4月29日は東京・浅草でペリリュー島生還者最後のおひとり、
永井敬司さん聴講会です。
(笹幸恵さん主催の近現代史研究会です)
※お写真右側が永井さん。
左は去年亡くなった土田さんです。
高齢なので、当日キャンセルとなる
場合がございますが、ひとまず開催決定です。
http://www.panda1945.net/
茨城から東京まで1時間半の
運転手を仰せつかったわたくし。
永井さんは何度かお会いし、インタビューもしてますが
サムライの中のサムライという方なので
とても緊張します。
僕には宝物がふたつある。
そのうち、ひとつの話をしようと思う。
僕が小学生の頃、幕張メッセで「アメリカ博」
という大きな催し物が開催され、両親に連れて行ってもらった。
僕がそこで一番見たかったのは、アポロ11号の司令船だ。
アポロ11号は人類ではじめて月に行った宇宙船だ。
当時の僕は、宇宙に対する興味や憧れがとても大きかった。
もちろんいまでもそうだ。
展示会場の真ん中にアポロ司令船は置かれていた。
円錐形の司令船は、大気圏突入の摩擦熱で
真っ黒になって、それに付随した鮮やかな三つの
パラシュートがとてもとても印象的だったことを
憶えている。
会場の一角にはお土産売り場があった。
そこで、僕はどうしても欲しくなってしまったものがあった。
本物の宇宙ロケットの破片である。僅か数センチの正方形に切り取られ
アクリルに封入された金属片のオブジェには英文でこう書かれている。
「アトラスAC-67号機。1987年3月26日打ち上げ。
打ち上げから54秒後に閃光と共に砕け散る」
当時は英文読めなかったのだけれど(打ち上げ失敗しているとは
知らず、だけど、この金属片が遥かなる宇宙を目指したことに
変わりはない。)ただ、ただ、宇宙ロケットのパーツが手に
入るなんて夢のようで、目をキラキラさせてどうしても欲しくなった。
金属片には焦げ目がついていて、打ち上げの火力が想像できる。
普段、滅多に物をねだらない僕だったけど
母に欲しいと言った。値段はたしか6000円だったと思った。
考えようによっては、というか、大方ただの鉄屑である。
母もそう思っていたらしく、むなしくも却下された。
しょんぼり帰ろうとしていたとき、父が言った。
「僕の来月の小遣いがあるから、それで買ってやってよ」
当時の父の6000円の小遣いは大金のはずである。
父は、後にも先にもこの件で恩着せがましいことを口にすることはなかった。
僕はとても喜んで、包みを大切に持って帰って、家の棚の
一番目立つところに飾って、宇宙への想いを馳せた。
あれから30年。父に買ってもらった
宇宙ロケットの破片は、変わらず、僕のアトリエの
一番目立つところに飾ってある。最初も今も、宝物には
変わりないが、当初は物としての価値であった。最近は、
そのときの父とのエピソードが形となり残る、大切な物である。
わが屋号
アトリエ「空のカケラ」の由来である。
僕には宝物がふたつある。
そのうち、もうひとつの話。
それは名前。
「直人」という名前は父がつけた。
僕はこの名前がとても気に入っていて
父にはとても感謝している。
ぼくはこの名前に今まで何度も何度も助けられてきた。
道に外れそうになったとき、挫折しそうになったとき、いじめられて
泣きそうになったとき、悪いことに誘われそうになったとき、
その都度、名前に恥ずかしくない生き方を選ぼうと
思いを改めることができた。
お天道様が見てるからね。真っ直な人でありたい。
そう、いたってシンプルにとらえている。
僕はそうやって、小さいころから名前に助けられて、
これからも助けてもらって生きて行くんだ。
「直人くんて名前通りの人だね。直人くんの彼女になれて幸せ」
彼女がそんなことを言って勇気づけてくれたのは
亡くなる、数か月前のことだった。
だから、名に恥じるようなことはできない。
