講演会
今年も講演会の依頼を随分と頂いております。
本当にありがとうございます。今年はなんと関西からも
ご依頼くださいました。終戦の日前が多いのですが
それ以外の日も行っております。
講演会の魅力は、ブログや本に書けないような裏話が
たくさんできることです。案内は、随時更新していきますので
よろしくお願い致します。
今年も講演会の依頼を随分と頂いております。
本当にありがとうございます。今年はなんと関西からも
ご依頼くださいました。終戦の日前が多いのですが
それ以外の日も行っております。
講演会の魅力は、ブログや本に書けないような裏話が
たくさんできることです。案内は、随時更新していきますので
よろしくお願い致します。
元ゼロ戦パイロットで空母「瑞鶴」戦闘機隊だった藤本速雄さんに
インタビューしてきました。藤本さんはマリアナ沖海戦で一航戦
「瑞鶴」に乗組み、奇跡的に生還された搭乗員です。
第一次攻撃隊128機のうち、帰還できたのは
戦闘機隊(零戦)が藤本さんを含む5機のみ
(内3機の搭乗員は大鳳に着艦し、沈没戦死した。)
彗星艦爆は2機、艦攻(天山隊)は全滅。
篠原
「藤本さんは彗星艦爆の護衛でしたね」
藤本氏
「みんなやられてしもうた」
藤本さんは上方より敵機が降ってくる仕草をして
悲しそうな表情を浮かべる。
ここで兎に角伝えたいのはマリアナ沖海戦の評価で流布されている
大きな誤解「搭乗員の練度不足」である。これを藤本さんは
真っ向から否定する。
藤本さんは
「練度不足、そんなものは作戦本部の言い逃れだ」
「空母への着艦は簡単だった」とも語っており、
経験の浅い搭乗員は発艦はできるが着艦はできない、といった説も
嘘になる。では、帝国海軍がマリアナ沖海戦で敗北した一番の要因は何か。
日本とアメリカの戦力が違いすぎる!
帝国海軍機動部隊の飛行隊は一、二、三航戦全て合わせても約400機。
これは戦闘機、爆撃機、雷撃機全てを含めた数だ。
主力である一航戦は149機。それに対し、米機動部隊は
15隻の空母から戦闘機だけで450機。爆撃機、雷撃機を合わせると
約950機。日本を遥かに凌ぐ勢力である。
藤本さんの所属する一航戦の戦闘機は
僅か48機で、彗星と天山合わせて80機を護衛した。
藤本氏
「九死に一生どころじゃない。千死に一生やと思う。
もし、逆なら、私は敵を一機も帰さん」
技量云々の問題ではない。多くの熟練搭乗員も未帰還となっている。
マリアナ沖海戦の話、そのほか雷跡に突っ込んでゆく彗星艦爆を見た話、
前衛の艦隊に誤射を受けた話、その後フィリピンで特攻の
護衛を行った話など、伺った。
このインタビュー内容も少しずつ書いていきたいと思う。
追記
先日お会いした笠井さんも、紫電改はグラマンよりも優れた
戦闘機であったが、どんなに高性能でも数が違う。これではダメだ、そう
仰っていた。
なお、一航戦の生還者である藤本さんは『今日の話題』で
手記を発表している。NHKアーカイブスでもネット視聴可(無料)
もう一人の白浜芳次郎さんは
『不屈の海軍戦闘機隊―苦闘を制した者たちの空戦体験手記』
(光人社NF文庫)で手記を発表している。書店、amazonで入手可。
追記
藤本速雄さんは
2016年12月28日にご逝去されました。
零戦パイロットの原田要さんが3日、ご逝去されました。99歳でした。
100歳の誕生日にはお祝いに行こうと、友人と話していたのですが
残念です。言葉にならない悲しみがあります。
ご高齢の方と多くお付き合いがあると、
もう次は会えないかもしれないと、一応に覚悟はしているのですが、そうはいっても
何度経験しても身を引き裂かれるような悲しみと辛さは変わりありません。
こんなことなら、もう、やめてしまいたいと思う事が何度もありました。
