近現代史研究会(PANDA会)で
真珠湾攻撃隊員の吉岡正光さんの聴講会が行われます。
吉岡先生は御年100歳!
九七艦攻の偵察員で、真珠湾攻撃に参加されました。
真珠湾攻撃の搭乗員の方の講演会としては
最後の機会になるかもしれませんので
こちらで告知させて頂きました。
万障繰り合わせの上、ぜひご参加ください。
日時は10月13日(土曜日)14時から17時。
場所は浅草です。
申し込み・問い合わせの方はこちらが
主宰者ページです。
http://www.panda1945.net/
スーパーに鮮やかな果物が売っていたので、
この色をパレットに追加したくて買い求めてきました。
部屋には果物の香りがほのかに漂っています。
果物でも、動植物でも、人工物でも、気に入ったら、
コンピューターであらゆる色を作ることができます。
最終機には目で見て同じ色か見極めなくてはならないのですが
今回は6色に分けてみました。諸説ありますが色彩を見分ける
能力は男性と女性では差があり、女性は男性に比べ、
四倍もの色を見分けることができると言われています。
この果物は6色にしましたけれど、女性なら
24色に分けてその違いがわかるのかもしれません。
試しに、24色のカラーコードを、6色のパレット数値の中間を
抽出して作ってみました。如何でしょうか。
さて、その色彩感覚ですが
男女ともに20歳頃をピークに徐々に劣っていきます。
その能力を落とさない訓練ならばできます。
板金塗装屋さんは皆、男性ですが、
色彩感覚は非常に優れています。
そして、見分けるだけでは駄目で
その色をどう使うかのほうが重要でなのであります。
「零式戦闘機の全て」デジタル素材集の頒布を開始しました。
商用利用OKです!
※イラスト・デザインは原則ベクターデータで
テキストのみラスタライズ埋め込みとなります。
https://booth.pm/ja/items/1021863
▲いよいよ本格配備が開始されました。
航空自衛隊の戦術輸送機
C-2「ブルーホエール」(青いクジラさん)です。
大きいのに見た目もかわいいです。
航空自衛隊の中でも一番好きな飛行機です。
以前、府中の基地祭ではじめて目撃しました。
C-2は機体が大きくて小さな飛行場には着陸できないので
「今から上空を飛びます」とのアナウンスがあり、巨大なクジラさんが
上空をゆうゆう通過したのを憶えています。
▲前身となる戦術輸送機「C-1」
前身となるのはC-1という中型の輸送機です。ところがこのC-1は
貨物室内の一部を利用して増槽タンクを装備しないと、入間から
硫黄島さえ辿り着かないという足の短い飛行機になってしまいました。
なぜなら、C-1計画当初の国会の討論で、
「航続距離の長い輸送機の導入は覇権主義の再来ではないか」
と野党から批判された事案が影響したとされており、
ベトナム反戦運動や70年安保闘争、沖縄返還闘争によって
革新勢力と鋭く対立した佐藤栄作内閣下において、
社会党などの批判をかわすため、意図的にC-X(のちC-1)の
航続距離を短縮するよう
計画された、というたいそうもったいない経緯がありました。
C-1も航続距離と物資搭載量は少ないものの、戦術輸送機ですので、
敵の対空砲火をかいくぐる戦闘機のような機動で
最前線の戦地へ緊急物資を送り届ける性能を持っています。
そうした経緯がありましたので、
C-2の配備が開始されたことは誠に安心であります。
▲C-1とC-2の大きさを比較すると
こんな感じです。
荷物がたくさん載るようになって、航続距離と速度も向上しました。
今後の活躍に期待しています。
(↑こちらのイラスト素材は空のカケラデジタルストアで頒布中であります)
追伸
ブルーホエールはシロナガスクジラの意だそうですが、
公式サイトでは親しみを込めて青いクジラさんと紹介されています。
帝国陸軍飛行戦隊マーク(尾翼マーク)総覧の頒布手続きが完了しました。
こちらのサイトから入手可能です。
ダウンロード版
空のカケラデジタルストア
PNG型式とベクター(ai)型式の両方セットで様々な用途に利用できます。
よろしくお願い致します。
昭和19年後半から終戦にかけて
宇都宮市の大谷・城山地区の採石場地下空間は、
世界でも例を見ない広大な地下飛行機工場として稼働していた。
この地下工場で製造されていたのは大東亜戦争後半に登場した
四式戦闘機「疾風」である。(▲写真は地下工場で製造された疾風の胴体)
◆四式戦闘機「疾風」とは
「疾風」は中島飛行機が開発・生産を行った
重戦闘機で、「隼」や「ゼロ戦」の倍近くのパワーを発揮し、
速度、運動性、武装と防備、航続距離など いずれも優れ、
昭和19年4月の正式採用後、 陸軍は最も重要な
