2014年7月10日 (木)

震電

要望があり震電Tシャツを商品化しました。
既にアマゾンで販売中です。
震電好きな方の熱烈なアイデアで実現しました。
 

B

B_2

B_3

「震電」販売ページへ(ブルー)
「震電」販売ページへ(ブラック)

「震電」販売ページへ(ネイビー)

震電は大戦末期に九州飛行機が開発した
日本海軍の迎撃戦闘機(インターセプター)です。
主にB-29の迎撃を任務として運用が検討されました。
 
しかし、その登場が遅すぎました。革新的な高高度性能と
火力を備えていましたが、
初飛行は昭和20年8月3日のことで
実戦配備に至ることなく終戦を迎えました。
 
映画「スカイクロラ」によく似た機体が登場しますね。
 
商品化の要望がありましたらお寄せください!
  


 

零戦雷電震電

Photo_13

烈風(改)戦闘機紫電改

2014年7月 7日 (月)

ミルキーウェイ・パラオ

パラオ ミルキーウェイ01

ミルキーウェイ・パラオ

パラオ ミルキーウェイ02

パラオ ミルキーウェイ03

パラオ ミルキーウェイ04

パラオ ミルキーウェイ05




パラオ ミルキーウェイ06

パラオ ミルキーウェイ07

パラオ ミルキーウェイ08

パラオ ミルキーウェイ09

パラオ ミルキーウェイ10

ミルキーウェイ・パラオ


パラオ・ミルキーウェイは、ロックアイランドの岩盤から溶けだした

古代からの泥がこの一帯に流れ着き白くなった水域です。
 
真っ白な泥はきめ細かく、美容によいとされ
高価な化粧品などにも使われています。

 
ここへ来れば泥パックがタダで塗り放題です。
 
各種アクティビティ、オプショナルツアーの定番です。
申し込みはそちらから。白泥の持ち帰りはできません。
塗って乾かしたら、船上からダイブ。綺麗に落としてさっぱりします。
ダイビングや、カヤンゲル、ロックアイランドツアーで見る海も綺麗ですが
ここミルキーウェイは、また違った色、パラオの楽しみ方で、シュノーケリング
ツアーと合わせて楽しみます。
 
泳げなくてもライフジャケットがあるので大丈夫です。
ガイドが水底へ潜って泥をかき集めてきてくれます。
※お持ち帰りはできません 

この後ジェリーフィッシュレイクへ行く場合は
白泥が少しでも付着しているとゲートから先へ進めませんので注意しましょう。
 

◆◆

ロックアイランド

ミルキーウェイ

ジェリーフィッシュレイク

    ロックアイランド          ミルキーウェイ        ジェリーフィッシュレイク

パラオの戦跡

日本統治時代のコロール

南洋神社

    パラオの戦跡          日本時代のコロール         南洋神社

KBブリッジ


 

 

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パラオ地図

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カヤンゲル バベルダオブ ロックアイランド ペリリュー アンガウル

ロックアイランド パラオの世界遺産は無限のブルーラグーン

ロックアイランド・パラオの世界遺産

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

パラオの海は世界一美しいと称され
その中でも世界遺産のロックアイランドは
言葉では表せない魅力があります。
 
海の色は一様ではありません。
マリンブルーとはいうけれど、ディープブルー、
エメラルド、グラデーションとなって彩られた
数えきれない無限のブルーがあります。

 

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド 
マッシュルーム型の島は海水の浸食を受け、
いつかは崩れ落ちる運命にあります。

 

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

ロックアイランド

 
戦跡調査ではじめてこのパラオへやってきたときは
足さえ一度も水に浸かることもしませんでした。
しかし今ではすっかりこの海に魅了されてしまいました。 

◆◆

ロックアイランド

ミルキーウェイ

ジェリーフィッシュレイク

    ロックアイランド          ミルキーウェイ        ジェリーフィッシュレイク

パラオの戦跡

日本統治時代のコロール

南洋神社

    パラオの戦跡          日本時代のコロール         南洋神社

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カヤンゲル バベルダオブ ロックアイランド ペリリュー アンガウル

2014年7月 3日 (木)

アンガウル島へ行こう

アンガウル島 大神宮海岸

アンガウル島地図

アンガウル島の動植物

 
アンガウル島は ペリリュー島の南およそ10kmに位置する
人口170人ほどの小さな島である。 少ない日程で足を運ぶのは難しいが
独自の生物や自然環境が存在する魅力あふれた美しい島である。
 
アンガウル島はペリリューと並んで激戦の島であり
宇都宮五十九連隊第一大隊が玉砕している。
パラオの戦いで何かとペリリューばかり特筆されるが
ここアンガウルはペリリューよりさらに米軍を苦しめた島であった。
 

アンガウルの戦い 五十九連隊

 
33日間の徹底抗戦 われら太平洋の防波堤とならん
アンガウルを守備する日本軍は兵站、臨時編入を合わせてもわずか
1200名で これを攻略する米国陸軍第81師団の兵力は2万名を超えた。
加えて、空爆と艦砲射撃により 島は焦土と化したが、後藤少佐指揮する
宇都宮五十九連隊第一大隊は 徹底抗戦の構えを崩さず、実に33日間もの間
島を死守したのであった。これだけの兵力差がありながら 33日間も
持ちこたえた例は、戦史を調べても他にないだろう。
 
五十九連隊は大陸から転戦した歴戦の猛者揃いである。
兵士の大部分を栃木県の出身者で占めたが 長野や群馬、北関東の兵士もおり
指揮官、後藤少佐は長野の出身である。 そして臨時編入された沖縄の兵士
たちの犠牲も忘れてはならない。
 
最初から勝ち目はなかった。しかしアンガウルの戦いで散った英霊は
太平洋の防波堤となり 一日でも長く、米軍の本土進攻を食い止めたと
間違いなく言えるであろう。 アンガウルは我々日本人にとっては特別な島である。
 
「私たちも一緒に戦わせてほしい」~アンガウル玉砕戦へ

 
アンガウル島へ行くには

ステートボート(定期船)