そうして研究をやめていった者も居ります。
しかし、やめるわけにはいかんのです。やめるわけにはいかんのです。
最後にお会いしたのは昨年でした。原田さんが
「どうぞ、また来てください」と、手を振ってくださって
にっこりと、穏やかな表情で言ってくださったことを思い出します。
忘れません。ご冥福をお祈り申し上げます。
原田要さんのお話 撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない
稲妻マークが描かれた雷電、その格好よさから
プラモデルのパッケージなどにも描かれ有名な機体であるが
搭乗員の青木義博中尉の人物や戦歴について言及した資料は
殆ど残されていない。この頁では青木中尉の調査を重ね、少しずつ
完成に近付けていこうと考えている。
青木義博(あおきよしひろ)中尉は
予備学生11期出身で大学在学途中から海軍に入隊。
青木予備中尉とも呼ばれる。青木中尉の所属した
第352海軍航空隊は予備学生出身の指揮官が多い
特異な航空隊でもあった。
台南海軍航空隊時代
青木中尉の実戦は台南航空隊時代から始まる。
ここで記す台南海軍航空隊(以下台南空)は
南方へ進出した有名な台南空でなく二代目となる。
昭和18年4月に開隊した二代目台南空は
艦上機の実用機教程を担当する部隊に防空用の
乙戦隊(雷電)と丙戦隊(彗星)が必要となった。
台湾は陥落したマリアナに次ぐ決戦場のフィリピンの
後方基地にもかかわらず、実戦用ナンバーの航空隊が置かれていなかった。
(土地の名称がついた航空隊は訓練航空隊で、番号のみは実戦部隊となる)
台湾および北九州は、既に支那大陸の成都に配備されつつあった
超空の要塞B-29が爆撃可能な距離にあり、支那大陸南部からは
B-24の行動半径にも含まれた。そこで零戦のほか雷電の派遣が
決定された。
青木中尉、雷電との出会い~P-38との初空戦
昭和19年7月初旬、台南空の戦闘機隊分隊長だった青木中尉と
高橋茂上飛曹ら三名は厚木基地へ赴き雷電の講習を受ける。
講習終了後に鈴鹿基地へ移動し、雷電二一型3機を受領。
先ずは、この雷電3機を台湾へ空輸すべく鈴鹿基地を離陸した。
ところが、この内1機は鈴鹿で片脚が出ずに破損。
代機をもらったが、追浜と沖縄で1機ずつ破損したため
台南基地へ空輸できた雷電は1機のみであった。
この1機に青木中尉が搭乗し、台南で飛行訓練を行った。
昭和19年9月頃、青木中尉は、台南空で雷電の
訓練飛行中、大陸から飛来したP-38と遭遇、空戦に入った。
この空戦は青木中尉が急操作で横転降下したため
未決着に終わった。
同年10月中旬の台南沖航空戦で台南空の零戦隊は
邀撃戦に参加したが
青木中尉の雷電は出撃せずに終わった。※3
第352海軍航空隊へ
昭和19年12月下旬、台南空(二代目)が解散。青木中尉は台湾より
長崎県大村へ移動し、第352海軍航空隊乙戦隊第三分隊長となった。
▲青木義博中尉と雷電
▲昭和20年冬、青木分隊長機を背に針路を検討する予学出身搭乗者。
左から菊地少尉、山本少尉、星野少尉、金子少尉。
▲小隊長機の稲妻マーキングは写真が残っていないので推定。
稲妻マークの雷電誕生
第352海軍航空隊乙戦隊では、青木分隊長の着任後
雷電にユニークな塗装を施した。分隊長機には2本、小隊長機には
1本の太い稲妻を胴側に描いた。※1
「雷電だから、稲妻でいこう」
と言い出した栗栖幸雄飛長(特乙一期)の発案とされる。
おしゃれな青木中尉はずいぶん気に入ったようだ。※1
昭和20年1月6日、大陸・成都基地より北九州へB-29が来襲。
第352海軍航空隊の主力、雷電隊はこれを迎撃したが
このとき青木中尉が出撃したかは不明。さらに
4月末より約三週間、第352海軍航空隊は雷電集成部隊