航空機として位置付け、大戦における運命を託した。
こうして 日本国民の総力を注いで送り出された
「疾風」は終戦迄の短い期間におよそ3,500機が生産され
(紫電改は約400機)大陸戦線、ビルマ戦線、フィリピン戦線、
および本土防空戦において活躍。
戦局の悪化に伴う部品の品質低下により、充分な性能が
発揮できず、苦戦を強いられたが、敢闘し、多くの敵戦闘機やB-29を
撃墜、あるいは 特攻機として出撃、 御楯となり 南溟に散った。
戦後、「疾風」を接収した米軍は品質の良い高オクタン価の燃料と、
プラグ交換等の整備を施しテスト飛行させたところ、
高度6,096mにおいて687km/hを記録。
P-51Dを上回るスピードだったため、
日本戦闘機の最高傑作と評価した。
◆大谷地下工場概要
「疾風」の製造は
中島飛行機太田製作所と中島飛行機宇都宮製作所
(現・宇都宮市陽南のスバル工場)で行われていた。
太田製作所では多くの機種が生産ライン上にあったが
宇都宮製作所は「疾風」を専門に製造するための
工場として稼働していた。
▲中島飛行機宇都宮製作所に並ぶ四式戦「疾風」
(現・宇都宮市陽南のスバル工場)
昭和19年後半に入ると、宇都宮製作所も空襲の
リスクが高まった為工場疎開が決定。疎開先に選ばれたのが
大谷・城山地区の採石場地下空間であった。
大谷地区の地下空間は
総床面積7,387平方メートルの地下建物が五棟、
これに加え、宿舎や食堂などその他設備の総床面積
103,968平方メートルの分散した
七棟の建物群から構成されていた。
地下空間に続く縦坑は上空から秘匿するため、覆いが設けられ
連絡用の斜坑が、海軍の設営隊によって新たに掘削された。
地下工場は最も浅い場所でも地下55メートルにあって、爆撃から
守られていたが、その存在が終戦まで知られることなく、爆撃目標に
なることは無かった。また、崩落事故も一度も無かった。
昭和20年3月頃より、宇都宮製作所の「疾風」機体組立生産ラインの全部と
武蔵野製作所のエンジン生産ラインの一部疎開が開始され
大谷では6月に最初のエンジンが製造された。
◆城山地下工場概要
城山地下工場は前述の大谷工場と連携して稼働した。
城山工場は19区画、総床面積197,508平方メートルの
計画のうち8区画101,232平方メートルが完成した。
この区画に宇都宮製作所の「疾風」生産ライン全てを移す
計画であったがスペース不足により
一部は宇都宮製作所に残されていた。
最大の作業空間は御止山工場と呼ばれる
31,768平方メートルの区画で
板金部品の製造が行われた。
◆宇都宮大空襲による影響
7月13日の未明、宇都宮上空にB-29の梯団133機が姿を現した。
このときの爆撃目標は中央小学校で、市街地の無差別爆撃を行った。
当初、最も狙われると予想された陽南の中島飛行機宇都宮製作所への爆撃は無く
ほとんど無傷の状態で稼働が継続された。
ただし、人的被害による影響で工員の出動率は低下した。
なお、航空機塗料の「黄緑第七号」であるが、塗装のノリが非常に悪かった。
戦後、残っていた塗料で犬小屋を塗ったという証言があるが、
一日立たず、剥がれてしまったという。
よって、宇都宮で製造された「疾風」は塗装を省略した全てジュラルミン剥き出しの
銀色をしていた。
◆地下工場の総員と勤務体制
地下工場を支える工員の総員は8月に最も多く、
軍人、常勤、学生等、合わせて5,702名が在籍し、
軍人と常勤者は一日10時間勤務の二交代制、
学生は一日10時間勤務で就労した。
▲地下工場で製造された疾風の主翼
◆大谷・城山工場で完成した疾風
元工員の証言によれば大谷・城山工場で
「終戦までに疾風は2機が完成した」とされているが
2機分のユニットが大谷・城山から宇都宮製作所へ
陸送され、最終組み立てを
実施したと考えるのが妥当であろう。
◆秘密飛行場計画
地下工場からロールアウト(完成)した「疾風」を直接発進させる計画が存在した。
この秘密飛行場計画は、現・国本西小学校を北端にして
国道293号線沿いを南側に向かって離陸専用の滑走路を敷設。離陸した「疾風」は一旦
清原飛行場に着陸し最終艤装を行ったのち前線へ送られる。この計画は、
滑走路要地に杭打ちを行ったところで終戦となったが、
将来的には、決戦に備えて、地下工場と飛行場を合わせた大規模な
秘密航空基地として運用されたであろうと想像できる。
出典
米国戦略爆撃調査団報告書(太平洋戦争)第15巻 経済分野の調査、航空機部門
「日本の航空機工業」(第15巻)
第1部 中島飛行機会社の地下工場
US. National Archives and Records Administration