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2012年9月25日 (火)

パラオの彗星/墜落現場へ~永元俊幸大尉

パラオの彗星

パラオには手付かずの戦跡がまだ多く残っています。 
あの戦争が終わって56年、誰の目にも触れず
ジャングルの中で眠り続けていた日本の飛行機がありました。
 
発見の経緯はコウモリハンター(パラオではコウモリを料理にします) が
コウモリを追っている最中の出来事でした。
後の調査により機体の搭乗員が判明し、2000年3月12日の読売新聞に
『密林に眠る彗星墜落の旧海軍機56年ぶりパラオで発見』 と題した記事が
大きなカラー写真と共に紙面を飾った経緯があり テレビでも報道され
大きな話題となりました。

彗星の銘板

 
製造されて、70年になるというのにアルミニウムは
朽ちることなく残っています。機体は海軍の「彗星」でした。
正確には「彗星/二式艦上偵察機」彗星艦爆のプロトタイプで
爆弾の代わりにカメラを備え付けた偵察機仕様の機体です。
 
この銘板と尾翼にマーキングされた数字が手掛かりとなりました。
第121海軍航空隊、通称「雉」部隊。機体はその「雉13号機」
搭乗員は永元俊幸大尉(山口県出身/23歳)と判明しました。
あれから10年、現地へ足を運ぶことが困難なこともあり、充分な
調査がされないまま 現在に至ります。私は後の為にも緯度経度だけ
でも記録しておく必要があると思い立ち 現地調査の段取りを整えました。
 
パラオ人の漁師に頼み、漁船を一日チャーター。発見者で位置を知る、
唯一の人物であるコウモリハンターを探し出し同行してもらいました。
 
墜落地点のウルクタープル島はコロールからは40分~1時間ほど
かかります。 島には砂浜が無く、切り立った岩場のみで、上陸が極めて
困難です。 それでも満潮時を狙い、せり出した木の幹に足をかけて
海に落ちそうになりながらも 無事、這い上がりました。

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さらにそこから山頂付近を目指して登ります。 直線距離にすると僅か
200メートルほど(標高60m程度)ですが 急斜面を真っ直ぐ進む事は
できませんので、道を探りながらジグザグに登ります。 僅かな距離でしたが
40分~1時間ほどかかってようやく到着します。 現場もやはり急斜面で
足場が悪くバランスを保って立っているのがやっとの状態でした。
 

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到着しました。
山頂近くに眠る永元大尉乗機「彗星/二式艦上偵察機」です。
  

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機体は墜落の衝撃で、大破四散し、唯一、尾翼の形を認める程度ですが
炎上しなかった為に、個々の部品の保存状態は良好で、そこから
当時の様子を知ることができます。現場からは大尉の軍刀も発見されました。
搭乗員の多くはコンパスが狂うという理由で軍刀を機内に持ち込むことを
嫌うのですが なぜこの日に限って携えていたのか、不可解な点が残ります。
 

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私がこの現場で見つけて一番印象に残っているものは
風防ガラス(アクリル)でした。 多くは曇っていましたが、綺麗なものも残っており
付着していた土を擦って落とし 、透かしてみると、向こう側が鮮明に見えました。
約70年前に製造されたものです。同じようにこのガラス越しに、永元大尉は
どんな空を見ていたのかと思いを馳せました。
 

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第61戦隊121空ペリリュー派遣隊の永元大尉は、上陸戦が始まる前の
6月18日、ガドブス島に残っていた最後のゼロ戦隊を率いて
グアム上空へ誘導、ゼロ戦隊は全機未帰還。
彗星搭乗の永元大尉ひとり生き残り、グアム上空の強行偵察をした後、
帰還の途につきました。
 
ところが機体はペリリューの飛行場へ降りる直前で燃料が
尽きてここへ墜落したと 推測されています。飛行機から見ればペリリューは
目と鼻の先です。 もう少しだけ燃料が残っていたら、高度をとっていたら、
帰還できたかもしれない あるいは新型機の「彩雲」があてがわれていたなら・・・
様々な仮定が過りますが
 
私は飛行機を見る度、倉田洋二先生(アンガウル玉砕戦の生存者)のお話で
印象に残っているものがあり それを思い出します。
 
「僕らは一銭五厘で集められて、ジャングルの中で餓死する。助けも来ない。
だけど飛行機が不時着するとどんなに遠くでも搭乗員を助けに行く。
飛行機乗りはいいなぁ・・・なんてみんな言ってたけど、それは死ぬまで
使われるってことじゃないか」
 
