2014年4月11日 (金)

バンザイクリフ(サイパン島)

バンザイクリフ

昭和19年7月6日
サイパン島守備隊の総司令官である
南雲忠一海軍中将
ならびに斉藤義次陸軍中将の戦死により日本陸海軍による
組織的戦闘は終結した。
 
組織的戦闘終結後もアメリカ海兵隊は掃討作戦を実施。
指揮官を失った日本残存守備兵と婦女子を含む多くの民間人は
サイパン島の北へと北へと徐々に追い詰められていった。
逃げ場を失い、最終的に辿り着いたのがこのマッピ岬の断崖である。

バンザイクリフ

バンザイクリフ

バンザイクリフ

生きて虜囚の辱めを受けずの戦陣訓のもと、多くの軍人は
自刃、もしくは最後の突撃を敢行したが、これが民間人にまで
及んでしまったのがサイパン島最大の悲劇と言えよう。
 
米兵に捕えられれば死より辛い仕打ちが待っていると言い聞かされていた
当時、多くの一般邦人、現地民が、「万歳」と叫びこの断崖から身を
投げたのであった。崖下の海は真っ赤に染まり、屍で埋め尽くされた。
そして戦後、このマッピ岬はBANZAI CLIFF(バンザイクリフ)と呼ばれる
ようになったのである。

バンザイクリフ 
それにしても、事実を知っていれば無事米軍の保護を受けられたのだろうか。
しかし田中徳祐は次のように証言している。
 
米軍による虐殺の事実
米軍はバナデル飛行場に追い詰められた民間人のうち、婦女子のみを
選びだすと裸にし、トラックに詰め込んでいった。女たちは荷台で泣き叫んでいた。
残った子供や老人は一ヵ所に集められ、ガソリンが撒かれ、火がつけられた。
炎から逃れようとする者を米兵はゲラゲラと笑いながら、再び炎の中へ

蹴り飛ばしたり銃で突いたりした。またある米兵は赤ん坊の両足を持って
真っ二つに引き裂いて
火中に投げ込んだ。
 
戦勝国としては、このような都合の悪い真実は抹消していて然りである。
今となっては確かめる術はないが、同様に米軍が全ての民間人を全うに
保護したという証拠が存在するわけでもない。
 

バンザイクリフ

観音像の背後の岩山がスーサイドクリフである。
今やサイパン島を訪れる日本人観光客は激減し、
韓国人や中国人が目立つ。かれらはピースサインをまじえて
笑顔で記念写真を撮っている。
 
ここへ来る以前、サイパンの街で偶然話しかけてきた島民は
私を日本人と知ってか知らでか「ナイスビューのポイントだから行ってみろ」と
このバンザイクリフの場所を教えてくれた。
 
戦争当時の事柄を、我々が現代常識という物差しをもって安易に
評価するのは避けるべきである。しかし唯一、断言できるとするならば
戦争で尊い命を犠牲にされた軍民全ての御霊に祈りを奉げることは当然であると
同時に今日日本の礎となり、繁栄と平和をあたえてくれた先人たちへ
感謝の気持ちを持つことこそ最も大切であろう。

2014年4月10日 (木)

スーサイドクリフ(サイパン島)

スーサイドクリフ

▲スーサイドクリフよりマッピポイント(マッピ岬)、バンザイクリフを望む

スーサイドクリフとは 直訳すると「自殺の崖」で
日本統治時代にマッピ山と呼ばれた岩山の断崖である。
  
昭和19年7月、北上を続ける米軍制圧部隊に追い詰められ、
逃げ場を失った多くの日本軍将兵および民間人までもが、
捕虜になることを拒み、この場所から身を投げた惨劇の場である。

