2012年7月 8日 (日)

新しく出てきた待避壕

つい最近のことです。
ジャングルが切り開かれ、大きな待避壕が姿を現しました。
艦砲射撃や空爆、そして火炎放射で丸裸になったペリリュー島も
いまでは緑が蘇り戦跡も多くがその姿を覆い隠しています。
  

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しかし、まだまだ目に触れず、 隠れている壕が多くあるのです。
ご遺骨はもちろんですが、 土日を除いた毎日、不発弾処理も続けられています。
 

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反対側を撮影したところです。壁面に多くの弾痕があります。
分厚く重い鉄の扉を開いてみました。中は真っ暗で、瓶や遺品が
散乱していました。 ご遺骨を踏んだらいけませんので、入口から
覗いただけで中へ入ることはしませんでした。
 

2011年11月25日 (金)

対戦車決死隊 M4シャーマン戦車

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この戦車は アメリカ陸軍81師団第710戦車大隊A中隊第一小隊所属で
昭和19年10月18日、航空隊員救出の任務を遂行中に日本工兵隊が
埋設した改造地雷(元は航空爆弾)に触れ 爆発横転した。
 
戦車には通常の乗員5名に加え、案内役の大尉一名の 計6名が搭乗中で
この地雷攻撃により大尉を含む5名が戦死。 戦車長が唯一生還した。
キャタピラーは横転したさいの衝撃で 外れ、数十メートル先に転がっている。
コルセア機の翼は、要救助者の機体か。翼のシンボルは戦後長らく
地面に接しており、日焼けを避けられたことから現在でもうっすらと
確認できる。

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この画像と直接の関係はないが、ペリリュー戦では以下のような
戦法も用いられていた。 米軍はこの戦いに戦車を次々と投入した。
海兵隊は機動力に優れる水陸両用戦車。 次いで陸軍の主力は装甲の
分厚いM4シャーマン戦車である。 いずれにしても、上陸間もなくの
飛行場争奪戦で、日本戦車隊は全滅し 生身の兵隊で太刀打ちすることは
不可能であったが戦車にも弱点はあった。
 
守備隊が敢行した戦法は自爆だった。 数名で構成された決死隊の先鋒が
戦車に飛び込みキャタピラーに爆弾を貼り付け、爆破切断し、各坐させる。
どんな強力な戦車でもキャタピラーを切断されると身動きが取れなくなった。
次に地雷を抱えた工兵が戦車の腹底に潜り込み、地雷諸共に自爆する。
腹底の装甲の薄さに目を付けたのだ。 この戦法を敢行すれば必ず死ぬが、
敵も死ぬ。 捨て身の攻撃であった。
 
ペリリュー飛行場を横断するM4戦車(従軍カメラマンによる撮影)
その下のカラーは写真は戦後に撮影されたもの。
 

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ハネムーンビーチ(パープルビーチ)追記

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ここは海を南側に面したハネムーンビーチです。

かつてはパープルビーチという米軍の作戦名で呼ばれましたが
今ではハネムーンビーチと呼ばれます。

オレンジビーチと異なり、リーフは無く外洋に面しています。
そのため波が高い日がほとんどです。

当初はこの砂浜からの米軍上陸も想定され、日本守備隊は防備を厳にしましたが、
最後まで上陸戦が行われることはありませんでした。
 
追記・先の台風で砂浜は削られてしまったとの情報があり
現在確認中です。

ペリリュー戦争博物館(海軍弾薬庫跡)

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この建物は日本海軍の弾薬庫跡で
現在は戦争博物館として使われています。
 
中には日米それぞれの火器や写真などがゴロンと無造作に
展示がされています。基本的には閉まっているので、見学したい
場合は事務所かダイビングショップなどを通じて管理人に連絡を
とってもらい、開けてもらう必要があります。
 

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大山(おおやま)Bloody Nose Ridge(ブラッディ・ノーズ・リッジ)

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ペリリュー島・大山(おおやま)の山頂です。 ちょうど
海兵隊が上陸した激戦のオレンジビーチを一望します。
 
