2016年4月22日 (金)

笠井智一さんへのインタビュー

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今週は第三四三海軍航空隊で紫電改に搭乗されていた

笠井智一さんにインタビューをさせて頂きました。
 
こちらです
 
笠井さんは同期のみならず、戦友の方々の思い出をとても

大切にされており、お話の中で多くの戦友が登場しました。
戦友との思い出がメインですが、紫電と紫電改、乗り比べた
感想など、パイロット視点でのお話しも合わせて書いていきます。 
 
何篇かに分けて少しずつ書かせて頂きます。

拙サイトのようにアマチュアで零戦搭乗員の記事を書いている者も
少ないと思います。御見苦しい点などあるかと思いますが、
当時の若者が身を挺して日本の為に戦った事実を知ってほしいと
願っています。本に書いていない話もありますのでぜひご覧ください。
 
こちらです

2016年4月18日 (月)

涼風花先生

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当方も応援しております、栃木県出身の書道家、涼風花先生が
シャンプーのイメージキャラクターをなさっています。普段はお仕事柄
和服が多いのですが、お洋服をお召しになったお姿もレアでまた麗しい。 
このシャンプーが置いてあるドラッグストア等で拝めます。
地元出身ということで、これからも応援して参ります。
 
以前、無理に頼み込んで「零戦」と「紫電改」の文字を書いてもらった
のは宝物です。

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私は明日から零戦搭乗員の取材で
名古屋と大阪へ行って参ります。

2016年4月16日 (土)

熊本大地震

この度の大地震で被災されました方々へ心より
お見舞い申し上げます。また亡くなった方に
ご冥福をお祈りいたします。
 
東日本大震災の際もそうだったのですが
何か自分にできることはないかと考えるのですが
テレビの前で見守る事しかできません。自衛隊や消防の方々の
活躍を見守りつつ、我々は通常通り、仕事をこなし、
何かできることがあれば
協力していきたいと考えております。

2016年4月 7日 (木)

ちょうど去年の今頃

ちょうど去年の今頃、桜が咲いてから、雪が降りましたね。
そのときの撮影した写真です。

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今年は割合に温かい日が続いています。
 

Imgp8679 
最近では、空母瑞鶴の零戦隊でマリアナ海戦を戦い、生還された
藤本速雄さんにお会いしお話を伺いましたほか、
零戦で本土防空戦
(対B-29)を戦った中島又雄さんのお話なども伺いました。

記事をまとめていますので、もうしばらくしたらアップできると思います
 
依然、あちこち、取材に飛び回っております。

2016年3月28日 (月)

一式陸攻搭乗員天野環さんのお話(3)ソロモン海戦 マイナスを指す高度計

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前回『一式陸攻搭乗員天野さんのお話(2)
東京初空襲』
の続きです。

 
ソロモン海戦での壮絶な様子を語って
くださいました。戦友の死という
扱い、さらにご高齢にもかかわらず
これだけの事を体力を振り絞って
話してくださるのは
大変な事だと
考えています。

重ねて感謝申し上げます。
 
最後は一式陸攻で
敵艦船に水面を超低空で接近し
雷撃を敢行するお話です。
 

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◆ソロモン海戦出撃
ラバウルから一式陸攻24機編隊で出撃したんじゃ。
上みたら戦闘機が護衛してくれるし、下見たら、あの晩に
夜襲をかけた駆逐艦がシャーっと5、6隻行きよったよ。
 
「おー、日本はまだ優勢なもんじゃ」思ったで。
 
護衛の零戦は15機、来とった。戦闘機は速いんでな、
蛇行運動しながらついてきよった。
 
◆雷撃を敢行
いよいよ敵の船団が見えだしたらな、零戦が真っ先に増槽を放って
ドーンと反転して敵に突っ込むけんな。
敵の戦闘機に遭ったら
空戦せにゃならんからな。私らの一式陸攻は
雷撃するときは
編隊を解散して、一機ずつ。それぞれ目標決めてね。
 
Q、篠原
敵の対空砲火に飛び込んだのですね。
 
A、天野氏
歌の文句で「十字砲火」言うけどそんなもんじゃない。
・・・そんなもんじゃない。
敵艦船一隻だけでも高角砲を何十門、百門近く持っとるよ。
それが何十隻もあるんやからね。花火のようにボンボンボンボン撃たれるよ。
あれの中に飛び込んで行きよるけんの。何せ低空じゃから。
低空で突っ込みよるところ写真があったよなあ。それ見て。
その写真の中におったよ。

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▲8月8日に米軍艦艇から撮影された有名な一枚。
天野氏はこの写真の中に居た。水面ギリギリを飛行する一式陸攻の高度は
10メートル以下に見える。天野氏によればラバウルの地上でゼロに補正した
高度計はこのときマイナスを指していたという。

 
Q、篠原
雷撃の前に被弾したのですか?
 
A、天野氏
いや、雷撃の前からボンボンボンボン弾はあたっとるよ。
それでも雷撃進路に入ったら一直線よ。もう。
 
戦闘用意になったらな、操縦員以外はみんな機銃配置につかにゃいかん。
前席に7ミリ7がひとつ。後方に三つ、上で四つ目で、尾部に20ミリ。
20ミリは大きいよ。両足でこうしてドーーーっと
撃つんやけどな。一発の弾丸がこんなに長い。
 
その時、私は一番前方に居って、偵察やりよった。
敵の機動部隊がおって、敵の戦闘機を撃たにゃいかん。
もうしょうがないけんドッドッドッド撃っていたら、機長の今村兵曹が飛んできて
 
