YouTube: 岡崎体育÷JINRO 『今宵よい酔い』Music Video
イラストレーターもデザイナーも特に駆け出しのころは
80パーセントは営業です。営業やってると
まだまだ、お酒を飲める立場が上の年配男性と
付き合わないとならない、習慣が根強く残ってるなぁと
感じてしまいます。無理にお酒を飲むのはすごく大変です。
だから、このCM見て楽しくなった。
お酒の会社が作ってるのがいいな。
ちなみにアトリエ空のカケラの忘年会は
お酒なしの喫茶店です!
ソニックのパン屋さん見つけました。
さて、
来週、東京で『蒼空はるか』の声優さん、5人のうち、4人集めることが
できました。全員で打ち合わせです。(一人だけは都合合わず後日)
どなたもお忙しい現役のアイドルだったり、役者さんだったりなので
万障繰り合わせの上、集まってくださり、誠に感謝です。
みんなで仕事、頑張ろう!
実は主役のゆっきーを紹介してくださった人は
教会で歌を歌っていて、
毎年、僕をクリスマスコンサートに誘ってくださる、友人の奥様なんです。
その方から「私のお友達で明るくて声の素敵な女の子がいるから」と
紹介してもらったんです。もちろんフェアに
オーディションやりました。
奥様のご親族は
中攻の機長で、緒戦の空戦で戦死をされていて。
それで、以前、話題になって、それで、パラオでもお会いしてますし
ちょっと声優さんの話から脱線しましたけど
これもご縁かなと、思います。不思議ですね。
有難い。
毎日、会う四人の友人がいる。
薄暮のころ、
マラソンに出かける。
体を維持するというよりかは、走ると頭がすっきりして
よく眠れるから、夕方のこの時間に走る。
家を出て、数十メートル
一人目の友人とすれ違う。
庭で草花を手入れする、四十年配の女性である。
彼女とは、仕事で会う機会もあるのだけど、
家が違いので、必然的に会う。これが
仕事の場面で再開すると、すっぴんを見られて、と
照れて笑うが、うるわしい。
坂道に差し掛かる。体の重さを感じながら
地面を蹴って、傾斜を上る。
二人目の友人は、いつもここで遭遇して、追い越す
僕と同じ、ランナー。
三十代くらいの男性で
彼もこれを常としているようで、
同じ方向に走っている。
彼は走り乍らに、中ぐらいの声で何か独り言をしゃべっている。
追い越しざまに、その横顔が視線をかすめる。
かれはいつも泣いている。涙を後ろに流しながら、彼は走る。
歩いていることもあるけれど、立ち止まる姿を見たことは
一度もない。
アスファルトの道を折れて
川沿いの砂利道に入る。
田植え前の水田が磨かれた鏡のように
美しい。空を映して、世界が二倍になったように
一番、心地よいころ、
右側は森、萌黄から深い緑に、日々色をかえてゆく。
夏の暑さをしのぐために、いまのうち、いまのうちと
枝葉を伸ばし、深く根を張る。もっとも暑さが厳しくなるころ
ぼくたちは、その一葉、一葉がつくりだす木陰に
恩恵を授かる。
三人目の友人は、この土手で
釣りをしている。後ろ姿しか見たころがないから顔は知らない。
かれはいつも、バッターボックスに立つ
野球選手のように、適度なスタンスを取り、釣り竿を構える。
適度な緊張感と、リラックス、両方を備えている。
かれがリールを巻くと、浮きが川面をさかのぼって波紋を残す。
薄暮の空に、満月を3日ほど過ぎて
欠け始めた月が輝いている。遠くのスタジアムを建設する
赤と白のクレーンが伸びて、そろそろ、月まで届く。
やがて、スタジアムのコンクリートで覆い隠されても、
月はそこで輝いているだろう。
ここまでの友人は、いずれも今までのいずれかの
自分自身と、出会ってきた人に重なるのだけれど
四人目だけは、わからない。
四人目、具体的にいれば
二人と一匹。
仲睦まじく散歩する
初老の夫婦と、ワンちゃんである。
4月12日、あの時は鹿屋から出たんですよね。
そして一番機が杉田庄一、二番機が私で、三番機は宮沢豊美、
4番機は田村恒春。 田村は栃木なんですよ。彼とはだいぶ一緒に
