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2016年8月29日 (月)

竹田五郎さんのお話「飛燕」高度1万メートルの戦い(2)

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Q、篠原
竹田さんがお乗りになった戦闘機は

九七戦、一式戦(隼)、二式単戦(鍾馗)、三式戦(飛燕)、
最後は五式戦、いうことでよろしいでしょうか。四式戦(疾風)以外全部ですね。
 
A、竹田五郎氏
そうですね。九七戦から始まって、一式戦、二式単戦、三式戦、五式戦と
乗って、四式戦だけなかった。
 
Q、一式戦(隼)が旋回性能で二式単戦(鍾馗)が一撃離脱で
 

まあ、旋回性能というのは一式(隼)のほうが良いでしょうね。
何せ軽いですからね。小回りがききましたな。さらに、その前の
九七戦はもう本当に自由自在で、軽快な飛行機でした。
スピードは二式単戦(鍾馗)は重たいから突っ込みがあるし、
速度も出ます。着陸の速度も10キロかそこら多かったと思います。
なんとなく重たいという感じはします。
一式戦(隼)の操縦者が二式単戦(鍾馗)に乗り換えると
ちょっと苦労したと思いますね。
だけど飛行機は飛行機。そんなに変わったことはない。
 
Q、隼と鍾馗の開発者、糸川英夫博士は一式戦(隼)を短剣
二式単戦(鍾馗)を
長槍として、ペアとして運用を考えていたそうですが、
それぞれ、特徴をいかして戦法を変えたりはされましたか。
 

それは特に考えたことは無いですね。
同じように飛びました。ただ、一式戦のほうが小回りきくでしょうな。
 
Q、三式戦(飛燕)は如何でしたか。
 

三式戦(飛燕)は水冷ですからね。ちょっと使い方が違う。
だけど操縦そのものは変わらないですからね。
機首が長いですから、離陸の時ちょっと前が見えないだとか
違いはありますが、だけど飛行機は飛行機。
 
ただ水冷と空冷となれば、水冷のほうが事故は多かったでしょうな。
特に南方では三式戦(飛燕)は事故が多かったですね。
水漏れ、油漏れっていうのがありました。
 
Q、五式戦は如何ですか。
 

五式戦はよかったですね。五式戦がもう少し早く出ておれば、
だいぶ高高度戦闘にはよかったと思います。
やっぱり八千メートル以上になると、二式戦も三式戦もダメで、
四式戦は多少は良いかもしれないけど八千
メートル以上になると難しくなる。
 
八千メートル以上になると編隊が組みにくかったですなあ。
八千から八千五百メートル位ですよ。まだやれるのは。
一万メートルになる頃にはバラバラです。
 
編隊組んで最初はついてきてるけれど、映画に出てくるような
一万メートルで9機編隊なんてやったことない。
2機でくっついて
動けるのが精一杯でしょうな。
ちょっと旋回すれば失速するというような
状況ですからね。
一人でフラフラ飛んでいるような状態です。
B-29はゆうゆうと飛んでいる。
 
Q、飛行第244戦隊の飛燕でB-29を邀撃されたお話しをお伺いします。
 

もう攻撃と言ってもね、後ろから攻撃なんて八千~九千メートルでは
出来ないですな。というのは九千メートルで攻撃しようと思ったら一万メートル
で待っとかにゃならない。一万ではもうフラフラですよ。ただ、よっぽど良い時に
運よくB-29の前に居れば攻撃出来るでしょうけどね。
 
こちらが一万で、むこうが九千くらいなら、まだやりやすいですね。
B-29が離れたところにおれば、もう旋回しているうちに落ちていきますから、
前方攻撃は難しいですけれどね。ただ、大型機の編隊は簡単には回りませんから
高度さえあれば落とせるんですよ。
 
確か小林照彦戦隊長が体当たりしたというのは、
B-29の高度が九千五百メートル位。小林戦隊長の飛燕が一万五百メートル
から
攻撃かけて、失速状態の突っ込みですからね。最後は舵が利かないですよ。
 
Q、昭和19年11月1日に東京にはじめてB-29が偵察に来ました。
そのとき、最初に上がったのが竹田さんでしたね。
 

あのときは一面青空でした。キラーンと光るB-29の機影に、
見事な飛行機雲ですよ。
 
私だけでなく、各飛行隊あがったけれど
あんまり傍まで寄ったのは無いです。仰ぎ見ただけです。
B-29とは高度差五百メートル以上はあったでしょうね。
後を追いかけるったって、旋回がフラフラしてますから
追い付けない。あの飛行機を攻撃した者は誰もおらんでしょう。
見たものも少ないでしょう。
 
Q、竹田さんご自身がB-29攻撃された模様を教えてください。
 

それは何回もありますけれど、私はお恥ずかしいけれど
戦隊の中で撃墜王と言われるような事はそんなにやっておりません。
私が撃墜したB-29は1機だけです。撃破したのは2機。
 
そのときは単機です。上がってゆくスピード、飛行機のちょっとした
馬力の差(僚機)で
旋回させるとついていけなくなる。もうバラバラです。
 
Q、その撃墜した一機はどんな状況だったのですか
  

これはもう、相手が海の方に帰っていくやつを。もしかしたら
既に撃破されていたかもわかりません。
高度五千くらいだったですかな。
追いかけて行って、撃墜しました。
 
Q、B-29のどの辺りを狙うのですか
 
A、
胴体の真ん中狙うと、エンジン四つありますからな、結果的には
それのどっかに
当たったんでしょう。
 
時速250キロから300キロ同士くらいでこう、ぶつかる。
とにかくB-29が5機6機、7機編隊になりますとなあ
雨あられですよ。飛行機から撃ってくる弾を見たときは
翼端からこうパパッと避けて行く。夏みかんをパパッとさくみたいな、
それが距離近付くと
火の玉のような、よく絵に描いてありますが。
 
B-29の火砲は
前だけでも少なくとも4門はこちらを向いている。
それが9機編隊だと36門向いている訳です。こっちは2門位ですからね。
そういう状況ですから
一瞬の間ですからね。
 
