2014年6月30日 (月)

ペリリュー島戦跡・中川大佐自刃のラストコマンドポストへ

ペリリュー島、中川大佐が自決したラストコマンドポストへ向かう。
 


一般的な戦跡ツアーでは、画像の
「鎮魂~終焉の地」の碑がある場所を
中川大佐自決の地と説明し
案内しているようだ。
 
確かに中川大佐は玉砕戦終盤に
この近辺に居たことは事実であるが
戦局悪化とともに後退したので実際に

自決したのはここよりさらにジャングルの奥深く入った場所ある。
ここから先は遊歩道も無く断崖や燐鉱を採取した跡のクレバスが点在するため、
安全上の都合を考えれば致し方ない。
 
・本当のラストコマンドポストへ行く!
今回はペリリュー島在住(パラオ人)で戦跡専門ガイドの先導で本当の
玉砕地へ向かう。なお、同じようにラストコマンドポストへ行かれる方に
必ず守って頂きたい注意事項を最後に記載したので目を通して頂きたい。
 
・ペリリュー島複郭陣地~中川大佐最後の戦いとは
そのまえに少しおさらいをしておく。
複郭陣地(中央山岳地帯)は中川本隊が籠城による徹底抗戦を行った
最後の戦場である。複雑に張り巡らせられた大小500以上の壕を有し
高度に要塞化されたこの戦域は複郭陣地と呼ばれ最後まで米軍を苦しませた。

 
9月15日に開始された米第一海兵師団による戦いは
30日までに海岸線、飛行場および南部平坦地、
北部ならびにガドブスを掌握し、残すはこの中央山岳地帯のみとなった。
 
これらの山岳地帯(水府山地)をウムロブロゴル山地と名付けた米軍は
壊滅した第一海兵師団の任務を解除し、その役目を陸軍81師団に引き継いだ。
ウムロブロゴル包囲網(複郭陣地包囲網)は第10フェーズラインと称され
長さが東西に3キロ、幅が平均500メートルというわずかな戦域であったが
米軍がこれを徐々に縮小し最終的に司令部を陥落させたのは
陣地を包囲してから一ヶ月半以上も後のことだった。
 
81師団はこの間、ゲリラ戦を展開する守備隊に対し苦戦を強いられ
多くの犠牲を払った。
 
守備隊長の中川大佐は上陸戦直後に司令部を大山麓の
ワイルドキャットボウルと呼ばれる場所(鎮魂の碑の近辺)から
チャイナ・ウォールと呼ばれる断崖と岩場に挟まれた
二重の壕の中へ後退させており
いかなる攻撃も届かない場所にあった。
(ラストコマンドポスト)
 
中川大佐は当初の計画通り最後まで徹底抗戦の構えであったが、戦術顧問の
村井少将は持久戦に堪えかねた将兵を案じ、パラオ本島の師団司令部に
電文を送り、飛行場への玉砕突撃の許可を求めた。しかし師団司令部は
これを許さず
最後の一兵まで持久戦に徹するよう下令した。
 
そして11月24日、ついに司令部壕を包囲された中川大佐は
玉砕を意味する電文「サクラ」を連送した後、村井少将とともに自決。
残った将兵は最後の突撃を敢行し、ここにペリリュー島の組織的戦闘は終結した。
 
日本守備隊は上陸戦から数えて2か月以上にわたりペリリューを死守。
太平洋の防波堤となって本土侵攻を一日でも長く食い止めたのであった。

 
追記
ペリリューの中川大佐と言えば動画等で一躍有名になったエピソード 
「私達も一緒に戦わせてほしい~貴様ら土人と共に戦えるか!」
というものであるが、創作である可能性が高い。
そして残念ながら民間人犠牲者も出ている。 
 

ペリリュー島、中川大佐自決の地1

 
ラストコマンドポストへの道のり
今回は、ぜひともペリリューで慰霊をしたいという友人夫妻と、
友人のペリリュー研究家、パラオ人ガイド、そして私で目的地を目指す。
崖の上や起伏の激しい個所を歩く。
この辺一帯はペリリュー最高峰「大山」麓である。
 

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・不発弾が現在も残る
所々に不発弾が残っている。
不発弾処理隊が赤いテープでマークしたものは目立つが
そうでないのも多くあるので注意のうえ、絶対に触れてはいけない。
画像は駆逐艦か巡洋艦クラスの砲弾か。右は日本軍守備隊の火器。
 

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・燐鉱クレバス
燐鉱を採掘した跡が大きなクレバスとなって残っている。
落ちたら命の保証はない。十分に注意を払う。
 

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・複郭陣地に残る遺品、兵器
ジャングルには遺品が多く残る。
左上から250kg航空爆弾、陸軍さんの飯盒(はんごう)
同じく250kg爆弾、自転車、防毒面(防毒マスクのフィルター部分)である。
 