僕はこの宝物を最後まで携えていくんだ。
彼女は、24歳になっても理系大学に残り、
基礎研究を続け、世の中に貢献したいと言っていた。
「博士課程を卒業したら、直人くんと結婚するー。」
その頃、僕はクロネコヤマトで働いていた。
在学中でもいい、結婚したら、この子を応援すると決めた。
やりたいことをやらせたかった。彼女が好きな事をして、
その話を楽しそうに聞かせてくれる。その顔を眺めているだけで、
僕は幸せだった。
だけど、何の前触れもなく、突然、この世から消えてしまった彼女。
あれから、今日に至るまで、悲しくても涙も出ないようになった。
棺に納めるものは何もなかった。彼女は東日本大震災の折、
少しでもお金になるようなものはネットオークションで処分し
お気に入りの綺麗な服も全部、売ってしまった。
だから、棺に入れたとき、彼女に着せてやれるのは部屋着の
ようなものしかなかった。
見事な最期であった。
と、ここまで書いて、実は僕は彼女の最期に立ち会えていない。
これはお母様から聞いた話。
事故での急逝だったから、慌ただしく、誰にも連絡せず、
彼女は骨になってしまったから。
お葬式が終わって、彼女のバックから出てきたのが
小さなメモ書き。書いてあったのは、父、母、弟、祖父、祖母の連絡先。
そして、メモ書きの一番下に一人だけ身内でない姓の違う人の名があった。
それが僕だった。東日本大震災の折から万が一のことを考えて
ずっと持っていたようだった。
火葬して、骨を拾うのは、変わり果てた故人の姿を
目の当たりにして、「諦めてもらう」儀式なのだと、あるご住職から聞いた。
でも、僕にはその過程が無い。
錯覚なのだろうが、
いまも150cmくらいの、背格好の似た人を人混みで見かけると
空しくも淡い期待を抑えきれずにいる。
雨の降る日が好きだった。
雨は車でお迎えの日。大学のゲートの前で
こっちにやってくる人混みの中から小柄な彼女を見つけるのが好きだった。
亡くなってしばらく経ってから、お母様と、
「あの子は空や飛行機、戦闘機が好きでしたねー。今頃大好きな
大空で私達を見守ってくれてるのかな」という話題になる。
そうだ、彼女はもういないけれど、もう一度、僕一人で、飛行機をやろう。
それで「アトリエ空のカケラ」を作った。
昭和17年10月24日の夜、
重火器の到着を待たずして総攻撃が開始された。
第一線の第二中隊が月明下の草原を突撃する。
その後を追うように第九中隊が突進する。
敵の機関銃が一斉に火を噴き、流れ来る弾丸は曳光の火の
奔流となって突進するわが将兵を薙ぎ倒す。
突っ込んだ将兵は鉄条網の突撃路に届く前に銃弾に倒れ伏す。
・・・突撃成功せず
この総攻撃に参加した斉藤満寿さんの回想録をみてみよう。
総攻撃、夜襲の前、夕闇迫る頃物凄い豪雨があった。
胃袋まで濡れるような雨の中、少しばかり残した乾パンを立ったまま
口にして前進する。すでに暗闇の中を前へ前へと進む。
目の前の戦友の姿もさだかでない。
途中兵団長に会った。汚れたタオルで鉢巻した閣下が、
軍旗は前へ出るものではない、との言葉を耳にしたが
誰よりも一番先に敵陣地に突っ込むと口にしていた連隊旗手、
犬塚少尉の耳には入らなかった。
突然、迫撃砲の集中を受ける。
連隊旗手犬塚少尉、旗護兵の馬場兵長戦死、大賀上等兵負傷、
井関上等兵と私、斉藤上等兵は幸い無傷だった。
敵の砲撃がやんだとき一度、身を起した犬塚少尉が大きな声で
「天皇陛下万歳」と叫んだ。再び万歳を叫んだが、あとは一言も
無く絶命された。
・・・・・「天皇陛下万歳」と絶叫されたあの声が、
今でも私の耳の底に残っている。
「天皇陛下万歳」など叫んで死んだ戦友はいない
「おかあちゃん」と絶叫したものだと戦後から現在でもよく口に
されているけれど私は「おかあちゃん」と叫んで死んだ戦友は
ひとりとして知らない。
