図書館で昔の新聞を読むのが好きです。
現代人の我々は豊富な情報を瞬時に把握できるますし
今日までの歴史を知っていますが
当時の情報はラジオと新聞のニュースくらいしかありませんでした。
戦争相手のアメリカという国がどこにあって、どんな形をしているのかさえ
知らなかった日本人も多かったと思います。
新聞記事は日によって情報が推移していくので
興味深いものがあります。
昭和16年(真珠湾攻撃の年)ですと、大手は
同じ読売新聞、朝日新聞、東京日日新聞(現在の毎日新聞)の三紙で
それぞれ、書き方も異なります。
やはり、朝日新聞が最も好戦的で過激な書き方をしているのが
読み比べると解ります。
画像に掲載したのは昭和19年のものです。
K元大尉(94歳)
「もう私は94歳と、先は短いです。若くして散った戦友を思えば
こんなに長生きをさせてもらって、思い残す事無く、明日死んでもいいと
常に思っています。ただし、ひとつ、心配があるとするならば
この先の日本がどうなるか、見届けられないことですね。
最近、ニュースで目にしますように
南シナ海で緊張が増しています。戦友たちが守ってきた日本が、
この先、どうなるかと思うと、それだけが心配ですね。」
S元大尉(94歳)
「もし、また戦争があったら、どうしますか
この年で、また行きますか。私は戦争だけは絶対にもう嫌ですね。
若い世代が戦争の勇ましいところだけを知って、また同じことを繰り返さないか
とても心配しています。もし、また戦争になったら、
この際、卑怯者と呼ばれても構いません。震えてどこかに隠れていたいものです。
Kさん。あなたはどうですか」
K元曹長(97歳)
「戦後、日本は憲法九条という、理想的で素晴らしい憲法を作りました。
私は戦地で言葉で言い表せないような惨劇を見てきました。戦争は
金輪際繰り返してはなりません。
ですが・・・戦争に行けと、それが国の命令とあらば、行きます」
O元大尉(93歳)
「私も、行けと言われれば行きます」
A元少尉(96歳)
「私も行きます」
I元軍曹(93歳)
「私も自衛のための戦争なら致し方ないと思っています。侵略的戦争は
絶対にいけませんが、向こうから攻めてきたんなら、これは仕方ない。守るために
やるしかありません」
W元軍曹(92歳)
「私はわかりませんが、これでもそれなりに国に尽くしてきたつもりです。
最近の若い者、特に80代は全くなっていません。
自分のことしか考えられない。自分中心に生きている。
同じ老人ホームでも80代はわがままが多すぎます。
あまりに自由すぎた戦後教育がいけなかったのか
もっと自分以外に尽くす気持ちを考えて生きるべきですね。
大勢の戦友たちが命を捧げて守ってきた日本は
どこにいったのか。戦後日本の繁栄は、戦争経験者が土台を築いた。
土台があってこそ、その上に若い人が乗っていることを
忘れないでもらいたい。」
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戦友会で「もしまた戦争になったら」という話題になったときのことを
少し書いた。元士官も、兵卒も、戦争を自ら望むものは誰一人と
していない。武人の真の理想は平和なのだ。
しかし、理想を守ろうと、国家の安泰を揺るがす事態とあれば
立ち上がる、というのが大方の見解のようだ。
そして日本と言う国は多くの戦友が命と引き換えに
守ってきたものだと確信しているのだ。
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戦友会でお世話になっている 国吉大尉(仮名とします。当作戦時、
階級は中尉)のジャワ島上陸の回想を書くことにします。
聞き取った内容をなるべく純粋に 記しました。資料となれば幸いです。
国吉大尉の回想~ジャワ攻略
私は第二師団へ騎兵で入隊したのですが
大東亜戦争の時、既に機動力の要は自動車です。
馬からオートバイに乗り換えたので、騎兵連隊も呼び名が
変わり 捜索連隊となりました。
昭和17年3月、
師団は開戦直後に海軍の掩護もあってジャワ島に上陸しました。
上陸前のことを覚えています。戦争に勝っている頃ですから、
何十隻もの輸送船が大船団を成して進んでゆく様は壮観でした。
「嗚呼、堂々の輸送船」 という歌がありますが、ああ、これが
堂々の輸送船かと思いましたね。 上陸後は陸王のオートバイ
(サイドカー付き)に乗って内陸へ進軍するのですが そのときの
運転士が震えあがってしまい、駄目なんですよ。それで私は
「代われ」と言って彼を側車に乗せまして、 代わりに私がハンドル
を握りました。 敵陣の中をブァーーーッツと走りました。