ここで命を繋いだとしても次はなかったのではないでしょうか。
 

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10年前の慰霊と収容作業で大尉のご遺骨はこのコクピット付近から
脊椎骨2個のみを回収したのみでした。 まだ残っているかもしれませんが、
現場の調査は極めて困難です。
 
私はGPS機器で位置を計測し、一通り写真を撮りました。
そういえば、帰るときの方が大変だったのを、すっかり忘れていました。
こういった不安定な場所では、必ず、手と足4本ある内の3本を固定して
残りの一本のみを動かして移動するよう心がけます。
 
今度は崖の上からボートに降りなければなりません。
なんとか海に落っこちずに済みました。
 

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遠くのほうを観光客を乗せたスピードボートが走っていきます。
やがてうねりがやってきて 停まっているこちらのボートを揺らします。
ボートの上でリゾートを楽しむ観光客 その様子から戦争は遠い日の
ものとなってしまったのだろうか、と思いました。
 
この彗星(二式艦偵)は流線型をしたとても綺麗な飛行機で
復元された同型の機体が靖国神社の遊就館に保存されており、
見学することができます。
 

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※戦記でも名高い121航空隊、通称「雉」強行偵察部隊です。
彩雲でメジェロ強行偵察し、敵戦闘機に襲われるも それを振り切り
「我に追いつくグラマン無し」と打電したことで有名な部隊です。
 

零戦雷電震電

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烈風(改)戦闘機紫電改

2012年9月 9日 (日)

ガドブス島を飛び立った第263海軍航空隊(豹)のエースたち

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ペリリュー島のすぐ近くにガドブスという島があります。

このM4戦車は米軍がここを占領した後、
「日本兵が再び攻めてこないよう、威嚇の意味で海に砲塔を向け置いた」
という理由で今でもガドブスに眠っています。

現在ここは無人島ですが、かつてはペリリュー島と橋で繋がって
おりました。ガドブス島には1000メートルの滑走路があり
主にここで零戦を運用していました。橋は破壊されてしまいましたが
橋脚だけは残っています。ペリリュー側の水戸山麓あたりから望む
橋脚跡です。

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私は島民のローレンスさんにお願いして、小型船に乗せてもらいガドブス島への
上陸を果たしました。大潮の時期、丘ガニが多く現れそれに伴いガドブス島へも
漁に行くというので一緒に連れて行ってもらったのです。子供たちも一緒です。

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オカガニを次々に捕まえては袋に入れて行きます。(ちなみにこれはオス)
これをコロールへ卸すわけです。このオカガニはコロールのホテルや
レストランで美味しく頂けるのはもちろんですが高いので
ここペリリューまで来るとかなり安価で食べることができます。
自分もそれにならってカニを捕まえようとしたら
「手がかゆくなるから触ったらダメよ!」と言われました。
あなた方は素手でボンボン捕まえて袋に放り込んでいくじゃないですか。
※島民以外の漁は禁止されています

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横道に逸れました。これがガドブス島の内部です。
「ここが滑走路があった辺りよ」と言われましたが・・・
現在はジャングルに戻っていて、平坦だった頃の想像がつきません。
トーチカの中をくぐる双子ちゃんズ。

手に持っているのは海軍さんの薬缶(やかん)です。この写真を後で先生にお見せしたら
「おお、海軍さんの薬缶だ」と仰ったので、陸軍は使わないのですかと尋ねたら
「陸軍は薬缶なんかつかないよ」と一蹴。よく考えればそうですよね。
当時としては貴重なアルミ製。

マングローブの森_1
島の東側はマングローブの森で、足をとられほとんど進むことはできません。

モクマオウ_1
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これはモクマオウの木。お化けみたいですが。
その下はモクマオウの根元にツカツクリが巣を作った様子です。
ツカツクリは飛べない鳥で、その代り足が発達し、大きな後ろ足で土を
盛り上げて巣を作ります。

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これは飛行場の守備に使った機関砲です。
「ダダダダダダ!」っと言って遊ぶ双子ちゃんズ。
下は海軍の12糎高角砲。

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クレーター_1
パンの実を投げて遊ぶ。くどいようですがもともと飛行場です。島内は
爆撃で方々に大きな穴が空いて」水が溜まっています。クレーターのようです。


以下は、このガドブス飛行場から発進した第263海軍航空隊の記録です。
3月31日のパラオ大空襲で吉田飛行士や指宿大尉の所属する261空と201空
とともに敵機動部隊の大編隊を邀撃した航空隊で
通称「豹」ヒョウ部隊のエースの方々です。

