たくさんのお申込みありがとうございました

来たる5月29日(日曜日)に開催されます
磯部喜一憲兵曹長の講演会、たくさんのお申込みを
ありがとうございました。
98歳の磯部氏も
「自分の体験を一人でも多くの若い世代に伝えたい」
との意気込みで臨まれます。
当日配布される分厚い資料も磯部氏が自ら一冊一冊
手作りしてくださいました。
ご参加の皆様、
当日は気を付けてお越しください。皆様と
お目にかかれます事を心待ちにしております。

来たる5月29日(日曜日)に開催されます
磯部喜一憲兵曹長の講演会、たくさんのお申込みを
ありがとうございました。
98歳の磯部氏も
「自分の体験を一人でも多くの若い世代に伝えたい」
との意気込みで臨まれます。
当日配布される分厚い資料も磯部氏が自ら一冊一冊
手作りしてくださいました。
ご参加の皆様、
当日は気を付けてお越しください。皆様と
お目にかかれます事を心待ちにしております。
先日、お目にかかったのは第55戦隊の飛燕のパイロット
A少尉のご遺族でした。A少尉の
第55戦隊は第244戦隊とともに知覧の防衛と
特攻機の掩護を担った部隊です。
昭和20年、A少尉は知覧上空で、空襲にやってきた
シャングリラ隊のシコルスキーコルセアF4U-Dを2機撃墜後、
さらに体当たりし、結果的に3機を撃墜しております。
体当たりののち、A少尉は落下傘降下に成功しましたが
それを見ていた僚機米軍パイロットも
頭にきたのでしょう。
降下中を狙い、落下傘を切断。少尉は地上に激突戦死したようです。
市街地上空だったため、目撃者が多くおりました。
ご遺族はなぜ落下傘を切断したのか、また
最期の瞬間何を思っていたのか、そればかりを考えているようでした。
戦争ですからね・・・としか私は申し上げられませんでした。
しかしながら、こうして70年経過した今も
武勲を讃え、後世に語り継ぐことを大切になさっています。
そうした思いを誰もが忘れず、ずっと残していきたいと
願ってやみません。
私はどちらかというと普段から健康に留意し、体力には自信があるほうで
有酸素運動と筋力トレーニングをバランス良く
組み合わせ、体脂肪率も8パーセントを
保持するよう努めております。
食生活は栄養バランスを考え、腹八分を心掛けています。
しかし、ここ二週間ほど
原因のわからない体のだるさが続いており
立って歩くのがやけにしんどい状態でした。
それでも昨日は遺族と面会の約束をしていたので
東京の立川市へ行ってきました。
用が済んで、帰りの電車は運よく座ることができたので
2時間位、ずっと座っていました。
最寄駅に到着して立ち上がったところ、心臓が激しく動き、
やや意識が遠のきまして、これはまずいと思い、
救急車を呼んでもらおうか、そんな考えが頭を過りましたが
こんな程度で救急車を要請しては、恥ずかしいような、
申し訳ないような気持ちになり、
とりあえず、しばらく座って休んでいたところ、収まりましたので
駅から車を運転して帰宅した次第です。
かかりつけの内科で大苦手の血液検査をしたところ
どこも悪いところはありませんと言われました。
内科医に「きちんと水分補給はしていますか?」と聞かれましたが
私はパラオや硫黄島で
「水分は小便が透明になるまでシッカリ飲め」と
教わっていましいたので欠かすことはありませんでした。
検査結果はよかったのですが、未だ原因不明で
動悸やめまいがするので、今は自宅で安静にしています。
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浴室の脱衣所の扇風機が古くなっていたので再塗装。
元々は白だったのですが経年劣化でかなり黄ばんでいました。
ちなみに20年もの。
思いつきで零戦カラーにしてみました。
サーフェイサーも吹かずにやっつけ仕事です。モーターの開口部を
マスキングしてエアブラシでおおまかに塗って、細かいところは筆塗り。
余っていたデカールを適当に貼って完成。
浴室は家族以外誰も来ないし、まあこんなモンでいいかなと、
しかしながら空は飛べません。

今日(21日土曜日)は二荒山神社前でイベント出店です。
自衛隊イベントなのですが、私は今回も旧軍グッズ一本で行きます。
最新鋭の兵器より昔のゼロ戦の良さを伝えたい。
私の全国零戦巡りの旅(正確には陸海軍機巡りですが)
写真を整理していて色々と出てきました。
知覧の隼、これが残念です。
細かい部分までよく再現されているのですが
汚すぎます。元々の色が何色なんだかわからなくなっています。
ひとつ前の記事のゼロ戦と比べるとあんまりな状態です。
文字通り風化しているではないですか。
まずは、この機体を綺麗してほしいと願っています。
この隼三型は、特攻機仕様で、左翼下に増槽、右翼下に爆装と、
その佇まいを眺めているだけで、涙が出てきます。
一般的な胴体下(中央)に爆装でなく、片翼に増槽と爆弾をひとつずつ、
というアンバランスな組み合わせが涙もんなのです!
