2017年8月25日 (金)

御巣鷹の尾根へ(JAL123便飛行機事故)

日本航空123便の墜落事故から32年目の夏、そして33回忌となる今年8月12日、
御巣鷹の尾根へ慰霊登山へ参りました。
当時、私は2歳でしたが、ブラウン管に写る光景が忘れられません。
既にカラーテレビでしたが、事故現場を映した画面はモノクロのような、殺風景で、
ジャンボジェット機の大きなギア(車輪)が逆さまになって転がっていました。
隣で一緒にテレビを見ていた父が「飛行機が墜落したんだよ」と教えてくれました。
 
御巣鷹の尾根へ慰霊へ行く際に感じたことと、その記録を記します。 

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御巣鷹へのアクセス
御巣鷹の尾根へのアクセス(行き方)は交通手段が乏しいので
ほとんどの場合、車を使います。
 
一応、最寄りの駅は群馬県側は、上信電鉄下仁田駅。
埼玉県からのアクセスであれば秩父鉄道秩父駅ですが
駅レンタカーはありません。レンタカー利用の際は高崎駅あたりで借りる
必要があります。
 
最寄りのインターチェンジは上信越道下仁田・南牧IC。
インターを降りてから、下仁田の市街地を経て、
上野村の中心地までがおよそ1時間。
上野村の中心地に追悼施設「慰霊の園」があります。
ここには事故で最後まで身元が不明だった方々のご遺骨を納めており
追悼式もここで開催されます。御巣鷹の尾根まで登ることができない
方々は、こちらで献花します。
 
上野村の中心地を走る国道299号から県道124号線に入り、
およそ3キロ。御巣鷹の尾根への分岐道路が見えてきます。
 

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▲ここを曲がります。

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御巣鷹の尾根への道は、ナンバリングされておりません。
ここから先は、上野ダム管理用の林道で道幅は狭くなっています。
 
ここから先は携帯電話は圏外となるので、注意です。
なるべくコンパクトな自動車で行った方が良いのですが
  
見通しの悪いカーブの先から
報道関係者の大型バンが猛スピードで突っ込んでくるので
正面衝突にならないよう注意します。

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▲A地点。
 
登山口まで舗装道路が続いていますが、8月12日は遺族の登山者と
報道関係者の車が多いため、行けるのはここまでです。
「ご遺族以外の駐車はご遠慮ください」と注意書きがあります。
我々は、ここに駐車して、登山口までの3.4キロを歩くことにします。

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▲B地点。旧登山口。観
さきほどのA地点から歩いて2キロほどで
旧登山口駐車場に到着する。音菩薩像とトイレがあります。
昔は、ここが登山口で、ここで自動車を降りて御巣鷹の尾根の昇魂碑まで
は2キロ以上を歩かねばなりませんでした。
 
現在はもう少し先まで舗装道路が延伸されています。
この駐車場も8月12日は、遺族と報道関係者専用となります。
 
アスファルトの道を、さらに先へ歩きます。

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みかえり峠を通過します。遺族が慰霊登山を終えて、下山する際、
この峠を境に御巣鷹の尾根が見えなくなります。ここで
後ろを振り返って「また来年も来るからね」と山を拝む場所です。
旧登山道がそのまま保存してあります。

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登山口駐車場に到着。ここも当然遺族と報道関係者専用ですが
8月12日以外の日であれば、空いていると思います。
 
ここから先が御巣鷹の尾根への登山道となります。
昇魂碑までの全行程は距離800メートル。高低差は180メートル。
簡単そうに思えますが、お亡くなりになった方々の
お墓は昇魂碑よりさらに上に多くあり、できるだけ多くのお墓に
手を合わせることを考えると距離はずっと伸びます。
余裕を持った登山計画を実施する必要があります。
 

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ここが登山口です。
 

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杖を貸してくれます。一人一本。借りたら返します。

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カウンターが設置されているのでこれを、一人一回押します。
 

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前を行くのはナビゲーターのK氏です。
御巣鷹の尾根と123便の事故に詳しく今回、案内して頂きます。
 

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登山道はよく整備されていて歩きやすいのですが
山は山です。特に雨天時はよく滑ります。
 
昨年には、登山道の整備中だった日本航空社員が
滑落事故を起こし、亡くなっています。
事故当時も遺族の対応にあたり、ずっと御巣鷹の尾根を
整備し、慰霊に身を捧げていた方でした。残念でなりません。
ご冥福をお祈りします。

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さっきお借りした杖で熊よけの鐘を鳴らしながら進みます。
 

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前を歩いていたグループがぬかるみに足を取られて
転倒し、腰を強打していました。
一歩、一歩、慎重に歩きます。
人間の手と足はそれぞれ合わせて4本あるので、
 
そのうち3本が安定した状態で地面を捕えていれば
安全です。動かして良いのは残りの一本だけです。
高所作業の仕事をしていたとき、現場でよく注意されました。

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中間付近。
手すりを使って歩きます。
この手すりは、8月12日を前にボランティアが乾いた雑巾で
丁寧に吹き上げています。

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山小屋へ到着。山小屋は二カ所あって、
下側の山小屋が遺族専用で、一般の登山者は上側の小屋で
休憩することができます。
 
ここで冷たい麦茶が配られていました。有難く頂戴し喉を潤しました。

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山小屋を過ぎて間もなく、すげの沢と山頂への分岐点に差し掛かります。
機首が激突したのが山頂、すげの沢は衝撃で居れた機体の一部が
滑落した場所です。すげの沢は比較的原型をとどめたご遺体が多く
生存者4名もここで発見されました。こちらも帰りにお参りすることにして
先ずは山頂を目指します。

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お墓の目印となる案内板があります。
この辺りから、亡くなった方のお墓が山肌に点在するようになってきます。
お墓はご遺体が発見された場所に基づいて建てられています。
 

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勾配がきつくなってきます。
既に標高は1,300メートルを越え、目指す昇魂碑は1,359メートル地点です。 

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山頂までの道が分かれています。急な坂道とゆるやかな道が選べます。
ゆるやかな坂を選ぶと、遠回りとなりますが、歩きやすく無難と思います。

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さっきまで木洩れ日があったのですが、急にガスが出てきました。
 

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昇魂碑に到着しました。全てのお墓は
まわりきれないので、ここで520名のお亡くなりになった方の
ご冥福を祈ります。
 
陸上自衛隊の救助ヘリが降りたのも、この辺りです。
少し平坦になっています。
 

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山は涼しいです。この日は摂氏20度。
 

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昇魂碑より、さらに登って行きます。
ここには遺品が埋葬されています。
黒澤丈夫さんは事故当時、上野村の村長さんで
現場を指揮し、救助と遺体収容に最も尽力された中のお一人です。
黒澤村長は元海軍少佐で実戦経験豊富なゼロ戦パイロットでした。
 
現場でご遺体の収容に尽力された
陸上自衛隊隊員も、この時代には
旧陸軍出身で戦場経験のある隊員が居りました。
こうした方々は、惨状にも動じず、着実に遺体を収容し
若い隊員が食事が喉を通らない中、
黙々と飯を食べたと記録が残っています。 

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御巣鷹茜観音と、亡くなられた方々のお名前が刻まれた石碑です。

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こちらの中には亡くなった方の、遺品、そして数多くのお写真が置かれています。
小さい子供さんの写真などは、本当に辛いものがあります。 
 
さらに上を目指します。
 

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斜面を踏み外さないよう、歩きます。
亡くなった方のお墓が続きますが、多くは急斜面にあり
前を通りがかった折には必ず立ち止まって合掌を致しますが
全員の方は不可能です。せめて前を通った方だけでも。

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ガスが濃くなってきました。出来るだけ多くの方のお墓に手を合わせたいのですが
安全が優先です。
 

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事故の衝撃でなぎ倒された大木と、その後植林された若い樹木です。
 

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こちらも、前を失礼致します。
さらに上に登っていきます。
 

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「沈黙の木」事故の炎で黒く焼け焦げた気がそのまま残っています。
山頂付近。なお、ここは御巣鷹の尾根ですが
便宜上、昇魂碑の場所と、機首の激突した近辺を
山頂と呼ぶことにします。
 

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この辺りは、ジャンボジェット機の機首の方に乗っていた方のお墓です。

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根元から折れた大木を何度も見ます。
 

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バツ地点。当時、捜索救助の起点として書かれたバツ印が残っています。
 

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高濱雅己機長、佐々木祐副機長、福田博航空機関士、三名の
ご遺体発見場所。
 
高濱機長のご遺体は顎の骨が見つかっただけだそうです。
 
高濱機長は海上自衛隊出身のベテランパイロットで
日本航空入社前は海上自衛隊のYS-11を操縦していました。
 
全ての油圧系統が失われたとなったボーイング747型機は 
アンコントローラブル(操縦不能)を宣言しました。
「油圧系統オールロス」すなわち尾翼のフラップ操作が
不能となれば、上昇、下降は出来ません。
このような前例はありませんでした。
 
そこで高濱機長と佐々木副機長は、エンジンの推力コントロールのみによって
上昇、下降(失速)操作を試みました。
ジェットエンジンは馬力はありますが、プロペラ機と違い、レスポンスが悪く
自転車で例えるなら、一番重いギアでゆっくりゆっくり増速するような
例えをすれば良いでしょうか。目の前に山があっても、それを飛び越える為に
スロットル全開にしても、それが反映されるのは長い時間の後です。
大型機なら尚更です。
 
失ったフラップの代わりにギアダウン(格納した車輪を出す)
して、フラップの代わりにしよう、という手段を思いついたのが
福田博航空機関士でした。
この様子、ボイスレコーダーにも残っています。
 
「あのー、ギアダウンしたらどうでしょうか?」
  
高濱機長の言葉は
「もうだめかもわからんね」と「どーんというこや」という二つだけが
切り取られ、報道されたので、大きく責任を問われました。
ところが、ボイスレコーダーの全編を聞いてみると、
油圧系統オールロスで32分間機体を操り、最後まで諦めなかったことが
理解できます。
 
高濱機長は最後の瞬間まで冷静で
乗客の命を救う事を考えていました。
 

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美谷島健くんのお墓。
当時9歳。PL学園の試合を観戦に、一人で東京から甲子園に行く予定で
飛行機に乗っておりました。ご遺体は足だけが見つかりました。
本によっては靴だけと書いてあります。
(K氏が素通りしているような写真に見えますが、拝んだ後です)
 
事故後、絶望しかない遺族の中で、
もっとも最初に立ちあがったのが健くんのお母様でした。
残された我々は、生きて前を向いて歩いて行かなければならない、と
8.12連絡会(遺族の会)を結成したのです。健くんのお母様は
それ以来、ずっとこの会の運営を行い
遺族のサポートとケアを続けてきました。
   

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高濱機長のお墓を頂点として、山頂付近で亡くなった方々のお墓をお参りし
今度は、すげの沢へ降りて行きます。
 

Dscn0131 Dscn0118 
すげの沢分岐点まで戻り、谷底へ下っていきます。
すげの沢は生存者4名の発見された場所です。
 
ジャンボジェット機747型機は巨大です。
機首は岩肌に突っ込むように衝突しましたが
機体後部付近は折れ曲がって分離し、すげの沢に滑落していきました。
 
生存者の証言によれば 
事故直後には4名以外にも、息のある方が居たそうです。
会話をしたり、荒い息をしたりする様子があったということです。
こう言っては誠に申し訳ないのですが、
こちらでは、人間の形をした、ご遺体が多く発見されました。

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すげの沢の対馬祐三子さんを中心とした3名のスチュワーデスのお墓。
対馬祐三子さんの冷静なオペレーションの様子はボイスレコーダーに残っており、
乗客も比較的大きなパニックを起こすことなかったと、伝え聞いております。
対馬さんは新婚でした。そして当日39度の熱が
ありましたが乗務し、任務を全うして
亡くなりました。

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そろそろ下山しないといけません。

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谷口正勝さんは、
きりもみ状態で降下する飛行機の中で遺書を書いた方です。
谷口さんのことは、ご存知の方も多いと思います。他でも多く
書かれています。
 
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山を下っていきます。
下りには杖が重宝します。有難い。
下りが危ないのです。上りより何倍も慎重に歩きます。
 
以上、御巣鷹の尾根への慰霊登山の平成29年の記録でした。 
 
事故で亡くなった方々にご冥福をお祈り申し上げますとともに
二度とこのような事故が繰り返されないことを、祈願致します。
 
      
免責事項
当記事に記載しました内容は2017年(平成29年)8月時点のものであり
状況は変化します。また、あくまで一個人の記録としてご覧頂き
登山、お参りされる際は各位の責任のもと実施されるようお願い致します。
 
