ訓練を続けたが、一人も殉職者は出なかった。
この間、堀山氏は一週間に二回、着陸失敗を経験している。
一度目の事故
一度目は速度が出過ぎて着陸に失敗。
着陸失敗して、飛行機がつんのめった際、
腹に操縦桿が突き刺さって殉職するケースが多いと
あらかじめ学んでいた堀山氏は、
(多くのケースでは失速して墜落する瞬間、咄嗟に
操縦桿を引いて上昇しようとする)
墜落する瞬間、操縦桿を押し込むと同時に
エンジンのスイッチを切った。沈着冷静であった。
飛行機は墜落大破したが、これが教官から
「あの状況で大したものだった」
と褒められ、咎められることは一切なかった。
二度目の事故
今度は慎重になり過ぎるというもの、速度を落とし過ぎて
着陸時に失速。こういうときは頭を下げて速度を回復すれば
良いのだが、地面が迫る状況で、なかなかそうはいかない。
そのまま墜落した。一週間で二度も飛行機を壊したが、
一切、叱責を受けなかった。
当初、重爆撃機を志願していた堀山氏であったが
二度も飛行機を壊している奴は危なっかしくて、
大人数を乗せる重爆撃機は駄目だ。
死ぬなら一人で十分だと、いうことで戦闘機へ回される。
富士飛行場へ移動し九七式戦闘機に搭乗し戦闘機の訓練が
開始された。
三度目の事故
今度は三度目の墜落。編隊飛行中に
空中接触を起こし、落下傘降下。
かすり傷ひとつおわず、生還。接触した一番機の
戦友は衝撃で意識を失い、墜落しかけたが、
地上数メートルのところで意識が戻り、引き起こし
事なきを得た。
実はこのとき、整備員の不手際で九七戦の落下傘が
適正に備えられていなかったが、氏は、これを見逃さなかった。
正しく直して搭乗したことが命を救った。
壊した飛行機は当時の価格で70万円。
(一機の値段か三機の値段かわからない)
戦友からは、
「大日本帝国陸軍の航空機を三機も撃墜した貴様はトップエースだ。
ルーズベルトから勲章もんだ」からかった。
今でも陸軍に借金を返せていないので、申し訳なく思っている
という。
休暇を貰って、実家に帰ったときのエピソード
堀山氏は航空に転科してから、成績が芳しくなかったので
父に激しい叱責を受けた。その折、堀山氏は
「自分は特攻隊に志願して、必ず戦果をあげる。一機で敵艦一隻を
必ず沈めるから勘弁してくれ」と父に誓った。
しかしこの言葉を聞いていた母は
「敵艦一隻沈めようと、息子が戦死しようものなら、叱責した父を
一生許すことはなかった」と戦後、長い事忘れなかった。
明野から数えて飛行時間150時間で訓練終わり。
(欧米のパイロット養成課程では最低500時間は必要といわれる)
特攻の志願募る
特攻隊の志願を募ることになった。各自へ用紙が配布された。
熱望する、希望する、可、不可、どれかにマルをつける
のだが、
「自分は飛行機を三機も壊しているヘタクソだから、
熱望にマルを書いたらからかわれるんじゃないか」と、考えて
希望にマルを書いて出した。
上から二番目の、希望だったらいつか必要となれば
特攻の声がかかるだろう、くらいに考えていた。
すると上官より、
「将来の戦隊長を育てているのに、特攻に志願するとは何事か!」
とのお叱りを受ける。
中尉任官。館林に移動し、
第194振武隊を拝命。四式戦闘機「疾風」で特攻訓練に励む
四式戦闘機は重戦で、速度計は750km/hまで振ってある。
勤労動員で造っていたので、どの辺りまで
耐えられるのか、不安だった。650km/hを
超えたら怖くなった。急降下から引き起こすと目の前が
真っ暗になった。
それに比べ、隼は乗り易くよかった。
機体も女性的なラインが優美だった。さらに遡れば
九七戦は手を離しても真っ直ぐすすむ良い飛行機だった。
振武隊(特攻隊)の出撃も本格的になった頃
特攻の教本が配られた。教本には次の如く記載があった。
--------------------------
と號空中勤務必携~昭和20年5月(特攻の教科書)▼
突入寸前、速度は最大だ。飛行機は浮く。
だが浮かれては駄目だ。力一杯押さえろ押さえろ。
人生二十五年、最後の力だ。神力を出せ。
頑張れ。神も英霊も照覧し給うぞ
目などつむって目標に逃げられてはならぬ。
目は開けたままだ。
--------------------------
