2019年5月 6日 (月)

「助けて」と言えなかった

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5日間、寝ずに仕事してました。
(正確には不眠症こじらせて眠れないので仕事をする)
すると、まず、言語中枢に障害。言葉が出てくなくて、
頭の中が壊れ始めて、心臓が止まりそうになって、
親しい人の顔も思い出せなくなって、簡単な計算もできなくなって
はじめて気が付いたんです。
 
いままで、無理しても、ずっとなんとかなってきました。
だから「もうダメだ」と思ったときには手遅れなんですね。
 
ご迷惑をかけたくない、変なプライド、相手に悪い気がする、
「助けて」というのが恥ずかしい。そんなつもりでいました。
でも、今回、手遅れという言葉がをリアルに実感を増して、
気付いたら死神がそこまで迎えに来ている。死はこんなにあっけなく
やってくるものか。
やっと恥ずかしさを捨てて助けを求める術に至ったのでした。
 
今回、助けてくれた人、本当にありがとうございました。

2019年4月30日 (火)

雷電(青木中尉機)

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雷電青木中尉機完成しました。
 


YouTube: 勇者の雷鳴 The Hero's thunder

2019年4月27日 (土)

4月29日、永井敬司さん聴講会

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4月29日は東京・浅草でペリリュー島生還者最後のおひとり、
永井敬司さん聴講会です。
(笹幸恵さん主催の近現代史研究会です)
  
※お写真右側が永井さん。
左は去年亡くなった土田さんです。
 
高齢なので、当日キャンセルとなる
場合がございますが、ひとまず開催決定です。
http://www.panda1945.net/
 
茨城から東京まで1時間半の
運転手を仰せつかったわたくし。
永井さんは何度かお会いし、インタビューもしてますが
サムライの中のサムライという方なので
とても緊張します。

帝国海軍航空母艦クリアファイル

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帝国海軍航空母艦総覧クリアファイル完成しました。
5月12日のCOMITIA128で頒布します。300円です。
当方スペースは「あ08a」です。

今年の夏は

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夏コミで陸海軍機総覧を出します。
もうサークルカットに書いてしまったので
男として、後に引けないのであります。
全ての派生型と型式を網羅。
 
たとえば雷電二一型は書いてますが、
三二型は書いてません。そんな感じでちょこちょこと
マイナーチェンジした機体を全部描いて、コンプリート本を。
 
どれくらいの時間で描けるのか、そして
スケジュールの合間を埋めて行く。
 
とりあえずカレンダーの裏紙にコンプリートプランを書いてみる。
「風たちぬ」に出てきたでっかい九二重爆。この子も側面図と小型機と
比較のためのスケッチを描きます。これは昔の所沢飛行場のジオラマです。
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2019年4月26日 (金)

僕には宝物がふたつある(1)

僕には宝物がふたつある。
 
そのうち、ひとつの話をしようと思う。
僕が小学生の頃、幕張メッセで「アメリカ博」
という大きな催し物が開催され、両親に連れて行ってもらった。
 
僕がそこで一番見たかったのは、アポロ11号の司令船だ。
アポロ11号は人類ではじめて月に行った宇宙船だ。
当時の僕は、宇宙に対する興味や憧れがとても大きかった。 
もちろんいまでもそうだ。 
 
展示会場の真ん中にアポロ司令船は置かれていた。
円錐形の司令船は、大気圏突入の摩擦熱で
真っ黒になって、それに付随した鮮やかな三つの
パラシュートがとてもとても印象的だったことを
憶えている。
 
会場の一角にはお土産売り場があった。
そこで、僕はどうしても欲しくなってしまったものがあった。
 
本物の宇宙ロケットの破片である。僅か数センチの正方形に切り取られ
アクリルに封入された金属片のオブジェには英文でこう書かれている。
 
「アトラスAC-67号機。1987年3月26日打ち上げ。
打ち上げから54秒後に閃光と共に砕け散る」
 
当時は英文読めなかったのだけれど(打ち上げ失敗しているとは
知らず、だけど、この金属片が遥かなる宇宙を目指したことに
変わりはない。)ただ、ただ、宇宙ロケットのパーツが手に
入るなんて夢のようで、目をキラキラさせてどうしても欲しくなった。
金属片には焦げ目がついていて、打ち上げの火力が想像できる。
普段、滅多に物をねだらない僕だったけど
母に欲しいと言った。値段はたしか6000円だったと思った。
 