ステートボート(定期船)

定期便(小型飛行機)

 
アンガウルへのアクセス
1、定期船
定期船が一週間に一度、コロールから出ている。所要時間は4時間。
帰りは一週間後となる。
 
定期船の旅はこちら
 
2、飛行機
最近、就航したPMC航空で来ることができるようになった。
アイライ国際空港からはわずか20分程度である。
月曜日と金曜日に発着するが、アンガウルの滑走路に直陸後、
すぐに飛びたつので、島を観光することはできない。そのため最低
4日間は滞在しなければならない。飛行機は天候によってフライトできない
場合があるのでリスクが大きい。
 
3、スピードボートチャーター
コロール、もしくはペリリューのダイビングショップ等で
船をチャーターする方法。ガソリン価格の高騰もあり
コロールから往復すると800ドル程度と高価。
なお、アンガウル海峡の波は高く、操船できるオペレーターも
限られる。
 

アンガウル港01

アンガウル港02




アンガウル港03

アンガウル港04

 
アンガウル港

アンガウルへ到着した。外洋がどんなに穏やかでも
アンガウル港内は穏やかである。写真の左右で全く海の表情が違う。
日曜日や学校が終わると、港で子供たちがよく泳いでいる。
 

M4シャーマン

M4シャーマン

M4シャーマン戦車

 
港の入口が非常に狭く、潮の流れが集中し大波となる。
ここを突破できず、船が出港できないことがある。
私も台風の直後、出港できず10日間、島に閉じ込められたことがあった。
 
港の入口には米軍M4シャーマン戦車が2、3輌、投棄されたままになっている。
今では防波堤代わりだ。砲塔は流され、大きなエンジンが見える。
 

アンガウルの港

 

州が運営する定期船は様々なものを島へ運んでいる生命線である。
食料やビール、家電製品や家畜、車も積める。
なお、人間の運賃は一人片道5ドルである。
一週間に一度、定期船が港へ入ると島中から人が集まってきて
港は一番の賑わいとなる。
港には戦時中に作られた陸揚げ用のスロープが残る。
 

ダウンタウン

ダウンタウン

ダウンタウン

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アンガウル島の市街地(ダウンタウン)
この辺りに住んでいる。人口が少ないので、みんな家族同然だ。
ストアと宿泊施設は2軒ある。ここでも日本の中古車が頑張っている。
 

アンガウル島

アンガウル島

タロイモの収穫(上)と
マーク2(チェイサー?)のオープンカー。小さい島なので
雨が降っても2、3分で家に到着だから、モンダイナイ(パラオ語)

この車、ガレージはなく、シートがかぶせてあるだけだった。
それにしても日本の中古車は頑丈だ。
 

アンガウル島・サイパン村

▲戦前のパラオ・アンガウル島の市街地(サイパン村と称した)
日本人とパラオ人、およそ2500人が暮らした。
  

アンガウル島は砂利道ではあるものの周回道路が整備されており、
車でもレンタル自転車でも、気軽に一周することができる。時間は
そんなにかからない。自転車でも3時間もあれば十分か。
では時計回りで見て行こう。

 

サキシマオカヤドカリ

アンガウル 大神宮海岸

サキシマオカヤドカリ

アンガウル島 大神宮海岸

大神宮海岸
ダウンタウンを出てまもなく、大神宮海岸に出る。
別名オレンジビーチとも呼ばれるこの海岸はアンガウル島にある
他の砂浜と比べても独特の色をしている。ここだけ海流の関係で
微生物の死骸が堆積して、このような色になるという。
 
大神宮海岸という名称は、日本統治時代に島の「アンガウル大神宮」という
鎮守様がこの海岸にあったことから。(アンガウル大神宮は南洋では最古と
なる大正時代の建立。なおコロールの南洋神社は昭和15年建立である。
昭和18年、島の燐鉱産業は繁栄を極め、2600人以上が
が島で生活していた。(内、日本人は1300人)
人の集うところに必ず神社は祭られる。
 
大神宮海岸と鎮守の森には、当時
白亜の灯台がそびえ立ち、それは美しいものだった。
 
この海岸では上陸戦は行われなかったが
米軍が占領後敷設した物資陸揚げ用の
レールの跡などが今でも残っている。
 
サキシマオカヤドカリ
この海岸で褐色のヤドカリを見つけられたら幸運だ。
サキシマオカヤドカリといって珍しい個体である。何かいいことあるかも。
臆病なので、そっと観察しよう。
 

ガジュマル

ガジュマルゲート
左右の道路脇からそれぞれ自生したガジュマルがちょうど
真ん中で結合している。周回道路沿いにあるので見逃さないようにしよう。
 

アンガウル大燐鉱 
アンガウル大燐鉱の遺構
昭和18年、アンガウルの主要産業は燐(リン)の採掘で、
南洋拓殖株式会社が主幹となり年間7万トンを産出、最も繁栄を極めた。
当時の島の人口は2,618人で、
島から採掘された燐は主として畑の肥料とするため
内地へ輸送され、この小さな島、アンガウルが
多くの日本人を飢えから救ったがその功績はほとんど知られていない。
 

アンガウル大燐鉱

アンガウル大燐鉱

アンガウル大燐鉱 
▲戦前~戦中のアンガウル大燐鉱(同じ辺りと思われる)

 
アンガウル大燐鉱詳細記事と写真

アンガウル灯台(丹下灯台)

アンガウル灯台(丹下灯台)
先に述べたように、当時、たいへんな賑わいだったアンガウル島。
採掘した燐鉱を船に積みむ大規模な施設があり、船の往来も
盛んだった。船に灯台は欠かせないものである。
 
灯台の外壁は白一色で青空に映え、実に見事な佇まいであったという。
その島民の自慢であった灯台も、艦砲射撃に破壊され、倒壊した。
私が居るところが灯台の折れた根本部分にあたる。

アンガウル灯台(丹下灯台)アンガウル灯台に登ろう(別記事へ)

