2016年3月 5日 (土)

富士山を空撮

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一式陸攻の搭乗員だった方に会いに、飛行機で松山へ
行ってきました。高度一万メートルから写した富士山です。
縦長の写真は東京湾と三浦半島です。真ん中に
レインボーブリッジが写っています。

2016年3月 1日 (火)

捨てられなかった札束 濁流にのまれた慰安婦

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戦友会でも慰安婦の話題になったことがあります。
もっと確信に迫る話しがあるのですが、今回は証言の一端を紹介します。
  
K曹長の話
「濁流を渡河する徹底路において、日本兵と一緒に逃げる女性(慰安婦)を見ました。
よく見れば頭の上に大きな荷物を乗せているんです。少しでもバランスを崩せば
濁流に飲み込まれて一貫の終わりですよ。それでも両手で必死に頭の荷物を
押さえているので、縄につかまることさえ出来ません。その荷物、
捨てろ!捨てろ!と叫んだんですが、女性は捨てませんで、今にも濁流に
流されそうでした。その頭に抱えている荷物、良く見れば、大量の
お金、札束(軍票の束)
なんです。慰安所で稼いだものだと思いますが、
死んでしまってはおしまいですから
何度も捨てろと言い聞かせました。
それでも聞かず、最後は濁流に呑みこまれて
いきました」 
 
Y上等兵の話
「当時、私の月の給料は戦時加算がついて24円50銭でした。
ところが、その慰安婦と呼ばれる女性たちは1万円も2万円も
持っていたことに驚きました。
 
いわゆる慰安婦はもとは貧困で身を売ることしかできなかった
家の娘がやむなく行っていた。このエピソードはとても悲しいものだが
稼いだお金を命がけで故郷へ持ち帰ろうとしていたものなのかも、しれない。


慰安婦についての証言はまだまだあります。
続きます。

2016年2月28日 (日)

ベトナム解放戦線(3) 国吉戦車中隊

 
昭和20年5月頃だったと思います。我々は戦車8両、部下50人の
独立中隊で、場所はミトーに居りました。
ホーチミンの解放軍の綺麗な女の子が何度も何度も誘いに来るんですよ。
長い黒髪でね、綺麗な女の子でした。その女の子が
「隊長さん、東京へ帰っても焼野原ですよ。一緒に戦ってここで暮らしましょう」
そう言って誘うんです。何度か行こうと思いましたけどね。我々の中隊からは
離隊者を出しませんでしたが、他の中隊からは随分居たようですね。
そのまま現地で所帯を持って現地に骨を埋めたとも聞いています。
 
やはり母親が気になりましてね。
戦って死ぬことは構わないんですが、ホーチミンの指揮下に入るということは
どこで死んだかわからないと、これは故郷の母親も困るだろうと
思いました。何度誘いにも来ましたが、断ると女の子はヒョロンへ
帰っていきました。
 
昭和19年10月頃の作戦命令で
我々の中隊はガダルカナルで玉砕する筈だったんです。
戦車は本来、戦車用の輸送船で運ぶんですが、その頃になると
輸送船はなく、駆逐艦で輸送してガダルカナルへ上陸することになったんです。
ところが、駆逐艦のクレーンでは戦車が4トンありますから
持ちあがらないんですね。何度やっても駄目で。そこでガダルカナル
行きは中止になりまして、命拾いをしたわけです。
 
それでビルマで終戦になります。終戦になって武装解除の段階になると、
またホーチミンの解放軍がやってきては誘うんです。
彼らにしてみれば戦争のやり方がわからないから、部隊単位で丸ごと
欲しがるわけです。戦車を欲しがったんです。
 
戦には負けましたが、ボロボロの戦車では恥ずかしいので
8両あった戦車は全て完全に整備して、ピカピカに磨いて
それで英軍に渡してやろうと、完璧な状態でした。
そうしたら、やってきた英軍が驚きましてね、同じ軍人だから
解るんでしょうね。ピカピカの戦車を見て、とても驚いていましたよ。
 

・・・・つづく
 
ベトナム解放戦線(1)
ベトナム解放戦線(2)

  
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2016年2月26日 (金)

