« 2016年1月 | メイン | 2016年3月 »

2016年2月28日 (日)

ベトナム解放戦線(3) 国吉戦車中隊

 
昭和20年5月頃だったと思います。我々は戦車8両、部下50人の
独立中隊で、場所はミトーに居りました。
ホーチミンの解放軍の綺麗な女の子が何度も何度も誘いに来るんですよ。
長い黒髪でね、綺麗な女の子でした。その女の子が
「隊長さん、東京へ帰っても焼野原ですよ。一緒に戦ってここで暮らしましょう」
そう言って誘うんです。何度か行こうと思いましたけどね。我々の中隊からは
離隊者を出しませんでしたが、他の中隊からは随分居たようですね。
そのまま現地で所帯を持って現地に骨を埋めたとも聞いています。
 
やはり母親が気になりましてね。
戦って死ぬことは構わないんですが、ホーチミンの指揮下に入るということは
どこで死んだかわからないと、これは故郷の母親も困るだろうと
思いました。何度誘いにも来ましたが、断ると女の子はヒョロンへ
帰っていきました。
 
昭和19年10月頃の作戦命令で
我々の中隊はガダルカナルで玉砕する筈だったんです。
戦車は本来、戦車用の輸送船で運ぶんですが、その頃になると
輸送船はなく、駆逐艦で輸送してガダルカナルへ上陸することになったんです。
ところが、駆逐艦のクレーンでは戦車が4トンありますから
持ちあがらないんですね。何度やっても駄目で。そこでガダルカナル
行きは中止になりまして、命拾いをしたわけです。
 
それでビルマで終戦になります。終戦になって武装解除の段階になると、
またホーチミンの解放軍がやってきては誘うんです。
彼らにしてみれば戦争のやり方がわからないから、部隊単位で丸ごと
欲しがるわけです。戦車を欲しがったんです。
 
戦には負けましたが、ボロボロの戦車では恥ずかしいので
8両あった戦車は全て完全に整備して、ピカピカに磨いて
それで英軍に渡してやろうと、完璧な状態でした。
そうしたら、やってきた英軍が驚きましてね、同じ軍人だから
解るんでしょうね。ピカピカの戦車を見て、とても驚いていましたよ。
 

・・・・つづく
 
ベトナム解放戦線(1)
ベトナム解放戦線(2)

  
記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

 
戦史 ブログランキングへ

2016年2月26日 (金)

英軍からの出前寿司

23638393_m

 

このエピソードは昭和19年後半、ビルマの
イラワジ会戦における前哨戦で、イギリス軍(以下英軍)
が苦肉の末遂行した「お寿司の出前作戦」について記す。
 
この頃、第二師団工兵中隊の水野大尉は川岸の陣地で
英軍と睨みあっていた。英軍も、この時期になると日本軍の強さを
周知しており、いかに損害を軽微に抑えるか頭を悩ませていた。
 
最もよく用いたのが飛行機を飛ばして日本軍陣地の頭上へ
ビラを撒く作戦である。水野大尉は回想する。
 
「その頃の日本は紙は貴重品でザラザラの茶色いものが一般的でした。
ところが英軍は真っ白で表面ツルツル、しかも手書きでなく活字ですよ。
それを大量に撒くんです。圧倒的物量だと感じました。拾ったビラには
しっかりとした日本語で『日本軍はガダルカナルで大敗北を喫し大本営は
降伏の準備を始めています。皆さんも戦争をやめて家族のもとへ帰りましょう』と
そんなようなことが書いてありました。戦意喪失を狙ったものでしょう」
 
英軍が最も恐れたのが日本軍による夜襲であった。戦争を原則パート
タイムで行う英軍・連合軍に対し日本軍は作戦とあらば時間や場所を
構わず行動する。英軍は寝込みを奇襲されるので、気持ちの休まる時を
与えなかった。兵士の損害は無論の事、英軍は恐怖に震えあがり
精神的に疲弊を重ねていた。
 