興味本位の陰謀説やオカルトの対象としてのコメントは
控えて頂きますようお願い致します。

湯西川ダム建設中の記録

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▲ダムに沈む予定の旧道(下)と建設された新道(上)

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▲沈下が想定される一帯は樹木を伐採し流木を防ぐ。
 

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▲湯西川ダム本体工事個所。
画面手前が上流(沈む地域)で、奥が下流側になる。
主に首都圏で利用される水になる。
 
この写真はいずれも過去に撮影したもので
現在、全て湯西川ダムの底です。

2017年8月20日 (日)

旧軍から自衛隊へ入隊した場合の階級(資料)

航空自衛隊は航空要員の充足計画として
航空準備室においては昭和29年度航空自衛隊定員6,738名の
充足計画を作成した。警備隊からの転官および一般公募によることとし
その基本計画は次の通り。
 
転官はパイロットの充足に重点を置き
保安隊から幹部650名、陸曹等2,500名、警備隊から
幹部160名、海曹等400名計約3,700名とする。
 
航空準備室では陸海からの転官希望者各個人に
綿密な検討を加え、特に士補等は各職種の定員を充足させることに
主眼をおいて選考を進め、昭和29年6月31日迄には一応の
転官要員3,717名を決定した。
 
陸からの転官については終始順調に進捗し
計画通り行われたが、海からの転官は海上自衛隊自体の
航空要員充足の必要性もあり、計画の約60%に
過ぎなかった。
 
昭和29年度末までの転官状況は次の通り。
保安隊(陸上自衛隊)から
幹部559名、空曹等2,574名、計3,133名
 
警備隊(海上自衛隊)から
幹部85名、空曹等253名、計338名
 
転官者以外に一般公募を行い、幹部570名、
空曹等約2,000名を補充する。
 
隊員の募集は
保安隊が担当し、幹部520名、空曹500名、空士1,500名を
採用することにした。主な募集条件、応募状況は次の通り。
 
一般公務員に準じた資格のほかに次の資格が定められた。
 
◆二佐
国家公務員11級、同相当者、旧軍において概ね
昭和17年12月1日以前の少佐任官者
 
◆三佐
国家公務員10級、同相当者、旧軍において概ね
昭和20年6月10日以前の少佐任官者
 
◆一尉
国家公務員9級、同相当者、旧軍において概ね
昭和20年6月10日以前の中尉任官者
 
◆二尉
国家公務員8級、同相当者、旧軍において概ね
昭和20年8月1日以前の少尉任官者
 
◆三尉
国家公務員7級、同相当者、旧軍において概ね
昭和20年7月31日現在の見習士官、準士官
 
◆空曹
短期大学卒業者、旧軍の判任官
 
◆二士
昭和4年10月9日-11年10月1日出生者
 
◆部隊職員
3級-10級
  
出典
自衛隊十年史(1961年)

2017年8月18日 (金)

零式艦上戦闘機デザインデータ集発売

7販売開始しました。ぜんぶで60パターン以上の零戦の
イラストや写真が入っています。デジタルデータ集です。
商用と非商用の二種類があります。
 
中身はこちらです。
https://soranokakera.lekumo.biz/tesr/2017/08/post-67ed.html

商用バージョン購入ページ
https://www.amazon.co.jp/dp/B074TWFVGP

非商用バージョン購入ページ
https://www.amazon.co.jp/dp/B074TVT9DC

2017年8月11日 (金)

零式艦上戦闘機データ見本

ダウンロード 販売ページ
 
パッケージ版 販売ページ

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利用規約
 
【通常ライセンスでご利用頂ける範囲】
〇SNS、ブログ・ウェブサイト素材としての利用
〇動画素材としての利用
〇教育・講演、プレゼンテーション
〇書籍(同人・商用問わず)資料・デザイン・表紙等への利用
〇プロモーション・宣伝・広告・チラシ等の利用
 
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●グッズ製作(例:Tシャツ・マグカップ等)
 
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×データの二次配布は一律禁止とさせて頂きます。
 
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コンピュータの環境をご確認の上、ご利用ください。
 
ai型式データ(ベクターデータ)について
動作環境はアドビ社・イラストレータCS4以上推奨です。
ソフトや操作方法についてのサポートは行っておりませんので
ご了承ください。
 
購入はこちらからお願いします。

2017年8月 9日 (水)

疾風うちわ

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Hayate宇都宮限定の疾風うちわです。
護国神社の盆踊りで配布致しました。
涼しく洋上迷彩のお色となっております。

疾風

先日、飛行22戦隊の戦友会(解散しました)を
支えてこられた方とお会いしまして、お話しを伺いました。
飛行22戦隊は4名しか生き残りがいなかったそうです。
菊水のシンボルが有名な戦隊です。
このご縁を機会に、22戦隊も描いています。
 
専門家の方に色を監修してもらっています。
 

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持ち出し用掩体壕

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出前持ちのおかもちをヒントに作成しました。
模型持ち出し用の梱包です。
 
模型作品を家に飾っておくより多くの方に見て頂きたいがモットーです。
講演会などで積極的に持ち出します。 元パイロットの方も模型を
ご覧になると、「懐かしいのう」と、昔の記憶をいろいろ思い出して
くださるのです。二次元のイラストとは雲泥の差があります。
先日お目にかかった大野さんも
「ほとんどこの通りだった」と懐かしそうに仰っておりました。
 
梱包は干渉に気をつけながら、機体そのものは浮かせることで
破損を防ぎます。掩体壕のような形になりました。
現地でそのまま展開し取り出し、収納が可能です。 
 
掩体壕の中身は1/48の彗星。

比叡山延暦寺と桜花発射基地

先日の関西方面旅行で
比叡山延暦寺をお参りしました。
比叡山は仏教天台宗の総本山です。
 
実は延暦寺というお寺そのものはありません。
延暦寺という呼び名は比叡山に並ぶお寺の総称であります。
比叡山は京都府と滋賀県の県境に位置し、琵琶湖を一望、
東塔(とうどう)と、西塔(さいとう)に分かれてお寺が建てられています。
お寺が建つのはいずれも滋賀県側です。 
 
京都市内とは全く雰囲気が違い、ここはとても静か。
観光客は指で数えるほどしかおりませんでした。

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西塔にあります、弁慶のにない堂です。
双子のような造りになっていて、
かの弁慶が双方の屋根にまたがった、という言い伝えが残されております。
 

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苔が神秘的でありました。
 

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こちらは延暦寺のオフィシャルカーです。
消防車も自前でありました。
  
「桜花」発進基地としての比叡山
近現代史では、ここ、比叡山は房総半島とともに、ロケット特攻機
「桜花」の発射カタパルトとレールが配置されました。従来「桜花」は
一式陸攻の腹下に吊り下げて出撃していましたが、終戦間際
比叡山の上に設けたレールから射出する方式に変更したのです。
 
エンジンも従来の火薬ロケットからジェット推進に換装され、
航続距離は大阪湾よりはるか洋上の機動部隊を殲滅(せんめつ)
が可能とされておりました。
 
それらは使われることなく、本土決戦を前に終戦を迎えましたが
元パイロットの方に、当時の訓練の様子をお聞きしておりました。
比叡山を上り下りして、来たるべき決戦に備えていたそうです。
 
桜花の戦跡は撤去され残っておりません。 

蒸気機関車は走る

いよいよ、8月10日、東武日光線でSL「大樹」が走る。
SLが走る路線は全国でも数えるほどしかないので大いに期待歓迎している。
 
数年前、東海地方の市長が
町おこしでSLを復活させる取り組みに着目し
 
「宇宙船が飛ぶ時代、SL(蒸気機関車)を修復するくらい容易い筈だ」
 
と発言し、話題になった。
この発言に対するアンサーは技術的観点からすれば「とんだ見当違い」である。
SLの復活は大変な困難を伴う。
部品の規格が現在と違うし、それを作れる職人がもう居ないので、
少しでも機械をかじったことのある者なら、手間が何重にもなるのは
痛いほど理解できる話だ。
 
市長の発言は、結果的に批判を招いたが 
工業遺産伝承の諸問題を周知出来た、という点では
大きな一歩と感じる。
  
そうして大変な困難を乗り越え復元されたSLは、昨今、子供達や家族連れに大人気で
憧れ、優美さ、ノスタルジーという視点で語られがちだが
一部年配者は顔をしかめ、 
 
「あんなもの復活されても、戦後の貧しく苦しかった思い出しかない」と語る。
 
万人に受け入れらるのものなど存在しない。
 
されど、機械は機械である。
技術者の視点では、機械というものは
常にニュートラルな存在である。ゆえにひたむきになれる存在なのだ。
これを、女性に説明するのは非常に非常に難しい。
 
失われかけた工業遺産を残してゆく。
100年後、200年後においてどう扱われるか、わからないけれど、
ただ、ひたむきに、機械と向き合う人たちがいる。
そうした人たちは市長や妻や年配者の発言にも負けずに
工具を持った手を休めず、きっと、こう言うのだ。
 
「それでいい」と。
 
蒸気機関車は走る。

2017年8月 8日 (火)

ゼロ戦の増槽大研究

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零戦のイラストを全種類描くにあたって
増槽も描いています。
 
増槽(ぞうそう。陸軍名称は落下タンク)
は長距離を飛行する際に取り付ける外部燃料タンクで、
中身が空っぽになったら、切り離し捨ててしまうタンクです。
 
増槽は型式が存在せず、機種によってバラバラなのです。
これだけ零戦がブームなのですが、増槽は
全然研究がされておりません!
専門書などを見ても多くが割愛されております。
 
私も本物をほとんど見たことがありません。増槽だけ展示してあるのは
万世特攻平和祈念館と筑波海軍航空隊記念館くらいでしょうか。
使用後捨ててしまうものですから、残っていないのは仕方ないのかもしれません。
図面も機体の一部としては見なしていないようです。
 
材質・塗装・形状・取り付け場所・支柱、すべてが
年代や機種によって全く、あるいは微妙に異なります。
 
全部は描ききれないので、まず、ゼロ戦に限って描くことにします。
ゼロ戦だけで主に三種類あります。このほかに現場で小加工して取付したり
したケース等、たくさんのパターンがあります。 
 
◆初期型胴体下330リットル(海軍機専用)
もっとも有名なのは真珠湾などで使用した21型の初期型。330リットル。
(彗星艦爆と兼用です。彗星艦爆は翼下に二個装着できます)
支柱にカバーが装着されています。主に52型で見られます。金属製。
 
◆後期型胴体用320リットル(海軍機専用)
次に後期型。形状がかなり細長くなります。主に52型甲以降に見られます。
「雷電」などにも同じものが使われています。
材質は木製に変更され、支柱も剥き出しになっています。
 
◆陸海軍統一型二型落下増槽200リットル×2
翼下に二個取り付けるタイプで「隼」「飛燕」「疾風」など
陸海軍で同じものを使っていました。
ゼロ戦は62型以降の零爆で胴体下に爆弾を取り付けた場合
翼下に二個となります。木製。

2017年8月 1日 (火)

二式飛行艇・九七式飛行艇パイロット吉田氏による操縦解説


 
二式大艇・九七式飛行艇パイロット吉田さんの動画出来ました。
よろしければご覧ください。
 
吉田重次さん
山形県出身。昭和15年12月、第15期乙種海軍飛行予科練習生。
昭和17年11月、水上機操縦専修。零式三座水偵等の操縦を経て、
昭和18年8月、詫間海軍航空隊に配属。九七式飛行艇および二式
飛行艇操縦習得。館山海軍航空隊を経て、昭和19年3月、第90
1海軍航空隊へ転属。昭南島、サイゴン、フィリピン、インドネシ
ア等へ飛行、主として船団護衛を務める。昭和20年6月、横濱海
軍航空隊転属。内地とラバウルを往復し、傷病者、薬品の空輸を行
う。総飛行時間1,000時間以上。
 
第901海軍航空隊 一番機 KEA83号機(ハセガワ模型のパッ
ケージイラストのモデル)操縦。
 
音声修正・ノイズ除去/CREA SOUND WORKS
http://crea.serveblog.net/crea/index.html
  
撮影協力/宇賀神綾香 インタビュー/篠原直人
  
二式大艇・九七式飛行艇パイロット吉田さんの講演会のお知らせ
吉田さんの講演会が10月15日に茨城県小美玉市で開催されます。
飛行艇の話はなかなか聞けないと思います。ぜひお越しください。
同日、彗星(二式艦偵)の田中三也さんもお話しになります。
またブログ内でお知らせします。
 