数多くの戦友の死に直面したが「天皇陛下万歳」と叫んだ戦友は
幾人か居るけれど。
幾度か、ジャーナリスト取材の座談会にも出席したが
「天皇陛下万歳」を否定する発言者の多いことが納得できない。
敗戦とは、このような大事なことを、真実を
語ってはいけないのだろうか。
第二十九連隊『五中隊戦史』(五中隊会印刷)21頁より
記述はガダルカナル島丸山道において。
第二十九連隊は左翼連隊(第二歩兵団長)
那須弓雄少将(26日戦死)の指揮下にあった。
靖国神社。例大祭が無事終わり、
帰りにソフトアイスでも食べようと、M陸軍大尉とともに
参道脇の休憩所に腰を下ろす。
桜はすっかり散って、いまは萌木である。
心地良い風が時折通り抜ける。
M大尉は、大鳥居を仰ぎながら、
ひとつ、ふたつ、思い出したことを話し始める。
「僕が陸軍士官学校を出て、新品の少尉だった頃ね、
軍刀とか、拳銃とか、そういうのは、みんな自腹で
買わなきゃいけなかった。
その店が、この近くにあったんだけど・・・。」
「だから少尉なりたては貧乏だったね。歌の文句にもあるよね」
♪大佐中佐少佐は老いぼれで、
といって大尉にや妻があり
若い少尉さんにや金がない
女泣かせの中尉どの
「で、そこの店でボクも軍刀を買ったんだけど、質が悪くてね、
その頃には上等な刀なんてなかった。2,3人斬ったらおしまいだ。
・・・僕も白兵戦では斬ったんだけどね・・・。
だからね、あれはほとんど将校さんの飾りだね。」
「家がいいとこの奴は、出征するとき、伝家の宝刀持ってくるんだ。
軍刀はみんな私物だったね」
「戦争でいい刀が随分失われたんじゃないかな」
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これとはまた、別の話であるが、
T陸軍大尉、少尉に任官したてで白兵戦となった。
部下は歴戦の猛者である。
夜間の切り込みである。
いよいよ、というとき、少尉の銃剣が月の光を
帯びて光った。
「いけません!少尉殿!銃剣を着けては敵に居場所が知れます!」
そう言うと部下はニッコリ笑って
「少尉殿は初陣で緊張されている。ここは自分たちが行きます!」
そういって、闇へ消えて行ったのである。
T大尉は終戦まで、命を繋いだが、白兵戦の数は13回を数えた。
勿論その頃には、最前線で部下を率いていた。
最近、飛行機ばかり書いているが、
歩兵の方から聞いた話も話もたくさんあるので、
できる限り、残していきたい。
さくらんぼ狩りの季節がやってきた!
さくらんぼ狩りは、一年でもっとも
テンションのあがるイベントである!!
行きたいと言ってるだけで、まだ行ってない。
まだ「サクラ」だから。「ンボ」はもう少し経ってから!
写真は過去のもの。たぶんおととしの5月??
サクランボ狩りへ行ったら、
ついでにほうとうを食べて帰るのが定番。
いつの間にかみさか路の「ほうとう屋敷」がなくなっていて、
西に会うべき親友をなくしたような気分でとても寂しい。
しかし社長はたくましく、「元ほうとう屋」というツイッター
アカウントで元気そうだった。
新しい店を探さねば。上の写真は「小作」という古民家を改造した店。
薫風ただよう、甲府盆地へ降りて行く!
我が国の偉大なる先人たちは、
山があればトンネルを掘り、
谷があれば橋をかけてきた。
リニアがやがてアルプスを貫くとき、
私は生きているのだろうか。
しかしそんなことは想像はするまでもない。
たとえばそう、
西へ向かうのぞみ号、わたしは
心地良いまどろみのなか、時速300キロで走る。
紙コップのコーヒーは揺れない。
先人たちの眠る大地を静かに駆け抜けて行く。
かれらに報いる唯一の術は
私もいつか眠る、そのときまで
手を休めず、働き続けることだけである!
汗をぬぐうせつな、ほほにあたる風があれば
それを幸せと呼ぶことにしようではないか。
だから5月はさくらんぼ狩りに行こう!