「私も一度先頭に立って夜襲をかけました」
水野大尉は夜襲の様子を回想する。
 
英軍とて無駄に兵隊を死なせたくはない。
しかし日本軍将兵はドイツ兵と異なり、降伏という概念を持たない。
英軍はさらに知恵を絞った。寿司作戦の実行である。
ある日、英軍は日本軍陣地に対し拡声器でけたたましく放送を始めた。
ややたどたどしさが目立つ日本語放送だった。
 
「勇敢なる日本軍将兵の皆さん、我々はあなた方の為にお寿司を作りました。
〇日の〇時〇〇分に、××の地点に置いておきますから、取りに来てください。
その間、我々は紳士協定に基づいて砲爆撃、攻撃は一切しません。これは
我々からの贈り物です。毒も入っていませんから安心してください。
暫く祖国の味を楽しんでください」
 
この放送にはBGMが付いていた。誰もが知る歌謡曲
『誰か故郷を想わざる』だった。遠いビルマの地で日本兵の郷愁を誘う。
放送は水野大尉の耳にも入ったが、水野大尉はいぶかしがるどころか、
気にもとめなかった。部下には無視しろと一言だけ伝えて済ませた。
 
「だけど、どこにもおっちょこちょい(勇敢?)な兵隊がいるものでね
その寿司を取りに行ってしまったんですよ(笑)」
 
見れば確かに寿司だった。本当に置いてある。英軍が現地で在り合せの
食材で作ったのだろう。皿の代わりに大きな葉の上に乗せられていて
うまそうだった。
 
「僕は食べなかったんだけど、おもしろいことをするなと思いましたよ。
部下が行っている間、シーンとしていたし、食った部下も大丈夫で、
本当に毒は入っていなかった」
 
頼んでもいない出前寿司だったが、
有難く頂戴したところで、日本軍は降伏しなかった。
英軍の努力は無駄に終わり、これ以降、昭和20年にかけて
泥沼の戦いに推移してゆくのだった。
 
ここはビルマの最前線。
英軍も日本軍もはるかなる故郷を思い、家族を思い、
誰とて殺し殺されたくはないだろう。互いに、努力を続けていた。
そんなエピソードのひとつを紹介させてもらった。
 
  
記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

  
戦史 ブログランキングへ

2016年2月25日 (木)

硫黄島・ペリリュー島遺骨収集募集について

水戸二連隊・ペリリュー島慰霊会では
硫黄島・ペリリュー島の調査・遺骨収集ならびに
会の運営に協力して頂ける方を募集しております。
特に昨今、会員の高齢化に伴い、若い方が少ない状態にあります。 
 
実施内容は以下の通りです。
 

1.硫黄島での遺骨収集
2.ペリリュー島での遺骨収集・調査

3.水戸二連隊・ペリリュー島慰霊会の運営協力(事務等)
 
特に継続して会の運営に協力して頂ける方を募集しております。

先ずは平成二十八年度の慰霊祭にご参加ください。
よろしくお願い致します。
 
水戸二連隊・ペリリュー島慰霊会公式ホームページ

2016年2月24日 (水)

厚木の名物親父

赤松中尉のゼロ戦

赤松中尉のゼロ戦 
ゼロ戦、赤松中尉機のデジラマを製作しました。
昭和20年、厚木飛行場の夏です。 

 
赤松中尉についてはこちらをご覧ください。

 
画像・記事の内容がよかったと思いましたらクリックをお願いします!

読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

  
戦史 ブログランキングへ

2016年2月23日 (火)

我が家の秘密基地

Imgp8435_2

Imgp8416

Imgp8428

Imgp8426

ゼロ戦のディスプレイ台が完成しました。
当時の面影をしっかり残しつつ、SF的ハンガーを
イメージして作ってみました。
スケールは上段の二機が1/48で
下の段が1/144の食玩シリーズです。

2016年2月22日 (月)

昔の新聞読み比べ

Cimg0272

 
図書館で昔の新聞を読むのが好きです。
現代人の我々は豊富な情報を瞬時に把握できるますし
今日までの歴史を知っていますが
当時の情報はラジオと新聞のニュースくらいしかありませんでした。
戦争相手のアメリカという国がどこにあって、どんな形をしているのかさえ
知らなかった日本人も多かったと思います。
 