飛んだし空戦もやったよ。 その田村が離陸してからエンジン不調か
なんかで引き返したので3機で編隊組んで飛んで行った。
そいでまあ、いちいち下の島見とる訳ないから
上ばっかり見とるから、そいで喜界島の上まで来たら
「菅野一番、敵機発見、敵機発見」
言うないなやビューーーーッと突っ込んで行ったんですよ。
一区隊が菅野大尉の4機、二区隊が杉田、私、宮沢。だから一区隊と二区隊
言うたら、すぐ端に居るからね、一区隊の一番機、菅野大尉の隊長機が
突っ込んでいったら すぐ見える訳ですよ。
「あれ、やったー」思って。ほいで、それを我々も一緒になって
ついていくわけですよね。
あのときは随分乱戦になってですね、でも301飛行隊は未帰還機は
無かったかな。 ほいで、菅野大尉が突っ込んでいった。
私もそれについていった。ほんなら下からF4U。
いわゆるヴォートシコルスキーやな。
そいつがビューーーーウっと上がってきよったわ。
それに菅野大尉がダダダーーーーっと撃って一撃で一機撃墜しよったんですよ。
「やった!」と思って それから乱戦になってですね、それで記憶はないんだけども
私はとにかく杉田兵曹から 「空戦の時は編隊離れたらいかん」て
やっかましく言われとったからね。
笠井智一さんのお話より。(篠原インタビュー)
彗星艦爆突入の絵。
ツイッターですごい人気だったのですけど。
あれを作画してから、どうにも
戦争の絵がダメになってしまって、涙が止まらんのです。
でも、続けます。苦しいのですけど、もっと凄い修羅場
(本来の意味ですね)を描かねばなりません。
戦争は絶対、嫌いです。けど描きます。
なんでいきなり特攻隊の話を書いたかというと、仕事しながら
画面は見れないんですけど、Huluで映画を音声だけひたすら流してるんですけど、
『俺は君のためにこそ死にに行く』という映画をはじめて観て
びっくりしたんです。すごくサムライの映画だなと思いまして。
なんで今までこれ知らなかったんだろうと。
新渡戸稲造『武士道』の中で
「日本人は欧米人から見たら感情の無い冷酷な民族とみられるのか」
と書いていますけれど、この映画を観て、
それを強烈に思い出したんですよ。
それから、
知覧に映画で使われた隼がありますよね。あの、
片翼に増槽、もう片翼に250キロ爆弾、
あれ見てるだけで、泣けてくるんですよ。
飛行機はいろいろありますけど、
私は、あの仕様がもう悲しくて悲しくて
しょうがないんです。
ただ、私は飛行機が好きなだけなんですけど
どうしても、戦争の主役になってしまうことが
悲しいのですけれど、書かずにはいられないのであります。
田中さんも飛行機乗りを志した理由が
「丸い虹が見たかった」という理由だったんですよね。
以前、ここでも書きましたけど
田中三也さんの
特攻隊を任命された前夜のお話。
(写真はトラックで、特攻でなく、ただし決死の作戦の前日に撮られた写真。
バレーボールで汗を流した後で、みんなニッコリしている。この中で生きて
終戦を迎えたのは、確か、2人か3人だったと思う。)
周りは宴会をして大賑わいで送り出そうとして
くれていた。田中さんは(大騒ぎは)「やめてくれ!」と
思った。一人静かに過ごしたかった。
しかし田中さんの思いとは逆に軍歌、軍歌で
盛り上がりは止まらない。
その中で、ひとりだけ、「ふるさと」を唄い始めた。
それが田中さんの心に今でも残っている。
「だから、今でも私は『ふるさと』だけは聴けません」
床に就いたが眠れない。
そこへ夜間の奇襲爆撃があった。
田中さんは、もう、翌朝はどうせ死ぬものと、
防空壕へは行かずそのまま寝ていた。
飛行場が激しく爆撃されている。
自分たちが寝ていた宿舎は無事だった。
爆撃の中、ペア(操縦員)の佐藤武平(写真左下。挺身偵察で
サラトガの横っ腹をかすめて飛んだ戦友。のち戦死)が
飛行場から、こちらへ走りながらやってきて
「バンザーーーーーイ!!!!!!」
と叫んでいる!
