零戦Tシャツ再入荷しました
当方でデザイン、販売しております
ゼロ戦Tシャツの再生産が完了しましたので
再販を開始致します。
どうぞよろしくお願い致します。
http://www.amazon.co.jp/dp/B00LLCGKGO
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松山空港に設置されたみかんジュースの蛇口と
みかんジュースタワーです。
なんと蛇口が浮いている。からくりは実際に松山を訪れて見てください。
愛媛といえば、名物数あれど、その筆頭たるやみかんです。
さて、まず断っておかねばならないのが、我々が一般的に
「みかん」と呼ぶこたつで食べるミカンは「温州みかん」という品種で
この温州みかんに限れば和歌山県が生産量日本一です。
「いよかん」は伊予が産地の柑橘類の総称であり
愛媛から出荷される柑橘類は全て「いよかん」となります。
(グレープフルーツ等は除く)
こうした柑橘類を全て合わせると、愛媛が出荷量日本一となります。
その柑橘類というのがこちら。
未だ名前のついていない品種もあります。
こちらは松山市大街道(おおかいどう)にある
みかん専門店。
みかんといっても多様であります。
彗星フェイスタオルを製作しました。試験販売中です。
液冷型と空冷型の2パターンをラインナップしました。
マイクロファイバー製のタオルです。
一枚2,290円です。
液冷型
http://www.amazon.co.jp/dp/B01CY2XZZI
空冷型
http://www.amazon.co.jp/dp/B01CY3672K
また小ロッドから製作可能ですので
製作希望の機種や絵柄がありましたらリクエストください。
10枚から納品可能です。
こちらに私の描いたイラスト一覧があります。
収益は当サイトの運営、取材費となりますので
ぜひよろしくお願い致します。
元戦車の操縦士、上ノ山さんへのインタビューを行いました。
95歳の現在もお車の運転が上手で、神奈川から故郷の福井まで
自ら運転されるそうです。
今回は戦車の操縦方法も詳しく教えてもらいました。
操縦士は四本のレバーと、トランスミッション、アクセル、ブレーキ、クラッチを
操作し、機関銃も兼任します。競技会では師団で一位の成績を収めました。
「戦友はわし以外は皆死んだ」と壮烈な米M4戦車との戦車戦の
模様を語ってくださいました。
また続きはまとまり次第書きます。
戦友会でも慰安婦の話題になったことがあります。
もっと確信に迫る話しがあるのですが、今回は証言の一端を紹介します。
K曹長の話
「濁流を渡河する徹底路において、日本兵と一緒に逃げる女性(慰安婦)を見ました。
よく見れば頭の上に大きな荷物を乗せているんです。少しでもバランスを崩せば
濁流に飲み込まれて一貫の終わりですよ。それでも両手で必死に頭の荷物を
押さえているので、縄につかまることさえ出来ません。その荷物、
捨てろ!捨てろ!と叫んだんですが、女性は捨てませんで、今にも濁流に
流されそうでした。その頭に抱えている荷物、良く見れば、大量の
お金、札束(軍票の束)なんです。慰安所で稼いだものだと思いますが、
死んでしまってはおしまいですから何度も捨てろと言い聞かせました。
それでも聞かず、最後は濁流に呑みこまれていきました」
Y上等兵の話
「当時、私の月の給料は戦時加算がついて24円50銭でした。
ところが、その慰安婦と呼ばれる女性たちは1万円も2万円も
持っていたことに驚きました。
いわゆる慰安婦はもとは貧困で身を売ることしかできなかった
家の娘がやむなく行っていた。このエピソードはとても悲しいものだが
稼いだお金を命がけで故郷へ持ち帰ろうとしていたものなのかも、しれない。
慰安婦についての証言はまだまだあります。
続きます。
昭和20年5月頃だったと思います。我々は戦車8両、部下50人の
独立中隊で、場所はミトーに居りました。
ホーチミンの解放軍の綺麗な女の子が何度も何度も誘いに来るんですよ。
長い黒髪でね、綺麗な女の子でした。その女の子が
「隊長さん、東京へ帰っても焼野原ですよ。一緒に戦ってここで暮らしましょう」
そう言って誘うんです。何度か行こうと思いましたけどね。我々の中隊からは
離隊者を出しませんでしたが、他の中隊からは随分居たようですね。
そのまま現地で所帯を持って現地に骨を埋めたとも聞いています。
やはり母親が気になりましてね。
戦って死ぬことは構わないんですが、ホーチミンの指揮下に入るということは
どこで死んだかわからないと、これは故郷の母親も困るだろうと
思いました。何度誘いにも来ましたが、断ると女の子はヒョロンへ
帰っていきました。