「天野!交代しろ!」
 
言うて、私は嫌じゃったけど「はい」言うて交代しよった。
それで私は後ろに下がって、スポンソンについて
機銃を構えた。一式陸攻の機体の両サイドにガラスの半球があろう。
あれをスポンソンと言うのがあるんじゃが
私は右側のスポンソンに付いた。
そのガラスが半分ガッと開くんじゃ。開いたと同時に機銃がパッと出るん
じゃけん、機銃が出たらすぐにこれを撃てる
ようになっとるけん。
 
根上兵曹という電信員が左側で撃っていた。
じゃけん、私は右側の
7ミリ7の銃口出してドンドンドンドン撃ったよ。
すると向こうも撃ってきよる。
もう船はスレスレじゃから。
甲板から撃ってきよるアメリカの兵隊が
見えるじゃけん
 
◆被弾、ペアの戦死
それから魚雷落とした。落として間もなくこっちも
ドンドーンて撃たれて。
墜落した。
 
大火災よ。機体も折れた。ちょうど、ここ(翼の付け根)からこう折れた。
海面に墜落して、ちょうど自分の居ったところが折れてめくれあがってな
海水がガーっと入ってきたんよ。上は大火災よ。
左側の根上兵曹がドボーンと海に飛び込んだけんな、私もその後
すぐに飛びこんだ。飛び込んでから暫く主翼が浮いとった。
私は主翼に
つかまったんじゃ。
 
そこから操縦席をチラっと見たらメイン操縦員の酒井兵曹が
飛び出ようと窓開けよった。そしたら火がガーッと回って見る間に
顔もみんな焼けて溶けながら死んでしもうたよ。サブの操縦員は
早めに頭貫通銃創で首から血を流して死んどったよ。
操縦員二人とも
死ぬところ見た。
 
それから、さっき交代してくれた機長の今村兵曹は吹き飛んでしまって
影も形も無い。尾部で20ミリ撃ちよるのは、飛行服ひっかけたように
なって死んどる。
上で機銃撃ちよった多々良兵曹は、弾が直撃して
首から上がこっち
吹き飛んできたよ。だから、これも死んだ。
操縦員の二人と、機長と、
尾部で機銃撃ちよったのと、
五人の死に様見たよ。
 
私も機長が交代してくれなんだら死んどる。
 
本来であればね、機長は機長席言うのがあるんじゃ。
そこへ座っとって合図するだけでええんじゃけど、いざ戦闘という事に
なれば、そうはいかん。
真っ先に前部の機銃に飛んできよった。
 
それで、墜落して、電信員と私だけが生き残って、海へ出てみたら
敵の艦船が林のごとく居る。
反対側見たらソロモンの島が見える。
ここへ行ったら友軍いるか思って
泳いで行くか言うて。
そのとき私は負傷しとったけん、泳ぐたびに
血が流れて真っ赤じゃろ。
これをフカが見て寄ってきた。
こうガブっと。噛まれとったで。じゃけん
フカを抱き寄せてな、
蹴っ飛ばして浮き上がって。電信員の根上兵曹が
20、30メーター
むこう泳いでいきよった。
 
「天野ー!死ぬなよー!早くこいよー!」言うて。
 
こっちはフカと格闘で、そのうちによう水飲んで気絶してしもうたよ。
 
◆救助される
それで本当なら、死んどんじゃがな。
今、考えてみたらよう生きていたなと思うよ。ほんと。
 
気が付いたらな、アメリカの駆逐艦の医務室じゃった。
裸にされて、ベロベロ肌を剥がされるんじゃから気が付くわい。
微かに見えるのが敵さんの看護兵じゃろ。これはいかん(捕虜になる)
思うたけど、動けん、どうにもならん。
大怪我したら水が飲みたいんよ。水じゃ水じゃ言うたってわからんけんな。
ウォーターウォーター言うとったら水持ってきてくれたがな。
やっぱりパイロットはある程度は英語は単語ぐらい覚えとかないかん。
それでまた気を失って。
 
その次に気が付いたのが、もう何日たったか。
両腕ぜんぶ包帯しておってな、顔も全部包帯。
目の所と、口ちょっと開けてジュース飲ませてくれよったで。
港へ着いて、トラックの上に運んでくれた。それで病院行ったんよ。
病院来てベットあって、ここは何処じゃろうかー?思いよったら
ベッドのところにウエリントンって書いてある。陸軍の兵隊なら
わからんで。
 
私は全国の首都くらいは知っとったけんな。ウエリントンいうたら
ニュージーランドじゃないかなあ、と思ったら
案の定。ニュージーランドの
北の島じゃった。
三国同盟じゃけんな、捕まったイタリア人もきとる、
ドイツ人もきとったよ。
 
電信員の根上兵曹も隣のベッドじゃった。あれ?これは顔が焼けて
しもうて相違うなと思うたけど
声聞いたらやっぱり根上兵曹じゃった。
 
「根上兵曹ですかー?」と聞いたら「お前天野かー?」言うて。
寝とったけど。
そうやって話すもんじゃけん、別々にされた。
別々にされてから一週間か10日か経ったかなあ。

体調が良くなったと思いよる頃に今度は拷問じゃがな。
「どっから来たんじゃ?」「兵科はなんだ?」なんて色々聞くけど
私は「ノーノー」言うとった。「兵科?わかりません」言うて。
通訳もおるんやけど。
 
Q、篠原
電信員の根上兵曹も生き残ったのですね
 
A、天野氏
ええ。根上兵曹は顔だけ火傷だった。ドッドッドッド泳ぎよって。
二人とも引き上げられた。何故かと言うて、後で聞いたらな
アメリカの飛行兵もだいぶその辺に落ちとったんじゃと。
それで飛行服着てるの全部つまみあげたんで、助かったんじゃ。
 
二人とも内地へ帰ったよ。ほいじゃけん、あの人(根上兵曹)は
北海道出身やけん。顔をひどく焼いておる。電信員やけん、
飛行帽こうあげとったから耳まで焼いとったよ。それでも顔隠すわけに
いかんけん。
半月もしないうちに凍傷で死んでしもうたよ。
お父さんから死んだという
手紙があったよ。生きたと思って
喜んでおったのが、内地帰って半月もせずに
死んでしもうて。
 
