私は栃木県防衛協会という会に入って
自衛隊を理解して頂く活動をしています。
ざっくりと申し上げれば、
「自衛隊の飛行機が大きな音をたてて申し訳ございません。
皆様の平和を守っていますので、ご理解・ご協力をお願いします」
という活動です。
最近、活動の一環として
自衛隊の某基地を訪問し、広報の方に様々な
お話を伺ってきました。
広報さんのお話しで興味深かったのは
自衛隊のクレーム対応についてです。
「周辺住民から苦情があった場合はどこの部署が対応するのですか」
と尋ねたところ、
「本来であれば総務ですが、広報の任務になっています」とのことです。
苦情は古くからの住民でなく、
後から引っ越してきた方からの多くを占めるとのことです。
これはイメージでなく、数字から申し上げています。
原則的に「ご理解頂く」という趣旨で、自衛隊がそうした意見に
折れることはありません。
さらに、
「理解して頂けない方に、どう対応しているのですか」と尋ねたところ、
「そういう方には、こちらから招待して、ヘリで体験飛行して
頂いています。すると、苦情がなくなるか、あってもだいぶマイルドになります」
この回答には驚きました。
これを書いて掲載しようか迷いましたが、ハッキリ書きます。
自衛隊の言えない事を言うのが民間である私の立場ですし、
仮にこの記事を見て悪千恵を働かせて一時的に良い思いしても
最終的にはロクなことはありませんので。
悪しからず、お願い致します。
最後にもう一度、お願いを申し上げます。
自衛隊にご協力とご理解をお願い申し上げます。
松本零士さんのお父様が
陸軍の戦闘機パイロットで、
松本零士さんが作品に大きな影響を受けたことは
ファンの間では有名です。
松本零士さんのお父様は
松本強少佐といいます。
最近、伊勢剛さんが書かれた良い記事がありました。
こちらです。
https://withnews.jp/article/f0180830002qq000000000000000W07f10101qq000017888A
松本少佐はフィリピンへ派遣され
生還していますが、部下の半分を失っており、
戦後、戦死した部下のお母様が訪ねてきて
「なぜ、せがれを連れ帰ってくれなかった」
といわれて「すまん」と頭を下げ、辛そうにしていたと書かれています。
詳しい内容は記事をご覧頂くとして
松本少佐の部隊について、『陸軍航空の鎮魂』から
少し書いておきます。
松本強少佐の率いる部隊は第32教育飛行隊という戦闘機隊です。
教育飛行隊と名がつけられていますが、実際はフイリピンへ派遣され
九七式戦闘機(あるいは隼かもしれません)で
米機動部隊の邀撃を行っていますので、実戦部隊と変わりありません。
これは他の教育飛行隊も同じです。
第32教育飛行隊
隊長・松本強少佐
昭和19年2月25日、加古川において編成。
同年4月6日加古川出発。4月19日ネグロス島ファブリカ到着。
同地にて幹候、特操一期生の基本戦技教育を実施。
7月19日、ラカルロタに移駐。教育を実施。
9月12日、九七式戦闘機25機で米機動部隊を邀撃。
10月、空中部隊はクアラに移駐。
地上人員は12月8日、マニラに集結。
20年1月10日、バンコク到着。
1月31日部隊復帰。ネグロス残置隊は現地で作戦参加。
土曜日は浅草で近現代史研究会(PANDA会)でした。
講師の吉岡政光先生は御年100歳。
九七艦攻偵察員として真珠湾攻撃に参加。
戦艦ユタに雷撃命中させています。
しかし、先生の話によりますと
「ユタは標的艦(オトリ)でした、雷撃針路にはいって、気付いていましたが
操縦員への伝達が間に合わず、魚雷を落とすしかありませんでした」
続けて吉岡先生は
「真珠湾で戦艦を撃沈できず、申し訳ありませんでした」と
なんと、我々の前で頭を下げた。
「雷撃したのが標的艦のユタであることは申し訳なく、最近まで黙って
いましたが、もう先が長くないので、本当のことを話そうと思って、
つい最近、真実を喋るようになりました」
今でも、こんな場面に出会うとは想像もしなかった。
思わず目頭が熱くなりました。
吉岡先生、ありがとうございます。