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ペリリュー島、中川大佐自決の地2

 
左上から、弾倉(マガジン)、対戦車地雷、航空機の座席か?
大鍋、米軍の弾頭(中身はカラ)、そして日米両軍の手榴弾が並べて置いてある。
左の四角いのが日本軍、右のパイナップル型が米軍。
 
不発だったのであろう。ピンは抜かれている。

これを握り締めていた兵隊さんは、どんな心境だったか。
攻める米兵は負傷すれば後方に下げられ、手厚い治療を受けることができた。
しかし、日本守備隊は、四方を敵に囲まれ、逃げ場もなく
衛生材料(治療の薬や包帯)も無い、助かる命も
助からず、負傷すればそのまま死ぬしかなかった。
文字通り、島を死守。徹底抗戦を以って、米軍の進攻を阻止、
長期化に持ち込んだのだった。

 
※なお、パラオの法律で、こうした遺物をむやみに移動させたり
持って帰ったりすることは固く禁じられている。
仮にそれが
日本兵の遺物や遺骨だったとしても例外ではない。もし、遺骨を見つけた際は、決して
移動させず、遺骨の
場所を報告しなければならない。

 

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ペリリュー島、中川大佐自決の地 

岩壁の各所には弾痕が無数に残っている。
 
・ラストコマンドポストへ到着
険しいジャングルを進むこと30分ほど、
ようやくラストコマンドポストへ到着した。
 

ペリリュー島、中川大佐自決の地

▲ラストコマンドポストは四方を岩に囲まれている
敵からの攻撃を受けないところにあった。中川大佐が自決したのは
この壕の中だ。我々は中川大佐ならびにペリリューで
太平洋の防波堤となって散ったすべての英霊に感謝と
黙とうを捧げた。
 
われ太平洋の防波堤とならん
昭和19年9月15日にはじまったペリリュー上陸戦は
当初、米海兵隊ルパータス少将が2、3日で終わるだろうと
予想した。ところが中川大佐指揮する水戸歩兵第二連隊ならびに
高崎十五連隊千明隊は、徹底抗戦の末、2か月以上にわたって
ペリリューを死守。太平洋の防波堤となって本土侵攻を一日でも
長く食い止めたのであった。
 
そして11月24日、この壕で中川大佐は自決
残った将兵は最後の突撃を敢行し、ここにペリリュー島の組織的
戦闘は終結した。

ペリリュー島、中川大佐自決の地

▲中川大佐自決の壕で前で合掌
 
明治天皇より拝受した軍旗を捧焼し、ここに伝統の精鋭第二連隊の
71年の歴史が終焉を迎えた。
 
中川大佐の自決
白光二閃。

中川大佐は先に散った多くの部下を思い、静かに目を閉じ
愛刀を腹にあてた。中川大佐の介錯は連隊旗手の烏丸中尉が※(1)
村井少将は塚田中尉が務めた。これを見届けた重傷者も
続いて自刃。残された者は最後の突撃を敢行し
壮絶な最後を遂げたのであった。
 
身元判明の経緯
戦闘終結後、米軍がはじめてこの壕を調べた際
三名の遺体が発見された。そのうちの一名は白髪で階級章が
残されていたことから、中川大佐と推測された。
残りの二人は村井少将と軍医であったとされる。

 
最後の突撃に参加したものの、米軍に捕らわれた元司令部付の
兵士がまもなく遺体の確認に立ち会い、中川大佐であることが認められた。
 
さらに時が経た、戦後、烏丸連隊旗手の遺骨も付近で発見された。
 
中川大佐自決に関するもうひとつの説
※(1) なお、中川大佐は発見時、頭部を拳銃で撃ち抜かれた跡があり
拳銃で自決を行ったとの説もある。同様に証言している生き残りの
兵士も居る。中川大佐は子供がいないので烏丸連隊旗手を我が子の
ように可愛がっており、烏丸がこれを拒み、介錯できなかった
といった証言も存在する。

  

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▲サクラサクラを打電した通信アンテナの跡
画面左あたり、岩が垂直に凹んでいる個所があるのが
わかるだろうか。
これは通信アンテナが据え付けられていた跡だ。
 
この垂直の岩は中川大佐が自決した壕の向かい側にあり
この窪みに通信アンテナが立てられていた。まさにこの場所から
最後の電文「サクラサクラ」が発信されたのだ。
 
昭和19年11月24日16時
ここペリリュー司令部より最後の電文が発信された。
電文は次の通り。
 
サクラサクラサクラ ワガシユウダンノケントウヲイノル ワレクノゴチヨウ
サクラサクラサクラ ワガシユウダンノケントウヲイノル ワレクノゴチヨウ 
・・・─・─(オワリ符号)

