2017年4月15日 (土)

定点観測の桜

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定点観測。宇都宮総合運動公園ラグビー場の土手から
せり出す桜の枝葉。奥は血液センター。
 
これに加えて、紅葉を撮ろうと思っていたら
伐採されてしまった。今はもう無い。

東松島T-2ブルー

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東松島のブルーインパルスのモニュメント。通称T2ブルー。
退役した機体を用いて保存されている。
 
この写真を撮ったのは、東日本大震災
翌月の事。瓦礫撤去に向かう車の中から。
 
手前のガードレールには浸水した際に付着した
泥がそのままになっている。写真ではわかりにくいが
機体を支えるコンクリートの真ん中あたりまで
浸水の跡が残っていた。

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現場近くの線路。

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避難所となっている石巻市の小学校。
浸水した桜の木だが、花を咲かせた。
4月の終わり頃だった。

2017年4月10日 (月)

桜と雪

桜と雪

桜(染井吉野)が満開になってから雪が降った日のこと。

茨城県護国神社の桜

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茨城県護国神社の桜

2017年4月 9日 (日)

今日から

陸軍関係の本を書き下しています。
いずれ、詳細を発表させて頂きたいのですが、
最近そちらの本の方に戦力集中しているので、
ブログがサボリ気味でした。
 
何も書かないのももったいないので、完成までの間、
テキストの代わりに、
写真で埋めていこうと思います。
いずれも趣味で撮ったものです。

 
戦争関係以外の雑記も好きで、色々な事を書きたくて
年明けにブログをリニューアルしたのですが
カテゴライズが曖昧で、そのままになっているものを載せていきます。
写真は普段からたくさん撮っているのですが、どうやって紹介しようと
考えてました。でも説明なんて最初から要らなかったのですよね。
そのままでいいや、と。
 
alt属性で検索用のソースを埋め込んでおくので
何かのきっかけで見て下さる方がいれば嬉しいかな、と思います。
 
ブログの好きな所は、マイペースで出来ることです。
フェイスブックやインスタグラムなどSNSは、
投稿するとタイムラインに強制的に表示されるので、
「見て見てー」って感じが感じ押し付けがましくて
申し訳なく、ほとんど見る専用です。
 
こちらは検索で来られるか、好きな方が好きなように
見て下さるだけなので、気持ちが楽ですし
ラボ&ライブラリ(実験室兼資料室)的な存在で
やっていきます。
 
今日はガラケーのカメラで撮ったのを載せます。ハイコントラストで
ちょうど三つの色になりました。

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▲有刺鉄線と空

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▲公園の芝生

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▲甲板から望む朝日

2017年4月 8日 (土)

靖国神社と神雷桜

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靖国神社の標本木が満開を宣言した翌日、行ってきました。
 
こちらの神雷桜は第721海軍航空隊(神雷部隊)の戦友会が戦後

植樹したもので、神楽殿の南側と合わせて二本残っています。
 
「春の梢に咲いて会おう」
 
パイロットの方々は、
出撃前、戦死したら、靖国神社の門を入って
二本目の桜の木で
待ち合わせしようと申し合わせたそうです。
それがこちらの神雷桜です。

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桜の木の寿命は短いもので、既に神雷桜は老木です。
今後の維持が課題になってきています。

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こちらは神楽殿北付近の桜。標本木の満開宣言があっても
全体的にはまだ3分咲きくらいでしょうか。標本木はやや早めなので
物足りない方は、少し時期を遅くすると良いかもしれません。
 
境内は大勢の花見客で賑わって
外国人の方も大勢訪れておりました。

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遊就館で甲冑と刀剣の催し物が開催されており
刀剣女子で賑わっていました。

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こちらは歩道橋を渡って、お隣の千鳥ヶ淵の桜。
見頃を迎えていました。

2017年4月 4日 (火)

ふぐ

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ニューデイズにこんなの並んでたからびっくりです。
豪華なお昼ごはん。これほどふぐを気軽に食べられるように
なるとは、時代が変わりました。感慨深いものがあります。
 
昔の人は、ふぐの魅力とスリルを絶妙な言葉で伝えています。
 
・河豚(ふぐ)は食いたし命は惜しし

  
・河豚食う馬鹿に河豚食わぬ馬鹿

 
・河豚汁や鯛もあるのに無分別

  
一つ目の句はそのままの意味です。

二つ目は、ふぐを命を賭してまで食う者も愚かである、一方で
ふぐの毒を恐れて食わない者も人生損している、という意味。

三つ目は芭蕉の句です。鯛という魚があるのに、なんで、わざわざ
危険を冒してふぐを食うのか。
 

これも有名なエピソード
昭和天皇は「一度でいいからふぐが食べてみたい」と
御所望だったそうですが、侍従から固く禁じられており、
その夢は最後まで叶う事がありませんでした。
少し切ないお話しです。

