2016年8月 2日 (火)

戦友の思い出を聞かせてください

四式戦闘機「疾風」

 
「戦友の思い出を聞かせてください」

 
これが一貫した私の取材テーマであります。
 
たとえばゼロ戦パイロットの取材のときは、
可能な限り、
部隊の名簿を作ってから行きます。
そして、そのお一人、お一人の戦友に目を通してくださると
今まで家族にも話したことが無かった、戦友の思い出、そして
散り際、特攻を見送った話などがでてくるのです。
 
こうした戦友の方々の記憶をひとつでも多く残して
おきたいと、考えています。
 
先日、百式のパイロットだった方のインタビューを行ったと
書きましたが、以前から陸軍機にも力を入れており、九七式戦闘機から
一式戦「隼」、二式単戦「鍾馗」、三式戦「飛燕」「五式戦」で終戦迄戦われた方の
インタビューを継続的にコツコツと取材を重ねております。
かなりのご高齢なので、体調を考えて一度のインタビューは30分程度と決めて
その都度、ご自宅の神奈川県に足を運んでコツコツと取材を重ねてきました。
 
そして海軍の花形であるゼロ戦も忘れてはいません。
8月だけでも5名のゼロ戦パイロットの方のインタビューを
岡山、兵庫などを回り行う予定です。
 
取材費がかかりますが、もう砂時計の砂は、残り僅か!
後になって会いたいと願っても!
一千万積んだって、一億積んだって、無理なのです!
 
そして最近、心強い仲間ができまして、交渉の下手な私に代わって、
ゼロ戦パイロットとの取材交渉を、
全て段取りしてくれて、アポイントを取ってくださっています。
本当にありがたいです。
 
いつか日の目を見ることを信じて!

2016年7月25日 (月)

戦争経験者の取材に関して

私は、
戦争証言を後世に残すため、全国津々浦々を訪問し、
取材を続けて参りました。
 
戦争経験者の方のお宅にお邪魔して録音機を回し、
証言を聞き取っていくというものです。
自宅に戻ってから、聞き取った内容を文字に起こしていきます。
最近は自宅で書き起こす時間よりも、取材に出かけている
時間の方が、圧倒的に増えました。
もはやタイムリミットは
刻々と進み、待ってはくれないのです。
 
お金もかかります。飛行機代等、全て自費です。
もし、うまく本の出版等やれば、活動費用が捻出できるかもしれません。
しかし、今申し上げました通り、証言を聞き取るだけで
文字に起こすまでが、追いつかないのです。
仕事もしていますので、全ての時間を使えるわけではありません。
理想を言うならば、活動に専念できる時間と資金が欲しいところです。
 
多くの方々の支援を受けて、現在がありますが、明確な
成果をお約束できるものでないので、難しいところです。
出来ることといえば、現状を報告するといったところでしょうか。
 
私は本来は表に出るのが得意なタイプではないのです。
じゃあなんで、ここに本名で顔写真まで載せているのか?
という疑問が出てくるかもしれません。
 
もし、このブログが匿名で書かれていたら、
ご覧になる方はどう思うでしょうか?
やはり、身分と顔がわかって初めて信用してもらえますし
私自身も責任を持って取り組めます。
自分などは何を言われても
構いません。
しかし、後世に歴史を伝える事は我々世代の責務だと
強く思うのです。
 
思う事を書いてみました。

百式の元パイロットへインタビュー

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今日は、百式司偵のパイロットだった方(大尉)に
インタビューをさせて頂きました。
 
百式司偵は、海軍の偵察機とは大きく役割・運用方法が異なります。
百式司偵の任務は敵無線の傍受、友軍同士の中継連絡、敵陣偵察など
多岐に渡り、それらで得たあらゆる情報を集約し

上空から直接陸上作戦の司令を行う、空飛ぶ作戦司令部です。
 

また、百式は日本陸海軍の中で最も速力に優れた機体でした。
敵陣上空へ強行偵察へ行っても敵戦闘機が追い付けないので

ゆうゆう振り切って逃げてきた話なども多く聞いてきました。
速さだけは自信があったそうです。
 
フィリピン戦線に於いては、百式のほとんどを海軍に貸してしまっていたそうで
海軍さんに操縦方法を教えたそうです。
 
このインタビュー内容も、
『帝国陸海軍機空戦記(仮)』に収録予定です。

2016年7月17日 (日)

旧海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別送信所(稚内市)

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◆「ニイタカヤマノボレ」や「硫黄島決別電文」を中継した海軍通信所
北海道稚内市の戦跡を見学する。

この赤レンガの建物は海軍さんの通信所で
昭和6年に開設。
海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別送信所と呼称した。
平屋の送信所施設、そして隊舎を備えた大規模な施設で
当時は鉄塔のアンテナが立っていた。それらを周囲の樹木に隠蔽されるように
なっている。現在でも周囲は深い森で、その面影は残したままだ。
 