私は両腕、顔面火傷、ならびにフカ噛跡。それが傷病名。
 
◆最後に
特攻隊は訓練をやる暇がないけん、一発で爆弾抱いて行って突っ込めやと。
我々の頃は特攻隊と違ってな、出撃一回や二回じゃいかん、
ドンと魚雷落としてまた戻ってこい。戻ってきたらまた行け、
戻ってきたらまた行け、その繰り返し。私らは一回や二回では
死なせてくれんのよ。死ぬまで何回でも行くんじゃ。
 
熟練者もだいぶおったんやけど殆どがソロモン海で死んでしもうた。
同期なんかみんな死んでしもうて、おりゃせん。
 
死ぬのは怖くなかったよ。いずれは死なにゃいかん。
死んだら国の為、靖国神社にお参り来てもらおう、
そう思ったら何も怖い事なかったで。
 
今は死ぬの怖いなあ(笑)何の為にもならんのに。
まあ、そうゆうことで、ようやった思う。
 
おわり
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天野氏の参加した昭和17年8月8日の雷撃戦について
 
昭和17年8月7日
夕刻、ラバウル・ブナカナウ飛行場に池田拡己大尉指揮する三沢海軍航空隊
第二中隊の9機が到着する。
 
池田大尉はプリンスオブウェールズとレパルスを撃沈したマレー沖海戦に
参加した搭乗員だった。
天野氏の搭乗機は9機編隊(一個小隊3機×3編隊で一個分隊9機)
の第一小隊二番機(池田大尉の二番機)で
機長・今村一飛曹、主操縦員・酒井二飛曹、副操縦員・山中一飛、
搭整員・多々良二整曹、電信員・根上二飛曹、偵察員・天野二飛
攻撃員・山口二飛。
 
昭和17年8月8日
二十五航戦司令部より雷撃による敵輸送船団攻撃が下令される。
攻撃部隊は、第四航空隊に前日、ブナカナウに進出していた
池田大尉の三沢海軍航空隊の第二分隊9機(この9機編隊の二番機/
第一小隊二番機が天野氏の搭乗機)が加わり全28機で出撃が決定する。
 
午前五時三十分、離陸開始。第四航空隊の一機が離陸時に尾輪を折損したため
出撃を取りやめとなる。また、進撃中、三機が機体故障により引き返した為
第四航空隊と三沢海軍航空隊合わせて24機となる。護衛には
零戦15機がついていた。
 
ムンダを過ぎる頃から警戒配置が命じられ、一式陸攻隊はイザベル島を
左に見ながらマライタ島まで前進。そこから南下してツラギ沖の輸送船団を
狙う予定だった。フロリダ島東端を通過した一式陸攻隊を不調だった米軍の
レーダーが捉えたのは輸送船団まで僅か5分のところだった。
ただちにCAPのF4F戦闘機が邀撃し一式陸攻4機が撃墜された。
 
午前九時五十分、
一式陸攻隊に突撃命令が下される。この写真は8月8日に米軍艦艇から撮影された
有名な一枚である。天野氏はこの写真の中に居た。水面ギリギリを飛行する
一式陸攻の高度は10メートル以下に見える。
 
天野氏によればラバウルの地上でゼロに補正した高度計はこのときマイナスを
指していたという。F4Fの追跡から逃れた一式陸攻は弾幕の中に突入、
魚雷を投下すると、戦闘区域の離脱を目指す。
 
攻撃が終了しラバウルに帰ってきたのは第四航空隊が3機、三沢海軍航空隊が
2機のみ。他に三沢海軍航空隊の1機が不時着大破した。攻撃に参加した
24機中、18機が失われる結果となった。第四航空隊は小谷仟(こたにかしら)大尉と
藤田柏郎大尉が戦死し、三沢海軍航空隊もマレー沖海戦に参加した
池田拡己大尉が戦死した。
 
出典・佐藤暢彦著『一式陸攻戦記』199-202頁
 
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最後までご覧くださりありがとうございました。

  
一式陸攻搭乗員天野さんのお話(1)一式陸攻のイロハ
一式陸攻搭乗員天野さんのお話(2)東京初空襲
一式陸攻搭乗員天野さんのお話(3)ソロモン海戦
 
関連記事
実在する一式陸攻を見学に行こう

一式陸攻搭乗員天野環さんのお話(2)東京初空襲

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前回
『一式陸攻搭乗員天野さんの話(1)

一式陸攻のイロハ』の続きです。
 
昭和17年、米空母ホーネットから
飛び立ったドゥーリットル隊による 
東京初空襲の報せに呼応し、
米機動部隊の索敵、ならびに雷撃で
出撃したお話からです。
 
 

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◆米機動部隊を索敵雷撃
初陣は東京初空襲(ドゥーリットル空襲)の時じゃ。
東京がやられた言うのんでな、魚雷抱いて敵さんの機動部隊
探して飛んだんじゃ。
敵さんも一式陸攻がどのくらい飛べるか解っとる。
 
一式陸攻は航続距離がだいたい1500マイル。木更津からじゃったら大凡
サイパン迄。さらに、サイパンからラバウル行くのに丁度1500マイル。
行ったら帰らにゃならん。だから最大限が750マイル。
木更津から離陸して、三角航法で750マイル行って敵に遭わんから帰ってくる。
 
ところがあの時ね、着陸が夜じゃったけんな
私ら二番機じゃから、まず一番機が着陸するのを上空で
見て待っとった。ところが一番機が魚雷を抱いたままじゃけん、
着陸してドバーンといってしもうた。(着陸失敗炎上)
これはいかんゆうてな。私ら着陸やめて旋回しよったんよ。
 
