2014年6月20日 (金)

グアム玉砕戦の真実~小畑中将は自決せず

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玉砕の地、叉木山へ

グアム最後の戦場で 小畑中将が自決したとされている
叉木山(マタギャックヒル)を訪ねた。
 
玉砕の経緯を記した説明看板が立っているが
実はこの真意、定かでない。
小畑中将がここで自決した証拠など何もないのだ。
 
その理由を順を追って記す。
まずグアム玉砕に至る概要を記しておく必要がある。

グアム玉砕まで
1944年(昭和19年) 7月21日
サイパン、テニアンを陥落させ、さらに グアム島奪還の大義を掲げるアメリカ軍は、
空爆と艦砲射撃を十分に 行ったのち、陸軍第77師団と第2海兵師団の
2個師団を上陸させる。 グアムの防衛を担う日本軍守備隊は
陸軍第二十九師団 (および第48独立混成旅団)で 二十九師団は
以下の三個連隊から成るが松本50連隊は 先のテニアン戦で玉砕している。
 
陸軍第二十九師団(名古屋)
奈良38連隊(グアム玉砕)
豊橋18連隊(グアム玉砕)
松本50連隊(テニアン玉砕)
 
師団長は陸士25期、高品彪(たかしなたけし)中将であった。
二十九師団を基軸とした 日本軍守備隊は勇猛果敢に戦ったが
徐々に戦線を後退。最後にはバンザイ突撃を繰り返した。
 
7月28日
師団長、高品彪中将が戦死。
以降、師団の指揮は31軍司令の小畑英良(おばたひでよし)中将/陸士23期
が引き継ぐことになった。 小畑中将はグアム島北部へ転進する。
叉木山への撤退路の確保、ならびに 北部には大きな部隊が温存中であり
二日後に反撃をかける。表向きは以上のような名目であった。
 
8月11日
追い詰められた小畑中将と 部下の将兵60人は、
ここ叉木山の壕で 自決。死後大将に昇進した。
これをもってグアムの日本軍守備隊による組織的戦闘は終結した。
・・・といわれる。
 
それにしてもこの看板は 誰が書いたのであろうか。
まず、この看板設立の経緯を述べる。
 
▼小畑中将が自決したとされる壕とそれを示す看板

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叉木山で何があったのか
戦後の混乱期を経て

戦争が終わった後20年間は日米は何ら協定が存在しないため
遺族らが慰霊に来ることが叶わなかった。 1962年、はじめてペリリュー島へ
慰霊団が派遣された。 それが日本の慰霊団のはじまりであった。
1968年 テニアン、サイパンへも慰霊団が派遣される。
そのとき初めて、グアム島の知事が日本人慰霊団の上陸を許可したのだった。
 
慰霊団はクリフホテル(グアムで二番目に古いホテル)に宿泊。 そのとき慰霊団
長の部屋をノックする者がいた。 ドアを開けると、そこにはオスカー・カルボウという
神父が立っていた。 彼はデュエナス神父の親友である。彼は慰霊団長に
「もう戦争が終わったんだから、お互い恩讐を超えて モニュメントを作りましょう」
と申し出たのである。
 
このカルボウの行動の発端は昭和16年までさかのぼる。
開戦当時の銃爆撃でチャモロ人54人が不幸にも巻き添えとなり 死亡した。
そこに居合わせた広島出身のタケダという中尉が若きカルボウを呼び出して
「おい、かわいそうだから埋めてやれ」
と言って 死体の埋葬を許可したのである。 カルボウはこの一件に心動かされ、
戦後もずっと忘れられず、この日、ホテルを訪ねてきたのだという。
親友のデュエナスは惨くも日本軍に処刑されたがカルボウは
恩義を感じて一緒に墓を作ろうと 持ち掛けたのである。
 
小畑中将は本当にここで自決したのか
1972年、以上の経緯で叉木山に完成したのがこの合掌を象った
モニュメントである。 建立を主導したのは財団法人太平洋戦没者
慰霊協会で (現在は公益財団法人となっている) その当時の会長A氏は
インタビューに対し次のように語る。
 
