田中三也さんのお話
田中三也さんの
特攻隊を任命された前夜のお話。
(写真はトラックで、特攻でなく、ただし決死の作戦の前日に撮られた写真。
バレーボールで汗を流した後で、みんなニッコリしている。この中で生きて
終戦を迎えたのは、確か、2人か3人だったと思う。)
周りは宴会をして大賑わいで送り出そうとして
くれていた。田中さんは(大騒ぎは)「やめてくれ!」と
思った。一人静かに過ごしたかった。
しかし田中さんの思いとは逆に軍歌、軍歌で
盛り上がりは止まらない。
その中で、ひとりだけ、「ふるさと」を唄い始めた。
それが田中さんの心に今でも残っている。
「だから、今でも私は『ふるさと』だけは聴けません」
床に就いたが眠れない。
そこへ夜間の奇襲爆撃があった。
田中さんは、もう、翌朝はどうせ死ぬものと、
防空壕へは行かずそのまま寝ていた。
飛行場が激しく爆撃されている。
自分たちが寝ていた宿舎は無事だった。
爆撃の中、ペア(操縦員)の佐藤武平(写真左下。挺身偵察で
サラトガの横っ腹をかすめて飛んだ戦友。のち戦死)が
飛行場から、こちらへ走りながらやってきて
「バンザーーーーーイ!!!!!!」
と叫んでいる!
飛行場へ行ってみると、翌朝、自分たちが搭乗予定だった
特攻機の彗星艦爆が木っ端みじんになって燃えていた。
・・・彼は確かに万歳と言った。
後にも先にも、自分らの飛行機が破壊されて
喜んだ人を知らない。
それで命が長らえたが、
一度、特攻隊を拝命した以上、その思いは
つきまとって離れない。代わりの飛行機さえ
届けば、いつでも行かされるだろう。
特攻隊の任を背負ったまま、出撃の命令なく
343空、騎兵隊へ転勤となる。
田中さんは、そのころのご自身を、特攻隊のことが
頭から離れず、
「髪も伸ばし放題で態度が悪かった」と回想する。
ある日、源田実司令が自らやってきて
「貴様が田中飛曹長か」と言う。
「そうです」と答えると
無理やり床屋へ引っ張っていかれこう告げられた。
源田司令
「貴様の特攻は私が預かる」
田中さん
「源田さんから、その言葉を言われた瞬間にそれまで重しだった
ものがスーッと消えてなくなりました」
田中さんは、その後、彩雲隊で通常の偵察任務で飛び、
終戦を迎えた。
源田司令も評価の分かれる人物であるが
こうした事実もある。このサイドストーリーを
それを志賀飛行長の証言をもとに漫画にしてある。
こちらを合わせてご覧いただければ、田中さんの
証言とつながる部分もあるのではなかろうか。
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