2016年5月13日 (金)

不動産投資勧誘の電話がかかってくる。
「私、〇〇の者ですが、今度新しく出来るマンションがありまして
〇〇まで歩いて数分という好立地ですし、ナンタラカンタラ」
東京の一等地にマンションができるから、購入しないかという旨らしい。
一方的な電話を聞いていれば、こちらの名前も住所も知らないようだ。
 
「どちらへおかけですか?」と尋ねても言葉を濁す。
 
それで
「どうしてこの電話番号知っているのですか?」と尋ねると
 
「東京データシステムというところから購入していまして・・・」
 
と、なんとも正直すぎるほどの回答。
この会社に連絡して、何とか削除してもらえないだろうか。

アンガウル島の調査派遣

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今年はアンガウル島の遺骨調査へ参ります。
 
現段階でアンガウル島の遺骨収集は、
まだ調査段階にあります。大勢を引率しての
行動は難しい為、先ずは私を含む島の地形を知る経験者
2、3名での少数精鋭が派遣となりました。

 
まず、台風で多くの木が倒木したので、それを伐採して、玉砕地点への
道を作らねばなりません。それからGPSで洞窟の場所などを
入念に調査していきます。地図をイチから作らねばなりません。

 
なるべく早く、遺族や学生などの収集団体の
受け入れ体制を整えるべく、行って参ります。

2016年5月12日 (木)

北宇都宮駐屯地記念行事2016

2016年6月19日(日曜日)は、陸上自衛隊
北宇都宮駐屯地にてイベント
「北宇都宮駐屯地記念行事」が行われます。
 
目玉はなんといっても航空ショーで、
自衛隊、ヘリコプター唯一のアクロバットチーム
「ブルーホーネット」
TH-480B(6機編隊)による展示飛行が行われます。
ヘリコプターに特化した航空ショーでは日本一です。
ブルーインパルスも真似できない機動がここにある!
 
そのほか、地上には外来機の展示、
基地の内部、エプロンおよび格納庫解放し
普段はお目にかかれない基地の内部を見学できます。
 
自衛隊さんの売店も面白いですよ。
限定グッズを販売しております。
 
ぜひ6月19日は北宇都宮飛行場へおいでださい。

TH-480B陸上自衛隊練習機

TH-480B陸上自衛隊練習機

TH-480B陸上自衛隊練習機

TH-480B陸上自衛隊練習機 
▲▼宙返りを行うTH-480B機と編隊飛行を行うTH-480B機(予行訓練なので観客が居ない)
 

TH-480B陸上自衛隊練習機

TH-480B陸上自衛隊練習機

TH-480B陸上自衛隊練習機

Posu

Rifuomote

Rifuura


なお、チラシにはヘリの地上滑走体験と書いてありますが・・・
それは建前であります!申し上げたい意味は
おわかりになりますでしょうか!ぜひいつもの街を
空から眺めてみてください!

疾風ミニポスター

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Photo 
航空祭で配布予定のB5サイズのミニポスター(資料)です。
裏側は資料となっております。とはいっても疾風の戦記でなく
生産側の視点が主となっています。

 
戦中、宇都宮では疾風の製造工場がありました。
疾風の製造工場で必死に働く
16,7歳の女学生の話など
当時の証言をもとに記載しました。
大東亜決戦機、それはまさに国民の
総力が注ぎ込まれ
前線に送り出された、飛行機でありました。
 
少女が重労働に従事し、最前線では同じく16,7の少年が特攻へ行く、
これは悲劇ではありますが、同時に、
本当に日本の為に頑張ってくれてありがとうございますと、
そういった気持ちを周知したいと願うものであります。

2016年5月 9日 (月)

零戦六四型

ゼロ戦(零戦)64型、54型丙/六四型、54型丙

幻の零戦64型です。
終戦間際に三機のみ製造されたモデルで、試作機を54型丙、
量産型を64型と称します。
ゼロ戦の最終型のひとつで
 
三菱「金星」エンジンの搭載に伴い、大型化したエンジンカウルと
プロペラ・スピナー、上部のエアインテークが特徴です。
エンジンは彗星三三型と同じとの説があります。
 
「もう格闘性能は時代遅れだ!」「モアパワーだ!」ということで
出力と一撃離脱に特化。剛性を強化したモデルです。
 
ゼロ戦の優美なフォルムが失われている反面、
いかにも改造機といった造りになっており
好みが分かれるところです。
 
胴体内機銃を撤廃。
零戦52型丙と同じくロケット弾搭載用レール、
左右両翼下に増槽を搭載可、胴体下に爆装可とし
昭和20年、横須賀と青森県の三沢にありましたがGHQの進駐に伴い
破壊されてしまいました、幻の機体です。
 