しばらく内陸へ走ると、道端に 豪州空軍の車両が停まっているんです。
これはどういうことなのか、 車輌の周りを調べていると、陰から 敵兵が
10人ばかりゾロゾロ出てきました。 我々が上陸してきたことは報されて
いたのでしょうが、逃げ遅れたのかもしれません。 バッタリ遭遇した
日本兵に敵さんも驚いたのでしょう。
「ジャアパニーズ???」 と大声で訊くものですから、私は
「イエス!!」と答えました。 そうしたら、あまりに至近距離だったもので
殴りかかってきて来て取っ組み合いになりました。
一対十ですよ。 そこで私は腰の軍刀を抜きまして、刀の紐が柄に
引っかかって、すこしもたついたんですが バサっと斬り倒しました。
一人をやっつけると あとは全員、いなくなっていました。
その後は地元の住民がよく協力してくれました。 自動車に乗って、
あっちこっち道案内してくれるんですね。 非常に親切でした。
当時、ジャワ島はオランダの植民地でした。 どうやら地元の住民は
「いつの日か自分たちと同じ顔の人間がやってきて 植民地から解放してくれる」
そういった言い伝え、伝説があったそうなんです。(※1) それを信じて待っていた
ようなんです。 肌の色、同じですからね。 食事も用意してくれて、非常に
好意的でした。 師団はジャワ攻略で勝利を収めていますが、私は 部下を
一人だけ失っているのを 忘れません。
回想以上。
(※1)「同じ顔の人間」と書きましたが、別の説もあって
「いつか自分たちと同じ肌の色、顔をした神がやってきて・・・」という伝説も
あります。そういった意味で「神兵」という表現も間違いではなさそうです。
ジャワ島は昭和20年、ふたたび戻ってきたオランダ軍との独立戦争に勝利し
新国家インドネシアが誕生する。
あれこれと思いつくまま、聞き取った回想記を書いています。
リクエストがあれば優先的に書きますので、「これの続きが知りたい」
と思う話があれば、ぜひリクエストをお願いします。
最後までご覧くださり、ありがとうございました。
画像の陸王(オートバイ)はイメージです。
途中になっているノンフィクション記事一覧
ペリリュー島のラストサムライ 永井敬司さんのお話(1)
ベトナム解放戦線 ベトナム独立をかけて (1)
ベトナム解放戦線 解放戦線に加わる者たち (2)
水野中隊長の初陣 戦友の遺骨を抱いて
飛燕戦闘機隊 高度一万mB29との戦い 竹田五郎さんのお話(1)
撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない 原田要さんのお話(1)
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洗練するドイツ製ジェット戦闘機
Me262 Lorin ラムジェット機は、1945年
オイゲン・ザンガー博士によってデザインされた
ドイツ空軍、Me262のアップデートモデル。
本機は世界発のジェット戦闘機であるMe262のjumo004エンジン
に加え、翼上に直径1.15m、全長5.9mのローリンラムジェットを搭載した
4発機である。
スタンダード機であるMe262が高度6000における
最高速度が870km/hだったのに対し
Lorin ラムジェット搭載機は1万メートル迄
僅か6分(Me262は26分)で上昇し1070km/hの最高速度
が可能な設計であったが、ドイツの敗戦とともに幻の怪鳥となった。
日本製ジェットエンジンの黎明
その頃(1945年/昭和20年)、日本では、ドイツ本国から
ジェットエンジンの設計図と部品を持ち帰るべく
出港した潜水艦の到着を待ちわびていたが
いずれも撃沈され、最後まで日本に到着することはなかった。
そのため、中島飛行機小泉製作所(群馬県)では
100パーセント純国産のジェットエンジン「ネ-20」を開発していた。
このジェットエンジンを搭載した新型機を海軍では「橘花」
陸軍では「火龍」と称し、橘花は、終戦の数日前
木更津飛行場で初飛行に成功していた。
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2月9日に創刊されたディアゴスティーニ「第二次世界大戦傑作機」
初回は紫電改ということで早速購入しました。しかし資料集を見てみると
鴛淵孝大尉の機体(343-45号機)の帯が赤になってます。
この件は、だいぶ前に定説が覆されており
鴛淵機の帯は白だったという説が有力です。
合わせて元来、赤い帯は存在しなかったといいます。
プラモデルのパッケージもそうなのですが
大方、赤で塗られてしまっています。
第343海軍航空隊の戦闘機隊は戦闘301、戦闘407、戦闘701と