そうしたら下からパッパッパッパッ、友軍が機銃撃ってきよる。
「えっ?」と思ってよく見よったらな、その機銃がモールス信号。
 
「カ・ス・ミ・ガ・ウ・ラ・ヘ・フ・ジ・チャ・ク・セ・ヨ」
 
私、それ見て機長に言うたんよ。
 
「機長!霞ヶ浦じゃー!」
 
「よーし、チャート持って来い!!」
 
そこに線引いてな、操縦は言うた通り飛ばすけん、
「〇〇度〇〇マイルー!」言うて
「はーい」とこうして回して。それで霞ヶ浦へ夜間着陸したんよ。
霞ヶ浦では実戦部隊で、しかも魚雷抱いたのが来たが言うて
同じ海軍兵とて大モテじゃったで(笑)
 
そうして、その帰りがまた大きな問題よ。あの時は、再度敵の
機動部隊追跡するから
「ガソリン満タンにせーい」言うて
離陸して、ここから索敵するぞいう時になって木更津から電報があって
「一旦木更津帰れ」と言うてきた。
 
これはガソリン満タンにしたところで、しょうがない。
みんな飛び立ってしまって。それで魚雷を落とす訳にもいかん。
しょうがないけん、東京湾の上空から大型機9機編隊で
ガソリンをダーっと出しよった。東京の市街地上空通りよったで。
当時、軍のやることは目をつぶっとったけん、今じゃったら大事で。
それで燃料空にして着陸したんじゃけどね。
 
その翌日や。軍令部はヘマばっかしよる。
東京を空襲した敵さんは、千島のさらに向こうにある
ダッチハーバーに帰ったんに違いないと言うて
また私らはガソリン一杯積んで、追っかけたんやけど、
居らんのが当たり前。敵さんは北上したんやない。南下したんじゃな。
 
結局あの部隊(ホーネット)は珊瑚海で撃沈はしたんやけどな
ヘマばっかりしよってからに。手を広げ過ぎてな、
あっち一個分隊、こっち一個分隊じゃ索敵にかからん。
 
一個分隊はだいたい9機編隊じゃ。
私は一小隊の二番機じゃから。どこへ行っても二番目に降りるんやな。
一式陸攻は3機編隊で一個小隊。3機、3機、3機の計9機編隊で
一個中隊(一個分隊)になるんやから。27機編隊が最大。普通じゃったら
9機編隊。
少ない時で3機編隊。私は先に着陸するけんな。海軍は
三点着陸ゆうて
サーッと前の車輪と尾輪とが三点に着地するように。
これがあまり慌てて早くしちゃろう思うたら前のめりになってとんぼがえりになる。
走り過ぎて滑走路オーバーすることもある。そんなことしよったら
母艦じゃとアウトよ。
 
東京初空襲の時は一式陸攻の他は殆どが戦闘機(ゼロ戦)やなあ。
向こうから来たら戦闘せにゃらなんなというんで。
戦闘機は高度6000くらいを木更津と東京間を待機しとった。
敵さんも敵さんじゃ。それを考えて低空で来たんじゃよ。
戦闘機の隙を突いて、横浜や東京に爆弾を落として
そのままスーっと、日本列島通り越して
上海のほうへ不時着した言うよ。
 
◆ミッドウェイ海戦
ミッドウェイへはウエーク島から雷撃に行ったよ。日本の機動部隊は
みんなやられてるんじゃが、
私ら一式陸攻はウエーク島からいっとんじゃけん。
あの時は敵に遭わんかってな、魚雷は抱いたまま使わんかった。
遭遇しとったら、やるかやられるか、わからんけど、戦果は無かったよ。
それでウエーク島へ帰ったんじゃけんな。
 
その後、サイパンに居る頃、ソロモンで4空がやられた、参加せい言うので
ラバウルへ飛んで行った。
 
つづき(ソロモン海戦へ)

 

2016年3月27日 (日)

一式陸攻搭乗員天野環さんのお話(1)一式陸攻のイロハ

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一式陸攻の搭乗員だった
天野環さん(93歳)にお話を伺いました。

 
天野さんは三沢海軍航空隊、のちの
第705海軍航空隊で一式陸攻に
搭乗し、東京初空襲呼応、ミッドウェイ
海戦、ソロモン海戦に参加した方です。
 
インタビューに
快く応じてくださり、本当に感謝です。
一式陸攻で戦ったお話を、少しずつ
書かせて頂きます。
以下、天野さんの
お話です。

 

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◆一式陸攻に乗るまで
私は最初は呉海軍工廠に努めよったよ。
そこで戦艦大和の一部を造っとった。
呉は日曜や祭日になると駆逐艦や巡洋艦から上陸した水兵が歩きよる。
それ見て「ああいう風な海軍の兵隊になりたいな」思うてな。
 

それでいずれ志願するんやったら飛行科がいい。
「飛行機に乗ったる!」と思うてな、呉で志願して呉の海兵団に入団したんじゃ。
海兵団入って、丙種予科練に合格たんじゃ。丙種予科練、丙飛と言うが、
予科練には甲飛、乙飛、丙飛と三種類あるんじゃ。その中でも丙飛が
一番戦死率が高い。
甲飛は当時の中学、今の高校じゃ。これを卒業した者が
志願して入ったのが甲飛。
乙飛は小学校卒業してから入る、いわゆる
少年航空兵じゃ。
 
そして丙飛。この丙飛と言うのが一番使い道がええんじゃ。
何故か言うたら、まずはそれぞれ所属の海兵団に入って
一般の兵隊、それぞれ専属の兵科を半年くらい経験してから
飛行科を志願したのが丙飛なんじゃ。
せやから、本当は丙飛が
一番優秀なんじゃ。
 
