2019年5月13日 (月)

九二式重爆撃機

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映画『風立ちぬ』にも登場する巨人機。
 
原型はドイツ・ユンカース社が開発し昭和4年に初飛行した
「ユンカースG.38」という旅客機である。
四発エンジン、全幅は44メートルで
当時としては陸上機最大。前方に展望席を設けた構造。
 
陸軍はこれを爆撃機として転用すべく
ユンカース社よりライセンス権を購入。
三菱重工が生産を行った。キ番号は20。
(ドイツ軍もこれにさきがけ爆撃機に転用し、名称を
ユンカースK.51としている。)
 
昭和6年に各務原で初号機が完成したが
最高速度が200キロと鈍重で時代遅れとなっていたことから、
実戦には投入されず わずか6機で生産は打ち切りとなった。
 
しかし、九二式重爆が残した功績は大きく、航空技術黎明期にあった
我が国、および三菱重工は、大型機および金属機のノウハウを蓄積する。
また、巨大な機体は見るものを圧倒することもあり、宣伝目的で
1機は所沢の航空記念館に終戦時まで保管されていた。

2019年5月12日 (日)

コミティア128ご来場ありがとうございました!

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コミティア128にご来場くださいました皆様、
ありがとうございました!
 
※佐藤ヤスがイベント前日に完徹して描き上げた色紙です。

出荷作業遅れてすみません

Amazon空のカケラ店の
出荷作業が追い付かない状況であります。
 
ありがとうございます。買ってくださって
本当にありがとうございます!
 
でも、遅くなってすみません。本当にすみません!!!!
自社出荷ぶんに関してはひとつひとつ、切手貼って、
梱包して発送しているのですが
アシスタントさん休みの時などは、
ぜんぶ一人でやっているので、
(2日以内に出荷しないとAmazonから
ペナルティくらってしまう(T_T)
 
ほかにも
JANコード発行、エクセルでの在庫管理等々、
  
この事業を切り離して、描く(書く)のに専念したいので
譲りたいのですが、ある程度、仲の知れた人でないとと思うと
非常に難しいです。最近は全然絵の描くスピードが遅くなって
メールの返信したり、電卓弾いてばかりになってしまいました。
   
脱サラとはいかなくても、副業くらいから
できる人がいればいいのですが。
  
いい人が見つからなければサッパリやめてもいいかな!
こんなこと書いてしまって申し訳ないですが
小売りをやめてしまって、今後は
地方の限定商品だけで卸売だけやっていければ
私の目指す地方創生的な考えで、すごく理想的です。
 
このままだと体力的にもう限界を迎えるのは予想つくので
ご心配おかけしないよう、倒れる前に、小売業(お店)はやめます!
倒れる前に、というのが骨身にしみて学習したところです!

青い狂気と

コミティア準備中、ブルースクリーンが二回。
あと半年間、持ってくれたらと思ったが
よく頑張ってくれたマイコンピューター。
 
50万で新しいのを買う。
それは明日届く。
今月は設備投資だけで80万円、
人件費含めると100万オーバー。
頑張って働く。自営業に休業保証はない。
 
みんな一所懸命に頑張っている!
桜井とヤスさんからは物凄い速度で原稿が上がってくる。
毎日、やり切った感があるので、気持ちは清々しい。 

今日は皆さまと東京ビッグサイト
青海展示場でお目にかかれることを楽しみにしています。
 
さっき棚卸がおわって、
もうすぐ全ての準備が終わります。
あとは車に詰め込んだら出発であります。

2019年5月11日 (土)

COMITIA128 TOKYO

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よろしくお願いします!
佐藤ヤスと篠原直人、合同スペースです!

戦争の絵を描いた

この記事のひとつ前の、彗星艦爆のイラストが
物凄い人気になってしまった。戦争のもっともはげしい場面を、
実際のパイロットから聞いたお話しをもとに
描いたイラストだった。恐ろしい絵である。
  
リリエンタールの初飛行から135年、
この100年という時代のスパンで考えるに
飛行機は時代の主役にさせられてしまった。
飛行機に罪はない。そこに戦争があっただけだ。
あらゆる事件、戦争の中心には飛行機の存在があった。
 
もちろん国の為に散って行った英霊の顕彰は
当然である。だから、こういった激しい絵も描かねばならない。
 
しかし、飛行機そのものは美しい。飛行機はかっこいい。
それが軍用機であってもだ。全てはスピードや剛性を
追及するための機能美である。そこにイデオロギーはない。
だからぼくは飛行機を描き続ける。
 
銃後では涙を流した女性が多くいたことだろう。
そのような過去は記憶しつつ、これからの新しい時代、
もう彼女たちに涙を流させてはいけない。
僕達が考える、新しい飛行機は、きっと、平和な空を飛ぶ。
そのための、布石を打とうではないか。

2019年5月10日 (金)

彗星艦爆

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彗星の挿絵ができました。
 
「針路そのまま、ヨーーーーーイ、テッ!!!!」
 

江草少佐機と蒼龍

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九九艦爆江草少佐機と母艦「蒼龍」です。
いずれもCOMITIAで頒布予定です。

我に追い付く敵機なし~彩雲偵察機

我に追い付く敵機なし~彩雲偵察機

我に追い付く敵機なし
  
彩雲の挿絵ができました。彩雲の戦記を書いています。
   
昭和19年8月、硫黄島からサイパンに挺身偵察に飛んだ
広瀬正吾飛曹長は高度8000メートルでP-38の
追撃を受けた。双発でターボチャージャーを備えた
米空軍の最高速を誇るP-38ライトニング彩雲・広瀬機の後方300メートルまで
迫ったとき、広瀬機はブースト(スーパーチャージャー)をいっぱいに
吹かして増速。引き離されたP-38が雲間に消えたとき、彩雲・広瀬機は友軍基地へ
次の如く打電した。
 