3つの飛行隊から編成されていました。(このほかに彩雲を用いた
偵察第4飛行隊と、紫電で成されたの訓練部隊401飛行隊があります)
戦闘301飛行隊の菅野直大尉の機体(343-A15と343-A24号機)は
ともに黄色の帯で有名ですが、同じ飛行隊の列機まで黄色だったかと
問われると、ちょっと確証がありません。
戦闘407飛行隊の林喜重大尉は白で間違いなさそうで、
そして件の鴛淵飛行隊長の戦闘701飛行隊のみ、少し
マーキングの例が変わっていたようです。
歴史は様々な考察あって然りですし、
模型は気に入った好きな色で塗装するのが一番なのですが
参考になればと思います。
零戦の新バージョンを描いています。(五二型甲)
下描きが出来てこれから着色なのですが、シルクスクリーンの
特性上、一色~二色で表現しなければならないので
せっかく描き込んだ細部が見えなくなってしまい惜しい
ところです。時間が許すならばリアルな絵をじっくりと描きたいです。
昭和14年、パラオはサイパンとともに
最も早く内地からの定期航路を結びました。
運航スケジュールはこちらの記事で書いた通りです。
昭和14年といえば77年も前のことです。
旅客船と比べれば運賃は割高でしたけれど、一般のお客さんも
この飛行艇に普通に乗れたのです。
どれだけ壮大な事を実施していたか、
ビジュアル化しました。
この飛行艇は
海軍では九七式飛行艇ですが、民間での名称は
川西式四初飛行艇と言いました。運用したのは大日本航空株式会社です。
カラーリングはジュラルミン剥き出しの銀色で
「綾波」号など、パーソナルネームが存在しました。
開戦とともに、飛行艇は海軍に事実上徴用され、運命を共にしますが
戦争が始まるまでは南洋の楽園と内地を結ぶ夢の定期便だったのです。
Rさんが製作しました「蒼龍」です。
Rさんは私の模型の師匠でもあります。
以前、このサイトの素材に使わせてもらうということで
千葉県の工房まで撮影に参りましたが、その際に
公開しなかった画像を、せっかくなので公開します。
全長30センチくらいです。
1/700でここまで精巧に出来るのは
凄いことです。これだけの仕事をこなす集中力を
保てるのは才能としか呼べません。
こうやって切り取って背景と重ねていきます。このようなコンピューターを
使ったジオラマ手法を「デジラマ」というそうで、最近は専門の雑誌もあります。
主にガンダムなどを高層ビルの間に立たせたりする技術などが紹介されています。
私の場合は大戦機をカラーで蘇らせることを目標としています▼
昨年は戦後70周年ということもあり、講演会など
お呼びがかかり、お話をさせてもらいました。
本当は喋るのは得意ではないんですけれど、ぜひ伝えたいことが
あるので拙いながらお話しさせてもらっています。
会場の舞台には
「篠原直人先生による講演」などど大きな
垂れ幕が準備してあって、本当に恐れ入ります。
大きな催し物だと、控室にお茶淹れ等、お世話をしてくれる人まで
付くという丁寧な対応に、感激していました。
控室には、国会議員の先生や自治体の長も来ていました。
控室に居ても、私はお茶汲みにしか見えません。
それで思ったのですが、
腰の低い人ほど、ベテランの議員さんが多いです。
もちろん政治手腕と選挙上手は全くの別物であることを
断っておかねばなりませんが、
お茶汲みでも、分け隔てなく気さくに
声をかけてくれる政治家はやはり、大物であり
連続当選している人物です。
新人政治家の方は名刺を交換してから漸く、
「いや~今日、講演される先生でしたか。失礼しました。
お茶を淹れてくれる人だと思っていました」
とあまりに露骨な言われよう、変わりようだったので
驚いてしまいました。
そういう人はほとんどが初当選の政治家で
先生、先生と呼ばれることで浮世を忘れてしまうのかもしれません。
本来、政治家というものは我々が選挙で選んでいるので
あまり偉そうにしてはいけない気もするのですが・・・。
さて、
先生と呼ばれる人にはいくつかの種類があり、その役割も多様です。
学校の先生、お医者さん、弁護士、政治家などが挙げられます。
どれも大変なお仕事ですが、最も重責を担い、失敗の出来ないのが
時代劇に登場する先生です。「先生、お願いします」と担がれ、
用心棒や刺客として、おおむね物語のクライマックスに登場します。
斬られたら終わりですから、とても重責です。
政治家の方々にもこれくらいの心持で職務を全うしてほしいと
心から願っています。
P.S
私はどこでも私は喜んでお話しをしに参ります。
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