昭和19年10月頃の作戦命令で
我々の中隊はガダルカナルで玉砕する筈だったんです。
戦車は本来、戦車用の輸送船で運ぶんですが、その頃になると
輸送船はなく、駆逐艦で輸送してガダルカナルへ上陸することになったんです。
ところが、駆逐艦のクレーンでは戦車が4トンありますから
持ちあがらないんですね。何度やっても駄目で。そこでガダルカナル
行きは中止になりまして、命拾いをしたわけです。
それでビルマで終戦になります。終戦になって武装解除の段階になると、
またホーチミンの解放軍がやってきては誘うんです。
彼らにしてみれば戦争のやり方がわからないから、部隊単位で丸ごと
欲しがるわけです。戦車を欲しがったんです。
戦には負けましたが、ボロボロの戦車では恥ずかしいので
8両あった戦車は全て完全に整備して、ピカピカに磨いて
それで英軍に渡してやろうと、完璧な状態でした。
そうしたら、やってきた英軍が驚きましてね、同じ軍人だから
解るんでしょうね。ピカピカの戦車を見て、とても驚いていましたよ。
・・・・つづく
ベトナム解放戦線(1)
ベトナム解放戦線(2)
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このエピソードは昭和19年後半、ビルマの
イラワジ会戦における前哨戦で、イギリス軍(以下英軍)
が苦肉の末遂行した「お寿司の出前作戦」について記す。
この頃、第二師団工兵中隊の水野大尉は川岸の陣地で
英軍と睨みあっていた。英軍も、この時期になると日本軍の強さを
周知しており、いかに損害を軽微に抑えるか頭を悩ませていた。
最もよく用いたのが飛行機を飛ばして日本軍陣地の頭上へ
ビラを撒く作戦である。水野大尉は回想する。
「その頃の日本は紙は貴重品でザラザラの茶色いものが一般的でした。
ところが英軍は真っ白で表面ツルツル、しかも手書きでなく活字ですよ。
それを大量に撒くんです。圧倒的物量だと感じました。拾ったビラには
しっかりとした日本語で『日本軍はガダルカナルで大敗北を喫し大本営は
降伏の準備を始めています。皆さんも戦争をやめて家族のもとへ帰りましょう』と
そんなようなことが書いてありました。戦意喪失を狙ったものでしょう」
英軍が最も恐れたのが日本軍による夜襲であった。戦争を原則パート
タイムで行う英軍・連合軍に対し日本軍は作戦とあらば時間や場所を
構わず行動する。英軍は寝込みを奇襲されるので、気持ちの休まる時を
与えなかった。兵士の損害は無論の事、英軍は恐怖に震えあがり
精神的に疲弊を重ねていた。
「私も一度先頭に立って夜襲をかけました」
水野大尉は夜襲の様子を回想する。
英軍とて無駄に兵隊を死なせたくはない。
しかし日本軍将兵はドイツ兵と異なり、降伏という概念を持たない。
英軍はさらに知恵を絞った。寿司作戦の実行である。
ある日、英軍は日本軍陣地に対し拡声器でけたたましく放送を始めた。
ややたどたどしさが目立つ日本語放送だった。
「勇敢なる日本軍将兵の皆さん、我々はあなた方の為にお寿司を作りました。
〇日の〇時〇〇分に、××の地点に置いておきますから、取りに来てください。
その間、我々は紳士協定に基づいて砲爆撃、攻撃は一切しません。これは
我々からの贈り物です。毒も入っていませんから安心してください。
暫く祖国の味を楽しんでください」
この放送にはBGMが付いていた。誰もが知る歌謡曲
『誰か故郷を想わざる』だった。遠いビルマの地で日本兵の郷愁を誘う。
放送は水野大尉の耳にも入ったが、水野大尉はいぶかしがるどころか、
気にもとめなかった。部下には無視しろと一言だけ伝えて済ませた。
「だけど、どこにもおっちょこちょい(勇敢?)な兵隊がいるものでね
その寿司を取りに行ってしまったんですよ(笑)」
見れば確かに寿司だった。本当に置いてある。英軍が現地で在り合せの
食材で作ったのだろう。皿の代わりに大きな葉の上に乗せられていて
うまそうだった。
「僕は食べなかったんだけど、おもしろいことをするなと思いましたよ。
部下が行っている間、シーンとしていたし、食った部下も大丈夫で、
本当に毒は入っていなかった」
頼んでもいない出前寿司だったが、
有難く頂戴したところで、日本軍は降伏しなかった。
英軍の努力は無駄に終わり、これ以降、昭和20年にかけて
泥沼の戦いに推移してゆくのだった。
ここはビルマの最前線。
英軍も日本軍もはるかなる故郷を思い、家族を思い、
誰とて殺し殺されたくはないだろう。互いに、努力を続けていた。
そんなエピソードのひとつを紹介させてもらった。
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