2019年5月12日 (日)

青い狂気と

コミティア準備中、ブルースクリーンが二回。
あと半年間、持ってくれたらと思ったが
よく頑張ってくれたマイコンピューター。
 
50万で新しいのを買う。
それは明日届く。
今月は設備投資だけで80万円、
人件費含めると100万オーバー。
頑張って働く。自営業に休業保証はない。
 
みんな一所懸命に頑張っている!
桜井とヤスさんからは物凄い速度で原稿が上がってくる。
毎日、やり切った感があるので、気持ちは清々しい。 

今日は皆さまと東京ビッグサイト
青海展示場でお目にかかれることを楽しみにしています。
 
さっき棚卸がおわって、
もうすぐ全ての準備が終わります。
あとは車に詰め込んだら出発であります。

2019年5月11日 (土)

COMITIA128 TOKYO

1

よろしくお願いします!
佐藤ヤスと篠原直人、合同スペースです!

戦争の絵を描いた

この記事のひとつ前の、彗星艦爆のイラストが
物凄い人気になってしまった。戦争のもっともはげしい場面を、
実際のパイロットから聞いたお話しをもとに
描いたイラストだった。恐ろしい絵である。
  
リリエンタールの初飛行から135年、
この100年という時代のスパンで考えるに
飛行機は時代の主役にさせられてしまった。
飛行機に罪はない。そこに戦争があっただけだ。
あらゆる事件、戦争の中心には飛行機の存在があった。
 
もちろん国の為に散って行った英霊の顕彰は
当然である。だから、こういった激しい絵も描かねばならない。
 
しかし、飛行機そのものは美しい。飛行機はかっこいい。
それが軍用機であってもだ。全てはスピードや剛性を
追及するための機能美である。そこにイデオロギーはない。
だからぼくは飛行機を描き続ける。
 
銃後では涙を流した女性が多くいたことだろう。
そのような過去は記憶しつつ、これからの新しい時代、
もう彼女たちに涙を流させてはいけない。
僕達が考える、新しい飛行機は、きっと、平和な空を飛ぶ。
そのための、布石を打とうではないか。

2019年5月10日 (金)

彗星艦爆

Photo


彗星の挿絵ができました。
 
「針路そのまま、ヨーーーーーイ、テッ!!!!」
 

江草少佐機と蒼龍

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九九艦爆江草少佐機と母艦「蒼龍」です。
いずれもCOMITIAで頒布予定です。

我に追い付く敵機なし~彩雲偵察機

我に追い付く敵機なし~彩雲偵察機

我に追い付く敵機なし
  
彩雲の挿絵ができました。彩雲の戦記を書いています。
   
昭和19年8月、硫黄島からサイパンに挺身偵察に飛んだ
広瀬正吾飛曹長は高度8000メートルでP-38の
追撃を受けた。双発でターボチャージャーを備えた
米空軍の最高速を誇るP-38ライトニング彩雲・広瀬機の後方300メートルまで
迫ったとき、広瀬機はブースト(スーパーチャージャー)をいっぱいに
吹かして増速。引き離されたP-38が雲間に消えたとき、彩雲・広瀬機は友軍基地へ
次の如く打電した。
 
「我に追い付く敵機なし」
 
出典
秦郁彦著・『太平洋戦争航空史話下巻』
 
その後、挺身偵察で名を馳せた121空(雉部隊)に彩雲が
実戦配備されると、飛行隊長の千早猛彦少佐、
第一分隊長、長嶺公元大尉
をはじめとした搭乗員はメジェロ・ウルシー等の単機挺身偵察を敢行。
この電文の発信者には諸説あるが、彩雲の韋駄天ぶりを
証明する著名なエピソードである。
 
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さて、高速の彩雲、すなわち誉エンジンが
その実力を発揮した経緯を技術面からも記載したい。
 
出典
前間孝則著・『悲劇の発動機「誉」』301頁より
(私が指折りに数える名著です。
技術者もそうでないひともぜひ読んでほしい)
 
小型軽量にして2000馬力を発生する「誉エンジン」
東京帝大航空学科原動機専修で、中島飛行機に入社した
中村良夫博士(のち陸軍技術中尉)は米国から入手した
「ライトR-3350サイクロン18(B-29搭載エンジン)」
について次のように述べている。
 
「エンジン全体の技術がきわめて常識的で無理をしていない。(中略
外径をコンパクトに小さくまとめてあった。その分しわよせが
ベアリングにきて軸の径が小さくなるので、日本のようなケルメット軸受
では面圧がもたない。だからアメリカ本土から大西洋を越えて
インドまで飛んで、成都経由で日本まで飛んでこれたわけです」
 
中略
 
「我々の誉は、依然として未だ試作の域であって実用化に達していない
こういうエンジンはアメリカでできても日本ではできない」
 
以下、篠原。
 
名機と云われる誉エンジンは
ひとつひとつ、職人が仕上げたものであれば
最高のポテンシャルを発揮した。
誉を積んだのは紫電改、疾風、流星、銀河、烈風、
そして「彩雲」である。
 
しかし、量産となれば、それは違う。
わが国では量産が不可能であった。その肝は特にベアリングにある。
量産品でなく、職人が作った初期ロッド生産の誉エンジンであれば
最高の馬力を発生し、米軍機よりも速く飛んだ。
 
B-29が関東地方へ飛来し、最も最初に
焼き払ったのが武蔵野製作所
ベアリング工場だった。
 
※英訳は適切でしょうか。もしよろしければ、どなたか教えてください。

平成のおわりに1

平成が終わる。大きなことを言うようだけど
僕がこの平成という時代に、何かひとつ
残せたことが、あるとするならば
恐れ多くも天皇陛下の有名な一枚の報道写真である。
その一枚の写真に至る、僕のシーケンスがある。
 