飛行場へ行ってみると、翌朝、自分たちが搭乗予定だった
特攻機の彗星艦爆が木っ端みじんになって燃えていた。
・・・彼は確かに万歳と言った。
後にも先にも、自分らの飛行機が破壊されて
喜んだ人を知らない。
それで命が長らえたが、
一度、特攻隊を拝命した以上、その思いは
つきまとって離れない。代わりの飛行機さえ
届けば、いつでも行かされるだろう。
特攻隊の任を背負ったまま、出撃の命令なく
343空、騎兵隊へ転勤となる。
田中さんは、そのころのご自身を、特攻隊のことが
頭から離れず、
「髪も伸ばし放題で態度が悪かった」と回想する。
ある日、源田実司令が自らやってきて
「貴様が田中飛曹長か」と言う。
「そうです」と答えると
無理やり床屋へ引っ張っていかれこう告げられた。
源田司令
「貴様の特攻は私が預かる」
田中さん
「源田さんから、その言葉を言われた瞬間にそれまで重しだった
ものがスーッと消えてなくなりました」
田中さんは、その後、彩雲隊で通常の偵察任務で飛び、
終戦を迎えた。
源田司令も評価の分かれる人物であるが
こうした事実もある。このサイドストーリーを
それを志賀飛行長の証言をもとに漫画にしてある。
こちらを合わせてご覧いただければ、田中さんの
証言とつながる部分もあるのではなかろうか。
仮の結線でこれを打っています。
今日は、隼でB-29を撃墜した経験を持つ
パイロットの方に取材でした。撃墜した場所は
シンガポールからマレー上空というので
成都へ進出を始めたころのB-29飛行隊だと思います。概略は
拙著「飛行戦隊の本」に載ってますが、撃墜されたご本人が
ご健在だったとは。ですから、もう少し掘り下げます。
篠原
「隼でB-29撃墜例はほとんど聞きませんが」
隼パイロットの方
「うん、わたしも知らない」
この話は、ほかにもB-24等の米爆撃機撃墜後、
連れて行かれた捕虜の話に及びます。
取材を続けます。
そうだ、靖国神社、みたままつりの献灯(大きな提灯のほうです)
今年も早々に申し込み完了です。日本一早い盆踊りです。
名義は今年も「アトリエ空のカケラ 篠原直人」です。
去年は献灯したけれど多忙で行けなかった。
友人に写真を撮ってきてもらいました。
ことしは、行けたらいいな。綺麗なんですよね。
わたしの心は恐れ多くも多くの御柱(みはしら)と
ともにあるなあ、という穏やかな気持ちがいたします。

いま仕事で使っているメインコンピュータが
ブルースクリーン頻発(HDの寿命)で
急遽、新しい機体に交換することになりました。
2、3日程度、お返事が滞るかもしれません。その折はお気軽に
お電話ください。よろしくお願い致します。
▲九七艦攻(吉岡さん搭乗機)の模型を制作された小島さんと
まだら迷彩のマーキングについてお話しされるご様子。
▲講演会終了後、順番待ちをされる方、おひとりおひとりと
お話しをされる吉岡さん。全ての方が、ご理解くださいまして
吉岡さんのご負担を軽くできるよう、お話を短めに済ませてくださいました!
自然と整列してくださったのは感激です。感謝を申し上げます。
講演会その後の様子につきまして
真珠湾攻撃隊員で海軍少尉の吉岡政光さん講演会、
その後の報告です。
吉岡さんは101歳と超ご高齢なので、ご自宅に送迎後
さすがにお疲れになった様子でしたが
その後、お元気にお過ごしです。
何より、皆さまが真剣に講演を聞いて下さったこと、
そして感想文を書いてくださったことが大きな
吉岡さんへの応援になったと思います。
皆さまから頂戴した吉岡さんへの感想文は
読みやすいよう、文字を大きく活字に打ち直したものと、
原文のものを同封し、本人にお渡し致しました。
ありがとうございました!
そして、なんとなんと!
吉岡さんは、元気だったら「二回目をやりたい」と仰ってます!
ぜひとも各位の応援を賜りますよう、
よろしくお願い致します。
さて、吉岡さんのお話しで一番印象に残った、
ミッドウェイのお話しを少し書きたいと思います。
質疑応答のコーナーで「ミッドウェイ海戦についてお聞かせください」
との質問が最も多く、実は私は大いに苦しかったのです。
一度、個人的に同じ質問をしていましたから。しかし、腹を決めて
読み上げました。なお吉岡さんはコロンボ空襲ののち蒼龍から
一旦地上に降りて、作戦そのものには不参加です。
とはいっても多くはミッドウェイで散った方々の多くは
古くからの戦友です。
篠原「ミッドウェイ海戦についてお聞かせください」
吉岡さん
「ミッドウェイは話したくないんです!