新聞記事は日によって情報が推移していくので
興味深いものがあります。
昭和16年(真珠湾攻撃の年)ですと、大手は
同じ読売新聞、朝日新聞、東京日日新聞(現在の毎日新聞)の三紙で
それぞれ、書き方も異なります。
やはり、朝日新聞が最も好戦的で過激な書き方をしているのが
読み比べると解ります。
 
画像に掲載したのは昭和19年のものです。





2016年2月18日 (木)

戦友会での会話

Shutterstock_190575140

 
K元大尉(94歳)

「もう私は94歳と、先は短いです。若くして散った戦友を思えば
こんなに長生きをさせてもらって、思い残す事無く、明日死んでもいいと
常に思っています。ただし、ひとつ、心配があるとするならば
この先の日本がどうなるか、見届けられないことですね。
最近、ニュースで目にしますように
南シナ海で緊張が増しています。戦友たちが守ってきた日本が、
この先、どうなるかと思うと、それだけが心配ですね。」
 
S元大尉(94歳)
「もし、また戦争があったら、どうしますか
この年で、また行きますか。私は戦争だけは絶対にもう嫌ですね。
若い世代が戦争の勇ましいところだけを知って、また同じことを繰り返さないか
とても心配しています。もし、また戦争になったら、
この際、卑怯者と呼ばれても構いません。震えてどこかに隠れていたいものです。
Kさん。あなたはどうですか」
 
K元曹長(97歳)
「戦後、日本は憲法九条という、理想的で素晴らしい憲法を作りました。
私は戦地で言葉で言い表せないような惨劇を見てきました。戦争は
金輪際繰り返してはなりません。

ですが・・・戦争に行けと、それが国の命令とあらば、行きます」
 
O元大尉(93歳)
「私も、行けと言われれば行きます」
 

A元少尉(96歳)
「私も行きます」
 
I元軍曹(93歳)
「私も自衛のための戦争なら致し方ないと思っています。侵略的戦争は
絶対にいけませんが、向こうから攻めてきたんなら、これは仕方ない。守るために
やるしかありません」
 
W元軍曹(92歳) 
「私はわかりませんが、これでもそれなりに国に尽くしてきたつもりです。
最近の若い者、特に80代は全くなっていません。
自分のことしか考えられない。自分中心に生きている。
同じ老人ホームでも80代はわがままが多すぎます。
あまりに自由すぎた戦後教育がいけなかったのか

もっと自分以外に尽くす気持ちを考えて生きるべきですね。
大勢の戦友たちが命を捧げて守ってきた日本は
どこにいったのか。戦後日本の繁栄は、戦争経験者が土台を築いた。
土台があってこそ、その上に若い人が乗っていることを
忘れないでもらいたい。」
 
----- 

戦友会で「もしまた戦争になったら」という話題になったときのことを
少し書いた。元士官も、兵卒も、戦争を自ら望むものは誰一人と
していない。武人の真の理想は平和なのだ。
しかし、理想を守ろうと、国家の安泰を揺るがす事態とあれば
立ち上がる、というのが大方の見解のようだ。
 
そして日本と言う国は多くの戦友が命と引き換えに
守ってきたものだと確信しているのだ。
 

記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています
  
戦史 ブログランキングへ

 

2016年2月17日 (水)

国吉大尉のジャワ攻略戦~待ち望んだ神兵の伝説

陸王(陸軍)サイドカー付き

 
戦友会でお世話になっている 国吉大尉(仮名とします。当作戦時、
階級は中尉)のジャワ島上陸の回想を書くことにします。
聞き取った内容をなるべく純粋に 記しました。資料となれば幸いです。 
 
国吉大尉の回想~ジャワ攻略

私は第二師団へ騎兵で入隊したのですが
大東亜戦争の時、既に機動力の要は自動車です。
馬からオートバイに乗り換えたので、騎兵連隊も呼び名が
変わり 捜索連隊となりました。
 
