遥かなる蒼穹の戦記
命を削って描きました(書きました)
イラストのほかに未公開写真もたくさんあります。
1000円でお釣りが来ます。2月6日全国書店にて発売です。
買ってあげてください(T_T)
追記
ローソン、ファミリーマートの一部店舗でも
販売予定です。もちろんAmazonでも予約受付中です。
『遥かなる蒼穹の戦記』アップデートページはこちら
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彩雲(さいうん)は、太陽の近くを通りかかった雲が、
緑や赤に彩られる現象である。英語ではiridescent cloudsと呼ぶ。
昔から瑞相の一つであるとされ、これが現れることは吉兆とされる。
この現象は、日光が雲に含まれる水滴で回折し、その度合いが光の
波長によって違うために生ずるもので、大気光象の1つである。
巻積雲や高積雲、風で千切られた積雲などに見えることが多い。
日の高い季節の昼間に太陽の下方に現れるやや上に反った
水平な虹色の弧が彩雲として参照されることも多いが
これは「環水平アーク」と呼ばれる現象で、雲の中の氷晶
により見られる。間違えられやすい別の気象現象である。
彩雲は景雲や慶雲、また瑞雲などとも呼ばれ、仏教などに
おいては「日暈」などとともに、寺院の落慶、開眼法要などには
「五色の彩雲」等と呼ばれる、仏教的に重要な際によく発生する
現象として認識されていた。また、西方極楽浄土から
阿弥陀如来が菩薩を随えて、五色の雲に載ってやってくる
『来迎図』などにも描かれており、瑞相の一つとしても
捉えられていた。日本における記述例としては、『続日本紀』
神護景雲元年(767年)7月23日条と9月1日条に、五色雲の
記録が見られる。また、その出現自体が改元の理由ともなり得て、
飛鳥時代の704年から708年までは慶雲、奈良時代の767年から
770年までは上記の神護景雲の2つの年号が採用された。
実際には上述の「環水平アーク」同様、特定の気象条件や大気の
状態により発生する、それほど珍しくない大気現象であるが、
それ故に特定の事象、行事と結びつけて認識されることが
多々あったと考えられる。
我に追い付く敵機なし
彩雲の挿絵ができました。彩雲の戦記を書いています。
昭和19年8月、硫黄島からサイパンに挺身偵察に飛んだ
広瀬正吾飛曹長は高度8000メートルでP-38の
追撃を受けた。双発でターボチャージャーを備えた
米空軍の最高速を誇るP-38ライトニング彩雲・広瀬機の後方300メートルまで
迫ったとき、広瀬機はブースト(スーパーチャージャー)をいっぱいに
吹かして増速。引き離されたP-38が雲間に消えたとき、彩雲・広瀬機は友軍基地へ
次の如く打電した。
「我に追い付く敵機なし」
出典
秦郁彦著・『太平洋戦争航空史話下巻』
その後、挺身偵察で名を馳せた121空(雉部隊)に彩雲が
実戦配備されると、飛行隊長の千早猛彦少佐、
第一分隊長、長嶺公元大尉
をはじめとした搭乗員はメジェロ・ウルシー等の単機挺身偵察を敢行。
この電文の発信者には諸説あるが、彩雲の韋駄天ぶりを
証明する著名なエピソードである。
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さて、高速の彩雲、すなわち誉エンジンが
その実力を発揮した経緯を技術面からも記載したい。
出典
前間孝則著・『悲劇の発動機「誉」』301頁より
(私が指折りに数える名著です。
技術者もそうでないひともぜひ読んでほしい)
小型軽量にして2000馬力を発生する「誉エンジン」
東京帝大航空学科原動機専修で、中島飛行機に入社した
中村良夫博士(のち陸軍技術中尉)は米国から入手した
「ライトR-3350サイクロン18(B-29搭載エンジン)」
について次のように述べている。
「エンジン全体の技術がきわめて常識的で無理をしていない。(中略
外径をコンパクトに小さくまとめてあった。その分しわよせが
ベアリングにきて軸の径が小さくなるので、日本のようなケルメット軸受