堀山氏はこの教本と教育法に対し、
独自の理論を展開する。考案した戦法は次の通りである。
堀山中尉の研究考案した戦法▼
--------------------------
航法
離隔距離約300km、高度100メートルの低空。
予想海面では地球の湾曲に沿い、更に低空。
攻撃
敵発見後、超低空水平攻撃。高度10乃至20メートル
時速400km/h、敵前約10メートルの地点で短延期信管で
水面下突入。トリムタブ使用。
250キロ爆弾2発を目標の敵軍隊輸送船の船底で爆発させる。
高橋太郎参謀に館林で6月末意見具申し調査のご返事あり。
効果
海軍の機械水雷の爆発に似た効果を期待。
1万トンの輸送船の敵兵一千名と火砲
戦車、武器弾薬、多数を轟沈せば大満足。
(ひらがな表記にして句読点を付け加えた。)
--------------------------
堀山氏の解説
堀山氏は、自ら具申した上記の論理的戦法に対し
「実際に突っ込んでいないから理屈ですけど」と断った上で、
次のように解説してくれた。
そもそも、航空力学的に考えれば、飛行機は
最大速力では浮き上がり、敵艦船を飛び越えてしまう。
逆に、一旦スピードを落として
信管が炸裂するスピードで突入すればよい。
対撃信管と瞬発信管の切り替えが出来た。
艦船の喫水線下で機雷のように爆発すれば
最も効果がある、うまくいけばボイラー室が誘爆して致命弾となる。
かくして一機で一隻を轟沈する。
四式戦闘機には初めてトリムタブがついた。
(海軍では当初から零戦に装備済み)
操縦席左手のトリムタブ操作ハンドルを回すことで
軽い力で尻尾が下がれば、揚力を抑え、機首が下がる。
突入時の速度は400km/hが限度。500km/hはスピードオーバー
である。400km/hでトリムタブをうまく使って水平に飛ぶ。
トリムタブの無い隼では浮かないよう、必死に頭を
押さえたと聞く。
神力、精神力などという言葉で説明しても
戦果は期待できない。
突入は喫水線下を目標とする。(従来の教育法は喫水線上突入)
すなわち水中爆発のほうが効果がある。以上の如く具申したが
150時間の飛行時間ではその操縦習得は困難との返答あり。
命は惜しくなかった。堀山氏は戦で命を捧げることを
次のように例えている。
「死とは、ふすまを開けて、隣の部屋に入るような感覚でしたね」
8月15日、館林で終戦。その瞬間
「死に損なった!」と思った。目の前が灰色になって
机の縁を掴んで立っているのがやっとだった。
戦後、米国へ招待を受ける機会があった。
その際に戦艦ミズーリを目の当たりにし、その大きさに驚愕。
これでは250kg爆弾をぶつけようと沈まない。ミズーリを見て
これで私の特攻は終わった、と思った。
メモおわり。
お待たせしておりました、赤城を発艦する零戦、撮影しました。
モデルのAI-103号機は赤城戦闘機分隊士の指宿正信大尉機としました。
赤城も細かい部分まで作り込まれています。
詳しくはこちら
1/700スケールの赤城に1/48の零戦を搭載したので
ネタバラシをすると元々はこんな感じ。
他のアングルでも色々撮影できそうです。
「陸軍特別攻撃隊~第一九四振武隊 隊長ヲ命ズ」
(陸軍戦闘機パイロット堀山久生先生のお話)
表記の通り
3月26日(日曜日)、東京浅草で
笹幸恵先生が主宰されております、近現代史研究会で
四式戦闘機パイロットで振武隊(特攻隊)でした
堀山久生先生の講演会が行われます。
昨日、笹さんにお目にかかりました際、
ほんの数名、お席に余裕があるとの事、
保証の限りではございませんが、興味のある方は
この機会にお問い合わせください。
詳しくは以下のリンクをご覧下さい。
http://www.panda1945.net/
取材先のお宅にお邪魔するときなどは、必ず
手土産を持参しますが、お渡しする折、私は
「つまらないものですが」という言葉を添えています。
何かのきっかけで、それを若い人にお話ししたら、
「篠原さん、知らないんですか?最近は『つまらないものですが』っていう
セリフは言っちゃいけないんですよ!そういう場合は『コレコレこーいう訳で
すごく美味しいお菓子なんですけど、よかったらどうぞ!』って言って渡すほうが
絶対印象いいですよ!」
と、言うんです。
そうだったのか!