スーサイドクリフ

スーサイドクリフ

スーサイドクリフ

▲CNMI Veterans Cemetery よりスーサイドクリフを望む

スーサイドクリフ


眼下に見える三角形の敷地はCNMI Veterans Cemetery
(北マリアナ諸島退役軍人墓地) その先にバンザイクリフも望む。
ちょうど崖下にあたるバスが駐車してある辺りがラストコマンドポスト
なお、崖下の一帯はバナデル飛行場跡地である。
バナデル飛行場は日本軍が建設途中であったものを
米軍が占領ののち奪取し完成させたものである。
 

スーサイドクリフ

スーサイドクリフ

スーサイドクリフ

 
なお、テニアン島にも同様の経緯で、惨劇の場となった
スーサイドクリフが存在する。
「テニアン島のスーサイドクリフ」へ

2014年4月 9日 (水)

ラストコマンドポスト(サイパン島)

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ここはサイパン島、いわゆるラストコマンドポストと呼ばれる
戦跡地であるがそもそも誤りである。
 
ラストコマンダーである南雲中将が最期を迎えた本当の野戦司令部は
ここよりはるか10kmも南に在る地獄谷なのだが
 
地獄谷の記事、行き方はこちら
 
多くの観光客は、この場所がまさにラストコマンドポストと紹介され見学し
誤解したまま帰って行く。多くのガイドブックにも 同様に掲載されており、
今更改めることは容易ではない。
 
火器や戦車も専門家が一見すれば配置がおかしく
余所から集めたものであることがわかる。
さらに、灰色の塗装は最近塗り替えられたものである。
 

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今日も嘘で塗り固められたラストコマンドポストに大勢の観光客がやってくる。
日本人の姿は少なく(サイパン全体に言えることだが) 最も多いのが韓国人、
次に欧米人の姿も見られる。 同じアジア系でも、韓国人と日本人の違いは
喋り声を聞くことすらなく、遠くから一見しただけでもすぐにわかる。
最も顕著なのが身なり(ファッション)そして歩き方や振る舞いなどである。
  

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さて、先に述べたように此処をラストコマンドポストと呼ぶのは誤りであるが
この地も激戦の戦闘拠点であることには違いない。
これらの戦車や高角砲 トーチカで戦って戦死した英霊に黙祷を
奉げることは当然であろう。
 
今やサイパンに日本人観光客の姿は少なく、北部は廃業したリゾートホテルが
並んでおり、青い空と海という絶景の中に、草生して そびえる巨大ホテルは
物悲しくかつての賑わったサイパンを 静かに物語る遺構の様である。
 

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2014年4月 6日 (日)

遺骨を一日でも早く故郷へ

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無事帰国しました。

アンガウル島では当初の目標通り、お骨を見つけることができました。
同島はわが宇都宮五十九連隊の一個大隊1200名が玉砕している島です。
近所にもご遺族が居られます。ご遺骨は許可なく動かせないので
わたくしだけ一旦帰国しましたが、同郷の英霊が、まだまだ迎えを
待っておられます。一日も早く家族の元へ、待ちわびた故郷へお返ししたい。
 
写真は最終日に撮ったミルキーウェイです。

2014年4月 4日 (金)

KBブリッジ

KBブリッジ(パラオ)1

KBブリッジ(パラオ)2

KBブリッジ(パラオ)3

KBブリッジ(パラオ)4

KBブリッジ(パラオ)5

KBブリッジ(パラオ)6

KBブリッジ(パラオ)7

 
新KBブリッジ
KBはKoror-Babeldaob Bridgeの略であるが
正式名称は「Japan-Palau Friendship Bridge
ジャパン・パラオフレンドシップブリッジ(友好の橋)という。
 
2002年竣工。旧ブリッジ崩壊後、
日本の鹿島建設により再建された。
 
パラオ国際空港(バベルダオブ島)と最大の街コロールを繋ぐ橋であると同時に
バベルダオブ島の発電所と水源をコロール島へ供給する
パラオの国家生命線である。
 
通常、深夜便で到着し、同じく深夜便で出国する観光客は必ずこの橋を
経由する。暗闇の中その勇壮な姿を見る機会は少ないが
日本とパラオ友好のシンボルであるので、旧KBブリッジの
崩壊事故と合わせてその歴史に触れておきたい。
 
