赤城と零戦
お待たせしておりました、赤城を発艦する零戦、撮影しました。
モデルのAI-103号機は赤城戦闘機分隊士の指宿正信大尉機としました。
赤城も細かい部分まで作り込まれています。
詳しくはこちら
1/700スケールの赤城に1/48の零戦を搭載したので
ネタバラシをすると元々はこんな感じ。
他のアングルでも色々撮影できそうです。
お待たせしておりました、赤城を発艦する零戦、撮影しました。
モデルのAI-103号機は赤城戦闘機分隊士の指宿正信大尉機としました。
赤城も細かい部分まで作り込まれています。
詳しくはこちら
1/700スケールの赤城に1/48の零戦を搭載したので
ネタバラシをすると元々はこんな感じ。
他のアングルでも色々撮影できそうです。
「陸軍特別攻撃隊~第一九四振武隊 隊長ヲ命ズ」
(陸軍戦闘機パイロット堀山久生先生のお話)
表記の通り
3月26日(日曜日)、東京浅草で
笹幸恵先生が主宰されております、近現代史研究会で
四式戦闘機パイロットで振武隊(特攻隊)でした
堀山久生先生の講演会が行われます。
昨日、笹さんにお目にかかりました際、
ほんの数名、お席に余裕があるとの事、
保証の限りではございませんが、興味のある方は
この機会にお問い合わせください。
詳しくは以下のリンクをご覧下さい。
http://www.panda1945.net/
取材先のお宅にお邪魔するときなどは、必ず
手土産を持参しますが、お渡しする折、私は
「つまらないものですが」という言葉を添えています。
何かのきっかけで、それを若い人にお話ししたら、
「篠原さん、知らないんですか?最近は『つまらないものですが』っていう
セリフは言っちゃいけないんですよ!そういう場合は『コレコレこーいう訳で
すごく美味しいお菓子なんですけど、よかったらどうぞ!』って言って渡すほうが
絶対印象いいですよ!」
と、言うんです。
そうだったのか!
恥ずかしいことをしてしまった!
早速、家に帰ってからヤホーで問題の語句を検索してみました。
そして数多存在するマナーについて書かれたインターネットコラム等に
目を通してみました。
確かに、最近はあまり使わない表現のようでした。記事の中には
「そのセリフはマナー違反です!」との鋭い指摘も。
でも、よくわからないんですけど
何故「つまらないものですが」が不適切なのか、具体的に
説明されている記事はほとんどありませんでした。
強いていうなら「時代遅れ」かな。
ならば!私は次のような見解を唱えることに致します。
謙遜せず、「これは上等な品物です」と言い切る事例が認められつつある・・・
多様な価値観を共有していこうという考えには私も賛成です。
「すごく美味しいお菓子だから貴方にも召し上がってほしい」
それはそれでいいと思います。そう言われたら嬉しいですもんね。
しかしながら多様な価値観を認める、という事は、古いものを
捨て去る、または否定するのとは訳が違うと思うんです。
両方あってもいいと思います。
だから「つまらないもの」はありです。
新渡戸稲造『武士道』によると
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アメリカでは贈り物をするとき、贈る側は受け取る人に向かって
その品物をほめそやす。しかし日本ではその品物の価値を
軽く言ったり、悪く言い立てたりさえする
アメリカ人の心情はこのような場合
「この品物は素晴らしいものです。これが良い品物でないとすると
あなたに差し上げようなどとは思いもよりません。良い品物でないものを
差し上げることはあなたを侮辱することになります」ということになる。
これに対して、日本人の理論はこうである。
「あなたは立派な方です。どんな贈り物も立派なあなたにはふさわしく
ありません。私があなたの足許に置く品物は私からの感謝のしるしとして
しかお受け取りになれないでしょう。どうぞこの品をその物の価値でなく
私の心からのしるしとしてお受け取りください。最上のものでも
あなたにふさわしい、といえばあなたの品格を傷つける侮辱となるでしょう」
この二つの考え方を並べてみると、つまるところの思想は同じである。
どちらもおかしいことではない。私たちの立居振舞ひとつひとつに
日本人の礼儀作法の感覚があらわれているかといって、その中の
些細な事柄を取り上げて、それを典型として一般化し、原理そのものを
判断するのは誤った推理の方法である。
真実を語る事と、礼儀正しい事、どちらが大切か、という問いに対して
日本人はアメリカ人と正反対の答えをする、と言われている。
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引用おわります。
私は日本語の奥ゆかしさが大好きです。
日本人の奥ゆかしさの根底には、他人に対する誠の思いやり
が存在しているからです。
奥ゆかしさの中に存在する思いやり、根底は何ら変わらない、
欧米ではそれを愛と呼びます。
飛行第244戦隊の飛燕、小林照彦戦隊長機です。
B-29に突撃するシーンを再現しました。
二機は別々に撮影し、合成したもので
撮影は同じ場所、同じ時間に行います。
これが一番簡単な方法で、
陰影(光の当たる角度)が統一され、合成した際
不自然になりません。
B-29を背景レイヤーに設定して、ボカしをかけ、その上のレイヤーに
切り取った飛燕をペーストします。仕上げに釣糸を消して
プロペラを回転させます
今度、この画像をプリントして
飛燕のパイロットの方にお渡しする予定です。
関連記事
茨城県阿見町にある霞ヶ浦海軍航空隊ゆかりの地、
予科練平和祈念館へ立ち寄りました。
二度目の訪問です。
零戦の実物大模型が完成したと聞いており、
ずっと見たいと考えてました。
平日の午前中だったので、見学者は私だけでした。
隣に零戦用格納庫が新設されています。
零戦21型の実物大模型です。優美なスタイリングに
明灰色が映えます。
格納庫の際には立ち入り禁止のロープが張ってあるので
この角度からのみの撮影です。後ろ側に回って見たいのですけど。
天気の良い休日には、こんな感じで
手前に引き出して展示してくれているそうです。
回天艇のレプリカも新しく展示されていました。
建物の中は撮影禁止なので紹介できませんが
解り易く充実した展示です。
今度は晴れた日の休日に行きます!