恥ずかしいことをしてしまった!
早速、家に帰ってからヤホーで問題の語句を検索してみました。
そして数多存在するマナーについて書かれたインターネットコラム等に
目を通してみました。
確かに、最近はあまり使わない表現のようでした。記事の中には
「そのセリフはマナー違反です!」との鋭い指摘も。
でも、よくわからないんですけど
何故「つまらないものですが」が不適切なのか、具体的に
説明されている記事はほとんどありませんでした。
強いていうなら「時代遅れ」かな。
ならば!私は次のような見解を唱えることに致します。
謙遜せず、「これは上等な品物です」と言い切る事例が認められつつある・・・
多様な価値観を共有していこうという考えには私も賛成です。
「すごく美味しいお菓子だから貴方にも召し上がってほしい」
それはそれでいいと思います。そう言われたら嬉しいですもんね。
しかしながら多様な価値観を認める、という事は、古いものを
捨て去る、または否定するのとは訳が違うと思うんです。
両方あってもいいと思います。
だから「つまらないもの」はありです。
新渡戸稲造『武士道』によると
--------------
アメリカでは贈り物をするとき、贈る側は受け取る人に向かって
その品物をほめそやす。しかし日本ではその品物の価値を
軽く言ったり、悪く言い立てたりさえする
アメリカ人の心情はこのような場合
「この品物は素晴らしいものです。これが良い品物でないとすると
あなたに差し上げようなどとは思いもよりません。良い品物でないものを
差し上げることはあなたを侮辱することになります」ということになる。
これに対して、日本人の理論はこうである。
「あなたは立派な方です。どんな贈り物も立派なあなたにはふさわしく
ありません。私があなたの足許に置く品物は私からの感謝のしるしとして
しかお受け取りになれないでしょう。どうぞこの品をその物の価値でなく
私の心からのしるしとしてお受け取りください。最上のものでも
あなたにふさわしい、といえばあなたの品格を傷つける侮辱となるでしょう」
この二つの考え方を並べてみると、つまるところの思想は同じである。
どちらもおかしいことではない。私たちの立居振舞ひとつひとつに
日本人の礼儀作法の感覚があらわれているかといって、その中の
些細な事柄を取り上げて、それを典型として一般化し、原理そのものを
判断するのは誤った推理の方法である。
真実を語る事と、礼儀正しい事、どちらが大切か、という問いに対して
日本人はアメリカ人と正反対の答えをする、と言われている。
--------------
引用おわります。
私は日本語の奥ゆかしさが大好きです。
日本人の奥ゆかしさの根底には、他人に対する誠の思いやり
が存在しているからです。
奥ゆかしさの中に存在する思いやり、根底は何ら変わらない、
欧米ではそれを愛と呼びます。
飛行第244戦隊の飛燕、小林照彦戦隊長機です。
B-29に突撃するシーンを再現しました。
二機は別々に撮影し、合成したもので
撮影は同じ場所、同じ時間に行います。
これが一番簡単な方法で、
陰影(光の当たる角度)が統一され、合成した際
不自然になりません。
B-29を背景レイヤーに設定して、ボカしをかけ、その上のレイヤーに
切り取った飛燕をペーストします。仕上げに釣糸を消して
プロペラを回転させます
今度、この画像をプリントして
飛燕のパイロットの方にお渡しする予定です。
関連記事
茨城県阿見町にある霞ヶ浦海軍航空隊ゆかりの地、
予科練平和祈念館へ立ち寄りました。
二度目の訪問です。
零戦の実物大模型が完成したと聞いており、
ずっと見たいと考えてました。
平日の午前中だったので、見学者は私だけでした。
隣に零戦用格納庫が新設されています。
零戦21型の実物大模型です。優美なスタイリングに
明灰色が映えます。
格納庫の際には立ち入り禁止のロープが張ってあるので
この角度からのみの撮影です。後ろ側に回って見たいのですけど。
天気の良い休日には、こんな感じで
手前に引き出して展示してくれているそうです。
回天艇のレプリカも新しく展示されていました。
建物の中は撮影禁止なので紹介できませんが
解り易く充実した展示です。
今度は晴れた日の休日に行きます!