では面圧がもたない。だからアメリカ本土から大西洋を越えて
インドまで飛んで、成都経由で日本まで飛んでこれたわけです」
中略
「我々の誉は、依然として未だ試作の域であって実用化に達していない
こういうエンジンはアメリカでできても日本ではできない」
以下、篠原。
名機と云われる誉エンジンは
ひとつひとつ、職人が仕上げたものであれば
最高のポテンシャルを発揮した。
誉を積んだのは紫電改、疾風、流星、銀河、烈風、
そして「彩雲」である。
しかし、量産となれば、それは違う。
わが国では量産が不可能であった。その肝は特にベアリングにある。
量産品でなく、職人が作った初期ロッド生産の誉エンジンであれば
最高の馬力を発生し、米軍機よりも速く飛んだ。
B-29が関東地方へ飛来し、最も最初に
焼き払ったのが武蔵野製作所
ベアリング工場だった。
※英訳は適切でしょうか。もしよろしければ、どなたか教えてください。
東京ローズ (B-29/F-13のパーソナルネーム)と
P-51D、ジョージ・プレディ少佐機を描きました。
P-51D ジョージ・プレディ少佐機
ジョンC.メイヤー将軍より「彼は完璧な戦闘機パイロットだった」
と回想される米国空軍のトップエース。ノースカロライナ州グリー
ンズボロ出身。少佐はもともとは「納屋のパイロット」でした。
(農薬散布の自家用飛行機のパイロットの意)
当初海軍のパイロットを志しましたが、身体的理由で三度落選。
その後、空軍のパイロットを受験して合格。
プレディ少佐は初陣となるダーウィン空襲邀撃で
2機の日本海軍機を撃墜しました。
その後、P-74とP-51を交互に飛ばしながら
欧州戦線の第352戦闘隊に転属となります。
欧州戦線ではドイツ空軍と空戦を行います。
その間にもスコア(撃墜数)を重ねつつありましたが
ドイツ降伏の直前となる12月25日、友軍の誤射によって
戦死しました。
B-29(F-13)TOKYO ROSE
このB-29は19年11月に初めて帝都上空の単機侵入を敢行した機体で
厳密には偵察機型であるF-13Aと呼ばれる型式で第3写真航空群の
機体番号42-93852、後に「トーキョーローズ」の
パーソナルネームで勇名を馳せた機体です。
B-29(F-13A)はサイパン島のアイズレイ(イスレイ)飛行場を
早朝に離陸。13時頃、房総南端に現れました。日本側の電波
警戒機は機影をこれをキャッチしていましたが、
今までしばしば南方から帰還する海軍の哨戒機があったので
それと思い込んでおり、対応の遅れを招きました。
14時、帝都上空に侵入したB-29(F-13A)は
高度9800メートルから写真撮影を開始。
第10飛行師団はただちに在空警戒中の武装偵察機および
戦闘機隊に出撃させましたが、届かず
B-29(F-13A)は千葉から東京、川越、太田を経て利根川を下り
九十九里浜から南方に退去。
好天で1000枚以上の写真を持ち帰りました。
後の関東地区の空襲に寄与する大戦果でした。
機長のラルフ・ステイークリー大尉とその部下は
その功績を称えられるとともに、新聞で大きく報道され
英雄となりました。(写真あり)
日本が帝都上空への敵機侵入を許したのは昭和17年4月の
ドゥーリットル空襲以来でした。
「東京ローズ」は機体のパーソナルネームとなります。
命名の由来は米軍向けの英語プロパガンダ放送をしていた
日本人女性アナウンサーの存在です。ノーズアートにも
想像図が描かれています。
彼らは、その美しい声の女性に「東京ローズ」と名付け、
日本を占領した暁には、この女性アナウンサーに会えると
考えていたそうです。
東京ローズを竹田大尉が飛燕で追撃したエピソードは
こちらの本も書いています。
陸軍機スケールポスター / クリアファイルが完成しました。
コミティアで頒布予定です。
海軍はこちらです。
https://soranokakera.lekumo.biz/tesr/2018/10/post-645c.html
これでペアになりました。一応、ノモンハンから大東亜戦争末期までの