これは名前の付け方が悪いよ。何も知らん者は、甲乙丙言うたら
一番丙が悪い、ボロじゃと
思うもんね(笑)わしはその丙飛じゃった。
自分の名前よりは兵籍番號。今でも覚えとるよ。〇〇〇〇じゃ。
呉海兵団へ入団したのが大凡3900人。
そこから予科練行って
霞ヶ浦で練習生になったんよ。
 
霞ヶ浦でエンジンの分解組立や、基礎的な事を習って、今度は実際に
飛行機に乗るようになるんじゃが、これは岩国の航空隊じゃった。
あそこで初めて赤とんぼ乗り出したんよ。その頃に大東亜戦争が
始まったんよ。
敵の潜水艦が瀬戸内海に入りよった言うから、私らは赤とんぼに爆弾抱いて
飛びよった。
一番初めは九七練習機言うのが、あれ九〇やったか、
練習生が五人くらい乗れる練習機があって、それで瀬戸内海の上空
飛びながら射撃の訓練やら、
偵察の訓練やら、色々やっていくんじゃけどね。
 
飛行科はね危険加俸と言うのが付くんじゃな。今でも飛行機乗るには
住所名前書かにゃならん。
いつ墜落するかわからんから。汽車は無いでしょ。
飛べんかったらポトンと落ちよるんよ。だから危険加俸が付く。
その他には、朝方と、晩方の飛行。これにも付く。
朝は黎明(れいめい)飛行。晩が薄暮(はくぼ)飛行。
ちょうど日の暮れ方、明け方が危ないんじゃ。特に離着陸は。
だからこれも危険加俸が付く。
 
ただ飛行機に乗るだけではいかんのよ。上空で機上作業せにゃいけんのよ。
電信やったり、機銃をドンドンドンドン撃ったり、この撃つのがまた難しいんでな。
吹き流しを50メーター離れたとこから、撃ち込まなきゃならん。
あんまり前だと曳的機撃ってしまう。といって、後ろへやると弾が流れて
しまって当たらん。ほいで4、5人が乗って
いっぺんに打ち込むんよ。
弾の先に色付けて赤じゃ紫じゃ無色じゃ言うて。
誰が赤じゃ、紫じゃった
言うのは解っとるから、
吹き流し落として、赤がなんぼ、紫がなんぼ言うて
ヘタクソは何回でもやらされる。
 
それぐらいじゃ済まんよ。何も悪いことせんでもビンタくらいは軽い事。
バッターいうて最低10回。多い時は30回くらい。それでフラフラして倒れると
「貴様これくらいで」とひっぱっていって、またバーンと徹底的に気合
入れられるよ。
今の若い者じゃ、とてもじゃないが無理じゃ。
「逃げたい奴は逃げ!死にたい奴は死ね!」
言うて、
逃げて帰る訳にはいかん。万歳万歳で送り出されとるんけん。
今ならええよ。上官が酷か言うて帰ったら、上官のほうがやられるかもしれん。
昔はそんなもんじゃない。
 
しかも軍隊では一階級違っただけ天地の差があるんよ。
私はサイパンにおったときに非戦闘員に殴られたよ。
非戦闘員言うのは医官と、飯炊き。戦争しやせん。
 
それに私は殴られてな。それでも一階級上だからしょうがないのよ。
あそこでは私が一番若い兵隊じゃったから。食事当番じゃ。
一機ずつ索敵に出るんじゃから、敵の機動部隊見つけたら原隊に報告して
爆撃なり雷撃なり行かにゃならん。大型機じゃけん、私のペアが7人居る。
(海軍では同じ機体のクルーを三人以上でもペアと呼称した)
 
飛行から帰って、食事を取りに行った。そしたら食卓の兵隊が一等兵。
私は二等兵じゃ。「貴様、取りに来るのが遅いじゃないか」と言って
ボンボンボンボン殴られて。ほいやけど自分らのペアが待っちょるけん、
泣きながらでもご飯持って行って。わしは悔しかったよ。ほんまに。
操縦だった坂井兵曹が・・・ああ、坂井兵曹も後に死んだよ。
死ぬとこ見たよわしゃ。・・・その坂井兵曹がわしを見て
「天野、どうしたんだ、なんで泣いてるんだ」と聞く。
「こういう訳です」なんて言うたら次に行ったらまたやられるけんな、
わしゃ黙っとったよ。自分に言い聞かせたよ。
飯炊きに叩かれてどうすんじゃ!あんなもん非戦闘員じゃが!
戦をするのは我々ぞ!叩かれたくらいでどうすんのじゃ!そう思うてな。
 
Q、篠原
ずっと同じペアだったのですか?
 
A、天野氏
ええ、一式陸攻乗ってからずっと同じ。
東京初空襲、ミッドウェイ、ソロモン海戦で
皆戦死するまでずっと一緒。
一式陸攻の321号機じゃった。三沢海軍航空隊。
のちの第705海軍航空隊。300番台が攻撃機じゃったんよ。
 
一式の尾翼に番号が書いてあって上に白い直線が一分隊。
私は二分隊じゃけん真ん中の線じゃった。三分隊が線が縦になっとん。
私は321号じゃった。私は一小隊の二番機じゃったんよ。
 
◆一式陸攻のクルーとそれぞれの役割
Q、篠原
一式陸攻の搭乗員について教えてください。
 
A、天野氏
一式陸攻は7人乗る。操縦員がメインとサブで2人。
右の席がメインで左がサブ。偵察員もメインとサブで2人。
飛行機にもよるが私のとこは機長がメインの偵察員で
私がサブの偵察員で一番前の席におったけん
それと、電信員、搭発員(搭乗整備員)、射爆員、それで全員じゃな。
 