本に書いてあるのと同じですから、本を読んでください!
本に書いてあるのとほとんど同じですから!生き残った人も
みんな話さないと思います!機関科の人はほとんど残らなかった!
(戦死)
吉岡さん
「俺だけ生きているよ、と言いたくないんです!」
私は、
この言葉で十二分に、渾身の回答になったと感じております。
以上、今後ともよろしくお願い致します。
映画『風立ちぬ』にも登場する巨人機。
原型はドイツ・ユンカース社が開発し昭和4年に初飛行した
「ユンカースG.38」という旅客機である。
四発エンジン、全幅は44メートルで
当時としては陸上機最大。前方に展望席を設けた構造。
陸軍はこれを爆撃機として転用すべく
ユンカース社よりライセンス権を購入。
三菱重工が生産を行った。キ番号は20。
(ドイツ軍もこれにさきがけ爆撃機に転用し、名称を
ユンカースK.51としている。)
昭和6年に各務原で初号機が完成したが
最高速度が200キロと鈍重で時代遅れとなっていたことから、
実戦には投入されず わずか6機で生産は打ち切りとなった。
しかし、九二式重爆が残した功績は大きく、航空技術黎明期にあった
我が国、および三菱重工は、大型機および金属機のノウハウを蓄積する。
また、巨大な機体は見るものを圧倒することもあり、宣伝目的で
1機は所沢の航空記念館に終戦時まで保管されていた。
Amazon空のカケラ店の
出荷作業が追い付かない状況であります。
ありがとうございます。買ってくださって
本当にありがとうございます!
でも、遅くなってすみません。本当にすみません!!!!
自社出荷ぶんに関してはひとつひとつ、切手貼って、
梱包して発送しているのですが
アシスタントさん休みの時などは、
ぜんぶ一人でやっているので、
(2日以内に出荷しないとAmazonから
ペナルティくらってしまう(T_T)
ほかにも
JANコード発行、エクセルでの在庫管理等々、
この事業を切り離して、描く(書く)のに専念したいので
譲りたいのですが、ある程度、仲の知れた人でないとと思うと
非常に難しいです。最近は全然絵の描くスピードが遅くなって
メールの返信したり、電卓弾いてばかりになってしまいました。
脱サラとはいかなくても、副業くらいから
できる人がいればいいのですが。
いい人が見つからなければサッパリやめてもいいかな!
こんなこと書いてしまって申し訳ないですが
小売りをやめてしまって、今後は
地方の限定商品だけで卸売だけやっていければ
私の目指す地方創生的な考えで、すごく理想的です。
このままだと体力的にもう限界を迎えるのは予想つくので
ご心配おかけしないよう、倒れる前に、小売業(お店)はやめます!
倒れる前に、というのが骨身にしみて学習したところです!
コミティア準備中、ブルースクリーンが二回。
あと半年間、持ってくれたらと思ったが
よく頑張ってくれたマイコンピューター。
50万で新しいのを買う。
それは明日届く。
今月は設備投資だけで80万円、
人件費含めると100万オーバー。
頑張って働く。自営業に休業保証はない。
みんな一所懸命に頑張っている!