私の飛行隊は非常に戦果をあげてますけれど、
飛行隊毎の待機位置が決まっていて
うちの部隊は富士山の北の大月上空が待機場所だった。はじめはね。
 
次の部隊が荻窪上空。
 
最後の部隊が宮城(きゅうじょう)直掩隊でした。
 
Q、B-29、2機の撃破をされていますが、それはどういう状況ですか
 

編隊組んで、前方法で攻撃しました。ほとんど前方から。
そしたら煙吹いて。そのまま追い続ける暇ないですから。
次の編隊が来ますから。
 
Q、被弾して不時着された時のお話をお聞きします。
 
不時着は何回もしましたよ。田んぼとかなんかにね。
落下傘降下もしました。
 
それから私は、夜間邀撃で友軍の高射砲に当たった。
夜間の高高度邀撃は手も足も出ないというのが本音ですね。
ただし夜間はB-29も低空ですからね。三千メートルくらいで空襲に来る。
 
それに照空灯(サーチライト)がつけば、という条件が揃えば
攻撃できます。照空灯がつかなければ真っ暗で見えないですから。
運の良い人は照空灯がなくても月夜の晩で
突っ込んで行ってね、月の光で落としたんですけれどね。
一度の攻撃で二機落としたのが居りました。
 
私の場合は、B-29を追いかけている時にバっとエンジンの回転が
変わったんですな。高射砲が飛燕のエンジンを貫いたんでしょう。
B-29には当たらんで私に。
 
あるいは
その晩、海軍の飛行機も上がってましたから、それの弾
かもわかりません。
自分の機体に当たったから、松戸の飛行場の
上空まで来て
「高射やめ」と無線で言った。それで松戸の飛行場に
不時着しました。
 
Q、戦友の思い出を聞かせて頂けますか
 
A 
四宮徹中尉は私が中隊長だった頃の先任将校でベットは隣。
よく一緒に飲みに行って、遺言状だとか家族に宛てた手紙だとかを
預かっているんです。この人は本当にB-29に体当たりで翼(ヨク)の
この辺り(日の丸の辺り)から切って突っ込んでいきました。
その飛行機をみんな間違いなく見ていました。
最後は特攻隊でした。
 
それから、この板垣政雄君(軍曹・震天制空隊)というのは落下傘降下して。
 
体当たりしようとしてB-29の上に乗っかったのが中野。
体当たりは二回やったかな。
 
生野(生野文介大尉・そよかぜ隊)は体当たりしてない。
生野は飛行隊長で特攻隊員じゃないですから。
彼は夜間飛行でだいぶ落としてますけれども。
友軍高射砲に撃墜されたようなものでしたよ。
 

うちの飛行隊で一番落としたのは7機落としたのが居りますよ。
要するに、良い時期に良い位置で、発見が早い事が必要なんですね。
自分が一万メートルの高度をとっていれば何とかなるでしょう。
特攻隊員でない者で、体当たりしたのは小林戦隊長だけです。
 
Q、それが五式戦だったら随分戦えましたか?
 

随分はないですね。「いくらか」ですね。
五式戦でB-29の邀撃したことはないけども、たぶん、よかったろうと思います。
性能はよかったから。五式戦で邀撃は一回かな。ほぼ知覧におって
攻撃任務に使いましたから。
 
Q、戦闘機とも空戦して撃破されていますね。
 

五式戦で相手したのは艦載機ですね。グラマンF6FとF4U。
私が撃破したのは、F6Fかな。昭和20年7月です。
最後までは見ておりませんが、あの様子なら海の中に落ちたとは思うんです。
 
その時、弾が出なかったんです。
試射した時はちゃんと出たんですけれど
いざ攻撃したら故障なんです。それでも最初、10発ぐらい撃って
F6Fを撃破した。F6Fは白い煙を噴いていきました。
 
F6Fの後ろの位置(斜め上後方)につけていたので、
あれは当たらん筈はないです。
ただ、弾が出なかった。
それで残念だったけど、引き上げる時に、
今度は私の方に敵機の
弾が当たって。それが五式戦の
風防の枠に当たっていた。
  
 
 
つづく
 
平成28年7月インタビュー
 
証言者プロフィール
竹田五郎元陸軍大尉
大正10年生まれ
第244戦隊で三式戦、五式戦で本土防空戦を戦う。
戦後、航空自衛隊F86Fパイロットを経て、空将、航空幕僚長を
務める。
 


YouTube: 飛行第二四四戦隊歌(飛燕戦闘機隊々歌) 唄:御堂諦

2016年8月28日 (日)

笠井智一さんインタビュー(2)紫電改と第343海軍航空隊

紫電改

篠原Q、
零戦から紫電改に乗り換えて一番の違いは何でしたか
 
A、笠井智一さん
だいたいね、零戦は栄のエンジンにしても 800馬力やないですか。
紫電改は誉の2000馬力でしょう。 そら800馬力と2000馬力じゃ違うんですよ。
 
Q、一番大きいのは馬力ですか。

A、そうですねえ。全然違いますね。
 
Q、紫電と紫電改ではどう違いますか
 

紫電と紫電改では、同じ誉のエンジン2000馬力ですけれども、
紫電は中翼。胴体の間に、真ん中から翼(ヨク)が出てる。
しかし紫電改は改良されて紫電改は低翼ですからな。
それだけでもクセの状態が全く変わってきますから。
離着陸訓練とか、編隊訓練とか そういうものは紫電でだいぶやりました。
 
Q、紫電と紫電改では中翼が低翼になっただけで違うのですか
 
A 
ああ、違う。
見張り。敵がどっから来るかわからんから、 それを見とる訳ですよね。
視界が全然変わってきましたから。
第一に離着陸はね、中翼と低翼と差があるわけですよね。
低翼は本当に乗りやすかったですよ。

紫電と紫電改では旋回性能も全然違うしね。
そら 同じように20ミリ4挺着いとるけども。 そいで私は紫電で実戦に
参加したのは一回しかありません。 あとの実戦はみんな紫電改でやりました。

