戦時における女性労働力
戦時中の日本を象徴し、広く定着してしいるのが
「女学生まで動員して飛行機を作らせた」
と云われるエピソードである。
その事実に変わりはなく、確かに16、17歳の今でいう
女子高生くらいの年頃の非熟練工員が女子挺身隊という名で
飛行機工場で働いていた。
「飛行機工場で働かされた女学生はかわいそうだった」
「女が作った部品だったから飛行機が故障したのだ」
というのが定説になりつつある。
これではあまりにひどい。それこそかわいそうだ。
英国の戦時における女性労働力
少し、着眼点を変えることにする。実はイギリスでも同様だった。
しかも、女子労働者は日本より多く、工員全体の三分の一にものぼっていた。
当時、世界中に植民地を持つあの大英帝国が、である。
レシプロ戦闘機最高傑作と云われるP-51、スピットファイアに搭載された
エンジンはイギリス、ロールス・ロイス社のマーリンエンジンである。
第二次大戦中におけるロールス・ロイスはほぼマーリンエンジンに絞り込んで
大幅な増産化に成功しており、品質も高水準を保っていた。
英国主力のダービー工場と、米パッカード社でライセンス生産された
エンジンの台数を含めると終戦までに十五、六万台を生産している。
※1
あれもこれも、と、たくさんの種類のエンジンを作っていた中島飛行機と
ここで既に大きな差がついている。中島飛行機はボア(シリンダーの直径)
の種類だけでも10種類もある。
ロールス・ロイスでは中島飛行機同様、
工場に非熟練作業者が大人数投入された。
※2
にもかかわらず、「疾風」「紫電改」の誉エンジンよりも
超精度のマーリンエンジンの品質は落ちず、順調に生産を続けた。
ロールス・ロイスでは開戦前より
測定用の標準ゲージを導入採用したり
大量生産向けに工作機械を自動化あるいは半自動化したりして
未熟練作業者や女子労働者が操作しても部品の精度が確保できる仕組みが
完成していた。熟練工を監督官として適切に配置し
部品の完成後は、品質管理が徹底され、必ず検査を行い
合格した部品のみを出荷した。
品質管理を行う従業員が全労働者の一割も占める五千人もいたのである。
一見すると、大英帝国ゆえの産業力と思われがちだが、
これはシステムの違いである。
大局的観点からすれば、飛行機が故障して
墜落するより合理的であるに違いない。
日本の女子挺身隊
話を日本に戻す。
中島飛行機からは熟練工まで次々召集されていった。大和魂という名の
精神力は元来素晴らしいものだが、それのみに頼る生産方法は、合理的でない。
疾風、紫電改搭載の「誉」エンジンも品質管理を徹底し
本来の馬力を発揮できれば、米英の戦闘機と充分に対峙できた名機であった筈だ。
当時、流行った戦意高揚のキャッチコピーが
「僕は操縦、君は生産」である。
元来、女性は男より辛抱強く、手先が器用である。
イギリスが出来て日本が出来ない事はない。条件が悪すぎただけだ。
だから、日本の女子挺身隊とは、最も優秀で、前線の兵士と同じく
最大の敬意を持って、誇りの対象としてありたいと願う。
女子挺身隊を「かわいそうな」だけでなく
「最も頑張った」後方支援部隊として顕彰したい。
※1出典
『悲劇の発動機「誉」』前間考則著
298頁より
※2
これは英国が戦前より女性を労働者として積極的に
採用していたという前提がある。来たるべき戦争の
準備を着々進めていた。
昭和19年1月
一式戦「隼」三機が、同盟国だったタイ王国空軍に
引き渡されている。飛行第三十三戦隊の山本斉大尉は
19年1月、バンコクの防空にあたっていた
山本大尉の回想によると、同じドムアン基地の東側には
タイ空軍の基地があって、米国製マーチン複葉機があった。
空襲警報があると飛び立っていたが、敵機を攻撃すると言う
より空中退避をして地上での破壊を逃れていたようであった。
間もなく「タイ空軍に一式戦三機を引き渡すことになったので
シンガポールに受領に行って来い」との中隊長命令があり、
山本大尉は部下を連れ輸送機でシンガポールへ向かう。
デンガー飛行場補給廠に到着すると、受領する三機の隼があった。
隼は海軍の空母で内地から輸送されたようで
機体の全面に防腐油が塗ってあり、機体に上がるどころか
手を触れることもできないほど油だらけの状態であった。
補給廠で油を取り除き、整備に二、三日かかったが、
無事ドムアン飛行場まで三機の空輸が完了。
そのあくる日、三機をタイ空軍に引き渡すことになった。
隼の売買は昭和通商という民間会社が担っていた。
タイ空軍中佐と山本大尉は通訳を通じて
引き渡しを行う事となったが、山本大尉が日本語で喋り、
それを昭和通商社員が英語に直してタイ人通訳に伝え、
そのタイ人通訳がタイ空軍中佐に伝えるという方法を
とることになった。
山本大尉が操縦席内の銘板を差し「製造年月日はいついつで、
中島飛行機で製造されたものである」と説明したところ、
タイ空軍中佐から「それは嘘ではないか?この飛行機は
ドイツで製造され、日本が勝手に銘板をつけたのではないか?」
との返答であった。
本来なら「何を無礼な」と山本大尉が一喝してもおかしく
ないところだが実は、その少し前、山本大尉は日本語の少し
話せるタイ人の青年とバンコクの街を歩く機会があって、大尉が
「世界で一番強い軍隊を持っているのはどこか」と質問したところ
青年は「一番がドイツ、二番がアメリカ、三番がタイ、四番が
イギリス、五番目が日本」と答えた。
さらにバンコクの中央郵便局の三階建ての建物を指さすと
「こんな大きな建物が日本にあるか」と大真面目な質問を
受けたこともあった。
そうした出来事を思い出すと、山本大尉はタイ空軍中佐の
言った事に憤慨する気にならず「あそこに我が軍の隼が
たくさんある。ぜんぶ日本の中島飛行機で作ったものだから
見てこい」と告げる。タイ空軍中佐は渋々納得したような
顔になったようだった。
タイ空軍のパイロットは全員が欧米へ留学し基本教育を受けていた。
全員が将校で飛行時間も一千時間以上のベテランであった。彼らは
飛行服というものを着ず、正式の軍服の肩章だけ外していた。
欧米に留学していただけあって、常に礼儀正しく、通訳を
通して説明したこともよく守り、慎重な訓練を行っていた。
当時、タイ空軍では自分の不注意で飛行機を壊した場合、
自腹で弁償しなければならないという決まりだった。
タイ空軍パイロットは、全てにおいて優秀であったが、
基本訓練では、上側方の接敵は日本人パイロットの場合、
左旋回で降下突進のが通常だが、彼らは再三、教えても
右旋回突進を繰り返すのであった。左旋回が有利な事を
説明したが、最後まで聞き入れては貰えなかった。
のちに右旋回突進は欧米流が身について離れないという
ことが判明した。
全国のコンビニで『日本陸軍名機物語』というムック本が発売になります。
表紙に私の名前が載っているので、ぜひお手に取って下さると幸いです。
この本で、飛燕の記事を担当しました。
もちろん初公開の内容で、渾身の真実を、魂を込めて書き上げました。
つい先ほど、原稿の締切ギリギリで何とか仕上げたところです。
よろしくお願い致します。