考えようによっては、というか、大方ただの鉄屑である。
母もそう思っていたらしく、むなしくも却下された。
 
しょんぼり帰ろうとしていたとき、父が言った。
「僕の来月の小遣いがあるから、それで買ってやってよ」
 
当時の父の6000円の小遣いは大金のはずである。
父は、後にも先にもこの件で恩着せがましいことを口にすることはなかった。
 
僕はとても喜んで、包みを大切に持って帰って、家の棚の
一番目立つところに飾って、宇宙への想いを馳せた。
 
あれから30年。父に買ってもらった
宇宙ロケットの破片は、変わらず、僕のアトリエの
一番目立つところに飾ってある。最初も今も、宝物には
変わりないが、当初は物としての価値であった。最近は、
そのときの父とのエピソードが形となり残る、大切な物である。
 
わが屋号
アトリエ「空のカケラ」の由来である。

僕には宝物がふたつある(2)

僕には宝物がふたつある。
 
そのうち、もうひとつの話。
 
それは名前。
 
「直人」という名前は父がつけた。
 
僕はこの名前がとても気に入っていて
父にはとても感謝している。
 
ぼくはこの名前に今まで何度も何度も助けられてきた。
 
道に外れそうになったとき、挫折しそうになったとき、いじめられて
泣きそうになったとき、悪いことに誘われそうになったとき、
その都度、名前に恥ずかしくない生き方を選ぼうと
思いを改めることができた。
 
お天道様が見てるからね。真っ直な人でありたい。
そう、いたってシンプルにとらえている。
 
僕はそうやって、小さいころから名前に助けられて、
これからも助けてもらって生きて行くんだ。
  
「直人くんて名前通りの人だね。直人くんの彼女になれて幸せ」
彼女がそんなことを言って勇気づけてくれたのは
亡くなる、数か月前のことだった。
 
だから、名に恥じるようなことはできない。
僕はこの宝物を最後まで携えていくんだ。

空のカケラ

彼女は、24歳になっても理系大学に残り、
基礎研究を続け、世の中に貢献したいと言っていた。
  
「博士課程を卒業したら、直人くんと結婚するー。」
 
その頃、僕はクロネコヤマトで働いていた。
在学中でもいい、結婚したら、この子を応援すると決めた。
やりたいことをやらせたかった。彼女が好きな事をして、
その話を楽しそうに聞かせてくれる。その顔を眺めているだけで、
僕は幸せだった。
 
だけど、何の前触れもなく、突然、この世から消えてしまった彼女。
あれから、今日に至るまで、悲しくても涙も出ないようになった。
 
棺に納めるものは何もなかった。彼女は東日本大震災の折、
少しでもお金になるようなものはネットオークションで処分し
お気に入りの綺麗な服も全部、売ってしまった。
だから、棺に入れたとき、彼女に着せてやれるのは部屋着の
ようなものしかなかった。
 
見事な最期であった。
 
と、ここまで書いて、実は僕は彼女の最期に立ち会えていない。
これはお母様から聞いた話。
 
事故での急逝だったから、慌ただしく、誰にも連絡せず、
彼女は骨になってしまったから。
 
お葬式が終わって、彼女のバックから出てきたのが
小さなメモ書き。書いてあったのは、父、母、弟、祖父、祖母の連絡先。
そして、メモ書きの一番下に一人だけ身内でない姓の違う人の名があった。
それが僕だった。東日本大震災の折から万が一のことを考えて
ずっと持っていたようだった。
 
火葬して、骨を拾うのは、変わり果てた故人の姿を
目の当たりにして、「諦めてもらう」儀式なのだと、あるご住職から聞いた。
 


でも、僕にはその過程が無い。
 
錯覚なのだろうが、
いまも150cmくらいの、背格好の似た人を人混みで見かけると
空しくも淡い期待を抑えきれずにいる。
 
雨の降る日が好きだった。
雨は車でお迎えの日。大学のゲートの前で
こっちにやってくる人混みの中から小柄な彼女を見つけるのが好きだった。
 
亡くなってしばらく経ってから、お母様と、
「あの子は空や飛行機、戦闘機が好きでしたねー。今頃大好きな
大空で私達を見守ってくれてるのかな」という話題になる。
 
そうだ、彼女はもういないけれど、もう一度、僕一人で、飛行機をやろう。
それで「アトリエ空のカケラ」を作った。

2019年4月23日 (火)