機体はほとんど書きましたが、どこまでカテゴライズするか、これ以上はそう
いった問題になってきます。
今回は、高速研究機「研三」、鍾馗二型丙、特殊攻撃機「剣」、キ115、キ109、
萱場ラムジェット戦闘機「かつをどり」、試作ジェット戦闘機「火龍」
桜弾機、九八式直協機、九七偵察機(朝日新聞の神風号)
飛燕二型改、Bf-109ドイツ技術供与機、そして幻の計画に終わった
隼の四型を描きました。「富嶽」も架空です。
次いで、大きさ比較の為、B-29と鹵獲機B-17、P-51Dも描き込みました。
今日は一年間の空の安全と、事業の一年間無事終了を記念致しまして
だるまさんの目入れ式を行います。年末年始のちょっとした期間だけ
だるまさんが両目になります。新しい年を迎えたら
新しいだるまさんをお迎えして、気持ちを一新して、
また一年間地道に頑張るのであります。
恒例の護国神社のどんど焼きは1月14日となります。
去年の様子
海軍機スケールポスターの販売を開始しました。
よろしくお願いします。
秋水を描きました。夏コミで描いてくれと言ってくださった方、
描きましたよ!秋水です!シーズンの盛りですが梨とは無関係です。
ネーミングは日本刀「秋水」より取ったものです。
秋水は終戦の直前に離陸に成功した日本初のロケット戦闘機です。
以下の四色が考えられています。
真紅
文献『紫電改戦闘機隊サムライ戦記
角田高喜・堀知良・田中悦太郎ほか』によりますと・・・
国民の士気を高めるために重滑空機の塗装を
オレンジではなく真紅にすることが提案され、実現したと記されております。
篠原の想像と創作ですが、左上、真紅バージョンを描いてみました。
その右側が通常の暗緑色の実戦機となります。
暗緑色
そして下段が実在の機体。
黄色
黄色の試験機塗装が犬塚大尉の試製秋水。
終戦直前に離陸に成功しています。
燃料ポンプの不具合でバンクしたさいにノッキングを起しています。
黄緑色
黄緑色が三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室の
復元機になります。なお機体下部をジュラ地にしました。
艦上攻撃機「流星」を描きました。
「流星(改)」とも呼びます。
愛知航空機はそれまでの主力だった彗星と天山、すなわち
艦爆・艦攻を統合し、急降下爆撃と雷撃が可能な艦上攻撃機を
開発しました。傑作機「流星」または「流星(改)の登場です。
彗星との馬力の違いを艦爆パイロットの小瀬本氏が書いていますので
一部を紹介します。大村と木更津の流星飛行隊は
艦爆・艦攻混成のパイロットから成りました。 スロットルレバーを徐々に前へ倒し全開にする。
乗機はスピードを増して滑走を始めた。
物凄いスピード感である。
飛行場の地面が矢のように走った途端サッと
飛ぶように後方へ流れ去る。
一瞬目が回るような錯覚に陥った。こんな現象は今まで何千回と
行う離陸操作では無かった事であった。
操縦桿を軽く引くと機は地面を蹴って
大空へ飛翔した。
脚が収まると、グーンと前方に引き付けられるように
スピードが増しぐんぐん上昇を続ける。
彗星より軽快に上昇。
彗星より遥かに操縦性能は優れていた。
『艦爆一代』より
近現代史研究会(PANDA会)で
真珠湾攻撃隊員の吉岡正光さんの聴講会が行われます。
吉岡先生は御年100歳!
九七艦攻の偵察員で、真珠湾攻撃に参加されました。
真珠湾攻撃の搭乗員の方の講演会としては
最後の機会になるかもしれませんので
こちらで告知させて頂きました。
万障繰り合わせの上、ぜひご参加ください。
日時は10月13日(土曜日)14時から17時。
場所は浅草です。
申し込み・問い合わせの方はこちらが
主宰者ページです。
http://www.panda1945.net/
「零式戦闘機の全て」デジタル素材集の頒布を開始しました。
商用利用OKです!
※イラスト・デザインは原則ベクターデータで
テキストのみラスタライズ埋め込みとなります。
https://booth.pm/ja/items/1021863