2017年7月28日 (金)

鶉野飛行場と資料館グッズ

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兵庫県加西市にかつて鶉野飛行場(うずらのひこうじょう)という
飛行場がございました。
 
ここには川西航空機の分工場があり、紫電や紫電改を飛ばしていました。
現在も滑走路や掩体壕などはそのまま残っています。
滑走路脇には資料館も開設されております。 
 
そうした歴史を保存する会「鶉野飛行場未来プロジェクト」のメンバーの方
にお目にかかりまして意見交換会を実施致しました。
 
この会には素晴らしいデザイナーさんがいらっしゃって
これらのオジリナルグッズを購入することができます。
 
一番右は紫電改/紫電Tシャツ。2,500円。
キャラクターはオジリナルマスコット「鶉野少尉」であります。
クリアファイルやステッカー、ポストカードも100~200円と
手頃な価格で手に入ります。売上金は資料館の運営資金となります。
何卒ご支援、よろしくお願い致します。
 
問い合わせ先:鶉野飛行場資料館
http://www.uzurano-hikoujou.com/
 

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遊就館の撮影規定改正

靖国神社の遊就館ですが
今までゼロ戦とSLのあるエントランスホールのみ撮影が可能で
展示フロアは一切撮影禁止でした。
 
それがこのたび、大展示場の撮影が許可されました。
朗報です。
彗星や桜花の展示してある大きなフロアです。
  
日本の博物館や資料館は撮影禁止のところが多いですが
残念なことです。元来、日本人の感覚からすれば、
撮っていいものと、いけないものの区別はつくはずです。
 
一般的な展示は撮影しても、
遺影や遺書を撮るということは躊躇いますし、何よりも
他の来館者の邪魔になるような迷惑行為は当然しない。
 
それを漢字二文字で「配慮」と言います。
本来の言葉の使い方です。 
 
撮影の可否を来館者のモラルやマナーに任せられるなら
こんなに理想的なことはありません。
 
しかし乍、その区別ができない人が増えたから、不本意乍
一様に禁止!としてしまう、そういった事例が多いと思います。
 
義務を果たさず権利ばかりを主張する人が増えました。あくまで
「撮らせて頂く」という気持ちを忘れずにいたいものです。
 
靖国神社遊就館においても然りです。

蒼空はるかメイキング

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Photo 
キャラメイキングです。
左側が下絵、真ん中が着色してすっぴんの状態です。
これにアクセサリーを加えた状態が右側になります。
別パターンも作成中であります。

2017年7月27日 (木)

ベクターデータの販売

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イラストデータのライセンス販売を始めます。
 
今までは主に自分でグッズを製造していましたが
一度に数十万~百万単位でかかるので
マイナー機などはグッズ化にも相当な費用と覚悟が要りました。
大量のダンボールに囲まれて
袋詰めや在庫管理などで日が暮れてしまいます。
 
そこでベクターデータ(編集可能)のライセンスを販売して
自由に使って頂こうと考えています。 
 
見本を少しアップしました。販売するのは
今まで描いた飛行機と艦船全てです。
零戦は全ての形式が揃っています。
編集可能なので、カスタマイズやカラーリング、
自由なデザインが出来ます。
 
取材で全国各地に行くのでお金がかかります。
クラウドファンディングが流行ってますが、
どうしても身動きが不自由になりますし、責任の所在が曖昧となります。
今のところ、必要なお金は自分で調達するがモットーです。

2017年7月25日 (火)

ペリリュー 楽園のゲルニカ


大人気漫画
『ペリリュー 楽園のゲルニカ』の作者であります
武田一義先生と意見交換を実施させて頂きました。
 
武田先生は拙著『パラオ戦跡を歩く』をご覧くださり
極力、ありのままの事実を作品に
盛り込みたいとのお考えで一致しまして
いよいよ、物語の終盤をお描きになっています。
 
武田一義先生の『ペリリュー 楽園のゲルニカ』原画展が
7月28日(金曜日)より茨城県笠間市の筑波海軍航空隊記念館で行われます。
ぜひ足をお運びください。 
 
筑波海軍航空隊記念館お知らせページ
http://www.p-ibaraki.com/1545 
 
筑波海軍航空隊記念館TOPページ
http://www.p-ibaraki.com/

2017年7月24日 (月)

二式大艇パイロット吉田さんインタビュー

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第901海軍航空隊で
九七式飛行艇、二式大艇のパイロットをされていた
吉田さんにインタビューをさせて頂きました。
吉田さんは飛行時間1000時間で、
九七式、二式と両方の飛行艇の操縦をされておりました。
 
実はハセガワ模型のパッケージで有名なこちらの箱絵、KEA63号機は
吉田さんが操縦していた九七式飛行艇で、戦後、このイラストを見て
びっくりなさったそうです。

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吉田さんは飛行艇の着水の操縦方法を解説してくださいました。
こちらのインタビュー動画を交えて
少しずつ、書かせて頂きます。
 
また、吉田さんの講演予定もございますので、決まり次第
こちらで告知させて頂きます。

2017年7月21日 (金)

彗星パイロット大野徳兵衛さんのお話し(3)急降下ダイブ

大野徳兵衛さん大野善也さん
 
◆ダイブ準備

 
急降下する前に、カウルフラップを全て閉じます。
急降下するとエンジンは1分間で急激に冷えます。
トーン(シリンダーの温度)が100度以下に低下すると
オーバークールでエンジンがストップしてしまう危険がありました。
 
急降下した後は、カウルフラップを全開するのを
忘れがちになります。今度はオーバーヒートになりますから
気を付けなければなりません。
 
ダイブすると、急激な気温と気圧差に伴って湿気で飛行眼鏡が
曇ってしまいますから必ず眼鏡を外しておきます。
 
◆ダイブ角30度より降下
 
高度6000-6500メートルからダイブに入ります。
訓練では9000でやりましたが、
戦地では6000-6500ぐらいですね。
急降下爆撃では7000以上は必要ない高度です。
6500以上は燃料物凄く食うんですよ。
 
30度くらいで降下していきます。
エンジンに沿わして標的をずらしていく。
機体が放物線を描くように
目標の敵艦に対してだんだん深くなるんですよ。
 
はじめから急降下すると浮力がついて90度になってしまうんでね。
最終的にダイブは60度がベストで62、3度が限度ですね。
それ以上は引き起こしができないんですね。実際に
訓練中に小西兵曹が角度が深すぎて海に突っ込んでいます。
 
6000-6500メートルでダイブを開始して徐々に高度を下げて行きます。
このときペアが後席で高度を読み上げて行きます。
高度の読み上げは、1000のときにメーターをつけるんです。
500のときはメーターつけないんです。例えばこうです。
 
「6500、6000メーター、5500、5000メーター」
 
こんな具合で読み上げていきます。
 
◆ダイブブレーキ展開
 
3000メートルから2000メートルでブレーキをかけます。彗星の
エア(ダイブ)ブレーキですが、私達は空戦フラップと呼んでおりました。
この空戦フラップを使えば零戦と変わらない捻り込みが出来ました。
戦闘機にも劣らない、彗星は名機です。
 
ブレーキをかける時期は身体の感覚でしたね。振動がダーっと
全身に伝わってきて、スピードメータも見ません。
 
◆ダイブ角度60度
 
ダイブした彗星は高度2000-1500で60度に達します。
真横から見れば60度ですが、少し他の方角から見れば
垂直に見えるんですよ。乗ってるほうはもう完全に垂直ですよ。
座席から重心が前に行く。真っ逆さまですね。
 
◆弾幕に突っ込む
 
対空砲火の弾幕は凄まじさですが
自動車を運転して雪の降る高速道路に乗りますね。
すると、雪が自動車のフロントガラスに当たる。
あれと同じです。曳光弾と似ているので。いつも自動車に乗るたび
思い出します。
 
実際に目に見える弾は三発に一発の曳光弾だけで
残りは徹甲弾や焼夷弾ですから、実際にはその三倍もの
弾が飛んできている勘定です。
 
弾幕を張っているときグラマンも飛べないので
攻撃中にグラマンに落とされたという話は聞いたことがありませんね。
 
弾幕が張られているのは1000メートルから2000メートルの間ですね。
弾幕も二種類あって、薄い弾幕と濃い弾幕が重なっています。
薄い弾幕は500メートルから600メートルくらいまでありますが
 
◆輪形陣のド真ん中に突っ込む
 
濃い弾幕を抜けて視界が開けたとたん、びっくりしたのが
敵艦隊の輪形陣の大きさで、そのど真ん中に突っ込んでおりました。
 
どれでも狙えますよ。
そのときは巡洋艦クラスでしたね。
 
◆爆弾投下
 
訓練の規定では、高度650メートルで引き起こしすると
決められていましたが先輩から
「大野兵曹、そんな正直に650で突っ込んだりしたら落とされるぞ」
と脅かされました。650メートルで引き起こすと
待避高度が300メートルくらいになりますね。
それが戦地では撃ち落されると。
 
高度7000メートルから
50-60秒で敵艦の上空まで落下します。彗星は
一秒間に140-150メートルのスピードで進んでいます。
 
彗星は爆弾倉があって、爆弾はその中へ抱えていました。
敵艦隊上空に進入いうときに開けるんです。中翼ですからね。
その中で爆弾を腕の先に取り付けていて、
腕が爆弾を下におろしてから投下する仕組みになっていました。
 
爆弾を投下して、すぐ引き起こす。
投下してゼロコンマ何秒です。操縦桿を引く。
 
操縦席にはタマがある。
中に水銀のタマ。それが水平儀の中心にこないと駄目なんです。
タマが右にずれている場合は飛行機は左に滑っていると。
滑るということは、200も300もずれて爆弾が落ちる。
つねに、水をコップについでこの水がこぼれんように
持っていくというのがコツ。
 
だから弾幕と雲の間を縫いながら、体がこうならん(振り回されない)ように。
軸を据えて、機体が横に振れんようにもっていくのが難しい。
その訓練をずっとやるんです。
一朝一夕ではそこまで到達しない。
 
飛行機の操縦は難しいものでは無いです。
一ヶ月あれば飛べるようになります。しかし急降下爆撃は
そうそう弾はうまく落ちるもんじゃないんです。
 
◆引き起こしにかかる7Gとブラックアウト
 
そのときは私は、高度650メートルをオーバーして
450メートルまで降下していたんです。引き起こして、機首は上げても
慣性で350メートルぐらいは沈む。もう水面スレスレですよ。
それで助かった。
 
艦橋で機銃を持っている兵隊が伏せるのを見ました。
一秒間に150メーターもいくので照準できなかったんでしょう。
敵もあっというまに弾幕の間から出てきて爆弾を落とされる。
特攻だと思ったのかもしれません。
 
引き起こしのGが凄い。6Gか7Gかかります。
血圧も凄いですよ。普通の人間は死んでしまいますよ。
 
感覚としては、骨だけ残して、身だけ剥がれる。
上の瞼が下がってきて見えない。目の前も暗くなる。
どんなに食いしばっていても顎が開きます。
艦爆は6G、7Gかかる。ブラックアウトですね。
飛行機乗りの中でも肺や心臓が強くないと乗れない。
 
1000メートルぐらいで引き起こしたものはみな落とされたと聞きました。
1000で引き起こすということは650-700メートルぐらいで艦隊上空を
通過します。これは最も狙い撃ちされる。
同じ速度でも高いところでは敵も照準しやすいでしょう。
 
先輩方はほとんど落とされて帰ってこない。
結果的に私は帰ってきた。
 
◆離脱
 
海面スレスレで引き起したら今度はカウルフラップを開けます。
絞っていたエンジンを全開にしてグアーっと離脱します。
 
最初に申し上げた通り、ここでカウルフラップ開けるのを
よく忘れるんですよ。敵機に追いかけられると
逃げるのに精いっぱいで。
 
私もグラマンによく追いかけられました。待ち構えているように。
ですが、彗星は速かった。戦闘機よりも。
 
飛行機の速度と重力による落下速度をプラスしますから、
降りてエンジンを全開にするとグラマンがなんぼ早くても追い付けないんです。
彗星の最高速度は公称値は280ノットですが、300ノットは出ます。
追いかけてきたグラマンが300ノット出したら空中分解しますよ。
 