Q「あの看板は誰が書いたんですか?」
 
A氏「あれは自分が書いた」
 
Q「じゃあ、あの60人というのはどこから調べた人数なんですか?」
 
A氏「あれは風聞ですよ。証拠は無い。昭和四十何年に自分で調べられるわけ
ないじゃないですか」
 
Q「では、あそこで小畑中将が自決したって本当ですか」
 
A氏「いや、そんなの誰も見てないよ」
 
Q「じゃあ、あれは偽物ですか」
 
A氏「いやあ、偽物ってわけじゃないけど作文だね」
 
当時、風聞を作文のまま建立しそれが今に至りそれにつられ、
みんな玉砕の地と勘違いして来ちゃってるのが現実。大手旅行会社の
団体も観光コースになっている。
 
ここ叉木山に一番重要なことはここにはなかったのである。
では、あの壕は、いつ作ったのか 誰が作ったのか、何の目的で作ったのか
 
真実はいかなるか
それには、この壕の中に入ってみれば おかしな点に気付くだろう。
元来、この壕はコンクリート製の海軍のもので、玉砕戦では陸軍が用いた。
中は狭い。この狭い壕に60人も入るのは困難である。 
そのうえ自決などできるわけがない。 
 
ではこの60人という数字、いったいどこからきたのか?
 
叉木山にKという兵隊がいた。彼は
8月11日朝5時にキャタピラの音を聞いた。
敵が来たと察した彼は、麓へ一気にかけおりて 「敵が来た」と告げた。
戦友は散っていった。 当時炊事をしていたがあんなところに集まっていたら
殺されるに決まっているから自分もすぐに逃げたという。
 
米軍側の戦記にも、このときの掃討戦の記録が残っている。残存守備隊は
全員逃げ切れなかったのだった。米軍は一挙にその周りを囲んで集中砲火を
浴びせた。そして日本軍を一ヵ所に閉じ込めた。 その閉じ込めたところを
火炎放射器で焼いて、200kgのダイナマイトを置いて一気に爆破して粉砕した
と記してある。
 
四日後に瓦礫を掘り起こしてみたら60人の死体が出てきたという。
60人の自決、というのは それを捻じ曲げて使ったのではないか。
 
つまり、ここ叉木山で小畑中将の自決を目撃した者は誰一人いないし、
証拠は何一つないのである。ここ起きたことは先に述べた通り。
戦死したのは米軍に追い詰められた一部の将兵である。
 
小畑中将はいったいどこへ?
では、小畑中将はどこへ行ったのか?
確かに小畑中将座乗の車列は、転進北上していた。ここまではわかっている。
このとき 運転手を務めていた兵が、戦後次のように証言している。
 
小畑中将座上の車列が米軍機に発見される。
車列先頭の運転手は咄嗟にハンドルを切りジャングルに車を突っ込ませ
難を逃れたが 小畑中将は米軍機の襲撃により戦死した。
これが真実ではなかろうか。
 
では 小畑中将は何の目的で、どこへ向かっていたのだろうか?
ここから先は推測になる。
 
本来の思惑は歴史の闇の中だが
この海軍壕には時価三億の金塊が残されていた。
小畑中将はこれを隠すために急行したと思われる。
 
金塊の用途は、日本軍が グアム島へやってきた当時、通貨が使えないため
チャモロ人と取引するための資金であった。無論、米軍が真実を公にすることは
ない。自分らが 金塊をガメた訳だから、玉砕したと発表してもらったほうが
都合がよいに決まっている。
 
首なし兵士の遺体の謎
この玉砕の以前、叉木山周辺で不可解な事件があり近所の住民が目撃して
いた。ある日、叉木山周辺で 日本軍の軍服を身に着けた首なしの死体が多数
見つかった。不思議なことに、この死体は首を切断されているにもかかわらず
血液が一切付着していなかったのだ。
 
この斬首された兵士こそ金塊の運搬、隠蔽に関わった兵士であり口封じのため、
味方に殺害されたと推測される。 首がなければ当然身元は不明となる。
 
遺族には戦死と伝えられたであろう。 殺害された後、(もしくは現場)
叉木山の麓を流れる小川に放置されたため、血は洗い流されたのであった。
 
以上がグアム玉砕と小畑中将の最期の真実である。
 
いかにも自ら取材したような書き方で恐縮だが、これらの内容は全て
グアム唯一の戦跡ガイド「ケン芳賀氏」に聞いた話で、氏の案内する戦跡ツアーに
参加すれば 全て現地を回りながら聞かせてもらえる内容である。
 
 
芳賀氏は、このほかにも横井庄一さんをはじめ、当時グアムで戦った
旧軍人、島民など、すべて直接会って取材しており、自らの集めた膨大な
証言記録をもとに グアムの戦跡を案内してくださる素晴らしい内容の
ツアーを行っている。グアム、チャモロの歴史、文化に精通、尊重している。
グアムに行かれる際はぜひ おすすめしたい。
 