展示機で爆装しているのはこの機体だけです。
説明書きはなくとも、自然と感じるものがある筈です。
日本に現存するゼロ戦を巡ってきましたが
このたび名古屋でコンプリートし、ゴールとなりました。
巡ったのは以下の通りで、全て写真も自分で撮影しました。
これからそれぞれの特徴をまとめていきたいと考えています。
◆鹿児島県
知覧特攻会館(零戦52型、隼、飛燕、疾風)
海上自衛隊鹿屋資料館(零戦52型)
◆大分県
宇佐市平和資料館(零戦52型レプリカ)
◆福岡県
大刀洗平和記念館(零戦32型)
◆広島県
大和ミュージアム(零戦62型)
◆愛知県
三菱重工名古屋航空宇宙システム
製作所史料室(零戦52型、秋水)
◆静岡県
航空自衛隊浜松基地広報館(零戦52型)
◆山梨県
河口湖自動車博物館(零戦21型、52型、一式陸攻)
◆東京都
靖国神社遊就館(零戦52型)
上野国立科学博物館(零戦21型)
◆青森県
青森県立三沢航空科学館(21型レプリカ)

昨日は靖国神社で私が代表事務を代行する戦友会の慰霊祭でした。
部隊の創設日に合わせて例年開催しています。
今年は戦友四名、親族遺族五名、有志四名が
集まり、昇殿参拝を行いました。
靖国神社の本殿は木洩れ日と心地よい風に包まれ
時折、柏手を打つ音が遠くから聞こえる程度で
都心とは思えない静かな雰囲気でありました。
94歳の元大尉は
「今年も戦友に会う事が出来て本当に嬉しかった。戦死した者
先に逝ったもの、それに我々も、これからそちらへ
行くだろうから待っていてください」と言いました。
戦友会員の最年長は98歳です。
九段下の駅を降りて、大鳥居をくぐり、長い参道をゆっくり40分かけて
歩いてくるのです。まだ五月で心地よい気候ですが
八月ともなれば堪えることと思います。
戦友会は毎月開催していますが、先月も会員に不幸がありました。
毎月、今月もちゃんと来てくれるだろうか、とヒヤヒヤしております。
戦友会を見てきて、私が感じる健康長寿の秘訣を書きます。
言葉を選ばずに書きますとボケ防止と健康の秘訣は
おおきく二つ。歩くことと、コミュニケーションをとることです。
出掛けた先で家族以外とコミュニケーションをとることが何より
脳への刺激となります上、楽しみも増えます。
それには、歩いて出かけようという意思がなければ
叶いません。先ずは健脚を保持。
体力が無くて億劫だからと家に居てばかりではいけないでしょう。
新しい事が無いと、ボケが急激に進みます。もちろん無理は禁物ですが
適度な負荷は必要です。付添いのご家族も、何をやるにも
「甘やかせないでなるべく本人にやらせてください」と言います。
健康で長生きされる方に共通して言えることは
常に探究心と好奇心を持っています。綺麗な女性が好きです。
タバコも好きですし、歌も歌います。
先日は94歳の方が
「コレ買ったんだけど、使い方を教えてくれ」
とタブレット端末を持ってきたので驚きました。
運営当初は高齢者を大事にするあまり
結構、恐縮していたのですが最近は割合、言いたいことを
言えるようになりました。
ともかく、我々は最後の一兵まで
お付き合いするつもりです。

私は無類の絶叫マシーンマニアであります。
この度は大阪へ行ったついでにウニバーサルスタジオを訪園し
念願だった新作、フライング・ダイナソーに搭乗致しました。
このマシーンの感想を書きます。
富士Qのように高度がないので、あまりスリルはありませんが
宙返りと疾走に伴う爽快感は充分に楽しめます。 背面飛行のまま
宙返りするので、レッドアウトが体感できる国内では貴重なマシーンです。
飛行機好きはぜひ!