後に彩雲というもっと速い飛行機が開発されましたが
彗星艦爆とは構造がちがう。彗星はGに耐えられる。
彩雲は空中分解しましたね。「彩雲がどこどこで空中分解した」と情報が入る。
 
ゼロ戦は3G以上で空中分解しますよ。
それで30度のダイブしかできない。60度でダイブしたら一発ですよ。
ブレーキもついてない。落下していたら、エンジンなんぼスローでも
ゼロ戦は加速し続けますから。そもそも零戦が艦爆のマネしたから駄目なんです。
 
帰ってきたら10発ほど機体に撃ちこまれていました。
 
レイテ、オルモック、リンガエン、台湾沖航空戦と参加して
台湾沖では60名のうち40名が戦死しました。
戦果華々しくが報道されましたが、我々は最低だと思いました。
 
どうせ死ぬなら、行くときは何も思わない。
帰ってきてから「ああ、生きとった」と思います。
  
つづく

彗星パイロット大野徳兵衛さんのお話し(2)彗星との出会い

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◆九九艦爆と急降下爆撃機隊

 
艦爆いうたらハワイで活躍した。 九九艦爆がありますね。
ゼロ戦の搭乗員が、ハワイで九九艦爆が急降下するのを見て涙が
出たと言っておりました。その位勇ましかった。
 
飛行機の中で艦爆が一番過酷なんですよ。頭が下がりますよ。
実際艦爆乗ってる同僚の見たら感激するぐらいですから。
 
岩国で九九艦爆に乗って、空母「隼鷹」着艦訓練。
我々は四航戦で、伊勢、日向、隼鷹、飛鷹、龍鳳の各艦で
編成されていました。
 
豊後水道で全速力で走る隼鷹に 一点着艦(タッチアンドゴー)の訓練を
行いました。 3ヶ月、九九艦爆に乗って、それ以降は彗星に機種を変えました。
 
彗星は九九艦爆に比べて胴体が細くてスマートでした。
これはスピードが出ると思いました。
 
◆彗星艦上爆撃機 
 
彗星の搭乗員は殆ど戦死しています。
一番確実に敵をやっつけたのが艦爆ですからね。
 
彗星は靖国神社の遊就館にありますが、私はあれ見て 涙が出ました。
あの飛行機はイミテーションでなく 実物に近いです。
あちこち補修してますがね。
 
彗星は性能が良くて、ユンカース以上に良いと評判で
その通り非常にスピードが速い。 P-38とかシコルスキー、グラマンが
追いかけても さっさと逃げる事の出来るスピードがありました。
 
公称としては280ノット、事実戦争では 300ノット以上(時速555キロ)出しました。
どうせ落とされるなら 飛行機が壊れるぐらいまで走れと言いました。
 
◆彗星との出会い
 
私は当初、ゼロ戦と、当初15試陸爆と呼んでおりました
「銀河」を志願したんですが、両方はねられて、艦爆へ行ったんです。
 
それまでは徳島で3ヶ月教員しており、
辞令で第634海軍航空隊に転勤して艦爆に乗れと言われました。
 
ペアと一緒に駅から岩国の飛行場まで、田んぼの畦道歩いていましたら
遠くの空でキラっと光るものを見たんです。 次がまたキラっと光る。
「え?」と思っていると、 1分間ほど息せずに、急降下。
 
エンジンスローでまったく音しない。
それが今度、引き起こしでエンジン全開で我々の真上を
ブワーっと通り過ぎて行くんですよ。物凄い爆音。
 
「あお、あれが彗星やなあ、はじめて彗星を見た。怖い怖い!」
 
「あんなん乗せられるのか!?」
 
 正直、殺される!と思いましたね。足がすくみました。
それが彗星との出会いでした。
 
◆戦歴
私は艦船爆撃を7回、飛行場爆撃を1回、 艦船爆撃はその都度被弾して、
全部帰ってきました。 二回ほど燃料のメインタンク撃ち抜かれたけど
燃えずに白い霧が出ただけでした。
 
10回不時着しました。
索敵は数えきれないほど飛びました。
 
そして 特攻隊「神崎隊」隊長に任命されましたが
飛行直前で敵機が来襲して飛行機を燃やされてしまい
今、こうして生きています。
 
彗星は二人乗りでして、岩国で初めて彗星に乗って
からフィリピンの激戦までペアとは最後の飛行まで
ずっと一緒でした。 最後は、私はデング熱を患って、
空輸の飛行機に 乗り遅れたんですが、
ペアはその飛行機に乗って行って、 墜落戦死しました。
 
つづく

彗星パイロット大野徳兵衛さんのお話し(1)

Suisei2
 
今回は彗星艦爆パイロットの
大野徳兵衛さんのお話しを伺いました。
大野さんは大正15年生まれ。神戸市出身。
 
昭和17年10月、第11期甲種飛行予科練習生
昭和18年4月、第35期飛行練習生。 昭和19年3月、徳島海軍航空隊教員
昭和19年5月、第634海軍航空隊配属。岩国で3ヶ月のち フィリピン戦線へ。
レイテ、オルモック、リンガエン、台湾沖航空戦で
急降下爆撃7回。いずれも被弾しつつ生還。 不時着10回。
 
昭和19年11月、第701海軍航空隊、761海軍航空隊、第763海軍航空隊所属。
昭和19年11月、特別攻撃隊「神崎隊」隊長。出撃直前に空襲にて発進中止。
戦地にて黒水熱発症、入院中、終戦を迎える。
 
以下、大野さんのお話し
  
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戦争の話だけはしたくないんですよ。
話したことまったくなかった。
 
うちの息子も娘も今まで全然戦争の話はしなかった。
「え?お父さん飛行機のっとった?」
と言います。
 
ここ最近ですね。話せるようになったのは。
 
私、昭和20年の2月頃から戦地で入院して
終戦まで戦争してないでしょう。レイテでも苦戦したけど一番、
非常に辛い、飛行機乗りが一番死んだ時期に私は参戦してない。
それが後ろめたくて。
 
昭和19年当時、私は17歳(満年齢)でした。 私の青春は戦争でした。
いや、青春なんてなかった。
 
ですけれどね、今の若い人を見て、女の子と遊んでるのを見て
いいもんやなあ、とか、うらやましいとか、悔しいとか、
そういった気持ちは全く、これっぽっちもありません。 逆ですね。
 
貴重な青春をお国の為に尽くすことができた。
こんなに有難い事ありませんよ。誇りです。
 
20歳で死んだ命を偶然、拾って 今年、91歳ですよ。
長生きさせてもらってます。
 
喫茶店にでも行きましょうか。 そこでゆっくりお話しさせてもらいます。
 
つづく

2017年7月13日 (木)

絶望と希望と

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昭和44年(1969年)7月、アポロ11号が月面に着陸。
ニール・アームストロングは左足を月面に踏み出した。
人類史上、最もメジャーなニュースである。 
 
表向きは明るい宇宙開発競争だが、それは米ソ東西冷戦の歴史と
表裏一体だったし、
人類を月まで送り届けた「サターンV」ロケットの開発者は
元ナチス・ドイツの科学者フォンブラウンである。
フォンブラウンは大戦中、ロンドンを壊滅に追い込む世界初の弾道ミサイル
「V2」ロケットを完成させている。フォンブラウンは
ドイツ降伏の年、アメリカに亡命してロケットの平和利用の
研究を続けていた。
 
戦争は有能な人物の、あらゆる可能性を奪っていた。
 
日本では三木忠直技術少佐がロケット特攻機「桜花」を作っている。
三木少佐は新幹線の開発者で余りにも有名だ。
 
さて、アポロ11号の月面着陸は
日本でもテレビ報道された。
 
そのテレビを熱心に見つめる日本人が居た。
元陸軍パイロットで、戦後は航空自衛隊戦闘機パイロットになった
稲田淳美である。
 
稲田はこのアポロ11号のニュースを見て上官の竹田に言った。
 
「隊長ーー!もし日本が月に行くことになったら
真っ先に私を指名してくださいよ」
 
この時代、自衛官と言っただけで石を投げられ、
タクシーには乗車を拒否され、散々だった。けれど
そんなときでも、ここの者たちは日本の将来に目を輝かせていた。
 
日本人の底力をもってすれば、月よりももっと遠くへだって
飛んで行けると信じていた。 
 
稲田淳美はブルーインパルス二代目の隊長となる。
日本空軍復活のシンボルとなるのである。
 
ブルーインパルスは長澤賢が団司令の目を盗んで
低空背面飛行を披露したことに始まり、
今日に至るが、長澤が礎を築き上げ、実質的に
航空祭でお披露目される頃には稲田が隊長を務めていた。
 
ブルーインパルスで旧軍の出身者は
長澤賢(陸士58期)、稲田淳美(陸士59期)
加藤松夫(海兵74期)、西光(海兵75期/のち殉職)
の四名である。
 
ブルーインパルスのひく雲に
誰もが、わが国の復活復興を感じていた!
 

 
航空自衛隊黎明期を支えたのは、こうした旧陸海軍出身者が
多いが、誘いを断って故郷に残った者も居る。
 
岩崎陸軍大尉(航士55期)はフィリピン戦線において
百式司令部偵察機で活躍していた。
あのとき空から見下ろした戦艦大和も今はもうない。
 
復員したあの日、汽車は故郷の駅に昼間の早い時間に
到着した。
 
実家の母のもとには既に戦死の報せが届いていた。
兄弟もみな戦死していた。自分も死んでことになっている筈だ。
このまま帰っていいのか。
 
岩崎は戦争に負けたことが
恥ずかしくて、情けなくて、駅舎で夜になるのを待って
近所の目を避けながら、暗い道をトボトボと帰った。
 
家に着いて、台所の扉をガラリと開けると
そこには母がいた。死んだはずの息子との再会だった。
 
明治生まれの厳しい母が涙を流して
駆け寄って抱きしめた。
  
戦後、日本空軍再建のしらせと誘いを受けた岩崎は
二つ返事で行きたかったが、
貧しい貧しい時代、こんなチャンスはなかったが、
母をひとり残していく事が、どうしてもできなかった。
 
母にとってはたった一人、生き残った息子だった。
岩崎は母と一緒に故郷で農業を営み、国の再建に尽くした。
戦友のことを忘れた日はなかった。 
 
「若い良い男が戦争でみんな死んだ・・・みんないい男でしたよ。
 その男たちの事を、毎日思い出しています」
 
戦争は全てを奪い、日本を荒廃させた。
それでも将来日本のため、戦後頑張り続けた人たちのことを
そして、こういう人たちを将来の日本に残すため、自らは戦争で
犠牲となった人たちのことを、少しずつ書いていきたい。

大刀洗駅(たちあらいえき)

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ライリイ大尉の記事
を書くために
T-33(ジェット練習機)の画像を購入したのですが
自分でも撮影したものがありました。
 
ここは甘木鉄道甘木線の大刀洗駅です。
 
駅とカフェが併設されていて、屋根の上にT-33が乗っかっています。
可愛らしくて、ユニークな建物。
駅を降りてすぐ、道路を挟んだ反対側が
大刀洗平和祈念館です。
 
福岡観光情報
大刀洗レトロステーション

2017年7月11日 (火)

ジョー・ライリイ大尉の話

 
米国空軍戦闘機パイロット、ジョー・ライリイ大尉。
大尉は、日本空軍再建に最も尽くした人物といっても
言い過ぎではない。 
 
朝鮮戦争帰りの、ライリイ大尉は
そのまま日本でゼット戦闘機の教官として着任した。
(当時はジェット機をゼット機と呼んだ) 
 