Q、紫電改はよかったですか
 

ああ、よかった。全然違う。(キッパリ)
紫電改はグラマンと空戦しても絶対に負けるような
飛行機じゃなかったんですよ。 ただ、敵機の数が多いんでね。数で負けた。
こっちが10機おったら向こうは40機、50機おるんやから。
 
だけど空戦するときは40機とぜんぶ空戦 する訳ない、こっちからお互いに
4機、5機で 空戦するんやから、どうっちゅうことはないんやけども
そらもう、なかなか数が多かったから、こっち側も2、3機やられたら
むこうは5機6機やっても あくるひにはまたおんなじだけの数が来よんのやから。
 
そら日本は飛行機の補充もない。搭乗員の補充も無い。
訓練せんことには簡単に紫電改にのれるもんでもないから。
 
あの頃、 301飛行隊新選組、701飛行隊維新隊、407飛行隊と、
飛行隊が三つあったんですよ。 飛行機会社から紫電改を受け取ってきたら
301飛行隊でみんな受領して、301はそれを最初に 使うとったんですな。
 
ほいで、407飛行隊で甲の5期で本田稔さんちゅうひとが居ります。
まあ、紫電改で 空戦経験者いうたら二人ぐらいしかおらんのじゃ。
 
Q、同じ局地戦闘機でも雷電はあまり良い噂は聞きませんでしたね。
 

そうですねえ。 せやけどね、雷電をえらい褒める人も居るんですよ。
人によってはね。あの飛行機はええ飛行機やったゆうてねえ。
まあしかし、雷電は格好が悪い。
 
Q、いや、その、雷電が好きな方も居りますので・・・
 

紫電改ぐらいの格好しとったらね、 おー、なかなか、とこう、(ニヤリ)
愛媛県の愛南町というところに紫電改が一機展示してあるでしょう。
日本ではあれ一機だけなんですよね。 そら私も年に一回ぐらいは
行きますけれども。 やっぱり、見たら紫電改は格好ええ。
 
もうね、こんなこというたら申し訳ないけれども 靖国神社の零戦、
あれもええ飛行機ですよ。 ええ飛行機ですけども、紫電改と見比べたら
華奢でね。 これではグラマンと空戦できても勝てへん。
零戦に乗っとった人には誠に申し訳ない話やけども やっぱり、紫電改は
日本、いや世界一の戦闘機ですよ。
  
Q、4月12日の喜界島上空での空戦の話を聞かせて頂けますか
 

あの時は鹿屋から出たんですよね。
そして一番機が杉田庄一、二番機が私で、三番機は宮沢豊美、
4番機は田村恒春。 田村は栃木なんですよ。彼とはだいぶ一緒に
飛んだし空戦もやったよ。
 
その田村が離陸してからエンジン不調かなんかで引き返したので
3機で編隊組んで飛んで行った。 そいでまあ、いちいち下の島見とる訳ないから
上ばっかり見とるから、そいで喜界島の上まで来たら
 
「菅野一番、敵機発見、敵機発見」
言うないなやビューーーーッと突っ込んで行ったんですよ。
 
Q、菅野直大尉もすぐ近くだったのですね
 

一区隊が菅野大尉の4機、二区隊が杉田、私、宮沢。だから一区隊と二区隊
言うたら、すぐ端に居るからね、一区隊の一番機、菅野大尉の隊長機が
突っ込んでいったら すぐ見える訳ですよ。
「あれ、やったー」思って。ほいで、それを我々も一緒になって
ついていくわけですよね。
 
あのときは随分乱戦になってですね、でも301飛行隊は未帰還機は
無かったかな。 ほいで、菅野大尉が突っ込んでいった。
私もそれについていった。ほんなら下からF4U。
いわゆるヴォートシコルスキーやな。
 
そいつがビューーーーウっと上がってきよったわ。
それに菅野大尉がダダダーーーーっと撃って一撃で一機撃墜しよったんですよ。
「やった!」と思って それから乱戦になってですね、それで記憶はないんだけども
私はとにかく杉田兵曹から 「空戦の時は編隊離れたらいかん」て
やっかましく言われとったからね。
 
敵を射撃せんでも、絶対に編隊についていかんと・・・ 思っとったやつが
結局、そこで空戦で一番機が離れてしもうて。 一番機がどこへいったかわからん。
ほいでそこで空戦やって、ほいで、2機撃墜したつもりでおったんですよ。
次に射撃しようと思ったら弾が出ない。もう弾がない訳ですよね。早く基地
帰らないかん。 で、海面スレスレでデーっと、北向いて、鹿屋向いて帰った。
 
そしたら上見たらね、グラマンが編隊で3機、追いかけてくるわけですよ。
これはいかんぞー。もしもグラマンが来やがったら 体当たりしてでもやったろうと
思っとったんですよ。 ほいで、鹿屋の近くまで来たら ちょうど鹿屋の上空で
紫電改が上空哨戒でおったんですよ。 それをグラマンが見て、帰っていった。
そいで助かった。
 
そいで、着陸して源田司令に報告。「二機撃墜しました」言うたら司令は
「よし」言うて。 横に居た杉田兵曹が
 
「おい、笠井!来い!」
「はい」
「2機撃墜した言うたな」
「はい」
「お前、それ2機とも海落ちるとか、山へ落ちるとか撃墜の確認したやろな」
 
と、こうや。私は
「しとりません」ちゅうて。
杉田兵曹は、撃墜の確認しとらなんだら、そら撃墜違うと。 そら不確実やと。
いうことで。 私は撃墜したと思っとったやつが不確実撃墜になって
不確実2機と記録に残っとる。あれは私の不確実の2機や。
 