ディズニーと比べたらかなりいいです。ハリーポッターも搭乗しましたが
こちらはほとんどがバーチャル映像で テレビCMのような鮮明さは
ありませんでしたし、乗り物のカゴが ゴトンゴトン動いているだけなので
それなりでした。
不動産投資勧誘の電話がかかってくる。
「私、〇〇の者ですが、今度新しく出来るマンションがありまして
〇〇まで歩いて数分という好立地ですし、ナンタラカンタラ」
東京の一等地にマンションができるから、購入しないかという旨らしい。
一方的な電話を聞いていれば、こちらの名前も住所も知らないようだ。
「どちらへおかけですか?」と尋ねても言葉を濁す。
それで
「どうしてこの電話番号知っているのですか?」と尋ねると
「東京データシステムというところから購入していまして・・・」
と、なんとも正直すぎるほどの回答。
この会社に連絡して、何とか削除してもらえないだろうか。

今年はアンガウル島の遺骨調査へ参ります。
現段階でアンガウル島の遺骨収集は、
まだ調査段階にあります。大勢を引率しての
行動は難しい為、先ずは私を含む島の地形を知る経験者
2、3名での少数精鋭が派遣となりました。
まず、台風で多くの木が倒木したので、それを伐採して、玉砕地点への
道を作らねばなりません。それからGPSで洞窟の場所などを
入念に調査していきます。地図をイチから作らねばなりません。
なるべく早く、遺族や学生などの収集団体の
受け入れ体制を整えるべく、行って参ります。
2016年6月19日(日曜日)は、陸上自衛隊
北宇都宮駐屯地にてイベント
「北宇都宮駐屯地記念行事」が行われます。
目玉はなんといっても航空ショーで、
自衛隊、ヘリコプター唯一のアクロバットチーム
「ブルーホーネット」
TH-480B(6機編隊)による展示飛行が行われます。
ヘリコプターに特化した航空ショーでは日本一です。
ブルーインパルスも真似できない機動がここにある!
そのほか、地上には外来機の展示、
基地の内部、エプロンおよび格納庫解放し
普段はお目にかかれない基地の内部を見学できます。
自衛隊さんの売店も面白いですよ。
限定グッズを販売しております。
ぜひ6月19日は北宇都宮飛行場へおいでださい。
▲▼宙返りを行うTH-480B機と編隊飛行を行うTH-480B機(予行訓練なので観客が居ない)
なお、チラシにはヘリの地上滑走体験と書いてありますが・・・
それは建前であります!申し上げたい意味は
おわかりになりますでしょうか!ぜひいつもの街を
空から眺めてみてください!