(他航空隊と協同した雷電隊)に編入されB-29邀撃にあたる。
稲妻マークのアイディアを出した栗栖飛長もB-29を一機撃墜している。
二本の稲妻が描かれた352-20号機は、青木中尉が搭乗する以前から
士官に主用されており、乙戦分隊長杉崎直大尉、先任分隊士の
沢田浩一中尉が搭乗し、青木中尉に引き継がれた。
青木中尉が稲妻マークを描いた機体に搭乗したのは
大村時代までで、鹿屋進出後は、目立ち過ぎを考慮したのか
明確な理由は定かでないが、稲妻マークなしの352-37号機に
乗り換えとなった。※2
昭和19年6月8日、第352海軍航空隊空乙戦隊は
岡本俊章大尉の指揮で鳴尾(兵庫県)へ後退。
搭乗員は第332海軍航空隊へ編入される。
岡本大尉は築城(福岡県)の203空に転じた。
このとき、青木中尉は航空神経症にかかる。
航空神経症は気圧調整の無い航空機で高高度の飛行を続けることにより
過度の気圧変化や酸素不足となり、頭痛、めまい、吐きけ、だるさ
記憶力減退、呼吸困難などの症状を引き起こす病。疾病により
青木中尉は夜戦隊付の身分で大村に残留。終戦を迎えた。
青木中尉の戦後
下記サイト「旧軍戦史雑想ノート」様に依れば
青木中尉は復員時に大尉。生きて終戦を迎える。
戦後、海上自衛隊に入隊しヘリコプターに搭乗したが
昭和37年、事故によりヘリコプター事故により殉職したと記されている。
これを見て、海上自衛隊の事故記録を探ったが、当該の記録が
見当たらないので今後もよく調査を続けることにする。
※4
戦中は雷電でB-29邀撃に身を挺し、戦後国の為に殉じた青木中尉を
忘れない。
追記!こちらの本
『局地戦闘機「雷電」―海軍インターセプターの実力』の中に
青木中尉ご本人が書かれた手記が掲載されています。
昔、丸に掲載されたもののようです。
興味がある方はぜひ!
出典
※1渡辺洋二著『異貌の海鷲局地戦闘機「雷電」』284頁
※2『世界の傑作機No.61海軍局地戦闘機雷電』70頁
※3同53頁
※4旧軍戦史雑想ノートhttp://ameblo.jp/pico3298/entry-10000309129.html
先日は元近衛歩兵第二連隊で100歳の方にお会いし
インタビューしてきました。
近衛歩兵というのは、天皇陛下の親衛隊です。
当時から皇宮警察はありましたが、それとは別に
日本陸軍二個連隊が宮城の警備を行っておりました。
周知の通り、現在の自衛隊は皇居の警備は行いません。
タイトルは「みやぎ」ではありません。宮城(きゅうじょう)と呼称します。
昔の皇居の呼び名です。
この方は
先の大戦時にも宮城の警備を担い、終戦の日もクーデター側の
将校から玉音放送のレコード盤を奪還せよとの命令を受け
宮城内を探し回ったと、お話しくださいました。
このときは兵卒として上官の命令に従っただけなので、
罪には問われませんでした。クーデター終結し、
戦後しばらくは奥日光の南間ホテルで
皇太子の警備にあたりました。(今上陛下であります)
近衛歩兵は通常の歩兵とどう違うのですか?との質問には
訓練内容は通常の歩兵と変わらないが、
ハクをつけるため、戦地(この方の場合は北支)に派遣され
歩哨を行ったとのことでした。
近衛歩兵になるには、特に身辺調査が厳しく、
曽祖父の代までさかのぼって、家柄、純粋な日本人であるか、または
知り合いに共産思想の者が居ないか、調べつくされ
合格した者だけがなれました。大変な調査ですから、
一番、手っ取り早い採用方法は土地土地の名家の若者を
選ぶことでした。
日本が戦争に敗れ、GHQが新しい日本を作る迄、
元首は天皇と明確にされていました。
現在の日本国憲法でも、建前上
天皇が総理大臣を任命する形にはなっていますが
元首である旨はGHQによって削除されています。
この辺りの取材内容も書きたいのですが