 
庶民の私が
ありがたくふぐをいただく、今日この頃。

2017年3月31日 (金)

うなぎの神様

日本にはうなぎを食べる習慣の無い(禁忌とされる)
地域がいくつかあり、栃木県の一部もその地域です。
 
地域の子供たちは川遊び中、絶対に
うなぎを捕えてはならず、万が一網などにかかってしまった
それはそれは母に厳しく叱責されました。
  
習慣というのは不思議なもので、ご当地の人々は
それが当たり前過ぎるが故、理由を全く知らない、
深く考えたことはないというのです。
 
それでも禁忌地域で聞き込みを続けると、
いくつかの説がポツリポツリと出てきました。
  
「うなぎは神様だから絶対捕まえてはいけない」
  
「昔、大きな水害があったとき、大うなぎが現れて
水をせき止めてくれたので村が助かった。その恩を忘れてはならない」
 
などなど、お家によって言い伝えが様々ですが
大元の考え方は同じようです。
 
それで現在のところ、答えに一番近いものがあるとするなら
「うなぎは星宮神社(栃木県各地に点在する神社)の神聖な
『のりうま』であるから大切に扱え」というお話しが出てきました。
 
少し進展。キーワードを手に入れました。
 
「のりうま」ってなんですか?と尋ねて歩いたんですけど
有識者でも 
 
「知らん!とにかく、うなぎはのりうまだから食っちゃいかんのだ」
というのです。
  
そこで星宮神社を訪ね、宮司さんに理由をお伺いしてきました。
宮司さんによると、うなぎは、神様そのものではないのですけど、
神様のサブキャラのような位置付けで
古来より大切に扱われてきた、というお話でした。

故に、星の宮神社の氏子さんは鰻を食べる習慣がないということになり
そうした地域は栃木県全体に局地的に分布する形で習慣化しています。
だから、同じ町内で鰻を食べるお宅もあれば、隣の家では
絶対タブーということもよくある話です。

この神話を私が一から説明するには、もう少し勉強しなければ
なりません。
 
引き続き調べていきます。
    
なお、このうなぎの伝説、調べてみると
他には岐阜県などにも存在しているようで、
言い伝えが地方によってやや異なるのが興味深いです。

 
追記
うなぎを食べない習慣は、上記の通り
星宮神社の信者さんに限った話です。
同じ地域でも信仰の違いで、気にせず食べる家庭もあります。

四式戦闘機「疾風」パイロット堀山久生中尉のお話

近現代史研究会で四式戦闘機パイロットの
堀山久生元陸軍中尉のお話を拝聴したので
簡単にメモしておきます。 
 
堀山氏は、幼少期に明野で飛行機と出会い、
忽ち憧れの存在となり、将来はこれに乗ってやるぞ、と決意する。
 
陸軍士官学校57期合格。航空科を志望するも叶わず砲兵科へ。
昭和17年4月、砲兵学校、輓馬砲兵、
7月に野砲兵第五連隊配属。陸軍砲兵将校としての道を
歩むこととなった。
 
数学が大得意であった堀山氏は
その才能を遺憾なく発揮し、成績は常に砲兵科トップクラス。
 
堀山氏、曰く、
砲兵という兵科は、早く計算が出来たものが優秀なのだ。
簡単に言えば、戦で敵と撃ち合いになった状況に於いて
敵より早く弾着地点を計算して砲撃、敵を撃滅すれば
勝利である。
 
このときの教官が、
「燃えるが如き闘争心」という精神訓をよく口にしていた。
一方、堀山氏は戦場においてこそ、精神論ではなく、
沈着冷静こそが勝利に繋がるとの信念を持ち続けた。
数学を重視する砲兵においては尚のことであった。
 
陸軍士官学校第57期(以下陸士57期と称す)は
異例で、歩兵や砲兵を専攻した者でも、
途中から二度に渡って、航空科への転科が行われた。
一度目は志願、二度目は命令によるものだった。 
 