昭和17年3月、 
師団は開戦直後に海軍の掩護もあってジャワ島に上陸しました。
上陸前のことを覚えています。戦争に勝っている頃ですから、
何十隻もの輸送船が大船団を成して進んでゆく様は壮観でした。
「嗚呼、堂々の輸送船」 という歌がありますが、ああ、これが
堂々の輸送船かと思いましたね。 上陸後は陸王のオートバイ
(サイドカー付き)に乗って内陸へ進軍するのですが そのときの
運転士が震えあがってしまい、駄目なんですよ。それで私は
「代われ」と言って彼を側車に乗せまして、 代わりに私がハンドル
を握りました。 敵陣の中をブァーーーッツと走りました。
 
しばらく内陸へ走ると、道端に 豪州空軍の車両が停まっているんです。
これはどういうことなのか、 車輌の周りを調べていると、陰から 敵兵が
10人ばかりゾロゾロ出てきました。 我々が上陸してきたことは報されて
いたのでしょうが、逃げ遅れたのかもしれません。 バッタリ遭遇した
日本兵に敵さんも驚いたのでしょう。
 
「ジャアパニーズ???」 と大声で訊くものですから、私は
「イエス!!」と答えました。 そうしたら、あまりに至近距離だったもので
殴りかかってきて来て取っ組み合いになりました。
一対十ですよ。 そこで私は腰の軍刀を抜きまして、刀の紐が柄に
引っかかって、すこしもたついたんですが バサっと斬り倒しました。
一人をやっつけると あとは全員、いなくなっていました。
 
その後は地元の住民がよく協力してくれました。 自動車に乗って、
あっちこっち道案内してくれるんですね。 非常に親切でした。
当時、ジャワ島はオランダの植民地でした。 どうやら地元の住民は
「いつの日か自分たちと同じ顔の人間がやってきて 植民地から解放してくれる」
そういった言い伝え、伝説があったそうなんです。(※1) それを信じて待っていた
ようなんです。 肌の色、同じですからね。 食事も用意してくれて、非常に
好意的でした。 師団はジャワ攻略で勝利を収めていますが、私は 部下を
一人だけ失っているのを 忘れません。
 
回想以上。
 
(※1)「同じ顔の人間」と書きましたが、別の説もあって
「いつか自分たちと同じ肌の色、顔をした神がやってきて・・・」という伝説も
あります。そういった意味で「神兵」という表現も間違いではなさそうです。
  
ジャワ島は昭和20年、ふたたび戻ってきたオランダ軍との独立戦争に勝利し
新国家インドネシアが誕生する。
 
あれこれと思いつくまま、聞き取った回想記を書いています。
リクエストがあれば優先的に書きますので、「これの続きが知りたい」
と思う話があれば、ぜひリクエストをお願いします。
最後までご覧くださり、ありがとうございました。 
 
画像の陸王(オートバイ)はイメージです。
 
途中になっているノンフィクション記事一覧
ペリリュー島のラストサムライ 永井敬司さんのお話(1)
ベトナム解放戦線 ベトナム独立をかけて   (1)
ベトナム解放戦線 解放戦線に加わる者たち (2)
水野中隊長の初陣 戦友の遺骨を抱いて
飛燕戦闘機隊 高度一万mB29との戦い 竹田五郎さんのお話(1)
撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない 原田要さんのお話(1)

 
記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

  
戦史 ブログランキングへ

2016年2月13日 (土)

Me262 Lorin ラムジェット搭載機

Me262 Lorin ラムジェット

Me262 Lorin ラムジェット

Me262 Lorin ラムジェット

Me262 Lorin ラムジェット

Photo_2

洗練するドイツ製ジェット戦闘機
Me262 Lorin ラムジェット機は、1945年

オイゲン・ザンガー博士によってデザインされた
ドイツ空軍、Me262のアップデートモデル。
本機は世界発のジェット戦闘機であるMe262のjumo004エンジン
に加え、翼上に直径1.15m、全長5.9mのローリンラムジェットを搭載した
4発機である。
 
スタンダード機であるMe262が高度6000における
最高速度が870km/hだったのに対し
Lorin ラムジェット搭載機は1万メートル迄
僅か6分(Me262は26分)で上昇し1070km/hの最高速度
が可能な設計であったが、ドイツの敗戦とともに幻の怪鳥となった。
  