大山はペリリュー島最高峰ですので、遮るものは何もありません。
ここまで登ると島の要所を一望できます。 そして、例えば晴れた日でも、
遠くに南洋特有の真っ黒いスコールの雲が蠢いていて
これから襲来することなどがわかります。
 
この山を中心とし、麓にかけ広がっているのが
複郭陣地(ふっかくじんち)で中川大佐率いる第二連隊
最後の戦場となった場所です。
 
米軍側はBloody Nose Ridge(ブラッディ・ノーズ・リッジ)
「鼻血まみれの峰」と名付け、現在に至ります。

モニュメント自体は占領直後に建てられたもので
岩肌には占領記念の米軍工兵隊のメダルが埋め込まれています。
 
晴れた日には南10キロの位置にアンガウル島が望めます。
 

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▲10キロ先に望むアンガウル島


中山の麓に眠る短砲と水陸両用戦車「LVT-A1」

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中山の短砲
ペリリュー島、中山(なかやま)麓に眠る短砲です。
正式名称「海軍短二十糎砲(短20cm砲/たんにじゅうせんちほう)
もともとは艦船用でしたが、陸揚げされ据え付けられました。
度重なる空襲で周りを守り囲む岩盤を削られましたが
最後まで持ちこたえ、現在でも原型を維持した状態で見ることができます。
 

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▲占領直後の中山短20糎砲(昭和19年)

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すぐ近くには、守備隊の弾薬庫洞窟や米軍による
日本人捕虜収容所の鉄柵跡と 水陸両用戦車が残されています。
 

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米軍 水陸両用戦車LVT-A1(アムタンク)

この水陸両用戦車は米第一海兵隊の

LVT-A1でこのシリーズの戦車はアムタンクと呼ばれ、ここペリリューはもちろん
クエゼリンをはじめ、ガダルカナル、アリューシャン奪還、マリアナ、沖縄など
多くの太平洋戦線で用いられ上陸支援に大いに活躍しました。
37mm砲と250馬力エンジンを備えたこのLVT-A1は
510輌が生産されています。 
 
アムタンクを迎え撃った日本軍速射砲兵の回想
これを迎え撃った、日本軍元守備隊(速射砲隊)の方のお話によると
M4戦車は固かったので徹甲弾を用いて擱座させるのがやっとであったが
このLVTは装甲が薄いので、一発で撃破できたと回想していました。
狭い通路に一列になっているところ、先頭の戦車を狙うと大混乱となり
弾薬が尽きるまではずいぶん、持ちこたえたというお話でした。
 
なお、ここにあるLVT-A1の右舷後輪は今でもベアリングが生きていて
手で回すことができます。戦車の反対側(左舷)スペースを挟んで茂みの中が
捕虜収容所跡で現在も鉄柵が残っています。
 
第一海兵隊最悪の日~アムタンクの上陸戦

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2011年11月22日 (火)

桜花の胴体に日の丸は無かった

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桜花の胴体に日の丸は描かれていませんでした。
これはご自身が桜花のパイロットであり、訓練中に終戦を迎えた迅雷部隊の方が
証言しました。(お話し/元桜花搭乗員・鈴木英男さん)

元来、全ての航空機は敵見方を識別するため機体には
国籍シンボルが描かれています。

桜花の航続距離は、母機の一式陸攻により高度6000メートルで切り離された場合
30キロを滑空が可能で、ロケットに点火するとさらに若干の航続距離が稼げました。
(ロケットの燃焼時間は一本につき約9秒間で三本を備えていました)

ロケット特攻機という印象が強い桜花ですが、用いる火薬ロケットは補助的な役割で
どちらかというとグライダーに近いと航空機と言えます。

さらに一式陸攻は目標への接近時
レーダーに捕捉されないよう、低空を飛行するので、桜花投下時に
6000メートルの高度を確保できた例はとても少なかったのです。

よって桜花が単独で飛行できるのはほんの一瞬です。
日の丸が描かれなかったのは、航空機としての扱いを受けなかった。
桜花は一式陸攻に吊るされた大型の誘導爆弾に過ぎず、パイロットは
その誘導装置を担う、つまり部品の一部でしかなかった。非常に悲しい事ですが
そういう見方もできます。