旧KBブリッジ(韓国製)の崩壊
旧KBブリッジは1977年に、韓国企業SOCIOにより建設された。
建設業者選定入札において、SOCIOは鹿島建設の半額の入札価格を
提示し落札している。
  
1996年9月26日木曜日
ちょうど二日前に行われた大統領予備選挙の開票作業が
進めらていたその日はごく普通の日であった。

夕方遅く
コロールガルミッド地区(旧ニッコーホテル付近) に住む住民によると
突然、ドーンという轟きとともに 電気が止まり、最初はダイナマイトか
何かが爆発したのかと錯覚したという。
 
「KBブリッジが落ちた!」
まもなく血相を変えた友人がそう言って飛び込んできた。
KBブリッジの見える裏山に登ると、かつて橋のかかっていた辺りに見えるのは
立ちのぼるもうもうとした 灰色の粉塵のみで、あるべき橋の姿は失われていた。
不幸にも崩落中に通行していた二名が海へ投げ出され死亡した。
 
◆クニオ・ナカムラは国家非常事態宣言を発令
水道、電気、電話線など、コロールで使用される ライフラインは
全てKBブリッジを通じて供給されていたので 崩落により、すべての
生命線を分断された。 クニオ・ナカムラ大統領は国家非常事態宣言を発令。
ほどなく官民あげて不眠不休の復旧作業が始まるのである。
 
資材や重機も不充分なままであったが 事故から4日後、
まず橋の両岸に電線を建てて電気が確保された。
コロールの住民にとって切実なのは電気より水の確保であったが
アメリカ軍がすぐさま通信基地に備蓄していた非常用飲料水を提供し
日本やアメリカからの緊急援助も得て、海水淡水化装置も設置された。
またパラオ政府は消火用ホースを橋の両端に渡すことで 仮復旧を試み、
10月6日には朝夕二時間の限定ではあるものの 給水を確保した。
 
両岸の輸送体制も、民間の協力により 渡し船が就航するとともに
バージ船(ハシケ)を用いた 車両の輸送を開始した。
 
◆ヒロシマを引合いに出し国民を奮い立たせるナカムラ大統領
こうした官民一体必死の努力により 事故後10日ほどでとりあえず、
最低限の仮復旧は成った。 ナカムラ大統領は、事故の数日後
原爆の惨禍から立ち上がり今日の繁栄を築いた広島を引合いにだし
「この危機は国民をより強靭にする」と」鼓舞、
今回の危機への国民の対応が何よりの誇りであると称揚した。
 
またKBブリッジの崩壊はナカムラ大統領の再選に僅かながらも影響を与えた。
対抗馬のトリビオン候補が「一致団結してKBブリッジ崩壊の復旧に務めなければ
ならない。 こんなときに政争をしている場合ではない」として立候補を取り下げた。
これは「名誉ある撤退」とも賞賛された一方、現職ナカムラ大統領に
予備選挙で大差をつけられ、事実上決戦で勝ち目がないと悟ったことも大きい。
 
パラオ共和国独立への道筋をつけ その後も潤沢な資金を集め
パラオを活気付けるナカムラ大統領の手腕は 選挙前から広い支持を
得ていたものの、この事故と復旧により さらに求心力を高め、
次の四年間の指導力の根源となった。
 
二期目に入ったナカムラ大統領の最優先課題はKBブリッジの再建であった。
ここで資金と技術提供を求めたのが日本だった。 1997年1月に大統領は
日本を訪問しKBブリッジの再建を強く要請。 パラオのような小さな国に対しては
異例の23億円の無償資金供与が決まった。 かくして鹿島建設による
新KBブリッジ再建工事が着工、 旧ブリッジの土台を利用することも
検討されたが質が悪すぎたため 一からの作り直しとなった。
 