木更津辺りで訓練する時は、一式陸攻は一機ずつの着陸じゃったけど
零戦は小さい飛行機じゃから三機編隊で離着陸しよったで。
 
Q、篠原
操縦もされたのですか。
 
A、天野氏
操縦員が撃たれて死んだら、どうするんじゃ。
操縦も知っておかにゃ。一式乗りは何でもやる。
 
通信もですよ。専門の電信員はモールス信号を最低でも120以上。
それ以外の搭乗員でも100は打ったり受けたりせにゃならん。
トンツートンツートントン。それも知らんじゃったら飛行機乗れんよ。
電信員が死んだら自分がせにゃいかん。一式陸攻乗ったら、何でも
出来なきゃならんのよ。操縦が出来ません、電信が出来ませんじゃあ
通用せんのよ。
戦地へ行かせてくれん。出来るまで内地で一生懸命練習じゃ。
射撃もせにゃいかんよ。機銃ドッドッドッドッ撃つ。
 
Q、篠原
一式陸攻の操縦はどうのように行うのですか
 
A、天野氏
まず、計器はみんな英語になっとんじゃけんな。
パイロットも偵察員も皆、英語を習わされる。その計器を見ながら、
ボボボボ吹かしていったり、飛ばしていったりする訳や。
ハンドルはもう、これ(持ってるだけ)着陸のときだけちょっと難しい。
離陸したら自動操縦装置に切り替えて、例えばサイパンならサイパン、
〇〇度、〇〇マイルと、地図で見て南方へ行くんじゃったら
180度じゃろ。それ考えてな。高度三千なら三千に決めて、
それに合わせたらあとは自動操縦装置でも構わん。
 
操縦員は操縦専門以外に偵察を習っとかなきゃならんが
偵察員も操縦くらいやらなんだらいかん。
 
Q、篠原
兵器の扱いについて教えてください。
 
一式陸攻は30キロ爆弾じゃと12発。500キロで2発。
魚雷は800キロやから一本しか持てん。最大で1トン、プラス
200か300キロなら積んだ。30キロ爆弾を12、3発積んで
それを同時投下、あるいはタンタンタンと一個ずつ落とす。
艦船の場合は同時投下やな。照準器を見て
 
「爆撃用意(ばくげきよーーーい)」
「チョイ左、チョイ右」
 
言うて標的がレンズの十文字に重なってくる。
 
「投下用意(とうかヨーーーーイ)
 
言うてレバーを下げたら、レンズの都合で標的がいっぺんにサーっと
逃げるんじゃ。
実物が逃げるんじゃなくて(機体の速度に対して地上の
目標が静止しているため)
それで十文字の真ん中に丁度来るように操縦を。
うまいことうまいこと「チョイ右」「チョイ左」で合わせて
 
「ヨーソロー」「投下ヨーーーイ」「投下ーーー」
言うて落とすんじゃけどね
  
その訓練をサイパン島でやったよ。高度8000で。訓練で使うのは
煙硝爆弾。煙硝爆弾はガラスになっちょるから落ちたら割れて
煙幕がモクモクモクモク上がって、高度8000から見ても分かった。
 
今度、雷撃はね、大分の航空隊におった頃から、別府湾の沖でやりよったよ。
昼挟んで午前と午後とで交代して訓練やったよ。魚雷は一度放ったら
終わりやで、それで擬雷ゆうの使って。
ヒレが無いといけんのじゃ。
あれは強板言うてな、ベニア板。
強板があるから爆弾みたいに
そーっと落ちるんやがな。
そうやって色々やったよ。
 
一式陸攻で土佐沖の艦隊訓練にも参加しとる。木更津から土佐沖まで
飛んで行って、上空から
陸奥、長門が取り巻いて、その中でも
一番大きなのが大和じゃった。
空から見たよ。
「おお、あれが大和じゃ」言うて。
それでずーっと低空で飛んで、
雷撃訓練やったよ。
 
雷撃は実戦では三回行ったよ。東京初空襲の時(ドゥーリットル空襲)と
ミッドウェイ海戦と、ソロモン海戦。
爆撃より雷撃のほう絶対、命中率が
高いけんな。
魚雷抱いて敵の艦船のマストスレスレの高さで飛んで
だいたい1キロくらい手前で魚雷落とすんじゃけんな、ほいじゃが
飛行機のほうが魚雷よりちょっと速い。後を見よったら命中したの
すぐにわかるけんな。
 
一式陸攻搭乗員天野さんのお話(2)
東京初空襲

2016年3月22日 (火)

第三四三海軍航空隊(彩雲隊)杉野さんのお話

元三四三海軍航空隊第四飛行隊(奇兵隊)で彩雲に
乗っていた杉野さんにお話を伺った。
 
杉野富也さんは福岡県三池郡出身。
予科練乙種の18期(土浦海軍航空隊)出身で
第343海軍航空隊偵察第四飛行隊(奇兵隊)へ配属。
「彩雲」に搭乗し電信員を務めた。邀撃戦でエンジン不調、引き返す。
その後ペアが爆撃で負傷の為、鹿屋で待機中終戦を迎える。
戦後は海上自衛隊で飛行艇搭乗員と教官を務める。
 
Q、彩雲は誉エンジンですが
 
A、杉野氏
あいつはよくなかったですねー。
 
Q、故障が多いということですか。
 
A、杉野氏
ええ。
 
Q、予科練では乙の18期ですね。
 
予科練(乙18期)では適性検査といって
敵性を見るために四回操縦桿を握らせるんです。
それを土浦海軍航空隊で、水上機でやりました。
 
Q、同期の話をお伺いします。
 
A、杉野氏
乙18期の同期は実戦に出てきたのが昭和20年の4月頃ですからね。
同期でも偵察は半年したらもう実戦部隊に出てますからね。
訓練はナビゲーションとトンツーが出来ればいいんですから。
だから昭和19年10月11日に私らは実戦部隊に出て
私は教育部隊の班長になったんですけどね。
 