ライリイ大尉は小柄であったが朝鮮戦争で捕虜になるより
白兵戦に備え、飛行服に
拳銃を二丁忍ばせていた、という逸話を持つ。
 
昭和31年の浜松。
格納庫の屋根は戦争中の爆撃で穴が開いたまま、
浜松の飛行場は吹きさらしで
プレハブ小屋が一軒だけ建っているような状態だった。

A4▲昭和30-32年頃の浜松基地。関係者より拝借。
 
大の親日家であったライリイ大尉は
ブロンドヘアの妻と愛犬を連れて、この
荒野のような、殺風景な浜松にやってきた。
 
ライリイ大尉は日本人パイロットに対しては
特に計器飛行を熱心に指導した。
 
それまでの旧軍の戦闘機「飛燕」とか「零戦」も計器は積んでいたが
当時の概念としては補助的なもので、
低い雲や悪天候、夜間の発着は大変なリスクが伴った。
 
計器飛行はこうした悪天候で視界が確保できない状況でも
人間の目でなく、計器をメインに安全に離着陸や飛行が可能となる、
現在では当たり前となった航法である。
 
ライリイ大尉は勤務時間は教官として任務をこなし、
時間外は研究のために飛んでいた。土日も飛んだ。
休みなしで飛んだ。
 
日本人も、皆、休みなしで飛ぶので事故が多発した。
源田実が、この状況を危惧し飛行時間の制限を決めたのが
昭和32年以降だった。
 
立て続けに
指宿正信二佐、小林照彦二佐、中村博二佐、の三名が殉職していた。
指宿二佐、小林二佐の事故のことは以前ブログで書いた。
 
元海軍パイロットの中村博二佐は射撃が特に抜群だったことで名を
馳せていた。事故は昭和32年6月20日、夜間計器飛行訓練中、
日向灘に墜落して殉職。
中村二佐は、このとき十分な高度があり、ベイルアウト(緊急脱出)に
成功したと言われているが、当時、満足なライフジャケットを身に
つけていなかったため直接の死亡原因は凍死だという。
 
ライフジャケットはあるにはあったのだが、数が揃わず
それでも良いから、と、飛んでいたのである。
 
これは、現代において考えてみれば
無謀とか危機管理とか、そういう話になってしまうのだが
当時の考えは全然違う。 
 
当時のパイロットは誰もが
一日も早い、日本空軍の再建を目指して
犠牲覚悟で飛んでいた、ということを、忘れてはならない。
気概をみんな持っていた。現在とは全然違うのだから。
 
このとき、F86Fのパイロットであった竹田五郎氏は
「事故があっても、屍を乗り越えて行く、
戦争中のような気持ちだった」と回想する。
 
ライリイ大尉は、そうした日本人パイロットとともに
命は軽いが、尊いものを背負って、飛んでいた。
 
大尉は本当に、飛行機に乗るために生まれてきたような人だった。
飛行機に対する探究心は尽きることが無かった。
それらの技術や経験を、日本人パイロットに惜しむことなく
教え込んだ。
 
自らも何事も思いついたら
やってみないと、気が済まない大尉だった。
燃料タンクが空になっても飛んで周りをヒヤヒヤさせた。
 
訓練中、燃料ゲージの限界の規定値に達すると
通常、パイロットは
「ミニマム・フューエル」(燃料僅か)をコールし
速やかに着陸しなければならない。
 
ライリイ大尉は、ミニマムフューエルをコールした後も
ふたたびスロットルを全開にして、もう一飛びしていた。
 
特筆すべきエピソードとして
琵琶湖上空から、入間まで滑空を試したことがある。
高度が下がりたため、浜松へ不時着した。
 
ライリイ大尉と日本人パイロットの間には
絶対的な信頼関係と、固い友情が存在した。
 
ライリイ大尉とお互い尊敬していたのが
ブルーインパルス発案者で初代隊長の長沢賢であった。
 
どちらも天才的技量のパイロットであったことは
間違いないが、飛行スタイルが異なる。ライリイ大尉はどちらかと言えば
飛行の研究に重点を置いて、
長沢賢は、後に、団司令の目を盗んで、松尾とともに
F86F戦闘機2機で勝手にアクロバット飛行を始める。 
2機で超低空でスローロールを行ったあと、日本初の
背面飛行を披露した。この話はまた後で書くことにして
ライリイ大尉の話に戻る。
 
ライリイ大尉が殉職したのは
昭和31年9月29日だった。
T-33複座戦闘機で連絡飛行中
ジョンソン基地(現在の呼び名は入間)基地に墜落した。
 
ライリイ大尉の話はどの本にも載っていないが、
大尉の残した功績は大きい。
きっと航空自衛隊の現在に確実に受け継がれているであろう。
 
いつか、誰かが見つけてくれることを信じて
ここに記す。

2017年7月 8日 (土)

頑張れ!誇り高き日本の企業戦士

以前、韓国人の友達が居た。
  
彼の名前はドンちゃん。
大森南朋に似ている。
彼とはよく酒を飲みに行った。
 
そこでいろいろと
韓国の話を聞かせてもらった。
 
ドンちゃんは穏やかで優しい人だった。
たくさん韓国の話を聞かせてもらって楽しかった。
中でも印象に残っているのは
 
「日本の女性はとってもやさしいよ!
こんなに優しい女性は世界中探しても日本だけだよ!
だからー、日本人の男はもっともっと女性に優しくしないと
いけないですよ!そうしないと、みんな韓国人の男に
取られてしまうよ!」
 
日本人女性は大モテだという話。
何度聞いたことか。
 

 
彼は日本の企業に勤めていた。
もちろんボスも日本人。日本人ばかりの中で
韓国人はドンちゃん一人だったけど、彼は日本語もペラペラだったし
日本人社会の中に溶け込んでいるように見えた。
 
だけど、日本企業はハードだ。ドンちゃんは
時折、仕事がハードすぎて辛いと、漏らしていた。
もしかしたらブラック企業だったのかも。
 
そんなこんなで、なんとかドンちゃんは頑張っていたのだけれど
ある日突然、彼は失踪する。そのまま
行方がわからず、それっきりになった。
風の噂では日本の仕事がきつくて、韓国に帰ったのだと聞いた。
 
伝え聞いた話だが、彼が失踪する直前のことだった。
長時間労働と休み無しですっかり疲れ切った彼が
死んだような目で同僚に、次のように言ったそうだ。
生涯忘れられない一言だった。
 
「徴兵より辛い・・・・」
 
そんなにきついのか。日本の会社は。
ご存知の通り、韓国は徴兵制で二年間の兵役が
義務化されている。
 
韓国の徴兵制については
こちらのサイトが見やすくてわかりやすい。
https://www.konest.com/contents/korean_life_detail.html?id=557
   
軍隊より辛く厳しい、日本の企業戦士、
こうしている間も、日本のどこかで頑張り続けている!
 
ありがとうございます。そして、お疲れ様です。 
 
そして
ドンちゃん、大丈夫かな。幸せでいますように。

2017年7月 3日 (月)

空白の航空自衛隊黎明期を埋めて行く

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今日は竹田五郎元統合幕僚長にブルーインパルス
創設当時のお話しを伺いました。

もちろん飛燕時代のお話しも伺いました。
 
今後も定期的に取材を重ね、空白の航空自衛隊黎明期を
埋めて行く作業を続けて参ります。

四宮徹中尉の思い出1

震天制空隊のニュースが連日、新聞で報道されていた。
 
震天制空隊はB-29に体当たりを敢行する目的で、
成増、調布等の戦闘機隊の一部をもって
編成された空対空の特攻隊である。
 
震天制空隊で代表的な存在が244戦隊の四宮徹中尉である。
四宮中尉はB-29に体当たりし、片翼で帰還したことで
一躍、世に知れ渡ることとなり、愛機飛燕は日比谷の百貨店に展示された。
 
昭和20年、調布飛行場。飛行機好きのK少年は
元々住んでいた神田神保町が空襲で焼け、西立川へ疎開してきた。
調布飛行場が近所だった。
 
飛行場のフェンスは目隠しがしてあって、外からは
見えない。B-29の偵察では丸見えだと言うのに、
わが国民に見せてくれないと言うのも
おかしな話だ、と少年は考えていた。
 
その頃は、どういう訳か知らないけれど、少年が
「特攻隊に行きま-す!」と営門で敬礼すれば
調布飛行場の中へ入れたという。
 
整備員が、ニュース写真では塗りつぶされていた
独立飛行隊の九九式軽爆の
ダイブブレーキを見せてくれて写真まで
撮らせてくれた。
 
隊員とのエピソードは数多くあるが
この日も、調布飛行場にカメラを持って堂々と立ち入り
歩いていたときだった。
向こうから、ニュースで見覚えのある顔がこちらへ近寄ってくる。
 
丸顔で童顔の四宮徹中尉である。
 
少年はここぞとばかり、気持ちに勢いをつけて
 
「有名な四宮さんですよね!!」
 
と声をかけた。
どちらかというと寡黙なタイプの四宮中尉は
 
「そんなに有名じゃないよ。俺は」
 
穏やかに一言だけ、答えると、通りすぎようとした。
少年はカメラを持ったまま、四宮中尉の後を
追いかけるのであった。
 
つづく

2017年7月 1日 (土)

潜水艦のお話し

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海上自衛隊の公報さんとお話しする機会があり、
経歴を伺うと、 平成初期から海上自衛隊で潜水艦に10年間も
勤務されていたそうです。
  
潜水艦の生活を支障の無い範囲を書かせてもらいます。
 
潜水艦さん
「潜水艦一隻のクルーは80名で兵科ごとに4個分隊に別れています。
24時間三交代制で、艦内は狭いので、邪魔にならないよう
用が無ければ寝ていろと
言われています」
 
潜水艦は大きい 

潜水艦さん
「まず、潜水艦は大きいということ。
水面に姿を現しているのは三分の一程度に過ぎません。
氷山の一角です。 巨大なので入れる港が
限られています、 護衛艦が入港可能な港と
単純比較して水深が2倍は無いと 寄港できません。 
基本的には、呉と横須賀の二カ所です」
 
基本的に浮上しない

潜水艦さん
「一度出港すると、潜航を続け、帰港するまで
浮上する機会はありません」
 
篠原
「映画でよく見る、たまにハッチを空けて順番に外の空気を
吸わせてくれるんでしょう?」
 
潜水艦さん
「いやいや、そんなサービス無いです。基本的に潜りっぱなしですね
見つかってしまいますから。
横須賀を出港して浦賀水道を出たら、帰ってくるまで浮上はしません」

 
潜水艦は船酔いしない
 
潜水艦さん

「水上の艦艇と違うのは、食器やコップを普通にテーブルの
上に置いて食事が出来ることです。このような水の入ったコップも
置いたまま、地上に居る生活と変わりません。潜ったら本当に
静かだということです。嵐でも、潜ってしまえば、影響はありません」
 
だから、帰港前に浮上して揺れると
みんなダメ(船酔い)になってますね(笑) 
それも護衛艦の揺れ方と違ってクセがあるんですよ」

篠原
「潜水艦の映画で、定番なのは、ネズミが住んでいると
その艦は幸運艦で、絶対に沈まないという、言い伝えが
ありますけど、現代の潜水艦でもネズミは居るんですか」
  
潜水艦さん
「いやいいや、それはありえません。もし居たら衛生的に
大問題になりますね」
 
篠原「そうすると、艦内はとても衛生的なんですね」
 
潜水艦さん
「衛生的・・・いやー、どうでしょう。
水が使えないので、洗濯は一切できませんから」
  
日本の潜水艦は静か
 
潜水艦さん
「日本の潜水艦は静かなので、ほとんど見つかることはありません。
P3C対潜哨戒機との訓練では、あらかじめ、索敵範囲が円で囲ってあって
決められているので、答えを教えているようなものですね。
ソノブイが投下されると、だんだん音が近づいてきます。これが実戦で
広大な海ではまず発見は無理でしょう」
 
「面倒くさいのは、水上艦艇や対潜水艦の訓練ですね。
絶対に音をたててはいけないから、訓練が終わるまでは
仕事が無ければ寝ているか、音をたてないように行動します。
 
ダメージコントロール
 
潜水艦さん
「潜水艦勤務が決まると、まず最初に覚えることは
艦内を伝っているパイプや配線の全てを
把握することです。
 
方眼用紙を渡されて、艦内に配線やパイプをプロットさせて
図を描かされます。これは持ち場がどこであろうと
潜水艦乗組員なら全員できなければなりません。
 
万が一に備えて、どの配線がどこに繋がっているか
知っておかなければいけない。命令があれば
すぐに自分の近くの配線を繋ぎあわせることができます」
 
潜水艦の操舵
 
潜水艦さん
「一応、操舵もやるのですけど
教官は最初は何も言わないんですよ。
潜水艦の舵はちょっと押し込むだけで
艦首が物凄く突っ込む。何かに捕まってないと
廊下をどこまでも滑って行ってしまう。
教官はそれを黙っているもんだから
慣れないものが操舵をすると、みんな滑っていってしまう」
 