だから、どうしても、平成の終わりに
これを書きたい。少し前置きが長くなる。
 
17歳ではじめて、カナダへ行った。
一人旅だった。そこではじめて大陸のスケールの大きさに
感動した。同時にカナダは戦前の日系移民が多く、
先人たちの築いたものが目に見えるものとしては
廃墟という形なり、多く残されていた。衝撃的だった。 
 
23歳になって、今度は単なる滞在でなくて、
自転車でアメリカ大陸を横断してみたくなった。
 
バンクーバーからロッキー山脈を越え、
レイクルイーズ国立公園に入ると、300km、
人工物のない補給の無い地帯が続く。
自転車は時速15キロで進んでも休憩なしで
20時間かかる、果てしない地平線。
板チョコレートと水を買い込んで、進むしかない。
街の明かりが見えたときは、安心した。
 
カルガリー(州都)ブルックス、ガルレーク、
ムースジョー、ブロードビュー、ブランドン、
ウィニペグ(州都)サンダーベイ、ホワイトリバー、
スーセントマリー、バリーサウス、
 
観光地から遠く離れた北米大陸の真ん中。
たったひとり、日本人ということで
悔しい思いもしたことも、勇気をもらったことも、
とにかく、書き切れない出来事があって、
日本人として、恥ずかしくないように、どのように
振舞うべきかと考え続けた。
 
町の名前は覚えていないけど、 カナダ側
国境沿いの湖畔の小さな町だった。
 
偶然、会った現地女性と話をすると、
日本人が珍しいらしい。しかし、大陸奥地では
そんなのはふつうである。
 
しかし、そこで話が終わらなかったのは、
  
「私のグランドファザーが日本がカントリーなのよ!
今から呼んでくるからちょっと待ってて!」
 
喜んで会わせてくれたのは、もう歳は90近い、
日系一世のおじいさんだった。
この出会いが人生を変えたというか、
どうにも忘れられない。
 
おじいさんが、ここへ移民したのは戦前らしい。
以来、日本には一度も帰っていない。 
おじいさんは忘れかけた日本語で、ニコニコして
 
「あなたは日本人かね。ずいぶん背が高いな」
 
とポツリと言った。印象的だった。僕は日本人だけど
平均的身長である。
 
でも、おじいさんはとにかく、懐かしそうで、
 
「今、日本はどうなっているのか」
 
たくさんの質問を受けた。
おじいさんと別れ、 
 
トロントから
アメリカ国境を越え、ニューヨークへ到着して
長い旅が終わった。
  
つづく

ミリオンフィルム

古の美しい街並みが残る、
栃木市へ写真愛好家のIくんと写真を撮りに行った。
 
Iくんはポートレート(人物写真)撮影の天才である。 
 
風景写真もそこそこに、
Iくんは古い玩具屋を見つけて、入って行く。
店主のおばちゃんに声をかけて、
写真を撮らせてほしいとお願いする。
おばちゃんはものすごく照れて、
 
「いやだわー。こんなオバチャン撮ってもしょううがないでしょ
若い女性撮ったらいいでしょ」
 
と、押し問答が続く。写真の
可否はともかくとして、かれがカメラを持って
街を歩くと、どんどん、人をドンドン笑顔にしてゆく。
 
懐かしい、ソフトグライダーが置いてある。
20円である。翼がオレンジ色のゼロ戦だ。
ぼくは、それを手に嬉々としていると、Iくんは
 
「篠原さん、それ買ってあげますよ、買ってあげますよ」
 
「いいって、いいってば」
 
またも押し問答が続く。
 
結局、かれはおばちゃんの最高の笑顔をファインダーに収め、
気付くと、ぼくも買ってもらったソフトグライダーを
組み立てていた。
 
公園にやってきて
手に持っているソフトグライダーをどうしても
飛ばしたくなる。力を込めて放り投げると
ソフトグライダーは予想しない方向へクルクル飛んでゆく。
 
ぼくは急いで追いかける
 
二度目は、少し力を抜いて投げることを覚える。
さっきより少しだけうまく飛んだ。そんなことを繰り返す家に
公園中を走り回っていた。

普段から、無愛想なはずのぼくを、 
すっかり子供に戻ってしまったぼくを
Iくんは、次々写真に収めていった。
全然、撮られても悪い気がしない。
いつの間にか時間を忘れて遊んでいた。
 
ふと、気を取り直して、グライダーを拾ったまま、
立ち止まり、
「こんな人がもっとたくさんいればいいのに」
と、かれのほうを向いた。
 
その瞬間、かれはシャッターを切った。

2019年5月 6日 (月)

本を出すまで死んでたまるか!

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戦争証言の莫大な情報を編纂して、12月に単行本で出します!
 
取材メモに目を通し、整理していきます。
本編はICレコーダーで録音しているので、それの頭出し用のメモの数々です。
 
死んでたまるか!この戦友の方々の想いを世に送り出すまでは
本にするまでは、私は死ねません!
 
幸運なことに、素晴らしいスタッフに恵まれています。
スタッフのサポートを受けながら、頑張っていきます!

田中三也さんよりお見舞いを賜る

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「彗星」搭乗員で数々の挺身偵察を敢行し
特攻隊にも一度は選ばれ343空で終戦を迎えた田中三也少尉。
 
その田中三也さんよりお見舞いのお花を頂戴しました。
涙が止まりません。