日本製ジェットエンジンの黎明
その頃(1945年/昭和20年)、日本では、ドイツ本国から
ジェットエンジンの設計図と部品を持ち帰るべく
出港した潜水艦の到着を待ちわびていたが
いずれも撃沈され、最後まで日本に到着することはなかった。
 
そのため、中島飛行機小泉製作所(群馬県)では
100パーセント純国産のジェットエンジン「ネ-20」を開発していた。
このジェットエンジンを搭載した新型機を海軍では「橘花」
陸軍では「火龍」と称し、橘花は、終戦の数日前
木更津飛行場で初飛行に成功していた。
 

記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

  
戦史 ブログランキングへ

2016年2月10日 (水)

ディアゴスティーニの紫電改がちょっと違うかも

Photo_2

2_2

Photo_4

2月9日に創刊されたディアゴスティーニ「第二次世界大戦傑作機」
初回は紫電改ということで早速購入しました。しかし資料集を見てみると
鴛淵孝大尉の機体
(343-45号機)の帯が赤になってます。
この件は、だいぶ前に定説が覆されており
鴛淵機の帯は白だったという説が有力です。
合わせて元来、赤い帯は存在しなかったといいます。
 
プラモデルのパッケージもそうなのですが

大方、赤で塗られてしまっています。
 

第343海軍航空隊の戦闘機隊は戦闘301、戦闘407、戦闘701と
3つの飛行隊から編成されていました。(このほかに彩雲を用いた
偵察第4飛行隊と、紫電で成されたの訓練部隊
401飛行隊があります)
 
戦闘301飛行隊の菅野直大尉の機体(343-A15と343-A24号機)は
ともに黄色の帯で有名ですが、同じ飛行隊の列機まで黄色だったかと
問われると、ちょっと確証がありません。
戦闘407飛行隊の林喜重大尉は白で間違いなさそうで、
そして件の鴛淵飛行隊長の戦闘701飛行隊のみ、少し
マーキングの例が変わっていたようです。
 
歴史は様々な考察あって然りですし、
模型は気に入った好きな色で塗装するのが一番なのですが
参考になればと思います。
 

Photo_3_2


第343海軍航空隊全搭乗員データベース
 

 

 
記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のワンクリックによって当サイトをかろうじて消滅の危機から
救ってくださっています。

 
戦史 ブログランキングへ

2016年2月 7日 (日)

Photo

 

零戦の新バージョンを描いています。(五二型甲)
下描きが出来てこれから着色なのですが、シルクスクリーンの
特性上、一色~二色で表現しなければならないので
せっかく描き込んだ細部が見えなくなってしまい惜しい
ところです。時間が許すならばリアルな絵をじっくりと描きたいです。

昭和14年 横浜-パラオ間に実在した空の定期便

1

  
昭和14年、パラオはサイパンとともに

最も早く内地からの定期航路を結びました。
運航スケジュールはこちらの記事で書いた通りです。
  
昭和14年といえば77年も前のことです。
旅客船と比べれば運賃は割高でしたけれど、一般のお客さんも
この飛行艇に普通に乗れたのです。
どれだけ壮大な事を実施していたか、
ビジュアル化しました。
 
この飛行艇は
海軍では九七式飛行艇ですが、民間での名称は
川西式四初飛行艇と言いました。運用したのは大日本航空株式会社です。
カラーリングはジュラルミン剥き出しの銀色で
「綾波」号など、パーソナルネームが存在しました。
開戦とともに、飛行艇は海軍に事実上徴用され、運命を共にしますが

戦争が始まるまでは南洋の楽園と内地を結ぶ夢の定期便だったのです。

1/700「蒼龍」

Dsc_0377_2a

Dsc_0375_2

Rさんが製作しました「蒼龍」です。
Rさんは私の模型の師匠でもあります。
 
以前、このサイトの素材に使わせてもらうということで
千葉県の工房まで撮影に参りましたが、その際に
公開しなかった画像を、せっかくなので公開します。
 
全長30センチくらいです。
1/700でここまで精巧に出来るのは
凄いことです。これだけの仕事をこなす集中力を
保てるのは才能としか呼べません。
 

Dsc_0385_2

Dsc_0380 

こうやって切り取って背景と重ねていきます。このようなコンピューターを
使ったジオラマ手法を「デジラマ」というそうで、最近は専門の雑誌もあります。
主にガンダムなどを高層ビルの間に立たせたりする技術などが紹介されています。
私の場合は大戦機をカラーで蘇らせることを目標としています▼
 