仕事の合間にやっているもので、なかなか進みません。
いまは来年のカレンダーの製作しております。
デザイン業はかなり先々のものをやるので、季節感が
麻痺します。
ハセガワから第261海軍航空隊(虎)の迷彩仕様零戦が販売されていたが
実際にこのようなカラーリングが存在したか、考察してみる。
上は完成見本。下に掲載した書物は
『世界の傑作機No.9零式艦上戦闘機22-63型』で、
(平成4年発行。絶版)第261海軍航空隊(虎)、第263海軍航空隊(豹)の
零戦にはハセガワの模型と同様に迷彩が施されている。
中島飛行機で生産された機体は工場出荷時には単色であったが、
最前線基地であるペリリュー、大宮島(グアム)、サイパン、ヤップへ
派遣された後、激戦地であるが故に迷彩が施された、という推定だ。
第261海軍航空隊(虎)はサイパン島、アスリート飛行場を拠点に
そして第263海軍航空隊(豹)は大宮島(グアム)を拠点に連日
激しい戦いを展開し、絶対国防権の死守に努めていたが
マリアナ沖海戦で戦力の大部分を消耗、戦死した。
そこで生存していた僅かな搭乗員はを第201海軍航空隊へ編入。
フィリピンへ後退した。
箱絵も迷彩が施されている。
この二つの部隊の零戦は、以下の写真を参考にしたと思われる。
▲アスリート飛行場に残された第263海軍航空隊(豹)の零戦五二型。
サイパン上陸後、米軍が撮影。
サイパン島アスリート飛行場には、米軍上陸時、保存状態の良い
ゼロ戦(第261海軍航空隊と第263海軍航空隊所属機)が多数残っており
米軍はこれを鹵獲。戦利品として、米国本土へ持ち帰ることを決めた。
現在、カリフォルニアのプレーンオブフェイムで動態保存されている
ゼロ戦はこのとき持ち帰った第261海軍航空隊のうちの一機というのは
有名な話である。数年前、この零戦が所沢へ里帰りした折に、マスコミから
「あれは誰が乗っていた飛行機か?」と私へ問い合わせがあった。
▲アメリカの軽空母に搭載され本土へ運ばれる第261海軍航空隊と
第263海軍航空隊の零戦五二型。
▲尾翼の番号(テールレター)の頭文字が8と刻まれているのが
263空で、61が261空の所属機。
こうして観察してみると、迷彩塗装が施されたゼロ戦のようにも見えるが
翼の日の丸に注目してほしい。モノクロ写真であれば、日の丸の
赤は、もっと濃い色に映る筈だ。そして、胴体の日の丸とは
濃さが違っている。
ここの海域は日米双方にとって、最前線であり、いつ奇襲を受けるか
わからない。敵味方の識別が現代のように出来なかった時代、
高高度から見れば、甲板にズラリと並んだゼロ戦、これは
まるで日本の空母である。誤爆でも受けたらたまらない。米軍は
大急ぎで鹵獲機の日の丸をシンナー等の溶剤で落としたのではないか?
だから日の丸が白く写っている。
そして、脱色した後、米軍の星のマークを描き入れたのだと思う。
もちろん、溶剤は日の丸だけでなく、機体の色も落とす。
よく観察すると、機体の迷彩というかマダラは
この溶剤がタレて、滲んでいるようにも見える。
(ならば、必要のない尾翼のほうにもなぜ溶剤をかけるのか?
これはこれで謎だが)
そして、日本側パイロットの証言だが
第263海軍航空隊で開隊から終焉まで戦った
笠井智一さんによれば、特に迷彩塗装は施されていなかった、
とのこと(篠原インタビューによる)
そういった具合で、第261海軍航空隊と第263海軍航空隊の
迷彩仕様の零戦は存在したのか?実際のところはわからないが
以上のように、証明するものがないし、矛盾点が存在することも確かである。
最後に申し上げたいのは
歴史の考察には色々な意見があるから面白いと思う。
そして、模型を作る際には、色々想像しながら楽しくやろう!
結論!自分の好きな色で塗ればいいと思う!!