杉田兵曹は
「俺はなあ!!空戦しとった者がどこで空戦しとるか、皆見とるんじゃ!!!」
と言うんですよ。 そんな一番機、ちょっとおらんですよ・・・。
 
「俺はお前が戦うの見とったからな」と言うんです。
撃墜にはならなんだですけれど。 まあ、そんなことは4月12日の
状態なんですね。
 
「カンノ一番」の無線が入ってきて、真っ先に突っ込んでいくのが菅野大尉で
 

そうです。そらあもう凄かったですよ。 編隊組んでわたしはここにおる
「敵機発見、敵機発見、菅野一番、菅野一番」 電話を打つ、言うやいなや
ビュウワーーーーー と突っ込んでいきよるねん。 我々はそれについて
いかないかん。それについていくのが大変やった。 訓練しとっても大変やった。
 
Q、真っ先に見つけるんですね

A 
そうなんです。ほいで、我々は一区隊の隊長機に みんなついていかないかん。
それをね、杉田さんはね、一生懸命訓練した。 編隊を組んで、いろんな訓練をね。
あそこまで、訓練してくれたから、我々はいま、生きて居るんですけれど。
 
まあ、零戦の搭乗員でも杉田はラバウルの経験があるからやとか、
いろんなことを仰る方もおられますけれどね、 杉田兵曹を「あれはなかなか凄い
男やったで」と褒めたら嫌がる人間もおる。 もうそんな人は死んでほとんど
おらなくなりましたけどね。
 
Q、杉田さんの2番機であったから生き残れたと
 

そうそう!私が生き残れたのは 杉田の教育を受けたのと、
最後に紫電改に乗れたのが大きな要因やと。
菅野直大尉も立派な隊長でした。なかなか他に類を見ない隊長でしたね。
 
もちろん、その他に家族が武運長久を祈ってくれてたとか 色んな事ありますよ。
  
特攻についてのお話し
 
Q、玉井さんの命令も苦渋の決断だったのでは
 

うん、そういうことはね、みな言うんですよ。
せやけどね、実際にそういう場面に遭遇したときにね
「お前特攻に行くのやめとけ」と言われへんやないですか。
みんな特攻に行っとんのやから。 そら、戦後になってですよ。特攻に反対
やったとか、言う人がほとんど。 だけど、そうは簡単にはいかん訳ですよ。
 
だから私たちも、死ぬとなったら誰も命は惜しいですよ。 だけど、日本の国の
ためなら、俺がやって日本が勝つなら命なんか惜しくないと、 国のために
やったるんだと、いう気持ちで特攻に行っとるわけ。
 
戦闘機が、レイセンが250キロ爆弾積んで 行くのを、俺は爆弾積んで
死ぬために戦闘機乗ったんと違うと、 空中戦でグラマンを一機でも
余計に落としたいと思って それで私は戦闘機乗りになったのに、
「爆弾抱いて体当たりで死ぬのは残念や」いうて、 死んだ奴がようけおる。
 
そらあの、343の紫電改部隊でもですよ、 本部から特攻に行かんかと、
いうような命令は来たらしいですよ。 私は飛行長の志賀淑雄さんと
戦後ずーっと長いつきあい させてもろうて、いろんな話を聞いたけれども
とにかくその時に、志賀さんは源田さんに
 
「司令、特攻に行けというのなら行きましょう。そのかわり、司令、あんた一番に
行きなさいよ」と。
 
そして部下には
「参謀を連れて行け、参謀と一緒にいくんやったら特攻に行きましょう」と。
源田さんにいうた。 ほなら、源田さんがそれを本部に伝えてそれから
特攻の話が全然来なくなったと。
 
Q、参謀というのは
 
A、
そら航空参謀や。 私がフィリピンで忠勇隊・・・
あれは10月27日やったかな。忠勇隊の特攻隊の直掩隊で
行くときに指揮所へ行ったら、黄色い憲章つけた奴がぎょうさんおるわけですね。
あれなんや?あれみんな参謀らしいでちゅう話やて。 参謀って何やねん。
何しにきとんねん。 そんなもんね、そいつらはもう特攻に行かすのがね。(仕事)
 
そう、あのときにおそらく、私らは当時わからなんだけれども
大西瀧治郎もおったんやと思うよ。 当時は顔も名前も全然知らんかった
ですけどね。 ほいで命令を受けて、特攻直掩で行ったんですけれどね、
直掩に行った連中は五人だったですかな。 行って、ほいで、その中に
343紫電改で空戦やったのも 居りましたけれどみんな死にました。
私一人だけですよ。生きとるのね。
 
Q、特攻隊と直掩隊ではどう違いますか。
 

そらね、直掩隊で行く人間と特攻で行く人間とでは精神状態はだいぶ
違うと思いますよ。 せやけどね、特攻の飛行機がやられたんなら
俺も突っ込んで死んでやるぞと いう気持ちはある。俺らは特攻隊を守るんだと。
 
特攻隊はそこで体当たりで死ぬんだという感覚と、
直掩隊は俺たちはお前たちを守るんだぞという感覚と、
そこらはなんぼかの差があるんじゃないでしょうかな。
 
Q、関大尉の特攻に関しては色々な説がありますが
ご存知のことを教えてください。
 
A、
私たちもいろんな噂話を聞いとりますけれど、 あのときに、マバラカットの
航空隊の宿舎で大西中将、それから玉井さん 指宿さん、それから横山さんが
おって なんで、艦爆あがりの関さんを特攻に指名したかということなんですよね。
 
色んな話は残ってますよ。それは真実であるかどうかはようわからん。
いろんな説があるんですよ。 一般に言われとるのが菅野大尉がおったら、
菅野が特攻に 行っとっただろうと、しかし残念ながらおらなんだ。
あれは飛行機取りに内地に帰っとったから。 私はそのとき菅野大尉と一緒やった。
 
ほいでまあ、中島飛行機の飛行場で、菅野大尉が
「おい、よう聞け、いまフィリピンでレイセンに25番抱いて体当たりで
行く戦法つこうてるらしいで」って、こう言う。
私は 「えーレイセンに25番抱けるんですか」いうて。
レイセンで25番の爆弾を抱けるなんてだーれも思ってなかった。
 