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那須岬
五十九連隊は栃木県の郷土部隊であったので、島の方々に故郷の名前をつけた。
那須岬へ向かう道。ペリリュー島が見える、ここは景色も良いし
潮風が心地よい。那須岬には現在アメリカの建てたマリア像がある。
那須岬の沖はとくに潮の流れが激しく恐ろしいほどである。
 

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潮吹き穴
那須岬へ向かう途中の岩場に潮吹き穴がある。
温泉の間欠泉のように、海水が高く舞い上がり、霧となって散る。
大迫力であるが、これは独自の岩場の地形が生み出したもので
温泉とは全く異なる。(パラオに温泉や地震は存在しない)
ボフォオオオオという不思議な音がこだまする。
 

アンガウル島レッドビーチ

レッドビーチ
上陸戦の展開されたレッドビーチ。
昭和19年9月17日、レッド、ブルー、両ビーチ同時に上陸を開始した
米陸軍81師団は、ここ極端に狭いレッドビーチで佐藤光吉中尉率いる
第二中隊と対峙した。集中砲火を受けた米81師団は、橋頭堡の確保までに
大苦戦を強いられ、甚大なる損害を被った。
当時は艦砲射撃で、海岸線は丸裸だったのだろうが、すっかり緑は蘇っている。
 
激しい戦闘で砂浜が血で染まったからレッドビーチという名が
ついた、というのは俗説である。米軍がアンガウル島攻略にあたって、
便宜上、レッドビーチと名付けたにすぎない。しかし、血で血を洗う戦い
が繰り広げられたのは確かだ。砂浜がそれはもう惨く赤く染まったことは
相違ない事実である。戦いで犠牲となった全ての将兵に合掌。
 
レッドビーチの戦い

ここからもう少し先へ行くとブルービーチだ。
 

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散兵壕(さんぺいごう)
レッドビーチから間もなく、飛行機墓場の近くに散兵壕が残されている。
70年前、兵隊さんによって掘られたものだ。中へ入ってみると、深さは
175センチの私の背丈よりもある。ここに隠れて敵の上陸に備えた。
島の地層はほとんどが隆起珊瑚岩で、スコップがカツンカツンとすぐ
岩にあたってしまい、これだけの深さを掘るのは大変な苦労だったろう。
掘削したという表現が近いかもしれない。上陸戦の三か月前、
第31軍司令の小畑中将が視察に訪れ、陣地構築の遅れに対し
激を飛ばしたが、これだけ固い地盤を短期間に掘るのは
無理なものは無理である。元兵士はこの小畑中将の視察に
良い印象を持たなかったと記している。
 

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11

飛行機墓場
主に米軍機であるが、滑走路脇の茂みに
レイテ作戦に投入された多くの航空機が眠っている。
これはB-24(リベレーター)大型爆撃機のプロペラ。
四枚のうち一枚でほかの三枚も近くにある。
丸いのは回転銃座、機体の外板も散乱している。
 

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アンガウル島のコルセア戦闘機

 
F4Uコルセア戦闘機
こちらはF4Uコルセア戦闘機。先の大戦でもっとも優秀だったと云われる

米国海軍の名機である。この戦闘機はジェット戦闘機が主流になった頃の
朝鮮戦争でも並行して使われ、活躍した。日本側からみれば、非常に苦しめられた
悪魔のような機体であるが、純粋にメカとして考察すれば非常に良くできた
レシプロ戦闘機の究極の完成型といってもいい傑作機である。
この戦闘機もナパーム弾を用いたアンガウルの掃討作戦と、その後の
フィリピン方面の作戦に活躍した。
 

F4Uコルセア戦闘爆撃機

▲ナパーム弾を取り付ける海兵隊のF4Uコルセア戦闘爆撃機
(写真はペリリュー飛行場のもの)

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アンガウル滑走路
米軍の敷設した滑走路である。
日本軍はペリリューに東洋一といわれる大規模な飛行場を持っていたし
ガドブスにはゼロ戦専用の滑走路、さらにアイライにも大型機が
飛べる飛行場を整備した。アンガウルにも平坦な地があり
「飛行場適地」として備えていたものの、最後まで建設せずに終わった。
 
これに目を付けたのが米軍だった。米軍は
後藤少佐と最後の兵士達が立てこもる複郭陣地を除く
島の大部分を制圧し、ここに滑走を瞬く間に敷設し
同島に残る残存部隊の掃討爆撃と、レイテ(フィリピン)作戦の
足がかりとして大いに活用した。
 
この「飛行場適地」がなければアンガウルでの凄惨な戦いも
避けられたかもしれない。しかし米軍は是が非でも飛行場が欲しかったのだ。
 
それにしても多大な犠牲を払ってまで、パラオ・ペリリュー、アンガウル両島の
飛行場が必要であったのだろうか。サイパン・テニアン・グアムはすでに米軍は
手中に収め、同島からフィリピンを叩くことは充分に可能だった。
マッカーサーもニューギニア方面から陸路でフィリピン奪還を

進言した。ハルゼイ提督も無駄な犠牲を懸念し、パラオを取る必要ない、と
作戦に反対し続けた。これを是非ともという形で推し進めたのがニミッツである。

これは現在でも議論の対象として終わりが見えない。
 

Imgp8064_2

週に二回の定期便が来た。
飛行機は島の上空を大きく旋回し、着陸コースに入る。
これは島民に飛行機が来たことを知らせるのと同時に

自由気ままなアンガウル滑走路、滑走路の真ん中に
人が寝ていたりするので、
「今から着陸するからちょっとどいてくれ」の合図でもある。
 

Imgp8084 
 
この建物がアンガウル空港のターミナル。
酋長がいま届いたばかりの新聞を読んでいる。
新聞は週に二回しか届かないから貴重だ。
 

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着陸すると、島中から人がやってくる。
着陸して、すぐにコロールへ戻ってしまうので、飛行機を待たせての
観光はできない。原則片道だけと考えたほうがいいだろう。
 