ゼロ戦(零戦)64型、54型丙/六四型、54型丙

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零戦六三型(63型)/五四型丙(54型へい)
ゼロ戦の最終型Ⅱ。三菱製、金星六二型エンジンを搭載し、離昇出力を
1,560馬力に向上させた。エンジンは彗星三三型と同様の見解あり、大型化に
伴い、プロペラ・スピナー、上部のエアインテーク等の形状が異なる。
火力、装甲を強化したほか爆撃戦闘機として、跳弾爆撃、急降下爆撃に対応し、
機体剛性を強化した。五四丙の量産型を六四型と称するが実戦に至らず終戦と
なった。画像は推定。
 
零戦64型/五四型丙 
【零戦六四型/五四丙型諸表】A6M8
発動機/金星六二型 離昇出力/1,560馬力 上昇力/6000m/6分50秒
最高速度/572km/h 巡航速度/370km/h 航続距離/-,---km
自重/2,150kg 全備重量/3,150kg 燃料搭載量/650+300L
全幅/11.00m 全長/9.237m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/148.0kg/㎡
兵装/翼内13.2mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×1 250kg×1 ロケット弾 
正式採用/昭和20年7月 生産機数/2機
 

零式艦上戦闘機(ゼロ戦/零戦)

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21型 32型 22型 52型 52型甲 52型乙 52型丙 53型丙
54型丙 62型 63型 
64型 二式水戦

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

自衛隊グリーンフェスタ2016宇都宮

来たる5月21日は自衛隊グリーンフェスタです。
10時30分より15時迄。
 
第12音楽隊による演奏、車輌展示、ユニフォームセレクションなどなど
終了後は、自衛隊と一般女性のお見合いパーティ(今年もやるのかな?)
プログラムに載らず行われるのでわかりませんが、毎年大人気です。
 
今年は餃子祭りと同日開催です。
メインに、オリオン通り、バンバ広場、城址公園に
自衛隊車輌を展示します。普段は駐屯地内で行われることの多い
自衛隊イベントですが、この日は市民に理解を深めるべく
市街地で行います。
 
自衛隊好きの方で、撮影される方、
狙い目は朝一番、自衛隊車輌の搬入と終わった後の搬出です。
アーケードを背景に走る装甲車を撮影できます。
 
昨年は、平和団体の方が開催中、抗議にやってきまして
少し開催が危ぶまれたのですが
今年も無事開催の運びとなりました。
 
私もバンバ広場(二荒山神社前広場)に居りますのでぜひお出かけください。
 
公式チラシ
http://www.mod.go.jp/pco/tochigi/event/gf_tirasi.pdf

 
追記
2016年6月19日は北宇都宮駐屯地イベントです!

2016年5月 8日 (日)

講演会

今年も講演会の依頼を随分と頂いております。
本当にありがとうございます。今年はなんと関西からも
ご依頼くださいました。
終戦の日前が多いのですが
それ以外の日も行っております。
 
講演会の魅力は、ブログや本に書けないような裏話が
たくさんできることです。
案内は、随時更新していきますので
よろしくお願い致します。

2016年5月 6日 (金)

藤本速雄さんインタビュー

 
元ゼロ戦パイロットで空母「瑞鶴」戦闘機隊だった藤本速雄さんに
インタビューしてきました。藤本さんはマリアナ沖海戦で一航戦
「瑞鶴」に乗組み、奇跡的に生還された搭乗員です。
 
第一次攻撃隊128機のうち、帰還できたのは
戦闘機隊(零戦)が
藤本さんを含む5機のみ
(内3機の搭乗員は大鳳に着艦し、沈没戦死した。)
彗星艦爆は2機、艦攻(天山隊)は全滅。

 
篠原
「藤本さんは彗星艦爆の護衛でしたね」
 
藤本氏
「みんなやられてしもうた」
 
藤本さんは上方より敵機が降ってくる仕草をして
悲しそうな表情を浮かべる。
 
ここで兎に角伝えたいのはマリアナ沖海戦の評価で流布されている
大きな誤解「搭乗員の練度不足」である。これを藤本さんは
真っ向から否定する。
 
藤本さんは
「練度不足、そんなものは作戦本部の言い逃れだ」
「空母への着艦は簡単だった」とも語っており、
経験の浅い搭乗員は発艦はできるが着艦はできない、といった説も
嘘になる。では、帝国海軍がマリアナ沖海戦で敗北した一番の要因は何か。
 
日本とアメリカの戦力が違いすぎる!
 
