2018年12月30日 (日)

呑龍さま(どんりゅうさま)

呑龍さま(どんりゅうさま)
 
群馬県太田市金山町にある大光寺の通称で、戦国時代から
江戸時代前期にかけて実在した浄土宗の僧である。
 
「呑龍」は当時、多くの子どもが間引かれて殺されていたことを
悲しみ、これらの子供を弟子として引き取って育てたため、
後世の人々から「子育て呑龍」「呑龍さま」と広く慕われた。
現在も子育て祈願の対象として信仰されている。
 
中島飛行機の創業者である中島知久平がプロペラ一本一本を削る
ところから始めた小さな飛行機工場は、この呑龍さまの近くに構え、
周辺住民からは呑龍飛行機工場などと呼ばれた。
 
これが由来して、中島飛行機が大企業に発展した後の昭和
15年、キ49 百式重爆撃機が開発された折、「呑龍」の愛称が
つけられる事になった。

しらすせんべい

Dscn2535_2
年末年始はスタッフも業務メールも来ないので、
集中して本が書けます。
食事と睡眠は充分ですが、陽の光を浴びたいので
31日だけは遊びに行こう!と思ってたんですが
車がパンクしました!なんてこった!
 
それで、しょんぼりしていたら、昨日の夜、友人が
孤独死してないか調べに来てくれました。
それで食糧を置いていってくれました。
本当に有難いことです!
  
「篠原さん、冷蔵庫の中からっぽだそうでー」
 
なぜそれを?
 
「Tさん(スタッフ)が言ってました」
 
ぐはっ!!!恥ずかしい!
心配かけてすいません。いまはもう大丈夫です。
ありがとうございます。

一式戦闘機「隼」型式の違い

Ki43

一式戦闘機「隼」(キ43)は中島飛行機により設計・生産された帝国陸軍を
代表する戦闘機 である。正式採用は昭和16年(皇紀2601年)で
皇紀の末尾を取って正式名称を一 式戦闘機、愛称を「隼」と呼称した。
 
大東亜戦争の開戦と共に大陸戦線、マレー半島 ビルマ等に投入。
連戦、連勝を続けた。映画『加藤隼戦闘隊』で一躍有名となり、
国民から広く親しまれた。一機当たりの価格は当時の金額で
9000円~1万円と伝わる。

Photo 隼の初期型となる一型は二枚プロペラで、火力は胴体に7.7mm
機関銃2挺を装備。零戦と同じ栄エンジン(陸軍名称ハ-25)を搭載した。
陸軍の主力 戦闘機としてアップデートを繰り返しながら終戦まで運用された。
隼は、二型、三型 と進むにつれ、重戦闘機と同様の改造が加えられていった。
総生産機数は5,700機 以上と、陸軍の航空機としては最も多い。
   

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一型/甲
一式戦「隼」の量産初期型。1型甲では7.7mm機関銃
2挺を装備し、ハ25エンジンを搭載した。
 

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1型/乙
1型甲では7.7mm機関銃2挺のみだった武装を大東亜戦争開戦前に
片側のみ12.7mm機関砲に換装したモデル。当初、12.7mmの信頼性が
確立されれおらず、このような措置となった。
 

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1型/丙
1型乙では片側のみだった12.7mm機関砲の信頼性が確保されたため
ようやく両方を12.7mmに換装したモデルとなる。全備重量は2048kg。
最高速度は高度4000メートルにおいて495km/hであった。
 

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2型前期
エンジンを零戦52型と同じ栄二一型(陸軍名ハ115)に換装し1150馬力に
パワーアップ。これに伴い、プロペラが三枚となる。左右翼端を30cmずつ
短くし、全備重量は2590kgとなる。最高速度は高度6000メートルにおいて
515km/h。五重環状骨油冷却器を採用した。1型との最も簡単な見分
け方はプロペラ枚数で、2型から3枚プロペラとなる。
 

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2型中期
五重環状骨油冷却器を撤廃し、代わってエアインテークの
大型化と形状変更を行ったモデル。
 

2c 
2型後期
カウリングを再設計し、前部を絞り込み丸みを帯びた形状となる。
前方や横から見るとデザインの違いが分かりやすい。
また、排気管の形状を僅かに変更しているのも特徴。
 

2d 
2型最終期
エンジン側面の集合排気管を、それまでの円形型からカバーをかぶせた
直線型に変更した。2型としては最も最後に生産された。
エアインテークも若干の変更が加えられている。
 