※サクラサクラサクラ我が集団(14師団の意)の健闘を祈る我、久野伍長
 
この電文はウルクターブル島の通信所で中継され
パラオ本島の14師団司令部に届けられた。そのさい短くなって
「サクラサクラ」となった。
 
遺体の埋葬とその後
なお、遺体が確認された中川大佐と村井少将は
米軍の手により埋葬された。
戦後まもなく中川の妻へ遺骨返還の申し出があったが
中川の妻は次のように伝え辞退したという。
 
「まだ多くの部下は故郷へ帰れずに居ります故
遠慮申し上げたい。すべての方が帰ってから、中川は最後で構いません」
 
夫人はその後亡くなり、二人だけの墓が熊本に立てられた。
夫人は今も大佐(死後中将)の帰還を待っている。
 
なお、このときの辞退が関連するかは不明であるが
戦後の混乱を経て、ペリリュー島の中川、村井両将の埋葬地は
不明になってしまった。誠に忍びない。
 
熊本県の中川大佐の墓所へ
 
この他にもジャングルの中には様々な遺品が残されている。

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帝国海軍大航空基地の名残
上は艦上爆撃機「彗星(一一型/一二型)」のエンジン。
これがペリリューにあるならば、彗星艦爆でなく

強行偵察専門で彗星を二式艦偵として運用した第121海軍航空隊
(通称雉部隊)のいずれか一機ではないかと、私は考えている。
マフラー(排気管)は腐らない。
 

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こちらも航空機のエンジン。
帝国海軍ペリリュー航空基地は、海軍屈指の大飛行場で

マリアナ沖海戦で航空機を消耗するまでの間、
一式陸攻などの大型機をはじめ、戦闘機や攻撃機などあらゆる

機体を運用した。現在は滑走路の一部こそ残っているが
そのほかの大部分はこうしてシャングルに帰した。

 

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ゼロ戦の主脚だ。萱場製作所製(現KYB/カヤバ工業)である。
ショックの部分に注目されたい。まだ錆びずに光り輝いている。

これには驚いた。
 

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ペリリュー島、中川大佐のラストコマンドポスト 

海軍通信壕を通って戻る。
この洞窟は、山を貫いているので、近道となる。
 
以上、ラストコマンドポストへの道のりは
険しいので、健脚の者に限るが、慰霊できてよかった。
 

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ジャングルに入るときの注意点
ラストコマンドポスト慰霊を含むペリリューのジャングルに入るにあたって
(通常の戦跡ツアー、遊歩道などを散策する場合を除く)
注意点を記載しておきます。行かれる方はご一読願います。
また、すべてにおいて自己責任のうえ、お願い致します。
 
・必ずペリリュー州観光パーミッドを携行してください。
 
・単独行動は控えてください。
原則的にパラオ人ガイド、もしくは公認ガイドとともに行動してください。
 
・他国の領土です。
国際問題にもなりかねませんので行動は慎重に願います。
 
・相場以上の謝礼金を渡すことは控えてください。
また遺骨情報などと引き換えに金品を要求される場合、応じないようお願いします。
 
・ジャングルに入る際は、虫よけスプレーで充分にアカムシ対策をしてください
ペリリュー島特有のアカムシ(ダニの総称)にかまれると、三週間はかゆみがひきません。
 

ペリリューの市街地散策

ペリリュー島のストア

 
・ストアでお買いもの

コロールのダウンタウンを散策しよう。まずはストアでお買い物だ。
ペリリューには、日用品や食品を扱うストアーが何か所かある。
基本的にここでなんでも手に入る。
 
・パラオ人は日本の柿の種、カリントウが大好き
とくに日本のスナック菓子が多い。
赤や青のカリントウはペリリュー(コロール)の名物。
パラオ人が日本のものを真似て作ったものらしい。
それから柿の種もパラオ人は大好き。
  
弁当(パラオ語/ベントー)も売っている。
 
ご飯におかずを少し載せたものがパックされている。
スーパーのお惣菜といったところか。
この店はアイスクリームも売っている! 
冷蔵庫はあっても冷凍庫がある店は少ないので
アイスクリームは貴重である。

 
・ビールが水代わり

一番売れるのはビール。パラオ全体に言えるが、この国はビールに
酒税がかからないので、500mlの缶ビールは一本1ドル前後で買える。
島民はジュースのように昼間から飲んでいる。ちなみに
ビールを飲むことをパラオ語で「ツカレナオース」という。(本当です)
パラオ人はバドライトなど、軽いものを好むが、アサヒのドライもよく売れている。
また、パラオの地ビールではレッドルースタービールというのがある。 
 
軒先に置いてある緑色の木の実はビンロウジュの実。
石灰をふりかけて、噛むようにして味わう。パラオ人の一般的な
嗜好品である。
 
・インターネットカードの購入
ストアではインターネットカードを購入できる。
ペリリューにもインターネットのホットスポットが何か所かあり、
カードを購入して裏面をスクラッチし、番号を専用画面に入力すると
二時間5ドルで使える。パラオは今でもダイアルアップが主流で通信速度は
とても遅いので、日本と同じように使えると思ってはいけない。のんびりやろう。
 