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三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室で
零戦(ゼロ戦)と秋水を見学したので簡単にレポートする。
国内でも数少ない本物のゼロ戦と、世界で唯一の「秋水」を
保存している同史料室は、名古屋空港(小牧空港)、そして
航空自衛隊小牧基地に隣接する、三菱重工業名古屋航空
宇宙システム製作所の敷地内にある。
三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室の
見学は無料だが原則、事前の電話予約が必要で、入場も
月曜日と木曜日の9時から15時までと限られている。
(祝日など工場休止日は休みとなる)
ここは観光施設でない。老若男女、国籍年齢を問わず
見学は可能であるが、あくまで三菱さんのご厚意で
見学させてもらっているので、困らせるようなことや、我儘を言ってはいけない。
それでも電話対応から見学に至るまで、三菱さんは
誠に丁寧に対応してくださり、頭が下がる一方であった。
史料室は格納庫一ヶ所をまるまる使っていて、
ゼロ戦と、秋水、MU-2の三機が展示されている。
まずは零戦から見学する。
もともと、この零戦はヤップ島に残されていた機体で、欠損していた部品は
ニューギニア等から回収してきたものと合わせてニコイチサンコイチで
復元された機体である。
ヤップ島、ということは
第261海軍航空隊(虎)、第263海軍航空隊(豹)
第265海軍航空隊(雷)、第343海軍航空隊(隼)あたりが拠点にしていた
飛行基地であるので、ベース機は、このいずれかの航空隊の機体で
ある可能性があると小生は推測する。展示機尾翼の機番号は未記入。
他の方のブログなどを拝見すると、
見学者が少ないときはコクピットに座らせてもらえるらしい。だが
この日はなんと、隣接する小牧基地でX-2(神心)の初飛行の前日だったので
見学者が多く、言い出せる雰囲気になかった。訪問日時を調整できる人は
暇そうな時期を狙うべき。
そういった事で、三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室の
ゼロ戦はコクピットに座らせてもらえる日本で唯一の零戦。
三菱に感謝。もし、マナーの悪い者がいれば即座に中止になりかねない
極めてデリケートな計らいであるから、今後も続けてもらうべく、
着座の際は係員の注意をよく聞き、マナーに充分気を付けたいところ。
余談だが映画のセット(永遠のゼロで使用したもの)でよければ
大分県の宇佐に保存してあるので、こちらも検討されては如何だろう。
座って記念撮影もできる。詳しくはこちらの記事で→宇佐市平和資料館
零戦巡りの旅をしていて方々で零戦を見てきたが、この他には
海上自衛隊鹿屋航空基地資料館では座らせては貰えないが、
かなりコクピットまで迫れる上、係員が代わってコクピットの
操縦桿などを動かしたり、ラダーなどを動かしてくれた。
美しいフォルムである。
零戦は三菱製と云われているが、厳密にいえば
三菱が機体を設計製造、エンジンを中島飛行機が設計製造した。
当時の日本の二大航空機メーカーだが、マスプロ力(総合生産力)に優れていた
中島飛行機は三菱から設計図をもらって、ライセンス生産を行った。
海軍さんの命令によって、
三菱と、中島飛行機、両方の飛行機会社で造られたということになるのだが
結果的に終戦迄に中島飛行機がより多くの零戦を製造した。
ここにあるのはもちろん三菱製であるので
三菱製零戦の特徴がはっきりわかる。三菱製と思われる零戦は
靖国神社遊就館にある零戦と、大刀洗平和祈念館の三二型
浜松、あれも三菱製であるが、その他日本に現存する零戦は
ぜんぶ中島飛行機製のカラーリングだ。
塗装に関しても、当然、海軍さんから
「ゼロ戦の色はこの色で、こういう風に塗んなさいよ」と指示が
あったはずだが、こうして見比べるとケッコウ違いがあるのが興味深い。
以下は小生が解る範囲で描いた絵。
機体のカラーリング/三菱系と中島系の違い
いずれにしても、史料室の方は皆、とても良い方なので、
ゼロ戦マニアの方、あまり意地悪な質問はしないように!