紙飛行機屋さんことブンドド先生が
「眠らなくても疲れない薬」を処方してくださいました。
大好評につき生産が追い付かない状況だそうです。
クッピーラムネマイボックス
http://my-box.cc/large/
▲一式陸攻
先日は、一式陸上攻撃機の搭乗員(搭乗整備兼射撃員)だった
髙石近夫さんにインタビューさせて頂きました。
以下、少し書きます。
---------------
◆水面スレスレの雷撃敢行
髙石さんの初陣は昭和19年10月。
レイテ沖の輸送船団に雷撃を敢行した。この頃になると雷撃は専ら
単機、夜間の攻撃だった。初陣の緊張は相当なもので、緊張の余り
キンタマが内臓を這いあがり、喉から出てくるような感覚だった。
気を落ちつけようと、機内でチューブに入った羊羹などを
食ってはみたものの、なかなかこれが喉を通らなかった。
操縦員の二名は肝の据わったベテランだったのが幸いだった。
一式陸攻は凄まじい対空砲火の中を、水面スレスレを全速で
突っ込んで行った。
一式陸攻は、いったん雷撃進路に入ると、魚雷を投下する迄、一直線で
あるため、殆どが撃墜される。陸攻の戦友は出て行ったきり、ほとんどが
帰ってこなかった。お国の為に死ぬことに何の躊躇いもなかったが
初めて体験する対空砲火の雨に、驚愕した。
魚雷を投下すると、機体は雷跡を追い越して、
敵艦船のマスト直上を通過する。このとき対空砲を撃つ
敵兵の顔が見えるような
距離だった。
あとは敵弾を回避すべく機体はジグザグ運動で離脱を開始する。
操縦桿を使って旋回している余裕はない。フットバーを押し込んで
空中分解覚悟で機体を横滑りさせるのだという。
戦果を確認しようと10メートル近い機体の後部の窓まで
走ったが、転倒して辿り着くことが出来なかった。
こうして奇跡的に生還したが
基地で機体を確認してみると多数の弾痕が残されていた。
◆沖縄爆撃と機長のN大尉
昭和20年、5月、米軍に奪われた沖縄、伊江島の飛行場を
爆撃せよとの命令が下る。陸攻は60キロ爆弾を12発搭載して
鹿屋を出撃した。今度の機長は経験の浅いN大尉だった。
ところが発動機が不調で、吹かしても4000メートル迄しか
上昇できない。これでは敵対空砲火の中に突っ込むだけだ。
目標に近づけないままでいると、突然、爆弾投下用の
雷管が炸裂する音が聞こえた。N機長は
「間違って爆弾を投下してしまった」
と言った。爆弾が無いのなら帰るだけだ。
機首を鹿屋へ向けた。
一瞬、唖然とした。
こんなことをしていいのか・・・軍法会議ものだぞ。
しかしそれと同時に、
「助かった!死なずに済んだ!」
と、安堵の気持ちを覚えたのも確かだった。
帰途、エンジンを吹かしすぎたのと、航法の誤りで
不時着水を余儀なくされた。
N機長とはその後もまた、伊江島の爆撃に出撃したが
その時も目標手前で爆弾を捨てて帰ってきてしまった。
搭乗員7名、誰もこれを咎める者はいなかった。
N機長は言った。
「俺には女房と子供が居る。女房と父は折り合いが悪い。
だから俺が死ぬわけにはいかないんだ」
髙石氏は不時着水したとき、海水が目に入り、結膜炎にかかった。
機長は「ゆっくり治せ。長引かせれば出撃せずに済む」と言った。
N機長は願い叶って、前線を離れることになった。
よかったですね、と言うと、機長はニコっと笑った。
その機長も、試験飛行中に墜落して死んだ。
終戦の2、3日前だった。
---------------
少しずつ続きを書いていきます。
226事件の回想。
戦友会で伺った水足さんの回想を少し書きます。
----------
雪が降る、静かな日だった。
僕は家が向かいでポン友の富安と学校へ向かった。
しかし市電は止まっている。仕方がないので
学校まで雪の中を歩いた。
何時間も歩いて学校へ到着したが、なんと休校だという。
あんまり大きな声じゃ言えないが、僕と富安は大喜びして