飛行機はデコボコの滑走路をものともせず、あっという間に
飛び立っていった。
  

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3

V

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アンガウル島鬼怒岬

鬼怒岬
アンガウルの最南端、鬼怒岬へ。
これも郷土の兵隊が名付けた名だ。当初、上陸部隊の米81師団は

この鬼怒岬を目指して沖合から前進していた。これに即座に対応すべく
陣地を持たない遊撃隊であり、島中尉率いる紅蓮疾風隊が
海岸に駆け付けたが、沖の上陸用船艇は全く動かなくなってしまった。
これは陽動作戦であった。島中隊が鬼怒岬に引きつけられている間に

81師団の本体は、レッド、ブルー両ビーチに上陸を開始した。
 
しかしアンガウル島は小さな島である。島中隊は陽動を解ると直ちに反転し
上陸戦の展開されている、ブルービーチへ向かった。
紅蓮疾風隊の名の通り、疾風の如くブルービーチへ急行すると
水際防御に加勢。米上陸部隊の上陸を許さず
勇猛果敢に戦った。この戦いで米軍は大隊長や大隊幕僚まで負傷し、

上陸部隊は壊滅。一旦、押し戻されてしまう。
 
「ブルービーチの死闘」続きはこちら

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沼尾少尉の鬼怒岬~妻との約束

 
※写真は台風前と台風後の比較。

この巴岬から鬼怒川岬にかけては沼尾隊の陣地であった。

指揮官、沼尾少尉は叩き上げの士官である。大陸からの転戦した
古強者であり、また部下の面倒見がよく、たいへん慕われたといわれている。
彼もまた太平洋の防波堤となって散る運命だった。 
 
沼尾少尉は内地に妻を残していた。少尉と妻には
次のようなエピソードがある。
「沼尾少尉、妻との誓い」

 
  

ブルービーチ

アンガウル島ブルービーチ

ブルービーチ
台風前に訪れたブルービーチ
米軍の敷設した物資陸揚げ用のレールが残る。
ここも激戦のビーチである。
 

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同じ場所とは思えない。
台風の高波で全てが流され瓦礫の浜になってしまった。

大木といえども根元から引き抜かれ倒れている。
 
 

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そう、この砂浜では激闘があった。70年前の9月、
何もかも燃えてしまったのだ。
戦争で焦土と化したシャングルが再生したように。
地で染まったこのビーチが美しい青を取り戻したように。

緑の息吹を感じる。きっとまた蘇るであろう。
 
ブルービーチの激闘へ
 

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アンガウル・ラストコマンドポスト
玉砕の複郭陣地へ
 
後藤少佐が玉砕し、最後までたてこもり徹底抗戦を行った
複郭陣地へ向かう。今回は特別な許可を得て
酋長と島民の協力で、複郭陣地へ進む。
 
後藤少佐の最期~アンガウル島のラストコマンダー
 

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台風の影響と、長年誰も足を踏み入れていないこともあり
道がなくなっている。
 

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倒木を切断したりしながら少しずつ前に進んだが、結局、複郭陣地の
入口すら行けなかった。今回は段取りだけにして
次回、出直そう。なんとしてでも最後の玉砕地で慰霊がしたい。
 
海ゆかばをうたう。
合掌。
 
平成28年9月追記
アンガウル島遺骨収集の旅へ行ってきました
  

私は戦史の専門家なので今回は慰霊目的であったが、
それ以外にもアンガウル島は魅力の多い島である。

白く光るホタルはここでしか見られない。
 
ぜひ足を運んでみては如何だろうか。
そして、ここへ来たら、アンガウルで玉砕し
太平洋の防波堤となった英霊の御霊にどうか
感謝の気持ちをわすれないでほしい。
 
あなた方のおかげで、いまの日本があります。

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D

D_2上から、左、右の順で
・シロアジサシ
仲良く2羽でいるところが多い。
 
・パラオオオトカゲ
パラオ最大のオオトカゲ。戦争中は食用になった。
美味らしい、今でも食べる気になれば食べられるそうだ。
 
・プルメリア
 
・椰子の実
 
・野生のグアバ
 
・ハイビスカス
 
・パパイヤ
青い実は間引く。間引いた実は千切りにしてサラダなどにすると旨い。
間引いてできた完熟の実はとても濃厚で甘い。その場合は虫に食われないよう
早めに収穫して追熟させるのが一般的。
 
・ゴールデンコプラ
パラオでもなかなかお目にかかれない黄金の椰子の実。
ジュースは濃厚。
 
・プルメリア
プルペリアはパラオの全域に自生するが、地域によって
花弁の色、形がまったく異なる。私はアンガウルのプルメリアが
一番綺麗だと思う。パラオ語ではエリライと称す。
 
 

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2014年6月30日 (月)

ペリリュー島戦跡・中川大佐自刃のラストコマンドポストへ

ペリリュー島、中川大佐が自決したラストコマンドポストへ向かう。
 


一般的な戦跡ツアーでは、画像の
「鎮魂~終焉の地」の碑がある場所を
中川大佐自決の地と説明し
案内しているようだ。
 
確かに中川大佐は玉砕戦終盤に
この近辺に居たことは事実であるが
戦局悪化とともに後退したので実際に

自決したのはここよりさらにジャングルの奥深く入った場所ある。
ここから先は遊歩道も無く断崖や燐鉱を採取した跡のクレバスが点在するため、
安全上の都合を考えれば致し方ない。
 
・本当のラストコマンドポストへ行く!
今回はペリリュー島在住(パラオ人)で戦跡専門ガイドの先導で本当の
玉砕地へ向かう。なお、同じようにラストコマンドポストへ行かれる方に
必ず守って頂きたい注意事項を最後に記載したので目を通して頂きたい。
 
・ペリリュー島複郭陣地~中川大佐最後の戦いとは
そのまえに少しおさらいをしておく。
複郭陣地(中央山岳地帯)は中川本隊が籠城による徹底抗戦を行った
最後の戦場である。複雑に張り巡らせられた大小500以上の壕を有し
高度に要塞化されたこの戦域は複郭陣地と呼ばれ最後まで米軍を苦しませた。