桜井とヤスさんからは物凄い速度で原稿が上がってくる。
毎日、やり切った感があるので、気持ちは清々しい。
今日は皆さまと東京ビッグサイト
青海展示場でお目にかかれることを楽しみにしています。
さっき棚卸がおわって、
もうすぐ全ての準備が終わります。
あとは車に詰め込んだら出発であります。
この記事のひとつ前の、彗星艦爆のイラストが
物凄い人気になってしまった。戦争のもっともはげしい場面を、
実際のパイロットから聞いたお話しをもとに
描いたイラストだった。恐ろしい絵である。
リリエンタールの初飛行から135年、
この100年という時代のスパンで考えるに
飛行機は時代の主役にさせられてしまった。
飛行機に罪はない。そこに戦争があっただけだ。
あらゆる事件、戦争の中心には飛行機の存在があった。
もちろん国の為に散って行った英霊の顕彰は
当然である。だから、こういった激しい絵も描かねばならない。
しかし、飛行機そのものは美しい。飛行機はかっこいい。
それが軍用機であってもだ。全てはスピードや剛性を
追及するための機能美である。そこにイデオロギーはない。
だからぼくは飛行機を描き続ける。
銃後では涙を流した女性が多くいたことだろう。
そのような過去は記憶しつつ、これからの新しい時代、
もう彼女たちに涙を流させてはいけない。
僕達が考える、新しい飛行機は、きっと、平和な空を飛ぶ。
そのための、布石を打とうではないか。
我に追い付く敵機なし
彩雲の挿絵ができました。彩雲の戦記を書いています。
昭和19年8月、硫黄島からサイパンに挺身偵察に飛んだ
広瀬正吾飛曹長は高度8000メートルでP-38の
追撃を受けた。双発でターボチャージャーを備えた
米空軍の最高速を誇るP-38ライトニング彩雲・広瀬機の後方300メートルまで
迫ったとき、広瀬機はブースト(スーパーチャージャー)をいっぱいに
吹かして増速。引き離されたP-38が雲間に消えたとき、彩雲・広瀬機は友軍基地へ
次の如く打電した。
「我に追い付く敵機なし」
出典
秦郁彦著・『太平洋戦争航空史話下巻』
その後、挺身偵察で名を馳せた121空(雉部隊)に彩雲が
実戦配備されると、飛行隊長の千早猛彦少佐、
第一分隊長、長嶺公元大尉
をはじめとした搭乗員はメジェロ・ウルシー等の単機挺身偵察を敢行。
この電文の発信者には諸説あるが、彩雲の韋駄天ぶりを
証明する著名なエピソードである。
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さて、高速の彩雲、すなわち誉エンジンが
その実力を発揮した経緯を技術面からも記載したい。
出典
前間孝則著・『悲劇の発動機「誉」』301頁より
(私が指折りに数える名著です。
技術者もそうでないひともぜひ読んでほしい)
小型軽量にして2000馬力を発生する「誉エンジン」
東京帝大航空学科原動機専修で、中島飛行機に入社した
中村良夫博士(のち陸軍技術中尉)は米国から入手した
「ライトR-3350サイクロン18(B-29搭載エンジン)」
について次のように述べている。
「エンジン全体の技術がきわめて常識的で無理をしていない。(中略
外径をコンパクトに小さくまとめてあった。その分しわよせが
ベアリングにきて軸の径が小さくなるので、日本のようなケルメット軸受
では面圧がもたない。だからアメリカ本土から大西洋を越えて
インドまで飛んで、成都経由で日本まで飛んでこれたわけです」
中略
「我々の誉は、依然として未だ試作の域であって実用化に達していない
こういうエンジンはアメリカでできても日本ではできない」
以下、篠原。
名機と云われる誉エンジンは
ひとつひとつ、職人が仕上げたものであれば
最高のポテンシャルを発揮した。
誉を積んだのは紫電改、疾風、流星、銀河、烈風、
そして「彩雲」である。
しかし、量産となれば、それは違う。
わが国では量産が不可能であった。その肝は特にベアリングにある。
量産品でなく、職人が作った初期ロッド生産の誉エンジンであれば
最高の馬力を発生し、米軍機よりも速く飛んだ。
B-29が関東地方へ飛来し、最も最初に
焼き払ったのが武蔵野製作所
ベアリング工場だった。
※英訳は適切でしょうか。もしよろしければ、どなたか教えてください。
平成が終わる。大きなことを言うようだけど
僕がこの平成という時代に、何かひとつ
残せたことが、あるとするならば
恐れ多くも天皇陛下の有名な一枚の報道写真である。
その一枚の写真に至る、僕のシーケンスがある。
だから、どうしても、平成の終わりに
これを書きたい。少し前置きが長くなる。
17歳ではじめて、カナダへ行った。
一人旅だった。そこではじめて大陸のスケールの大きさに
感動した。同時にカナダは戦前の日系移民が多く、
先人たちの築いたものが目に見えるものとしては
廃墟という形なり、多く残されていた。衝撃的だった。
23歳になって、今度は単なる滞在でなくて、
自転車でアメリカ大陸を横断してみたくなった。
バンクーバーからロッキー山脈を越え、
レイクルイーズ国立公園に入ると、300km、
人工物のない補給の無い地帯が続く。
自転車は時速15キロで進んでも休憩なしで
20時間かかる、果てしない地平線。
板チョコレートと水を買い込んで、進むしかない。
街の明かりが見えたときは、安心した。
カルガリー(州都)ブルックス、ガルレーク、
ムースジョー、ブロードビュー、ブランドン、
ウィニペグ(州都)サンダーベイ、ホワイトリバー、
スーセントマリー、バリーサウス、
観光地から遠く離れた北米大陸の真ん中。
たったひとり、日本人ということで
悔しい思いもしたことも、勇気をもらったことも、
とにかく、書き切れない出来事があって、
日本人として、恥ずかしくないように、どのように
振舞うべきかと考え続けた。
町の名前は覚えていないけど、 カナダ側
国境沿いの湖畔の小さな町だった。
偶然、会った現地女性と話をすると、
日本人が珍しいらしい。しかし、大陸奥地では
そんなのはふつうである。
しかし、そこで話が終わらなかったのは、
「私のグランドファザーが日本がカントリーなのよ!