皆さまからお預かりした講演会の感想メッセージです。
全て吉岡先生にお渡しいたします。
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富山県・W様
お元気でお過ごしください。
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栃木県・I様
JYMA日本青年遺骨収集団執行部役員のIと申します。
貴重な御話をありがとうございました。
私どもも精一杯遺骨収集を行って参ります。
大戦初期の勝ち戦を知る戦友の方の話は現在、
大変貴重かつ重要です。
また吉岡さんの講演会がありましたら是非お伺いいたします。
本日は誠にありがとうございました。
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東京都・S様
大変興味深く、また勉強になるお話を頂きありがとうございました。
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東京都・H様
本日は貴重な時間、そして貴重な話をありがとうございます。
今や宝石よりも貴重になってしまった旧海軍搭乗員の話を聞ける機会が
あると知って大変楽しみにしていました。
本などで全体的な状況はわかりますが、
実際に戦っていた人の話はなかなかなく、
しかも本人から生で聞けるのはこれからの人生においても
宝物になると思います。ありがとうございました。
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東京都・Y様
貴重なお話を聞かせていただきました。ありがとうございました。
小さいころに祖母から聞かせてもらった空襲の話を思い出しました。
お体にお気を付けください。
また機会があれば、真珠湾攻撃のほか戦闘時以外のお話を聞いてみたいです。
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岐阜県・K様
今日は貴重なお話をありがとうございました。
戦争について当事者の方からお話を聞く機会がほとんどないので
とても勉強になりました。
「戦争をしない国」を作っていくのは私たち
(私は現在25歳です)若い世代だとおもうので
頑張ってそのような未来を作りたいです。
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千葉県・M様
言いづらいことも言ってくださいましてありがとうございました。
今日の経験は一生忘れません。
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埼玉県・K様
私自身あまりこういうことに詳しくなかったため、
今回の講演会では初めて知ったことや驚いたことが
多かったです。特に分隊についてのお話は興味深く、
かなり細分化されているというのがわかりました。
また、開戦から終戦まで搭乗員として生き抜かれた
先生であるからこそ「平和は大事です」という言葉
にはとても重い意味を感じ取りました。
今回の講演会は非常に貴重な体験となりました。
ありがとうございました。
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東京都・S様
素晴らしいお話ありがとうございました。
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東京都・N様
本日は貴重なお話ありがとうございました。
これからもお元気でお暮しください。
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埼玉県・K様
本日は貴重なお話ありがとうございました。
いつまでもお元気で。
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東京都・T様
僕は近現代史に興味があり、関連書籍を読んだりして勉強
しているのですが今回吉岡先生から真珠湾攻撃に関することを
はじめ貴重な戦争体験のお話を聞いてとても感銘を受けました。
さまざまな苦労、思われることもあるかと思います。
戦死された戦友さんのことも、思い起こされる気持ちも
伝わってきました。今は戦争のない平和な国ですが、
これからも平和な世界を作っていけるよう
先生の思いを引き継いでいきたいです。
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東京都・E様
本日は貴重なお話をありがとうございました。
戦争時の生々しいお話から、
現在の平和な日本があるのは
改めて先の戦いに命を懸けてくれた方々のおかげだと痛感いたしました。
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東京都・H様
真珠湾攻撃のお話をいただけて感無量です。
息子に伝えます。素晴らしいお話を本当にありがとうございます。
ペリリュー島の話が大変興味深かったです。
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静岡県・K様
私も数人真珠湾攻撃のお話をお聞きしましたが、
航空機のお話は初めてで平成が終わるこの時に貴重で
素晴らしいお話をお聞きでき大変感激しました。