申し込み、問い合わせは以下へ
(日本語でOKです)

http://www.usesguam.com/index.html

 

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▲叉木山壕近くの竹林。竹も成長し過ぎると自らの重さに耐えきれず倒れるのか。

グアムの方々にはこういった竹がたくさんある。

リディアン岬(グアム)

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グアム島最北端のリディアン岬まで車で走った。
アンダーソン空軍基地の間を抜けて行く。
ここはまだ走りやすくていいが ここから先はデコボコだ。
舗装道路に見える路面も サンゴダスト(サンゴの骨を砕いたもの。石灰。)で
固め作られたもので 雨が降るたびに浸食して、穴だらけになる。
 

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ここは穴場で観光客はあまり来ない。
そのかわり潮流が激しくせいぜい水際で遊ぶ程度で 泳ぐことはできない。
  
海は綺麗で透き通っている。
 

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ローカルが釣りをしている。
外洋隔てるサンゴ礁に波が当たって砕けている。
 

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砂浜の端の誰もいないところまで歩いてみた。
人工物がある。
 
 
砂浜に足を取られ、なかなか進まない上に

一眼レフ二台首にかけてるから、重くて暑い。
できれば海に飛び込みたい気分だった。
 
ゲートが夕方に閉まるので早い時間に行こう。車でしか行けないヘンピな場所にある。
車上狙いに注意。

イナラハン天然プール

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イナラハンにある天然プール。
地殻変動で出来た天然のプール。
外洋と隔てられていて面白い。
 
飛び込み台もある。
 

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こちらはメリッソ村にあるスペイン時代の名残、鐘楼(ベルタワー)

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この先、タロフォフォの滝公園には
横井庄一ランドもある

ニミッツヒル(グアム)

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グアム屈指の展望地であるニミッツ・ヒルへ上る。
名前の由来は太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツ提督から。
 
グアムの市街地を一望できるが、このニミッツヒルの麓こそ
アサンから上陸した米海兵隊と第二十九師団の主力がぶつかった戦場である。
のちに守備隊はバンザイ突撃を繰り返した。高品中将が戦死。
 
バンザイ突撃の襲撃を受けた米海兵隊は恐怖に震えた。
以下は海兵隊員の回想である。
 
「奴らは撃っても撃ってもまた来るんだもう死んだだろうと、思った。
それでも、まだ来るんだ。だからマシンガンを撃ちまくった。それでもまだ来るんだ」
 
「撃っても撃っても来るんだ!」
「撃っても撃っても来るんだ!」
「撃っても撃っても来るんだ!」  
 
「奴らは不死身か!」
 
本気で思ったという。
 
日本は絶対に降参しなかった。後年、このバンザイ突撃については
命の無駄だとか、極めて無謀な作戦であったとか評価されがちであるが
彼ら米国にとってみれば、絶対に降参しない日本、という印象が
至極強烈、刻み込まれたことは事実である。
  
戦後、本土へやってきた進駐軍は、日本の 軍民全てに叩き込まれた
徹底抗戦の精神がまだ眠っているから非常に扱いにナーバスだった。
 
だから戦後教育で徹底的に精神を否定し、頭の中を良いことも悪いことも
すべて、アメリカの 都合の良い風に入れ替えたのだ。
これはアメリカに限らず 戦争に勝った国であれば例外なく行うことだ。
精神の武装解除には時間がかかった。
 
とにかく日本人が本当に恐ろしかったに違いない。
まさにマリアナ・グアムの戦いは一億総玉砕のさきがけであった。
 
太平洋の防波堤となりますと、遺書を書いて 散っていった兵士の叫びが、
ここへ来ると聞こえる。 いまでもバンザイバンザイと丘陵に木霊する。
 

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※煙を上げるのがグアム・アプラ港(旧大宮港)の火力発電所とアメリカ軍港湾施設。
 
※大韓航空801便グアム墜落事故について
1997年8月6日、午前1時42分頃、豪雨の日だった。
大韓航空機がパイロットミスによりニミッツヒルに突っ込み、墜落
大参事となった。この事故により乗客乗員254人のうち228人が死亡した。