そら、ご存知やと思いますけれども 特攻の初期に離陸ようせんと、
飛行場のエンドに突っ込んで 爆発して死んだ奴がおるんですよ。
レイセンが25番抱いて離陸するなんて夢にも思ってなかった。
せいぜい6番ね。60キロ2発ぐらいが関の山やと。 そんな状態のときやから
特攻精神にはなっとると思うけれども 離陸のときに離陸しきれずに
飛行場の端っこへ 突っ込んで戦死したやつがおるんですよ。
実際におるんですよ。 マバラカットの飛行場のね、
 
 
~笠井さん、戦友に会いに行く~ 
 

だんだん生きとる人間が少なくなりますわな。 時々こういう話を取材に
来られる方が おられますけれどね、そんなにまあ、私はみなさんに
取材受けるほどの 古い搭乗員でもないし、兵隊も若いしたいしたこと
ないんですけど。 しかし、やはり、こうして生きている以上は やっぱり誰が
どこでどうして死んだかと、 いうようなことぐらいはですね、後世に残しておかんと。
みなもう消えてしまいますからね。 戦争中の話をするのは嫌だとか
嫌いだとかいうひとが おりますけれども、卑怯なんですよ。そういうやつは。
 
やっぱり自分らの一緒に戦った戦友はですよ、 戦死してですね、
そのことを言わんちゅうことは その人間をホントにもう亡き者にして
しまいますからね。
 
やはり、あれは、どこそこでどうして死んだとかね それぐらいのことは、
やはり残しておいたほうが いいんじゃないかと。私は思いますけどね。
 
毎年9月に靖国神社で慰霊祭がありますわね。
私はそれには毎年必ず参拝する予定にしてるんです。
せめて靖国神社へ行ってですね、あの大鳥居をくぐって
 
「おおい!来たぞー!!みんな元気かー!!」

私は必ず言いますけれどね。
 
 
笠井智一さんインタビュー(2)紫電改と第343海軍航空隊
笠井智一さんインタビュー(1)第263海軍航空隊
 
343海軍航空隊 全パイロッデータベース

笠井智一さんインタビュー(1)第263海軍航空隊

篠原Q、第263海軍航空隊(豹部隊)についてお伺いします。
 
A、笠井智一さん
あの頃はペリリューにおりました。
ペリリューは割合大きな飛行場だったんですよ。
それが随分空襲で叩かれるようになって戦死者も増えました。
これではいかんというのでガドブスへ移動したんですよね。
 
Q、263(フタロクサン・通称豹部隊)では
笠井さんと、杉田さん、他にはどなたが 生き残りましたか。
 

日光安治上飛曹(甲飛10期・のち343紫電改部隊へ)
井上武二飛曹(東京)、久留米出身で 263の先任搭乗員しとった、
一木利之さんていう方、 ほとんどおりませんね。※1
 
Q、263(豹部隊)は甲飛の10期が多いですね。
 

そうです。263空には大方40名足らず甲飛の10期が居りました。
それはね、昭和18年の11月20日に徳島での延長教育が終わって、
203空へ転勤したんですけどね 徳島で延長教育をやっとる中で
甲飛10期は300人ぐらいおったんですよ。
そん中でね、第一級選抜が37、8人で一番最初に卒業ということになって、
その一番最初に卒業した奴が263空へ配属になったんですよ。
だから集合写真でも写真見たら誰かだいたいわかりますよ。
 
Q、263の同期の方は同じ年の方が多いのですか。
おおむね17歳くらいですよね。
 

そうです。だいたいね、一番古い奴が大正13年生まれ、
一番多かったのが大正14年生まれで、私たちは15年生まれ ですから。
しかし、あの時分は年齢なんか全然関係なかったですからね。
 
Q、分隊長の輪島由雄中尉はかなり古い方ですよね。
 

ああ、これはもう、そらあんた操練の18期かなあ。
 
Q、34歳ですね。
 

そうそうそうそう。輪島中尉、 あら、もう実直な大人しい人でね、
この人は支那事変から乗っとるからね。 もう一人、生き残った人で
松山出身の 磯崎千利さんという人が、30歳位やったですよ。
この人は輪島さんより二期後輩で。 戦後、病気で亡くなられたんですよね。
 
Q、輪島中尉もベテランですけれど戦死されましたね。
 

そうやなあ。 あれがあんた、2月22日かな。輪島中尉が戦死したのが。
 
Qテニアンの邀撃戦で、輪島中尉を含む11機が未帰還です。
 

そうそう。テニアンの邀撃戦。
あのとき充分に戦闘態勢を整えていとったらそんなに負けへん。
ところが着陸寸前に襲われたとか。 戦闘態勢が全然悪かったからね。
それで亡くなった。

輪島中尉はね、機銃無しで敵を2、3機落とした。
敵機を追いかけて。(激突させて)そういう話も残っとるんですよ。
そんな話を知った人はおらんでしょうなあ。
 
Q、3月31日にパラオ大空襲があって随分損害が出ましたけれど
 

そのときは私はグアムにおった。 そして私達も戦闘に
参加さしてくれと、言うて 玉井司令にお願いに行ったんだけども
お前たちはまだグラマンと空中戦出来る技量やない、と。
お前たちがそんなところへ空戦に行ったら片っ端からみな落とされてしまう。
もっと訓練して、そいでやれと。 いうことで戦闘に参加させてもらえなかった。
 
ほいで3月31日にペリリューで263空の基幹搭乗員や古い連中が
殆ど戦死したから、これからは10期のお前たちが空戦できるか
どうかわからんけれども空戦に参加せい、言われてペリリューへ送られた。
 
Q共同した第261海軍航空隊(虎)第343海軍航空隊(隼)
ついてお聞きします
  

その時分に中部太平洋の主戦力は普通の戦闘機隊で、
261空と263空と265空と三飛行隊あって、
そいで、局地戦闘機隊で343空と、341空と二つの航空隊があった。
 