見学態度は常に紳士的であれ。
次に、秋水を見学する。
世界でたった一機の秋水。
秋水は国産初のロケット戦闘機で、機体、エンジンともに
三菱独自で開発したもの。よく秋水はドイツのMe163コメートのコピーだとか
云われるが、それは誤りで、ドイツ様からロケットエンジンの技術供与は
成功したものの、設計図をドイツから日本に持ち帰る途中、潜水艦とともに
沈んでしまったので、三菱の日本人技術者がイチから開発した。
唯一、参考にしたといえば、潜水艦が沈む前に先に飛行機で日本に
持ち帰られた三面図のみ(単なるスケッチ)で、これをもとに
「ロケット戦闘機というものは、たぶんこうじゃ!」と独自に
三菱がエンジンから機体から全て開発してしまったのである。
この辺りの説明は、係員の方がよーくしてくれる。
B-29を撃墜すべく、開発された秋水。
ロケットエンジンなので、どんなに空気が薄くても
推進力が落ちず、高高度まで僅かな時間で上昇できる。
B-29の直上より一撃を加え、離脱するのだ。
ただし、秋水の燃料は3分で尽きるので、その後はグライダーとなり
基地まで滑空する。その間は、もっとも脆弱になるのでゼロ戦が護衛
するのだ。秋水はゼロ戦とセットでの運用が不可欠であった。
小生は、この秋水の開発と初飛行に携わった元整備兵の方とご縁があり
当時の思い出を多く聞いていた。犬塚大尉のこと、初飛行で
支えていた翼を離して滑走路を飛び立っていったときのこと・・・
ここに少しだけ書いてある。昔書いた三流小説というか、
作文みたいなものなので稚拙で申し訳ない。
それでもぜんぶノンフィクションなので参考になれば幸い。
敷島隊の五機とロケット戦闘機「秋水」中野整曹の回想
犬塚大尉の搭乗した試作秋水は試作機カラーのオレンジ色(あるいは黄色)
だった。これは実戦機を模して塗装されているが、格納庫の蛍光灯との
兼ね合いもあり、写真ではなかなか再現できない色だ。展示機の秋水は
黄緑色に近いが・・・・とにかく実際に見学してほしい。
コクピットは外側から見学するのみ。
パイロットは酸素マスクをして乗り込む。
あの日の追浜飛行場、ロケットエンジンの陽炎と、
犬塚大尉の面影を感じる!
施設内にはお土産を扱う売店がある。
ファンには垂涎に違いないグッズが揃っている。お小遣いが
いくらあっても足りないくらいだ。
この売店は三菱の購買のような感じで、工場に勤める社員さんたちも
買いにきていた。帰省のとき、お土産を買って帰るらしい。売店の方は
「今来た外国人さんはロッキードの人かな?」と言っていた。
さすが軍需産業。いろんな人が居る。
ここでは零戦はもちろん、なんといっても秋水のグッズ
ここだけだし、MRJのグッズは貴重。
三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室の見学でした。
◆アクセス
JR名古屋駅から「県営名古屋空港行きバス」に乗る。
「三菱重工南」停留所で下車。
片道700円(タクシーだと4000~5000円くらい)運航本数は1時間に
2、3本程度。名古屋高速の混雑状況に依るが約20分程度。
正門をくぐって守衛さんの要るゲート方面へは進まず、正門入って右側の
「史料室」と書かれた看板のある方へ進むと工場とは別に
史料室への入口があるのでこちらへ進む。予約者名を伝える。
!間違いやすいポイント!
!市営バスではないので注意!
!「県営名古屋空港」は「中部国際空港」とは違います!
!名古屋空港まで行くと行きすぎです。ひとつ手前の三菱重工南で降りましょう!
見学申し込み先・電話番号はこちら
名古屋航空宇宙システム製作所史料室
皆様は「憲兵」と聞くとどういった印象をお持ちでしょうか。
元憲兵で、98歳になります磯部喜一さんが最後の講演会を行います。
お話になる内容は以下の通りです。
憲兵の仕事とは?