 
9月15日に開始された米第一海兵師団による戦いは
30日までに海岸線、飛行場および南部平坦地、
北部ならびにガドブスを掌握し、残すはこの中央山岳地帯のみとなった。
 
これらの山岳地帯(水府山地)をウムロブロゴル山地と名付けた米軍は
壊滅した第一海兵師団の任務を解除し、その役目を陸軍81師団に引き継いだ。
ウムロブロゴル包囲網(複郭陣地包囲網)は第10フェーズラインと称され
長さが東西に3キロ、幅が平均500メートルというわずかな戦域であったが
米軍がこれを徐々に縮小し最終的に司令部を陥落させたのは
陣地を包囲してから一ヶ月半以上も後のことだった。
 
81師団はこの間、ゲリラ戦を展開する守備隊に対し苦戦を強いられ
多くの犠牲を払った。
 
守備隊長の中川大佐は上陸戦直後に司令部を大山麓の
ワイルドキャットボウルと呼ばれる場所(鎮魂の碑の近辺)から
チャイナ・ウォールと呼ばれる断崖と岩場に挟まれた
二重の壕の中へ後退させており
いかなる攻撃も届かない場所にあった。
(ラストコマンドポスト)
 
中川大佐は当初の計画通り最後まで徹底抗戦の構えであったが、戦術顧問の
村井少将は持久戦に堪えかねた将兵を案じ、パラオ本島の師団司令部に
電文を送り、飛行場への玉砕突撃の許可を求めた。しかし師団司令部は
これを許さず
最後の一兵まで持久戦に徹するよう下令した。
 
そして11月24日、ついに司令部壕を包囲された中川大佐は
玉砕を意味する電文「サクラ」を連送した後、村井少将とともに自決。
残った将兵は最後の突撃を敢行し、ここにペリリュー島の組織的戦闘は終結した。
 
日本守備隊は上陸戦から数えて2か月以上にわたりペリリューを死守。
太平洋の防波堤となって本土侵攻を一日でも長く食い止めたのであった。

 
追記
ペリリューの中川大佐と言えば動画等で一躍有名になったエピソード 
「私達も一緒に戦わせてほしい~貴様ら土人と共に戦えるか!」
というものであるが、創作である可能性が高い。
そして残念ながら民間人犠牲者も出ている。 
 

ペリリュー島、中川大佐自決の地1

 
ラストコマンドポストへの道のり
今回は、ぜひともペリリューで慰霊をしたいという友人夫妻と、
友人のペリリュー研究家、パラオ人ガイド、そして私で目的地を目指す。
崖の上や起伏の激しい個所を歩く。
この辺一帯はペリリュー最高峰「大山」麓である。
 

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・不発弾が現在も残る
所々に不発弾が残っている。
不発弾処理隊が赤いテープでマークしたものは目立つが
そうでないのも多くあるので注意のうえ、絶対に触れてはいけない。
画像は駆逐艦か巡洋艦クラスの砲弾か。右は日本軍守備隊の火器。
 

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・燐鉱クレバス
燐鉱を採掘した跡が大きなクレバスとなって残っている。
落ちたら命の保証はない。十分に注意を払う。
 

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・複郭陣地に残る遺品、兵器
ジャングルには遺品が多く残る。
左上から250kg航空爆弾、陸軍さんの飯盒(はんごう)
同じく250kg爆弾、自転車、防毒面(防毒マスクのフィルター部分)である。
 

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ペリリュー島、中川大佐自決の地2

 
左上から、弾倉(マガジン)、対戦車地雷、航空機の座席か?
大鍋、米軍の弾頭(中身はカラ)、そして日米両軍の手榴弾が並べて置いてある。
左の四角いのが日本軍、右のパイナップル型が米軍。
 
不発だったのであろう。ピンは抜かれている。

これを握り締めていた兵隊さんは、どんな心境だったか。
攻める米兵は負傷すれば後方に下げられ、手厚い治療を受けることができた。
しかし、日本守備隊は、四方を敵に囲まれ、逃げ場もなく
衛生材料(治療の薬や包帯)も無い、助かる命も
助からず、負傷すればそのまま死ぬしかなかった。
文字通り、島を死守。徹底抗戦を以って、米軍の進攻を阻止、
長期化に持ち込んだのだった。

 
※なお、パラオの法律で、こうした遺物をむやみに移動させたり
持って帰ったりすることは固く禁じられている。
仮にそれが
日本兵の遺物や遺骨だったとしても例外ではない。もし、遺骨を見つけた際は、決して
移動させず、遺骨の
場所を報告しなければならない。

 

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ペリリュー島、中川大佐自決の地 

岩壁の各所には弾痕が無数に残っている。
 
・ラストコマンドポストへ到着
険しいジャングルを進むこと30分ほど、
ようやくラストコマンドポストへ到着した。
 

ペリリュー島、中川大佐自決の地

▲ラストコマンドポストは四方を岩に囲まれている
敵からの攻撃を受けないところにあった。中川大佐が自決したのは
この壕の中だ。我々は中川大佐ならびにペリリューで
太平洋の防波堤となって散ったすべての英霊に感謝と
黙とうを捧げた。
 
われ太平洋の防波堤とならん
昭和19年9月15日にはじまったペリリュー上陸戦は
当初、米海兵隊ルパータス少将が2、3日で終わるだろうと
予想した。ところが中川大佐指揮する水戸歩兵第二連隊ならびに
高崎十五連隊千明隊は、徹底抗戦の末、2か月以上にわたって
ペリリューを死守。太平洋の防波堤となって本土侵攻を一日でも
長く食い止めたのであった。
 
そして11月24日、この壕で中川大佐は自決
残った将兵は最後の突撃を敢行し、ここにペリリュー島の組織的
戦闘は終結した。

ペリリュー島、中川大佐自決の地

▲中川大佐自決の壕で前で合掌
 
明治天皇より拝受した軍旗を捧焼し、ここに伝統の精鋭第二連隊の
71年の歴史が終焉を迎えた。
 
中川大佐の自決
白光二閃。

中川大佐は先に散った多くの部下を思い、静かに目を閉じ
愛刀を腹にあてた。中川大佐の介錯は連隊旗手の烏丸中尉が※(1)
村井少将は塚田中尉が務めた。これを見届けた重傷者も
続いて自刃。残された者は最後の突撃を敢行し
壮絶な最後を遂げたのであった。
 