Dsc_0385_2_3


2016年2月 6日 (土)

重責

昨年は戦後70周年ということもあり、講演会など
お呼びがかかり、お話をさせてもらいました。
本当は喋るのは得意ではないんですけれど、ぜひ伝えたいことが
あるので拙いながらお話しさせてもらっています。
 
会場の舞台には
「篠原直人先生による講演」などど大きな
垂れ幕が準備してあって、本当に恐れ入ります。
大きな催し物だと、控室にお茶淹れ等、お世話をしてくれる人まで
付くという丁寧な対応に、感激していました。
 
控室には、国会議員の先生や自治体の長も来ていました。
控室に居ても、私はお茶汲みにしか見えません。
 
それで思ったのですが、
腰の低い人ほど、ベテランの議員さんが多いです。
もちろん政治手腕と選挙上手は全くの別物であることを
断っておかねばなりませんが、
お茶汲みでも、分け隔てなく気さくに
声をかけてくれる政治家はやはり、大物であり
連続当選している人物です。
 
新人政治家の方は名刺を交換してから漸く、
「いや~今日、講演される先生でしたか。失礼しました。
お茶を淹れてくれる人だと思っていました」
とあまりに露骨な言われよう、変わりようだったので
驚いてしまいました。

そういう人はほとんどが初当選の政治家で
先生、先生と呼ばれることで浮世を忘れてしまうのかもしれません。
本来、政治家というものは我々が選挙で選んでいるので
あまり偉そうにしてはいけない気もするのですが・・・。
 
さて、
先生と呼ばれる人にはいくつかの種類があり、その役割も多様です。
学校の先生、お医者さん、弁護士、政治家などが挙げられます。
どれも大変なお仕事ですが、最も重責を担い、失敗の出来ないのが
時代劇に登場する先生です。「先生、お願いします」と担がれ、
用心棒や刺客として、おおむね物語のクライマックスに登場します。
斬られたら終わりですから、とても重責です。
 
政治家の方々にもこれくらいの心持で職務を全うしてほしいと
心から願っています。
 
P.S
私はどこでも私は喜んでお話しをしに参ります。
ブログに書けない話ができます。

2016年2月 5日 (金)

紫電改は王道というか、やはり人気の飛行機ですので、押さえておかねばならない点ですが
私が本当に書きたいのは「雷電」でして、現在は「雷電」について元雷電搭乗員の方に
フォーカスして取材しています。

紫電改と第343海軍航空隊覚え書き

紫電改
 
この頁では主に紫電改の機体そのものと
部隊の運用について記していきます。模型製作等の
参考にしてください。搭乗員のプロフィールについてはこちらを見てください。
第343海軍航空隊全搭乗員データベース
 
◆紫電改の塗装

紫電改の塗装(カラーリング)は当時の日本海軍機の標準に従い、
機体上面と側面は艶のある暗緑色で塗装されていた。海軍さんから
「塗装はこういう風にやんなさいよ」
と、メーカー側に一応に
指示はあるのだが
川西航空機、三菱、中島などで、それぞれ
違いが見られるのが興味深い。
 
関連記事
ゼロ戦の塗装はこちら
 
紫電改を製造した川西航空機の暗緑色は
やや青みが強いのが特徴だ。
機体下面は機種と尾部以外は地肌のままの無塗装で尾翼下の部分だけ
灰色、
またはアルミ色に塗装されていた。無塗装は大戦後期から末期に
見られる塗装で、
生産を急ぐため、費用と時間を省くためだったと
伝わる。
 