・洗濯屋さん
ストアで洗濯屋を兼ねているところもある。
ビニール袋一袋で(重さや量は関係なく、一袋での計算)
9ドル~15ドル程度で、洗濯、乾燥から畳むところまでやってくれる。
 
一般的なものはだいたい。ストアで手に入るし、生活に困ることはない。
暑いので水を多めに買っておこう。
 

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シャングルに入る人は必ずこれを
買っておこう。
「オフ」という虫よけスプレーで
現地民いわく、いちばん効果があるらしい。
 
それでいて「日本製のは効かない」という。
なんか殺虫剤みたいな匂いがして
お肌に良いという保証はないので
敏感肌の人は注意。

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ここはガソリンスタンド。
離島なので、当然コロールより高い。
 

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ペリリューのダウンタウンを行く。ここが島で一番賑わっているところ。
店で借りたレンタルバイク(5~10ドル)で走る。
左右に民家が並んでいるが、ここらへんの家は200~300万円もあれば
建てられるらしい。土地は外国人は買えないので、酋長の許可を得て
借りることになる。
 

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左右のドラム缶はゴミ捨て場。パラオはゴミの
分別がしっかりしていないので、紙類から乾電池まで同じところに捨てる。
島の裏側へ回ると、これらゴミの埋め立て場があり、自然遺産が売りの
リゾート地と思えない光景であった。今後直近の課題である。
最近になってようやく日本の協力により分別が指導されつつあるので
期待したい。
 

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走っているのは日本の中古車が九割。第二の人生を送っている。
それにしても日本の車は本当に頑丈だ。ボロボロになってもよく頑張って走る。
最近、急激にヒュンダイのシェアが拡大しているが、年月が経っても同じように
走ることができるだろうか。答えはあと10年くらいしたらわかるだろう。 
 
行政の車などは、ペイントがそのままになっているのが面白い。 
 
ペリリューに限らず、パラオは犬はほとんどが放し飼いである。
かまれないように注意しよう。

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水戸山の麓の千人壕。今は中が清掃されていて
少しだけなら入ることができる。あまり奥深くまで行くと方向感覚がなくなり
出てこれなくなる事故もあるので、光が届く範囲で見学しよう。
 
ここは引野大隊長指揮した独立歩兵346大隊および
軍属の玉砕した壕である。水戸山の千人壕について詳しくはこちら

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同じく水戸山ふもとの海岸線沿いに作られたトーチカ。
銃眼口が設けられている。
 

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ノースドック(北の港)までやってきた。
学校が終わった子供たちが飛び込み遊びをしている。
すごい迫力だ。
 

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飯田大隊が逆上陸を敢行したガルコル波止場。ここは
ペリリュー島の最北端にあたる。海が透き通っている。
凄惨な戦いがあったとは思えないほど美しく穏やかな海である。
 

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島の花や植物も多様でそれぞれが美しく面白い。
 
遠くに黒い雲が見える。スコールが来るだろう。
ドルフィンベイへ帰ろう。
 

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ペリリュー・ドルフィンベイリゾート

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ペリリュー島のドリフィンベイリゾートへ宿泊しました。
 
ペリリュー島にはいくつか宿泊施設がありますが
戦跡ツアーで訪れる方はほとんど日帰りで、夕方には
コロールへ帰ってしまいます。
 
最近ではダイバーの方が宿泊してペリリューもしくは
サウスロックアイランドのダイビングを楽しまれています。
ペリリューに宿泊するメリットとしては、同島でゆっくりダイビングが
可能なのはもちろん、ペリリューからサウスロックアイランドは
近距離にあるので、一番乗りでダイビングスポットへ
到着できます。コロールから朝一番に出発したダイバー船は
いくら頑張ってもペリリュー出発の船には勝てません。
 
ここペリリュー・ドルフィンベイリゾートは
ペリリューでも最高級の宿泊施設でありますが
お値段は比較的リーズナブル。日本人の宿泊客はあまり居ないようで
欧米人が目立ちます。
 

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日本人のマユミさんとガドウィン夫妻が経営する
コテージで、コテージには広く綺麗なシャワールーム、トイレ
冷房を完備しています。
 
敷地内には島で一番の宿泊者専用シーサイドレストランがあり、潮風
心地よく、雰囲気も抜群。朝食はもちろん、昼飯は弁当を作って持たせてくれます。
ディナー時はカウンターバーにもなります。
 

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日本人が経営しているのできめ細かなサービスとおもてなしの
心がスタッフ一人ひとりに根付いています。
 
コテージの目の前は海です。

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宿泊先で迷ったならここなら間違いないと思います。
宿泊者には格安で
スピードボートで送迎も可能です。
 