潜水艦乗りになるには
 
篠原
「潜水艦乗りになるにはどうしたらいいんですか」
 
潜水艦さん
「私は最初から潜水艦を志望したのではありませんでした。
上官から適正の試験を受けろと言われて、それを受けたら
潜水艦乗りの適正があるとわかり、それを家族に話したら
『せっかく自衛隊に入ったのだから、他では体験できない部署へ
行け』と言われて、それで決めました。潜水艦の適正に合格すると
今度は航空機の適正(操縦以外)もあるから、そちらへ
行くこともあります」
 
篠原
「潜水艦で一番大変なことはなんですか」
 
潜水艦さん
「外の空気が吸えないことですね。艦内の空気は循環してますから。
勤務がおわって、帰ってくると空気が本当においしい」
 
-----------------
 
これといってオチがなくてごめんなさい。
覚えている限り、支障の無い範囲で書きました。
 
さて、
近年、隣国の航空母艦の脅威が話題となっておりますが
航空母艦の維持は湯水の如くお金がかかります。
 
航空母艦を一隻保有するには、セットで
護衛のイージス艦、護衛艦、そして水面下では
潜水艦が必要になります。
 
これだけの護衛を成しても
一隻の潜水艦が発射した魚雷で母艦を撃沈されるリスクは高く
 
日本の潜水艦は隠密性が極めて高いため
仮想敵国の航空母艦にとって、たった一隻の潜水艦が
最大の脅威となります。
 
目に見える形ではありませんが、潜水艦は
我が国からすれば最も有効な防衛手段であります。
 
潜水艦乗りの皆様、日々、見えないところで
大変な苦労をなさっています。ありがとうございます。
 
写真は呉市のからすこじま公園(日本唯一潜水艦の見える公園)です。

2017年6月30日 (金)

丸い虹が見たかった

 
「丸い虹を見てみたかったんですよ」
 
先日は彗星搭乗員の
田中三也さんが飛行機乗りを志願した理由を
お話ししてくださいました。
 
丸い虹というのは
極めて限られた気象条件下で見ることが出来る
ブロッケン現象のことです。
  
「普通、虹というのは付け根がありますね。それが
飛行機に乗ると、付け根の無い丸い虹が見られると、
伝え聞いていました」
 
「それで、見ることはできましたか?」
   
「一度だけ見ました。彗星で太平洋を飛んでいるときです。
機体の下は白い雲で、彗星を中心に丸い虹が出来て
それがいつまでも離れずに追ってくるんです。
感激しました」
 
戦争の話の合間でしたが
素敵なエピソードでした。
伝えきれないお話しがたくさんあります。

2017年6月27日 (火)

憧れのスマートフォン

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古い二つ折りの携帯電話を今でも使っています。
それが廃止になって、いよいよ
スマートフォンに交換しないといけないので、
 
スマートフォンの機械を買う前に本を読んで勉強しています。
OSはグーグル社のアンドロイドと、アップル社の
アイフォーンのふたつがシェアを占めているので
どちらかを覚えることになりそうです。
 
新しいOSやソフトの操作を覚えるとき、メーカー依存の
ヘルプやマニュアルを参照しても
説明してくれる用語自体がそもそもわからない、ということが
多く頭が痛くなるのですが、
 
こういう紙の本は、初心者にも
とてもやさしく書いてあって、ありがたいです。
わからない人の気持ちを理解してくれている。

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とりあえず、未契約で機械だけ購入したタブレットが
手元にあるのでそれで、購入前の予行練習をしています。
まずはwi-fiの接続方法を覚えました。
そこから今度は好きなアプリ(ソフト)を
ダウンロードするのですが
 
パソコン操作でいうところの
右クリック(タップ)の方法がわからない!困った!
ですが、なんとか調べて
フォルダ分けや削除、コピーの方法を覚えました。 
まだまだ、遅いですけれど、練習をしていきます。
 
スマートフォンの販売店に見学に行ったら
雑誌も読み放題で無料のドリンクがあってびっくりしました。

2017年6月26日 (月)

小林照彦一佐の事故と妻たちの航空自衛隊黎明期

7人の侍のおひとりの、奥様の話を少し書きます。
航空自衛隊の黎明期です。
  
「私が主人と結婚したのが17歳のときでした。
当時は半年間だけでも結婚生活できれば良いと
本当に、そう思っていました。
 
昭和20年に主人は銀河隊の飛行隊長で
特攻を命じられました。
銀河に魚雷を抱いて特攻を。
実際に訓練で同じ攻撃方法を試してみて
それが無謀な作戦だとわかったので、上官に言ったんです。
そして、保留になって、終戦を迎えました。
 
戦後は航空自衛隊へ。
当時(昭和30年-31年)は自衛官だと言うと
石をぶつけられるような時代でしたから、とても
余所の方には言えませんでした。
「ご主人の職業は」と尋ねられると、「公務員です」と
答えていました。
 
事故が多かったんです。
毎月毎週のように事故があって。
あれは浜松に居た昭和31、2年
 
私たちの目の前でジェット機が墜落したんです。
宿舎が近いので、パイロットの奥様方と一緒に
居りまして、それが誰の飛行機なのか
真っ青になりました。それがアメリカ軍の飛行機だとわかって。
 
昭和32年、小林照彦さんが亡くなったとき、
私は小林さんの奥様 ※(小林千恵子さん『ひこうぐも』の著者)
と一緒に居たんです。
 
報せに来たのが武藤さんという方で
もうそのときは亡くなっていたのですけど
ショックを受けるといけないからと、そのときは
「ご主人が怪我をしたから来てください」
と言ったんです。
 
私も小林さんの奥様の付き添って参りました。
奥様は亡くなったご主人と対面されて、
 
私は奥様を気遣うようで、
本音を申し上げると、次こそ、自分の主人の番じゃないかと、
本当に怖かったんです。
 
多くの方が亡くなって、主人は生き残って
定年まで。もう本当に、当時は考えもしなかった。
ありがたいことです」
 
この事故については、同じく7人の侍の竹田氏は次のように
語っている。
 
「本当は、あの飛行機には私が乗る予定だったんです。
あの日はT-33で吹き流し曳航して射撃の訓練を行う予定でした。
私は目の治療かなんかで、急に小林さんと勤務を代わってもらったんです」
 
小林一佐・天野二佐の事故
昭和32年6月4日、浜松基地において
 
小林照彦一佐(東京都出身・元飛燕・244戦隊長)
第1航空団所属T-33A、離陸時機体不調。出力と高度が上がらず
低空でベイルアウト試みるも殉職。
 
天野裕二佐(新潟県出身)
小林機に同乗。殉職。

2017年6月25日 (日)

雨の日が楽しくなる曲

 
『Swing the Rain』
同タイトルのミュージカル映画主題歌。
雨と言えば、世界で最も有名な曲。
雨の日をこんなに楽しく過ごせるBGMを、この他に私は知らない。
 
 

 
『Rain / 秦基博』
日本のアニメ「言の葉の庭」から
新海誠作品。「君の名は」が大ヒットしたけれど
こちらの作品はそれよりも背景が細かく描き込まれていて美しい。
曲もいいけど絵が綺麗。

『かえるのうた』
誰もが知る童謡のアレンジ。ピアノソロ。
様々なアレンジが楽しめる童謡がしっとり美しい曲に。

2017年6月24日 (土)

オオルリ

Aa

ロゴを更新しました。
 
栃木県の県鳥でもある
オオルリ(大瑠璃)をイメージしました。

2017年6月23日 (金)

J-Wings 8月号掲載

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私の独断と猛プッシュにより、推進してきました
蒼月遥ちゃん(ブルーホーネット応援の萌えキャラ)企画ですが
お陰様で航空誌『J-wings』8月号に掲載して頂きました。
全国書店にて発売中です。ぜひ、お手に取ってご覧ください。

2017年6月22日 (木)

新幹線運休の報道

昨夜の大雨の影響で新幹線が運休または大幅な
遅延が出てニュースとなっている。
原因は架線の不具合による停電だったが
どこのニュースでも足止めを余儀なくされた乗客を捕まえて
  
「困った」「うんざりした」「ひどく疲れた」
「迷惑だった」「徹夜で仕事に向かわねばならない」
 
などとコメントを報じている。  
 
極めつけは朝日新聞の報じた
 
「もう新幹線を嫌いになった」
 
との乗客のコメントである。
 
遅延した最後の列車が博多駅に到着したのは午前4時半だった。
しかし、新幹線は全線で6時の始発から平常運転を再開した。
これは神業と言っても言い過ぎではない。
 
ニュースが伝えるのは、乗客が迷惑した事のみで
同様に徹夜の作業となった、保線に従事する作業員や
駅員の苦労は一切、報じない。
日本の鉄道は世界一正確で安全だが
何事もなく動いているときは、その有難味は感じないのだろう。 
 
豊かになった我が国の根本的な欠陥はここにあるのだろう
と普段から感じている。
 
新幹線で窓際に座って飲むコーヒーは何にも代えがたい
格別なものだ。富士山を眺めながら時速200キロで景色は流れて行く。
あのコーヒーは一杯1万円とったっていいと私は思う。
 
どれだけの乗客が、コーヒーがこぼれない理由を
考えたことがあるだろうか、その技術を根底から支える
日本の技術屋、職人の魂がそこには目に見えない形で
確かに存在する。
 
こうした技術屋や作業員、駅員の方々に
感謝の心を持ち、敬意を払うことを
我々日本人はすっかり忘れてしまった。
新幹線が定刻通り走るのは当たり前じゃない。
 
私は以前、電気工事の仕事をしていた。
電気工事といっても多様だが、私はシーケンス屋だった。
日産自動車の大工場で、ベルトコンベアーやロボットを
動かすための電線を引いたり、それを動かすラダー図を
コンピューターで作製していた。ソフトからハードまで全部やった。
鋳造工場では、グラグラとマグマのように溶けた真っ赤な鉄を
入れた鍋がすぐ近くを通過して地獄のような暑さだった。
 
ここで働いていた時、
社長からポツリと言われたもっとも印象的な一言がある。
  
「いつか飛行機の落ちる時代が来る」
 
理由は簡単で少子高齢化で優秀な技術者が減ってしまう。
伝承者も少ないという危惧からである。これは現場で痛烈に感じた。
 
社長のパソコンの待ち受け画面はマチュピチュの遺跡で
「いつか引退したら妻や家族を連れて行きたい」
とニコニコしながら常々言っていた。
でも、社長が引退できる日は現実的に考えられなかった。
人員不足でほとんど休みはなかった。
  
私はリニア中央新幹線なんて大反対である。
造るまでは良いだろう。だけれども維持管理はどうする。
アルプスを貫く長大なトンネルを、一体誰が面倒を見るのか。
 
トンネル外壁の一部が剥がれおちただけで、
責任がなんたらと、報道が騒ぐだけ、それは目に見えている。
もう明らかな人手不足としか言えない。
 
今後、50年60年先の見通しがあるのか。
 
話を少し戻して、私は日産の工場で
日産のフラッグシップである、フェアレディZを
製造するロボットのメンテナンスを行っていた。
 
だから、街を走るフェアレディZを見かけると
自分が関わったことだから、少し嬉しかったし誇りに感じた。
仕事のやりがいとはこのようなものかと思った。
 
就職難と言われて久しいが、実のところ求人率は
バブル期に次いで二番目で
仕事は選ばなければたくさんある。
 
終戦の焼け野原から、復興を遂げて世界第二位の経済大国に
成長している過程で
重厚長大(じゅうこうちょうだい)というものに
若者は憧れを持っていた。重厚長大とは
重く・厚く・長く・大きな製品を扱うことである。
こういった仕事がかっこよかったのだ。 
 
昨今はスマートで薄く、小型シンプルなものが
何でもかっこいいとされる。
お洒落なシアトル系カフェで、コーヒー片手に
タブレット端末を片手で操作するのがステイタスなのだ。
だけどそれを支えているのは誰なのか。
 
天才物理学者のアインシュタインは優れた哲学家でもあった。
アインシュタインは
「私は生まれ変わったら配管工になりたい」
そう言った。
 
日本の若い人たちは
こうした下支えをする技術職をやりたいと思わないのか。
誇りを感じないのか。
 
大自然相手に新幹線が運休しただけであまりに酷い報道。
そうした気持ちを助長させている気持がしてならない。
だから思うまま書いた。
 
どうか、新幹線を嫌いにならないで欲しい。

2017年6月20日 (火)

原宿駅

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原宿駅の改札前。
千駄ヶ谷の小学生が書いたレポートが掲示されており
宮廷ホームについて書かれています。

宮廷ホームとは山手線で
代々木を出て原宿に向かう途中、左側に見えるホームのことです。

都会のド真ん中に突然出現する、殺風景な無人駅。
知らない人が初めて見ると
びっくりするかもしれません。
これはお召し列車が発着する
天皇陛下専用のホームです。
 
レポートにも記載があります通り、宮廷ホームは
大正14年に設置され、
合計30回使われました。
新幹線が開通してからは殆ど
陛下は新幹線を利用なさるので、
平成になってから使われたのは
6回です。
 
ん・・・・?下から二行目。
平成て・・・・??なんと!
先生は今上天皇という言葉を子供に教えてあげてください。
 
驚くべき事実、
原宿駅は多い時には一日20万人のお客さんが利用するそうです。
駅員の数は35人。単純計算すると、駅員さん一人あたりで
5,700人以上のお客さんの面倒を見てくれていることになります!
恐れ入ります!