◆紫電改の日の丸の描き方
紫電改の日の丸(マーキング)は胴体と両翼に描かれた。
胴体の日の丸は直径85センチ。白フチがあり、白縁の幅は
75ミリであった。
戦闘301整備科分隊士亀田金夫少尉の
回想によると、
白い縁は日の丸の赤が鮮明に見え過ぎるので
消せという指示が出たことがあるという。
一方、主翼上面の日の丸は直径110センチで
下面は直径1メートル。いずれも白縁は無い。※1
いずれにしても塗装や日の丸のマーキング、カラーリングは
機体によって差があり
一様ではないことを断っておく。
 
◆尾翼の機番号と専用機について
垂直尾翼に描かれた機番号について記す。
第343海軍航空隊では各飛行隊を区別するため尾翼にA、B、Cの
三種類の番号をマーキングした。
Aは戦闘301、Bは戦闘407、Cは戦闘701を意味する。 
専用機は原則、飛行隊長と分隊長のみで
それ以外の搭乗員は出撃の都度、あてがわれた飛行機に搭乗した。
鴛淵孝大尉の例を見てみよう。鷲淵大尉は白二本帯の飛行機を
使うことが多かった。戦闘701整備科では鷲淵大尉が出来る限り、
この専用機に搭乗できるよう整備努力した。
戦闘301の佐藤精一郎上飛曹は
「出撃のたびに飛行機が変わり同じ飛行機に乗ったことは一度もなかった」
と戦後回想する。※2
 
 
紫電改
 
◆機体の帯について
胴体の帯は飛行隊長機は二本、分隊長は一本が入っていた。
昭和20年3月19日の松山上空の大空戦以降
各飛行隊が同年4月10日以降、戦闘301飛行隊長
菅野直大尉の発案によって描かれたようである。
菅野直大尉の帯は黄色であり、これは
機体識別を容易にする目的のほか、菅野大尉は
 
「黄色を塗れば敵機が喜んで集まってくる。そいつをやっつけるんだ」
整備科先任分隊士加藤種男中尉(機関53期)に語ったという。※3
戦闘701と戦闘407では白であった
分隊長以外の搭乗員が例外的に帯入りの機体を使ったこともある。
昭和20年5月17日、戦闘407の石塚光夫少尉が
哨戒機掃討任務で戦闘407と戦闘701の12機を率いて出撃したときは
市村分隊長のB-25号機に搭乗している。石塚少尉はこの飛行隊の
指揮官であるし、
稼働機の不足により、必ずしも飛行機が
揃わなかったことから
許容されたこともあろう。
※4
 
また、分隊士の本田稔少尉は
「私の飛行機は決まっていて帯が入っていた」
と回想し、戦闘407では少し事例が異なっていた可能性がある。
※4
 
昨今までプラモデルのパッケージや塗装指示書に鷲淵大尉の機体は
「赤」とされている場合が多いが、赤帯は
誤りの可能性が高い。
現在では鷲淵大尉は最後まで「白」だったという説が最有力となっている。
赤帯はどの飛行隊にも存在せず目撃者も居ない。どの段階で
プラモデルのパッケージが赤帯になってしまったのか不可解である。
 
昭和20年7月24日の豊後水道上空の空戦で米空母
サンテンハシントVF-49戦闘飛行隊
のジャック・A・ギブソン中尉が
鷲淵大尉の白一本帯の
機体を目撃している。このとき鷲淵大尉は
C-13号機であったが、整備が間に合わず、、分隊長の一本帯の機体に
搭乗した可能性も考えられる。
※5
 
◆林喜重大尉機(B-30号機)の謎
林喜重大尉のB-30号機については不明確な点がある。
林大尉が昭和20年4月11日、最後の出撃でB-29を撃墜し
、阿久根折口に不時着戦死した際に搭乗したとされる
紫電改はB-30号機といわれているが、翌5月16日の
哨戒機邀撃編成表では戦闘407飛行隊の高木由男飛長が
同じ記番号の紫電改に搭乗している。
 通例であれば、飛行隊長と分隊長以外が
林の専用機である白い二本帯の機体を使う事はない。
出撃直前に機体不調等により急遽搭乗を変更する場合など
可能性があるが、真実はわからない。
 