とても若々しくしっかりしたお話で真珠湾攻撃と
戦争の真実を伝える立派な講話でした。
真珠湾は戦争の始まりであり、先生が戦争のことを
話してくれたことは戦争が本当にあったことを伝える、
そして平和が続いていくために
私たちが考えていく大切な経験になりました。
静岡から参加するのは2回目ですが、
来たかいのある素晴らしいものでした。
ありがとうございました。
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広島県・O様
拝啓吉岡政光様、この度は貴重な体験をお話して頂き
ありがとうございました。昨年九月の講演会で聞くことが
出来なかった昭和19年から20年にかけての苦しい時期の
お話が聞けてうれしかったです。上層部の書き込みとは裏腹に
現場では機材や燃料が無く戦う以前の問題で苦しむ様子は
やるせなさか組織の根の深い問題を感じました。
私は数年前から戦場へ赴いた方へ当時の話を伺っています。
もしよろしければお話を伺いたいとかんがえておりますので
ご検討宜しくお願いします。わたしはいつでも駆けつけます。
私は吉岡先生の幼いころの思い出や講演会では話すことのなかった
小さなお話や戦後から今日にいたるまでの出来事を伺いたいです。
敬具
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東京都・K様
貴重なお話をしていただきどうもありがとうございました。
これから日本を担う人へのメッセージということで
自衛隊を軍隊にして日本を守ってもらうことが必要だと
いうお言葉がとても印象に残りました。
これからもお身体に気を付けてお元気にお過ごしください。
またお話を聞ける機会があることを願っております。
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埼玉県・T様
貴重なお話ありがとうございました。
自衛隊に勤めるものとして資とさせていただきたいと
思っております。先生のおっしゃる
「竹の柵ではなくコンクリートの壁」
となれるよう励んでまいります。
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東京都・N様
本日はありがとうございました。
私は今年ようやく20歳を迎えたところになります。
戦争は教科書などで触れるに留まり
なかなか感じる機会がありませんでした。
貴重な経験として、今後なにかに活かしていきたいと思います。
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神奈川県・W様
昨年10月に浅草で開催された際に、蒼龍新聞のコピーを
持参したものです。前回に引き続き、貴重なお話を伺う
ことが出来、ありがとうございました。祖父は九州の航空隊で
事務をし、復員しましたが祖父の弟は中国で戦死し、母の兄も
海軍を志願し戦死していることもあり生きていればいろいろ
やることが出来たと思いますと戦争は無いに越したことは
ないと思います。お聞きしたいことを微力ながら伝えて
いけたらと思います。
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栃木県・K様
本日は貴重なお話をありがとうございました。
私は赤城急降下爆撃隊の飯塚德治さんを存じ上げて
おりました。本日蒼龍雷撃隊のお話を頂いて、真珠湾攻撃隊の
姿が鮮明になってまいりました。私の父は志願して陸軍騎兵に
なりその後戦車兵に転じて中国、仏領インドシナ、ビルアを
転戦満州の四平戦車学校で特別見習士官の助教をしていました。
母もその学校で軍属をしていました。
父はシベリアに2年余り、母も朝鮮経由の引き揚げ者です。
2人は他界しましたが、よくあの困難な時代を
生き抜いてくれたと感謝しています。
吉岡様にも同様の感謝の念を感じております。
本日はありがとうございました。
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飛行機関連本が新しくできると、私は
昔の恋人のお墓参りに行きます。
彼女は飛行機が大好きで、いつも空を見上げていました。
下ばかり見ていた歩いていた私に、
空を見上げるきっかけをくれたのが彼女でした。
彼女は特に大戦機に傾倒していて、私に
紫電と紫電改の違いを教えてくれたり、
二重反転プロペラの素晴らしさを語ってくれたり
していました。
彼女が飛行機好きだったから、私も好きになり
現在に至ります。
彼女が突然の事故でこの世を去ってしまったのが、
数年前です。まだ20代でした。
死ぬとわかっていたなら、もっと優しい言葉をかけていたのに、
とか、後悔は絶えません。
一人、残された私は、彼女の空への想いを
ひとつ、ひとつ拾い集めるように、生きてきました。
二人で飛行機の話ができないのは寂しいです。
悲しさも限界を過ぎると、感じる事が鈍くなる代わり、
心から嬉しいと思えることも、
少なくなったような気がします。
置いてけぼりにされた、一人の時間が
とても長く、辛いのです。
受け継いだ飛行機を描く(書く)執念や楽しさはありますが
生きる事への執着が薄いのも、同時にあらわれる気持ちです。
こんなことを言うのはいけないとわかっているのですが
40歳まで生きるとして、それでも
一年、一年が、とても長いんです。
早く会いたいんです。
生き残った者の使命とか仰る方もあるでしょうけど