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ドルフィンベイの沖合に浮かぶこの小さな島は
上陸戦時、本島疎開を拒んだ島民が隠れて、
奇跡的に一命をとりとめた島です。

 

そのほか
ペリリュー島の宿泊施設いろいろ
 
マユミ・イン
パラオ人のマユミさんが営むエコノミーな宿泊施設。
(ペリリュー島にはマユミさんが二人います。一人はマユミ・インを経営する
パラオ人で日本統治時代を生きた日本語ベラベラのマユミさん。
もうひとりはドルフィンベイを経営する日本人のマユミさんです)
マユミ・インには大部屋と個室があり、日本慰霊団を受け入れるときは
かならずここを利用していました。
部屋はエコノミーですが、ペリリューで一番、食事が旨い!
ウエカブ(カニ)が安く食べられますし、食事には必ず
おひつに入った白米と(またこれがボリュームあり)味噌汁が出ます。
アルコールは別途注文。
 
アイランドビュー・モーテル
ノースドックからすぐの二階建ての宿泊施設です。
虫が少ないのが良いところです。部屋は普通です。
食事はつかないので、手配する必要があります。 
 

2014年6月24日 (火)

パラオの空を飛べ!

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世界一美しい海と称され、ダイビング客がもっとも多いパラオですが

その海を空から眺めるのもまた素晴らしい体験です。
 
今回は「スマイルエアー」の利用です。

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飛行機のドアなんですが、外した状態と、取り付けた状態、
お好みで
選びます。もちろん外しましょう。
 
通常、旅客機の発着は全て夜中です(着陸料の関係らしい)
このときばかりは空港の全景が拝めます。
 

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画像だと、一見落っこちそうに見えますが、しっかり座席ベルト
締めてますので
ダイジョーブ(パラオ語)であります。
 
あっという間にテイクオフ。軽自動車で近所のスーパーに
買い物へ行くようなフットワークの軽さです。
 
旅客機とはまったく違う感覚。シートに押し付けられる
力強い加速とともに、滑走距離はほんのわずか。長い滑走路は
だいぶ余っています。瞬く間にふわりと浮きます。
 
キャプテンの握る操縦桿が小刻みに左右に動く、それが
レスポンスよく体に伝わる、まるで鳥になったような心地よさ。
 

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ちょうどアメリカの海軍さんが来てます。
ありゃ哨戒機かな?
 
赤い屋根がパラオ国際空港のターミナルです。

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パラオ国際空港の全景が眼下に。
同空港は、もとは日本海軍のアイライ航空基地です。
 
当時、パラオに居た日本人の方が勤労奉仕で作ったと言っていました。
当時は重機などなく、スコップやモッコを使った手作業です。
 
1944年3月、戦艦武蔵がコロール泊地へ入港。
その際、乗船していた陸軍一個大隊が飛行場建設に加勢しました。
多くの民間人、軍人の血と汗が染み込んだ飛行場です。 
 
まもなく、飛行場は完成し、第343海軍航空隊(初代/隼)の
ゼロ戦隊が主に運用し、邀撃任務に活躍しましたが
それもわずかな間で、9月には制空権を握られてしまいました。
当時、アイライに居た元陸軍さんによると、
ここバベルダオブ島で直接上陸戦はありませんでしたが
飛行場を米軍に乗っ取られてしまったとの説もあり
P-38ライトニングやグラマンが馬鹿にするように超低空を飛んでいたと
いうお話でした。
 

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画面右下がKBブリッジです。
滑走路とブリッジの位置関係がよくわかります。
  
さて、話を現代に戻して、セスナキャプテンのお話。 
ここアイライの飛行場(パラオ国際空港)はパラオの中でも
非常に気象条件に恵まれた立地にあり
天気が悪くなる確率が低いとのこと。
 
コロールやペリリューが雨でも
ここアイライだけは晴れ間で、上空に上がって
周囲を見渡せるとか。ここを選んで飛行場を作った旧日本軍は
すごいですね、とキャプテンも感心しておりました。
 

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KBブリッジ上空。
空から見ると、深い部分がはっきりわかります。
ここは「アルミズ水道」といって昔から海上交通の要衝です。
 

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コロール島全景。手前がTドックと、
画面奥がパラオ松島。左がアイライ。右がマラカルです。
地図の通りです。
 

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マラカル島上空。
マラカルの港と、奥がロイヤルリゾートホテルです。
 

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アラカベサン上空。
戦時中は高射砲陣地がありました。(いまも残ってます)
ここの高射砲隊はニューギニア帰りの猛者揃いで
米軍機を数多く打ち落としました。
 

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二式大艇の基地。
海に突き出たスロープ(海軍ではスベリと呼んでいました)
は戦前に建設されたものです。ここに大型飛行艇を陸揚げして
整備を行いました。当時コロールに住んでいた
日本人の方が、九七式が多かったが二式もよく来ていたと、
当時を回想して言っていました。スロープを上がった先に
飛行艇を収容できる超巨大な格納庫があったのですが
現在は取り壊されています。
 