中島という同期が当時、百里原で九九艦爆の教官をやっていました。
片一方は同期でも練習生ですよ。同じ同期でも一方は教員で、
もう一方は練習生。バッターくらって、それが終わってようやく出てきたら
特攻で死んでるんですよ。随分違いがあるんですよ。
だから彼らは本当に可哀相だったですね。
 
横浜出身の同期は姫路航空隊を出て串良から九七艦攻で特攻行ったんです。
そいつがね、大きな爆弾を積んで離陸するとき先任搭乗員に
離陸の仕方を教えてもらって離陸したようなんですよ。
ようやく飛べる状態ですよ。先任搭乗員から「離陸はスピードがつくまで
操縦桿を押さえて引くな」というようなことを教えてもらったそうですよ。
 
愛知県小牧出身の土屋関男、これも同期ですが
松山の基地から出て行ったのが5月13日。
沖縄の偵察に行って帰ってこんかったですね。
あいつはまだ18くらいじゃなかったかな。子供みたいな顔しとったですよ。
 
◆零式練戦の特攻機を見送る
 
松山の基地で、実際に私がチョーク外して見送った零戦の練習機がありました。
4月の5日か6日かな。城山の桜が満開の頃に、4機編隊の
零式練戦が茨城の矢田部から松山へ飛んできたんですよ。これが同期の
藪田博二飛曹(大阪)と黒野義一二飛曹(兵庫)と吉永光雄二飛曹(鹿児島)と
川端三千夫二飛曹(和歌山)でした。※1
この四人の写真が護国神社の
神楽殿にあるんですよ。背の小さいのが藪田です。
四人で編隊組んで降りてきたんで私は
「おーいお前ら、基地移動訓練か」って聞いたんです。そしたら
「いや、今から鹿屋に行って特攻だ」と。
 
土地の名前がついている航空隊は練習航空隊なんですよ、
番号が実施部隊。だから矢田部で訓練終わったばかりで出て来てるんです。
それも零戦の練習機で。あいつらは・・・いつ死んだんかな。
 
◆同期の神雷部隊を見送る
島雄順次郎という一番仲の良かった奴が居るんですよ。
予科練と飛行練習生の半年と、レーダー講習の2ヶ月と
全部で1年半近くも私と同じ班で、一緒に飯食ったんです。
こいつが、予科練で体操のナンバーワンだった。
それが高知の練習航空隊で転勤命令受けてね、急いで出て行こうと
してたんですよ。私は
「島雄、ちょっと待て待て、とにかく慌てて出て行く必要ないよ。
夕方まで待てよ。俺外出して後免の駅まで送るから下宿で待ってて」
と言って止めたんです。後免の駅で2月1日手を握って別れるとき
 
「島雄、今度は俺が転勤しそうな感じがする。お互い長生きしようぜ。死ぬなよ」
って言って別れたんです。奴はそれからちょうど50日目の3月21日、
鹿屋から神雷特攻で死んだんです。一式陸攻の野中五郎さん。
あのときの神雷特攻で同期が9名戦死してるんですよ。
 
私は5月22日に鹿屋に行きましたからね。
ペアが爆弾で吹っ飛ばされて鼓膜破ってしまって
6月の初めから7月7日までフライトなしでしたから
航空弁当持って戦闘指揮所に居ました。
 
夕方になると、一式陸攻が桜花を抱いて、滑走路をいっぱいいーっぱい使ってね
上がっていくんですよ。ウワンウワンウワンウワンって(抑揚の大きな音)
本当にフルパワーでね。もういっぱいいっぱいで。ようやく離陸していくんです。
零戦が爆弾抱いて上がっていくのも見ましたけど、桜花抱いた一式陸攻は
可哀相だったですね。
 
◆鹿屋で同期の白菊特攻を見送る
それから白菊特攻で出ていった同期を
手握って鹿屋の基地で送ってやったんですよ。
白菊なんて本当に可哀相だったですよ。機上作業練習機で。
 
有賀康男一飛曹は岐阜(長野かも?)の奴でした。
これは優秀だったんですよ。偵11の同級生が「俺は小学校のとき
勉強から何から全て有賀に勝てなかったよ」って言ってました。
 
6月19日の夕方に戦闘指揮所に居りましたら
迷彩してある白菊が次々飛んできて降りるんですよ。
双眼鏡でパッと見たら高知のマークがついてるじゃないですか。
 
「わー高知の練習白菊隊が来た」ってその場ほったらかして走っ
て行って降りてきた白菊を途中で止めてねそしたら同期の奴が乗っとった。
熊本の杉村ちゅうのが。「乗っていいか?」って聞いたら「乗っていい」という
からドア開けたら500キロのマグロみたいな爆弾が座席の横にワイヤーで
くくってあったですよ。「信管抜いてあるから大丈夫」というんで
それに乗って待機所まで行ったんですよ。

そしたら「おおい、杉」と呼ぶので見たら有賀だったんですよ。再会です。
そこに基地の分隊士で教官だったミサワさんが来て
「杉、お前、何乗っとるか」というから「彩雲です」といったら
「おお、いい飛行機に乗っとるなあ」と喜んでくれてね。
 
有賀からは
「自分らは白菊で特攻に行くんだ」と聞いて
「こんなオンボロで?」と思いました。白菊はプロペラは桜の木で
出来てるって聞きました。翼はハンプで、帆かき船の帆。
あれに塗装してあるだけですよ。乗ったらボコボコ。胴体はベニア張り。
それに500キロ爆弾。翼にはぶら下げてなかったですね。
翼に250キロずつぶら下げたら翼がもたんかたんじゃないですかね。
だから、胴体の座席の横に500キロを積んだんだと思います。
 