英軍からの出前寿司

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このエピソードは昭和19年後半、ビルマの
イラワジ会戦における前哨戦で、イギリス軍(以下英軍)
が苦肉の末遂行した「お寿司の出前作戦」について記す。
 
この頃、第二師団工兵中隊の水野大尉は川岸の陣地で
英軍と睨みあっていた。英軍も、この時期になると日本軍の強さを
周知しており、いかに損害を軽微に抑えるか頭を悩ませていた。
 
最もよく用いたのが飛行機を飛ばして日本軍陣地の頭上へ
ビラを撒く作戦である。水野大尉は回想する。
 
「その頃の日本は紙は貴重品でザラザラの茶色いものが一般的でした。
ところが英軍は真っ白で表面ツルツル、しかも手書きでなく活字ですよ。
それを大量に撒くんです。圧倒的物量だと感じました。拾ったビラには
しっかりとした日本語で『日本軍はガダルカナルで大敗北を喫し大本営は
降伏の準備を始めています。皆さんも戦争をやめて家族のもとへ帰りましょう』と
そんなようなことが書いてありました。戦意喪失を狙ったものでしょう」
 
英軍が最も恐れたのが日本軍による夜襲であった。戦争を原則パート
タイムで行う英軍・連合軍に対し日本軍は作戦とあらば時間や場所を
構わず行動する。英軍は寝込みを奇襲されるので、気持ちの休まる時を
与えなかった。兵士の損害は無論の事、英軍は恐怖に震えあがり
精神的に疲弊を重ねていた。
 
「私も一度先頭に立って夜襲をかけました」
水野大尉は夜襲の様子を回想する。
 
英軍とて無駄に兵隊を死なせたくはない。
しかし日本軍将兵はドイツ兵と異なり、降伏という概念を持たない。
英軍はさらに知恵を絞った。寿司作戦の実行である。
ある日、英軍は日本軍陣地に対し拡声器でけたたましく放送を始めた。
ややたどたどしさが目立つ日本語放送だった。
 
「勇敢なる日本軍将兵の皆さん、我々はあなた方の為にお寿司を作りました。
〇日の〇時〇〇分に、××の地点に置いておきますから、取りに来てください。
その間、我々は紳士協定に基づいて砲爆撃、攻撃は一切しません。これは
我々からの贈り物です。毒も入っていませんから安心してください。
暫く祖国の味を楽しんでください」
 
この放送にはBGMが付いていた。誰もが知る歌謡曲
『誰か故郷を想わざる』だった。遠いビルマの地で日本兵の郷愁を誘う。
放送は水野大尉の耳にも入ったが、水野大尉はいぶかしがるどころか、
気にもとめなかった。部下には無視しろと一言だけ伝えて済ませた。
 
「だけど、どこにもおっちょこちょい(勇敢?)な兵隊がいるものでね
その寿司を取りに行ってしまったんですよ(笑)」
 
見れば確かに寿司だった。本当に置いてある。英軍が現地で在り合せの
食材で作ったのだろう。皿の代わりに大きな葉の上に乗せられていて
うまそうだった。
 
「僕は食べなかったんだけど、おもしろいことをするなと思いましたよ。
部下が行っている間、シーンとしていたし、食った部下も大丈夫で、
本当に毒は入っていなかった」
 
頼んでもいない出前寿司だったが、
有難く頂戴したところで、日本軍は降伏しなかった。
英軍の努力は無駄に終わり、これ以降、昭和20年にかけて
泥沼の戦いに推移してゆくのだった。
 
ここはビルマの最前線。
英軍も日本軍もはるかなる故郷を思い、家族を思い、
誰とて殺し殺されたくはないだろう。互いに、努力を続けていた。
そんなエピソードのひとつを紹介させてもらった。
 
  
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2016年2月25日 (木)

硫黄島・ペリリュー島遺骨収集募集について

水戸二連隊・ペリリュー島慰霊会では
硫黄島・ペリリュー島の調査・遺骨収集ならびに
会の運営に協力して頂ける方を募集しております。
特に昨今、会員の高齢化に伴い、若い方が少ない状態にあります。 
 
実施内容は以下の通りです。
 

1.硫黄島での遺骨収集
2.ペリリュー島での遺骨収集・調査

3.水戸二連隊・ペリリュー島慰霊会の運営協力(事務等)
 