有名な電文「ニイタカヤマノボレ」は、ここから択捉島、単冠湾の
南雲機動部隊へ中継された。真珠湾攻撃の歴史がここ稚内にもある。
 
その他には昭和20年、3月17日の硫黄島玉砕の際、最後の突撃および決別
電報を栗林中将から傍受するなど、最北の無線基地として
重要な電文連絡を行った歴史的価値の高い戦跡・史跡である。
 
◆深い森の中から突然現れる廃墟群
近年、赤レンガの老朽化が激しく、積雪により屋根は崩壊している。
現在は危険のため、立ち入り禁止となっており
見学にはガイドを伴う事前予約が必要。
 

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事前予約し、稚内市のガイドさんに
門を開けてもらい、中へ入る。

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深い森の中を進んでいくと、突然、目の前に廃墟群が現れる。
異世界へ迷い込んだような、
この雰囲気は当時のままだ。
 
◆所在地・アクセス
北海道稚内市声問村
稚内空港から道道121号線を南におよそ3キロ
恵北集落へ入り、1119号線を左折して間もなく
入口がある。
 
◆見学の問い合わせ先 
教育委員会教育部教育総務課
稚内市中央3丁目13番15号
総務管理グループ
23-6518(直通) 文化振興グループ 23-6056(直通)
 

2016年7月14日 (木)

猿払電話中継所跡

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猿払電話中継所跡
宗谷岬から南におよそ30キロ、
猿払村の浜猿払(漁港)付近に
猿払電話中継所跡が残されている。
  
この場所から五本の海底ケーブルが
樺太、真岡まで伸びており、北海道と樺太を繋ぐ中継拠点であった。
現在も海底ケーブルは残され、
ここ猿払では、埋め込まれた一部を見ることができる。

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昭和二十年、八月十五日、終戦。その五日後の二十日。
ソ連軍が樺太は真岡(まおか)に上陸を開始した。
民間人をも無差別に殺傷するソ連軍の進攻に対し、
日本軍守備隊ならびに取り残された民間人は徹底抗戦を
貫き玉砕した。
 
その際、真岡郵便局に交換手として勤めていた、若き女性9人が
いた。女性たちは北海道との通信を保持するため、自主的に残ること
決断し、最後の瞬間まで通信を続けた。
 
女性たちは刻々と迫るソ連軍の進攻に対し、最後まで
職務を全うし、ある者はソ連軍の攻撃で戦死、
そして、郵便局のすぐそばまでソ連軍が迫ると、残った者は全員
青酸カリで自決する。北海道、内地へ向けて行った
最後の通信が、ここ猿払の石碑にも刻まれている。
 
「皆さん これが最後です さようなら さようなら」
 
その最期の声を伝えたケーブルの一部がこれである。

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ここ猿払の海岸から、いまは異国となった樺太の望み、
殉じた九名の女性たちに哀悼の意を捧ぐ。

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猿払電話中継所跡へのアクセス
国道238号線から浜猿払の漁港・集落方面へ入る。
漁港の北側、「海王食品」に面する道を挟んだ反対側にある。
 

2016年7月13日 (水)

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48「彗星」ファインモールド製です。
機番号311-212は空母大鳳の彗星艦爆隊で
平原政雄大尉の二番機だった小松幸男飛曹長と国次萬吉上飛曹ペアの
機体です。
ll-212と表記する説もありますが、写真が残っていないので
どちらだったか解明されていません。この彗星の敢闘を目撃した
藤本さん(インタビューした内容の一部)の話をまとめます。

  
◆魚雷に対し自爆した彗星
時は昭和19年6月19日、
マリアナ沖海戦、一航戦は、零戦、彗星、天山による
編隊を組み、米機動部隊へ向け進撃を開始つつあった。
そのとき、米潜水艦より発射された魚雷が二本、大鳳に向かう。
 
「私の600メートルくらい前、彗星艦爆が一機、横切ったんですよ。
彗星が編隊を離れて、250kg爆弾を抱いたまま魚雷に向けて
ザバーンと、雷跡に突っ込んで行きました」
 
瑞鶴零戦隊の藤本速雄氏の証言によれば、この彗星は大鳳から発艦した

彗星艦爆隊長、平原政雄大尉の二番機だったという。
 
資料によれば、この平原大尉の二番機は、
小松幸男飛曹長(甲7)と国次萬吉上飛曹(乙11)の機体だった。
 
彗星は大鳳を守るため、魚雷へ自爆を敢行したと云われるが、実のところ、
雷跡の存在(あるいは敵潜水艦の位置)を大鳳へ知らせる為に
咄嗟に取った行動で、急降下によってスピードがつきすぎた為、
そのまま海面へ衝突してしまったのではないか?
とも藤本氏は推測している。小松上飛曹、国次上飛曹ペアは
戦死したので現在となっては謎である。

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

1/48彗星 小松幸男飛曹長機 ファインモールド

2016年7月10日 (日)

知床へ行ってきました

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知床(しれとこ)に行ってきました。
元「雷電」搭乗員のインタビューであります。この方は、厚木の三〇二空で
多くのB-29を撃墜したことから、戦後、GHQによる処刑から逃れる為、
昭和20年8月、直ぐに北海道開拓団に参加、現在に至ります。
(是非はともかく戦勝国であれば英雄だったでしょう)
 
この辺りの土地は痩せており、大変な苦労があったと話を伺いました。
「開墾した分だけいくらでも自分の土地になる」という文句で参加したものの、
満州や樺太からの引き揚げ者で溢れ、実際は僅かしかもらえませんでした。
 
空いた時間を利用して、北海道の戦跡も見学してきましたので
少しずつ紹介していきます。
 
上の写真、奥に見えるのは国後島です!