身元判明の経緯
戦闘終結後、米軍がはじめてこの壕を調べた際
三名の遺体が発見された。そのうちの一名は白髪で階級章が
残されていたことから、中川大佐と推測された。
残りの二人は村井少将と軍医であったとされる。

 
最後の突撃に参加したものの、米軍に捕らわれた元司令部付の
兵士がまもなく遺体の確認に立ち会い、中川大佐であることが認められた。
 
さらに時が経た、戦後、烏丸連隊旗手の遺骨も付近で発見された。
 
中川大佐自決に関するもうひとつの説
※(1) なお、中川大佐は発見時、頭部を拳銃で撃ち抜かれた跡があり
拳銃で自決を行ったとの説もある。同様に証言している生き残りの
兵士も居る。中川大佐は子供がいないので烏丸連隊旗手を我が子の
ように可愛がっており、烏丸がこれを拒み、介錯できなかった
といった証言も存在する。

  

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▲サクラサクラを打電した通信アンテナの跡
画面左あたり、岩が垂直に凹んでいる個所があるのが
わかるだろうか。
これは通信アンテナが据え付けられていた跡だ。
 
この垂直の岩は中川大佐が自決した壕の向かい側にあり
この窪みに通信アンテナが立てられていた。まさにこの場所から
最後の電文「サクラサクラ」が発信されたのだ。
 
昭和19年11月24日16時
ここペリリュー司令部より最後の電文が発信された。
電文は次の通り。
 
サクラサクラサクラ ワガシユウダンノケントウヲイノル ワレクノゴチヨウ
サクラサクラサクラ ワガシユウダンノケントウヲイノル ワレクノゴチヨウ 
・・・─・─(オワリ符号)

※サクラサクラサクラ我が集団(14師団の意)の健闘を祈る我、久野伍長
 
この電文はウルクターブル島の通信所で中継され
パラオ本島の14師団司令部に届けられた。そのさい短くなって
「サクラサクラ」となった。
 
遺体の埋葬とその後
なお、遺体が確認された中川大佐と村井少将は
米軍の手により埋葬された。
戦後まもなく中川の妻へ遺骨返還の申し出があったが
中川の妻は次のように伝え辞退したという。
 
「まだ多くの部下は故郷へ帰れずに居ります故
遠慮申し上げたい。すべての方が帰ってから、中川は最後で構いません」
 
夫人はその後亡くなり、二人だけの墓が熊本に立てられた。
夫人は今も大佐(死後中将)の帰還を待っている。
 
なお、このときの辞退が関連するかは不明であるが
戦後の混乱を経て、ペリリュー島の中川、村井両将の埋葬地は
不明になってしまった。誠に忍びない。
 
熊本県の中川大佐の墓所へ
 
この他にもジャングルの中には様々な遺品が残されている。

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帝国海軍大航空基地の名残
上は艦上爆撃機「彗星(一一型/一二型)」のエンジン。
これがペリリューにあるならば、彗星艦爆でなく

強行偵察専門で彗星を二式艦偵として運用した第121海軍航空隊
(通称雉部隊)のいずれか一機ではないかと、私は考えている。
マフラー(排気管)は腐らない。
 

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こちらも航空機のエンジン。
帝国海軍ペリリュー航空基地は、海軍屈指の大飛行場で

マリアナ沖海戦で航空機を消耗するまでの間、
一式陸攻などの大型機をはじめ、戦闘機や攻撃機などあらゆる

機体を運用した。現在は滑走路の一部こそ残っているが
そのほかの大部分はこうしてシャングルに帰した。

 

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ゼロ戦の主脚だ。萱場製作所製(現KYB/カヤバ工業)である。
ショックの部分に注目されたい。まだ錆びずに光り輝いている。

これには驚いた。
 

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ペリリュー島、中川大佐のラストコマンドポスト 

海軍通信壕を通って戻る。
この洞窟は、山を貫いているので、近道となる。
 
以上、ラストコマンドポストへの道のりは
険しいので、健脚の者に限るが、慰霊できてよかった。
 

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ジャングルに入るときの注意点
ラストコマンドポスト慰霊を含むペリリューのジャングルに入るにあたって
(通常の戦跡ツアー、遊歩道などを散策する場合を除く)
注意点を記載しておきます。行かれる方はご一読願います。
また、すべてにおいて自己責任のうえ、お願い致します。
 
・必ずペリリュー州観光パーミッドを携行してください。
 
・単独行動は控えてください。
原則的にパラオ人ガイド、もしくは公認ガイドとともに行動してください。
 
・他国の領土です。
国際問題にもなりかねませんので行動は慎重に願います。
 
・相場以上の謝礼金を渡すことは控えてください。
また遺骨情報などと引き換えに金品を要求される場合、応じないようお願いします。
 
・ジャングルに入る際は、虫よけスプレーで充分にアカムシ対策をしてください
ペリリュー島特有のアカムシ(ダニの総称)にかまれると、三週間はかゆみがひきません。
 

ペリリューの市街地散策

ペリリュー島のストア

 
・ストアでお買いもの

コロールのダウンタウンを散策しよう。まずはストアでお買い物だ。
ペリリューには、日用品や食品を扱うストアーが何か所かある。
基本的にここでなんでも手に入る。
 
・パラオ人は日本の柿の種、カリントウが大好き
とくに日本のスナック菓子が多い。
赤や青のカリントウはペリリュー(コロール)の名物。
パラオ人が日本のものを真似て作ったものらしい。
それから柿の種もパラオ人は大好き。
  
弁当(パラオ語/ベントー)も売っている。
 
ご飯におかずを少し載せたものがパックされている。
スーパーのお惣菜といったところか。
この店はアイスクリームも売っている! 
冷蔵庫はあっても冷凍庫がある店は少ないので
アイスクリームは貴重である。