グアム軍事法廷跡 BC級戦犯終焉の地

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グアム軍事法廷跡
1945年の終戦後、南洋各地から集められた、いわゆる
B、C級戦犯の裁判および刑が執行された場所である。
今はさら地となっている。何も残っていないが
ぜひとも見ておかなければならない。

 
沖縄から海兵隊が移転すれば、ここも基地施設となり

自由に入ることはできなくなるだろう。
 
もちろん裁判は戦勝国による一方的なものであり
必ずしも公正無私でない。
 
そのため、これらの裁判で死刑となり
命を落とした場合、日本では法務死と呼ぶ。
 
阿部孝壮の法務死(クェゼリン捕虜処刑事件)
海軍中将、阿部 孝壮(あべ こうそう)は
クエゼリンで米国人捕虜9名を殺害した容疑で
ここグアムで裁かれた。
 
阿部はマキンの戦いで敵上陸を目前に控え、
捕虜の処遇に関し、現地指揮官に意見を求められた。
その際、阿部は「適切に処分せよ」と、指示を部下に一任した。
  
1946年、3月21日
阿部は巣鴨プリズンからここグアムへ移送された。阿部は
クエゼリンの捕虜殺害事件については現地指揮官に責任を負ってもらいたい
との意向を受けており、自決せず裁判に臨んだ。
 
米海兵隊が主宰するこのグアム軍事法廷は、同年5月6日に起訴状が
出され15日に開廷された。そして結審したのがわずか一週間後の
22日であった。
阿部は当初聞かされていた予想とは
正反対の絞首刑を告げられる。
裁判ではほとんど阿部の発言は行われなかった。
 
1947年、6月19日
刑が執行される。
阿部は宮城(きゅうじょう)を仰ぎ、天皇陛下万歳といって
刑場の露と消えた。

ガンビーチ(グアム)

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ホテルニッコー・グアムの前に
ガンビーチと呼ばれる砂浜がある。
その名の通り、これが由来である。自由に触れることができる。
 

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うるわしき砂浜と対照的に
錆びついてもなお、戦い終わらず
照準は沖の舟艇か、空を睨む。

恋人岬を望むガンビーチには、日本人を含む
アジア各地からの観光客が多く賑やかだった。
 

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アサンビーチ(グアム島)

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上陸戦が展開されたアサンビーチを訪れた。 

  
1944年(昭和19年) 7月21日
激しい艦砲射撃と空爆ののち、いよいよ米国海兵隊はアサン海岸へ
上陸を開始する。日本軍守備隊は水際でこれを阻止せんと 猛然と応戦した。
海兵隊にも死傷者が続出し橋頭堡(きょうとうほ)を確保するため丸一日を要した。
この上陸戦から数えておよそ三週間にわたりグアムでの戦いが続くのであった。
 

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アメリカは奪還の大義のもと、
日本にとっては大宮島(おおみやじま・当時グアム島の日本名)
の落日がまさに迫りつつあった。
 

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ここアサンの歴史をスペイン時代から見てみよう。
 
1892年
スペイン時代、ハンセン病患者の隔離病棟が建設されたが1900年の
台風で倒壊。
 
1901年-1903年
フィリピン米総督府はフィリピン人政治犯をグアムに追放し
ここアサン岬の刑務所に収容。
 
1917年
第一次大戦勃発とともにグアムに居たドイツ巡洋艦水兵は
捕虜となり、ここアサンに収容された。
 
1944年-1945年
そして、先の大戦で 日米両軍の熾烈な戦いの末、 グアム島の奪還を
果たした米軍は キャンプ・アサンを建設する。これは米国軍属の宿舎であった。
以降、1967年まで使用されるがその後は放置される。
 
1975年
ふたたびここアサンが使われたのがベトナム戦争時で何千人もの
ベトナム難民受け入れの 施設となった。
 
1976年
大型台風パメラによって グアム島全域の建物が倒壊した際
アサンは瓦礫の集積場となった。
 
以上のように この開けた海岸は先の大戦のみならず
常に数多の悲劇とともにあった。 現在は海浜公園として美しく
整備され バーベキューをしたりローカル憩いの場となっている。
 
この平和が末永く続くことを切に願う。
 

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2014年6月19日 (木)

特殊潜航艇・甲標的(グアム)

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特殊潜航艇・甲標的

日本海軍の「特殊潜航艇・甲標的」である。
グアム太平洋戦争国立歴史公園ビジターセンターに展示されている。
 
ここ大宮港で戦闘終結後に米軍に鹵獲されたものであるが、詳しい経緯
については未記載であるうえ、同センターではこの決死兵器の運用方法
については詳しく触れられていない。
 