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2016年7月 6日 (水)

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羽田から飛行機で北海道へやってきました。

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釧路空港上空を通過して、女満別まで飛びました!
女満別空港は旧美幌海軍航空隊第二航空基地跡です。
プリンスオブウェールズ、レパルスを撃沈し
有名を馳せた一式陸攻の基地です。
 









2016年7月 4日 (月)

「雷電」パイロットへのインタビュー

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今週は「雷電」のパイロットだった方へインタビューを行います。
今回インタビューする方は、厚木の第三〇二海軍航空隊で
赤松貞明中尉の二番機を務め、B-29やP-51と空戦を経験されました。
(下記の動画4分33秒辺りで登場する指導役の搭乗員が赤松さんです)
 
最後の空戦では頭部に被弾、負傷し、片目の見えない状態で
不時着成功しました。「雷電」での不時着は難しく
事前に電話でお話しした際、
 
「雷電で不時着することは、これはもう殉職と同じですから」
と語ってくださいました。
 
「雷電」の着陸速度は87ノット(大凡時速162キロ)です。
ゼロ戦二一型の着陸速度64.5ノット(同119キロ)と比較しても
高速であることがわかります。この速度が着陸時における難度を上げ、
訓練時間の短い搭乗員には恐れられました。
速度だけの問題ではありません。雷電は翼面荷重がゼロ戦に比べて
恐ろしく低く、不安定な飛行機でありました。
 
とはいえ、戦後、「雷電」を鹵獲しテストした連合軍には好評価でした。
機体にトラブルを抱えず、きちんと訓練時間を重ねていれば
問題の無い着陸速度でした。
 
当時から「殺人機」「欠陥機」などと不名誉な噂が払拭できない
「雷電」ですが、数ある海軍戦闘機の中で
最も多くのB-29を撃墜した機体です。形はズングリムックリで
お世辞にもスタイルが良いとは言えませんが、
パワーだけは飛び抜けており、他を寄せ付けない
迫力がありました。そうした魅力から「雷電」に
根強いファンがいるのも確かです。
 
「雷電」について、今回は掘り下げて行きたいと考えています。
 
※画像は352空の雷電
 


YouTube: [日本軍] 局地戦闘機"雷電(らいでん)" Mitsubishi J2M"Jack"

2016年7月 1日 (金)

憧れの樺太

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来週、北海道に行くので
ついでに樺太へ行けないかと考えていた。(画像は樺太庁立博物館)
樺太へは稚内からフェリーが出ているほか、函館、新千歳から
航空便も就航している。

 
樺太(からふと)はかつて日本領土であった。
年配者の話を伺っていると、樺太の出身者は予想以上に多い。
北方領土同様、
故郷を無くした者の気持ちは察するに堪えがたい。
現在はロシアの支配下にあり、極東サハリン州となっている。
 
さて、戦前戦中まで
樺太には樺太庁の置かれた最大の都市、豊原(とよひら)市、
国境の町、敷香(しすか)町、そして真岡(まおか)町などがあった。
ユーラシア大陸との境を我が国は間宮海峡と呼称し、ポーツマス条約により
樺太島の南半分、すなわち南樺太を領土として
発展を遂げてきた。

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昭和20年8月20日、ソビエト連邦軍が
真岡に上陸。北海道を奪うべく南進を開始した。
(占守島の戦いとは区別される)
 
この戦闘により陸海軍人2000人、
民間人3000人以上が死亡したとされる。
逃げ遅れた民間人はソ連軍の迫害を恐れ、自害した。
 
同年2月に行われたヤルタ会議でソ連は
北海道の全部、妥協して、旭川から北半分の割譲を主張したが
英米がこれを許さなかった。ソ連にしてみれば
太平洋の要衝である北海道と宗谷海峡は是が非でも欲しかった。
ヤルタ会談で主張が通らなかったので、終戦直後、
日本が弱りきったところに
武力で奪いにかかったのだ。
 
しかし、真岡の徹底抗戦により、日本軍民は
ソ連の進攻から樺太および北海道への進路を死守。
樺太は奪われたが、後世日本に北海道を残した。

 
ここでもう一度、写真を見てみよう。
樺太庁立博物館は壊されず残り、現在も博物館として利用されている。
(写真はRFより購入)
戦前日本の建築物はなんと厳壮なる佇まいであろうか!
 
ぜひ、樺太へ足を運んでこの目で見たい。

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もし、北海道へのソ連軍が進攻していれば
現在、北海道は南北で分断され、戦後のベトナム、東西ドイツ
南北朝鮮のように
分断されていたであろう。
こんにち存在する北海道の安泰は、
樺太の人々犠牲の上
成り立っているものだと
肝に銘じておきたい。