 
・ビールが水代わり

一番売れるのはビール。パラオ全体に言えるが、この国はビールに
酒税がかからないので、500mlの缶ビールは一本1ドル前後で買える。
島民はジュースのように昼間から飲んでいる。ちなみに
ビールを飲むことをパラオ語で「ツカレナオース」という。(本当です)
パラオ人はバドライトなど、軽いものを好むが、アサヒのドライもよく売れている。
また、パラオの地ビールではレッドルースタービールというのがある。 
 
軒先に置いてある緑色の木の実はビンロウジュの実。
石灰をふりかけて、噛むようにして味わう。パラオ人の一般的な
嗜好品である。
 
・インターネットカードの購入
ストアではインターネットカードを購入できる。
ペリリューにもインターネットのホットスポットが何か所かあり、
カードを購入して裏面をスクラッチし、番号を専用画面に入力すると
二時間5ドルで使える。パラオは今でもダイアルアップが主流で通信速度は
とても遅いので、日本と同じように使えると思ってはいけない。のんびりやろう。
 
・洗濯屋さん
ストアで洗濯屋を兼ねているところもある。
ビニール袋一袋で(重さや量は関係なく、一袋での計算)
9ドル~15ドル程度で、洗濯、乾燥から畳むところまでやってくれる。
 
一般的なものはだいたい。ストアで手に入るし、生活に困ることはない。
暑いので水を多めに買っておこう。
 

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シャングルに入る人は必ずこれを
買っておこう。
「オフ」という虫よけスプレーで
現地民いわく、いちばん効果があるらしい。
 
それでいて「日本製のは効かない」という。
なんか殺虫剤みたいな匂いがして
お肌に良いという保証はないので
敏感肌の人は注意。

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ここはガソリンスタンド。
離島なので、当然コロールより高い。
 

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ペリリューのダウンタウンを行く。ここが島で一番賑わっているところ。
店で借りたレンタルバイク(5~10ドル)で走る。
左右に民家が並んでいるが、ここらへんの家は200~300万円もあれば
建てられるらしい。土地は外国人は買えないので、酋長の許可を得て
借りることになる。
 

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左右のドラム缶はゴミ捨て場。パラオはゴミの
分別がしっかりしていないので、紙類から乾電池まで同じところに捨てる。
島の裏側へ回ると、これらゴミの埋め立て場があり、自然遺産が売りの
リゾート地と思えない光景であった。今後直近の課題である。
最近になってようやく日本の協力により分別が指導されつつあるので
期待したい。
 

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走っているのは日本の中古車が九割。第二の人生を送っている。
それにしても日本の車は本当に頑丈だ。ボロボロになってもよく頑張って走る。
最近、急激にヒュンダイのシェアが拡大しているが、年月が経っても同じように
走ることができるだろうか。答えはあと10年くらいしたらわかるだろう。 
 
行政の車などは、ペイントがそのままになっているのが面白い。 
 
ペリリューに限らず、パラオは犬はほとんどが放し飼いである。
かまれないように注意しよう。

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水戸山の麓の千人壕。今は中が清掃されていて
少しだけなら入ることができる。あまり奥深くまで行くと方向感覚がなくなり
出てこれなくなる事故もあるので、光が届く範囲で見学しよう。
 
ここは引野大隊長指揮した独立歩兵346大隊および
軍属の玉砕した壕である。水戸山の千人壕について詳しくはこちら

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同じく水戸山ふもとの海岸線沿いに作られたトーチカ。
銃眼口が設けられている。
 

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ノースドック(北の港)までやってきた。
学校が終わった子供たちが飛び込み遊びをしている。
すごい迫力だ。
 

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飯田大隊が逆上陸を敢行したガルコル波止場。ここは
ペリリュー島の最北端にあたる。海が透き通っている。
凄惨な戦いがあったとは思えないほど美しく穏やかな海である。
 

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島の花や植物も多様でそれぞれが美しく面白い。
 
遠くに黒い雲が見える。スコールが来るだろう。
ドルフィンベイへ帰ろう。
 

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ペリリュー・ドルフィンベイリゾート

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ペリリュー島のドリフィンベイリゾートへ宿泊しました。
 
ペリリュー島にはいくつか宿泊施設がありますが
戦跡ツアーで訪れる方はほとんど日帰りで、夕方には
コロールへ帰ってしまいます。
 
最近ではダイバーの方が宿泊してペリリューもしくは
サウスロックアイランドのダイビングを楽しまれています。
ペリリューに宿泊するメリットとしては、同島でゆっくりダイビングが
可能なのはもちろん、ペリリューからサウスロックアイランドは
近距離にあるので、一番乗りでダイビングスポットへ
到着できます。コロールから朝一番に出発したダイバー船は
いくら頑張ってもペリリュー出発の船には勝てません。
 
ここペリリュー・ドルフィンベイリゾートは
ペリリューでも最高級の宿泊施設でありますが
お値段は比較的リーズナブル。日本人の宿泊客はあまり居ないようで
欧米人が目立ちます。
 

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日本人のマユミさんとガドウィン夫妻が経営する
コテージで、コテージには広く綺麗なシャワールーム、トイレ
冷房を完備しています。
 
敷地内には島で一番の宿泊者専用シーサイドレストランがあり、潮風
心地よく、雰囲気も抜群。朝食はもちろん、昼飯は弁当を作って持たせてくれます。
ディナー時はカウンターバーにもなります。
 

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日本人が経営しているのできめ細かなサービスとおもてなしの
心がスタッフ一人ひとりに根付いています。
 
コテージの目の前は海です。

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宿泊先で迷ったならここなら間違いないと思います。
宿泊者には格安で
スピードボートで送迎も可能です。
 

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ドルフィンベイの沖合に浮かぶこの小さな島は
上陸戦時、本島疎開を拒んだ島民が隠れて、
奇跡的に一命をとりとめた島です。

 