靖国神社、遊就館のレプリカには日の丸が描かれています。
散華した桜花搭乗員への、せめてもの敬意と私は考えます。

桜花について詳しくお知りになりたい方には
『証言.桜花特攻-人間爆弾と呼ばれて』(文芸春秋)
をお読みになることをおすすめします。

(※注 ここで言う桜花は全て、唯一実戦に用いられた「一一型」を前提として記述してあります)

 

※追記、鈴木英男さんはこの記事を書いた後の平成二十三年十二月に亡くなりました。

心よりご冥福をお祈り致します。

2011年11月11日 (金)

将校の法務死(BC級戦犯)とB-24爆撃機

ここではパラオでの法務死
いわゆるBC級戦犯裁判について記しておきます。

ただし裁判は戦勝国にものであり、
判決は、必ずしも公正無私ではないことを前提とします。

米軍爆撃機から脱出し捕虜となった搭乗員一名をコロールの高射砲隊で処刑、そして
英国人、スペイン人(いずれも宣教師とされる)をスパイと見なし処刑した事件があります。
これらに関係した遺体は現在でも捜索が進められていますが発見に至っておりません。


戦後、グアム海軍軍事法廷で裁かれた将校は以下の通りです。

一、英国人スパイ処分事件

指名/階級/罪状(備考)

味岡 操 /憲兵准尉/25年(後自決)
山田 清 /憲兵曹長/25年

二、米国捕虜ならびに英国人スペイン人スパイ事件に関連して起訴

中村 数夫/憲兵大尉/絞首刑(後終身)
小久保千尋/憲兵曹長/絞首刑

三、米国捕虜一名を高射砲隊にて処分

小市 広栄/陸軍大尉/25年
勝山 広爾/陸軍中尉/25年
小野瀬一郎/陸軍少尉/25年
市川 与吉/    /25年(10年減)
山本 一治/    /25年(10年減)
杉本 武治/    /20年(8年減)
石山 善蔵/    /20年(8年減)
一宮 正雄/    /20年(8年減)
横山 国寿/    /20年(10年減)
玉木  忠/    /20年(10年減)
尾崎 按敏/    /20年(10年減)

四、第三国人であるスペイン人スパイ処分事件

藤谷 義男/     /15年(5年減)
川口 和平/     /15年(8年減)
岡村銀太郎/     /15年(10年減)
江里  茂/     /15年(3年減)
日高金之助/     /15年(3年減)
岩本 春吉/     /15年(3年減)
中村 次郎/     /15年(3年減)
伊藤 光之/     /15年(10年減)
内田 文雄/     /15年(3年減)
安藤 一郎/     /15年(無罪)

五、パラオ島陸軍集団軍司令部事件
1、憲兵隊の英国人及びスペイン人処分事件
2、憲兵隊をして米国捕虜三名を処分せしめたる事件
3、高射砲隊捕虜一名処分事件

井上 貞衛/陸軍中将/絞首刑(後終身)
多田 督知/陸軍大佐/4年

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ところで私は『遠い日の戦争』という吉村昭の著書を読みました。
この小説はフィクションではありますが、当時の時代背景をよく参考にして綴られており、
B-29から落下傘降下した飛行士の処刑に手を貸してしまった男が
戦後、裁かれることを恐れ名前を変え逃亡を図る内容です。

都市上空から大量の焼夷弾を落とし、女子供まで区別なく殺戮したB-29
しかし、落下傘降下して生きていれば、捕虜として保護しなくてはならない
その思いが葛藤となり描かれています。

そして、これがコロールの爆撃に使われたB-24リベレーター

「解放者」という名の爆撃機です。

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アンガウル島には遺棄されたプロペラや回転銃座などが

いまでも残っています。

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2011年11月10日 (木)