「我に追い付く敵機なし」
 
出典
秦郁彦著・『太平洋戦争航空史話下巻』
 
その後、挺身偵察で名を馳せた121空(雉部隊)に彩雲が
実戦配備されると、飛行隊長の千早猛彦少佐、
第一分隊長、長嶺公元大尉
をはじめとした搭乗員はメジェロ・ウルシー等の単機挺身偵察を敢行。
この電文の発信者には諸説あるが、彩雲の韋駄天ぶりを
証明する著名なエピソードである。
 
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さて、高速の彩雲、すなわち誉エンジンが
その実力を発揮した経緯を技術面からも記載したい。
 
出典
前間孝則著・『悲劇の発動機「誉」』301頁より
(私が指折りに数える名著です。
技術者もそうでないひともぜひ読んでほしい)
 
小型軽量にして2000馬力を発生する「誉エンジン」
東京帝大航空学科原動機専修で、中島飛行機に入社した
中村良夫博士(のち陸軍技術中尉)は米国から入手した
「ライトR-3350サイクロン18(B-29搭載エンジン)」
について次のように述べている。
 
「エンジン全体の技術がきわめて常識的で無理をしていない。(中略
外径をコンパクトに小さくまとめてあった。その分しわよせが
ベアリングにきて軸の径が小さくなるので、日本のようなケルメット軸受
では面圧がもたない。だからアメリカ本土から大西洋を越えて
インドまで飛んで、成都経由で日本まで飛んでこれたわけです」
 
中略
 
「我々の誉は、依然として未だ試作の域であって実用化に達していない
こういうエンジンはアメリカでできても日本ではできない」
 
以下、篠原。
 
名機と云われる誉エンジンは
ひとつひとつ、職人が仕上げたものであれば
最高のポテンシャルを発揮した。
誉を積んだのは紫電改、疾風、流星、銀河、烈風、
そして「彩雲」である。
 
しかし、量産となれば、それは違う。
わが国では量産が不可能であった。その肝は特にベアリングにある。
量産品でなく、職人が作った初期ロッド生産の誉エンジンであれば
最高の馬力を発生し、米軍機よりも速く飛んだ。
 
B-29が関東地方へ飛来し、最も最初に
焼き払ったのが武蔵野製作所
ベアリング工場だった。
 
※英訳は適切でしょうか。もしよろしければ、どなたか教えてください。

平成のおわりに1

平成が終わる。大きなことを言うようだけど
僕がこの平成という時代に、何かひとつ
残せたことが、あるとするならば
恐れ多くも天皇陛下の有名な一枚の報道写真である。
その一枚の写真に至る、僕のシーケンスがある。
 
だから、どうしても、平成の終わりに
これを書きたい。少し前置きが長くなる。
 
17歳ではじめて、カナダへ行った。
一人旅だった。そこではじめて大陸のスケールの大きさに
感動した。同時にカナダは戦前の日系移民が多く、
先人たちの築いたものが目に見えるものとしては
廃墟という形なり、多く残されていた。衝撃的だった。 
 
23歳になって、今度は単なる滞在でなくて、
自転車でアメリカ大陸を横断してみたくなった。
 
バンクーバーからロッキー山脈を越え、
レイクルイーズ国立公園に入ると、300km、
人工物のない補給の無い地帯が続く。
自転車は時速15キロで進んでも休憩なしで
20時間かかる、果てしない地平線。
板チョコレートと水を買い込んで、進むしかない。
街の明かりが見えたときは、安心した。
 
カルガリー(州都)ブルックス、ガルレーク、
ムースジョー、ブロードビュー、ブランドン、
ウィニペグ(州都)サンダーベイ、ホワイトリバー、
スーセントマリー、バリーサウス、
 
観光地から遠く離れた北米大陸の真ん中。
たったひとり、日本人ということで
悔しい思いもしたことも、勇気をもらったことも、
とにかく、書き切れない出来事があって、
日本人として、恥ずかしくないように、どのように
振舞うべきかと考え続けた。
 
町の名前は覚えていないけど、 カナダ側
国境沿いの湖畔の小さな町だった。
 
偶然、会った現地女性と話をすると、
日本人が珍しいらしい。しかし、大陸奥地では
そんなのはふつうである。
 
しかし、そこで話が終わらなかったのは、
  
「私のグランドファザーが日本がカントリーなのよ!
今から呼んでくるからちょっと待ってて!」
 
喜んで会わせてくれたのは、もう歳は90近い、
日系一世のおじいさんだった。
この出会いが人生を変えたというか、
どうにも忘れられない。
 
おじいさんが、ここへ移民したのは戦前らしい。
以来、日本には一度も帰っていない。 
おじいさんは忘れかけた日本語で、ニコニコして
 
「あなたは日本人かね。ずいぶん背が高いな」
 
とポツリと言った。印象的だった。僕は日本人だけど
平均的身長である。
 
でも、おじいさんはとにかく、懐かしそうで、
 
「今、日本はどうなっているのか」
 
たくさんの質問を受けた。
おじいさんと別れ、 
 
トロントから
アメリカ国境を越え、ニューヨークへ到着して
長い旅が終わった。
  
つづく