特に継続して会の運営に協力して頂ける方を募集しております。

先ずは平成二十八年度の慰霊祭にご参加ください。
よろしくお願い致します。
 
水戸二連隊・ペリリュー島慰霊会公式ホームページ

2016年2月24日 (水)

厚木の名物親父

赤松中尉のゼロ戦

赤松中尉のゼロ戦 
ゼロ戦、赤松中尉機のデジラマを製作しました。
昭和20年、厚木飛行場の夏です。 

 
赤松中尉についてはこちらをご覧ください。

 
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2016年2月23日 (火)

我が家の秘密基地

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ゼロ戦のディスプレイ台が完成しました。
当時の面影をしっかり残しつつ、SF的ハンガーを
イメージして作ってみました。
スケールは上段の二機が1/48で
下の段が1/144の食玩シリーズです。

2016年2月22日 (月)

昔の新聞読み比べ

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図書館で昔の新聞を読むのが好きです。
現代人の我々は豊富な情報を瞬時に把握できるますし
今日までの歴史を知っていますが
当時の情報はラジオと新聞のニュースくらいしかありませんでした。
戦争相手のアメリカという国がどこにあって、どんな形をしているのかさえ
知らなかった日本人も多かったと思います。
 
新聞記事は日によって情報が推移していくので
興味深いものがあります。
昭和16年(真珠湾攻撃の年)ですと、大手は
同じ読売新聞、朝日新聞、東京日日新聞(現在の毎日新聞)の三紙で
それぞれ、書き方も異なります。
やはり、朝日新聞が最も好戦的で過激な書き方をしているのが
読み比べると解ります。
 
画像に掲載したのは昭和19年のものです。





2016年2月18日 (木)

戦友会での会話

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K元大尉(94歳)

「もう私は94歳と、先は短いです。若くして散った戦友を思えば
こんなに長生きをさせてもらって、思い残す事無く、明日死んでもいいと
常に思っています。ただし、ひとつ、心配があるとするならば
この先の日本がどうなるか、見届けられないことですね。
最近、ニュースで目にしますように
南シナ海で緊張が増しています。戦友たちが守ってきた日本が、
この先、どうなるかと思うと、それだけが心配ですね。」
 
S元大尉(94歳)
「もし、また戦争があったら、どうしますか
この年で、また行きますか。私は戦争だけは絶対にもう嫌ですね。
若い世代が戦争の勇ましいところだけを知って、また同じことを繰り返さないか
とても心配しています。もし、また戦争になったら、
この際、卑怯者と呼ばれても構いません。震えてどこかに隠れていたいものです。
Kさん。あなたはどうですか」
 
K元曹長(97歳)
「戦後、日本は憲法九条という、理想的で素晴らしい憲法を作りました。
私は戦地で言葉で言い表せないような惨劇を見てきました。戦争は
金輪際繰り返してはなりません。

ですが・・・戦争に行けと、それが国の命令とあらば、行きます」
 
O元大尉(93歳)
「私も、行けと言われれば行きます」
 

A元少尉(96歳)
「私も行きます」
 
I元軍曹(93歳)
「私も自衛のための戦争なら致し方ないと思っています。侵略的戦争は
絶対にいけませんが、向こうから攻めてきたんなら、これは仕方ない。守るために
やるしかありません」
 
W元軍曹(92歳) 
「私はわかりませんが、これでもそれなりに国に尽くしてきたつもりです。
最近の若い者、特に80代は全くなっていません。
自分のことしか考えられない。自分中心に生きている。
同じ老人ホームでも80代はわがままが多すぎます。
あまりに自由すぎた戦後教育がいけなかったのか

もっと自分以外に尽くす気持ちを考えて生きるべきですね。
大勢の戦友たちが命を捧げて守ってきた日本は
どこにいったのか。戦後日本の繁栄は、戦争経験者が土台を築いた。
土台があってこそ、その上に若い人が乗っていることを
忘れないでもらいたい。」
 
----- 

戦友会で「もしまた戦争になったら」という話題になったときのことを
少し書いた。元士官も、兵卒も、戦争を自ら望むものは誰一人と
していない。武人の真の理想は平和なのだ。
しかし、理想を守ろうと、国家の安泰を揺るがす事態とあれば
立ち上がる、というのが大方の見解のようだ。
 
