杉野さんの記事
毎日新聞に杉野さんの記事が載っていました。
こちらです。
「太平洋戦争 悲惨さ語り続けた杉野さん死去 元少年飛行兵」
https://mainichi.jp/articles/20171217/k00/00e/040/188000c
毎日新聞に杉野さんの記事が載っていました。
こちらです。
「太平洋戦争 悲惨さ語り続けた杉野さん死去 元少年飛行兵」
https://mainichi.jp/articles/20171217/k00/00e/040/188000c
神雷部隊の桜花搭乗要員、佐伯正明さんにお目にかかり、
お話を伺いました。
神雷部隊は、一式陸攻にロケット特攻機「桜花」を吊り下げて
必死の特別攻撃を敢行する飛行隊です。
桜花のパイロットは特攻作戦の前に、K-1と呼ばれる桜花の練習機を用いて
一度だけ訓練を行います。訓練では実戦同様、親機である一式陸攻に吊るされ、
規定の高度まで上昇し親機から分離、自由落下後、グライダーとなって旋回。
ソリを使って着陸します。
佐伯さんは、旋回中に失速、不時着。
負傷し、実戦前に終戦を迎えました。
今回は、主に一式陸攻から
桜花(K-1練習機)に乗り込む手順や、そのときの状況の
お話しを伺いました。
一式陸攻の床下から桜花に乗り込むと、目の前に計器は8つ。
桜花を切り離すメーンスイッチは一式陸攻側にあり電話連絡ののち
分離し滑空します。
実際の桜花に乗って生還された方は一人もいません。
しかし、乗り込んで滑空するまでの手順はK-1も同じですので
桜花特攻を知る上では、実に貴重な証言であります。
九六式艦上戦闘機のパイロットで、支那事変を戦われた
北沖道行さんのお話しを伺いました。
北沖さんは愛媛県出身で、佐世保海兵団へ入隊後
軽巡洋艦「川内」乗艦。信号兵となります。巡洋艦からの
カタパルト射出を見て飛行機に憧れていた北沖さんは
飛行機乗りを志願し、合格。霞ヶ浦海軍航空隊へ入隊し
操縦練習生(53期)となりました。ご自身は艦上攻撃機を
志望されたのですが、戦闘機に敵性ありと見なされ、戦闘機搭乗員に。
元山海軍航空隊に配属されました。
まだ零戦が採用される前のお話しです。九六式艦上戦闘機で
漢口から宜昌へ進出し、南京爆撃の中攻(九六式陸上攻撃機)の
護衛任務に就きます。九六戦は、南京までの航続距離が足らないので、
中攻隊の護衛は途中までしかできませんでした。
ゼロ戦が登場するまでは、随分、中攻隊に被害が出たとのお話しです。
それでも、中攻隊の先陣を切って、超低空で編隊を組み、
わざと、敵に見つかるよう、威嚇をしながら燃料の続くところまで
飛んで行ったそうです。
「戦闘機の護衛がついているぞ!」という示唆なのであります。
すると、敵兵が森の中でのろしを上げて、空襲を知らせるのでした。
ゼロ戦に機種転換をする際の訓練中、負傷したため
そのまま終戦を迎えます。九六戦とゼロ戦の違いを訪ねると
「私は九六戦のほうが好きでしたね。キビキビ思ったように動く。ゼロ戦はどうも
動きがやわらかいといいますかね」
とコメントされておりました。
なお、このときの分隊長は黒沢丈夫大尉。
JAL123便墜落時に上野村の村長だった方です。
杉野富也さんが8日(金曜日)に亡くなりました。92歳でした。
日曜日に今治市での講演会を控え、水曜日はとてもお元気だったのですが
急に体調を崩され、亡くなったそうです。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
12月9日(土曜日)から12日(火曜日)まで
取材のため、不在となります。
この間、メールが繋がりにくくなります。
急ぎの用件ございましたら携帯へお願い致します。
12月10日(日曜日)に今治市で予定されておりました
杉野富也さん講演会はご本人の体調がすぐれないため、
大事をとって中止になりました。