2017年6月 8日 (木)

航空自衛隊7人の侍

 
昭和31年3月1日
日本空軍復活の日、はじめて築城基地で日本人パイロット操縦による
ジェット戦闘機F-86Fが飛んだ。この出来事が鮮明なニュース映像で残っている。
 
ニュース映像に写っているのは、右から
鈴木瞭五郎 二等空佐(海兵68期。攻撃第501飛行隊長等・終戦時大尉)
石川貫之 二等空佐(陸軍士官学校50期・246戦隊長等・終戦時少佐)
指宿正信 二等空佐(海兵65期赤城分隊長・横須賀空飛行隊長等・終戦時少佐)
調査中
  
※ニュース内では名前が紹介されていないので、篠原調べ。
  
戦時中、
指宿さんは「ゼロ戦」
石川さんは二式単戦「鍾馗」、鈴木さんは艦爆隊を経て「銀河」
等の飛行機を操縦していた、いずれも陸海軍のエースである。
 
昭和30年8月12日
F-86F高等操縦学生9名が米国に留学(31年2月26日帰国)
アメリカ人パイロットにF86Fの操縦技術を学んだ。
 
うち七人が第一期生として帰国し、「航空自衛隊七人の侍」と呼ばれた。
この、七人の侍が教官となり、
はじめて日本国内において日本人が日本人に操縦技術を指導することが
可能となった。現在に繋がる航空自衛隊戦闘機パイロット養成は
この七人の侍から派生していると言っても言い過ぎではない。 
 
航空自衛隊七人の侍
当初、渡米組は9名であったが
英語教育の進行が遅れた2名が若干、遅れての帰国となった。
9名のうち、調査で判明した7名をここに記す。
なお、この頁では、以下、帰国まで僅かの差であったことと、
同様に尽力された事実を考慮し9名全員を七人の侍として記載する。
 
◆石川貫之 二等空佐
陸軍士官学校50期、飛行第16戦隊-飛行第246戦隊長
軽爆から戦闘機転科、終戦時少佐。
 
◆指宿正信 二等空佐
海軍兵学校65期、戦闘機。
赤城分隊長-翔鶴分隊長-261空飛行隊長-201空-横須賀空飛行隊長
終戦時少佐
 
◆鈴木暸五郎 二等空佐
海軍士官学校68期、攻撃第501飛行隊長。艦爆。銀河等
終戦時大尉
 
◆桑原泰郎 三等空佐
陸軍士官学校54期
 
◆竹田五郎 三等空佐
陸軍航空士官学校55期、飛行第244戦隊先任飛行隊長
終戦時大尉
 
◆小松利光 三等空佐
陸軍航空士官学校56期
終戦時大尉
 
◆酒井史郎 一等空尉
海軍水上機出身
 
◆刈谷一等空尉
  
  
飛燕の小林照彦少佐や、加藤隼戦闘隊の黒江保彦少佐など
名立たるパイロットが航空自衛隊戦闘機パイロットとして
活躍するが、またこの後の話である。
 
なぜならば、当時見たことも無い、
「ジェット戦闘機」そのものの概念が、なかなか伝わらず
パイロット募集にほとんど人員が集まらなかったとされる。
 
私は、この七人の侍のうち、3名の親族にお会いすることができた。
お一人はご存命である。残り5人。
航空自衛隊七人の侍探しの旅は続く。
 
出典
『築城基地開設五十周年史』総務課記(104頁)
元空将前川國雄氏の記事(106頁)『自衛隊十年史』 (1961年)

2017年6月 7日 (水)

梅雨入り

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関東も梅雨入りが発表されましたね。

ペトリオットミサイル(PAC3)発射機見学

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航空自衛隊府中基地開庁60周年記念 オープンフェスタで
第1高射群(1st ADMG)所属の
ペトリオットミサイル(PAC3)発射機(LS)を見学。

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公式マスコットキャラクターのパックさん。
 
http://www.mod.go.jp/asdf/1admg/pac/index.html
航空自衛隊第1高射群公式ページによれば
四人家族らしい。ぜんぶ見たかった!

名前:パックさん 性別:男の子 職種:PAC-3搭乗員
祖父は、修行を重ねて「アジャックスの杖」を造る。
父は、その杖を束ねて「ハーキュリーズの杖」に作り替えた。
パックさんは、受け継いだ杖を伝説の「パックの杖」に鍛える旅を続けている。
※第一高射群公式ページより。

 

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航空自衛隊府中基地は現在、気象観測基地として日夜
航空機の安全に寄与している。なお、敷地は旧陸軍燃料廠跡。

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予科練平和祈念館の零戦

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茨城県阿見町の予科練平和祈念館へ再度、ゼロ戦を見に
行ってきました。
 
今日は日曜日で、朝から快晴だったので格納庫から
引き出してくれて
いました。これが見たかった!
飛行機の背景には青空が映える。零戦が屋外に展示
されているのは、全国でここだけです。

MRAP 市街地を走る


 
陸上自衛隊中央即応連隊所属のMRAP(ブッシュマスター)
装甲車。市街地を走る。我が国に存在するMRAPは
中央即応連隊に配備された4両のみ。

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宇都宮飛行場(北宇都宮駐屯地)

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宇都宮飛行場(北宇都宮駐屯地)滑走路北端。

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飛行訓練中のTH480B(ブルーホーネット)

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飛行場が一望できるカフェ「ソフトクリームカフェ」

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ヘリコプターってこんな動きができるんですね。ブルーホーネット
の知名度も上がってきました。先日のイベントではたくさんの
ご来場ありがとうございました! 

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2017年6月 3日 (土)

飛行第244戦隊歌(飛燕戦闘機隊々歌)航空自衛隊航空中央音楽隊演奏


YouTube: 飛行第244戦隊歌(飛燕戦闘機隊々歌)航空自衛隊航空中央音楽隊演奏

 
平成29年(2017)6月3日、航空自衛隊府中基地開庁60周年記念
オープンフェスタにおいて初めて演奏されました。
演奏/航空自衛隊航空中央音楽隊演奏
作曲/古関裕而、作詞/南郷茂宏(川崎航空機社員)
編曲/田中裕香三等空曹
特別協力/竹田五郎元大尉・元統合幕僚会議議長
楽曲再現/久保亜未、篠原直人
演奏までの経緯
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2017年5月31日 (水)

渋谷の大盛堂書店

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渋谷のスクランブル交差点の先にある
大盛堂書店。
 
創業者は船坂弘氏である。
 
船坂氏は
栃木県西方村(現在の栃木市)出身。
宇都宮五十九連隊第一大隊砲兵隊軍曹。
パラオ・アンガウル島玉砕戦の生還者。
アンガウル島の日本軍守備隊将兵1200名、玉砕戦で
生還した十数名のうちの一人である。
 
戦後は、この渋谷の一等地に大盛堂書店を開業し
書店の経営と並行して、多くの著書を残した。
 
船坂氏が残したかったもの、それは著書を読めば解る。
船坂氏は、著書の出版に際して、戦友遺族の家を一件一件
訪ねて回り、一人一人、漏れることなく、戦没者名を刻んでいった。 

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大盛堂書店は繁盛し、著書も売れた。
 
船坂氏はその資金で、アンガウル、ペリリュー、ガドブスの各島に
自費で慰霊碑を建立。そして今日に至る遺骨収集隊の先駆けとなった。
 
ところが、
戦争が終わって、誰が予想したであろう豊かな時代が訪れると、
人は欲深くなるのだろうか。
 
私心を捨てて、戦友の弔いに尽くす船坂氏とは対照的に
それを妬む者が現れた。

「本で大儲けして」 
「たかが軍曹のくせに」
「ペリリューの事など知らないくせに」
 
船坂氏はこんなバッシングにも負けず
生涯を戦友の慰霊に捧げた。
 
慰霊とは何か。まずは感謝と祈り
そして、誰がどこでどのように戦って死んだのか
記録に残すことではないだろうか。
 
船坂氏はまさにそれを戦後、貫き通した人物であった。
 
この話は本には載っていないけれど
船坂氏と、戦後の混乱期を
知る人物から取材して聞いて回った話だから
私は、少しだけならこうして書ける。 
 

大盛堂書店、今は船坂氏のご長男が経営されている。
 
スクランブル交差点を行き交う人の群れの中で、
こんなに人は多いけれど、
そんなことを考えているのは、たぶん私だけだろうと思う。

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渋谷の街は再開発が進んでいる。

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スペイン坂を上り切ったところに
A.D.2019とAKIRA金田のバイク。
西暦2019のネオ東京。
SFの世界もすぐそこか。
  
時代は過去から現在、未来へと繋がってゆく。
  

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関連エピソード
三島由紀夫と船坂弘の関孫六三本杉

2017年5月25日 (木)

ブルーホーネットグッズ

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5月28日、北宇都宮駐屯地にて
ブルーホーネットの展示飛行が行われます。
 
当日限定でいくつかグッズを用意しました。
ブルーホーネットTシャツ、ポストカード
防水ステッカー、クリアファイル等です。
いずれもキャラクターありと、機体のみの
両バージョンをご用意しました。
 
一日限りの限定品につき数があまり多くなく
売り切れの際はごめんなさい。
ぜひ会場にお越しくださいね。

2017年5月19日 (金)

航空自衛隊黎明期事故による殉職者

 
航空自衛隊黎明期に殉職され
その礎を築かれた方々のお名前を記します。
現在、航空自衛隊の黎明期を研究しており、何かお役に
立てればと検索データベースの作成に至りました。
 
航空自衛隊創設から昭和35年8月までですので
ブルーインパルス発足前となります。
 
左からお名前、階級※殉職後の特進階級です
事故発生日、出身地、事故の内容を記載しました。
 
----------------------- 
鈴木光・2尉・昭和29年9月26日・北海道
 
東海林迪夫・2曹・昭和30年8月8日・岩手県
第1操縦学校所属T-34、連絡飛行中京都府日向町に墜落
 
土田忠夫・1曹・昭和31年2月6日・宮崎
  
平塚勝・3佐・昭和31年6月26日・神奈川
第二操縦学校所属T-6訓練中松島で空中衝突
 
竹内慶文・3佐・昭和31年6月26日・茨城

 
中田弘正・2士・昭和31年7月28日・長野
 
宇野進・3佐・昭和31年8月16日・愛知
臨時築城派遣隊所属T-33A、連絡飛行中宮城県松島海上に墜落
  
三木琢磨・2佐・昭和31年9月29日・愛媛 三木琢磨大尉(海兵70期)
臨時築城派遣隊所属T-33A、離陸直後に墜落
 
玉利清治・防衛庁技官・昭和31年9月29日・鹿児島
上記臨時築城派遣隊所属T-33A機に同乗。
 
谷嶋広美・1曹・昭和31年11月2日・長崎
 
指宿正信・1佐・昭和32年1月9日・鹿児島(海兵65期)
第二航空団所属F-86F、2機訓練中接触天竜川河口と遠州灘に墜落
指宿二佐殉職、S空将補ベイルアウト成功
  
五日市芳武・士長・昭和32年2月19日・岩手
 
後藤守正・2佐・昭和32年3月4日・福岡
臨時美保派遣隊所属定期便C-46、美保飛行場着陸時海上に墜落
 
岩本繁明・2佐・昭和32年3月4日・熊本 岩本繁明大尉(航士54期)