戦闘機隊は頭文字が2なんですよね。 それで局地戦闘機隊が3なんですよね。
だから343ですからね、紫電の局地戦闘機隊だったんですよね。
343(隼)で甲の10期。だから、徳島を、二次、三次に卒業した奴が
343(隼)の搭乗員でね。 僕らは263ですからレイセンね。※2
 
それからあとは艦爆隊が4、艦攻隊が5でしたかな。 中攻隊が7でしたかな。
そいから水上機は9で。 こういう航空隊番号でみな、仕分けされとったんですよね。
 
昭和19年の3月22日にサイパンとテニアンが敵の機動部隊に
木端微塵にやられてですよ、 261(虎部隊)がサイパンに基地で、
私たちはグアムが基地でね。 サイパンからグアムまでレイセンで
40分ぐらい飛んだんでしょうかね。 普段の訓練なんかは一緒に
なりませんけれども、しかし 総合訓練でね、サイパンの虎と
グアムの263(豹)と、 一緒になって訓練した経験はあるんですよ。
 
あの時分はね、まだそんなに切羽詰った戦争の感じは
無かったと思うんですが、そのとき空襲に来よって 私の同期で、
九州出身で初代の343空の隼部隊の隊員がおったんですが
あれがペリリューで司令のとこへ行って
「司令、レイセンに爆弾をワイヤーで固定してくれ」と。
「わしはそれで敵の船へ体当たりへ行くから」言うた奴が居りましてね、
それが特攻のはじまりになったみたいなんやな。
 
Q、関大尉の前ですか
 

うん、関大尉のずっと前。
 
Q、行ったんですか
 
いや、その時は司令が許可せなんだな。
しかし最後はフィリピンで特攻で死にました。
 
あの人はもう死んだかなあ261でね、甲の8期で なんちゅうひとやったか。
サイパンで敵が上陸したときにね まだ日本の兵隊がおると思って
不時着して 生き残ったのがおるんですよ。
 
Q,粒針さんですか。戦後は航空自衛隊で その後民間機で。


そうそう。粒針さん。 甲の8期だとぼくらより2つぐらい年上ですわ。
2つ3つ上ですわ。261の生き残りですね。
 
Q、その後、201空へ統合されますね。


玉井浅一さんいう人が居りましてね、
その時期にはもう第一航空艦隊(一航艦)の各飛行隊は消耗して
飛行隊としての機能が出来なくなった。 それでぜんぶ解散して201空に
統合されたんです。
 
あれは昭和19年の6月頃でしたかな。皆201空に統合されて、
そいで311(サンヒトヒト)飛行隊と301(サンマルイチ)飛行隊と
305と306と、こんだけの飛行隊ができましてね。 しかし内地から
補給に来る人も居りましたが、もう顔も知らんし 同期生か、
そんなんもう全然わからん人も居りましたけどね。 私はそこで306飛行隊に
編入されたんですよ。
 
Q、異例なエピソードがあったとか


あの時分に搭乗員はみな、丸刈りじゃないといかんかったですよ。
それが、201空では、搭乗員は不時着したときに毛があったほうが
怪我せんから 頭伸ばしてもええぞーと。お達しが出ましてね。
そんなお達しの出た部隊はおそらく他に無かったと思います。
 
Q、それは下士官でもですか?


そうそう。下士官でも。それがね、変な話やけども、
そんな油(整髪料)も何も無いわけですよ。無いから
飛行機用の機械に使う油を。あれをガーって頭にかけてね(笑)
 
Q,指宿兄弟のエピソードを教えてください
19年の11月にフィリピンから内地に帰って横須賀へ降りたときに、
指宿正信少佐(兄)と、 もうひとり古い人が二人で出迎えてくれてね
指宿さんが、「おお、お前263か」 「そうです」いうたら
「おー、よう帰ってきたなあ」いうてね。
 
そして、弟の指宿成信さんが少尉で甲の2期でしたかな。
343空で戦闘301でしたな。
 
Q、指宿成信少尉(弟)は生き残って戦後は?
 

病死されたよね。昭和25、6年じゃないでしょうかね。
だから兄貴の指宿少佐よりも先に死んじゃって。
 
Q、お兄さんは昭和32年に殉職されましたね。
 

わたしはあの時に新聞記事見て、びっくりしたんですよ。
あの指宿大尉が事故で亡くなった?とね。その新聞記事がどっかに
残っとるはずなんですがね。 F86Fで亡くなったんでしたな。
編隊飛行中に空中接触で亡くなられたいう話は聞いとるんです。
私は航空自衛隊で殉職された先輩たちの記録を 皆もっとるんです。
誰が、いついつ、どこで亡くなったいうね。
甲飛の10期のよく知った奴が築城かどっかでね。
これも事故で殉職したんですよ。
 
Q、航空自衛隊創設時のお話を聞かせてください。
 

航空自衛隊のジェット戦闘機の部隊ができるというときに
源田実さんから、私に電話がかかってきたんですよ。
「お前、来い」と。いうて。
そいで、よっしゃ、いったろ、とは思っとったんだけれども
願書を送ったら、私が試験を受ける資格が無かった。
その当時は、戦時中に準士官以上。それか大学出以上でなければ
受験資格はないという事やったんで。 それで私は源田さんにすぐに
「私は受験の資格がないから受験しませんと」伝えたら
「えー、そうか」いうて、源田さん驚いていたけどな。
 
それから二年後ぐらいに、予科練出でも航空自衛隊の
ジェット戦闘機の部隊に行けると決まりが変わりましてね。
 
(2)へ続く
 
笠井智一さんインタビュー(2)紫電改と第343海軍航空隊
笠井智一さんインタビュー(1)第263海軍航空隊
 
※1、杉田庄一、日光安治は343空で戦死。
※2、笠井氏は零戦を一貫して「レイセン」と称した。

2016年8月27日 (土)