スロープの左側に
25メートルプールがあるので、ちょうど大きさの比較ができますね。
 

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アラカベサン島のPPR上空。
この辺一帯も海軍水上飛行機の基地でした。
 

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パラオ松島上空。画面奥がコロール島です。
同島の北側にあたります。
 

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これはイルカと遊ぶための施設です。
いけすで囲ってあります。
 

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水道をスピードボートが航跡を引いて走っています。
いつも乗ってるやつです。
 

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飛行場へ戻ってきました。
 
スマイルエアーでは
15分(コロール島上空周遊)
30分(セブンティアイランド上空)
45分(ペリリュー島手前まで飛べます)
 
以上、3つのコースから選べます。
料金も2名以上ならダイビングより安いので、おすすめです。
 
余った時間は観光できますので、空いた時間で
利用みてはいかがでしょうか。

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2014年6月23日 (月)

初期生産スペシャルカラー本日締切

特別色は本日締切です。今日いっぱいお待ちしております。
選べる色は下記をご覧ください。
 
締め切りました。
たくさんのお申込み、誠にありがとうございました。

2014_3_2

20142_2

2014_2

2014年6月20日 (金)

パラオ近況

パラオの近況も随時更新して参ります。
 

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グアム玉砕戦の真実~小畑中将は自決せず

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玉砕の地、叉木山へ

グアム最後の戦場で 小畑中将が自決したとされている
叉木山(マタギャックヒル)を訪ねた。
 
玉砕の経緯を記した説明看板が立っているが
実はこの真意、定かでない。
小畑中将がここで自決した証拠など何もないのだ。
 
その理由を順を追って記す。
まずグアム玉砕に至る概要を記しておく必要がある。

グアム玉砕まで
1944年(昭和19年) 7月21日
サイパン、テニアンを陥落させ、さらに グアム島奪還の大義を掲げるアメリカ軍は、
空爆と艦砲射撃を十分に 行ったのち、陸軍第77師団と第2海兵師団の
2個師団を上陸させる。 グアムの防衛を担う日本軍守備隊は
陸軍第二十九師団 (および第48独立混成旅団)で 二十九師団は
以下の三個連隊から成るが松本50連隊は 先のテニアン戦で玉砕している。
 
陸軍第二十九師団(名古屋)
奈良38連隊(グアム玉砕)
豊橋18連隊(グアム玉砕)
松本50連隊(テニアン玉砕)
 
師団長は陸士25期、高品彪(たかしなたけし)中将であった。
二十九師団を基軸とした 日本軍守備隊は勇猛果敢に戦ったが
徐々に戦線を後退。最後にはバンザイ突撃を繰り返した。
 
7月28日
師団長、高品彪中将が戦死。
以降、師団の指揮は31軍司令の小畑英良(おばたひでよし)中将/陸士23期
が引き継ぐことになった。 小畑中将はグアム島北部へ転進する。
叉木山への撤退路の確保、ならびに 北部には大きな部隊が温存中であり
二日後に反撃をかける。表向きは以上のような名目であった。
 
8月11日
追い詰められた小畑中将と 部下の将兵60人は、
ここ叉木山の壕で 自決。死後大将に昇進した。
これをもってグアムの日本軍守備隊による組織的戦闘は終結した。
・・・といわれる。
 
それにしてもこの看板は 誰が書いたのであろうか。
まず、この看板設立の経緯を述べる。
 
▼小畑中将が自決したとされる壕とそれを示す看板

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叉木山で何があったのか
戦後の混乱期を経て

戦争が終わった後20年間は日米は何ら協定が存在しないため
遺族らが慰霊に来ることが叶わなかった。 1962年、はじめてペリリュー島へ
慰霊団が派遣された。 それが日本の慰霊団のはじまりであった。
1968年 テニアン、サイパンへも慰霊団が派遣される。
そのとき初めて、グアム島の知事が日本人慰霊団の上陸を許可したのだった。
 
慰霊団はクリフホテル(グアムで二番目に古いホテル)に宿泊。 そのとき慰霊団
長の部屋をノックする者がいた。 ドアを開けると、そこにはオスカー・カルボウという
神父が立っていた。 彼はデュエナス神父の親友である。彼は慰霊団長に
「もう戦争が終わったんだから、お互い恩讐を超えて モニュメントを作りましょう」
と申し出たのである。
 