航空祭で配布予定のB5サイズのミニポスター(資料)です。
裏側は資料となっております。とはいっても疾風の戦記でなく
生産側の視点が主となっています。
戦中、宇都宮では疾風の製造工場がありました。
疾風の製造工場で必死に働く16,7歳の女学生の話など
当時の証言をもとに記載しました。大東亜決戦機、それはまさに国民の
総力が注ぎ込まれ前線に送り出された、飛行機でありました。
少女が重労働に従事し、最前線では同じく16,7の少年が特攻へ行く、
これは悲劇ではありますが、同時に、
本当に日本の為に頑張ってくれてありがとうございますと、
そういった気持ちを周知したいと願うものであります。
幻の零戦64型です。
終戦間際に三機のみ製造されたモデルで、試作機を54型丙、
量産型を64型と称します。ゼロ戦の最終型のひとつで
三菱「金星」エンジンの搭載に伴い、大型化したエンジンカウルと
プロペラ・スピナー、上部のエアインテークが特徴です。
エンジンは彗星三三型と同じとの説があります。
「もう格闘性能は時代遅れだ!」「モアパワーだ!」ということで
出力と一撃離脱に特化。剛性を強化したモデルです。
ゼロ戦の優美なフォルムが失われている反面、
いかにも改造機といった造りになっており
好みが分かれるところです。
胴体内機銃を撤廃。零戦52型丙と同じくロケット弾搭載用レール、
左右両翼下に増槽を搭載可、胴体下に爆装可とし
昭和20年、横須賀と青森県の三沢にありましたがGHQの進駐に伴い
破壊されてしまいました、幻の機体です。


零戦六三型(63型)/五四型丙(54型へい)
ゼロ戦の最終型Ⅱ。三菱製、金星六二型エンジンを搭載し、離昇出力を
1,560馬力に向上させた。エンジンは彗星三三型と同様の見解あり、大型化に
伴い、プロペラ・スピナー、上部のエアインテーク等の形状が異なる。
火力、装甲を強化したほか爆撃戦闘機として、跳弾爆撃、急降下爆撃に対応し、
機体剛性を強化した。五四丙の量産型を六四型と称するが実戦に至らず終戦と
なった。画像は推定。
零戦64型/五四型丙 【零戦六四型/五四丙型諸表】A6M8
発動機/金星六二型 離昇出力/1,560馬力 上昇力/6000m/6分50秒
最高速度/572km/h 巡航速度/370km/h 航続距離/-,---km
自重/2,150kg 全備重量/3,150kg 燃料搭載量/650+300L
全幅/11.00m 全長/9.237m 全高/3.570m
主翼面積/21.300㎡ 翼面荷重/148.0kg/㎡
兵装/翼内13.2mm機銃×2 20mm機銃×2
爆弾60kg×1 250kg×1 ロケット弾
正式採用/昭和20年7月 生産機数/2機
零戦の雑学-型式一覧へ戻る
21型 32型 22型 52型 52型甲 52型乙 52型丙 53型丙
54型丙 62型 63型 64型 二式水戦


来たる5月21日は自衛隊グリーンフェスタです。
10時30分より15時迄。
第12音楽隊による演奏、車輌展示、ユニフォームセレクションなどなど
終了後は、自衛隊と一般女性のお見合いパーティ(今年もやるのかな?)
プログラムに載らず行われるのでわかりませんが、毎年大人気です。
今年は餃子祭りと同日開催です。
メインに、オリオン通り、バンバ広場、城址公園に
自衛隊車輌を展示します。普段は駐屯地内で行われることの多い
自衛隊イベントですが、この日は市民に理解を深めるべく
市街地で行います。
自衛隊好きの方で、撮影される方、
狙い目は朝一番、自衛隊車輌の搬入と終わった後の搬出です。
アーケードを背景に走る装甲車を撮影できます。
昨年は、平和団体の方が開催中、抗議にやってきまして
少し開催が危ぶまれたのですが
今年も無事開催の運びとなりました。
私もバンバ広場(二荒山神社前広場)に居りますのでぜひお出かけください。
公式チラシ
http://www.mod.go.jp/pco/tochigi/event/gf_tirasi.pdf
追記
2016年6月19日は北宇都宮駐屯地イベントです!