家に帰った。
思い返せば、家に帰る途中、静かな街の中を
騎馬将校が伝令に駆け回っていた。それが青年将校の決起だと
聞いたのは後になってからだった。
----------
ここで言う富安というのは後にエンタープライズに突入した
富安俊助中尉のことです。この時はまだ中学生(旧制)でした。
要望のあった新作「飛燕」Tシャツデザイン出来ました。
244戦隊仕様です。
シルクスクリーンだと使える色は1色~2色だけなので
表現が難しいですが、それがまた楽しいです。
こちらはただいま販売に向け準備中です。
地道に戦車も描いております。90式戦車出来ました。
これで現用の陸上自衛隊の戦車はコンプリートです!
今日はバレンタインデーですね。私は今日は朝早く起きて
全国の麗しき女性からチョコレートが次々届くのを
心待ちにしていたんですが・・・その惨澹たる結果、
なんということでしょう。
最近発見したんですけれど、グーグル(youtube)アカウントで
ファンの性別・年齢層が閲覧できるのですね。はじめて知りました。
チョコレートといえば、
戦後日本を象徴する出来事として
GHQの米兵がチョコレートをバラ撒いて
それを大喜びで拾い集める子供達、というシーンが有名ですが
作家の野坂昭如さんはどんなに空腹でも頑なに
米兵からの菓子は受け取らなかったそうです。
子供心乍、物乞いは恥という概念でしょうか。
全ての子供がアメリカ万歳と喜んでチョコレートに群がった、
というのは偏向的かもしれませんね。
今日は陸軍の九九式襲撃機のパイロットだった
上野辰熊さん(元陸軍伍長)にお話を伺ってきました。
お話は主に特攻に行かれた戦友の方のお話が主になりますが、
先ずは、九九式襲撃機という飛行機について一寸触れます。
以下、上野さんのお話です。
「隼など戦闘機は超低空では高度50メートルが限度でしょう。
我々九九式襲撃機(九九襲)は武装して20メートル以下での
高度持続が可能でした。九九襲は両翼毎にスロットル調整が
できるので安定した飛行が可能でした。」
「訓練では、超低空を這って敵陣に侵入する戦法をやりました。
川面に沿って超低空で飛行するんです。
これで機影は堤防の下に入ってしまうから見えない。
エンジンの音も堤防が壁になって上に吹き抜けてしまいますから、
敵に察知されず敵陣を強襲できるわけです。」
以下、上野さんの著書より抜粋。
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各務原飛行場を飛び立ち、木曽川上流の恵那峡で低空に入り
川面を下る、日本ラインを超低空で這い下り、鵜沼の鉄橋(犬山橋)で
急上昇して犬山城上空で、左翼端下に天守の人の顔が見える
くらいに接近して旋回、その後、濃尾平野を超低空で飛び回り着陸した。
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九九式襲撃機は陸戦での支援に特化した航空機でした。
現代で例えるならA-10でしょうか。配備当初は
主に大陸戦線で、歩兵連隊の火力支援航空機として
敵陣の撃破を行いました。
これが昭和19年頃より艦船攻撃に対応すべく
洋上での急降下攻撃訓練が始まります。
そして、特攻機となっていくわけです。
こちらの内容も少しずつ進めて参ります。
※画像は九九式襲撃機洋上迷彩仕様。同型機であるがマーキングは異なる。
http://cs.finescale.com/fsm/m/online/1233987.aspx
11年前、カナダを約一ヶ月間旅行した。
カナダ人は心の底から優しく、おおらかで旅行者や外国人に優しい。
それが故に、アメリカとは少し違った形で多くの移民を受け入れてきた。
旅行者は稀であろう国境沿いの小さな町で90歳くらいの日系一世の男性と
出会った。男性は久し振りで日本人に会ったことを大いに喜んでくださり、