朝日村のパイナップル工場

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旧朝日村鳳梨工場跡
大正15年、南洋庁が初めてこの一帯を訪れ実地調査を行った際、
辺りはガルミスカン川に沿う湿地帯と密林に覆われ、未だ人跡未踏の地であった。
 
昭和7年に福島県出身の宍戸佐次郎がはじめて鳳梨栽培に着手。
その後、南洋殖産公司社長の「羽生兵四郎」が缶詰事業に着眼し
 
昭和12年にパイナップル加工工場を設立。躍進を果たした。
設立後2、3年の全盛期は常時従業員数60名で稼働する。
 
昭和13年8月
北海道旭川市出身の開拓民が多くを占めたこの集落を
旭を転じて「朝日の昇る如く」その意味も含めて「朝日村」と名付けられた。
朝日村の開拓以来、バベルダオブ島には
清水村、瑞穂村、大和村と呼ばれる入植地が相次いで誕生した。
 
この間、開拓民は大変な努力と苦労を経て村の発展に尽力。
昭和13年から昭和17年にかけて朝日神社建立、医療機関完備、次いで
尋常小学校、郵便局、駐在所などが設置され
113世帯、705人が暮らしていた。(昭和15年調査)
 
※鳳梨(ほうり)パイナップルの当時の名称

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▲パイナップル工場の機械を作動し、缶詰を圧着するために用いたボイラー
 
朝日村のパイナップルについて

朝日村産のパイナップルは大きく
甘く美味であったという。品種はスムースカイエンで
沖縄出身の16、17歳くらいの女工が製造に従事した。
殊に芽の部分を螺旋状に切り込みを入れ取り除く作業は
機械には不可能で、手間を要した。パイナップルは
輪切りにされ、五枚入り一個の缶で出荷された。
 
このほか規格外や形が崩れたものをクズパインと称して安価で出荷。
コロールでも手軽に食べることができた。
 
昭和18年頃になると鉄資源である缶が不足し
パイナップルはジュースに生成したほか、発酵させてパイン酒を作った。
 

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パイナップル工場の道路を挟んで反対側に彗星の残骸がある。
この機体は
 
昭和19年3月21日に付近へ不時着した

第一二一海軍航空隊所属の二式艦偵(彗星)で
雉一号機と推定される。機体は大破したが
搭乗員は無事であった。(篠原現地調べ)

2011年10月13日 (木)

「彗星」のプロペラ盗まれる

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パラオ本島(バベルダオブ島)ですが、日本の統治時代には入植地として
それぞれ、朝日村、清水村、大和村、瑞穂村、という名の4つの村がありました。

ここは、その内の旧朝日村付近、
現在のアルモノグイ州です。

小川の側に残るのは、艦上爆撃機「彗星」のエンジンです。
水冷型ですから、鼻先がシャープな一一型か一二型、搭載のものです。
翼の一部も残っています。

日本の飛行機も、制空権を取られる前はこの上空を飛んでいたのですが、
どういった経緯でここにエンジンが残るのかはわかっていません。
ちょうど近くで道路工事をしていた地元の方がいたので、お話を伺ったところ
米軍の飛行機だと勘違いしていました。

道路を挟んだ反対側にはパイナップル加工工場の跡があります。

プロペラが三枚ありますが、これは2010年5月に撮影したもの。

そしてこちらもご覧下さい。
以下は約一年後の2011年6月に撮影したものです。

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プロペラが切断されています。
おそらく、何者かが盗んで鉄屑業者に売ってしまったのでしょう。
切断した際に出た鉄粉がまだ残っていて、ごく最近の犯行だと推測されます。

残る一枚も刃の跡があり、途中で断念したのでしょう。

これは由々しい事態です。

しかし、これも我々日本人の戦争に対する関心の薄さが招いた事件に他なりません。
ダイビングばかりでなく、こうした貴重な戦跡にも関心を向けることで、しっかりと
保護を要請していれば、パラオ当局もきちんとその価値を認識し、防げたことでしょう。

とても残念な事件です。