このカルボウの行動の発端は昭和16年までさかのぼる。
開戦当時の銃爆撃でチャモロ人54人が不幸にも巻き添えとなり 死亡した。
そこに居合わせた広島出身のタケダという中尉が若きカルボウを呼び出して
「おい、かわいそうだから埋めてやれ」
と言って 死体の埋葬を許可したのである。 カルボウはこの一件に心動かされ、
戦後もずっと忘れられず、この日、ホテルを訪ねてきたのだという。
親友のデュエナスは惨くも日本軍に処刑されたがカルボウは
恩義を感じて一緒に墓を作ろうと 持ち掛けたのである。
 
小畑中将は本当にここで自決したのか
1972年、以上の経緯で叉木山に完成したのがこの合掌を象った
モニュメントである。 建立を主導したのは財団法人太平洋戦没者
慰霊協会で (現在は公益財団法人となっている) その当時の会長A氏は
インタビューに対し次のように語る。
 
Q「あの看板は誰が書いたんですか?」
 
A氏「あれは自分が書いた」
 
Q「じゃあ、あの60人というのはどこから調べた人数なんですか?」
 
A氏「あれは風聞ですよ。証拠は無い。昭和四十何年に自分で調べられるわけ
ないじゃないですか」
 
Q「では、あそこで小畑中将が自決したって本当ですか」
 
A氏「いや、そんなの誰も見てないよ」
 
Q「じゃあ、あれは偽物ですか」
 
A氏「いやあ、偽物ってわけじゃないけど作文だね」
 
当時、風聞を作文のまま建立しそれが今に至りそれにつられ、
みんな玉砕の地と勘違いして来ちゃってるのが現実。大手旅行会社の
団体も観光コースになっている。
 
ここ叉木山に一番重要なことはここにはなかったのである。
では、あの壕は、いつ作ったのか 誰が作ったのか、何の目的で作ったのか
 
真実はいかなるか
それには、この壕の中に入ってみれば おかしな点に気付くだろう。
元来、この壕はコンクリート製の海軍のもので、玉砕戦では陸軍が用いた。
中は狭い。この狭い壕に60人も入るのは困難である。 
そのうえ自決などできるわけがない。 
 
ではこの60人という数字、いったいどこからきたのか?
 
叉木山にKという兵隊がいた。彼は
8月11日朝5時にキャタピラの音を聞いた。
敵が来たと察した彼は、麓へ一気にかけおりて 「敵が来た」と告げた。
戦友は散っていった。 当時炊事をしていたがあんなところに集まっていたら
殺されるに決まっているから自分もすぐに逃げたという。
 
米軍側の戦記にも、このときの掃討戦の記録が残っている。残存守備隊は
全員逃げ切れなかったのだった。米軍は一挙にその周りを囲んで集中砲火を
浴びせた。そして日本軍を一ヵ所に閉じ込めた。 その閉じ込めたところを
火炎放射器で焼いて、200kgのダイナマイトを置いて一気に爆破して粉砕した
と記してある。
 
四日後に瓦礫を掘り起こしてみたら60人の死体が出てきたという。
60人の自決、というのは それを捻じ曲げて使ったのではないか。
 
つまり、ここ叉木山で小畑中将の自決を目撃した者は誰一人いないし、
証拠は何一つないのである。ここ起きたことは先に述べた通り。
戦死したのは米軍に追い詰められた一部の将兵である。
 
小畑中将はいったいどこへ?
では、小畑中将はどこへ行ったのか?
確かに小畑中将座乗の車列は、転進北上していた。ここまではわかっている。
このとき 運転手を務めていた兵が、戦後次のように証言している。
 
小畑中将座上の車列が米軍機に発見される。
車列先頭の運転手は咄嗟にハンドルを切りジャングルに車を突っ込ませ
難を逃れたが 小畑中将は米軍機の襲撃により戦死した。
これが真実ではなかろうか。
 
では 小畑中将は何の目的で、どこへ向かっていたのだろうか?
ここから先は推測になる。
 
本来の思惑は歴史の闇の中だが
この海軍壕には時価三億の金塊が残されていた。
小畑中将はこれを隠すために急行したと思われる。
 
金塊の用途は、日本軍が グアム島へやってきた当時、通貨が使えないため
チャモロ人と取引するための資金であった。無論、米軍が真実を公にすることは
ない。自分らが 金塊をガメた訳だから、玉砕したと発表してもらったほうが
都合がよいに決まっている。
 
首なし兵士の遺体の謎
この玉砕の以前、叉木山周辺で不可解な事件があり近所の住民が目撃して
いた。ある日、叉木山周辺で 日本軍の軍服を身に着けた首なしの死体が多数
見つかった。不思議なことに、この死体は首を切断されているにもかかわらず
血液が一切付着していなかったのだ。
 
この斬首された兵士こそ金塊の運搬、隠蔽に関わった兵士であり口封じのため、
味方に殺害されたと推測される。 首がなければ当然身元は不明となる。
 
遺族には戦死と伝えられたであろう。 殺害された後、(もしくは現場)
叉木山の麓を流れる小川に放置されたため、血は洗い流されたのであった。
 
以上がグアム玉砕と小畑中将の最期の真実である。
 
いかにも自ら取材したような書き方で恐縮だが、これらの内容は全て
グアム唯一の戦跡ガイド「ケン芳賀氏」に聞いた話で、氏の案内する戦跡ツアーに
参加すれば 全て現地を回りながら聞かせてもらえる内容である。
 