今年も講演会の依頼を随分と頂いております。
本当にありがとうございます。今年はなんと関西からも
ご依頼くださいました。終戦の日前が多いのですが
それ以外の日も行っております。
講演会の魅力は、ブログや本に書けないような裏話が
たくさんできることです。案内は、随時更新していきますので
よろしくお願い致します。

元ゼロ戦パイロットで空母「瑞鶴」戦闘機隊だった藤本速雄さんに
インタビューしてきました。藤本さんはマリアナ沖海戦で一航戦
「瑞鶴」に乗組み、奇跡的に生還された搭乗員です。
第一次攻撃隊128機のうち、帰還できたのは
戦闘機隊(零戦)が藤本さんを含む5機のみ
(内3機の搭乗員は大鳳に着艦し、沈没戦死した。)
彗星艦爆は2機、艦攻(天山隊)は全滅。
篠原
「藤本さんは彗星艦爆の護衛でしたね」
藤本氏
「みんなやられてしもうた」
藤本さんは上方より敵機が降ってくる仕草をして
悲しそうな表情を浮かべる。
ここで兎に角伝えたいのはマリアナ沖海戦の評価で流布されている
大きな誤解「搭乗員の練度不足」である。これを藤本さんは
真っ向から否定する。
藤本さんは
「練度不足、そんなものは作戦本部の言い逃れだ」
「空母への着艦は簡単だった」とも語っており、
経験の浅い搭乗員は発艦はできるが着艦はできない、といった説も
嘘になる。では、帝国海軍がマリアナ沖海戦で敗北した一番の要因は何か。
日本とアメリカの戦力が違いすぎる!
帝国海軍機動部隊の飛行隊は一、二、三航戦全て合わせても約400機。
これは戦闘機、爆撃機、雷撃機全てを含めた数だ。
主力である一航戦は149機。それに対し、米機動部隊は
15隻の空母から戦闘機だけで450機。爆撃機、雷撃機を合わせると
約950機。日本を遥かに凌ぐ勢力である。
藤本さんの所属する一航戦の戦闘機は
僅か48機で、彗星と天山合わせて80機を護衛した。
藤本氏
「九死に一生どころじゃない。千死に一生やと思う。
もし、逆なら、私は敵を一機も帰さん」
技量云々の問題ではない。多くの熟練搭乗員も未帰還となっている。
マリアナ沖海戦の話、そのほか雷跡に突っ込んでゆく彗星艦爆を見た話、
前衛の艦隊に誤射を受けた話、その後フィリピンで特攻の
護衛を行った話など、伺った。
このインタビュー内容も少しずつ書いていきたいと思う。
追記
先日お会いした笠井さんも、紫電改はグラマンよりも優れた
戦闘機であったが、どんなに高性能でも数が違う。これではダメだ、そう
仰っていた。
なお、一航戦の生還者である藤本さんは『今日の話題』で
手記を発表している。NHKアーカイブスでもネット視聴可(無料)
もう一人の白浜芳次郎さんは
『不屈の海軍戦闘機隊―苦闘を制した者たちの空戦体験手記』
(光人社NF文庫)で手記を発表している。書店、amazonで入手可。
追記
藤本速雄さんは
2016年12月28日にご逝去されました。


零戦パイロットの原田要さんが3日、ご逝去されました。99歳でした。
100歳の誕生日にはお祝いに行こうと、友人と話していたのですが
残念です。言葉にならない悲しみがあります。
ご高齢の方と多くお付き合いがあると、
もう次は会えないかもしれないと、一応に覚悟はしているのですが、そうはいっても
何度経験しても身を引き裂かれるような悲しみと辛さは変わりありません。
こんなことなら、もう、やめてしまいたいと思う事が何度もありました。
そうして研究をやめていった者も居ります。
しかし、やめるわけにはいかんのです。やめるわけにはいかんのです。
最後にお会いしたのは昨年でした。原田さんが
「どうぞ、また来てください」と、手を振ってくださって
にっこりと、穏やかな表情で言ってくださったことを思い出します。
