2014年6月20日 (金)

ニミッツヒル(グアム)

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グアム屈指の展望地であるニミッツ・ヒルへ上る。
名前の由来は太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツ提督から。
 
グアムの市街地を一望できるが、このニミッツヒルの麓こそ
アサンから上陸した米海兵隊と第二十九師団の主力がぶつかった戦場である。
のちに守備隊はバンザイ突撃を繰り返した。高品中将が戦死。
 
バンザイ突撃の襲撃を受けた米海兵隊は恐怖に震えた。
以下は海兵隊員の回想である。
 
「奴らは撃っても撃ってもまた来るんだもう死んだだろうと、思った。
それでも、まだ来るんだ。だからマシンガンを撃ちまくった。それでもまだ来るんだ」
 
「撃っても撃っても来るんだ!」
「撃っても撃っても来るんだ!」
「撃っても撃っても来るんだ!」  
 
「奴らは不死身か!」
 
本気で思ったという。
 
日本は絶対に降参しなかった。後年、このバンザイ突撃については
命の無駄だとか、極めて無謀な作戦であったとか評価されがちであるが
彼ら米国にとってみれば、絶対に降参しない日本、という印象が
至極強烈、刻み込まれたことは事実である。
  
戦後、本土へやってきた進駐軍は、日本の 軍民全てに叩き込まれた
徹底抗戦の精神がまだ眠っているから非常に扱いにナーバスだった。
 
だから戦後教育で徹底的に精神を否定し、頭の中を良いことも悪いことも
すべて、アメリカの 都合の良い風に入れ替えたのだ。
これはアメリカに限らず 戦争に勝った国であれば例外なく行うことだ。
精神の武装解除には時間がかかった。
 
とにかく日本人が本当に恐ろしかったに違いない。
まさにマリアナ・グアムの戦いは一億総玉砕のさきがけであった。
 
太平洋の防波堤となりますと、遺書を書いて 散っていった兵士の叫びが、
ここへ来ると聞こえる。 いまでもバンザイバンザイと丘陵に木霊する。
 

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※煙を上げるのがグアム・アプラ港(旧大宮港)の火力発電所とアメリカ軍港湾施設。
 
※大韓航空801便グアム墜落事故について
1997年8月6日、午前1時42分頃、豪雨の日だった。
大韓航空機がパイロットミスによりニミッツヒルに突っ込み、墜落
大参事となった。この事故により乗客乗員254人のうち228人が死亡した。

グアム軍事法廷跡 BC級戦犯終焉の地

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グアム軍事法廷跡
1945年の終戦後、南洋各地から集められた、いわゆる
B、C級戦犯の裁判および刑が執行された場所である。
今はさら地となっている。何も残っていないが
ぜひとも見ておかなければならない。

 
沖縄から海兵隊が移転すれば、ここも基地施設となり

自由に入ることはできなくなるだろう。
 
もちろん裁判は戦勝国による一方的なものであり
必ずしも公正無私でない。
 
そのため、これらの裁判で死刑となり
命を落とした場合、日本では法務死と呼ぶ。
 
阿部孝壮の法務死(クェゼリン捕虜処刑事件)
海軍中将、阿部 孝壮(あべ こうそう)は
クエゼリンで米国人捕虜9名を殺害した容疑で
ここグアムで裁かれた。
 
阿部はマキンの戦いで敵上陸を目前に控え、
捕虜の処遇に関し、現地指揮官に意見を求められた。
その際、阿部は「適切に処分せよ」と、指示を部下に一任した。
  
1946年、3月21日
阿部は巣鴨プリズンからここグアムへ移送された。阿部は
クエゼリンの捕虜殺害事件については現地指揮官に責任を負ってもらいたい
との意向を受けており、自決せず裁判に臨んだ。
 
米海兵隊が主宰するこのグアム軍事法廷は、同年5月6日に起訴状が
出され15日に開廷された。そして結審したのがわずか一週間後の
22日であった。
阿部は当初聞かされていた予想とは
正反対の絞首刑を告げられる。
裁判ではほとんど阿部の発言は行われなかった。
 
1947年、6月19日
刑が執行される。
阿部は宮城(きゅうじょう)を仰ぎ、天皇陛下万歳といって
刑場の露と消えた。

ガンビーチ(グアム)

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ホテルニッコー・グアムの前に
ガンビーチと呼ばれる砂浜がある。
その名の通り、これが由来である。自由に触れることができる。
 

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うるわしき砂浜と対照的に
錆びついてもなお、戦い終わらず
照準は沖の舟艇か、空を睨む。

恋人岬を望むガンビーチには、日本人を含む
アジア各地からの観光客が多く賑やかだった。
 

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アサンビーチ(グアム島)

