昭和20年2月28日、午前10時
片倉少佐の操縦する百式司令部偵察機(キ-46-IV)
が北京・南苑飛行場を離陸した。※1
目的地は陸軍航空審査部のある
東京・福生飛行場(現在の横田基地)である。
片倉少佐機は離陸後、偏西風を利用し、
北京から東京までの2,250kmを平均速度700km/h強で飛行し
3時間15分の記録を樹立した。
(現在のジェット旅客機でも離陸準備を含めると、
北京-東京間は3時間30分かかる)
その後、片倉少佐の操縦する百式司令部偵察機は、
海軍の鹿屋基地へ進出。米軍機の待ち構える
沖縄方面への偵察をのべ12回にわたり敢行し生還している。
百式司令部偵察機はF6F戦闘機より高速で、その追撃を許
さなかったとされる
※1
この時飛行した百式司令部偵察機は二機で
片倉機に続き、鈴木准尉の百式司令部偵察機が30分遅れで
南苑を離陸し、片倉機の後を追っている。鈴木機は信州上空で
片倉機に追い付き、以後は編隊飛行で福生へ向かった。
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先の大戦で最も優秀な飛行機をひとつだけあげるとするならば
文句なしに陸軍の百式司令部偵察機だと思う。
信頼性の高いエンジンに加え、当時では画期的だった
流線型のフォルムで高速性能を誇った。
百式司令部偵察機の完成は意外に早く、
海軍の零戦と同じ年の皇紀2600年にあたる。零戦は末尾をとって
零式戦闘機としたけれども、百式は三桁で百式と名付けた。
支那戦線では、大陸奥地まで高高度で偵察飛行を行い
その後の作戦・戦略におおいに活用された。
百式司令部偵察機は二人乗りの、空飛ぶ作戦司令室である。
その高速を利して、単機ゆうゆうと敵陣上空を
飛び回り、敵戦闘機の追随を許さず帰還した。
少年飛行兵出身のベテランパイロットが操縦し
後ろの席には戦略分析に長けた将校が乗るケースが多かった。
一万人、二万人といった、一個師団単位の歩兵を動かす重要作戦に
あたっては、適地奥地まで入念な偵察が不可欠となる。
その活躍は大戦末期においても衰えることなく、米F6F戦闘機の
追撃も振り切った。
敵機を振り切ったエピソードといえば「我に追い付く敵機(グラマン)なし」
と打電した彩雲が有名だが、故障が多く、登場も大戦末期だった。
百式司令部偵察機の活躍は知られていない。
出典
航空ファン1982年1月号に掲載の内容を
『世界の傑作機-百式司令部偵察機』20頁の改訂版。
P-51の鹵獲機(戦利品として得た兵器)を描きました。
P-51鹵獲の経緯
このP-51は、昭和20年2月、支那戦線で鹵獲された機体で、
パイロットは第51戦闘航空群第26戦闘飛行隊所属の
サミュエル・マクミランJr少尉とされる。
少尉はこの日、蘇州の日本軍飛行場攻撃任務中、対空砲火で被弾。
不時着したところを日本兵に囲まれ捕虜となった。
少尉は捕虜として日本へ移送され、終戦後、釈放され帰国している。
復元修理
P-51は復元・修理が行われ、飛行可能な状態となる。
同年3月、機体は米軍機の国籍標識を日の丸に塗り替えられ、
北京、南苑を経由して、東京・福生の陸軍航空審査部へ空輸された。
機体塗装は、日の丸を上描きしただけで、シャーク・マウス(機首に
描かれたサメの歯デザイン)は鹵獲時のままだった。
Fw190、P-40、P-51、飛燕、疾風、5機による性能テスト
福生の陸軍航空審査部では、入念に機体調査を行ったのち
ドイツから輸入したFW190、同じく鹵獲機のP-40、
三式戦闘機飛燕、四式戦闘機疾風の五機による性能比較試験が
行われた。
スピード競争では、上空で五機を一斉にスタートさせた。
まず、瞬発力に優れたFw190が飛び出したが、
三分後にP-51Cが追い抜き、五分後には圧倒的性能で引き離した。
Fw190と四式戦がほぼ互角で争い、次に三式戦、最後が
P-40という結果に終わった。
鹵獲P-51によるアグレッサー部隊
その後は、硫黄島基地から来襲するP-51戦闘を想定し
航空審査部のエースで飛行第64戦隊(加藤隼戦闘隊)飛行隊長も務めた
黒江保彦少佐がP-51Cに搭乗し各地の防空戦闘機隊を巡回。
関東地区では244戦隊、17戦隊、70戦隊、51戦隊、52戦隊
次いで中部地区の明野飛行教導師団、関西地区の56戦隊、256戦隊へ
赴き戦技指導を行った。
P-51の燃料は高オクタン価ガソリンであり、当時の陸軍には超希少品であったが
あらかじめ巡回先の飛行場へ鉄道で運ばれた。
昭和20年7月、黒江少佐のP-51Cは256戦隊の戦技指導中に
オルタネータ(発電機)故障により、飛行不能となった。
代替の部品を国産でまかなおうと努力が重ねられたが、見つからないまま
終戦を迎えた。
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こちらの本に、P-51の何枚か写真が載っています。
より正確なものを知りたい方はぜひご購入下さい。
出典・参考
『日本軍鹵獲機秘録』
7日から9日まで関西方面出張にて
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何かありましたら携帯電話の方へお願い致します。
人生、何か楽しみが無いと、働く気にならないと思うのです。
きつい仕事でも休みがあればそれなりに頑張れるはずで、
日本人はまじめで、うまく休みをとる、ということが苦手なのだと思います。
戦友会で水野元陸軍大尉に聞いた話を紹介します。
昭和20年8月、終戦。
サイゴン(現・ホーチミン)に戻ってきたフランス軍が、ふたたび威勢を張っていた。
フランス軍は連合軍と雖も、とても弱いので、ベトナム解放軍の襲撃を恐れ
サイゴンの中心地に司令部を置き、その外側をグルリと日本軍守備隊が
フランス軍を守る配置となった。とても変な恰好である。
この辺りの経緯は以前、こちらに書いた。
水野大尉の中隊は、フランス軍によって武装解除を受け、
復員を待つ間、ゴムの積み込み作業を強いられた。いわゆる強制労働である。
ひっぺがした廃材のゴム資源を、ひたすら船に積んでゆく作業なのだが
日本軍の指揮はあがらず、ダラダラと一向に進まない。
フランス軍指揮官が檄を飛ばすが、全く効き目が無い。
これを見かねた水野大尉がフランス軍指揮官に進言した。
「お前ら、日本人の使い方を知らねえんだよ。鞭で叩けばいいってもんじゃない。
俺を指揮官に一任してくれたら、お前らが7日間と見込んでいる納期を
5日で終わらせる自信がある」
これをフランス軍指揮官は承諾し、以後、水野大尉の指揮によって
作業が進められることになった。水野大尉は、一日分の作業目標を細かく設定し、
作業は順調に進んだ。すると、作業は僅か3日間で終わってしまった。
水野大尉はこれをフランス軍指揮官に伝えると、こう付け加えた。
「ほらみろ。3日間で終わったぞ。
5日間もらったから、残り2日間は休みだ。いいな」