この方針転換は、陸軍でも航空の重要性が
認識されつつあり、戦局悪化に伴う航空将校の戦死・不足に
よる措置だった。
 
陸士57期の卒業者は1,550名中、志願と命令合わせて
400名が航空へ転科する。内、300名が操縦、100名が
偵察へ進んだ。
 
これに不満を漏らすものも多く
「なぜ特操を増やしてやらんのか」とむくれた。
この点、海軍では制度が優れていて、予備士官の存在が
大きかったと堀山氏は回想する。
 
この不満に対して当時の陸軍士官学校、牛島満校長は
「400名を航空にやるのは惜しいが、今は航空が足らないから
辛抱して行ってくれ」
と激励。この言葉に一同感激し、事態は収拾した。
もともと航空志望の堀山氏は、内心嬉しかったと回想する。
 
こうして、多数が航空へ転科し、訓練が始まる。57期の航空科、
特筆すべき点は、九五式中間練習機(通称赤とんぼ)をすっ飛ばして
いきなり全員を九九式高等練習機に乗せたことだった。
九九式高等練習機は実用機を改造したもので、最初からこんな立派な
飛行機に乗れるのかと、一同、大いに高揚したという。
 
訓練生の一割、死んでもいいから、最初から九九高練でやれ!
という教育方針だったというから驚きだ。
 
埼玉県の狭山飛行場と茨城県の高萩飛行場に200名、100名ずつ
別れ訓練を続けたが、一人も殉職者は出なかった。
 
この間、堀山氏は一週間に二回、着陸失敗を経験している。

一度目の事故
一度目は速度が出過ぎて着陸に失敗。
 
着陸失敗して、飛行機がつんのめった際、
腹に操縦桿が突き刺さって殉職するケースが多いと
あらかじめ学んでいた堀山氏は、
(多くのケースでは失速して墜落する瞬間、咄嗟に
操縦桿を引いて上昇しようとする)
 
墜落する瞬間、操縦桿を押し込むと同時に
エンジンのスイッチを切った。沈着冷静であった。
飛行機は墜落大破したが、これが教官から
「あの状況で大したものだった」
と褒められ、咎められることは一切なかった。
  
二度目の事故
今度は慎重になり過ぎるというもの、速度を落とし過ぎて
着陸時に失速。こういうときは頭を下げて速度を回復すれば
良いのだが、地面が迫る状況で、なかなかそうはいかない。
そのまま墜落した。一週間で二度も飛行機を壊したが、
一切、叱責を受けなかった。
 
当初、重爆撃機を志願していた堀山氏であったが
二度も飛行機を壊している奴は危なっかしくて、
大人数を乗せる重爆撃機は駄目だ。
死ぬなら一人で十分だと、いうことで戦闘機へ回される。
富士飛行場へ移動し九七式戦闘機に搭乗し戦闘機の訓練が
開始された。
 
三度目の事故
今度は三度目の墜落。編隊飛行中に
空中接触を起こし、落下傘降下。
かすり傷ひとつおわず、生還。接触した一番機の
戦友は衝撃で意識を失い、墜落しかけたが、
地上数メートルのところで意識が戻り、引き起こし
事なきを得た。
 
実はこのとき、整備員の不手際で九七戦の落下傘が
適正に備えられていなかったが、氏は、これを見逃さなかった。
正しく直して搭乗したことが命を救った。
 
壊した飛行機は当時の価格で70万円。
(一機の値段か三機の値段かわからない)
戦友からは、
「大日本帝国陸軍の航空機を三機も撃墜した貴様はトップエースだ。
ルーズベルトから勲章もんだ」からかった。
 
今でも陸軍に借金を返せていないので、申し訳なく思っている
という。
 
休暇を貰って、実家に帰ったときのエピソード
堀山氏は航空に転科してから、成績が芳しくなかったので
父に激しい叱責を受けた。その折、堀山氏は
 
「自分は特攻隊に志願して、必ず戦果をあげる。一機で敵艦一隻を
必ず沈めるから勘弁してくれ」と父に誓った。
 
しかしこの言葉を聞いていた母は
敵艦一隻沈めようと、息子が戦死しようものなら、叱責した父を
一生許すことはなかった」と戦後、長い事忘れなかった。

 
明野から数えて飛行時間150時間で訓練終わり。
(欧米のパイロット養成課程では最低500時間は必要といわれる)

 
特攻の志願募る

特攻隊の志願を募ることになった。各自へ用紙が配布された。
熱望する、希望する、可、不可、どれかにマルをつける
のだが、

「自分は飛行機を三機も壊しているヘタクソだから、
熱望にマルを書いたらからかわれるんじゃないか」と、考えて
希望にマルを書いて出した。
上から二番目の、希望だったらいつか必要となれば
特攻の声がかかるだろう、くらいに考えていた。
 