 
吉井富男・1曹・昭和32年3月4日・栃木

 
野村久光・1曹・昭和32年3月4日・東京

 
入山芳夫・1曹・昭和32年3月4日・茨城

 
高野衛・2曹・昭和32年3月4日・茨城

 
丸山好行・2曹・昭和32年3月4日・東京

 
古渡清文・2曹・昭和32年3月4日・茨城

 
高橋唯清・2曹・昭和32年3月4日・長野

 
岩本勇・3曹・昭和32年3月4日・大分

 
近藤実・士長・昭和32年3月4日・島根

 
河井重友・防衛庁技官・昭和32年3月4日・岡山

 
小川光昭・1尉・昭和32年5月20日・大阪
第2航空団所属F-86F、千歳へ移駐の際、苫小牧および千歳付近に
各1機墜落
 
小林照彦・2佐・昭和32年6月4日・東京(飛燕・244戦隊長)
第1航空団所属T-33A、離陸時の事故によって
火災発生消失
 
天野裕・2佐・昭和32年6月4日・新潟
〃小林機に同乗
 
肱岡勝雄・3佐・昭和32年6月13日・鹿児島
第2航空団千歳派遣隊所属F-86F、計器飛行訓練中苫小牧北方に墜落
 
中村博・2佐・昭和32年6月20日・神奈川(海兵71期)
第1航空団所属F-86F、夜間訓練中天竜川河口南方海上に墜落
 
時任二三夫・士長・昭和32年7月30日・宮崎
 
松本力・2佐・昭和32年9月30日・福岡
臨時築城派遣隊所属T-33A、訓練中飛行場東方海上に墜落
 
佐藤正・3佐・昭和32年9月30日・大分

 
吉田誠一・2佐・昭和32年11月16日・東京
第一航空団所属F-86F、訓練中高松市松島埋立地に不時着大破消失
 
酒井康夫・3佐・昭和32年11月21日・京都
第一航空団所属F-86F、訓練中浜名湖南方海上に墜落
 
岡野武雄・3佐・昭和32年12月26日・福岡
第二操縦学校臨時松島訓練隊所属T-6、航法訓練中山口県岩国沖に墜落
 
西川尚信・1尉・昭和32年12月26日・広島

 
鶴井平・1曹・昭和33年3月13日・愛知
第一航空団所属F-86F、訓練中爆発天竜川河口に墜落
 
田代孝・3佐・昭和33年4月6日・和歌山
 
新川久三・士長・昭和33年4月13日・福島
 
半田要一・3佐・昭和33年5月21日・群馬
第一航空団所属F-86F、2機、訓練中接触尾鷲市南東海上に墜落(要確認)
 
上田雄二・2曹・昭和33年5月21日・熊本
第二操縦学校分校所属T-6、訓練中宮城県田尻町付近に墜落(要確認)
 
倉原正典・1士・昭和33年6月24日・大分
 
大田忠敏・1士・昭和33年7月11日・山口
 
加治佐稔・1士・昭和33年7月24日・鹿児島
 
猪原瑞夫・2曹・昭和33年10月23日・熊本
第二航空団所属F-86F、訓練中北海道島松演習場に墜落
 
山川稔・1尉・昭和33年12月10日・長崎
第二操縦学校所属T-6、訓練中福島県箕輪山に墜落
 
中村俊英・1曹・昭和33年12月10日・鹿児島

 
諸隅武夫・3曹・昭和33年12月11日・佐賀
 
村上忠敏・1尉・昭和34年1月2日・大分
 
高橋光雄・士長・昭和34年3月11日・秋田
 
藤原敏之・1尉・昭和34年5月4日・岡山
 
土井幸信・2曹・昭和34年5月19日・東京
第三操縦学校所属T-33A、訓練中築城飛行場外に墜落
 
今石琢造・1尉・昭和34年6月5日・福岡
第一航空団所属、F-86F、訓練中松島飛行場に墜落
 
桐原健男・1曹・昭和34年7月3日・宮崎
 
坂本誘・3曹・昭和34年7月3日・山口
 
弘川勝信・2曹・昭和34年7月22日・佐賀
第16飛行教育団所属T-33A、訓練中宇部沖に墜落
 
渡辺昶夫・3曹・昭和34年8月17日・栃木
 
山本哲夫・3曹・昭和34年9月5日・栃木
 
藤田明・士長・昭和34年9月26日・茨城
 
鶴田茂・1佐・昭和34年10月5日・鹿児島
第二航空団所属F-86F、2機、訓練中空中接触
によって三沢沖に墜落
 
山本秀成・3尉・昭和34年10月5日・鹿児島

 
脇信良・士長・昭和34年11月30日・鹿児島
 
白善誠一・1曹・昭和34年12月23日・京都
第一航空団所属F-86F、訓練中静岡県安倍郡山中に墜落
 
吉田博昭・1曹・昭和34年12月24日・新潟
第四航空団所属F-86F、訓練中金華山沖に墜落
 
井島直次・技官・昭和34年12月30日・静岡
 
木暮辰雄・1尉・昭和35年5月9日・群馬
 
平原良彦・2尉・昭和35年5月24日・鹿児島
第14飛行教育団所属T-6、夜間訓練飛行中海上に墜落
 
米谷哲雄・1尉・昭和35年6月29日・北海道
第一航空団所属F-86F、射撃訓練中熊野灘に墜落
 
鈴木義英・1尉・昭和35年8月4日・東京
第一航空団所属T-33A、訓練飛行中愛知県下に墜落
 
三崎義信・1曹・昭和35年8月16日・熊本
第一航空団所属F-86F、2機、編隊飛行訓練中
空中接触によって遠州灘に墜落

2017年5月16日 (火)

地獄の一丁目

宅配便の営業所へ行ったら
母の日の直前で大忙し。荷物がボックスからはみ出て
山積みになってました。

荷物が期日内に届かない可能性があるとのこと。
 
前のお客さんは「早く届かないと困る」と言ってましたが、

 
私は繁忙期に某宅配便屋さんの都道府県ベース店で
バイトしてたことがあるので
繁忙期の地獄のような忙しさはよく理解できます。
 
都道府県ベース店は最も規模の大きな物流拠点で
その都道府県に配られる全ての荷物が集められます。
そこからトラックで各市町村の営業所へ分配される仕組みです。
(市町村の営業所でも働いたことあります。同じ自給なら
絶対こちらが楽です。都道府県ベース店は地獄)

 
都道府県ベース店へ運ばれてくる荷物には営業所コード(番号)
シールが貼られていて、それを見分けて、何番は〇〇市、
何番は××市、などと区分けしていきます。
 
勤務は夜10時から朝6時まで。

 
深夜、大型トラックがベース店に到着すると、

強制的にベルトコンベアが動いて、仕分けする荷物が流れてきます。
 
このベルトコンベアが無慈悲で。
 
自分の持ち場(若く体力のある者ほど最上流に配置されますが)で

担当地区の荷物を死守します。目を光らせ
百人一首の札のように、次々、受け持ちの荷物を取っていきます。
小さな箱ばかりではありません。園芸品など大きいですから
ガバっと、倒れ込むようにとびつき、あとは後続の者に
ズルズルと引き寄せてもらいます。ベルトコンベアに
待ってとは言えません。
もう、次の荷物が来てますから
繁忙期はごちゃごちゃと重なってます。 
 
最悪荷物にタッチして「コレは俺の地区のだ!」と
意思表示すれば、
バックアップの者が取ってくれることもあります。
自分がコンベアに乗って流れていきそうな勢いで身を乗り出して
やってます。
特に重いのが冷凍のカニ、長くて扱いにくい
新巻鮭などです。紐がついているとありがたいですね。
アレを掴んでグっと引き寄せていけますから。
 
たまーに「精密模型!扱い注意」などと赤字で
大きく書かれているのを
一瞬チラっと見たような・・・・?
大きく書いてあると、少しは目に留まるので、ラフはラフでも
ちょいと優しい目のラフになります。大切に
運びたい方は大きく赤い字でその旨書くと良いかもしれません。 
(いやそもそも繁忙期に破損し易い大切な荷物は送らない方が・・・・) 
 
取り逃がした荷物は、コンベアが停止した隙に
最下流まで取りに行かなければなりません。最下流には
怖いベテランの女の先輩が待っていて「なんで取り逃したんだ
バカ早くしろ」と
怒鳴ってきます。それに繁忙期、
コンベアはほとんど止まることは
ないのです。
夜10時から朝4時、5時くらいまでは流れっぱなしです。

 
もう体力の限界ですが、ベルトコンベアは恐ろしい。
休めませんものね。
 
私の足元では、お歳暮の高級ハムが箱から中身が出ちゃって
そのままデロデロ溶けながら、朝を迎えます。
誰も拾えない、拾う余裕などない。
 
荷物は破損弁償扱いになりますが、壊したからと言っておとがめを
受ける
ことはありませんでした。これはもう割り切っていた。
それよりも迅速さを欠くほうが責められた。
 
だから言いたいのは、梱包は厳重にしてください。
 
休みたくても休めない、スピードアップするベルトコンベア。

 
全ての仕分けが終わって、
朝6時までに営業所行きのトラックに仕分けのボックスを積んだら
おしまいです。トラックの運転手さんは運転手さんで
時間に遅れると大変ですから、私に早くしろ早くしろと

言います。朝6時の出発時間は死んでも守れ!
  
全国単位ですけど年に一人くらい、荷物に潰されて
本当に人が死にます。私も怪我して労災認定受けたんですけど
手続きが慣れていてスムーズでした。
 

で、そこから各営業所へ運ばれて、営業所では
家庭へ配達されるバンに、さらに細かい町名ごとに仕分けされて
のっけて、最悪遅くても8時には出発するかな。
 
すっかり明るくなって、帰って寝たら
またすぐに夜が来ます。
  
物流は命懸けであります。
あまりスピードを求め過ぎると
犠牲者が出ます。どうか大目に見てください。

2017年5月15日 (月)

タンクローリーが好き

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私、タンクローリーが大好きです。
特に出光のカラーリングが一番のお気に入り。
  
運転しているとなかなか写真が撮れないのですが
たまたま信号待ちで出光ローリーさんゲット。
   
下の写真は鹿児島空港で撮影したタンクローリーの王様、
レフューラー。(もしくはリフュエリングカーともいう)
飛行場内での運用のため、車検取得の必要が無く
艤装品等の制限がない。よってゴチャゴチャして
とても素敵。

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このマシーンで出光のバージョンがあるのですが撮り損ねました。
軍用のレフューラーもいいですね。
  
大型バイパス沿いか、貨物ターミナルあたりで張り付いていたら
良い写真撮れそう。タンクローリーの同人誌が出したいです。

2017年5月14日 (日)

ベルH13

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海上自衛隊(もしくは警備隊)黎明期のお写真を
拝借してきました。ここはどこの飛行場だろうか。

かすかに山の稜線が写り込んでいるのがヒントになりそう。
昭和28~31年頃だと思います。鹿屋か浜松か?
 

機体はヘリコプター専門家の方によれば
ベルH-13とのことです。
 
こちらは私が鹿屋で撮影したベル47。
ヘリコプター、当時はオートジャイロと呼ばれていたかな。
それの最初期の機体です。

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2017年5月12日 (金)

お月様

昨夜は満月でした。この時期の満月は特別です。
田植え前の鏡のような水田にお月様が反射しますから
眩しいぐらいに明るい。畦道を歩くと眩しいお月様の光で
自分の濃い影ができるのです。遠くの景色まではっきり。
  

しかし残念ながら昨夜は曇り。
 
お月様といえば、落後・目黒の秋刀魚で次のような枕があります。
(これは秋の話ですけど)
 
以下はお大名と侍従の会話です。
 

大名「これこれ、三太夫、今宵は満月であるな」
侍従「左様にございます」
「お月様は出ておるか?」
「殿、畏れながら申し上げます。殿は月は月と呼び捨てに願います。
敷島の道におかれましても月と一言にございます。」
「余がお月様とは、おかしいか」
「おかしゅうございます」
「では今一度、申し上げる」
「ははっ!」
「三太夫、月は出ておるか」
「一点隈なく冴え渡ってございます」
「星めらはどうじゃ?」
 
何も悪く言わなくたって良いのですけれど。
 
目黒の秋刀魚は古典落語の中でも傑作で
登場人物が、平和ボケした時代のお大名としっかり者の侍従。
このやりとりが憎めず、面白い。そして風情があります。

「目黒の秋刀魚に限る」いうのは落ちですけれど、
それに至るまでも様々なパターンが用意されていて
噺家によって違うのですが
 
浮世というものを良く知らないお大名が、侍従に
「下肥で育てた野菜は美味いと」聞かされ
鉢を差し出して「苦しゅうない、かけてまいれ」と
耳を疑うような事を言ってみたりと、
とんでもないギャグを連発してくれるのです。