忘れません。ご冥福をお祈り申し上げます。
原田要さんのお話 撃墜した敵パイロットの顔が忘れられない
稲妻マークが描かれた雷電、その格好よさから
プラモデルのパッケージなどにも描かれ有名な機体であるが
搭乗員の青木義博中尉の人物や戦歴について言及した資料は
殆ど残されていない。この頁では青木中尉の調査を重ね、少しずつ
完成に近付けていこうと考えている。
青木義博(あおきよしひろ)中尉は
予備学生11期出身で大学在学途中から海軍に入隊。
青木予備中尉とも呼ばれる。青木中尉の所属した
第352海軍航空隊は予備学生出身の指揮官が多い
特異な航空隊でもあった。
台南海軍航空隊時代
青木中尉の実戦は台南航空隊時代から始まる。
ここで記す台南海軍航空隊(以下台南空)は
南方へ進出した有名な台南空でなく二代目となる。
昭和18年4月に開隊した二代目台南空は
艦上機の実用機教程を担当する部隊に防空用の
乙戦隊(雷電)と丙戦隊(彗星)が必要となった。
台湾は陥落したマリアナに次ぐ決戦場のフィリピンの
後方基地にもかかわらず、実戦用ナンバーの航空隊が置かれていなかった。
(土地の名称がついた航空隊は訓練航空隊で、番号のみは実戦部隊となる)
台湾および北九州は、既に支那大陸の成都に配備されつつあった
超空の要塞B-29が爆撃可能な距離にあり、支那大陸南部からは
B-24の行動半径にも含まれた。そこで零戦のほか雷電の派遣が
決定された。
青木中尉、雷電との出会い~P-38との初空戦
昭和19年7月初旬、台南空の戦闘機隊分隊長だった青木中尉と
高橋茂上飛曹ら三名は厚木基地へ赴き雷電の講習を受ける。
講習終了後に鈴鹿基地へ移動し、雷電二一型3機を受領。
先ずは、この雷電3機を台湾へ空輸すべく鈴鹿基地を離陸した。
ところが、この内1機は鈴鹿で片脚が出ずに破損。
代機をもらったが、追浜と沖縄で1機ずつ破損したため
台南基地へ空輸できた雷電は1機のみであった。
この1機に青木中尉が搭乗し、台南で飛行訓練を行った。
昭和19年9月頃、青木中尉は、台南空で雷電の
訓練飛行中、大陸から飛来したP-38と遭遇、空戦に入った。
この空戦は青木中尉が急操作で横転降下したため
未決着に終わった。
同年10月中旬の台南沖航空戦で台南空の零戦隊は
邀撃戦に参加したが
青木中尉の雷電は出撃せずに終わった。※3
第352海軍航空隊へ
昭和19年12月下旬、台南空(二代目)が解散。青木中尉は台湾より
長崎県大村へ移動し、第352海軍航空隊乙戦隊第三分隊長となった。
▲青木義博中尉と雷電
▲昭和20年冬、青木分隊長機を背に針路を検討する予学出身搭乗者。
左から菊地少尉、山本少尉、星野少尉、金子少尉。
▲小隊長機の稲妻マーキングは写真が残っていないので推定。
稲妻マークの雷電誕生
第352海軍航空隊乙戦隊では、青木分隊長の着任後
雷電にユニークな塗装を施した。分隊長機には2本、小隊長機には
1本の太い稲妻を胴側に描いた。※1
「雷電だから、稲妻でいこう」
と言い出した栗栖幸雄飛長(特乙一期)の発案とされる。
おしゃれな青木中尉はずいぶん気に入ったようだ。※1
昭和20年1月6日、大陸・成都基地より北九州へB-29が来襲。
第352海軍航空隊の主力、雷電隊はこれを迎撃したが
このとき青木中尉が出撃したかは不明。さらに
4月末より約三週間、第352海軍航空隊は雷電集成部隊
(他航空隊と協同した雷電隊)に編入されB-29邀撃にあたる。
稲妻マークのアイディアを出した栗栖飛長もB-29を一機撃墜している。
二本の稲妻が描かれた352-20号機は、青木中尉が搭乗する以前から
士官に主用されており、乙戦分隊長杉崎直大尉、先任分隊士の