昭和19年3月31日天候薄曇り
第263海軍航空隊(重松大尉指揮)

一、G(陸上)基地零戦延べ12機上空哨戒
二、ペリリュー基地 0645敵戦斗機邀撃

(一)零戦20機(2機発動機故障引き返す)
ペリリュー260度にて集結 敵F6F戦斗機群またSBD艦爆群と
交戦F6F 5機撃墜

(二)指揮官機15機
(三)零戦2機 敵戦斗機襲撃により2機炎上1機大破

第263海軍航空隊未帰還者名はこちら

2012年9月 8日 (土)

パラオ国際空港

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パラオ国際空港
パラオ唯一の玄関口であるパラオ国際空港は

かつて日本海軍の飛行基地であった。
 
戦中、パラオには日本海軍の飛行基地が三か所存在し
昭和14年から既に運用中のペリリュー島、ガドブス島の各飛行場と併せて
昭和19年に完成したのがここアイライ飛行場である。
 
昭和19年2月29日 連合艦隊旗艦、戦艦武蔵(大和と同型の二番艦)が
コロール泊地に投錨。空襲で無力化されたトラックに代わって
パラオを連合艦隊司令部とした。
 
アイライ飛行場の建設
武蔵はコロールの環礁内に約一ヶ月停泊(※1)し、この間、
武蔵に乗船していた陸軍一個大隊と
海軍陸戦隊一個大隊が下船。
民間の勤労奉仕隊と共にアイライ飛行場建設に尽力した。

建設は全てスコップやモッコを用いた手作業であったが、
苦労の末、全長1400メートルに及ぶ
滑走路を完成させるに至った。
 
飛行場は戦局の悪化に伴い同年6月までという僅かな期間であったが
主に戦闘機の基地として運用された。
 
戦後、アイライ飛行場はアスファルトで舗装され、パラオ国際空港となった。
現在はその面影を見ることはできないが、飛行場には大勢の人々の
血と汗と涙が染みこんでいる。
 
戦死した二名の中学生
勤労奉仕を行う者の中には中学生も混じっていた。
「ここに飛行場を作れば日本の戦闘機がたくさん来るから」と言われたので
彼らは懸命に汗を流した。
 
作業中に飛行機が飛来したので、中学生二名が喜び飛び出していくと
それは米軍機だった。彼らは米軍機の機銃掃射を受け死んだ。

 
気象条件が立地上極めて良好
この飛行場ははパラオ諸島の中でも気象条件が立地上
極めて良好なことから
航空機の発着に適している。
 

※1捕捉 

昭和19年2月29日 連合艦隊旗艦、戦艦武蔵(大和と同型の二番艦)が
パラオ、コロール泊地に投錨した。 海軍にとってパラオはトラックに次ぐ
南洋の最重要拠点であり トラック基地を空襲によって無力化された
連合艦隊司令部が ここパラオに後退したのであった。
連合艦隊司令部はコロールの陸上、南洋庁長官邸のすぐ裏の
海軍司令部に置かれた。
 
内地からの輸送船は敵潜水艦の雷撃でことごとく撃沈された為
物資と兵員の輸送を武蔵が担っていたのである。
横須賀からの 航海は大時化に見舞われ、これに伴った駆逐艦は破損。
随行の困難を極めた。 武蔵は嵐にびくともせず、スクリュー四軸のうち一軸
のみを回転させ 駆逐艦の速度に合わせ、最微速力運転を行った。
 
武蔵には甲板上まで物資が搭載されていたため、それらの大半が海へ
流出して しまった。前甲板には爆弾を積んでおり、兵士は嵐の中、危険を
おかして 全て海へ投げ捨てた。それにしても、かつて経験したことのない
波濤にも 動揺せず、速度も落とさず突き進む戦艦武蔵を、不沈艦として
の不動の信頼と 神秘的魅力を与える航海となった。
 
コロールに姿を現した武蔵があまりに巨大だったため、
パラオは一時 大騒ぎとなった。
パラオの環礁は浅く狭かった。 外洋に出るには最少幅110メートル、
8.5キロに及ぶ西水道を通らねば ならない。さらには口付近で直角に折れ、
複雑かつ急速な潮流により通行を 困難なものにした。
(武蔵は全長263メートル、幅38.9メートル) 満潮時の他は絶対に
不可能である。その為環礁内に係留したまま訓練も 行われず一ヶ月が過ぎた。
この間、武蔵に乗船していた陸軍一個大隊と海軍陸戦隊一個大隊が下船し
飛行場の整備に汗を流したのだった。
  