突撃成功せず

昭和17年10月24日の夜、
 
重火器の到着を待たずして総攻撃が開始された。
第一線の第二中隊が月明下の草原を突撃する。
その後を追うように第九中隊が突進する。

 
敵の機関銃が一斉に火を噴き、流れ来る弾丸は曳光の火の
奔流となって突進するわが将兵を薙ぎ倒す。
突っ込んだ将兵は鉄条網の突撃路に届く前に銃弾に倒れ伏す。
 
・・・突撃成功せず
 
この総攻撃に参加した斉藤満寿さんの回想録をみてみよう。
 
総攻撃、夜襲の前、夕闇迫る頃物凄い豪雨があった。
胃袋まで濡れるような雨の中、少しばかり残した乾パンを立ったまま
口にして前進する。すでに暗闇の中を前へ前へと進む。
 
目の前の戦友の姿もさだかでない。
途中兵団長に会った。汚れたタオルで鉢巻した閣下が、
軍旗は前へ出るものではない、との言葉を耳にしたが
誰よりも一番先に敵陣地に突っ込むと口にしていた連隊旗手、
犬塚少尉の耳には入らなかった。
 
突然、迫撃砲の集中を受ける。
連隊旗手犬塚少尉、旗護兵の馬場兵長戦死、大賀上等兵負傷、
井関上等兵と私、斉藤上等兵は幸い無傷だった。
 
敵の砲撃がやんだとき一度、身を起した犬塚少尉が大きな声で
「天皇陛下万歳」と叫んだ。再び万歳を叫んだが、あとは一言も
無く絶命された。
 
・・・・・「天皇陛下万歳」と絶叫されたあの声が、
今でも私の耳の底に残っている。


「天皇陛下万歳」など叫んで死んだ戦友はいない
「おかあちゃん」と絶叫したものだと戦後から現在でもよく口に
されているけれど私は「おかあちゃん」と叫んで死んだ戦友は
ひとりとして知らない。
 
数多くの戦友の死に直面したが「天皇陛下万歳」と叫んだ戦友は
幾人か居るけれど。
 
幾度か、ジャーナリスト取材の座談会にも出席したが
「天皇陛下万歳」を否定する発言者の多いことが納得できない。
敗戦とは、このような大事なことを、真実を
語ってはいけないのだろうか。
 
第二十九連隊『五中隊戦史』(五中隊会印刷)21頁より
記述はガダルカナル島丸山道において。
第二十九連隊は左翼連隊(第二歩兵団長)
那須弓雄少将(26日戦死)の指揮下にあった。

伝家の宝刀

靖国神社。例大祭が無事終わり、
帰りにソフトアイスでも食べようと、M陸軍大尉とともに
参道脇の休憩所に腰を下ろす。
 
桜はすっかり散って、いまは萌木である。
心地良い風が時折通り抜ける。
 
M大尉は、大鳥居を仰ぎながら、
ひとつ、ふたつ、思い出したことを話し始める。
 
「僕が陸軍士官学校を出て、新品の少尉だった頃ね、
軍刀とか、拳銃とか、そういうのは、みんな自腹で
買わなきゃいけなかった。
その店が、この近くにあったんだけど・・・。」
 
「だから少尉なりたては貧乏だったね。歌の文句にもあるよね」
 
♪大佐中佐少佐は老いぼれで、
といって大尉にや妻があり
若い少尉さんにや金がない
女泣かせの中尉どの
 
「で、そこの店でボクも軍刀を買ったんだけど、質が悪くてね、
その頃には上等な刀なんてなかった。2,3人斬ったらおしまいだ。
・・・僕も白兵戦では斬ったんだけどね・・・。
だからね、あれはほとんど将校さんの飾りだね。」
 
「家がいいとこの奴は、出征するとき、伝家の宝刀持ってくるんだ。
軍刀はみんな私物だったね」
 
「戦争でいい刀が随分失われたんじゃないかな」
 
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これとはまた、別の話であるが、
T陸軍大尉、少尉に任官したてで白兵戦となった。
部下は歴戦の猛者である。
 
夜間の切り込みである。
いよいよ、というとき、少尉の銃剣が月の光を
帯びて光った。
 
「いけません!少尉殿!銃剣を着けては敵に居場所が知れます!」
 
そう言うと部下はニッコリ笑って
 
「少尉殿は初陣で緊張されている。ここは自分たちが行きます!」
 
そういって、闇へ消えて行ったのである。
T大尉は終戦まで、命を繋いだが、白兵戦の数は13回を数えた。
勿論その頃には、最前線で部下を率いていた。 
 
最近、飛行機ばかり書いているが、
歩兵の方から聞いた話も話もたくさんあるので、
できる限り、残していきたい。