憲兵は軍事警察官ですので、原則として民間人を虐げるような事は
ありませんでした。映画などでは「おい!貴様!」と、民間人を
見境なく捕える恐怖の存在として描かれ、そのイメージがすっかり
定着してしまいました。実際の憲兵の仕事はむしろ逆です。
軍人が民間人に対し、理不尽な行いをすれば、その民間人を助ける
立場にあるのです。この、戦後生まれてしまった大きな誤解を
解きたいと、磯部さんは仰っています。きっと憲兵に対する
イメージが大きく変わることでしょう。元憲兵でこれだけ明確に
お話しになれる方は他にいません。最後の機会です。
戦地での任務とは
戦地では現地人に変装し、身を挺した情報収集ならびにスパイ活動を
行いました。この辺りも詳しくお話しくださいます。
今回をもちまして、最後の講演会となります。
ぜひ、ご参加ください。磯部さんはこれを最後にしたいと、
資料や話す準備をして待っています。磯部さんは
一人でも多くの方に聞いて欲しいと願っています。
主宰
いむた伸一
日時
平成28年5月29日(日曜日)
13時受付開始
13時15分講演開始
場所
公益財団法人「偕行社」
東京都 千代田区九段南4-3-7 翠ビル
市ヶ谷駅より徒歩5分
参加費
3000円程度(各自飲食等で前後します)
お問い合わせ・参加申し込み
篠原迄お願いします。お電話でもメールでもOKです。
電話番号、メールアドレスはこちら
なお、お配りする資料を準備する関係で
事前申し込みをお願いしております。
ご協力お願い致します。
お陰様を持ちまして、
飛行第二四四戦闘機隊歌(飛燕戦闘機隊々歌)が再現完成致しました。
この曲は、昭和20年に古関裕而さんが飛行第244戦隊を慰問された折に
作曲され隊員の間で終戦迄歌われたものです。終戦間際ということもあり
正確な楽譜が見当たらず、苦労の末、再現したものです。
再生は上記のサムネイルをクリックして下さい。
楽曲の再現にあたって、元第244戦隊で実際に飛燕に
搭乗されていた竹田五郎元大尉に協力を頂きました。
歌唱もプロの方にお願いしました。歌は御堂諦さんです。
飛燕が高度一万メートルを飛翔するような躍動感と
迫力、力強い歌声をぜひお聴きください。
メロディー再現、および演奏あたっては
音楽家の久保亜未さんにお願い致しました。
全ては上の方々の協力の賜物であります。
心より、御礼申し上げます。ありがとうございました。
後世に伝えていければと考えております。
なお、御堂さんが自ら作成された動画には特攻機も映っております。
元来、この曲は飛行第244戦隊の戦隊歌でしたが、飛行第244戦隊は
知覧へ移動後特攻機の直掩も行いました。竹田氏は特攻機の直掩に度々出撃し
「喜界島上空で特攻機がバンクを振って別れて行く姿が忘れられない」
とのお気持ちを語ってくださいました。そういった全ての
「飛燕」そのものの歌として、飛燕戦闘機隊々歌として
聴いてくだされば幸いです。
作曲:古関裕而/作詞:南郷茂宏(昭和20年)
歌唱:御堂諦/編曲演奏:久保亜未(平成28年)
特別協力:竹田五郎元大尉(244戦隊飛燕隊)
企画:篠原直人
平成28年10月19日追記
飛行第244戦隊歌(飛燕戦闘機隊々歌)は
昭和20年2月10日、古関裕而氏が飛行第244戦隊を
慰問した折、作曲し贈られたもので、隊員の間で広く親しまれ、
NHKでも放送された。(放送日時不明)
飛燕が高度一万メートルを飛翔する姿を表現した
明るく力強いメロディーが特徴である。
なお、作詞は川崎航空機社員、南郷茂宏氏によるものである。
戦後、飛行第244戦隊出身者は、航空自衛隊
第一航空団初代飛行隊長小林照彦をはじめ、6名以上が
航空自衛隊で活躍。その黎明期を支えた。ゆえに
当楽曲は航空自衛隊とは極めて縁が深い。
譜面、歌詞の再現および保存は、飛行第244戦隊出身で
第14代航空幕僚長兼第12代統合幕僚会議議長である
竹田五郎氏協力のもと行った。
竹田五郎さんのお話し
高度1万メートルの戦い(2)