帝国海軍機動部隊の飛行隊は一、二、三航戦全て合わせても約400機。
これは戦闘機、爆撃機、雷撃機全てを含めた数だ。
主力である一航戦は149機。それに対し、米機動部隊は
15隻の空母から戦闘機だけで450機。爆撃機、雷撃機を合わせると
約950機。日本を遥かに凌ぐ勢力である。
 
藤本さんの所属する一航戦の戦闘機は

僅か48機で、彗星と天山合わせて80機を護衛した。
 
藤本氏
「九死に一生どころじゃない。千死に一生やと思う。
もし、逆なら、私は敵を一機も帰さん」
 
技量云々の問題ではない。多くの熟練搭乗員も未帰還となっている。
マリアナ沖海戦の話、そのほか
雷跡に突っ込んでゆく彗星艦爆を見た話、
前衛の艦隊に誤射を受けた話、
その後フィリピンで特攻の
護衛を行った話など、伺った。

 
このインタビュー内容も少しずつ書いていきたいと思う。
 
 
追記
先日お会いした笠井さんも、紫電改はグラマンよりも優れた
戦闘機であったが、どんなに高性能でも数が違う。これではダメだ、そう
仰っていた。
  
なお、一航戦の生還者である藤本さんは『今日の話題』で
手記を発表している。NHKアーカイブスでもネット視聴可(無料)
もう一人の白浜芳次郎さんは
『不屈の海軍戦闘機隊―苦闘を制した者たちの空戦体験手記』
(光人社NF文庫)で手記を発表している。書店、amazonで入手可。
 
追記
藤本速雄さんは
2016年12月28日にご逝去されました。

2016年5月 4日 (水)

原田要さんご逝去99歳

零戦パイロットの原田要さんが3日、ご逝去されました。99歳でした。
100歳の誕生日にはお祝いに行こうと、友人と話していたのですが
残念です。言葉にならない悲しみがあります。
 
ご高齢の方と多くお付き合いがあると、
もう次は会えないかもしれないと、一応に覚悟はしているのですが、そうはいっても
何度経験しても身を引き裂かれるような悲しみと辛さは変わりありません。
こんなことなら、もう、やめてしまいたいと思う事が何度もありました。
そうして研究をやめていった者も居ります。
しかし、やめるわけにはいかんのです。やめるわけにはいかんのです。
 
最後にお会いしたのは昨年でした。原田さんが
「どうぞ、また来てください」と、手を振ってくださって
にっこりと、穏やかな表情で言ってくださったことを思い出します。
忘れません。ご冥福をお祈り申し上げます。
 
原田要さんのお話 撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない

2016年5月 3日 (火)

青木義博中尉(稲妻の雷電) パイロットデータベース

青木義博中尉の雷電

青木義博中尉の雷電


稲妻マークが描かれた雷電、その格好よさから

プラモデルのパッケージなどにも描かれ有名な機体であるが
搭乗員の青木義博中尉の人物や戦歴について言及した資料は
殆ど残されていない。この頁では青木中尉の調査を重ね、少しずつ
完成に近付けていこうと考えている。

 
青木義博(あおきよしひろ)中尉は
予備学生11期出身で大学在学途中から海軍に入隊。
青木予備中尉とも呼ばれる。青木中尉の所属した
第352海軍航空隊は予備学生出身の指揮官が多い
特異な航空隊でもあった。
 
台南海軍航空隊時代
青木中尉の実戦は台南航空隊時代から始まる。

ここで記す台南海軍航空隊(以下台南空)は
南方へ進出した有名な台南空でなく二代目となる。
 
昭和18年4月に開隊した二代目台南空は
艦上機の実用機教程を担当する部隊に防空用の
乙戦隊(雷電)と丙戦隊(彗星)が必要となった。
台湾は陥落したマリアナに次ぐ決戦場のフィリピンの
後方基地にもかかわらず、実戦用ナンバーの航空隊が置かれていなかった。
(土地の名称がついた航空隊は訓練航空隊で、番号のみは実戦部隊となる)
 
台湾および北九州は、既に支那大陸の成都に配備されつつあった
超空の要塞B-29が爆撃可能な距離にあり、支那大陸南部からは
B-24の行動半径にも含まれた。そこで零戦のほか雷電の派遣が
決定された。
 
青木中尉、雷電との出会い~P-38との初空戦
昭和19年7月初旬、台南空の戦闘機隊分隊長だった青木中尉と
高橋茂上飛曹ら三名は厚木基地へ赴き雷電の講習を受ける。
講習終了後に鈴鹿基地へ移動し、雷電二一型3機を受領。
先ずは、この雷電3機を台湾へ空輸すべく鈴鹿基地を離陸した。
 