そして日本と言う国は多くの戦友が命と引き換えに
守ってきたものだと確信しているのだ。
 

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2016年2月17日 (水)

国吉大尉のジャワ攻略戦~待ち望んだ神兵の伝説

陸王(陸軍)サイドカー付き

 
戦友会でお世話になっている 国吉大尉(仮名とします。当作戦時、
階級は中尉)のジャワ島上陸の回想を書くことにします。
聞き取った内容をなるべく純粋に 記しました。資料となれば幸いです。 
 
国吉大尉の回想~ジャワ攻略

私は第二師団へ騎兵で入隊したのですが
大東亜戦争の時、既に機動力の要は自動車です。
馬からオートバイに乗り換えたので、騎兵連隊も呼び名が
変わり 捜索連隊となりました。
 
昭和17年3月、 
師団は開戦直後に海軍の掩護もあってジャワ島に上陸しました。
上陸前のことを覚えています。戦争に勝っている頃ですから、
何十隻もの輸送船が大船団を成して進んでゆく様は壮観でした。
「嗚呼、堂々の輸送船」 という歌がありますが、ああ、これが
堂々の輸送船かと思いましたね。 上陸後は陸王のオートバイ
(サイドカー付き)に乗って内陸へ進軍するのですが そのときの
運転士が震えあがってしまい、駄目なんですよ。それで私は
「代われ」と言って彼を側車に乗せまして、 代わりに私がハンドル
を握りました。 敵陣の中をブァーーーッツと走りました。
 
しばらく内陸へ走ると、道端に 豪州空軍の車両が停まっているんです。
これはどういうことなのか、 車輌の周りを調べていると、陰から 敵兵が
10人ばかりゾロゾロ出てきました。 我々が上陸してきたことは報されて
いたのでしょうが、逃げ遅れたのかもしれません。 バッタリ遭遇した
日本兵に敵さんも驚いたのでしょう。
 
「ジャアパニーズ???」 と大声で訊くものですから、私は
「イエス!!」と答えました。 そうしたら、あまりに至近距離だったもので
殴りかかってきて来て取っ組み合いになりました。
一対十ですよ。 そこで私は腰の軍刀を抜きまして、刀の紐が柄に
引っかかって、すこしもたついたんですが バサっと斬り倒しました。
一人をやっつけると あとは全員、いなくなっていました。
 
その後は地元の住民がよく協力してくれました。 自動車に乗って、
あっちこっち道案内してくれるんですね。 非常に親切でした。
当時、ジャワ島はオランダの植民地でした。 どうやら地元の住民は
「いつの日か自分たちと同じ顔の人間がやってきて 植民地から解放してくれる」
そういった言い伝え、伝説があったそうなんです。(※1) それを信じて待っていた
ようなんです。 肌の色、同じですからね。 食事も用意してくれて、非常に
好意的でした。 師団はジャワ攻略で勝利を収めていますが、私は 部下を
一人だけ失っているのを 忘れません。
 
回想以上。
 
(※1)「同じ顔の人間」と書きましたが、別の説もあって
「いつか自分たちと同じ肌の色、顔をした神がやってきて・・・」という伝説も
あります。そういった意味で「神兵」という表現も間違いではなさそうです。
  
ジャワ島は昭和20年、ふたたび戻ってきたオランダ軍との独立戦争に勝利し
新国家インドネシアが誕生する。
 
あれこれと思いつくまま、聞き取った回想記を書いています。
リクエストがあれば優先的に書きますので、「これの続きが知りたい」
と思う話があれば、ぜひリクエストをお願いします。
最後までご覧くださり、ありがとうございました。 
 
画像の陸王(オートバイ)はイメージです。
 
途中になっているノンフィクション記事一覧
ペリリュー島のラストサムライ 永井敬司さんのお話(1)
ベトナム解放戦線 ベトナム独立をかけて   (1)
ベトナム解放戦線 解放戦線に加わる者たち (2)
水野中隊長の初陣 戦友の遺骨を抱いて
飛燕戦闘機隊 高度一万mB29との戦い 竹田五郎さんのお話(1)
撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない 原田要さんのお話(1)

 
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