動力は2ボルトの乾電池
艦首に魚雷二本が搭載され、動力はモーターで、バッテリーを用いて
スクリューを駆動する。 (バッテリーというのは一個2ボルトの電池で、
これをモデルによって 異なるが192個から200個搭載した)
なおディーゼルエンジンを 搭載したモデルも存在する。
 
生還の望みは薄い
この潜航艇は二人乗り(丙型は3人乗り)で、敵基地港湾へ侵入し
決死の雷撃を敢行する目的で運用された。 生還の望みは薄い。
 
実物に近づいてみて、印象的だったのはやはり
艦首に突き出た二本の魚雷発射管で、実に衝撃的であった。
一応は、生還を前提として設計されたものだが、その運用方法を
見てみればほぼ命と引き換えと考えてよいだろう。2人乗りで
2本の魚雷。一人あたり一本。必中轟沈である。当時の若者が
どれだけの犠牲を払って戦ったか、日本人は今、みんな忘れてしまったのだろうか。
二本の魚雷発射管は物々しく、悲しい。
 
この潜水艦を用いた作戦といえば真珠湾の九軍神が有名だ。
なお、「蛟竜」はこの艦の後継型の「甲標的丁型」と呼ばれる。

※四国、三机湾の九軍神訓練の地へも行ってみた。

サイパンからグアムへ飛ぶ

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サイパンからグアムへ飛ぶ。
プロペラ飛行機で、約50分。
プロペラ機は軽快さが良い。
 
サイパンで搭乗手続きと簡単なパスポートチェックを受けて
飛行機はすぐに飛んだ。通勤電車のようだった。
この便は一日に数往復している。
バブル期はサイパン・グアム両島の周遊プランもあったのだろうが
いまや乗客の中に自分以外に日本人の姿はない。
 
背後に見えている駐機中の小型機は昨日乗ったテニアン行きの
マリアナスエアーである。
※「テニアン島へ飛ぶ!テニアン戦跡巡礼の旅」はこちら

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あっという間にグアムへ到着。グアムは凄い都会だ。
南洋の天気は晴れていたかと思えば、雨が降ったりすぐにやんだり、
また晴れたり曇ったり雨が降ったりやんだり晴れたりと、とにかく忙しい。
滑走路に七色のアーチがかかっている。
 
降りてすぐにレンタカーを借りる。最近はレンタカーも
さまざまな料金プランがあって、貸し出しの際に少々
チャージ(課金)するかわり、燃料を補給せずに返却できる
プランがあるので、たくさん走る予定だった私はそれにした。

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左ハンドルの日本車も多い。
これは北米のみで販売されたシビッククーペ。
高価だが、スポーツタイプのレンタカーもある。
(写真を撮っただけで借りてない。残念)
  
というわけで今回は一番安いフォードのセダンを借りてさっそく街へ。
日本の免許証で運転できる。

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2014年6月18日 (水)

デモ隊に一般市民の姿は無い

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集団的自衛権、憲法九条改正反対のデモの様子を視察してきました。
 
参加者は日本共産党(または共産党系)、社民党、そして連合の
関係者がほとんどでした。
 
普通の市民はほとんど居ません。

一般人にも広く参加を呼び掛けているものの
やはり主軸は共産党系の党員や活動家です。 
 
デモ隊の先頭は共産党の野村せつ子氏です。
新聞赤旗と朝日新聞が取材に来てましたがどう報道するのでしょう。
沖縄の件もそうですが、これらを、一様に民意だとか
一般市民と呼ぶのは適切でありません。
 

東京新聞より

集団的自衛権の行使容認に反対を訴える「戦争する国づくりストップ!
緊急市民パレード」が十八日午後一時から、宇都宮市中心部で催される。
主催者側が参加を呼び掛けている。

 
県労連など十団体でつくる「戦争する国づくりストップ!
憲法を守り・いかす共同センターとちぎ」と、特定秘密保護法の廃止を求めて活動する
「秘密保護法はいらない! ネットワークとちぎ」の共催。

 
共同センターとちぎの一員でもある、新日本婦人の会県本部の伊藤直子事務局長は
「集団的自衛権の行使容認をめぐって(政府・与党内の調整が)緊迫する中、幅広い人に
意思表示し、今の憲法を守っていきたい」と趣旨を強調する。