◆日の丸の中の数字
戦闘301のみ、訓練の際、識別のため
石灰で描かれたというが真相は謎が多い。
菅野直大尉のA-15号機は鹿屋進出時に描かれたもので
最後の出撃となった空戦ではA-24号機に搭乗している。
いずれも黄色のニ本帯の機体である。
 
◆通信について
源田大佐が飛行機も通信機も良いものを全部持って行ってしまった
との避難もあるが、実際はどうなのか343空では機上無線電話の
改善に力を入れ
米軍の交信を傍受できるほど明度が向上していた。
従来の日本機の機上無線は雑音がひどく使い物にならない
といった報告が多かった。
重いだけで役に立たないからと
降ろしてしまっていた程だ。

この原因は通信機の性能の問題と言うより
エンジンのスパークプラグにシールド(鎧装)が施されて
いなかったため、空電が発生し
雑音のもとになったといわれる。
特に大戦後期の飛行機製造過程においては、無線はもとより
エンジンの電気系統のアース(絶縁)不良が著しく
紙で巻いただけの絶縁がはがれ、電線が短絡(ショート)し
トラブルになったケースが多々ある。343空ではアース(絶縁)から改良し
空対地、空対空ともに電話連絡が良好となった。
空中状態がよければ400キロ離れても交信できた。
 
無線は原則全ての紫電改に搭載したが
飛行隊長、各区体調のみが送信でき、列記は「受信」固定し
よほどの事がなければ
喋らない。
空中で互いに目視できる範囲であれば
極力手、指信号を使う。
 
通信は最も重要な戦法のひとつであるが戦闘中、
上下を問わず喋りまくる
米軍と大きく異なるところである。
 
加筆中。
 
搭乗員のプロフィールについてはこちらを見てください。
第343海軍航空隊全搭乗員データベース
 

記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

  
戦史 ブログランキングへ


 
出典
※1『源田の剣』605頁より
※2同607-608頁より
※3渡辺洋二『重い飛行機雲』
※4『源田の剣』607-610頁
※5同609頁

2016年2月 3日 (水)

1/144空母ジオラマ「飛龍」

1/144空母ジオラマ「飛龍」

▲1/144飛龍(ミッドウェイ海戦)が完成しました。 
170センチ×36センチの巨大な紙にインクジェットで印刷し
甲板の質感を出すため、マットラミネートでコーティングしました。
最後にコツコツ集めた食玩のゼロ戦(1/144ウイングクラブと
ウイングキットコレクションシリーズ)を固定して完成です。
 


▲プリントアウトする前のイラストはこちらです。
  

1/144空母ジオラマ「飛龍」

九九艦爆も並べてみましたが、真珠湾時の塗装であることと
数が多すぎてゼロ戦の滑走距離が足りないので
今回は二種類のみとしました。
  
甲板の半分も並べると目が回ります。
数が多ければいいというものでもないと
解りました。直掩中ということにして
ゼロ戦隊のみでもバランスよかったかな?と思います。

 
今後はイベント等で機会あれば展示しようと思います。
 
 

記事の内容が参考になりましたらクリックをお願いします!
読者の方々のクリックによって当サイトは維持されています

  

 
1/144「飛龍」試験販売中!
http://www.amazon.co.jp/dp/B01BN7S1SQ

鴛淵孝大尉機の間違い

鴛淵孝大尉機




鷲縁孝大尉機のマーキングについて、わたくし今まで
間違ったイラストを公開しておりました。鴛淵機の帯は
赤ではなく、白が正しいです。プラモデルのパッケージ
など、あまりにも間違ったほう(赤)の絵が多いため
そちらが定説になってしまっていたようです。
 
申し訳ございません。
つきましては、新しいイラストに差し替えるとともに
新しい情報は以下の通りです。
 
『源田の剣』によりますと
赤い帯を描いた紫電改を見たという者は誰もいない
そうで、白が正しいです。出回っているプラモデルのパッケージが
赤だったら間違いだと思って白で塗装してあげてください。
 
こういったことは逐次訂正し、信頼性を高めて参りますので
ご協力、よろしくお願い致します。