そのほか
ペリリュー島の宿泊施設いろいろ
 
マユミ・イン
パラオ人のマユミさんが営むエコノミーな宿泊施設。
(ペリリュー島にはマユミさんが二人います。一人はマユミ・インを経営する
パラオ人で日本統治時代を生きた日本語ベラベラのマユミさん。
もうひとりはドルフィンベイを経営する日本人のマユミさんです)
マユミ・インには大部屋と個室があり、日本慰霊団を受け入れるときは
かならずここを利用していました。
部屋はエコノミーですが、ペリリューで一番、食事が旨い!
ウエカブ(カニ)が安く食べられますし、食事には必ず
おひつに入った白米と(またこれがボリュームあり)味噌汁が出ます。
アルコールは別途注文。
 
アイランドビュー・モーテル
ノースドックからすぐの二階建ての宿泊施設です。
虫が少ないのが良いところです。部屋は普通です。
食事はつかないので、手配する必要があります。 
 

2014年6月24日 (火)

パラオの空を飛べ!

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世界一美しい海と称され、ダイビング客がもっとも多いパラオですが

その海を空から眺めるのもまた素晴らしい体験です。
 
今回は「スマイルエアー」の利用です。

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飛行機のドアなんですが、外した状態と、取り付けた状態、
お好みで
選びます。もちろん外しましょう。
 
通常、旅客機の発着は全て夜中です(着陸料の関係らしい)
このときばかりは空港の全景が拝めます。
 

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画像だと、一見落っこちそうに見えますが、しっかり座席ベルト
締めてますので
ダイジョーブ(パラオ語)であります。
 
あっという間にテイクオフ。軽自動車で近所のスーパーに
買い物へ行くようなフットワークの軽さです。
 
旅客機とはまったく違う感覚。シートに押し付けられる
力強い加速とともに、滑走距離はほんのわずか。長い滑走路は
だいぶ余っています。瞬く間にふわりと浮きます。
 
キャプテンの握る操縦桿が小刻みに左右に動く、それが
レスポンスよく体に伝わる、まるで鳥になったような心地よさ。
 

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ちょうどアメリカの海軍さんが来てます。
ありゃ哨戒機かな?
 
赤い屋根がパラオ国際空港のターミナルです。

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パラオ国際空港の全景が眼下に。
同空港は、もとは日本海軍のアイライ航空基地です。
 
当時、パラオに居た日本人の方が勤労奉仕で作ったと言っていました。
当時は重機などなく、スコップやモッコを使った手作業です。
 
1944年3月、戦艦武蔵がコロール泊地へ入港。
その際、乗船していた陸軍一個大隊が飛行場建設に加勢しました。
多くの民間人、軍人の血と汗が染み込んだ飛行場です。 
 
まもなく、飛行場は完成し、第343海軍航空隊(初代/隼)の
ゼロ戦隊が主に運用し、邀撃任務に活躍しましたが
それもわずかな間で、9月には制空権を握られてしまいました。
当時、アイライに居た元陸軍さんによると、
ここバベルダオブ島で直接上陸戦はありませんでしたが
飛行場を米軍に乗っ取られてしまったとの説もあり
P-38ライトニングやグラマンが馬鹿にするように超低空を飛んでいたと
いうお話でした。
 

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画面右下がKBブリッジです。
滑走路とブリッジの位置関係がよくわかります。
  
さて、話を現代に戻して、セスナキャプテンのお話。 
ここアイライの飛行場(パラオ国際空港)はパラオの中でも
非常に気象条件に恵まれた立地にあり
天気が悪くなる確率が低いとのこと。
 
コロールやペリリューが雨でも
ここアイライだけは晴れ間で、上空に上がって
周囲を見渡せるとか。ここを選んで飛行場を作った旧日本軍は
すごいですね、とキャプテンも感心しておりました。
 

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KBブリッジ上空。
空から見ると、深い部分がはっきりわかります。
ここは「アルミズ水道」といって昔から海上交通の要衝です。
 

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コロール島全景。手前がTドックと、
画面奥がパラオ松島。左がアイライ。右がマラカルです。
地図の通りです。
 

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マラカル島上空。
マラカルの港と、奥がロイヤルリゾートホテルです。
 

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アラカベサン上空。
戦時中は高射砲陣地がありました。(いまも残ってます)
ここの高射砲隊はニューギニア帰りの猛者揃いで
米軍機を数多く打ち落としました。
 

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二式大艇の基地。
海に突き出たスロープ(海軍ではスベリと呼んでいました)
は戦前に建設されたものです。ここに大型飛行艇を陸揚げして
整備を行いました。当時コロールに住んでいた
日本人の方が、九七式が多かったが二式もよく来ていたと、
当時を回想して言っていました。スロープを上がった先に
飛行艇を収容できる超巨大な格納庫があったのですが
現在は取り壊されています。
 
スロープの左側に
25メートルプールがあるので、ちょうど大きさの比較ができますね。
 

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アラカベサン島のPPR上空。
この辺一帯も海軍水上飛行機の基地でした。
 

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パラオ松島上空。画面奥がコロール島です。
同島の北側にあたります。
 

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これはイルカと遊ぶための施設です。
いけすで囲ってあります。
 

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水道をスピードボートが航跡を引いて走っています。
いつも乗ってるやつです。
 

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飛行場へ戻ってきました。
 
スマイルエアーでは
15分(コロール島上空周遊)
30分(セブンティアイランド上空)
45分(ペリリュー島手前まで飛べます)
 
以上、3つのコースから選べます。
料金も2名以上ならダイビングより安いので、おすすめです。
 
余った時間は観光できますので、空いた時間で
利用みてはいかがでしょうか。

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2014年6月23日 (月)

初期生産スペシャルカラー本日締切

特別色は本日締切です。今日いっぱいお待ちしております。
選べる色は下記をご覧ください。
 
締め切りました。
たくさんのお申込み、誠にありがとうございました。

2014_3_2

20142_2

2014_2

2014年6月20日 (金)

パラオ近況

パラオの近況も随時更新して参ります。
 

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