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2型(改)
エンジンとカウリング形状はそのまま、それまでの集合排気管を廃止し
この時期の陸海軍機全般にみられる、推力式単排気管を採用した
モデルとなる。3型との見分け方は排気管の本数と形状。
 

3a  
3型甲
エアインテークをより大型化し、エンジンはハ115二型を搭載。
最高速度は高度5850mにおいて560km/h。ただし航続距離は機内
燃料600km、落下タンク装備で1360kmに低下した。
 

3b 
3型乙
20mm機関砲2門を搭載した隼の最終型。試作のみに終わる。
4型も検討されたが(4型は二千馬力の誉【ハ45】エンジンの搭載が検討された)
四式戦闘機「疾風」生産に集中するため、陸軍における隼の歴史はここに終わった。
  
以上

2018年12月29日 (土)

隼が完成

Photo

隼のレイアウトができました。
ゼロ戦と並ぶ陸軍の名戦闘機です。
実はゼロ戦が国民に広く知られるようになったのは
戦後の戦記ブームの頃で、戦時中は断然、隼が有名でした。
    
デジタルにくたびれたら、蛍光ペンと黒のマーカーで
裏紙に適当な絵を描きます。

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寒いのでペンギンを描きました。素晴らしい仕上がりです。
完成した後、画像検索で正しいペンギンを調べましたが
これよりだいぶスタイリッシュでありました。

鍾馗さん

中国の民間伝承に伝わる道教系の神。
 
日本では、魔よけとして、像を屋根の上に像を載せたりする。
京都などで「鍾馗さん」と呼ばれて親しまれているが、
陸軍は二式戦闘機の愛称として用いた。
 
開発者の一人、糸川英夫は鍾馗戦闘機開発の経緯を回想し
「私の史上最高傑作は隼でなく、鍾馗だ。これが飛
んだら死んでもいいと思った」と記している。

コバルト

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元素記号Co。陸軍では「コバルト色」のように色の名称で使われた。
陸軍機は中隊ごとに尾翼のシンボル、胴体帯、スピナー等が色分け
されており、モノクロ写真からは推定するしかないが、関係者の
証言を照合すると、同じコバルトの呼び名でも、部隊によって水色
に近い色から、群青に近い色まで多様だった。
 
一例として加藤隼戦闘隊(飛行第六十四戦隊)の第一中隊の矢印の
縁取りは水色との証言がある一方で、飛行第六十六戦隊の
戦隊マークやスピナーは紺色に近いブルーを用いた。

隼二型改と三型

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隼の2型改と3型では排気管の位置が違うので
ここだけ描き直します。

平成も残りわずか

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畏れ多くも陛下の御真影が表紙の本です。
平成も残り僅かとなりまして、
毎日、見ています。ムック本は絵や写真が多くて
わかりやすくてとてもいいですね。

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神武から今上の天皇陛下まで全てが載っています。
私はコンプリートものが好きです。
イラストレーターさんが頑張ってぜんぶ描いたんだろうな~と
考えながら拝んでいます。

慰霊祭の写真届く

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勤労感謝の日に茨城県護国神社で行われた水戸歩兵第二連隊並びに
ペリリュー島守備部隊合同慰霊祭の写真と茨城の新聞の記事が届きました。
参加者には全員届いていると思います。
 
この集合写真を撮るのが毎年、私の仕事になっています。
毎年仰せつかり、幸せです。
 
撮影のお手伝いをしてくださった
Iさんには本当に感謝です。

九九式双発軽爆撃機

Photo_2●九九式双発軽爆撃機
「金魚」「おたまじゃくし」と呼ばれ親しまれた。キ番号は48。
機体は川崎航空機製で、エンジンは中島製。
 
一型は零戦と同じハニ五(海軍名「栄」)二型はハ一一五を採用。
陸軍の傑作機で、二千機以上が生産された。
 
通常四人乗り。航続距離は二千キロ以上、爆弾搭載量は軽爆として
申し分ない四百キロであった。速度と運動性が良好で、
急降下爆撃機が可能。宙返りを行ったパイロットもいた。
支那事変から大東亜戦争初期に活躍したが、徐々に旧式化。
在支米軍戦闘機に苦戦を強いられるようになると、友軍戦闘機の
護衛不十分なままに進攻作戦・敵飛行場撃滅に従事。
多くの戦場は敵地上空のため、被弾しても不時着は不可能であり、
自爆、未帰還となった。