水足さんの親友だった富安中尉の展示があると聞いて
一目見たいと、やってきました。筑波海軍航空隊記念館。
あれあれ・・・なんだか疲れてるのかな。
赤で書かれた文字がどうしても読めない。
ホームページで事前に確認はしていたのですが、イレギュラーな
臨時休館のようです。
それで、今日は映画かドラマの撮影をやっているようです。
大きな照明が見えます。入口からはスタッフさんが慌ただしく
出入りしていました。
中には入れないけど、外観だけ見て帰ろう。
マスコットキャラクターの空くんが案内してくれています。
ふむふむ。南側が滑走路だったのか。
富安中尉もここから飛び立ったのかな。
敷地の奥に慰霊碑があるようなので
お参りだけでもできないか、行ってみます。
この場所は、戦後は病院だったそうです。
筑波海軍航空隊司令部の建物も病院の施設として利用されていました。
司令部以外の建物は戦後増築されたものです。
現在は廃病院となっています。
長い渡廊下を歩いて行きます。
紙飛行機屋さんことブンドド先生が
「眠らなくても疲れない薬」を処方してくださいました。
大好評につき生産が追い付かない状況だそうです。
クッピーラムネマイボックス
http://my-box.cc/large/
▲一式陸攻
先日は、一式陸上攻撃機の搭乗員(搭乗整備兼射撃員)だった
髙石近夫さんにインタビューさせて頂きました。
以下、少し書きます。
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◆水面スレスレの雷撃敢行
髙石さんの初陣は昭和19年10月。
レイテ沖の輸送船団に雷撃を敢行した。この頃になると雷撃は専ら
単機、夜間の攻撃だった。初陣の緊張は相当なもので、緊張の余り
キンタマが内臓を這いあがり、喉から出てくるような感覚だった。
気を落ちつけようと、機内でチューブに入った羊羹などを
食ってはみたものの、なかなかこれが喉を通らなかった。
操縦員の二名は肝の据わったベテランだったのが幸いだった。
一式陸攻は凄まじい対空砲火の中を、水面スレスレを全速で
突っ込んで行った。
一式陸攻は、いったん雷撃進路に入ると、魚雷を投下する迄、一直線で
あるため、殆どが撃墜される。陸攻の戦友は出て行ったきり、ほとんどが
帰ってこなかった。お国の為に死ぬことに何の躊躇いもなかったが
初めて体験する対空砲火の雨に、驚愕した。
魚雷を投下すると、機体は雷跡を追い越して、
敵艦船のマスト直上を通過する。このとき対空砲を撃つ
敵兵の顔が見えるような
距離だった。
あとは敵弾を回避すべく機体はジグザグ運動で離脱を開始する。
操縦桿を使って旋回している余裕はない。フットバーを押し込んで
空中分解覚悟で機体を横滑りさせるのだという。
戦果を確認しようと10メートル近い機体の後部の窓まで
走ったが、転倒して辿り着くことが出来なかった。
こうして奇跡的に生還したが
基地で機体を確認してみると多数の弾痕が残されていた。
◆沖縄爆撃と機長のN大尉
昭和20年、5月、米軍に奪われた沖縄、伊江島の飛行場を
爆撃せよとの命令が下る。陸攻は60キロ爆弾を12発搭載して
鹿屋を出撃した。今度の機長は経験の浅いN大尉だった。
ところが発動機が不調で、吹かしても4000メートル迄しか
上昇できない。これでは敵対空砲火の中に突っ込むだけだ。
目標に近づけないままでいると、突然、爆弾投下用の
雷管が炸裂する音が聞こえた。N機長は
「間違って爆弾を投下してしまった」
と言った。爆弾が無いのなら帰るだけだ。
機首を鹿屋へ向けた。
一瞬、唖然とした。
こんなことをしていいのか・・・軍法会議ものだぞ。
しかしそれと同時に、
「助かった!死なずに済んだ!」
と、安堵の気持ちを覚えたのも確かだった。
帰途、エンジンを吹かしすぎたのと、航法の誤りで
不時着水を余儀なくされた。
N機長とはその後もまた、伊江島の爆撃に出撃したが
その時も目標手前で爆弾を捨てて帰ってきてしまった。
搭乗員7名、誰もこれを咎める者はいなかった。
N機長は言った。
「俺には女房と子供が居る。女房と父は折り合いが悪い。
だから俺が死ぬわけにはいかないんだ」
髙石氏は不時着水したとき、海水が目に入り、結膜炎にかかった。
機長は「ゆっくり治せ。長引かせれば出撃せずに済む」と言った。
N機長は願い叶って、前線を離れることになった。
よかったですね、と言うと、機長はニコっと笑った。
その機長も、試験飛行中に墜落して死んだ。
終戦の2、3日前だった。
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少しずつ続きを書いていきます。