まだ数年しか経ってないので
毎日、強い孤独感と戦っておりまして、
この戦いに負けないように、ただただ耐えて
頑張る最中なのであります。
講演会の会場設営ならびに運営のお手伝い頂いた皆様へ申し上げます。
誠にありがとうございました。殊にお仕事の関係や
貴重な休日のお時間少ない中、なんとか遣り繰りして
お越し頂いた事は誠に有難いことでございます。
お陰様で、定時開場が達成できました。
私一人では何もできないのであります。
主催は名目上はわたくしでございますが、
素晴らしい時間を作ってくださったのは
お一人、お一人のお力によるものです。
皆様に積極的に手を上げて頂いて、本当に嬉かったです。
お一人お一人に充分なお礼ができず
申し訳なく思います。
あらためまして、
ご協力に心より感謝申し上げます。
講演会ご参加の各位へ申し上げます。
御志を誠にありがとうございました。
合計で¥20,510をお預かり致しました。
皆さまからお預かりした御志は会場費をはじめとした
運営費に充てさせて頂きます。 誠にありがとうございます。
また、今回、会場を足立区綾瀬に致しましたのは、できる限り
ご高齢の先生の移動時間を短縮し 1分でも多く、お話しして頂く
為でございました。 皆様のご理解・ご協力に感謝いたします。
4月第3週目月曜日。
10連休が迫っているので、
大きな紙を出して来て、スケジュールを書き出します。
4月末で、今頂いてるお仕事も一区切り、つくはずです。
やること、やらないこと
優先順位、失敗した場合のリカバリー方法、
ぜんぶ書いて、
書いて、書いて、書いて、書いて、
悩んで、ある程度、理想形を完成させます。
ぜんぶ、詰将棋のように
段取りしないとできないのであります。
逆に書くと、
だいたいの事は出来ちゃいます。
半分、遊びですけど、
これはイベント時の私のコンテナです。
箱の底から物を入れて逆算して、完成する形に整えて行きます。
まず、机の上を水拭きして、布を敷く。
テープで端を固定したのち、ゴミ袋を出して、
並べ方見本の写真(最後の写真)を取り出して、という具合で、
イエローの梱包材と、ブルーの梱包材で中がわかるようにしておく。
部数は少なめで什器ごと出して、完了です。
こうしておくと、売れなかったとき無駄に数えないので棚卸で楽です。
完成予想図。私、人が多いすごく緊張して
慌てるので、こうしておかないと判断力鈍ったとき
忘れてしまいます。
砲雷撃戦のときのです。
これを作ったのは、
レースのピット作業を参考にして、交換するタイヤ置き場の
ラック(棚)がレイン(雨用)とドライ
色分けされてるんです。これだとクルーはどちらに
ジャッジされても、慌てず視覚で見分けて作業できると。
全てのスケジュールが
連休前に綺麗な放物線を描いて完遂できますように。
公園のコイに餌やりに行こうと決めたんです!
久々にドライブで。
いつから乗ってないのだろう?
久し振りにエンジンをかけると
ソレノイドバルブから伸びるパイプが劣化して
排気が漏れてるんです。シューって音がするんです。
アクセル踏んでも加速しない。
ブーストが負圧8.0を振り切っているので、
部品交換そのものは、なんでもないんですが、
エンジンルームに全然手が入らない。
とりあえず、エアクリーナー外してってやってるうちに
日が暮れる。
それよりも私は、
見てはいけないものを見たのであります。
車内に去年の年末配る予定だったカレンダーが一本転がってる!!
ちょっとだけ近所走ったら、
中央分離帯が凄く鮮やかな緑になってる!!!
やばい!!!!
このクルマはーーーーーー
ドライバー、メカニック、デザイナー、
洗車、全部わたし。
泣かずに黙って手を動かすのであります。
好きな言葉は「完遂」であります。
若干のキャンセルが出ましたので、あと数名、ご参加頂けます。
当日参加希望の方は、篠原の携帯までご連絡ください。
090-3341-4910
前回からの続き
落語「彦六伝」で8代目林家正蔵、のちに彦六となる師匠の伝記
の中の小噺です。彦六伝は新作落語ですが、古典のように
アップデートが繰り返されています。
以下、彦六伝より抜粋
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「お前は戦争で捕虜になったことがあるか?」
「いや、ないんですけど」
「ロシアというのはひどい国で、捕虜になると、飯に固い固い
パンが出るよ。その半分ぐらいのパンの、中身ほやわらかいほうを食べるか、
外側の固い皮(ミミ)を食べるか、お前はどっちを選ぶ」
「どちらかというと、やわらかいほうを食べたいですね」
「ああ、それが間違いだ。そこがパンの秘密だな」
「はあ、秘密ですか」
「捕虜仲間が中身のやわらかいほうをわけてくれるんだ
すると、貰ったほうは感謝するな。
ああ、美味しい譲ってくれて、自分は不味いところを食べて
この人は人格者だなと。
よく考えてみな。やわらかいほうはすぐに腹が減ってしまう。
固いほうは、噛んでも噛んでも、固い。なかなか腹が減らないな。
したがって生き残るのは固い方だ。
捕虜になったときのためによく覚えておきな」
「はあ、弟子に捕虜になったときのことも考えてくれて
ありがとうございます」
YouTube: 麦と兵隊 ザ・ドリフターズ
ドリフターズが歌う『麦と兵隊』
ドリフのアレンジが素晴らしいんです。
哀愁漂いつつも、こんなに力強く、勇ましい歌は
他にないと思っております。