 
芳賀氏は、このほかにも横井庄一さんをはじめ、当時グアムで戦った
旧軍人、島民など、すべて直接会って取材しており、自らの集めた膨大な
証言記録をもとに グアムの戦跡を案内してくださる素晴らしい内容の
ツアーを行っている。グアム、チャモロの歴史、文化に精通、尊重している。
グアムに行かれる際はぜひ おすすめしたい。
 
申し込み、問い合わせは以下へ
(日本語でOKです)

http://www.usesguam.com/index.html

 

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▲叉木山壕近くの竹林。竹も成長し過ぎると自らの重さに耐えきれず倒れるのか。

グアムの方々にはこういった竹がたくさんある。

リディアン岬(グアム)

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グアム島最北端のリディアン岬まで車で走った。
アンダーソン空軍基地の間を抜けて行く。
ここはまだ走りやすくていいが ここから先はデコボコだ。
舗装道路に見える路面も サンゴダスト(サンゴの骨を砕いたもの。石灰。)で
固め作られたもので 雨が降るたびに浸食して、穴だらけになる。
 

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ここは穴場で観光客はあまり来ない。
そのかわり潮流が激しくせいぜい水際で遊ぶ程度で 泳ぐことはできない。
  
海は綺麗で透き通っている。
 

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ローカルが釣りをしている。
外洋隔てるサンゴ礁に波が当たって砕けている。
 

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砂浜の端の誰もいないところまで歩いてみた。
人工物がある。
 
 
砂浜に足を取られ、なかなか進まない上に

一眼レフ二台首にかけてるから、重くて暑い。
できれば海に飛び込みたい気分だった。
 
ゲートが夕方に閉まるので早い時間に行こう。車でしか行けないヘンピな場所にある。
車上狙いに注意。

イナラハン天然プール

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イナラハンにある天然プール。
地殻変動で出来た天然のプール。
外洋と隔てられていて面白い。
 
飛び込み台もある。
 

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こちらはメリッソ村にあるスペイン時代の名残、鐘楼(ベルタワー)

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この先、タロフォフォの滝公園には
横井庄一ランドもある

ニミッツヒル(グアム)

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グアム屈指の展望地であるニミッツ・ヒルへ上る。
名前の由来は太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツ提督から。
 
グアムの市街地を一望できるが、このニミッツヒルの麓こそ
アサンから上陸した米海兵隊と第二十九師団の主力がぶつかった戦場である。
のちに守備隊はバンザイ突撃を繰り返した。高品中将が戦死。
 
バンザイ突撃の襲撃を受けた米海兵隊は恐怖に震えた。
以下は海兵隊員の回想である。
 
「奴らは撃っても撃ってもまた来るんだもう死んだだろうと、思った。
それでも、まだ来るんだ。だからマシンガンを撃ちまくった。それでもまだ来るんだ」
 
「撃っても撃っても来るんだ!」
「撃っても撃っても来るんだ!」
「撃っても撃っても来るんだ!」  
 
「奴らは不死身か!」
 
本気で思ったという。
 
日本は絶対に降参しなかった。後年、このバンザイ突撃については
命の無駄だとか、極めて無謀な作戦であったとか評価されがちであるが
彼ら米国にとってみれば、絶対に降参しない日本、という印象が
至極強烈、刻み込まれたことは事実である。
  
戦後、本土へやってきた進駐軍は、日本の 軍民全てに叩き込まれた
徹底抗戦の精神がまだ眠っているから非常に扱いにナーバスだった。
 
だから戦後教育で徹底的に精神を否定し、頭の中を良いことも悪いことも
すべて、アメリカの 都合の良い風に入れ替えたのだ。
これはアメリカに限らず 戦争に勝った国であれば例外なく行うことだ。
精神の武装解除には時間がかかった。
 
とにかく日本人が本当に恐ろしかったに違いない。
まさにマリアナ・グアムの戦いは一億総玉砕のさきがけであった。
 
太平洋の防波堤となりますと、遺書を書いて 散っていった兵士の叫びが、
ここへ来ると聞こえる。 いまでもバンザイバンザイと丘陵に木霊する。
 

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※煙を上げるのがグアム・アプラ港(旧大宮港)の火力発電所とアメリカ軍港湾施設。
 
※大韓航空801便グアム墜落事故について
1997年8月6日、午前1時42分頃、豪雨の日だった。
大韓航空機がパイロットミスによりニミッツヒルに突っ込み、墜落
大参事となった。この事故により乗客乗員254人のうち228人が死亡した。