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資料 アイライ飛行場に展開したのは航空兵力は以下の通り。
 
第343海軍航空隊(隼)
第263海軍航空隊(豹)
第723海軍航空隊
第761海軍航空隊(竜)
 
なお、アイライ飛行場近くに湿地帯に撃墜された米軍機の翼が現在でも
突き刺ささったまま残っており、昭和19年の日付で落書きがされている。
「隼ハ強イ~撃墜セシ、憎キ敵ノグラマン」 この「隼」は陸軍の一式戦闘機
ではなく(パラオに陸軍航空機は無かった) 343空初代(通称隼)であると
推測される。
 
3月27日 「敵大機動部隊ニューギニヤ北方を西進中」との情報が入る。
福留繁参謀長はこの報せを艦長に伝えると大慌てで武蔵以下艦隊を
直ちにパラオ港外へ待避させりことを指示した。
この時点で満潮までは二時間 猶予なく、事態は逼迫を極めていた。
古賀峯一大将指揮する連合艦隊司令部をパラオ島陸上に一旦移し、
武蔵は港外に 待避。空襲が去った後、ふたたび入港し司令部を艦内に戻す
計画であった。 水道からの脱出は細心の注意が払われた。
武蔵はその巨大な艦体故、舵を 切ってから曲がり始めるまで1分40秒かかる。
これが全速航行時ならば 1.4キロも走ってしまう計算になる。
武蔵は港外へと無事待避したが、その日の空襲はなく、待ち受けていた
敵潜水艦の雷撃を受け船首を小破。損傷は軽微で艦の航行に支障をきたす
ものではなかったが、呉に回航して修理する運びとなった。
この三日後の3月30日、31にパラオ大空襲があり
同日夜の海軍乙事件(古賀峯一大将殉職)が重なる。

2012年9月 6日 (木)

最後に飛び立った滑走路へ(ペリリュー飛行場)

さて、テレビでは放送しませんでしたが
パラオではご遺族をペリリュー島の戦跡にも案内致しました。
その中でも是非ともお連れしたかったのがこちらです。

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「久光おじさんが最後に飛び立った場所でお参りして行こう」

ペリリュー基地の滑走路です。大部分がジャングルに帰しましたが
現在も滑走路一本が辛うじて残っています。
ご遺族の方々はここでも手を合わせいました。

帰国してから、ご遺骨の行方を調べる日々です。ご遺骨は不時着地点の近くに
一度仮埋葬された後、掘り起こされて、身元不明のままガスパンの慰霊碑に
移されました。島民によるとエプソン大統領の時代、日本と結ばれた
遺骨帰還事業で身元不明のまま日本へ帰ったということです。

現地で調査しましたが、当時の記録が残っておらず、受け取った側つまり
日本の厚生省頼みとなりました。現在、ご遺族とともに調査を進めております。
援護局の職員さんがテレビをご覧になっていたらしく、話もうまく進み
とても丁寧に対応してくださっています。

以下は私の現在の推測と今後の展望ですが、身元不明のまま最終的には
千鳥ヶ淵へ行き着いたのではないかと考えております。

ご遺族の気持ちとしては最終的に埋葬された場所へお参りすることなのです。
今回のパラオ旅行の前にも、お墓にお骨が無いので、代わりにせめて
ゼロ戦の小さな部品か現場の石ころだけでも持って帰りたいという
お申し出がありましたが、これはパラオの法に触れてしまいますので
断腸の思いでお断りしなければなりませんでした。
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2012年9月 2日 (日)

恐竜の生き残りか!?パラオオオトカゲ

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アンガウル島にはここでしか見ることのできない生き物が多く
棲息しています。

特にホタルが見事です。日が暮れてから間もなく、滑走路東側の
道を歩くと見ることができます。日本のホタルと違って白い光を
放ちます。パラオでホタルが見られるのはアンガウル島だけです。

そして何といっても驚くのがこの「オオトカゲ」です。

アンガウルでこいつを初めて見たとき
一瞬「恐竜の生き残りか!?」と錯覚するほどの衝撃でした。
パラオオオトカゲと言って、多いなものは
1メートル50センチくらいになります。元々はインドネシア産で
ネズミ駆除のため持ち込まれたと言われています。
大きいので、のっしのっしと、一見鈍重そうな印象ですが、実は正反対。
とても俊敏で「ガサガサガサ!!!」と逃げ足が物凄く速いのです。
木登りも上手です。このオオトカゲも苦労してカメラに収めました。
戦争中は兵隊さんの食糧にもなったそうです。
大きいので食べごたえがありそうです。