74式戦車 富士総合火力演習見学

74式戦車

74式戦車

富士総合火力演習の見学に行ってきました。
戦車の発射音は雷鳴の如く、空気の壁が衝撃波となって
ぶつかってきます。映像だけではわからない体験でした。
 
今年も陸海空による離島奪還のシミュレーションが行われました。
もし、尖閣が奪われたら実際にこの通りのオペレーションが
下令されるのでしょうか。

 
日頃より当ブログを応援してくださっているA様から、超貴重品の
チケットを頂戴しまして、行くことができました。
A様、このたびは本当にありがとうございました。

2016年8月25日 (木)

エヴァ500系新幹線

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新大阪からEVA500系「こだま」号に乗り換え岡山へやってきました。
車内は夏休み最後のちびっ子でいっぱい。我々大きいお友達は自粛します。
 
運行スケジュール上は「こだま号」なので、
たまたま乗り合わせたお客さんは面食らっていました。
 
新大阪~博多間を一日一往復しております。
運行スケジュールは専用サイトからご覧になれます。
http://www.500type-eva.jp/entry/timetable.html

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2016年8月23日 (火)

零戦パイロットが語る空母「翔鶴」への着艦・発艦方法

「翔鶴」「隼鷹」で、航空母艦の零戦パイロットを経験された
増山保雄氏(元海軍大尉。大正10年生まれの95歳)に
航空母艦への着艦・発艦手順についてインタビューした一部を紹介します。
 
増山氏は「隼鷹」でろ号作戦に、「翔鶴」でマリアナ沖海戦に参加された
零戦パイロットのお一人です。マリアナ沖海戦では
翔鶴の上空直掩を行いましたが翔鶴は沈没。救助され生還しました。
 
お話しくださった全容は
『帝国陸海軍航空戦史』(仮)に収録予定です。
 

零戦パイロットが語る航空母艦「翔鶴」への着艦・発艦方法
YouTube: 零戦パイロットが語る航空母艦「翔鶴」への着艦・発艦方法

2016年8月20日 (土)

ついに発売になりました

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ついに発売になりました。
『語りつぐ戦争 とちぎ戦後70年』
 
お近くの書店の目立つところに置いてあります。
私の記事は合計4ページにわたって載せて頂きました。
本の内容は、実際に出征された方の戦争証言をメインに、銃後の暮らし、
そして現代で語り継ぐ活動に携わる方の思いを集めたものです。
 
第21回平和・協同ジャーナリスト基金賞」奨励賞受賞。
日本全国で大変評価された企画です。

2016年8月19日 (金)

テープ起こし(2)

テープ起こしについてヤホーで調べて、勉強しています。
なるほど、USB接続のフットスイッチというのがあるようです。
ペダルで音声データのストップ&ゴーができる、両手はタイピングに
集中できるという訳です。
さっそくこれを買って試してみよう。
うまくやればお絵かきにも応用できるかもしれない。 
 

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単語も登録数を多くしていくと効率が上がります。
これは逐次進めております。
 
いちこうかん→一航艦
いっぴそう→一飛曹
かんばく→艦爆 
 
などなど、専門用語はもともとパソコンに登録されていないワードが多いので
その都度、言語バーから「単語の追加」を選択し、面倒でも登録して
パソコン様に覚えてもらっています。パソコン様は優秀なので
一度覚えたことは忘れない。
 

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パソコンは覚える事が尽きません。

2016年8月18日 (木)

空母「翔鶴」の零戦パイロット

今回は、前回の「瑞鶴(ずいかく)」に引き続き
空母「翔鶴(しょうかく)」の零戦パイロットだった方の取材です。
 


YouTube: 零戦パイロットが語る航空母艦「翔鶴」への着艦・発艦方法

 
空母への着艦訓練は
非常に厳しいもので、着艦訓練を10日間連続で行うのですが
そのうちの一割は着艦に失敗して殉職すると言っても言い過ぎではないそうです。
戦死より事故が多かった。そうして残った搭乗員が出撃していくわけなのです。
ですから「瑞鶴」のときも書きましたが、マリアナ沖海戦の搭乗員が
練度不足などというのはデタラメなのです。
 
翔鶴はマリアナ沖海戦で沈みましたが、生き残った搭乗員は
次の空母へ乗り込むべく、機会を待っていました。
そんな虎の子の航空母艦搭乗員さえ、特攻を命じられます。
 
そこで、この分隊長であった大尉は
真っ先に自分の名前を編成表に書き、部下を連ね、参謀に
提出するのですが、
実際に受けた特攻命令では、自分だけがはずされ
部下だけが特攻に行くという事態になりました。
 
「なんでえらい奴が特攻行かないんだ!」と戦後批判を受けることも
ありましたが、実際はこういった事例も多くあったことを
知っておいてほしいものです。
 
この内容も『帝国陸海軍航空戦史』(仮)に収録予定です。

2016年8月16日 (火)

テープ起こし

ブログがなかなか更新できず、すみません。
 
零戦パイロットの方に
インタビューした内容は全てレコーダーで録音して
文字に起こします。これがなかなか大変で、
2時間の内容であれば、その3、4倍の6~8時間かかります。 
読みやすいよう編集(といっても話の内容が変わらないように
努めます)作業や、時代考察、調査を含むとさらに時間がかかります。
現在のところ、これがもっとも負担の大きな作業です。
 
このテープ起こしは
専門の業者さんがあって、安価にできるそうなのですが
それはやはり、失礼でもありますし、内容が理解不足となります。
 
やはり、元パイロットの方が、私のだけのために渾身となって
話してくださった事ですから、より深く理解するため、
自分自身でやるようにしています。

2016年8月 9日 (火)

パラオの電話帳に記載された人名が興味深い

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パラオの電話帳が手元に一冊あると便利だからと
仲間にお願いしたら、現地で貰ってきてくれました。
 
これで一冊でパラオ全国民の電話番号と住所を網羅しています。
パラオの人口は1万強ですから、これ一冊で足りるのです。
 

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パラオは海の国なので、満潮干潮の時刻と、月齢が書かれています。
お月様はパラオ国旗にも描かれている通り、パラオの人々にとって、
特別な存在で、信仰の対象ですので、とても重要視される訳です。
 