すると上官より、
「将来の戦隊長を育てているのに、特攻に志願するとは何事か!」
とのお叱りを受ける。
 
中尉任官。館林に移動し、
第194振武隊を拝命。四式戦闘機「疾風」で特攻訓練に励む
四式戦闘機は重戦で、速度計は750km/hまで振ってある。
勤労動員で造っていたので、どの辺りまで
耐えられるのか、不安だった。650km/hを
超えたら怖くなった。急降下から引き起こすと目の前が
真っ暗になった。
 
それに比べ、隼は乗り易くよかった。
機体も女性的なラインが優美だった。さらに遡れば
九七戦は手を離しても真っ直ぐすすむ良い飛行機だった。
 
振武隊(特攻隊)の出撃も本格的になった頃
特攻の教本が配られた。教本には次の如く記載があった。

--------------------------
と號空中勤務必携~昭和20年5月(特攻の教科書)▼

突入寸前、速度は最大だ。飛行機は浮く。
だが浮かれては駄目だ。力一杯押さえろ押さえろ。
人生二十五年、最後の力だ。神力を出せ。
 
頑張れ。神も英霊も照覧し給うぞ
目などつむって目標に逃げられてはならぬ。
目は開けたままだ。
--------------------------
 
堀山氏はこの教本と教育法に対し、
独自の理論を展開する。考案した戦法は次の通りである。
 
堀山中尉の研究考案した戦法▼
--------------------------
航法
離隔距離約300km、高度100メートルの低空。
予想海面では地球の湾曲に沿い、更に低空。
 
攻撃
敵発見後、超低空水平攻撃。高度10乃至20メートル
時速400km/h、敵前約10メートルの地点で短延期信管で
水面下突入。トリムタブ使用。
250キロ爆弾2発を目標の敵軍隊輸送船の船底で爆発させる。
高橋太郎参謀に館林で6月末意見具申し調査のご返事あり。
 
効果
海軍の機械水雷の爆発に似た効果を期待。
1万トンの輸送船の敵兵一千名と火砲
戦車、武器弾薬、多数を轟沈せば大満足。
(ひらがな表記にして句読点を付け加えた。)
--------------------------
  
堀山氏の解説
堀山氏は、自ら具申した上記の論理的戦法に対し
「実際に突っ込んでいないから理屈ですけど」と断った上で、
次のように解説してくれた。
  

そもそも、航空力学的に考えれば、飛行機は
最大速力では浮き上がり、敵艦船を飛び越えてしまう。
逆に、一旦スピードを落として
信管が炸裂するスピードで突入すればよい。
対撃信管と瞬発信管の切り替えが出来た。
艦船の喫水線下で機雷のように爆発すれば
最も効果がある、うまくいけばボイラー室が誘爆して致命弾となる。
かくして一機で一隻を轟沈する。
 
四式戦闘機には初めてトリムタブがついた。
(海軍では当初から零戦に装備済み)
操縦席左手のトリムタブ操作ハンドルを回すことで
軽い力で尻尾が下がれば、揚力を抑え、機首が下がる。
突入時の速度は400km/hが限度。500km/hはスピードオーバー
である。400km/hでトリムタブをうまく使って水平に飛ぶ。
 
トリムタブの無い隼では浮かないよう、必死に頭を
押さえたと聞く。
 
神力、精神力などという言葉で説明しても
戦果は期待できない。
 
突入は喫水線下を目標とする。(従来の教育法は喫水線上突入)
すなわち水中爆発のほうが効果がある。以上の如く具申したが
150時間の飛行時間ではその操縦習得は困難との返答あり。
 
命は惜しくなかった。堀山氏は戦で命を捧げることを
次のように例えている。
 
「死とは、ふすまを開けて、隣の部屋に入るような感覚でしたね」
 
8月15日、館林で終戦。その瞬間
「死に損なった!」と思った。目の前が灰色になって
机の縁を掴んで立っているのがやっとだった。

戦後、米国へ招待を受ける機会があった。
その際に戦艦ミズーリを目の当たりにし、その大きさに驚愕。
これでは250kg爆弾をぶつけようと沈まない。ミズーリを見て
 
これで私の特攻は終わった、と思った。
  
メモおわり。

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2017年3月30日 (木)

電装系メンテナンス

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天気が良かったので
エンジンルームの電装系のメンテナンスです。
暑かったので、今年初、エアコンも回してみました。
 
山間部の雪解けまであと少し。そうしたら気兼ねなく
どこへでも走れます。