戦争経験者のおじいちゃん方が集まるでしょう。
少しお酒を飲んだりして、盛り上がってきた頃に
戦争の話になる、そして、あの頃の歌を「歌え唄え!」という雰囲気になる。
指名されたおじいさまは何度か「いやいやいや私はいいですよ」と
数回断ったうえで、照れながら、
「えー、それじゃ、ご指名ですので、誠に僭越ながら」
と、断りを入れつつ、シッカリ歌い上げるのです。
おじいちゃんたちにとって軍歌はイデオロギーでもなく、
なんでもなく、ただ懐かしい思い出そのものなのであります。
戦後、こうしたものをタブー視する傾向が強くなりつつあります。
素敵なおじいさま方と共に過ごしてきた
最後の世代としましては、ぜひともこうした事実を
残したいと考えておるわけですが
なかなか、難しいのであります。昨今は
「ナニ?軍歌?けしからん!軍国主義の再来だ!」
となるわけです。
私は軍歌・戦中・戦後歌謡を通じた時代背景解説本を一冊
書きたいくらいなんです。たとえば
『轟沈』
「青いバナナと一緒に積んだ可愛い魚雷が」
このひとつの文言で、全てが表現されており、あとはオマケみたいなものと
言っても、言い過ぎでない、秀逸な文句であります。
内地からシンガポールを経由して、青いバナナを積んだ。
それが、もう今はインド洋にいる。
そして日本海軍は酸素魚雷だから、メンテナンスにかける
手間とぜひとも戦果をあげねばならぬという思いが
伝わってくるのであります。
『誰か故郷を想わざる』
こちらの記事で少し書きました。英軍が作戦に使う程の
郷愁を誘う歌でした。
英軍からの出前寿司
一気に時代を進めまして、戦争が終わりまして、とっても有名な
『青い山脈』は作ってる途中で軍歌になってしまったんですね。
そして、純粋な歌謡曲としては
昭和22年
『港の見える丘』
戦争直後につくられた歌。戦争直後と思えない程
ロマンチックなんです。そして同時期に流行したのが
解り易い『りんごのうた』です。
YouTube: りんご娘 「リンゴの唄」 2007.5.5
『りんごのうた』は青森のご当地アイドル
りんご娘がカバーしてます。私が実現したいコンテンツは
これに近いのかもしれません。
次世代への継承はアレンジが必須。
しかし、まだ外地では抑留が続いており、社会問題化。
『あゝモンテンルパの世は更けて』が昭和27年です。
私が子供の頃は、こうした戦争の話題も
タブー視せず、ユーモアを交えてお話しするおじいちゃんたちが
数多くいらっしゃいました。戦争は悲惨、悲惨といって
なにもなくなってしまうくらいなら、
エピソードを伝えるために、かくあるべきと思う訳です。
次に「パンの秘密」を紹介して終わります。

新作紫電改コクピットTシャツ出来上がってきました。
展示館館長が以前より所望されていたもので、
ようやく形になりました。少しは期待にお応えできたかな?という
感じです。嬉しいです。
水彩画風のイラストは
カノナリ氏による絵柄です。
これから袋詰め作業をして、
5月連休より、紫電改展示館にて限定販売となります。
よろしくお願い致します。
故郷の女学生(鐵ハヤテさん)より慰問袋を戴く。
最近特に、篠原が元気ないのを知って、
中身は元気がなくても食べやすいお菓子類、料理不要の缶詰だったり、
目薬にホットアイマスクと、不眠症をこじらせた僕のために
入眠サプリドリンク。ハヤテさんの大切なコレクションも
分けてくださった。
あれもこれも、とやっているうちに、きっと箱がいっぱいになって
二つに分けられていたのが、泣けてきます。
本当に、ありがとうございます。
インターネットやっててよかった。
僕以外にも篠原弘道さんの研究者がいて、
空のカケラの記事がきっかけで知り合って、
来週、弘道さんのお墓参りに一緒に行くことになった。
ロシア側の知人や情報も多いらしく、今後の
展開が大いに期待されます。
篠原弘道は日本のトップエースでありながら、
本に書いてある事とは正反対の悲劇的な最期を迎えているんです。
これを近いうちに証明したい。
篠原弘道少尉。陸海軍通して、今まで記録を破られていない
最強の戦闘機パイロット。戦勝国なら、
雀宮駅前に立派な銅像建っていると思う。
篠原「あのー」
アシスタント「なんですか?」
篠原「1時間半ばかり、お花見に行ってきてもいいでしょうか?」
アシスタント「たまには休んだほうがいいですよ。1時間半と言わず、
ゆっくりしてきて下さい」
篠原「ありがとうございます!行ってくるであります!」
日曜日の講演会に、どうしても人出が足りなくて、
ライブに行く予定だった、アシスタントを
動員してしまった。彼女はその場でチケットを
キャンセルしてくれて、ライブにそれほど
乗り気でなかった理由と、キャンセルしたお金で
欲しいものが買えることを話してくれた。
出掛けて、一人になって考えた。
・・・あれは後から考えた理由だよな。
優しい人に恵まれて、もう感謝しかない。
神社の境内でしゃがみこんで、シャッタースピードを
多めに取って風を待った。桜の淡い色と、水色の空と、
欲張って躍動感も出したい。
木の反対側ではレジャーシートを敷いて
花見に賑やかなおばちゃん二人組がいる。
うららかなる陽光。
おばちゃんたちの、お重箱のおむすびがいくつか消えた頃、
望んでいた風がやってきて、桜の梢を揺らした。
僕はスローシャッターを切った。
ごゆっくりどうぞの言葉が有難い、
平成最後の花見であった。
次の日曜日は、いよいよ東京の綾瀬で吉岡少尉の講演会です!