沢田浩一中尉が搭乗し、青木中尉に引き継がれた。
青木中尉が稲妻マークを描いた機体に搭乗したのは
大村時代までで、鹿屋進出後は、目立ち過ぎを考慮したのか
明確な理由は定かでないが、稲妻マークなしの352-37号機に
乗り換えとなった。※2
昭和19年6月8日、第352海軍航空隊空乙戦隊は
岡本俊章大尉の指揮で鳴尾(兵庫県)へ後退。
搭乗員は第332海軍航空隊へ編入される。
岡本大尉は築城(福岡県)の203空に転じた。
このとき、青木中尉は航空神経症にかかる。
航空神経症は気圧調整の無い航空機で高高度の飛行を続けることにより
過度の気圧変化や酸素不足となり、頭痛、めまい、吐きけ、だるさ
記憶力減退、呼吸困難などの症状を引き起こす病。疾病により
青木中尉は夜戦隊付の身分で大村に残留。終戦を迎えた。
青木中尉の戦後
下記サイト「旧軍戦史雑想ノート」様に依れば
青木中尉は復員時に大尉。生きて終戦を迎える。
戦後、海上自衛隊に入隊しヘリコプターに搭乗したが
昭和37年、事故によりヘリコプター事故により殉職したと記されている。
これを見て、海上自衛隊の事故記録を探ったが、当該の記録が
見当たらないので今後もよく調査を続けることにする。
※4
戦中は雷電でB-29邀撃に身を挺し、戦後国の為に殉じた青木中尉を
忘れない。
追記!こちらの本
『局地戦闘機「雷電」―海軍インターセプターの実力』の中に
青木中尉ご本人が書かれた手記が掲載されています。
昔、丸に掲載されたもののようです。
興味がある方はぜひ!
出典
※1渡辺洋二著『異貌の海鷲局地戦闘機「雷電」』284頁
※2『世界の傑作機No.61海軍局地戦闘機雷電』70頁
※3同53頁
※4旧軍戦史雑想ノートhttp://ameblo.jp/pico3298/entry-10000309129.html
先日は元近衛歩兵第二連隊で100歳の方にお会いし
インタビューしてきました。
近衛歩兵というのは、天皇陛下の親衛隊です。
当時から皇宮警察はありましたが、それとは別に
日本陸軍二個連隊が宮城の警備を行っておりました。
周知の通り、現在の自衛隊は皇居の警備は行いません。
タイトルは「みやぎ」ではありません。宮城(きゅうじょう)と呼称します。
昔の皇居の呼び名です。
この方は
先の大戦時にも宮城の警備を担い、終戦の日もクーデター側の
将校から玉音放送のレコード盤を奪還せよとの命令を受け
宮城内を探し回ったと、お話しくださいました。
このときは兵卒として上官の命令に従っただけなので、
罪には問われませんでした。クーデター終結し、
戦後しばらくは奥日光の南間ホテルで
皇太子の警備にあたりました。(今上陛下であります)
近衛歩兵は通常の歩兵とどう違うのですか?との質問には
訓練内容は通常の歩兵と変わらないが、
ハクをつけるため、戦地(この方の場合は北支)に派遣され
歩哨を行ったとのことでした。
近衛歩兵になるには、特に身辺調査が厳しく、
曽祖父の代までさかのぼって、家柄、純粋な日本人であるか、または
知り合いに共産思想の者が居ないか、調べつくされ
合格した者だけがなれました。大変な調査ですから、
一番、手っ取り早い採用方法は土地土地の名家の若者を
選ぶことでした。
日本が戦争に敗れ、GHQが新しい日本を作る迄、
元首は天皇と明確にされていました。
現在の日本国憲法でも、建前上
天皇が総理大臣を任命する形にはなっていますが
元首である旨はGHQによって削除されています。
この辺りの取材内容も書きたいのですが
仕事の合間にやっているもので、なかなか進みません。
いまは来年のカレンダーの製作しております。
デザイン業はかなり先々のものをやるので、季節感が
麻痺します。