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上陸戦が展開されたアサンビーチを訪れた。 

  
1944年(昭和19年) 7月21日
激しい艦砲射撃と空爆ののち、いよいよ米国海兵隊はアサン海岸へ
上陸を開始する。日本軍守備隊は水際でこれを阻止せんと 猛然と応戦した。
海兵隊にも死傷者が続出し橋頭堡(きょうとうほ)を確保するため丸一日を要した。
この上陸戦から数えておよそ三週間にわたりグアムでの戦いが続くのであった。
 

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アメリカは奪還の大義のもと、
日本にとっては大宮島(おおみやじま・当時グアム島の日本名)
の落日がまさに迫りつつあった。
 

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ここアサンの歴史をスペイン時代から見てみよう。
 
1892年
スペイン時代、ハンセン病患者の隔離病棟が建設されたが1900年の
台風で倒壊。
 
1901年-1903年
フィリピン米総督府はフィリピン人政治犯をグアムに追放し
ここアサン岬の刑務所に収容。
 
1917年
第一次大戦勃発とともにグアムに居たドイツ巡洋艦水兵は
捕虜となり、ここアサンに収容された。
 
1944年-1945年
そして、先の大戦で 日米両軍の熾烈な戦いの末、 グアム島の奪還を
果たした米軍は キャンプ・アサンを建設する。これは米国軍属の宿舎であった。
以降、1967年まで使用されるがその後は放置される。
 
1975年
ふたたびここアサンが使われたのがベトナム戦争時で何千人もの
ベトナム難民受け入れの 施設となった。
 
1976年
大型台風パメラによって グアム島全域の建物が倒壊した際
アサンは瓦礫の集積場となった。
 
以上のように この開けた海岸は先の大戦のみならず
常に数多の悲劇とともにあった。 現在は海浜公園として美しく
整備され バーベキューをしたりローカル憩いの場となっている。
 
この平和が末永く続くことを切に願う。
 

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2014年6月19日 (木)

特殊潜航艇・甲標的(グアム)

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特殊潜航艇・甲標的

日本海軍の「特殊潜航艇・甲標的」である。
グアム太平洋戦争国立歴史公園ビジターセンターに展示されている。
 
ここ大宮港で戦闘終結後に米軍に鹵獲されたものであるが、詳しい経緯
については未記載であるうえ、同センターではこの決死兵器の運用方法
については詳しく触れられていない。
 
動力は2ボルトの乾電池
艦首に魚雷二本が搭載され、動力はモーターで、バッテリーを用いて
スクリューを駆動する。 (バッテリーというのは一個2ボルトの電池で、
これをモデルによって 異なるが192個から200個搭載した)
なおディーゼルエンジンを 搭載したモデルも存在する。
 
生還の望みは薄い
この潜航艇は二人乗り(丙型は3人乗り)で、敵基地港湾へ侵入し
決死の雷撃を敢行する目的で運用された。 生還の望みは薄い。
 
実物に近づいてみて、印象的だったのはやはり
艦首に突き出た二本の魚雷発射管で、実に衝撃的であった。
一応は、生還を前提として設計されたものだが、その運用方法を
見てみればほぼ命と引き換えと考えてよいだろう。2人乗りで
2本の魚雷。一人あたり一本。必中轟沈である。当時の若者が
どれだけの犠牲を払って戦ったか、日本人は今、みんな忘れてしまったのだろうか。
二本の魚雷発射管は物々しく、悲しい。
 
この潜水艦を用いた作戦といえば真珠湾の九軍神が有名だ。
なお、「蛟竜」はこの艦の後継型の「甲標的丁型」と呼ばれる。

※四国、三机湾の九軍神訓練の地へも行ってみた。

サイパンからグアムへ飛ぶ

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サイパンからグアムへ飛ぶ。
プロペラ飛行機で、約50分。
プロペラ機は軽快さが良い。
 
サイパンで搭乗手続きと簡単なパスポートチェックを受けて
飛行機はすぐに飛んだ。通勤電車のようだった。
この便は一日に数往復している。
バブル期はサイパン・グアム両島の周遊プランもあったのだろうが
いまや乗客の中に自分以外に日本人の姿はない。
 
背後に見えている駐機中の小型機は昨日乗ったテニアン行きの
マリアナスエアーである。
※「テニアン島へ飛ぶ!テニアン戦跡巡礼の旅」はこちら

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あっという間にグアムへ到着。グアムは凄い都会だ。
南洋の天気は晴れていたかと思えば、雨が降ったりすぐにやんだり、
また晴れたり曇ったり雨が降ったりやんだり晴れたりと、とにかく忙しい。
滑走路に七色のアーチがかかっている。
 