今から呼んでくるからちょっと待ってて!」
喜んで会わせてくれたのは、もう歳は90近い、
日系一世のおじいさんだった。
この出会いが人生を変えたというか、
どうにも忘れられない。
おじいさんが、ここへ移民したのは戦前らしい。
以来、日本には一度も帰っていない。
おじいさんは忘れかけた日本語で、ニコニコして
「あなたは日本人かね。ずいぶん背が高いな」
とポツリと言った。印象的だった。僕は日本人だけど
平均的身長である。
でも、おじいさんはとにかく、懐かしそうで、
「今、日本はどうなっているのか」
たくさんの質問を受けた。
おじいさんと別れ、
トロントから
アメリカ国境を越え、ニューヨークへ到着して
長い旅が終わった。
つづく
古の美しい街並みが残る、
栃木市へ写真愛好家のIくんと写真を撮りに行った。
Iくんはポートレート(人物写真)撮影の天才である。
風景写真もそこそこに、
Iくんは古い玩具屋を見つけて、入って行く。
店主のおばちゃんに声をかけて、
写真を撮らせてほしいとお願いする。
おばちゃんはものすごく照れて、
「いやだわー。こんなオバチャン撮ってもしょううがないでしょ
若い女性撮ったらいいでしょ」
と、押し問答が続く。写真の
可否はともかくとして、かれがカメラを持って
街を歩くと、どんどん、人をドンドン笑顔にしてゆく。
懐かしい、ソフトグライダーが置いてある。
20円である。翼がオレンジ色のゼロ戦だ。
ぼくは、それを手に嬉々としていると、Iくんは
「篠原さん、それ買ってあげますよ、買ってあげますよ」
「いいって、いいってば」
またも押し問答が続く。
結局、かれはおばちゃんの最高の笑顔をファインダーに収め、
気付くと、ぼくも買ってもらったソフトグライダーを
組み立てていた。
公園にやってきて
手に持っているソフトグライダーをどうしても
飛ばしたくなる。力を込めて放り投げると
ソフトグライダーは予想しない方向へクルクル飛んでゆく。
ぼくは急いで追いかける
二度目は、少し力を抜いて投げることを覚える。
さっきより少しだけうまく飛んだ。そんなことを繰り返す家に
公園中を走り回っていた。
普段から、無愛想なはずのぼくを、
すっかり子供に戻ってしまったぼくを
Iくんは、次々写真に収めていった。
全然、撮られても悪い気がしない。
いつの間にか時間を忘れて遊んでいた。
ふと、気を取り直して、グライダーを拾ったまま、
立ち止まり、
「こんな人がもっとたくさんいればいいのに」
と、かれのほうを向いた。
その瞬間、かれはシャッターを切った。
5日間、寝ずに仕事してました。
(正確には不眠症こじらせて眠れないので仕事をする)
すると、まず、言語中枢に障害。言葉が出てくなくて、
頭の中が壊れ始めて、心臓が止まりそうになって、
親しい人の顔も思い出せなくなって、簡単な計算もできなくなって
はじめて気が付いたんです。
いままで、無理しても、ずっとなんとかなってきました。
だから「もうダメだ」と思ったときには手遅れなんですね。
ご迷惑をかけたくない、変なプライド、相手に悪い気がする、
「助けて」というのが恥ずかしい。そんなつもりでいました。
でも、今回、手遅れという言葉がをリアルに実感を増して、
気付いたら死神がそこまで迎えに来ている。死はこんなにあっけなく
やってくるものか。
やっと恥ずかしさを捨てて助けを求める術に至ったのでした。
今回、助けてくれた人、本当にありがとうございました。