司会は私です。お目にかかれることを心待ちにしております!
描きかけのコンテンツも月曜日から逐次仕上げていくよ!
4月も突っ走るよ!
宇都宮駐屯地創立69周年記念行事、無事終了しました。
今年はヒゲの隊長こと佐藤正久参議院議員をお迎えしました。
今年は速射砲(FH-70)の砲撃が猛烈でした。
ツイッターやyoutubeにアップされていると思います。
(桜が満開で見事です!)
毎年、私、居りますけど、 こんなに派手に撃ちまくるのは
本当に、はじめてです。離島奪還想定もなにも、我が方の火力が凄まじく
アグレッサーの反攻もなにもあったもんじゃないです。
今年来られた方は特にびっくりしたと思います。
今年もブースで多くの方にお目にかかれました。誠に嬉しく
ありがとうございました。遠方よりはるばる宇都宮へお越しくださり、
誠にありがとうございました。
参加希望の方、もういらっしゃいませんか?
最後の機会になるかもしれません!今回は質疑応答の時間を多めにとり、
また、写真撮影等、交流を重視した会になります。
当日はご本人搭乗仕様の九七艦攻の模型を手に解説して頂きます。
また九七艦攻の計器類(実物)等の展示も行います。
お申込みがまだの方、よろしくお願い致します。
会場設営のお手伝いスタッフ、募集中です!
お申し込み・詳細はこちらからお願い致します。
https://soranokakera.lekumo.biz/tesr/2019/03/post-5ad7.html
雀宮の駅名は諸説あるが、雀宮神社に由来する説が有力で、
雀宮神社は歴史と趣のある神社として、地元民に敬愛されている。
この地域を治めていた宇都宮氏の信仰は篤く、雀宮神社を、
城を守る四神の内、南の『朱雀』と位置づけ、城主がしばしば
遠乗りをしてお参りに来たと伝わる。
雀宮神社は皇族である御諸別王を祭神としていることから、
1713年(正徳三年)東山天皇から金文字で『雀宮』と書かれた
勅額が掲げられていたため、日光社参をする将軍家をはじめとして、
諸大名は下馬して参拝したと伝えられている。
明治22年、町村制施行により、雀宮村、下反町村、下横田村、東谷村、
中島村、上御田村、羽牛田村、針谷村、御田長島村、茂原村が合併し
河内郡雀宮村が成立する。昭和28年には 雀宮村が町制施行し雀宮町となり
昭和30年、 姿川村とともに宇都宮市へ編入された。これらの旧町村名は
現在も住所として残されている。
また、雀宮はノモンハン空戦で勇名を馳せた戦闘機パイロットで
トップエースである篠原弘道少尉の出身地としても知られる。
現在の雀宮駅は再開発が終了し、移転新築された宇都宮工業高校と
宇都宮市立南図書館、併設のサザンクロスホール、を有する。
公共交通機関のほか、自家用車保有台数全国一位の県民の為、駅駐車場と
図書館駐車場を合わせると740台分の駐車スペースが確保されており
通勤通学等で上京の折は、駅前に自家用車をとめ
そのままドアトゥドアで鉄道を利用するのが常である。
黒磯、宇都宮などを出発した湘南新宿ラインは
雀宮にも停車し、上野新宿までの最短所要乗車時間は1時間28分である。
その先、東海道本線へも乗り入れ、横浜、鎌倉を経て逗子・小田原へ至る、
日本屈指の長距離列車である。
新元号発表を祝して
いつもより早起きし、家を掃除する。
玄関先を塩で清めて太陽に柏手を打つ。
11時30分頃、発表されるそうです。