新KBブリッジの竣工
こうして2002年に竣工した新KBブリッジは
正式名称「Japan-Palau Friendship Bridge」と名付けられ
パラオ国民の生命線として根付いている。
 
なお、旧KBブリッジの瓦礫は現在も新ブリッジ真下に沈んでいる。
橋の下を流れるのは「アルミズ水道」である。
コロール側の橋の下は公園として整備されており、自由に立ち入ることができる。
ローカル憩いの場であり、朝や夕方は釣り人の姿が目立つ。
一画にはシャワーもあり 水も澄んでいるので、アルミズ水道側の深い箇所へ
近寄らなければ 泳ぐこともできる。
 
我が国の民といえば
山があればトンネルを掘り、谷があれば橋を架ける。
そんな土木技術を極めた日本製の橋である。
 
私がこの橋を渡るとき、運転していたパラオ人がこう言ったのである。
「頑丈な橋。日本人、ありがとうね」

◆◆

ロックアイランド

ミルキーウェイ

ジェリーフィッシュレイク

    ロックアイランド          ミルキーウェイ        ジェリーフィッシュレイク

パラオの戦跡

日本統治時代のコロール

南洋神社

    パラオの戦跡          日本時代のコロール         南洋神社

KBブリッジ


 

 

     KBブリッジ

 
パラオ地図

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カヤンゲル バベルダオブ ロックアイランド ペリリュー アンガウル

2014年3月25日 (火)

ペリリュー、アンガウル

Imgp3287 

ペリリュー、アンガウルに滞在中です。
アンガウル島にてご遺骨を見つけましたので
帰国後、厚労省にデータを届け出ることにしました。
 
※(写真はペリリューの壕です)

2014年3月14日 (金)

パラオ全図

パラオ地図

▲パラオ全図
 
パラオ共和国ってどんなところ?
 

年配パラオ人は日本語ベラベラ(動画) 
ミルキーウェイ/古代から堆積した真っ白な泥 
勇壮のKBブリッジ(日パ友好の橋) 
世界遺産ロックアイランド/無限のブルーラグーン 
パラオの空を飛べ!セスナ機で空へ 
パラオ国旗の由来 
東日本大震災-そのときパラオでは 
日本語が語源のパラオ語 
ペリリューへ定期船の旅
ノースドックの子供達
2013年ペリリュー島の台風被害

 

パラオ・バベルダオブ島の地図

▲バベルダオブ島

ペリリュー島の地図

▲ペリリュー島

アンガウル島の地図

▲アンガウル島

2014年3月13日 (木)

南雲中将終焉の地

南雲忠一中将自決のサイパン島地獄谷 

サイパン島の地獄谷です。
南雲忠一中将終焉の地です。
 
南雲中将の最期は諸説ありますが
この辺りで自刃、もしくは最後の突撃を敢行した
とされています。
 
かつては大機動部隊を率いて真珠湾攻撃をはじめ
大海原を駆け回った南雲提督。
しかしその最期は、サイパン島のジャングル奥深く、矢尽き刃折れ
たった二発の手榴弾を抱えただけの、悲壮なものでした。

 
合掌
 

テニアン島

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テニアン島へ来ました。ここから多くのB-29が日本本土空襲ならびに
エノラゲイ、ボックスカーが広島、長崎へ飛び立ちました。その基地跡
いまは滑走路も草生しています。
 
滑走路の一角に原爆をB-29に搭載したピットが残っています。
原子爆弾はそのままでは大きく搭載できないので
滑走路を掘り下げる必要がありました。
透明の囲いはいたずら防止のためのものです。
 

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ファットマン(長崎型原爆の愛称)の模型がありました。
 

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テニアンのスーサイドクリフです。サイパンのとは別です。
しかしながらサイパン同様にここから多くの軍人、民間人が
米軍に追い詰められ身を投げました。
 

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合掌

2014年3月 8日 (土)

パラオへ出発します

3月10日から31日までパラオに滞在しています。
 
頂いたメールなどのお返事は4月1日以降となります。
よろしくお願い致します。