そして、何といっても興味深いのが人名です。
日本時代の名残で、日本由来の人名が多いです。

A4全てファーストネーム(名前)です。
サトーさん、タナカさん、サクライさん、ナカムラさん、ヤマモトさんなど、
親しかった日本人から取ってつけたのがはじまりだと云われています。

A4xイチローさん、ジローさん、サブローさん、シローさん、

A4f_2イシドーローさん(石灯籠の意)、キンタローさん、など。
 
ほんの一部を紹介しました。これだけでも、日本人との繋がりの深さが
理解できると思います。日本人とパラオ人は80年前から本当に
仲が良かったんですね

2016年8月 6日 (土)

大洗視察

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大人気アニメ映画「ガールズ&パンツァー」の影響で
茨城県大洗町がたいへん賑わっていると聞き、
早速、大洗へ視察へ参りました。
 

アニメ映画で使用された風景が大洗町のあちこちにあるとのことです。
今回は大洗マリンタワーへ。
 

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昔からある観光名所ですが、このたび大洗マリンタワーの2階が

「ガルパン」カフェとしてオープンし、平日の昼間にもかかわらず、
大盛況でございました。
店内の様子はあまりに混雑ぶりに撮影を
戸惑ってしまいましたので
1階だけでもアップします。
エレベーター前にあんこうさんチームの等身大パネルが迎えます。
 
マリンタワーの2階とはいっても、最上階の展望台すぐ下です。
通常の2階の感覚で行ってしまったら、驚きました。
最上階の展望台は有料ですが、ガルパンカフェの利用者は
2階までは無料です。

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こちらは大洗のアウトレット。アニメの中でも使われているようです。
実在する建物のコラボは面白いです。

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こんな感じで大洗町全面バックアップであります。
アニメの影響で戦車に詳しい若者が増えたのが確実ですね。
艦これもそうなのですが、アニメをきっかけに、旧軍の艦船や飛行機に
興味をもってくれたら
嬉しいです。

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ファンの方々、ぜひ大洗町へお出かけください。

2016年8月 3日 (水)

赤井照久氏『徹底抗戦・アンガウルの戦い』月刊『丸』掲載のお知らせ

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戦史研究家の赤井照久さんの執筆された、長編読物
『徹底抗戦・アンガウルの戦い』が8月27日発売の

月刊『丸』10月号に掲載となります。
赤井さんと私は、調査の過程でこのブログを通じて
ご縁がありました。赤井さんがアンガウルの戦記を送り出して
くださるということで、採用になるかどうか、ドキドキして
待っておりましたが、無事採用となり、非常に嬉しく
ここに報告する次第であります。
 
赤井さんは米陸軍第81師団の資料を調査し
アメリカ軍がどのようにアンガウル島を攻略していったか、
1200名のアンガウル守備隊を相手に、どれだけの犠牲を払ったか、
詳しく述べられています。 米陸軍81師団からの視点を
扱った書物は今まで無かったので、貴重な内容です。
 
同時に、書かれた日本側の視点では
不死身の分隊長と呼ばれた船坂弘軍曹を主軸に
書かれています。不死身と呼ばれる所以もこれを読めば
理解できるでしょう。守備隊がいかにして、徹底抗戦を
貫いたのか、戦闘の描写から窺い知ることができます。
わずか1200名の守備隊が2万人以上の米軍兵力
(および戦車・艦砲射撃・航空機)を相手に1ヶ月以上も持ちこたえた
事実は、世界中探しても極めて希な例であります。
 
船坂氏はアンガウル島から生還された後、渋谷の
大盛堂書店を設立。数々の手記を発表し

その売上で、パラオ各地へ慰霊碑の建立や遺骨収容を
積極的に行いました。戦友の弔いに最も心血を注いだ人物であります。 
 
赤井さんの本では、その船坂氏の数々の著書から
わかりやすく記事を抜粋してまとめてありますので、興味を持たれた方は
そこから個々の戦記をお読み頂いてもベストかと思います。
  
このアンガウル戦記は
精査に精査を重ねられた、最新版かつ、概要を知るにも
とてもわかりやすい内容となっています。
 
なお、『丸』8月号には、同じく赤井さんの書かれた 
『UボートU66vs護衛駆逐艦バックレイ』が掲載中ですので
ぜひとも合わせてお読みください。

2016年8月 2日 (火)

戦友の思い出を聞かせてください

四式戦闘機「疾風」

 
「戦友の思い出を聞かせてください」

 
これが一貫した私の取材テーマであります。
 
たとえばゼロ戦パイロットの取材のときは、
可能な限り、
部隊の名簿を作ってから行きます。
そして、そのお一人、お一人の戦友に目を通してくださると
今まで家族にも話したことが無かった、戦友の思い出、そして
散り際、特攻を見送った話などがでてくるのです。
 
こうした戦友の方々の記憶をひとつでも多く残して
おきたいと、考えています。
 
先日、百式のパイロットだった方のインタビューを行ったと
書きましたが、以前から陸軍機にも力を入れており、九七式戦闘機から
一式戦「隼」、二式単戦「鍾馗」、三式戦「飛燕」「五式戦」で終戦迄戦われた方の
インタビューを継続的にコツコツと取材を重ねております。
かなりのご高齢なので、体調を考えて一度のインタビューは30分程度と決めて
その都度、ご自宅の神奈川県に足を運んでコツコツと取材を重ねてきました。
 
そして海軍の花形であるゼロ戦も忘れてはいません。
8月だけでも5名のゼロ戦パイロットの方のインタビューを
岡山、兵庫などを回り行う予定です。
 
取材費がかかりますが、もう砂時計の砂は、残り僅か!
後になって会いたいと願っても!
一千万積んだって、一億積んだって、無理なのです!
 
そして最近、心強い仲間ができまして、交渉の下手な私に代わって、
ゼロ戦パイロットとの取材交渉を、
全て段取りしてくれて、アポイントを取ってくださっています。
本当にありがたいです。
 
いつか日の目を見ることを信じて!