降りてすぐにレンタカーを借りる。最近はレンタカーも
さまざまな料金プランがあって、貸し出しの際に少々
チャージ(課金)するかわり、燃料を補給せずに返却できる
プランがあるので、たくさん走る予定だった私はそれにした。

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左ハンドルの日本車も多い。
これは北米のみで販売されたシビッククーペ。
高価だが、スポーツタイプのレンタカーもある。
(写真を撮っただけで借りてない。残念)
  
というわけで今回は一番安いフォードのセダンを借りてさっそく街へ。
日本の免許証で運転できる。

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2014年6月18日 (水)

デモ隊に一般市民の姿は無い

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集団的自衛権、憲法九条改正反対のデモの様子を視察してきました。
 
参加者は日本共産党(または共産党系)、社民党、そして連合の
関係者がほとんどでした。
 
普通の市民はほとんど居ません。

一般人にも広く参加を呼び掛けているものの
やはり主軸は共産党系の党員や活動家です。 
 
デモ隊の先頭は共産党の野村せつ子氏です。
新聞赤旗と朝日新聞が取材に来てましたがどう報道するのでしょう。
沖縄の件もそうですが、これらを、一様に民意だとか
一般市民と呼ぶのは適切でありません。
 

東京新聞より

集団的自衛権の行使容認に反対を訴える「戦争する国づくりストップ!
緊急市民パレード」が十八日午後一時から、宇都宮市中心部で催される。
主催者側が参加を呼び掛けている。

 
県労連など十団体でつくる「戦争する国づくりストップ!
憲法を守り・いかす共同センターとちぎ」と、特定秘密保護法の廃止を求めて活動する
「秘密保護法はいらない! ネットワークとちぎ」の共催。

 
共同センターとちぎの一員でもある、新日本婦人の会県本部の伊藤直子事務局長は
「集団的自衛権の行使容認をめぐって(政府・与党内の調整が)緊迫する中、幅広い人に
意思表示し、今の憲法を守っていきたい」と趣旨を強調する。

2014年6月17日 (火)

集団的自衛権とシーレーンの掃海

年度末の消費税増税の折、友人が働くガソリンスタンドには
大勢の客が殺到し、備蓄のタンクが空、つまり品切れになる
という事件がおきました。給油に至るまで長い列を成した挙句、
つり銭の千円札二枚をとり忘れる客もいたとか。
 
また、友人の民放ディレクターが 集団的自衛権議論のニュースに
なったとたん 視聴率が急降下するのが悩みであると語っていました。
 
さて、機雷によるシーレーンの封鎖は我が国にとって兵糧攻めそのものです。
先の大戦で、まさにその兵糧攻めにあいたいへんな苦労を強いられた
よもやそれらを忘れたのではあるまい、ガソリン価格が1円でも上がると騒ぐのと
対照的になんと楽観的な国民であろう、と感じます。 同時に反対論を持ち出す
のであれば、必ず具体的な 代替案を用意すべきでしょう。
 
蛇足ながら海上自衛隊の掃海技術とノウハウは世界一でしょう。
海上自衛隊の歴史は機雷の掃海からはじまったわけです。

2014年6月13日 (金)

DB-601型エンジン(ハ40およびアツタ)

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陸軍三式戦闘機「飛燕」
第149振武隊仕様
 
国産液冷エンジン
国産では珍しい液冷エンジンを搭載したモデル。エンジンは
ライセンスを購入して導入されたドイツ・ダイムラーベンツ社の
DB-601で、ドイツより譲り受けた技術をもとに
日本国内でライセンス生産された。このエンジン、当のドイツでは
すでにメッサーシュミットBf109に搭載され著名な活躍を見せている。
過給器(スーパーチャージャー)付きで高高度でも高い性能を発揮した。
 
このライセンス生産型のDB-601を
日本陸軍では「ハ40」海軍では「アツタ」エンジンという呼んだ。
このタイプの機体は先端がシャープなデザインで日本軍で運用されたのは
飛燕のほか、海軍の「彗星」 「晴嵐」(南山)、以上の三機種のみである
 
液冷エンジンはドイツや米国では一般的であったが
空冷の機体が大部分を占める日本では例が少なく、整備兵への
教育不足により一部で稼働率の低下を招いた。 
 
ペリリューに残るDB-601型エンジン。
これは彗星に搭載されたアツタとみられる。
 
エンジン側面のプラグやコード類、
12気筒のマフラーだけが錆びずに残っている。
 

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2014年6月12日 (木)

ゼロ戦

今日はゼロ戦の絵を5機も描いてしまいました。
が、とくにこれといった用途はありません。 
  

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商品化の構想や描いた絵はたくさんあるのですが
なにぶん資金が潤沢に無く、たくさんのアイデアがそのまま
埋もれています。買ってくださる方、ご連絡お待ちしております。