ところが、この内1機は鈴鹿で片脚が出ずに破損。
代機をもらったが、追浜と沖縄で1機ずつ破損したため
台南基地へ空輸できた雷電は1機のみであった。
この1機に青木中尉が搭乗し、台南で飛行訓練を行った。
 
昭和19年9月頃、青木中尉は、台南空で雷電の
訓練飛行中、大陸から飛来したP-38と遭遇、空戦に入った。
この空戦は青木中尉が急操作で横転降下したため
未決着に終わった。
 
同年10月中旬の台南沖航空戦で台南空の零戦隊は
邀撃戦に参加したが
青木中尉の雷電は出撃せずに終わった。※3
 
第352海軍航空隊へ
昭和19年12月下旬、台南空(二代目)が解散。青木中尉は台湾より
長崎県大村へ移動し、第352海軍航空隊乙戦隊第三分隊長となった。
 

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▲青木義博中尉と雷電

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▲昭和20年冬、青木分隊長機を背に針路を検討する予学出身搭乗者。
左から菊地少尉、山本少尉、星野少尉、金子少尉。
 
 

稲妻の雷電


▲小隊長機の稲妻マーキングは写真が残っていないので推定。
 
稲妻マークの雷電誕生

第352海軍航空隊乙戦隊では、青木分隊長の着任後
雷電にユニークな塗装を施した。分隊長機には2本、小隊長機には
1本の太い稲妻を胴側に描いた。※1
 
「雷電だから、稲妻でいこう」
と言い出した栗栖幸雄飛長(特乙一期)の発案とされる。
おしゃれな青木中尉はずいぶん気に入ったようだ。※1
 
昭和20年1月6日、大陸・成都基地より北九州へB-29が来襲。

第352海軍航空隊の主力、雷電隊はこれを迎撃したが
このとき青木中尉が出撃したかは不明。さらに
4月末より約三週間、第352海軍航空隊は雷電集成部隊
(他航空隊と協同した雷電隊)に編入されB-29邀撃にあたる。
稲妻マークのアイディアを出した栗栖飛長もB-29を一機撃墜している。
   
二本の稲妻が描かれた352-20号機は、青木中尉が搭乗する以前から
士官に主用されており、乙戦分隊長杉崎直大尉、先任分隊士の
沢田浩一中尉が搭乗し、青木中尉に引き継がれた。
 
青木中尉が稲妻マークを描いた機体に搭乗したのは

大村時代までで、鹿屋進出後は、目立ち過ぎを考慮したのか
明確な理由は定かでないが、稲妻マークなしの352-37号機に
乗り換えとなった。※2
 
昭和19年6月8日、第352海軍航空隊空乙戦隊は

岡本俊章大尉の指揮で鳴尾(兵庫県)へ後退。
搭乗員は第332海軍航空隊へ編入される。
岡本大尉は築城(福岡県)の203空に転じた。
 
このとき、青木中尉は航空神経症にかかる。
航空神経症は気圧調整の無い航空機で高高度の飛行を続けることにより
過度の気圧変化や酸素不足となり、頭痛、めまい、吐きけ、だるさ
記憶力減退、呼吸困難などの症状を引き起こす病。疾病により
青木中尉は夜戦隊付の身分で大村に残留。終戦を迎えた。

 
青木中尉の戦後
下記サイト「旧軍戦史雑想ノート」様に依れば
青木中尉は復員時に大尉。生きて終戦を迎える。

 
戦後、海上自衛隊に入隊しヘリコプターに搭乗したが

昭和37年、事故によりヘリコプター事故により殉職したと記されている。
これを見て、海上自衛隊の事故記録を探ったが、当該の記録が
見当たらないので今後もよく調査を続けることにする。
※4
 
戦中は雷電でB-29邀撃に身を挺し、戦後国の為に殉じた青木中尉を
忘れない。
 

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追記!こちらの本
『局地戦闘機「雷電」―海軍インターセプターの実力』の中に
青木中尉ご本人が書かれた手記が掲載されています。
昔、丸に掲載されたもののようです。
興味がある方はぜひ!

 
出典
※1渡辺洋二著『異貌の海鷲局地戦闘機「雷電」』284頁
※2『世界の傑作機No.61海軍局地戦闘機雷電』70頁
※3同53頁
※4旧軍戦史雑想ノートhttp://ameblo.jp/pico3298/entry-10000309129.html