もうほとんど 忘れてしまった日本語を、英語なまりに、ひとつひとつ
振り絞るように 一生懸命、懐かしそうに話してくれた。
だから私も最近の日本の様子をあれこれ伝えた。男性はとても驚いていた。
移民してから一度も日本へ帰ったことがなく 戦前の頃の記憶しか
ないのだから。男性にとって、日本を離れたときから
時間は止まったままなのだ。
そして男性はこう言った。 「あなたはずいぶん背が高いですね」
誰が想像したであろう。カナダやアメリカと肩を並べるほど成長した
日本を。 カナダには、こうして移民してきた我々の先輩が大勢いて
多くはカナダの土に眠っている。
私はこの出会いによって
かつての日本に思いを馳せるきっかけとなる。
今日は「彗星」の搭乗員で元海軍少尉の田中三也さんに
インタビューさせて頂きました。田中三也さんは
二式艦偵(彗星偵察機)に搭乗し、あ号作戦で三度の
挺身偵察を成功させた方です。
挺身偵察とは「強行偵察」のことです。彗星の機動力を活かし、
敵基地港湾に進入。熾烈な敵艦船の弾幕の中を超低空で突っ切り、
敵艦の写真を撮りまくりながら、追尾して来る敵戦闘機を振り切るという
凄まじいお話でした。
田中さんは昭和20年には343空で彩雲にも搭乗されておりますが
「私は彩雲と彗星、どちらの飛行機がいいかと聞かれたら、
彗星がいいですねえ 小回りも利くし、良い飛行機でした」
と仰っていました。
また、田中さんは南太平洋海戦では重巡「利根」乗組みで
索敵機で空母ホーネットを発見した、そのご本人でもあります。
このお話も少しずつ書き起こして参ります。
私が代表代行をさせて頂いております、もうひとつのほうの
戦友会なのですが、3月いっぱいで閉会することにしました。
「やめないでほしい」との要望沢山頂いたのですが、高齢化には
勝てません。決まった以上、なんとか説得して回っております。
最終回のパーティーの調整を行っております。
往復はがきを出すのですが、
「不参加」で「体調不良」などと添え書きしてあると
辛いものがあります。
年に一度の例大祭がありますので、こちらは
可能な限り続けて集まってもらいます。
厚生労働省へ遺骨収集の打ち合わせに行って参りました。
今後は厚労省が社団法人日本戦没者遺骨収集推進協会に
事業を全て委託し全戦域での収集となります。
社団法人日本戦没者遺骨収集推進協会は出来たばかりの組織ですので
暫くは今まで通り、戦域ごとの戦友遺族会の協力が不可欠です。
私は水戸歩兵第二聯隊・ペリリュー島慰霊会の一員として参加させて
頂きます。
中には「定年後の受け入れ先」
みたいに考えている方もいるそう
なのですが実際の仕事は過酷
です。
私はずっと、若い現役世代の活躍
を求める旨、提言しております。
大学生ボランティアか定年退職後
の年配者しか参加者がいないのが
現状です。
集団埋葬地等「ここを掘れば出て
きますよ」という場所、全てお膳立て
してからでないとボランティアの受
け入れが難しいのです。
大学生は一度限りで、卒業してしま
うし、現役世代の体力のある方が
洞窟やジャングル踏破して調査できないと先へ進みません。
現状では、最低でも9日間、仕事を休んで海外派遣に参加するのが一
般的ですが、これだと現役世代の参加は無理です。せめてこれが
5日間程度にできないか、ずっと言い続けてます。
私はできると思います。
会の仲間は
アメリカ本土の海兵隊基地へ資料収集へ行っております。
ペリリュー島の埋葬場所を調べる為です。たぶん今頃、膨大な量の
写真や資料を探してくれています。
飛行第244戦隊で行われていた無線通信をエースコンバット風に
再現してみました。前半は実際の符号を用いたもので、後半は解説です。
声優さんに依頼するお金がないので自前です。
無線交信の例は櫻井隆著『飛燕戦闘機隊』23頁より出典。