4月12日、あの時は鹿屋から出たんですよね。
そして一番機が杉田庄一、二番機が私で、三番機は宮沢豊美、
4番機は田村恒春。 田村は栃木なんですよ。彼とはだいぶ一緒に
飛んだし空戦もやったよ。 その田村が離陸してからエンジン不調か
なんかで引き返したので3機で編隊組んで飛んで行った。
そいでまあ、いちいち下の島見とる訳ないから
上ばっかり見とるから、そいで喜界島の上まで来たら
「菅野一番、敵機発見、敵機発見」
言うないなやビューーーーッと突っ込んで行ったんですよ。
一区隊が菅野大尉の4機、二区隊が杉田、私、宮沢。だから一区隊と二区隊
言うたら、すぐ端に居るからね、一区隊の一番機、菅野大尉の隊長機が
突っ込んでいったら すぐ見える訳ですよ。
「あれ、やったー」思って。ほいで、それを我々も一緒になって
ついていくわけですよね。
あのときは随分乱戦になってですね、でも301飛行隊は未帰還機は
無かったかな。 ほいで、菅野大尉が突っ込んでいった。
私もそれについていった。ほんなら下からF4U。
いわゆるヴォートシコルスキーやな。
そいつがビューーーーウっと上がってきよったわ。
それに菅野大尉がダダダーーーーっと撃って一撃で一機撃墜しよったんですよ。
「やった!」と思って それから乱戦になってですね、それで記憶はないんだけども
私はとにかく杉田兵曹から 「空戦の時は編隊離れたらいかん」て
やっかましく言われとったからね。
笠井智一さんのお話より。(篠原インタビュー)
彗星艦爆突入の絵。
ツイッターですごい人気だったのですけど。
あれを作画してから、どうにも
戦争の絵がダメになってしまって、涙が止まらんのです。
でも、続けます。苦しいのですけど、もっと凄い修羅場
(本来の意味ですね)を描かねばなりません。
戦争は絶対、嫌いです。けど描きます。
なんでいきなり特攻隊の話を書いたかというと、仕事しながら
画面は見れないんですけど、Huluで映画を音声だけひたすら流してるんですけど、
『俺は君のためにこそ死にに行く』という映画をはじめて観て
びっくりしたんです。すごくサムライの映画だなと思いまして。
なんで今までこれ知らなかったんだろうと。
新渡戸稲造『武士道』の中で
「日本人は欧米人から見たら感情の無い冷酷な民族とみられるのか」
と書いていますけれど、この映画を観て、
それを強烈に思い出したんですよ。
それから、
知覧に映画で使われた隼がありますよね。あの、
片翼に増槽、もう片翼に250キロ爆弾、
あれ見てるだけで、泣けてくるんですよ。
飛行機はいろいろありますけど、
私は、あの仕様がもう悲しくて悲しくて
しょうがないんです。
ただ、私は飛行機が好きなだけなんですけど
どうしても、戦争の主役になってしまうことが
悲しいのですけれど、書かずにはいられないのであります。
田中さんも飛行機乗りを志した理由が
「丸い虹が見たかった」という理由だったんですよね。
以前、ここでも書きましたけど
田中三也さんの
特攻隊を任命された前夜のお話。
(写真はトラックで、特攻でなく、ただし決死の作戦の前日に撮られた写真。
バレーボールで汗を流した後で、みんなニッコリしている。この中で生きて
終戦を迎えたのは、確か、2人か3人だったと思う。)
周りは宴会をして大賑わいで送り出そうとして
くれていた。田中さんは(大騒ぎは)「やめてくれ!」と
思った。一人静かに過ごしたかった。
しかし田中さんの思いとは逆に軍歌、軍歌で
盛り上がりは止まらない。
その中で、ひとりだけ、「ふるさと」を唄い始めた。
それが田中さんの心に今でも残っている。
「だから、今でも私は『ふるさと』だけは聴けません」
床に就いたが眠れない。
そこへ夜間の奇襲爆撃があった。
田中さんは、もう、翌朝はどうせ死ぬものと、
防空壕へは行かずそのまま寝ていた。
飛行場が激しく爆撃されている。
自分たちが寝ていた宿舎は無事だった。
爆撃の中、ペア(操縦員)の佐藤武平(写真左下。挺身偵察で
サラトガの横っ腹をかすめて飛んだ戦友。のち戦死)が
飛行場から、こちらへ走りながらやってきて
「バンザーーーーーイ!!!!!!」
と叫んでいる!
飛行場へ行ってみると、翌朝、自分たちが搭乗予定だった
特攻機の彗星艦爆が木っ端みじんになって燃えていた。
・・・彼は確かに万歳と言った。
後にも先にも、自分らの飛行機が破壊されて
喜んだ人を知らない。
それで命が長らえたが、
一度、特攻隊を拝命した以上、その思いは
つきまとって離れない。代わりの飛行機さえ
届けば、いつでも行かされるだろう。
特攻隊の任を背負ったまま、出撃の命令なく
343空、騎兵隊へ転勤となる。
田中さんは、そのころのご自身を、特攻隊のことが
頭から離れず、
「髪も伸ばし放題で態度が悪かった」と回想する。
ある日、源田実司令が自らやってきて
「貴様が田中飛曹長か」と言う。
「そうです」と答えると
無理やり床屋へ引っ張っていかれこう告げられた。
源田司令
「貴様の特攻は私が預かる」
田中さん
「源田さんから、その言葉を言われた瞬間にそれまで重しだった
ものがスーッと消えてなくなりました」
田中さんは、その後、彩雲隊で通常の偵察任務で飛び、
終戦を迎えた。
源田司令も評価の分かれる人物であるが
こうした事実もある。このサイドストーリーを
それを志賀飛行長の証言をもとに漫画にしてある。
こちらを合わせてご覧いただければ、田中さんの
証言とつながる部分もあるのではなかろうか。
仮の結線でこれを打っています。
今日は、隼でB-29を撃墜した経験を持つ
パイロットの方に取材でした。撃墜した場所は
シンガポールからマレー上空というので
成都へ進出を始めたころのB-29飛行隊だと思います。概略は
拙著「飛行戦隊の本」に載ってますが、撃墜されたご本人が
ご健在だったとは。ですから、もう少し掘り下げます。
篠原
「隼でB-29撃墜例はほとんど聞きませんが」
隼パイロットの方
「うん、わたしも知らない」
この話は、ほかにもB-24等の米爆撃機撃墜後、
連れて行かれた捕虜の話に及びます。
取材を続けます。
そうだ、靖国神社、みたままつりの献灯(大きな提灯のほうです)
今年も早々に申し込み完了です。日本一早い盆踊りです。
名義は今年も「アトリエ空のカケラ 篠原直人」です。
去年は献灯したけれど多忙で行けなかった。
友人に写真を撮ってきてもらいました。
ことしは、行けたらいいな。綺麗なんですよね。
わたしの心は恐れ多くも多くの御柱(みはしら)と
ともにあるなあ、という穏やかな気持ちがいたします。