翌朝、奴は「杉、先に行って待ってるぜ」って言って出て行ったですね。
これだけは忘れませんね。
 
有賀は、「ワレ突入ス」まで打ったんです。
駆逐艦か何かにぶちあたったんだそうです。
ミサワさんが米軍のラジオを傍受していて命中したのを
確認してるんですよ。奴は指揮官機だったから無線機を積んでいた。
 
それ以前の5月24日か25日に高知か徳島の白菊が、串良から特攻に
出てるんですけど(5月22日に、高知は鹿屋に、徳島は串良に)
私ら彩雲は同じ日に鹿屋に行ったけど待機所や時間が違うから全然
知らんかったですよ。あとで特攻に行ったのを聞きましたですけどね。
その時、飛び上がって1時間ぐらいしてからですね、生電、いわゆる
暗号に切り替えてない電報で
「お父さんお母さんさようなら」とか「お姉さんあとを頼む」
「〇〇さんお世話になりました」とか「みなさんによろしく」とかね、
1時間くらい生電が飛んだんだそうですよ。そのうちに
ヒ連送、ヒ連送というのは「ワレ敵戦闘機ノ追跡ヲ受ク」とかですね。
そういう暗号なんですよ。それでピタっと止まった。
この話はミサワさんの白菊特攻に書いてあります。
 
それから電信機はみんな降ろされて。だけど
有賀の奴は指揮官機だったから積んでいたんですよ。
でもね、本当に哀れですよ。
 
私は今でも毎年、高知の慰霊碑にはお参りに行きますけどね。
今年は有賀が出て行った6月20日に行きました。
もう私一人になりましたね、お参りに行くのは。
島雄と有賀の話は中学校でも小学校でも愛媛大学でも(講演会で)
どこへ行っても話すんですよ。
 
◆その他

Q、戦後海上自衛隊では飛行機乗られたんですか。

A、杉野氏 
ええ。PVに乗って、それから大村に行ってJRFグースゆうて
飛行艇ですね。それからPBYカタリナ、UF2、そこまで乗って地上勤務に
なりました。大村で地上の教官過程ができたんですよ。
トレーナー使って計器飛行の指導とか簡単なシミュレーターですね。
フードかぶって。そいつで計器飛行のやり方をしとったですね。
実際に教官配置でしたのは13年半ぐらいでした。
岩国に1年、宇都宮に行って、宇都宮3年。それから小月(山口県)に
行って9年。ここは海上自衛隊の練習航空隊があります。
最後は三佐にしてもらって、飛行隊長の下に飛行班長と飛行教育班長と
地上教育班長といて、私は地上教育を受け持ってました。
 
最後は下関におりましたが、計器飛行をやっていて
「これは敵性無しだから落とせよ」っていう防衛大出の人がいたんです。
危なかった。でもやめないからフライトの教官に、やめさせたほうがいいよって
言ったんです。結局、それが岩国の飛行艇で高知の檮原に激突して
11名全員殉職です。それが昭和53年の事故だったかな。
昭和53年のついの頃です。やっぱりついの頃には航空事故が多いんですよ。
視界不良でね。
 
それから覚えてるのが、山田さんっていう甲の1期の人やったけど
あの人がなんで死んだか不思議なんです。とても慎重な人でしたから。
海上自衛隊で最後は二佐だったかな。旧海軍時代は「東海」という
対潜、潜水艦用の急降下爆撃機に乗っていたみたいです。

木更津か豊橋の基地だったか。その前は、水上機だった。
戦争生き残って、海上自衛隊生き残って(定年退官)
その後、民間航空に行って、鈴鹿山脈のどこかに突っ込んだ。
事故の原因がわからなかったんですが、おおむね黙って死ぬのは
山だということです。海の上だったら何とか電波を出します。
だけど突然山に衝突したら電波出す間もないから、黙って死んだときは
だいたい山を捜せばいいよってことですね。
慎重な人だったから本当に不思議です。

  
 
※1
藪田二飛曹、川端二飛曹、吉永二飛曹は昭和20年4月29日
鹿屋より出撃戦死。黒野二飛曹は同年5月11日出撃戦死。

2016年3月20日 (日)

既存のフォントを改造してステンシルフォントを作る

Photo

 

「漢字のステンシルが欲しい!」というお問い合わせをよく頂きます。
 
英文なら無料のフリーのフォントも多いのですが
和文漢字(日本語)は高価で、ちょっとだけ使いたいけど
そんなに沢山は使わない、もしくは好みのデザインが無い!という場合に
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2016年3月13日 (日)

一式陸攻の操縦席より

Koko_2

元一式陸攻搭乗員、天野さんに
お話を伺った。
 
天野さんは三沢海軍航空隊で
一式陸攻に搭乗し、
ドゥーリットル空襲で
の索敵、のちミッドウェイ海戦に参加、
 
最後はラバウルから出撃し、水面
すれすれで
敵艦船に雷撃を敢行したが
対空砲火で被弾、機は炎上しながら墜落。
 
乗員7名のうち6名が戦死。天野さんは
炎上する機体から脱出し
唯一生還した。
 

Photo 
一式陸攻(中攻)の損耗率は非常に高い。
生還できたのは幸運中の幸運と言えよう、
「特攻隊は一度限り、だけどわしらはラバウルから出撃して死ぬまで
使われる」という言葉が印象的だった。
 
まずお借りしたこの写真は一式陸攻のコクピットで撮影した一枚。
天野さんが写っている側が主操縦席(右側)で、左側は
副操縦席となる。
 
一式陸攻は七人乗りで、原則、常に同じペア(同じ機体のクルーの意。
3人以上でもペアと呼んだ)で飛ぶ。天野さんもドゥーリットル空襲索敵の
初陣からミッドウェイ(ウエーク島発進)、ラバウル進出まで、いつも
同じ仲間と飛んだ。
 
一式陸攻の戦いを
少しずつ書いていくことにしよう。
 
一式陸攻については写真が多くあります。こちらをご覧ください。